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{{基礎情報 中国君主
 
|名      =武帝 劉裕
 
|代数    =初代
 
|呼称    =皇帝
 
|画像    =[[File:Liu Yu,Song Wudi.png]]
 
|説明    =
 
|王朝    =宋
 
|在位期間 =[[420年]][[7月10日]] - [[422年]][[6月26日]]
 
|都城    =
 
|諱      =劉裕
 
|字      =徳輿
 
|諡号    =武皇帝
 
|廟号    =高祖
 
|生年    =[[363年]][[4月16日]]<br />([[興寧]]元年[[3月17日 (旧暦)|3月17日]])
 
|没年    =[[422年]][[6月26日]]<br />([[永初 (南朝宋)|永初]]3年[[5月21日 (旧暦)|5月21日]])
 
|父      =[[劉ギョウ|劉翹]]
 
|母      =[[趙安宗]]
 
|皇后    =ない
 
|陵墓    =初寧陵
 
|年号    =[[永初 (南朝宋)|永初]]:[[420年]] - [[422年]]
 
|注釈    =幼名は'''寄奴'''
 
}}
 
'''劉 裕'''(りゅう ゆう)は、[[南北朝時代 (中国)|南朝]]の[[宋 (南朝)|宋]]の初代皇帝。[[廟号]]は'''高祖'''、[[諡|諡号]]は'''武帝'''。[[字]]は'''徳輿'''。幼名は'''寄奴'''。[[徐州]][[彭城郡]]彭城県綏輿里(現在の[[江蘇省]][[徐州市]][[銅山区]])が本籍であるが、実質は[[南徐州]][[晋陵郡]]丹徒県京口里(現在の江蘇省[[鎮江市]][[丹徒区]])。ほかの宋王朝と区別するために、劉裕の建てた宋は後世の史家により'''劉宋'''と称されている。
 
  
== 生涯 ==
+
'''劉 裕'''(りゅう ゆう)
=== 出自と幼少・青年期 ===
 
劉裕は[[漢]]の高祖[[劉邦]]の弟である[[彭城郡|楚国]]の元王[[劉交]]の子孫を自称していたが、元来は[[東晋]]の下級官吏の出身であり、実際の出自は不明である。ただし北朝人の[[魏収]]が編纂した『[[魏書]]』島夷劉裕伝によると、[[楚 (春秋)|楚]]の[[項籍|項羽]]の一族は、項羽が自害して劉邦に帰順した項羽の従父(叔父)の[[項伯]]と、最初から劉邦に従軍した項它、項襄などが劉邦の計らいによって劉姓を賜り、列侯になり、劉裕はその項姓劉氏の後裔と述べている。また、本籍地が2つあるのはこの時代珍しくなく、曾祖父の劉混の時代に華北の戦乱を避けて綏輿里から京口に移ったためとも伝わる。
 
  
生母は産後の肥立ちが悪化し、劉裕が産まれてから[[産褥熱|産熱]]で亡くなった。劉裕が生まれた夜、不思議な光が部屋を照らし、父親の劉翹はこのことを不思議に思い、劉裕に奇奴という幼名を名付けたという。困窮した幼少時代であったとされ、父は幼い劉裕のために乳母を雇う金にも事欠き、劉裕は口減らしに父に絞め殺されかけたこともあったという。また、別の説では見かねた義理の姉が代わりに劉裕へ乳を与えていたというエピソードも残っており、そこから幼名を寄奴に改めたとされている。
+
中国,南北朝の[[]]の第1代皇帝 (在位 420~422) 。姓名は劉裕。字は徳輿。廟号は高祖。微賤の出であるが,武人として功を立て,桓玄,劉毅らの反対勢力を倒して勢力を得た。北征して南燕,後秦を滅ぼし,一時は長安をも手中に収めた。中原回復の成功ということを名目にして,永初1 (420) 年東晋 ([[]]) の皇帝から位を譲り受け,宋王朝を創建。白籍廃止を含む土断政策 (戸籍改訂) を断行し ([[土断]]) ,豪族を押えて,倹約を旨とした。
 
 
父も劉裕が10歳の時に死去、わずかに有していた田での耕作や草履を商い生計を立てていた。[[劉道憐]]・[[劉道規]]は異母弟、隣接する彭城県安上里に住した東晋の左将軍で東興県侯の[[劉懐粛]]、[[劉懐慎]]兄弟は母方の[[いとこ|従兄弟]]に当たる<ref group="注釈">『[[宋書]]』武帝紀</ref>。
 
 
 
成長した劉裕は気性が大変激しく、しかしその一方で器量も大きく、身分不相応な大望を持っていたという<ref name="新十八史略143">駒田『新十八史略4』、P143</ref>。学問には全く興味を示さず知っている文字は4つか5つほどしかなく、好きなものは[[博打]]([[樗蒲]])という無頼の徒も同然だった<ref name="新十八史略143"/>。
 
 
 
=== 東晋時代 ===
 
[[399年]]、[[五斗米道]]の信者を中心に起こった[[孫恩 (東晋)|孫恩]]及び[[盧循]]の乱において、劉裕は北府軍の下級将校として数10人の兵卒を率いて数千の敵兵を相手にして戦い、兵卒が全員討ち死にしてしまうと単独で敵軍を蹴散らして勝利を収めるという剛勇を見せた<ref name="新十八史略142">駒田『新十八史略4』、P142</ref>。また劉裕は[[劉牢之]]の北府軍団に従い戦功を立て、軍規の乱れが目に付く北府軍団の中で劉裕の部隊は最も軍規が厳正であったとして信望を集めた上、上官の劉牢之からも上級の将軍として取り立てられ、孫恩軍が建康から撤退した際にはこれを徹底的に追撃して海辺に駆逐して再起不能にならしめた<ref name="新十八史略142"/>。
 
 
 
ところが[[402年]]、西府軍団を率いる[[桓玄]]が首都の救援の名目で建業を制圧した。この際、劉牢之は桓玄に味方したが劉裕はそれを懸命に諌めるも聞き入れられず<ref name="新十八史略145">駒田『新十八史略4』、P145</ref>、桓玄が[[司馬道子]]らを殺害して実権を握ったため、これを後悔した劉牢之は江北に逃れてともに再起を図ろうと劉裕を誘ったが、劉牢之の度重なる裏切りに愛想を尽かした劉裕は「貴公は強卒10万を率いる将軍であった時には投降し、今朝野の人望を失って刃向かうとはわけのわからぬ事です」と述べて拒絶した<ref name="新十八史略146">駒田『新十八史略4』、P146</ref>。劉牢之は孤立して最期には自殺し<ref name="新十八史略146"/>、劉牢之を失った北府軍団は解体され、劉裕も桓玄の支配に属することになる。
 
 
 
[[403年]]10月、桓玄が[[安帝 (東晋)|安帝]]を廃して[[禅譲]]を受け、国名を楚として自ら皇帝を称した<ref name="新十八史略146"/>([[桓楚]])。この際、桓玄は劉裕を高く評価し、そのための酒宴を何度も開いて慇懃丁寧に応対し、贈与品も手厚くした<ref name="新十八史略147">駒田『新十八史略4』、P147</ref>。しかし桓玄の妻だけは劉裕を恐れて殺害する事を夫に薦めていた<ref name="新十八史略147"/>。
 
 
 
[[404年]]2月、劉裕は[[劉毅 (東晋)|劉毅]]・[[諸葛長民]]らを同志として、桓玄打倒の反乱を起こした。[[広陵区|広陵]]の桓玄の軍勢を数10名の壮士を率いて夜明けに急襲し、敵は朝食を食らっていた時だったためにそのまま斬り捨てることができた<ref name="新十八史略148">駒田『新十八史略4』、P148</ref>。劉裕はここで兵を募って軍を編成するとすぐ長江を渡って建康に向かい、各地に檄を飛ばした<ref name="新十八史略148"/>。この時の劉裕軍はそれでもわずかに1700名という寡兵であったが、桓玄はなすところも無く敗れて舟で長江から[[荊州区|江陵]]に逃走し、幽閉していた安帝を連れて再度東下したが、攻め上ってくる劉裕軍に蹴散らされて江陵も失い、5月に蜀に逃げる桓玄を討ち取った<ref name="新十八史略148"/>。そして劉裕は桓玄に追放されていた安帝を復位させることに成功した<ref name="新十八史略149">駒田『新十八史略4』、P149</ref>。
 
 
 
こうして東晋を復興させた功臣として発言力を獲得した劉裕は腹心の[[劉穆之]]の献策に従い、[[中国の宰相|宰相]]となって独裁的な権力を掌握、さらに自らの立場をより強固なものとするため、劉毅・諸葛長民及び[[司馬休之]]・[[司馬文思|文思]]父子ら反対派に対して容赦ない粛清を行った。国内の反対派を粛清する一方、[[410年]]より[[北伐]]を開始する。同年に[[南燕]]を、[[413年]]に[[後蜀 (五胡十六国)|後蜀]]を、[[417年]]には[[後秦]]も滅亡させ、一時的ではあるが[[洛陽]]・[[長安]]を奪還した。後秦と同盟国の[[北魏]]の3万の軍勢をわずか2700名で撃破した記録がある<ref group="注釈">『[[資治通鑑]]』</ref>。これらの功績により劉裕は[[相国]]に任じられ、宋王に封じられた。これらの遠征に関しては漢人の民族意識を満足させ、自らの人望をさらに高める事が目的だったとされている<ref name="新十八史略149"/>。
 
 
 
=== 即位後 ===
 
[[418年]]、劉裕は安帝を殺害、東晋最後の皇帝となる[[恭帝 (東晋)|恭帝]]を擁立する。禅譲を計画した劉裕は、[[420年]]に恭帝から禅譲を受けて皇帝に即位し宋を建国、後顧の憂いを断つため恭帝を殺害した<ref name="新十八史略151">駒田『新十八史略4』、P151</ref>。また、東晋の皇室一族を殺戮した。禅譲後に旧皇帝を殺すようになったのは、劉裕からである。なお、極度の障害児だった安帝をわざわざ殺して聡明といわれた恭帝を擁立したのは、劉裕が「昌明([[孝武帝 (東晋)|孝武帝]])の後、なお二帝あり」という予言を気にしたためという<ref name="新十八史略149"/>。
 
 
 
土地政策においては、東晋で地方勢力が跋扈した教訓により、地方豪族の抑制政策を実施した。具体的には、東晋時代の[[404年]]に京口の大地主の[[チョウ逵|刁逵]]([[チョウ協|刁協]]の孫)を石頭という所で殺害し、刁氏の広大な土地と財産を貧民に分配した。その後、余姚虞氏の[[虞亮]]も殺害している。劉裕は大地主を解体すると同時に戸籍の整備を行った。また、東晋時代に分裂の元となった北府と西府をそれぞれ皇族が治めるよう定めた。
 
 
 
このように宋の基盤を確固たるものとした武帝であるが、即位後わずか3年で60歳で死去し、長子である[[少帝 (南朝宋)|劉義符]]が即位した。[[徐羨之]]・[[傅亮]]・[[檀道済]]・[[謝晦]]らが後事を託された。
 
 
 
『[[後漢書]]』の作者[[范曄]]、『[[三国志]]』の注釈を行った[[裴松之]]、[[五胡十六国時代]]や[[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]]を代表する[[漢詩|詩人]]の[[陶淵明]]も劉裕に仕えていた。また、『[[世説新語]]』の撰者の臨川康王[[劉義慶]]は劉裕の甥にあたる。
 
 
 
== 評価 ==
 
桓玄は「風骨、常ならず、けだし人傑なり」「やがて朕が中原を平らげる時、役立つのはあいつ(劉裕)だよ」と評した<ref name="新十八史略147"/>。桓玄の妻は「劉裕の歩き振りは龍か虎のよう、目つきも尋常では無く、他人の下に甘んじているような人物ではとてもとても思えませぬ。今のうちに始末なさらなければ」と警戒していた<ref name="新十八史略147"/>。
 
 
 
== 宗室 ==
 
=== 后妃 ===
 
劉裕は皇后を封じていない。即位前の[[408年]]に豫章公夫人として死去した[[臧愛親]]を、即位後に敬皇后として追封している。
 
* 臧愛親
 
* [[張夫人 (宋武帝)|張夫人]]
 
* 孫氏
 
* [[胡道安]]
 
* 王氏
 
* 袁氏
 
* 呂氏
 
* 孫氏
 
 
 
=== 子 ===
 
* [[少帝 (南朝宋)|劉義符]](少帝)
 
* [[劉義真]](廬陵王)
 
* [[文帝 (南朝宋)|劉義隆]](文帝)
 
* [[劉義康]](彭城王)
 
* [[劉義恭]](江夏王)
 
* [[劉義宣]](南郡王)
 
* [[劉義季]](衡陽王)
 
 
 
=== 女 ===
 
* 劉興弟(長女、会稽長公主、[[徐逵之]]の妻)
 
* 劉栄男(呉興長公主、[[王偃]]の妻)
 
* 広徳公主
 
* 宣城公主(周矯の妻)
 
* 新安公主(王景深の妻)
 
* 呉郡公主(始安公主の死後、[[チョ湛之|褚湛之]]の後妻となった)
 
* 富陽公主(徐喬之の妻)
 
* 始安公主(褚湛之の妻)
 
* 劉恵媛(義興長公主)
 
* 劉欣男(豫章長公主、[[徐喬]]にとつぎ、後に[[何ウ|何瑀]]にとついだ)
 
 
 
== 脚注 ==
 
=== 注釈 ===
 
<references group="注釈"/>
 
=== 引用元 ===
 
<references/>
 
 
 
== 参考文献 ==
 
*[[吉川忠夫]]『劉裕―江南の英雄宋の武帝』[[中公文庫]]、1989年。ISBN 4122016711
 
*[[川勝義雄]]『魏晋南北朝』[[講談社学術文庫]]、2003年。ISBN 4061595954
 
*[[川本芳昭]]『中華の崩壊と拡大 魏晋南北朝』〈中国の歴史05〉[[講談社]]、2005年。ISBN 4062740559
 
* [[駒田信二]]ほか『新十八史略4』([[河出書房]]新社、[[1997年]][[7月]])
 
 
 
== 関連項目 ==
 
*[[孫恩の乱]]
 
*[[盧循の乱]]
 
*[[鶴林寺 (江蘇省)]]
 
*[[九錫]]
 
 
 
{{先代次代|[[宋 (南朝)|宋(劉宋)]]の[[中国帝王一覧|皇帝]]|初代:420年 - 422年|―|[[少帝 (南朝宋)|少帝]]|}}
 
  
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2019/5/10/ (金) 22:38時点における最新版

劉 裕(りゅう ゆう)

中国,南北朝のの第1代皇帝 (在位 420~422) 。姓名は劉裕。字は徳輿。廟号は高祖。微賤の出であるが,武人として功を立て,桓玄,劉毅らの反対勢力を倒して勢力を得た。北征して南燕,後秦を滅ぼし,一時は長安をも手中に収めた。中原回復の成功ということを名目にして,永初1 (420) 年東晋 () の皇帝から位を譲り受け,宋王朝を創建。白籍廃止を含む土断政策 (戸籍改訂) を断行し (土断) ,豪族を押えて,倹約を旨とした。



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