内田吐夢

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内田 吐夢(うちだ とむ、本名 常次郎1898年4月26日 - 1970年8月7日)は日本映画監督

経歴

4月26日 - 岡山市和菓子製造業「一二三(ひふみ)堂」の三男として生まれた。父は徳太郎(世襲名を源蔵という)、母はこう。
横浜ピアノ製作所に奉公に出る。横浜の不良少年だった頃のあだ名がトムであり、後に芸名とする。
横浜に創立されたばかりの大正活映に入社し、トーマス・栗原監督の助手を務める。その後、俳優も兼ねるようになり、『喜劇・元旦の撮影』に主演したのをはじめ、何本かの映画に出演する。同期に岡田時彦がいる。なお映画の世界へとびこむと同時に、岡山の兄から勘当を言いわたされていた。
牧野教育映画に移り、『噫小西巡査』を衣笠貞之助と共同監督し監督デビューする。しかし、その後、旅役者の一座に混じって放浪生活に入り、旅役者や肉体労働者として浅草などで生活する。この体験は彼の作風に大きな影響を与えた。
日活京都大将軍撮影所に入社。
監督に昇進し、喜劇を中心に撮る。
入江たか子をスカウトし、『けちんぼ長者』を撮る。
小杉勇を主役に『生ける人形』を撮る。これ以来、小杉の強烈なキャラクターを効果的に使い、当時流行していた、左翼思想を盛り込んだ「傾向映画」の傑作を次々と生み出していく。
村田実伊藤大輔田坂具隆らが、日活から独立し、新映画社を設立したときに行動を共にするが、程なく解散する。
新興キネマに移るが、やがて日活多摩川撮影所に移る。そこで、『限りなき前進』、『土』などの作品を生み出す。
会社の方針と合わず日活を去り、新会社設立の失敗の後、満州に渡り、満州映画協会に在籍する[2]
甘粕正彦の自決現場に立ち会う。自伝によれば、「人間が自分の股ぐらの中で死んでいくものは決していい気持ちのものではなかった」という。
日本敗戦後も帰国出来ず、共産主義革命が進行する中国に残留。
復員し東映に入社。
血槍富士』を撮り、監督業に復帰。
興行上の理由から東映が『飢餓海峡』の本編を無断でカット(大部分の上映館では、この短縮版で公開)したことに抗議し、クレジットから名前を外すよう要求。この騒動がもとで、後に東映を退社した[4]
  • 『宮本武蔵』の続編で伊藤大輔の脚本を得た『真剣勝負』のロケ中に倒れ入院。いったんは再起し撮影を続行。
  • 1970年(昭和45年)
8月7日 - 死去。満72歳。

なお、内田作品は近年海外でも2005年のロッテルダム映画祭で特集上映されるなど、再評価が始まっている。

代表作

戦前

  • 噫小西巡査(1922年)※監督デビュー作
  • 競走三日間(1927年)
  • なまけ者(1927年)
  • のみすけ禁酒騒動(1928年)
  • 娑婆の風(1929年)
  • 生ける人形(1929年)
  • 仇討選手(1931年)
  • 警察官(1933年)
  • 白銀の王座(1935年) 
  • 人生劇場(1936年)
  • 裸の町(1937年)
  • 限りなき前進(1937年)
  • 土(1939年)
  • 歴史 第一部 動乱戊辰(1940年)
  • 歴史 第二部 焦土建設、第三部 黎明日本(1940年)
  • 鳥居強右衛門(1942年)

戦後

著書

  • 『映画監督五十年 人間の記録105』(日本図書センター、1999年12月)

家族・親族

妻芳子は新聞記者碧川企救男の三女、映画カメラマン碧川道夫の妹。映画監督の内田一作は長男、元東映生田スタジオ所長の内田有作は次男[3]。浮世絵研究家の内田千鶴子は次男有作の妻である。翻訳家の松田銑は甥。

系譜

内田家
  

内田徳太郎  ┏内田徳次郎
  ┃    ┃
  ┣━━━━╋内田弥三郎
  ┃    ┃
 こう    ┣ゆき
       ┃ ┣━━━━━━━松田銑
       ┃松田利七
       ┃
       ┗内田吐夢(常次郎)
          ┃     ┏内田一作
          ┣━━━━━┫
 碧川企救男    ┃     ┗内田有作
   ┃    ┏芳子
   ┣━━━━┫
   ┃    ┗碧川道夫
   かた  
   ┃    ┏[[三木露風]]   
   ┣━━━━┫            
   ┃    ┗三木勉       
 三木節次郎                         

参考文献

脚注

  1. 鈴木尚之著『私説内田吐夢伝』 7頁によると「高等小学校最後の年、吐夢は作文の時間に祝辞を書かされた。しかし、書きあげたものは祝辞ではなく弔辞の文章であった。当然ながらその内容は問題視され、保護者の立場にあった長兄が学校側から呼びだされるという事態が生じた。その結果、教師に侮辱を与えたとして退学を命じられる。尋常高等小学校の卒業を目前にして、退学しているのはそのためである。」という
  2. 「映画の旅人」(朝日新聞2014年9月13日)によれば、1945年春に満州に渡ったという。『鳥居強右衛門』は松竹作品となっている。
  3. 3.0 3.1 「特集:生田スタジオ “夢”が紡がれた『仮面ライダー』の故郷」『KODANSHA Official File Magazine 仮面ライダー Vol.1 仮面ライダー1号』 講談社、2004-07-09、pp.27-29。ISBN 4-06-367086-4。
  4. 同作品の制作主任だった次男の内田有作も、この措置を拒否して劇場支配人に更迭されている[3]

外部リンク