加藤清正

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加藤清正
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 永禄5年6月24日1562年7月25日
死没 慶長16年6月24日1611年8月2日
主君 豊臣秀吉秀頼
肥後熊本藩
氏族 加藤氏

加藤 清正(かとう きよまさ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将大名肥後熊本藩初代藩主。通称虎之助(とらのすけ)。熊本などでは現代でも清正公さん(せいしょうこうさん、せいしょこさん)と呼ばれて親しまれている(清正公信仰)。

豊臣秀吉の子飼いの家臣で、賤ヶ岳の七本槍の一人。秀吉に従って各地を転戦して武功を挙げ、肥後北半国の大名となる。秀吉没後は徳川家康に近づき、関ヶ原の戦いでは東軍に荷担して活躍し、肥後国一国と豊後国の一部を与えられて熊本藩主になった。明治43年(1910年)に従三位を追贈されている。

生涯

秀吉の子飼いから肥後の大名へ

永禄5年(1562年)6月24日、刀鍛冶・加藤清忠の子として尾張国愛知郡中村(現在の名古屋市中村区)に生まれた。母は鍛冶屋清兵衛の娘・伊都。

清正が3歳の時に父が死去し、母と共に津島に移る。羽柴秀吉の生母である大政所と母が従姉妹(あるいは遠縁の親戚)であった縁から、天正元年(1573年)、近江長浜城主となったばかりの秀吉に小姓として仕え、天正4年(1576年)に170石を与えられた。清正は秀吉の親戚として将来を期待され、秀吉に可愛がられた。これに清正も応え忠義を生涯尽くし続けた。

近江の守護大名佐々木氏の一族で、近江の名門である山崎片家の娘を娶り、正室とする。

天正8年9月19日(1580年10月27日)に秀吉から播磨国神東郡内に120石を与える知行宛行状(『加藤文書』)[注釈 1]が記録上の最初の登場である[2]

天正10年(1582年)4月14日、中国経略中の秀吉が冠山城を攻めた時、清正は城に一番乗りを果たして奮闘し、竹井将監という豪の者を討ち取っている。

天正10年(1582年)、本能寺の変が起こると、清正は秀吉に従って山崎の戦いに参加した。翌年の賤ヶ岳の戦いでは敵将・山路正国を討ち取るという武功を挙げ、秀吉より「賤ヶ岳の七本槍」の一人として3,000石[注釈 2]の所領を与えられた。

天正13年(1585年)7月、秀吉が関白に就任すると同時に従五位下主計頭に叙任する。

天正14年(1586年)からは秀吉の九州平定に従い、肥後国領主となった佐々成政が失政により改易されると、これに替わって肥後北半国19万5,000石を与えられ、隈本城に入り、後の天正19年(1591年)頃よりこれに大規模な改修を加えて熊本城とした。

清正は賤ヶ岳の戦い以降、小牧・長久手の戦い四国征伐、九州平定に参加し、ほとんどが後備として秀吉の周囲を守るか後方支援に当たるかしていた[2][1]。例えば、小牧・長久手の戦いの時に作成されたとみられる陣立書が残されているが、そこに記された加藤虎介(清正)の動員兵力はわずか150名であった[3]。『清正記』などの清正の伝記にはいくつもの武功に関する記載と秀吉からの感状の引用が記されているが、それらは全て創作である[1]。当時の清正が秀吉から期待されていたのは、豊臣政権の財務官僚としての役割であった。記録で確認できるだけでも豊臣氏の播磨国や和泉国にあった蔵入地代官、九州平定後の上使としての戦後処理、尾藤知宣が改易されて闕所地となった讃岐国に新領主に決まっていた生駒親正が入国するまで代官として臨時に統治業務にあたる仕事などが知られている[1][注釈 3]。また、和泉国の代官を務めたことで、堺の商人との関係を深めることになった[2]。なお、清正が肥後半国を与えられた理由としては、九州平定が終わった直後に肥後国人一揆が発生し、不安定な政治情勢が続いていた肥後の情勢を鑑み、長年代官を務め、九州平定・肥後国人一揆後に上使として派遣されて現地に通じている清正に肥後半国を託したと考えられている[2][1][注釈 4]

肥後における治績は良好で、田麦を特産品化し南蛮貿易の決済に当てるなど、世に知られた治水以外に商業政策でも優れた手腕を発揮した。ただし、その一方で、移封直後に発生した朝鮮半島への出兵が領国統治に暗い影を落とすことになる。

天正17年(1589年)、小西領の天草で一揆が起こると、小西行長の説得を無視して出兵を強行、これを瞬く間に鎮圧している。

文禄・慶長の役

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加藤清正進路(青線)
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加藤清正朝鮮陣書状(1594年

文禄元年(1592年)からの文禄・慶長の役では、朝鮮へ出兵した。

出兵前年の天正19年(1591年)、清正は領国の家老2名に対して36か条に及ぶ出兵の準備に関する指示を出している[4]。肥後一国を与えられる前は170人程度の軍勢を指揮するに過ぎなかった清正が、1万人単位の兵を率いる立場になってから初めての大規模な戦いであった。清正の家臣の中には新参の家臣が多く、実際の戦闘や留守の領国でどこまでの働きをするのか未知数であった。しかも、九州諸大名には肥前国名護屋城の築城など、軍役以外の負担を課せられるなど、清正は重い課題を抱えたままの出陣となった[5]

文禄の役では二番隊主将となり鍋島直茂相良頼房などを傘下に置いた。同じく先鋒である小西行長率いる一番隊とは別路をとり、4月17日の釜山上陸後は行長と首都漢城の攻略を競い、5月3日南大門から漢城に入城した。漢城攻略後は一番隊や黒田長政の三番隊と共に北上し、臨津江の戦い金命元等の朝鮮軍を破る。その後、黄海道金郊駅からは一番隊、三番隊とは別れ東北方向の咸鏡道に向かい、海汀倉の戦い韓克諴の朝鮮軍を破り、咸鏡道を平定して、現地の朝鮮人によって生け捕りにされていた朝鮮二王子(臨海君順和君)を捕虜にした。だが、清正の本意は秀吉の意向が本国への進撃である以上、朝鮮半島の平定に時間をかけるべきではないという考え方で、日本側が取った八道分遣策には批判的であった[注釈 5]。 清正の危惧通り、明軍の援軍を得た朝鮮軍の反撃を受けた一番隊や支援にかけつけた三番隊は苦戦をし、日本軍の進撃は停止してしまう。一方、明への侵攻路から外れた辺境で敵軍も少なかった二番隊は大きな抵抗を受けずに侵攻を続けたため、一番隊や三番隊の苦戦を知る日本本国では「清正が虚偽の戦果を報告しているのではないか」と疑惑を持たれることになった。当然、清正はこうした流れに反発し、それが一番隊を率いていた小西行長や本国と現地の取次をしていた石田三成への不信の発端になったとみられている(反対に、この時期以前に清正と彼らの不仲を裏付ける一次史料は存在していない)[5]

更に清正は朝鮮の国境である豆満江を越えて、満洲のオランカイ(兀良哈)へ進攻した(加藤清正のオランカイ侵攻English版)。しかし当地は明への侵攻路から外れている上に得る物が乏しいため、早々に朝鮮領内へ引き揚げ、咸鏡北道を帰順した現地朝鮮人の統治域とし、日本軍は吉州以南に布陣した。日本軍の去った咸鏡北道では朝鮮人の義兵が決起して吉州を攻撃したが、これを撃破する。その後、明軍が現れた京畿道方面に配置転換が命じられ、咸鏡道を引き払い漢城に入った。文禄2年(1593年)6月の第二次晋州城の戦いで加藤軍は北面からの攻城を担当し、亀甲車を作り、配下の森本一久飯田直景が、黒田長政配下の後藤基次と一番乗りを競い城を陥落させた。

明・朝鮮と本格的な交渉が始まると、清正は主に惟政らに秀吉の講和条件を伝えた。だが秀吉の条件は明にも朝鮮にも到底受け入れられるものではなかった。このため、秀吉の命令を無視してでも和睦を結ぼうとする小西行長と対立し、行長は清正が講和の邪魔になると見て、彼が豊臣姓を勝手に名乗ったこと、独断専行した罪などで秀吉に訴えた。この時、戦争継続は不利と考える石田三成が行長を支持したことなどから、清正はに戻され謹慎となる。増田長盛が三成と和解させようとしたが、清正は断っている。しかし、この帰国に関しては講和進展と明使の来日に伴う軍の一部撤退による帰国であるとする説も出されている[5]。その後、慶長伏見地震の際、秀吉のいる伏見城へ駆けつけ、その場で弁明したことにより許されたとされる「地震加藤」の逸話があるが、この話も清正が地震の2日後に領国に送った書状[7]の中に秀吉一家の無事とともに、「(自分が無事だったのは)伏見の屋敷が完成していなかったから」「(地震の為に)京から胡麻を取り寄せて領国に送るのが遅くなる」とあることから、清正がいたのは(伏見でも京でもなく)大坂であったことが推定され、清正が大坂から伏見の秀吉の許に駆けつけた可能性はあっても、真っ先に駆けつけたとする逸話は史実ではなかったとみられている[5]

一方、名護屋城の築城以来、清正領国を含めた九州各地は、朝鮮での軍役やその軍勢を維持するための物資調達で多大の負担を強いられ、不穏な動きを見せ始めていた。文禄元年(1592年)6月に島津氏の家臣である梅北国兼が清正の支城の1つ佐敷城を奪う梅北一揆が発生する。一揆は間もなく鎮圧されるが、人夫としての動員や徴税、その他の物資徴発に由来する過大な負担は家中や領民を動揺させた。文禄2年8月、釜山郊外の西生浦倭城にいた清正が冬に備えて留守を守る重臣に対して51か条に及ぶ物資調達を督促する書状を出している。ただ、この時の調達に国元は難渋した模様で、翌文禄3年4月には早くも冬に備えた物資調達とともに、重臣達の怠慢を叱責する書状を送っている[5][8]。 徴税時や人夫動員時には、あらかじめ百姓を人質を取ったり、逃亡した人夫を出した村に対しては日割りで欠員期間の夫銭を徴収するなどの制裁措置を取ったりすることで、未進や逃亡の阻止を図った[2]。そして、領内では一部の加藤家家臣を巻き込む形で百姓の動員拒否や逃亡の動きが盛んになる。ついには、肥後本国の百姓が朝鮮に陣夫として連れて来られた百姓に対して「今なら集団で肥後に逃げ帰っても、代官たちが百姓改めをしないから村に戻るなら今のうちだ」という内容の書状を送り、清正がそれを見つけてしまう事件まで発生したのである。文禄2年2月14日付で秀吉が肥後に残った加藤家の重臣に対して直接朝鮮半島から逃げ帰った百姓の取締を命じる朱印状を発給しているのも、清正ら九州諸将の留守の領国における不穏な動きに対応した措置とみられている[3]。また、この時期の清正は財政難の克服や軍需品の調達を意図してルソンに貿易船を派遣して、日本では米に比べて廉価であった麦類を輸出して硝薬などの軍需品を輸入しようとしたが、皮肉にも朝鮮出兵によってルソンの軍事的緊張が高まり、思うように成果が上がらなかった[9]

慶長2年(1597年)からの慶長の役では、左軍の先鋒となった小西行長に対し、右軍の先鋒となる。再び朝鮮に渡海する際、行長は明・朝鮮軍側に清正の上陸予想地点を密かに知らせ、清正を討たせようとしている。しかし敵の李舜臣はこれを罠だと判断して出撃せず、清正は攻撃を受けなかった。

日本軍の作戦目標は先ず全羅道を徹底的に撃滅し、さらに忠清道へも進撃することと、その達成後は後退して拠点となる城郭群を建設することであった[10]。西生浦倭城を発った清正は全羅道に向かって西進し、朝鮮軍の守る黄石山城を陥落させると、全羅道の道都全州を占領。次に忠清道鎮川まで進出し、ここに最初の作戦目標を達成した。

日本軍の諸将は築城予定地まで後退。清正は西生浦倭城の東方に新たに築城される蔚山の地に入り、自ら縄張りを行った後、加藤安政等を配備して西生浦倭城に移った。蔚山倭城の建設は帰国予定の浅野幸長宍戸元続等の毛利勢(毛利氏は他に梁山倭城の築城も担当)が担当した。清正は西生浦倭城に加え蔚山倭城の守備担当であった。

慶長2年(1597年)12月、完成が間近に迫った蔚山倭城へ57,000人の明・朝鮮軍が攻め寄せて蔚山城の戦いが始まると、清正は急遽側近のみ500人ほどを率いて蔚山倭城に入城した。未完成で水も食糧も乏しい状況で、毛利秀元や黒田長政等の援軍の到着まで明・朝鮮軍の攻撃に10日ほど耐え、この戦いを明・朝鮮軍に20,000人[11]の損害を与える勝利へと導いた。この当時の朝鮮における明軍の総司令官であった楊鎬は、勝利と偽って本国に報告したが、惨敗したことがばれ、解任された。慶長3年(1598年)9月にも再び蔚山倭城は攻撃を受けるが、この時には城も完成しており、前回ほど苦戦せずに撃退した。

清正は朝鮮の民衆から「鬼(幽霊)上官」と恐れられた。なお、朝鮮出兵中に退治をしたという伝承(本来は黒田長政とその家臣の逸話であるが、後世に清正の逸話にすりかえられている)が残り、そこから虎拳という遊びの元になった。セロリを日本に持ち込んだとされており、セロリの異名の一つが「清正人参」である。

京都市北区の大徳寺総見院には清正が持ち帰ったとされる石を彫り抜いて作られた掘り抜き井戸が残る。

関ヶ原の戦いから江戸時代

秀吉の死により、清正らは日本に帰国することになった。帰国した清正は向こう数年の百姓の夫役を停止するなどの領国建て直し策を出す。また、朝鮮出兵時から続けられていた国内外を舞台にした投機的な取引によって、収取された米や大豆、麦などの農産物を売買し、少しでも財政難を解消することにも努めた。ところが、現実には緊迫した政治情勢の中で熊本城の改築などの軍事的対応が優先され、領国の再建は先送りされることになる[2][3]

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名古屋市中村区中村町字木下屋敷の妙行寺内にある加藤清正像

慶長3年(1598年)に秀吉が死去すると、五大老徳川家康に接近し、家康の養女を継室として娶った。慶長4年(1599年)3月28日に前田利家が死去すると、福島正則や浅野幸長ら七将の一人として石田三成暗殺未遂事件を起こし、これに失敗するとさらに家康への接近を強めた。

ところが、島津氏の重臣である伊集院氏が主家に反旗を翻した庄内の乱において、清正が反乱を起こした伊集院忠真を支援していたことが発覚した。庄内の乱は家康が五大老として事態の収拾を図っていた案件であり、清正の行動は家康からすれば重大な背信行為であった。家康は清正の上洛を禁じて、清正が上方に向かった場合にはこれを阻止するように有馬則頼に命じた[12]。翌慶長5年(1600年)に入って清正は大坂に入り、2月13日に有馬則頼と会い(『鹿苑日記』)、その前後には家康とも対面しているようであるが、家康の怒りは収まらず[13]、清正には会津征伐参加を許さず、国元に留まるように命じている[14]。同年9月の関ヶ原の戦いの際に清正が領国である肥後にいたのは、家康によって事実上の謹慎を命じられていたためである[15]

こうした事情から関ヶ原の戦い当初は家康と疎遠となった清正が西軍につく事態も想定され、毛利輝元らによる説得工作が行われた。だが、清正は家康に懇願して大坂にいた家臣を会津征伐に出陣する家康の下に派遣しており、石田三成らの挙兵を知った家康はその家臣を肥後に帰して、清正の東軍加勢を認めた。その間にも清正は黒田如水と連絡を取って家康ら東軍に協力する約束を交わし、家康の書状を携えた家臣が帰国した8月後半から黒田軍とともに出陣、小西行長の宇土城立花宗茂柳川城などを開城、調略し、九州の西軍勢力を次々と破った。戦後の論功行賞で、小西旧領の肥後南半を与えられ、52万石の大名となる[15]。関ヶ原の戦い一年余の後に、替地充行状が多発されるようになり、戦時色を払拭し恒常的、安定的な領国体制の再編に向けて動き出していたことが窺える[16]

慶長8年(1603年)、豊臣姓を下賜されている[17]

慶長10年(1605年)、従五位上・侍従肥後守に叙任される。

慶長11年(1606年)には徳川四天王の一人榊原康政の嫡男・康勝に娘のあまを嫁がせた[2]。だが、この年に康政が急死して康勝が館林藩を継いだため、清正がその後見人として藩政をみた[18]。 また、江戸幕府の成立後、豊臣氏がかつて日本各地に設置した蔵入地は解体される傾向にあったが、清正が統治する肥後国の蔵入地は依然として残されて年貢が大坂城の豊臣秀頼の下に送付されていた模様で、清正の死の翌年に毛利氏が清正死後の熊本藩を内偵した記録である『肥後熊本世間取沙汰聞書』によれば同藩には(豊臣氏)蔵入地3万石が設置されたままであることが記されている[2]

一方、熊本藩内では熊本城麦島城の改築、旧加藤・小西両領の境界地帯を中心とした支城の廃止などが行われ、最終的には熊本城と7つの支城に整理された[19]

慶長15年(1610年)、徳川氏による尾張名古屋城の普請に協力した。慶長16年(1611年)3月には二条城における家康と豊臣秀頼との会見を取り持つなど和解を斡旋した。しかし、ここで重要なのは清正は秀頼の護衛役ではなく、既に次女・八十姫との婚約が成立していた家康の十男・徳川頼宣の護衛役であり、徳川氏の家臣として会見に臨んだことである。その一方で、清正は頼宣とともに秀頼の豊国神社の参詣、鳥羽までの見送りに随行しており、家康としても徳川・豊臣の和解のために清正の役割に期待する側面もあったとみられる[2]

帰国途中の船内で発病し(後述)、6月24日に熊本で死去した。享年50(満49歳没)。

死後

三男・忠広が跡を継いだが、寛永9年(1632年)に加藤家は改易された。忠広は堪忍分1万石を与えられて出羽庄内藩にお預けとなった。理由は諸説ある。加藤家の家系は、かつて庄内藩領であった山形県酒田市大字新堀などで続いている。忠広は清正の遺骨を庄内丸岡に持ち込み、曹洞宗天澤寺本堂の北に墓碑を建立した。この墓は昭和24年(1949年)に発掘され、初期弓野焼の壷に納めた遺骨とが発見された[20]

新たに肥後熊本54万石の領主となった細川忠利は、清正の霊位を先頭にかざして肥後に入部し、熊本城に入る際「あなたの城地をお預かりします」と言って浄池廟の方角に向かって遥拝し、清正を敬う態度を示した。本妙寺は細川氏の菩提寺(泰勝寺・妙解寺)並の寺領を寄進される。享保20年(1735年)の百二十五遠忌の頃になると、毎月23日の清正命日逮夜には参詣通夜し、所願成就を祈願する者が急増する。6月23日の祥当逮夜には、大勢の参拝客を目当てに参道に仮設店舗や茶店が出る賑わいを見せ、現在の頓写会の原形が姿を現している。かつて「日乗様」「日乗居士」と呼ばれていた清正は、このころには「清正公」「清正神祇」と尊称されるようになって神格化が進み、本妙寺・浄池廟は「せいしょこ(清正公)さん」として、民衆の清正信仰の中心的存在となった。

人物

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清正の重臣・大木舎人が写生し、文久年間にさらに模写されたという肖像
  • 藤堂高虎黒田孝高と並ぶ築城の名手として知られ、熊本城や名護屋城蔚山倭城江戸城名古屋城など数々の城の築城に携わった。また飯田直景、大木土佐らと穴太衆を用いて領内の治水事業にも意欲的に取り組んだ。この結果、熊本県内には現在も清正による遺構が多く存在する。その土木技術は非常に優れており400年以上経った現在も実用として使われている遺構も少なくない。このとき清正は莫大な人手をまかなうため男女の別なく動員したが、給金を払い必要以上の労役を課すことなく、事業の多くを農閑期に行う事によって農事に割く時間を確保したという。
  • 武将としては福島正則とともに豊臣氏配下の最有力の武将の一人で、正則とは親しかったとされる。石田三成とは豊臣政権下で文治派武断派が形成されるにつれて関係が悪化し、小西行長とは朝鮮出兵の際の意見対立や互いの領地が隣り合わせであったため常に境界線をめぐって争ったとも言われている。
  • 熱心な日蓮宗の信徒でもあり、領内に本妙寺をはじめとする日蓮宗の寺を数多く創設した。そのほか、いわゆる「三振法(清正当時の呼称ではない)」を取り入れたことで知られる。これは武士のみが対象であったが、軽微な罪や式典で粗相を3回起こすと切腹を申し付けられるものであった。
  • 熊本県(旧熊本藩)においては、「清正公(せいしょこ)さん」として現在も種々の史跡や祭りなどにも取りあげられているが、当時の肥後人の清正への崇敬も強かった。これはほとんどの大名が単に統治しただけであったのとは対照的に、農業行政で実績を上げたことによる。
  • 清正が治水や農業振興に力を尽くしたものの、一方で朝鮮出兵の費用を賄うための重税や動員は百姓への大きな負担となっていた。また、国境近くや要地に支城を設けて重臣達を城主にして独自の所領・軍団経営を認めさせた「備(そなえ)」という制度は敵の侵入を防ぐのには有効であったが重臣達の権力を強め、また体制を維持するための財政的負担も大きかった。清正もこの問題点を認識してはいたがその後の関ヶ原の戦いや天下普請によって解消する機会を逸したまま没してしまった。このため、領国は疲弊することになり、また幼くして後を継いだ嫡男・忠広の下で権力を持った重臣達が争うことにもなり、結果的には加藤家改易の遠因ともなった[2][3]

トレードマーク

加藤清正はトレードマークの多い人物として知られている。

  • 長烏帽子形兜 - 清正は身の丈六尺三寸(約190cm)の大男と伝えられ、長烏帽子形兜(ながえぼしなりかぶと)という変わり兜を被ることでさらに背が高く見えたという。浮世絵武者絵では、この兜と蛇の目紋は清正を表すシンボルだった。
  • 片鎌槍 - 天草一揆討伐で激戦中に所持する十文字三日月槍の片刃が折れてしまった(または朝鮮の役での虎との戦いで噛み折られてしまった)が、片鎌槍と称して愛用を続けた、という伝説がある。愛用の槍は八十姫の輿入れ道具として持ち込まれ、紀州徳川家に伝えられた。現在は東京国立博物館に所蔵されているが、この槍は元から片方が欠けている。
  • 題目旗 - 熱心な法華宗信者であったため、白地に朱色で題目(南無妙法蓮華経)を書いた旗を戦場で翻らせた。
  • 帝釈栗毛(たいしゃくくりげ) - 清正の愛馬。帝釈とは仏教の守護神帝釈天のことで、体高は六尺三寸あったという巨大な馬。
  • 金小札色々威片肌脱胴具足(きんこざねいろいろおどしかたはだぬぎどうぐそく) - 頭には熊毛をあしらい、胸部と背部に片肌を脱いであばら骨の浮いた肉色の体を覗かせた具足で、屍を思わせる恐ろしげなデザインで有名。東京国立博物館所蔵。

手話単語のモチーフに

日本手話における「加藤(カトウ)」の手話単語の1つに「両手で槍を持って前に突き出す」動作を真似たものがあるが、これは加藤清正の虎退治の故事にちなんだものと言われ、長槍がカトウを意味するトレードマークとなっていることに由来する[21]。(ただしカトウには、他に指文字「か」+植物の藤を表す手話単語を用いる場合や、タレントの加藤茶にちなんでつけ髭を指で真似る手話単語などもある。)

清正の熊本での事業

清正が肥後国を治めていたのは、天正15年(1587年)から慶長16年(1611年)の期間だが、朝鮮出兵等もあって実際に熊本に居住していた期間は延べ15年程である。清正以前の肥後は有力大名が現われず国人が割拠する時代が続き、佐々成政でさえも収拾できず荒廃していた。そんな中、清正は得意とする治水等の土木技術による生産量の増強を推し進めた。これらは主に農閑期に進められ、男女を問わず徴用されたが、これは一種の公共工事であり、給金も支払われた為みな喜んで協力したという。

  • 「隈本(隅本とも)」を「熊本」に改称した理由は、隈本城の改修工事が落成した際に、清正が『「隅本」より「熊本」の方が勇ましかろう』と言ったとの伝承が伝わっている。
  • 白川坪井川大改修」以前は白川と坪井川は現在の熊本市役所付近で合流し下通を貫いて今の白川に流れていたが、これを現在の流路に変更したのは清正である。熊本城築城の際、予定地の側に現代で言うところの都市河川である坪井川と阿蘇からの火山灰を含んだ白川が合流する様を見て、流路を分けて城に近い坪井川を内堀に、遠い白川を外堀とする河川改修を行った。また当時の技術に於いて更に下流にある再合流地点に石塘を築き両河川を河口まで分流した。それは、それよりも下流の地域まで氾濫から未然に防ごうとする設計だった。
  • 熊本4大河川改修。白川坪井川の付替、緑川の鵜の瀬堰、球磨川の遥拝堰、菊池川に於ける各種改修等。これにより広大な穀倉地帯が生まれた。
  • 熊本平野八代平野玉名平野への干拓と堤防の整備。これにより海岸に近い地域にも広大な畑作地域が生まれた。
  • 白川水系の主に熊本平野への灌漑事業に於ける、非常に実験的な用水技術(馬場楠井手)等。

当時としては先進的な測量・土木技術の賜物である。今日の農業用水確保はこの時代の遺構に頼る面が少なくない。

なお、現在の堀川加藤忠広が着工し、細川忠利の時代に完了した。白川と坪井川を結ぶ農業用水路である。

逸話

  • 子供のころからの竹馬の友として力士(森本一久)と才八(飯田直景)がいた。ある日、剣の試合をして勝ったものが主君になり、負けたものが家来になるという約束をした。清正が勝ち、その約束は守られ、二人は清正の両腕として信頼される主従関係を結び続けた。
  • 清正が少年時代、上河原(津島市上河原)の叔父の家にいた時、盗賊が押し入った。叔父夫婦は縛られたが、清正は鬼の面を被ってつづらに隠れた。重みのあるつづらを財宝だと勘違いした盗賊たちは持ち去って松原に来たところで開けると、清正が飛び出してきたため鬼だと思い込み逃げ去った。現在、叔父の屋敷跡と伝えられる地に「清正公社」が建てられている。
  • 口の中に拳を入れる事ができたという逸話がある。新選組局長・近藤勇も憧れていた清正にあやかり、真似をして拳を口に入れていたという。
  • 平時でも常に腰に米3升と味噌、銀銭300文を入れていた。ある時、親友の福島正則が「それでは腰が重いだろうが」と述べると、「わしだって軽くしたい。だが、わしがこうしていれば家臣も見習い、常に戦時の備えを怠らないだろう」と答えたという。また、平時に腰兵糧をつけるのを忘れた小姓を怠慢であるとして免職にしたという。
  • 清正が朝鮮出兵の際、もち米や水あめ・砂糖などを原料とした長生飴というものを非常食として常備した。それが所以で長生飴は朝鮮飴と名を変え、今では熊本の銘菓となっている。
  • 清正は豊臣氏への忠義を終生忘れなかったが、家康を恐れその天下も認めていた。福島正則が家康の子・徳川義直が入る尾張名古屋城の普請を命じられたとき、「大御所の息子の城普請まで手伝わなければならないのか」と愚痴をこぼしたのに対して、清正は「嫌なら領国に帰って戦準備をしろ」と告げたという。
  • 徳川時代になって戦国の気風が謀反の心として警戒されるようになり、大名たちに髭を剃ることが流行りだした時、家康は家臣に命じて清正に聞きに行かせた。「貴殿も剃られてはいかがか」と勧められたのに対して「鎧の頬あてに髭があたる感覚が心地よいので」と断ったことから、骨のある武将との評判がたった。
  • 晩年は豊臣家への恩義と自家の徳川政権での存続に心を悩ませた。そのためか、『論語』に朱で書き込みをして読み込むほどであった。徳川と豊臣の雲行きが怪しいなか、大坂からの船旅の中、清正の飼っていたが真似をして彼の論語の本に朱筆で落書きをしたのを見て「お前も聖人の教えが知りたいか」と嘆じたという。
  • 清正が肥後北部24万石を治めていた頃、小西行長の領地・天草で豪族の反乱が起きた。その援軍に向かった時、反乱軍でも武勇知られた木山弾正という豪傑と一騎討ちになった。相手は弓の使い手で、矢を射ようとしたために清正は「一騎討ちなれば、正々堂々打ち物(太刀)で勝負」と声を掛けて、手にしていた槍をその場で投げ捨てた。これを見た弾正も弓を捨てたところ、清正はすかさず槍を拾いあげて突きかかり、討ち取ったという[22]
  • 同じくこの反乱の際、反乱勢の籠もる志岐城に和平の使者を送り、志岐城側が出迎えの衆を寄越すと、これに突然襲い掛かって皆殺しにし、してやったりとして陣を敷いたという[22]
  • 木山弾正の遺児は横手五郎と名乗り怪力が自慢であったが、熊本城築城の人夫となり敵討ちの機会を狙っていた。しかし、これに気付いた清正によって城内の井戸の中の作業をしているときに石・砂を投げ込まれ生き埋めにされたという。しかしこの逸話には諸説あり、清正に認められ、忠実な家臣になったと言う逸話もある。彼が運んだと伝わる「首掛け石」という凹型の巨石が城内にある[23]

死因

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清正公像(本妙寺所蔵品、模写)

清正の死因は『当代記』の2年後に唐瘡(梅毒)で死んだ浅野幸長の項に、彼と同様に好色故の「虚ノ病」(腎虚(花柳病)か)とされている。一方で家康またはその一派による毒殺説もある。清正・幸長の両名が同じ病気でしかも急死したため、家康による毒殺ではないかとの憶測も流れた。暗殺説の中でも二条城会見での料理による毒殺、毒饅頭による毒殺など様々にある。根強い毒殺説を題材としたのが池波正太郎の『火の国の城』である。

また死因は瘡(癩病、ハンセン病)であったとする説もあり、罹患者の多かった時代には清正を祀る加藤神社に平癒を願う参詣者が多かったという。ちなみに熊本市の本妙寺は明治20年代まで梅毒やハンセン病で不具になってしまった患者達で混雑することが珍しくなかった。参拝客達に哀れみを乞い、この寺に墓がある清正を一種の神と崇め、病を治して貰おうという信仰があったからである(ただし全国の寺社でも同様の現象が起こっていた)。日本のハンセン病の歴史において大きな足跡を残したひとり、イングランド国教会の伝道師だったハンナ・リデル(女性)はこの寺で見た患者達の群を見て甚大なショックを受け、その生涯を彼らの救済に傾けた。ただし、本妙寺は日蓮宗の寺院であり、日蓮宗には元々「癩病(ハンセン氏病)は法華経を謗った報い」であるという考え方が存在し、法華経信仰とハンセン病平癒、そして熱心な日蓮宗信者とされる加藤清正が結びついたことに由来するという考えもあり、清正の死因とは結びつかないという説もある[24]

清正は熊本に帰る途中に発病し口がきけなくなり、健康は回復しなかった。遺言はなかった。赤尾口で荼毘に付され、そこには後に庵が建てられ静慶庵と名付けられた(九州森林管理局内に碑がある)[25]。本葬は10月13日、嫡子虎藤(忠広公)の帰国後に日蓮宗京都本山本圀寺貫主である日桓の引導により厳修された。清正公の遺骸は甲冑の武装のまま石棺に朱詰めにされ、現在の廟所内の清正公像の真下にあたるところに埋葬された[26]

系譜

両親
  • 父:加藤清忠大永6年(1526年)‐ 永禄7年(1564年)) 通称・正左衛門、五郎助。斎藤道三に仕えたが、合戦で負傷し武士を辞め、刀鍛冶清兵衛のもとで鍛冶師として修行し、その娘である伊都を娶り、清正をもうける。38歳で死去。
  • 母:聖林院(生年不詳 ‐ 慶長5年(1600年)) 名は伊都。父は鍛冶屋清兵衛。天瑞院とは姉妹・従姉妹と伝わる。慶長5年(1600年)に亡くなり、妙永寺に葬られる。法名は聖林院殿天室日光大姉。
正室
  • 山崎氏(生没年不詳) 最初の正室。山崎片家の娘。天正頃に清正に嫁したといわれ、一子・虎熊を儲けた。没年は文禄頃といわれる。なお清正の養子である百助は実弟にあたる。
  • 清浄院 継室。水野忠重の娘、徳川家康の養女。
側室
子女

家臣

墓所・霊廟・寺社

墓所は熊本市西区花園の発星山本妙寺の浄池廟、また山形県鶴岡市丸岡の金峰山天澤寺。さらに東京都港区白金台の最正山覚林寺(清正公)に位牌がある。

なお、東京都大田区の長栄山大国院本門寺(池上本門寺)に供養塔。奉斎神社は熊本市本丸鎮座の加藤神社

また加藤清正に殉じた大木兼能、朝鮮人の金宦(きんかん、朝鮮名:良甫鑑)も、熊本城にある加藤神社に祭られている。

加藤清正を主題とした作品

小説
戯曲
  • 『八陣守護城』(中川漁岸・佐川藤太 文化四年初演 俗称「毒酒の清正」)
  • 『増補桃山譚』(河竹黙阿弥 1869年初演 俗称「地震加藤」)
  • 『清正誠忠禄』(三世河竹新七 1875年初演 俗称「毒饅頭の清正」)
  • 『二条城の清正』(吉田絃二郎 1933年初演)

脚注

注釈

  1. 以神東郡百弐十石令扶助候、但当年者六ッ之物成ニ可召置候、所付之儀者来年可申付候、恐々謹言
     天正八       藤吉郎
       九月十九日     秀吉
           加藤虎殿 — 「天正八年九月一九日 羽柴秀吉知行宛行状」天理図書館所蔵『加藤文書』1号文書[1]
  2. 近江郡栗太郡1800石、山城国内50石、河内国讃良郡1097石の合計2947石[1]
  3. なお、『清正記』や『清正行状』には秀吉が清正を領主に取り立てる際に清正に讃岐と肥後半国を選ばせたが、清正が唐入りの先鋒とならんがために肥後を希望した話に創作されている。
  4. なお、南半国を与えられた小西行長も上使を務めていた。
  5. 内閣文庫所蔵『楓軒文書纂』「韓陣文書」文禄元年6月1日付書状。発給者・宛所は不詳であるがその内容に記された状況から清正発給文書と確定できる[6]

出典

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 大浪和弥「加藤清正と畿内-肥後入国以前の動向を中心に-」、『堺市博物館研究報告』32号、2013年 /所収:山田 2014
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 2.6 2.7 2.8 2.9 山田 2014, 「加藤清正論の現在地」
  3. 3.0 3.1 3.2 3.3 稲葉継陽 「加藤清正の歴史的位置」『生誕四五〇年記念展 加藤清正』 熊本県立美術館、2012。 /所収:山田 2014
  4. 「渋沢栄一文書」所収
  5. 5.0 5.1 5.2 5.3 5.4 中野等「唐入り(文禄の役)における加藤清正の動向」、『九州文化史研究所紀要』56号、2013年 /所収:山田 2014
  6. 山田 2014, 中野 , p.115-117.
  7. 文禄5年閏7月15日付新美藤蔵宛加藤清正書状(「長崎文書」2号文書『熊本県史料 中世編第五巻』所収)
  8. 藤原秀之「加藤清正朝鮮人書状について」、『早稲田大学図書館紀要』45号、1998年 /所収:山田 2014
  9. 中島楽章「十六世紀末の九州ー東南アジア貿易 -加藤清正のルソン貿易をめぐって-」、『史学雑誌』118編8号、2009年 /所収:山田 2014
  10. 二月二十一日付朱印状(立花文書他)
  11. 明史・朝鮮伝
  12. 「(慶長4年)9月21日付島津義弘書状写」『旧記雑録』884号文書
  13. 「(慶長5年)7月21日付黒田如水宛加藤清正書状」『田中家文書』(福岡市博物館所蔵)
  14. 「(慶長5年)5月17日付島津義弘書状写」『旧記雑録後編三』1107号文書
  15. 15.0 15.1 山田貴司 「関ヶ原合戦前後における加藤清正の動向」『生誕四五〇年記念展 加藤清正』 熊本県立美術館、2012。 /所収:山田 2014
  16. 横田光雄「新発見の武田家朱印状と加藤清正判物・黒印状について―鎌ヶ谷、市原家所蔵文書―」、『鎌ヶ谷市史研究』5号、1992年
  17. 村川浩平「羽柴氏下賜と豊臣姓下賜」、『駒沢史学』49号、1996年
  18. 小宮山敏和「近世初期館林榊原家の基礎構造」、『群馬歴史民俗』29号、2008年 /所収:小宮山敏和 『譜代大名の創出と幕藩体制』 吉川弘文館、2015。ISBN 978-4-642-03468-5。
  19. 上髙原聡「加藤領肥後一国統治期の支城体制について -一国二城体制の考察-」、『熊本史学』92号、2010年 /所収:山田 2014
  20. 山形の宝検索navi HP(丸岡城跡及び加藤清正墓碑)
  21. 米川明彦 『手話ということば : もう一つの日本の言語』 PHP研究所、2002年ISBN 4569619657 
  22. 22.0 22.1 出典:『清正記
  23. 出典:首掛け石 - 【熊本城公式ホームページ】[1]
  24. 田中青樹「民衆の信仰としての清正公信仰」、『名古屋市博物館研究紀要』23巻、2000年 /所収:山田 2014
  25. 営林局内の碑文による
  26. 湯田栄弘 『仰清正公 : 神として人として』 加藤神社社務所、2000、増補再版。

参考文献

  • 安藤英男 『加藤清正のすべて』(新人物往来社
  • 熊本出版文化会館『肥後の清正-桐と葵のはざまを生きる-』(亜紀書房)
  • 矢野四年生『伝記加藤清正』(のべる出版)
  • 水野勝之・福田正秀『加藤清正「妻子」の研究』(ブイツーソリューション)
  • 水野勝之・福田正秀『続 加藤清正「妻子」の研究』(ブイツーソリューション)
  • 荒木精之『加藤清正』(葦書房、1989年)
  • 山田貴司 編著 『加藤清正』 戒光祥出版〈織豊大名の研究 第二巻〉、2014年。ISBN 978-4-86403-139-4。

関連項目

外部リンク

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