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'''内村 鑑三'''(うちむら かんぞう、[[万延]]2年[[2月13日 (旧暦)|2月13日]]([[1861年]][[3月23日]])- [[昭和]]5年([[1930年]])[[3月28日]]<ref>{{Cite|和書|title=[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1117745/373 朝日年鑑 昭和6年]|year=1930|publisher=朝日新聞社|page=738|ref=harv}}</ref>)は、[[日本]]の[[キリスト教]][[思想家]]・[[文学者]]・[[伝道者]]・[[聖書学者]]。[[福音主義]][[信仰]]と時事社会批判に基づく日本独自のいわゆる[[無教会主義]]を唱えた。「代表的日本人」の著者でもある。
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'''内村 鑑三'''(うちむら かんぞう、[[万延]]2年[[2月13日 (旧暦)|2月13日]]([[1861年]][[3月23日]])- [[昭和]]5年([[1930年]])[[3月28日]]<ref>{{Cite|和書|title=[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1117745/373 朝日年鑑 昭和6年]|year=1930|publisher=朝日新聞社|page=738|ref=harv}}</ref>
  
== 生涯 ==
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無教会主義の創始者。高崎藩内村謹之丞宜之の長男。幼い頃から厳格な儒教教育を受けたが,東京外国語学校で英語を学び,札幌農学校の官費生となり,在学中 W.S.クラークの影響を受けて 1878年受洗。卒業後は官吏として水産調査に従事したが志を得ず,結婚の破局も重なって渡米。アマースト大学,ハートフォード神学校に学び帰国。 90年第一高等中学校に奉職。翌年教育勅語奉戴式に勅語に敬礼を躊躇して不敬事件を起して職を追われた。その後大阪,熊本,京都,名古屋などを流浪しながら『基督信徒の慰め』 (1893) を刊行,著述家としての生活に入った。『求安録』 (93) ,『余は如何にして基督信徒となりし乎』 (95) などにその入信の道程が告白されている。理想団に加わり足尾銅山鉱毒事件を攻撃し,日露戦争に際しては信仰の立場から大胆な非戦論を唱えた。 1900年には雑誌『聖書之研究』を創刊し,誌上と集会によって無教会主義のキリスト教を説いた。晩年は社会的活動から身をひき,福音の宣教に力をつくした。『内村鑑三全集』 (20巻) がある。
=== 幼少期 ===
+
== ==
[[File:清水法律事務所(内村鑑三居宅跡) - panoramio.jpg|thumb|180px|内村鑑三居宅跡]]
 
万延2年([[1861年]])、[[高崎藩]]士・[[内村宜之]]とヤソの6男1女の長男として[[江戸]][[小石川]]の武士長屋に生まれる。三度自己を鑑みるという意味で父が「鑑三」と名付けたと言われる<ref>「自己を鑑みる」という用法は、『何に』鑑みるのかが欠落しているが、鑑三の父の勘違いによるものであろう。</ref><ref>[[#関根1967|関根(1967)]]、6頁</ref>。
 
[[慶応]]2年([[1866年]])頃、鑑三が5歳の時に、宜之は意見の不一致で高崎に謹慎を命じられ、家族で高崎に移った。幼少期より、父から儒学を学ぶ。
 
 
 
[[明治]]4年([[1871年]])の[[廃藩置県]]により、高崎藩知事の[[大河内輝声]]は罷免された。父も県小参事を免ぜられ隠居した。高崎で白井という人より手習いを受けた後、大河内輝声の創立した英学校に入り、小泉という教師より初めて英語を教えられ、英語に勤しむようになった。
 
 
 
明治6年([[1873年]])に単身で上京して、[[有馬学校]]英語科に入学した。この時の同級生に後の日本銀行総裁の[[三島弥太郎]]がいる。有馬学校で1年学んだ後、[[東京外国語学校]]の下等第四級に編入した。この時の同級生に、[[末松謙澄]]、[[天野為之]]、[[佐藤昌介]]らがいた。後の首相・[[加藤高明]]は一級に在籍していた。この学校で教師のM・M・スコットより、グループメソッドという新しい英語教育を受けた。在学中、一年だけ病気のために休学し、[[杉田玄端]]から治療を受けた。一年遅れたことにより、[[新渡戸稲造]]、[[宮部金吾]]と同級になる。この三人は終生にわたって親交を結ぶことになった。その頃初めて英文講読で『[[旧約聖書]]』の聖書物語に触れた。
 
[[File:Sapporo Agricultural School in 1880 (halftone removed).jpg|thumb|180px|内村鑑三らが第三学年の時の札幌農学校の校舎、一番手前が寄宿舎]]
 
 
 
=== 札幌農学校時代 ===
 
[[File:Sapporo Agricultural College.jpg|thumb|200px|札幌農学校の入学直後の、内村、新渡戸、宮部など二期生たち]]
 
明治10年([[1877年]])4月に[[東京英語学校]]は[[東京大学予備門]]と改称されて、東京英語学校を終了すれば東京大学への進学が認められることになった。しかし、内村が入学して3年後の明治9年(1876年)、[[北海道]]開拓に携わる技術者を養成する目的で[[札幌農学校]]が創立された。内村は、[[開拓使|北海道開拓使]]の役人の演説と官費生の特典に心を動かされて、経済上の理由もあり、札幌農学校への入学を決意する<ref>後に「なぜ帝大に入らなかったのか」という質問に対して、内村は「金がなかったから」と答えたという。[[#関根1967|関根(1967)]]、17頁</ref>。
 
札幌へ旅立つ前に、東京の[[芝 (東京都港区)|芝]]で1ヶ月の合宿をした。その時、東京大学予備門時代の同級・新渡戸稲造、宮部金吾、[[岩崎行親]]らと立行社というグループを結成した。
 
 
 
[[File:Kanzo Uchimura Kingo Miyabe Inazo Nitobe.jpg|thumb|150px|新渡戸稲造、宮部金吾と共に札幌農学校時代]]
 
 
 
内村ら第二期生が入学する前までに、農学校に教頭として在校していた[[ウィリアム・スミス・クラーク]]ら、[[お雇い外国人]]の強い感化力によって第一期生は既に[[キリスト教]]に[[改宗]]していた。初めはキリスト教への改宗を迫る上級生に反抗していた内村も、新渡戸稲造と宮部金吾が署名したことがきっかけで、ついにほとんど強制的に立行社の岩崎行親と同じ日に「イエスを信ずる者の契約」なる文書に署名させられる。内村は[[ヨナタン]]というクリスチャンネームを自ら付けた。当時札幌には教会がなかったので、彼らは[[牧師]]の役を交代で務めた。そうして毎日曜日の礼拝を学内で開き、水曜日には祈祷会を開いていた。改宗することによって、若い内村は神社を見るたびに頭を下げずに済むようになったことを喜んだ。
 
 
 
明治11年([[1878年]])[[6月2日]]には、[[メソジスト|アメリカ・メソジスト教会]]の[[メリマン・ハリス|M.C.ハリス]]から[[洗礼]]を受ける。洗礼を受けた若いキリスト者達は、日曜日には自分達で集会(「'''小さな教会'''」と内村は呼ぶ)を開き、幼いながらも真摯な気持ちで信仰と取り組んだ。そして、メソジスト教会から独立した自分達の教会を持つことを目標とするようになる。その学生の集団を[[札幌バンド]]という。
 
[[File:Sapporo Band.jpg|thumb|180px|札幌農学校の札幌バンドの青年たち]]
 
在学中、内村は[[水産学]]を専攻し明治14年([[1881年]])7月、札幌農学校を農学士として首席で卒業した<ref>[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1449086/199 『北海道帝国大学一覧 昭和8年』北海道帝国大学、1933年10月、p.379]</ref>。卒業の際、新渡戸、宮部、内村の3人は札幌の公園で将来を二つのJのために捧げることを誓い合った。卒業後、宮部は札幌農学校で教鞭を取るために東京大学に行き、新渡戸も農学校で教鞭を取ることになったが、内村は北海道開拓使民事局勧業課に勤め、水産を担当した。勤務の傍ら、[[札幌市|札幌]]に教会を立て、それを独立させることに奔走した。翌年に南2条西6丁目の古い家屋を購入して、札幌基督教会([[札幌独立キリスト教会]])を創立する。また、明治14年(1881年1)0月に結成された[[札幌YMCA]]の副会長になった。
 
 
 
[[File:The 3rd all Japan christian conference clear ver.jpg|thumb|180px|1883年 弟三回全国基督信徒大親睦会。前から2列目左から5人目が内村鑑三、隣は[[新島襄]]。]]
 
明治15年([[1882年]])に開拓使が廃止されると、[[札幌県]]御用係になり<ref>[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779313/308 彦根正三編『〔改正官員録 明治15年9月〕』博公書院、304丁]</ref>、漁業調査と水産学の研究を行った。ほどなく[[伝道者]]になるために県に辞職願を提出した。同年6月に辞職願は受理された。その後、[[津田仙]]の[[学農社農学校]]の教師になり、12月からは[[農商務省 (日本)|農商務省]]の役人として水産課に勤め、[[日本産魚類目録]]の作成に従事した。同月の[[第三回全国基督教信徒大親睦会|第三回全国キリスト信徒親睦会]]には、札幌教会代表で有名な演説を行った。
 
 
 
=== 最初の結婚・離婚 ===
 
明治16年([[1883年]])夏に[[安中教会]]を訪問した時に知り合った[[浅田タケ]]と、両親の反対を押し切って明治17年([[1884年]])3月28日に結婚した。しかし、半年後には破局して離婚した。原因はタケの異性関係の疑惑とも言われている<ref>[[#関根1967|関根(1967)]]、25頁</ref><ref name="Mr.Kebel'sBlog">{{Cite web |url=http://app.f.m-cocolog.jp/t/typecast/114668/111590/4426410?page=1|title=内村鑑三の離婚 |publisher= [[ケベル先生のブログ]] |accessdate= 2013-03-21 }}</ref>。
 
[[File:Sapporo Dokuritsu Church.jpg|thumb|180px|内村と藤田九三郎の設計により1883年に竣工した札幌独立教会]]
 
=== アメリカ留学時代 ===
 
浅田タケとの結婚が破局した後、両親と友人の勧めにしたがって、明治17年(1884年)に私費で[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に渡り、11月24日に[[サンフランシスコ]]に到着する。[[拝金主義]]、[[人種差別]]の流布したキリスト教国の現実を知って幻滅する。渡米後に何のあても持っていなかった内村は、メリマン・ハリス夫人によりミデヤの叔父の家を紹介された。[[ペンシルベニア州]][[フィラデルフィア]]郊外の[[エルウィン]]の養護施設を尋ねた時に、医師である院長の[[I.N.カーリン]]と出会い、そこの[[知的障害児]][[養護学校]]で看護人として勤務することになる。
 
 
 
[[1885年]](明治18年)6月にカーリンは[[ワシントンD.C.]]の全米慈善矯正会議に出席する際に内村を同行した。ワシントンで大統領[[グロバー・クリーブランド]]に面会している。ワシントン滞在中に終生の友である、[[D・C・ベル]]と出会った。
 
 
 
この時期、札幌農学校同期の新渡戸稲造また、[[佐伯理一郎]]とともにフィラデルフィア近郊の親日的[[クエーカー|クエーカー教徒]]のウィスター・モリスと親交を持つ。
 
 
 
この頃、日本にいた浅田タケは4月15日、女児ノブを出産した。タケはそのことで手紙で復縁を迫った。タケに洗礼を授けた[[新島襄]]も内村に説得したがきっぱりと断った。
 
 
 
[[File:Amherst College College Row.jpg|thumb|150px|right|現在のアマースト大学]]
 
内村は[[ペンシルベニア大学]]で医学と生物学を学び医者になる道を考えていた。カーリン夫人は[[ユニテリアン]]でハーヴァード大学で学ぶことを勧めたが、米国滞在中の新島襄の勧めで、9月に新島の母校でもある[[マサチューセッツ州]][[アマースト (マサチューセッツ州)|アマースト]]の[[アマースト大学]]に選科生として3年に編入し、新島の恩師[[ジュリアス・シーリー|J・H・シーリー]]の下で伝道者になる道を選んだ。
 
[[File:Kanzo Uchimura in 1887.jpg|thumb|150px|アマースト大学最終学年の内村鑑三(1887年)]]
 
在学中、アマースト大学の総長であり牧師でもあるシーリーによる感化を受け、宗教的[[回心]]を経験した。[[1887年]](明治20年)に同大学を卒業し、Bachelor of Science(理学士)の学位を受ける。続けてシーリーの勧めで、[[コネチカット州]]の{{仮リンク|ハートフォード神学校|en|Hartford Seminary}}に入学するが、[[神学]]教育に失望し、[[1888年]](明治21年)1月まで学業を続けたが退学。神学の学位は得ないまま、5月に帰国。
 
 
 
=== 教員時代 ===
 
在米中に[[新潟県]]の[[北越学館]]への教頭としての招聘が一度あったが内村は断り、帰国後に新島襄の仲介で契約が成立し、明治21年(1888年)6月6日に館主・[[加藤勝弥]]と[[約定書]]を交わした。新島によると独立心の強い内村は新潟行きに難色を示し、正教頭ではなく、仮教頭で赴任した<ref>北越学館で、1年間の契約と共に、内村は伝道活動に携わらないことが約定書で決められていた。北越学館のキリスト教のみを教え、日本のことを教えない点と、外国伝道会社の援助を得ることによって自主独立が損なわれている点について、信仰上の束縛を内村は嫌ったと思われる。[[#鈴木1984|鈴木(1984)]]、43頁</ref>。北越学館では[[エレミヤ書]]を講義し、土曜日には講演会を開き、[[マルティン・ルター|ルター]]について講義した。就任一ヶ月後に、宣教師の運営方針に反発する見解を表明、宣教師たちも内村の下で働くことを拒否し辞職を通告して、学生を巻き込んでの学館紛争になった。調停のために、新島襄は[[横井時雄]]を派遣するが効果はなく、[[成瀬仁蔵]]は内村と激しく対立して、意見書を著し辞職を迫った。孤立した内村は赴任後わずか4ヶ月で辞職した。
 
 
 
{{main|北越学館事件}}
 
 
 
戦いに敗れて東京に戻った内村は[[植村正久]]の一番町教会(現、[[日本基督教団]][[富士見町教会]])で説教したり、[[東洋英和学校]]、[[明治女学校]]、[[水産伝習所]]などで教鞭を執る。東洋英和学校では[[山路愛山]]が内村の「万国史」の教えを受けた。明治22年([[1889年]])7月31日に旧高崎藩士の[[横浜恕]]の娘・[[内村加寿子|かず]]と結婚した。
 
 
 
=== 不敬事件 ===
 
[[画像:The first gymnasium in Tokyo. Before 1902.jpg|thumb|第一高等中学校(1894年に旧制第一高等学校へ改名)本館の1902年以前の建物]]
 
{{Main|内村鑑三不敬事件}}
 
明治23年([[1890年]])から、植村正久の一番町教会の長老・[[木村駿吉]]の推薦により、[[第一高等学校 (旧制)|第一高等中学校]](現・[[東京大学]][[教養学部]]、[[千葉大学]][[医学部]]、[[薬学部]])の嘱託教員となった<ref>{{Cite|和書|title=[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/812870/35 第一高等学校一覧 自明治23年至明治24年]|publisher=第一高等学校|year=1891|page=66|ref=harv}}</ref>。
 
[[画像:Imperial Rescript on Education.jpg|thumb|200px|教育敕語]]
 
明治24年([[1891年]])[[1月9日]]、講堂で挙行された[[教育勅語]]奉読式において、教員と生徒は順番に教育勅語の前に進み出て、[[明治天皇]]の親筆の署名に対して、「奉拝」することが求められた。内村は舎監という教頭に次ぐ地位のため、「奉拝」は三番目だったが、最敬礼をせずに降壇した。このことが同僚・生徒などによって非難され社会問題化する。敬礼を行なわなかったのではなく、最敬礼をしなかっただけなのだが、それが[[不敬事件]]とされた。
 
 
 
事態の悪化に驚いた木下校長は、敬礼は信仰とは別の問題であると述べて、改めて内村に敬礼を依頼した。内村はそれに同意したが、悪性の[[流感]]にかかっており本人が行けなかったので、代わりに木下駿吉が行った。しかし、マスコミがこの事件を大きく取り上げ、「内村鑑三の不敬事件」として全国に喧伝した。そうして、事件はキリスト教と[[国体]]の問題へ進展した。
 
 
 
内村は悪性の流感により病床にあり、意識不明の状態だったが、[[2月]]に本人に知らない間に、内村の名前で弁明書が数紙に掲載されたり、1月31日には本人の名前で辞職願いが出されて、2月3日付けで依願解嘱された。これがいわゆる「内村鑑三不敬事件」あるいは「第一高等中学校不敬事件」である。
 
 
 
=== 加寿子の死 ===
 
[[File:Pastor Tokio Yokoi.jpg|thumb|150px|不敬事件の直後、内村を支えた横井時雄]]
 
妻かずは、夫に代わって抗議者を引き受けたが、流感で倒れてしまった。かずは2ヶ月の病臥の後に、4月19日に死去した。
 
 
 
不敬事件と伴侶の死で憔悴しきった内村は札幌に行き、新渡戸稲造と宮部金吾の元で1ヶ月すごした後、帰京した。そして、本郷教会の横井時雄が内村を支え、教会でエレミヤ書の講義をさせたり、『[[基督教新聞]]』に執筆の場を与えたりした。明治25年([[1892年]])1月より、横井時雄の世話で、[[日本組合基督教会]]の京橋の講義所の説教者になった。その後、組合教会の総会にも出席している。不敬事件で教員の道を閉ざされた内村は伝道者の道を本格的に歩み始めた。同年の夏に、[[千葉県]][[君津郡]][[竹岡村]]に滞在した。一ヶ月間熱心に伝道して、8月25日に[[天羽キリスト教会]](竹岡美以教会)が設立されることになった。
 
 
 
千葉から帰るとすぐに、[[泰西学館]]、高等英学校(現:[[桃山学院中学校・高等学校|桃山学院高等学校]])、[[熊本英学校]]、[[名古屋英和学校]](現:[[名古屋高等学校]])と教壇に立ち、一時期は[[京都市|京都]]にも住んだ。
 
 
 
=== 静子との再婚 ===
 
[[File:Kanzo Uchimura in 1893.jpg|150px|thumb|『基督信徒の慰』刊行の頃の内村鑑三(1893年)]]
 
明治25年(1892年)のクリスマスに京都の旧[[岡崎藩]]士で判事の岡田透の娘・[[内村静子|静子]]と結婚した。この頃、帝国大学文科大学教授の[[井上哲次郎]]によって「不敬事件」の論争が再燃した。明治26年([[1893年]])になると、井上の所論をめぐりキリスト教会はもとより、仏教界、思想界、学会、教育界、ジャーナリズム界で大論争が巻き起こった。内村は井上の記す「不敬事件」に事実誤認を指摘して反論したが、国家主義的な時流により、世論は井上に味方した。
 
 
 
この流浪・窮乏の時代とも呼べる時期に、内村は、『[[基督信徒の慰]]』、『[[求安録]]』、『[[余は如何にして基督信徒となりし乎]]』( ''How I Became a Christian'') を初め、多くの著作・論説を発表した。
 
 
 
[[File:Kanzo Uchimura with his new wife in 1893.jpg|thumb|right|150px|熊本英学校時代の内村と妻静子(1893年)]]
 
明治26年(1893年)4月に[[熊本英学校]]の教師として赴任し7月まで務め、その後は京都に住んだ。京都に帰る途中で、須磨で開かれた[[キリスト教青年会]]第6回[[夏季学校]]に講師として出席した。横井時雄と共に講演し、内村は日本教会論を語った。この論は、翌年2月に発行された『基督信徒の慰』にも記されている。
 
 
 
京都では、[[便利堂]]の中村弥左衛門と弥二郎が経済的に内村を支えた。明治27年([[1894年]])の箱根でのキリスト教青年会第7回夏季学校では「[[後世への最大遺物]]」を行う。これが、便利堂によって明治30年([[1897年]])に刊行されている。[[森敦]]はこの本を非常に愛読していたという。
 
 
 
不遇だった京都時代を助けたのは[[徳富蘇峰]]だった。蘇峰のおかげで、『[[国民之友]]』に文を発表し生活を支え、文名を上げることができた。『国民之友』の編集の[[国木田独歩]]も、内村に感銘を受けた一人である。国木田は、明治29年(1896年)に妻を亡くした際アメリカ行きを思い立ち、内村に手紙で相談している。
 
 
 
=== 新聞記者時代 ===
 
[[File:Kanzo Uchimura in 1897.jpg|thumb|150px|『万朝報』英文欄主筆の頃の内村鑑三(1897年)]]
 
明治30年(1897年)に[[黒岩涙香]]が名古屋にいる内村を訪ねて朝報社への入社を懇請した。内村はためらいつつも黒岩の説得に答えて朝報社に入社した。同社発行の新聞『[[萬朝報]]』英文欄主筆となった。一高時代の教え子[[山県五十雄]]らと共に、通算二百数十篇の文章を書いた。この文章は外国人系新聞からマークされ、[[松井広吉]]ら日本人にも愛読された。同年3月16日には、英文欄にて[[足尾銅山鉱毒事件|足尾銅山の鉱毒問題]]を取り上げた。
 
 
 
翌明治31年([[1898年]])5月22日には黒岩の熱心な慰留にもかかわらず朝報社を退社した。そして、同年6月10日より、[[山県悌三郎]]を社主として、『[[東京独立雑誌]]』を創刊し主筆となりジャーナリストとして独立した。[[坂井義三郎]]、[[佐藤迷羊]]、[[西川光二郎]]、[[佐伯好郎]]、[[中村諦梁]]らが編集者になり、[[大島正健]]、[[松村介石]]、[[留岡幸助]]、[[元田作之進]]、[[田岡嶺雲]]、山県五十雄、[[駒井権之助]]らが寄稿した。内村の論評に対して、[[高山樗牛]]が雑誌『太陽』で公開質問状を発表した。
 
 
 
明治32年([[1899年]])6月、[[女子独立学校]]の校長に就任したことで、角筈の敷地内に居を移し、東京独立雑誌の発行所も角筈に移った。しかし、明治33年([[1900年]])7月5日に内村の問題により突如、廃刊されることになり、同社は解散した。その後旧社員は『東京評論』を創刊して、深刻な敵対関係になった。
 
 
 
=== 『聖書之研究』時代 ===
 
[[File:3rd summer seminar by Kanzo Uchimura.jpg|thumb|250px|角筈で行われた第三回夏期講談会の集合写真、前から二列目中央が内村鑑三(1902年夏)]]
 
『東京独立雑誌』の廃刊直後に、すでに誌上で参加募集していた[[夏期講談会|第一回夏期講談会]]を、旧社員らの反対にもかかわらず、自分の責任により独立女子学校で行った。内村を始め、留岡幸助、松村介石、大島正健らが講師になった。[[小山内薫]]、[[青山士]]、[[荻原碌山]]、[[井口喜源治]]、[[西沢勇志智]]、[[倉橋惣三]]、[[武藤長蔵]]、[[森本慶三]]、[[小林洋吉]]らが参加した。参加者により、[[上田市|上田]]や[[小諸市|小諸]]に[[独立倶楽部]]が結成されると、各地で伝道を始めた。内村は8月に群馬県を訪れて、上田を拠点にキリスト教の伝道活動をしようとしたが断念し、同年10月より、日本で最初の聖書雑誌である『[[聖書之研究]]』を創刊した。聖書之研究は内村の死まで続けられたライフワークになった。聖書之研究を創刊する一ヶ月前9月より、生活のために万朝報の客員として復帰し、今度は日本語の文章を寄稿した。『聖書之研究』創刊号で生徒を募集して10月に聖書研究所を発足させる。この時期から自宅において[[聖書]]の講義を始め、[[志賀直哉]]や小山内薫らが聴講に訪れる。それらは、25人定員の角筈聖書研究会になる。その中の、熱心な12名は角筈12人組と呼ばれた。明治34年([[1901年]])3月には『聖書之研究』の読者の交通機関を目的に月刊の『無教会』を発刊した。
 
 
 
=== 足尾銅山鉱毒問題 ===
 
[[File:Tanaka Shozo.jpg|thumb|150px|足尾銅山鉱毒問題の運動の中心人物田中正造]]
 
明治34年(1901年)4月21日に、栃木県足利の[[友愛義団]]に招かれて、[[巌本善治]]、[[木下尚江]]と共に講演した。翌日4月22日に、木下尚江と共に、初めて足尾を訪れた。足尾の鉱毒の被害を激しさを知って驚いた内村は、帰京すると『万朝報』に記事を書いた。これが、『鉱毒地遊記』である。その中で、鉱毒問題の原因を経営者・[[古河市兵衛]]の起こした人災であると言った。
 
 
 
5月21日には、東京神田の[[東京キリスト教青年会会館]]で[[津田仙]]を座長にして足尾鉱毒問題の『同情者』の会が開かれ、[[田中正造]]が説明をした。その結果、鉱毒調査有志会が結成され内村と巌本善治が調査員に選ばれた。6月21日より、有志会の調査が、内村を主査、田中正造が案内役として始まった。そして、11月に調査会の弟一回報告が内村、巌本善治、[[田中弘之]]、[[高木政勝]]の連名で出された。
 
 
 
[[File:Uchimura Kanzo in 1901.jpg|thumb|150px|right|札幌を訪れた内村鑑三(1901年10月)]]
 
また、7月20日に内村は黒岩涙香、[[堺利彦]]、[[幸徳秋水]]、[[天城安政]]、[[円城寺清]]、[[斯波貞吉]]、山県五十雄らが発起人なり[[社会改良主義|社会改良]]を目的とする[[理想団]]を結成した。夏には、第二回夏期講談会が開かれ、巌本善治が講師になり、小山内薫、志賀直哉、[[倉橋惣三]]、[[浅野猶三郎]]、[[斎藤宗次郎]]に加えて、足尾鉱毒被害地の田中正造の片腕の[[永島与八]]らが出席した。
 
 
 
11月1日には東京キリスト教青年会館で足尾鉱毒演説会に、内村は巌本善治、[[安部磯雄]]、木下尚江、[[島田三郎]]と共に出席した。内村は、鉱毒問題が色慾問題であることを説いた。11月29日には桐生教会の訪問途中で佐野駅で降りて、被害地を再び訪問する。12月10日には田中正造の明治天皇直訴事件が起こり、そのような中で12月12日に再び東京キリスト教青年会館で巌本、黒岩、幸徳伝次郎(秋水)、[[佐治実然]]、[[三宅雄二郎]]らと足尾鉱毒演説会を開いた。内村は古河市兵衛に[[ポーコ]]を加えよと叫んだ。12月27日には、田村直臣を委員長、安部磯雄を監督委員として、約800人の学生によって鉱毒被害視察旅行が行われ、内村、木下らも同行した。
 
 
 
しかし、明治35年([[1902年]])になると、4月2日の鉱毒問題解決演説会に出席した以外は、運動への参加が消極的になり、聖書研究へ沈潜していくことになる。3月10日の理想団晩餐会の席上でも、社会の改良法をめぐり、「内村が個人、安倍が社会と個人」と発言し、安倍磯雄との違いを述べた。
 
 
 
=== 非戦論 ===
 
[[File:Kanzo Uchimura Family in 1905.jpg|thumb|180px|right|[[日露戦争]]中の内村の父[[内村宜之|宜之]]と息子[[内村祐之|祐之]](1905年1月)]]
 
 
 
[[日清戦争]]は支持していた内村だったが<ref>「吾人は信ず、日清戦争は吾人にとりては実に義戦なりと」[[#内村1977|内村(1977)]]、308-311頁、(初出:{{Cite journal|和書|author=内村鑑三|year=1894|month=9|title=日清戦争の義|journal=国民之友|publisher=民友社|url=http://homepage1.nifty.com/fujikikaku/uchimura/goroku/189409_justification_of_korean_war.htm}})</ref>、その戦争が内外にもたらした影響を痛感して[[平和主義]]に傾き、[[日露戦争]]開戦前にはキリスト者の立場から[[非戦論]]を主張するようになる。6月24日に[[東京帝国大学]]の[[戸水寛人]]ら7人の教授が開戦を唱える建議書を提出し、それが公表されると、同月6月に『戦争廃止論』を萬朝報に発表した。萬朝報も当初は非戦論が社論であったが、明治36年([[1903年]])[[10月8日]]、世論の主戦論への傾きを受けて同紙も主戦論に転じると、内村は幸徳秋水、堺枯川と共に萬朝報を離れることとなった<ref>[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920426/84 「幸徳秋水、堺利彦、内村鑑三等 非戦論者=「萬朝報」を去る」明治36年10月12日萬朝報(新聞集成明治編年史編纂会編『新聞集成明治編年史 第12卷』林泉社、1936年、pp.117-118)]</ref>。
 
 
 
萬朝報退社後も、『聖書之研究』を通じて非戦論を掲げていたが、明治37年([[1904年]])2月には日露開戦にいたった。戦争中は、[[日本メソジスト教会]]の[[本多庸一]]や日本組合教会の[[小崎弘道]]らキリスト教の多数派が主戦論に傾いて積極的に戦争に協力したが、非戦論は内村や[[柏木義円]]などのきわめて少数であった。内村はキリスト者の間でも孤立していたものの、明治37年(1904年)のクリスマスを迎えた内村が、クリスマスは平和主義者の日であって「主戦論者はこの日を守る資格を有せず」と述べたことについては、[[中里介山]]が内村の言葉に拍手喝采を送り、半年後に『新希望』(『聖書之研究』の改題)に「予が懺悔」という文を寄せている。
 
 
 
なお、戦争反対を強く訴えた内村だったが、彼の元に「徴兵拒否をしたい」と相談に来た青年に対しては、「家族のためにも兵役には行った方がいい」と発言した。弟子の[[斎藤宗次郎]]が、内村に影響されて本気で非戦論を唱え、「納税拒否、徴兵忌避も辞せず」との決意をした時には、内村がわざわざ[[岩手県]][[花巻市|花巻]]の斎藤のもとを訪れ、説得して翻意させている。この言動は「キリストが他人の罪のために死の十字架についたのと同じ原理によって戦場に行く」ことを信者に対して求める、無教会平和主義者の教理(「戦争自体に直面したときの無抵抗」)に基づいている。内村は「一人のキリスト教平和主義者の戦場での死は不信仰者の死よりもはるかに価値のある犠牲として神に受け入れられる。神の意志に従わなければ、他人を自分の代りに戦場に向かわせる兵役拒否者は臆病である」と述べて、弟子に兵役を避けないよう呼びかけた。また、「悪が善の行為によってのみ克服されるから、戦争は他人の罪の犠牲として平和主義者が自らの命をささげることによってのみ克服される」と論じた。そして内村は「神は天においてあなたを待っている、あなたの死は無駄ではなかった」という言葉を戦死者の弟子に捧げるとともに、若きキリスト教兵役者へは、個人の救いとしての「身体の復活」と社会の救いとしての「キリストの再臨」の信仰に固く立つよう勧めた。
 
 
 
以上の内村の非戦論思想における、「戦争政策への反対」と「戦争自体に直面したときの無抵抗」という二重表現は、あらゆる暴力と破壊に対する抗議を表明すると同時に、「不義の戦争時において兵役を受容する」という行動原理を明確にした。
 
 
 
=== 教友会の結成 ===
 
[[File:Seisho no kenkyu 100th.jpg|thumb|200px|『聖書之研究』第百号記念感謝会(1908年6月)]]
 
1904年11月に[[精神障害]]を患っていた母親が死去する。すると、弟の達三郎が、母親を死に至らしめたのは内村であると責め始め、母親の葬儀では内村に妨害と侮辱を加えた。この争いは、『東京パック』の[[北沢楽天]]の風刺画で取り上げられ、兄弟間の骨肉の争いは世間に知られることになった。
 
 
 
この騒動をきっかけに、内村は自身の肉親よりもキリスト者との交流を求めるようになり、[[角筈聖書研究会]]が再開され、聖書之研究の読者組織である[[教友会]]の結成を呼びかけるようになった。東京の角筈に最初の教友会が設立され、新潟の[[柏崎市|柏崎]]、[[大鹿村 (新潟県)|大鹿]]、[[三条市|三条]]、長野県では上田、小諸、[[東穂高村|東穂高]]、千葉県では[[鳴浜村|鳴浜]]、栃木県では[[宇都宮市|宇都宮]]、岩手県では[[花巻市|花巻]]に結成された。そして明治39年([[1906年]])の夏には、新潟県柏崎で夏期懇談会を開き、明治40年([[1907年]])に夏には千葉県鳴浜で同じ懇談会を開催して、全国から教友が参加した。
 
 
 
=== 幻の改訳聖書 ===
 
[[File:Ymcakaikan.jpg|thumb|180px|改訳作業を行った東京基督教青年会館]]
 
[[1888年]](明治21年)に[[明治元訳聖書]]が刊行されから、改訳を求める声が絶えなかった。そこで、[[警醒社]]がスポンサーになり、聖書の改訳を試みた。[[1905年]](明治38年)5月11日[[東京キリスト教青年会会館|東京基督教青年会館]]で改訳のための最初の会合が開かれ内村に[[植村正久]]と[[小崎弘道]]を加えた当時のキリスト教界の著名人と、新進気鋭の[[聖書学者]]の[[柏井園]]を加えた4名が集まった。そして、翌週5月18日から毎週1回の毎週木曜日に集まり明治元訳聖書の改訂作業をすることになった。最初に『[[ヨハネ伝]]』から改訳事業を始めた。7月6日には『ヨハネ伝』の3章まで進んだが、内村が業同作業に不満を覚えて、辞意を表明する。翌週7月13日の会合の次から夏休みになる。夏休み明けて9月14日に再開するが、小崎が渡米していたので、日本にいた内村と植村と柏井の3人で会合を持つ。しかし、内村は、11月6日付けで植村に脱退の手紙を送る。翌1月10日に改めて内村は、3人に病気を理由に辞退届を送り事実上改訳会は空中分解した。<ref>鈴木範久『聖書の日本語』p.117-118</ref>
 
 
 
=== 社会主義批判 ===
 
また、教友会の結成が進み始めた頃より、内村は社会主義者に距離を置くようになった。明治40年(1907年)2月には『基督教と社会主義』を小型の「角筈パムフレット」として刊行し、キリスト者と社会主義者との差を明確にした。明治41年([[1908年]])には社会主義者[[福田英子]]の聖書研究会への出席を拒絶している。
 
 
 
内村は年を経るごとに、社会主義をさらに明確に批判していくようになり、[[大正]]4年([[1915年]])には、『聖書之研究』にて「社会主義は愛の精神ではない。これは一[[階級]]が他の階級に抱く敵愾の精神である。社会主義に由って国と国とは戦はざるに至るべけれども、階級と階級との間の争闘は絶えない。社会主義に由って戦争はその区域を変へるまでである」と主張した。
 
 
 
内村はキリスト者の立場から、他階級への抑圧を繰り返す社会主義の本質的欺瞞を指摘するとともに、後の社会主義思想の退潮を予言する、厳しい批判の言葉を残しているが、これらの言論を[[ロシア革命]]以前から発していたことは注目に値する。そして内村の社会主義批判の姿勢は、[[矢内原忠雄]]ら内村の後継者の一部にも引き継がれることとなった<ref>「矢内原にとって、キリスト教的観点に立てば唯物史観は偽キリストであり、矢内原がマルクス主義と対決してキリスト教弁護論を体系的に展開したのは、偽キリストからキリストを峻別するとともに、その挑戦に応じて現世同化したキリスト教を改革純化するためであった」(岡崎滋樹「矢内原忠雄研究の系譜-戦後日本における言説-」、『社会システム研究』第24号(2012年3月)所収、立命館大学)</ref>。
 
 
 
=== 柏木時代 ===
 
[[File:Kanzo Uchimura family in 1910 (Removed Halftone).jpg|thumb|right|170px|柏木の自宅前での内村家(1910年)]]
 
[[File:Kanzo Uchimura in 1912.jpg|180px|thumb|柏木の自宅の書斎での内村鑑三(1912年)]]明治40年(1907年)11月、内村一家は角筈から[[淀橋町]]の柏木に移った。内村の感化された実業家の[[今井樟太郎]]の未亡人ノブの寄付により同年末に内村の活動のための建物を建設し、それが[[今井館]]と呼ばれるようになり、無教会主義キリスト教の本拠になった。明治41年(1908年)6月に『聖書之研究』第百号の祝いを兼ねて、今井館の開会式を行った。
 
明治42年([[1909年]])秋には、第一高等学校の校長・新渡戸稲造のもとで読書会グループを形成していた学生たちが、新渡戸の推薦状をもって、内村の弟子に入門した。この一団は内村によって[[柏会]]と命名された。10月29日に第一回明の会合を行った。[[岩永裕吉]]、[[金井清 (諏訪市長)|金井清]]、[[川西実三]]、[[黒崎幸吉]]、[[沢田廉三]]、[[膳桂之助]]、[[高木八尺]]、[[田中耕太郎]]、[[田島道治]]、[[塚本虎二]]、[[鶴見祐輔]]、[[前田多門]]、[[三谷隆正]]、[[森戸辰男]]、[[藤井武]]らがメンバーになった。柏会が結成された二年後の明治43年([[1911年]])秋に『聖書之研究』で、読者であれば誰でも聖書研究会に出席しても良いと広告された。そして、同年10月1日に[[矢内原忠雄]]と[[坂田祐]]らが出席した。矢内原は柏会に入し、坂田は[[南原繁]]と別の会を作り、明治45年([[1912年]])1月30日に、[[白雨会]]として発足した。
 
[[File:Ruth Uchimura.jpg|thumb|right|150px|18歳で夭折した娘ルツ子(1912年)]]
 
 
 
明治44年(1911年)の春頃より、女学校を卒業した娘のルツ子が原因不明の病のために病床に就くことになった。[[東洋宣教会]]の教師・[[笹尾鉄三郎]]に信仰の導きを依頼した。内村は看病で聖書研究の準備ができなかった、その頃に『デンマルク国の話』が語られ、学生たちに感化を与えた。内村夫妻の不眠不休の看病にもかかわらず、明治45年(1912年)1月12日にルツ子は18歳で夭折した。
 
[[File:Kanzo Uchimura in Imai Hall.jpg|thumb|170px|柏木の今井館聖書講堂での内村鑑三の講演(1914年)]]柏会は[[大正]]5年([[1916年]])10月に解散して、藤井武、黒岩幸吉、塚本虎二、[[江原万里]]、[[金沢常雄]]、矢内原忠雄、三谷隆正、[[三谷隆信]]、前田多門らが、純信仰的集団の[[エマオ会]]を創設した。
 
 
 
これらの会は、大正7年([[1918年]])から内村が[[再臨運動]]を始めると発展解消して、同年9月15日に内村以下82名からなる[[柏木兄弟団]]になった。しかし、その4ヶ月後には、門下の医者によりサマリヤ会ができ、大正12年([[1923年]])12月には[[足洗会]]という愛の交わりの集会が生まれた。これは、内村の死後も続き戦後「[[霊交会]]」という名前になり長く続くことになる。
 
 
 
=== 再臨運動時代 ===
 
{{main|再臨運動}}
 
[[File:Kanzo Uchimura in 1917.jpg|thumb|150px|御殿場での内村鑑三(1917年8月)]]
 
明治45年(1912年)の娘ルツ子の病死とアメリカ在住のアメリカ人の友人ベルの手紙での感化によって、内村の再臨信仰は形成された。大正6年([[1917年]])に[[宗教改革]]四百年記念講演会が成功に終わったことに励まされ、無教会の特徴である閉鎖的な集会の方針を変えて、大々的な集会を開催する方針になった。大正7年([[1918年]])より[[再臨]]運動を開始した。内村は再臨信仰において一致できるならば誰とでも協力したが、その一人が[[日本ホーリネス教会]]の監督[[中田重治]]である。もともと中田の設立したホーリネス教会は、主要教理の[[四重の福音]]の一つとして再臨を強調していた。
 
[[File:J.Nakada,K.Uchimura、S.Kimura.jpg|thumb|150px|中田重治、木村清松らと再臨運動を始めた頃(1918年頃)]]
 
 
 
中田と内村は同じ柏木に住んでいた、それまで交流がなかったが、近所で発生した火災をきっかけに交流を持つようになる。互いに再臨信仰への使命も持っていることを知り、急速に接近して協力するようになった。それに、[[組合教会]]の巡回伝道者の[[木村清松]]と話し合い再臨運動を始めることになった。さらに、アメリカ留学から帰国したばかりの[[平出慶一]]、[[武本喜代蔵]]、[[自由メソジスト]]の[[河辺貞吉]]、[[聖公会]]の[[藤本寿作]]らなどが加わり、超教派の運動として、再臨運動は展開された。運動は、当初東京や関西を中心に再臨講演会をもっていたが、後に北海道から岡山にまで及び、多くの聴衆が出席した。各地の教会に熱烈な信仰復興が起こり、キリスト教界に大きな影響を与えたが、大正8年([[1919年]])6月には[[海老名弾正]]らを中心に基督再臨反対演説会が開かれるなど、キリスト教会内部での反対運動も大きかった。キリスト教界に賛否両論の議論を生んだ運動は、明確な決着を見ずに、ほぼ2年で終息した。しかし、内村は生涯復活信仰を捨てなかった。
 
 
 
=== 晩年 ===
 
大正11年(1922年)10月[[世界伝道協賛会]]を創設して、世界の伝道事業に貢献する組織を作った。協賛会は毎月一回開かれて、世界の伝道のために祈り、献金が捧げられた。そして、同年暮れには、[[中国]]、[[台湾]]、[[南洋諸島]]の伝道を援助するために送金された。
 
 
 
大正12年(1923年)7月7日に、自分の後継者と期待していた元弟子の[[有島武郎]]が、人妻の[[波多野秋子]]と心中した。これを聞いた内村は『萬朝報』に「背教者としての有島武郎氏」という文章を載せた。死の原因を「コスミック・ソロー(宇宙の苦悶)」であるとのべ、激しい怒りを表明した。同年9月1日の[[関東大震災]]では長野県[[沓掛]]に滞在中で震災を逃れたが、2日に帰京した。内村の家族には被害がなかった。しかし、かれが心血を注いで福音を語った「霊的戦闘のアリーナ」であった衛生会講堂を失った。
 
 
 
[[File:The Bible lecture of Uchimura Kanzo in 1924.jpg|thumb|right|200px|内村の聖書講演会(1924年6月15日)]]
 
大正13年([[1924年]])、同年に米国で可決された、[[排日移民法|排日法案]]に反対するために、絶交状態にあった徳富蘇峰と和解して、『国民新聞』に何度も排日反対の文を掲載した。また、植村正久や小崎弘道ら教会指導者と「対米問題」について議論を重ねた。
 
[[File:Uchimura and his granddaughter.jpg|150px|thumb|内村鑑三と孫の写真(1926年3月)]]
 
大正15年([[1926年]])には、内村聖書研究会から[[アルベルト・シュヴァイツァー]]に送金された。昭和2年([[1927年]])には、シュヴァイツァー後援会を設けて、事業を積極的に支援した。
 
 
 
[[File:50th Anniversary of Baptism by Harris.jpg|thumb|right|200px|札幌農学校の仲間とハリスの墓参(1926年6月)]]
 
昭和3年([[1928年]])6月2日の受洗50周年記念に同期生の新渡戸稲造、[[広井勇]]、一期生の[[伊藤一隆]]、[[大島正健]]らと一緒に青山墓地のハリスの墓参りをした。同年7月から9月にかけて、北海道帝国大学の教授として札幌に赴任していた祐之一家と共に札幌伝道を行った。無牧になっていたメソジスト派の札幌独立キリスト教会で説教をし、伝道を助けた<ref>メソジスト教会で洗礼を受けたが、1891年の不敬事件で除籍された。しかし、1900年以来内村は[[日本メソジスト教会]]の教会員に復籍していた。</ref>。
 
伝道を終了するにあたって同教会の教務顧問に就任した。この頃から内村は体調を崩し始めた。
 
 
 
内村の既存の教会に協力的な行動に対して反発した[[塚本虎二]]らと、無教会主義の考えにおいて対立するようになった。昭和4年([[1929年]])暮れに、塚本らとの対立は激化して、分離することになった。これが原因で、内村はさらに病状を悪化させた。最晩年に師事したのが、[[大塚久雄]]であった。
 
[[File:Imai Hall.jpg|thumb|right|200px|今井館の前に立つ晩年の内村鑑三]]
 
 
 
昭和5年(1930年)1月20日に、柏木の聖書講堂で「パウロの武士道」について述べたのが公の場に出た最後であった。3月26日の内村の古希感謝祝賀会には本人は出席できず、長男祐之が挨拶した。翌々日、3月28日朝に「非常に調和がとれて居るがこれでよいのか」との言葉を最後に昏睡状態に陥り、午前8時51分に家族に見守られて死去した<ref>臨終の様子は祐之の「父の臨終の記」に克明に記録されている。[[#内村2006|内村(2006)]]</ref>。
 
[[File:The deathmask of Kanzo Uchimura.jpg|thumb|150px|内村鑑三のデスマスク]]
 
4月6日に内村の遺言により、内村聖書研究会は解散式を行い、「聖書之研究」は第357号をもって廃刊になった。
 
 
 
== 年譜 ==
 
[[File:Tombstone of Kanzou Uchimura.jpg|thumb|200px|内村鑑三の墓。"I for Japan, Japan for the World, The World for Christ, And All for God." と刻まれている。]]
 
* 万延2年(1861年) - 上州高崎藩士内村宜之の長男として江戸に生まれる。
 
* 明治6年(1873年) - 東京の有馬学校入学
 
* 明治7年(1874年) - 東京外国語学校入学
 
* 明治10年(1877年) - 札幌農学校入学、「イエスを信ずる者の誓約」に署名
 
* 明治11年(1878年) - 受洗、洗礼名「[[ヨナタン]]」
 
* 明治14年(1881年) - 首席で農学校卒業、卒業演説「漁業も学術の一つなり」。開拓使御用掛となる。
 
* 明治15年(1882年) - 父・宜之受洗礼。札幌独立教会設立。
 
* 明治17年(1884年)
 
** 3月28日、浅田タケと結婚(7ヶ月後破婚)。
 
** 11月、渡米。
 
* 明治18年(1885年) - エルウィン白知院にて看護人として働く。[[新島襄]]の紹介によりマサチューセッツ州アマースト大学に入る。
 
* 明治19年(1886年) - 学長シーリーの人格と信仰の影響を受けて、キリストの贖罪の信仰を得る。
 
* 明治20年(1887年) - アマースト大学卒業。ハートフォード神学校入学。
 
* 明治21年(1888年) - ハートフォード神学校を退学し、帰国する。新潟の北越学館に赴任。12月に宣教師らと衝突して、辞職、帰京。
 
* 明治22年(1889年) - 東洋英和学校、東京水産伝習所、明治女学校に教える。
 
** 7月31日、横浜加寿子と結婚。
 
* 明治23年(1890年) - 9月に第一高等中学校嘱託職員になる。
 
* 明治24年(1891年)
 
** 1月9日、不敬事件。
 
** 4月19日、妻加寿子が病死。
 
* 明治25年(1892年) - 大阪の泰西学館に赴任。
 
** 12月23日、岡田シズと結婚
 
* 明治26年(1893年) - 著作活動を始める。処女作は『基督信徒のなぐさめ』。同書で「無教会」という言葉を初めて使った。泰西学館辞任。熊本英学校赴任。8月すぐに辞任して京都に住む。
 
* 明治30年(1897年) - 「万朝報」の英文欄主筆になる。
 
* 明治34年(1901年) - 「無教会」を創刊。黒岩涙香らと「理想団」を作り、社会改良運動を行う。
 
* 明治35年(1902年) - 角筈聖書研究会を自宅で始める。
 
* 明治36年(1903年) - 日露非開戦論、戦争絶対反対論を「萬朝報」「聖書之研究」で発表。萬朝報客員を辞す。
 
* 明治40年(1907年)
 
** 4月13日、父宜之が死去する。
 
** 11月、角筈より柏木に移転
 
* 明治45年(1912年) - 長女ルツ子が病になり信仰の導きを[[笹尾鉄三郎]]に委ねる。1月12日ルツ子が死去する。ルツ子の死を通して復活信仰を得る。
 
* 大正7年(1918年) - [[中田重治]]、木村清松らと共に、再臨運動を始める。
 
* 昭和5年(1930年) - 3月28日死去、遺言により「聖書之研究」は廃刊、内村鑑三聖書研究会解散。
 
 
 
== 著作 ==
 
[[File:Kanzo Uchimura and his books.jpg|thumb|150px|right|内村鑑三とその著作(1923年頃)]]
 
[[File:Kanzo Uchimura in 1925.jpg|150px|thumb|内村鑑三その著作と十字架(1925年7月)]]
 
* ''How I Became a Christian''
 
*: 邦訳 『余は如何にして基督信徒となりし乎』([[岩波文庫]])ほか ISBN 4003311922
 
* ''Representative Men of Japan''(『[[代表的日本人]]』 岩波文庫、のちワイド版)[[1908年]] - ''Japan and Japanese''([[1894年]])の改訂版
 
** [[ヘルマン・ヘッセ]]の父であるヨハネス・ヘッセは、上記『余は如何にして……』を1905年に、また本書を1908年に初めてドイツ語訳した人物として知られている。なおこの独訳本は、シュトゥットガルトのD.グンデルト社という出版社から刊行されたが、同社代表であったグンデルトはヨハネスの義兄弟にあたり、その息子のW.グンデルトは1906年に内村を慕って来日し、のちにドイツの日本学に多大な貢献をもたらす研究者となったことが知られている。<ref>[[#鈴木1995|鈴木(1995)]]、196-197頁</ref>
 
* 『基督信徒のなぐさめ』 - 1893年の内村鑑三の処女作。「無教会」という言葉が初めて使われた作品である。岩波文庫(1976年、ISBN 4003311914)。
 
* 『求安録』 - 警醒社・福音社([[1893年]]8月)。のち岩波文庫(1939年、ISBN 4003311973)。
 
* 『地人論』 - 初め『地理学考』の書名で刊行(警醒社、[[1894年]]5月)。第2版([[1897年]]2月)で『地人論』と改題<ref>第2版の冒頭に、親友の勧誘に従って改題した旨が書かれている。{{Quotation|第二版に附する自序<br />余は久しく本書の改題に躊躇せり、然れども二三親友の勸誘に從ひ、竟に先哲アーノルド、ギヨー氏の著書に做ひ、其名を籍りて此書に附するに至れり、勿論彼の優此の劣は余の言を待ずして明かなり。|内村鑑三|『[{{NDLDC|993786/5}} 地人論]』訂正版、1897年}}</ref>。のち、岩波文庫(1942年、ISBN 4003311906)。
 
* 『後世への最大遺物』 - [[1894年]]7月のキリスト教徒夏期学校での講演をまとめたもの。[[1897年]]、便利堂より刊行。のち、岩波文庫(『後世への最大遺物・デンマルク国の話』、1976年、ISBN 4003311949)。
 
* 『デンマルク国の話』 - [[1911年]]の今井館での講演をまとめたもの。副題は「信仰と樹木とをもって国を救いし話」。同年の「聖書之研究」第136号に掲載。のち、岩波文庫(『後世への最大遺物・デンマルク国の話』、1976年、ISBN 4003311949)。
 
* 『内村鑑三所感集』 鈴木俊郎編 岩波文庫
 
* 『キリスト教問答』 [[講談社学術文庫]]
 
* 『内村鑑三/[[岡倉天心]]』 [[新学社]]:近代浪漫派文庫、2004年
 
: [[西郷隆盛]](鈴木範久訳)、ダンテとゲーテ、余が非戦論者となりし由来、歓喜と希望、所感十年を収録。
 
* 『内村鑑三全集』全40巻 [[岩波書店]]、1984年完結
 
* 『内村鑑三の伝道論 - なぜ宗教が必要なのか』新・教養の大陸シリーズ、[[幸福の科学出版]]、2016年3月10日発行、ISBN 978-4-86395-769-5。
 
:「雑誌 聖書之研究」に掲載された論文をまとめたもの。『内村鑑三信仰著作全集17巻 伝道』を参照。
 
 
 
== 参考文献 ==
 
*{{Cite book|和書|author=内村鑑三|editor=[[河上徹太郎]] 編|year=1977|origyear=1967|title=内村鑑三集|chapter=日清戦争の義|series=明治文学全集 第39|publisher=筑摩書房|pages=308-311|isbn=978-4-480-10339-0|ref=内村1977}}
 
*{{Cite book|和書|author=内村祐之|authorlink=内村祐之|date=2006-02|origyear=1965|title=内村鑑三日記書簡全集|volume=第4巻(日記 第4)|chapter=父の臨終の記|publisher=教文館|isbn=978-4-7642-0253-5|url=http://www.kyobunkwan.co.jp/xbook/archives/4270|ref=内村2006}}
 
*{{Cite book|和書|author=鈴木範久|authorlink=鈴木範久|date=1984-12|title=内村鑑三|series=岩波新書 黄版 287|publisher=岩波書店|isbn=4-00-420287-6|url=http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/42/6/4202870.html|ref=鈴木1984}}
 
*{{Cite book|和書|author=鈴木範久|authorlink=鈴木範久|date=1995-07|title=代表的日本人|chapter=解説|series=岩波文庫 青119-3|publisher=岩波書店|isbn=4-00-331193-0|url=http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/33/0/3311930.html|ref=鈴木1995}}
 
*{{Cite book|和書|author=関根正雄|authorlink=関根正雄|year=1967|title=内村鑑三|series=Century books 人と思想 25|publisher=清水書院|isbn=978-4-389-41025-4|url=http://www.shimizushoin.co.jp/thinker_books/view/25|ref=関根1967}}、新装版1978年、2014年。
 
*{{Cite book|和書|author=森有正|authorlink=森有正|year=1976|title=内村鑑三|series=講談社学術文庫 64|publisher=講談社|isbn=978-4-06-158064-0|ref=森1976}}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
=== 人物 ===
 
{{Commonscat|Uchimura Kanzō}}
 
[[File:Kashiwa Kai.jpg|thumb|right|200px|柏会の集合写真、前列中央が内村鑑三]]
 
{{ウィキポータルリンク|文学|[[画像:Open book 01.svg|none|34px]]}}
 
{{ウィキポータルリンク|キリスト教|[[画像:Golden_Christian_Cross.svg|35px|Portal:キリスト教]]}}
 
* [[内村美代子]] - 内村祐之の妻。『余は如何にしてキリスト信徒となりしか』の翻訳([[角川文庫]])や、鑑三選集の編纂、『晩年の父内村鑑三』([[教文館]])の著作を行った。
 
* [[内村祐之]] -  内村鑑三の長男。[[精神科医]]、[[東京大学|東京帝国大学]]医学部教授。第3代[[コミッショナー (日本プロ野球)|日本プロ野球コミッショナー]]。
 
* [[小原信]]
 
* [[亀井俊介]]
 
* [[志賀直哉]]
 
* [[南原繁]] - [[政治学者]]。第15代東京大学総長。東京帝国大学に入学後、内村鑑三の弟子となり、[[無教会主義]][[キリスト教]]の熱心な信者となった。
 
* [[新渡戸稲造及び内村鑑三の門下生]]
 
* [[正宗白鳥]]
 
* [[矢内原忠雄]] - [[経済学者]]・[[植民政策学|植民政策学者]]。第16代東京大学総長。[[第一高等学校 (旧制)|旧制第一高等学校]]に在学中、内村鑑三主催の聖書研究会に入門し、キリスト教信仰を深めた。
 
* [[山本一太]] - [[政治家]]、[[参議院議員]]。遠い親戚にあたる<ref>[http://ichita.blog.so-net.ne.jp/2014-06-10-1 偉大なる上州人、内村鑑三のDNA:その1] 2014年6月10日</ref>。
 
 
 
=== 思想 ===
 
* [[非戦論]]
 
* [[二つのJ]]
 
* [[良心的兵役拒否]]
 
 
 
=== その他 ===
 
* [[アルベルト・シュヴァイツァー]]
 
* [[石の教会・内村鑑三記念堂]]
 
* [[基督教独立学園高等学校]] - 門下生の[[鈴木弼美]]らによって創設。
 
 
 
== 注・出典 ==
 
 
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+
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== 外部リンク ==
 
* [http://www.christiantoday.co.jp/articles/14511/20141110/suzuki-norihisa-uchimura-kanzo.htm 鈴木範久氏、60年の内村鑑三研究まとめ講演]
 
*{{Kotobank|内村鑑三|2=朝日日本歴史人物事典}}
 
* [http://www-lib.icu.ac.jp/collections/uchimura/ 内村鑑三記念文庫] - 国際基督教大学図書館: 文庫目録およびデジタルアーカイブ
 
* [http://www.imaikankyoyukai.or.jp/ 今井館教友会] - 無教会関連の情報サービスを提供するNPO法人
 
* [http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/240.html?c=14 内村鑑三 | 近代日本人の肖像] - [[国立国会図書館]]: 近代デジタルライブラリー
 
* {{青空文庫著作者|34}}
 
* [https://www.bun.kyoto-u.ac.jp/japanese_philosophy/jp-uchimura_guidance/ 思想家紹介 内村鑑三 京都大学大学院文学研究科・文学部]
 
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内村 鑑三
個人情報
出生 (1861-03-23) 1861年3月23日
日本の旗 武蔵国江戸小石川
(現:東京都文京区小石川)
死去 (1930-03-28) 1930年3月28日(69歳没)
日本の旗 東京府豊多摩郡淀橋町柏木
(現:東京都新宿区
墓所 多磨霊園
国籍 日本の旗 日本
教派・教会名 メソジスト派無教会派
両親 父:内村宜之
母:ヤソ
配偶者 浅田タケ(離婚)
横浜加寿子(死別)
岡田静子
子供 次女:内村ルツ子
長男:内村祐之
職業 教師、作家、新聞記者、出版社経営者、キリスト教伝道者
出身校 東京英語学校
札幌農学校(農学士)
(現北海道大学農学部の前身)
米国・アマースト大学(理学士)

内村 鑑三(うちむら かんぞう、万延2年2月13日1861年3月23日)- 昭和5年(1930年3月28日[1]

無教会主義の創始者。高崎藩内村謹之丞宜之の長男。幼い頃から厳格な儒教教育を受けたが,東京外国語学校で英語を学び,札幌農学校の官費生となり,在学中 W.S.クラークの影響を受けて 1878年受洗。卒業後は官吏として水産調査に従事したが志を得ず,結婚の破局も重なって渡米。アマースト大学,ハートフォード神学校に学び帰国。 90年第一高等中学校に奉職。翌年教育勅語奉戴式に勅語に敬礼を躊躇して不敬事件を起して職を追われた。その後大阪,熊本,京都,名古屋などを流浪しながら『基督信徒の慰め』 (1893) を刊行,著述家としての生活に入った。『求安録』 (93) ,『余は如何にして基督信徒となりし乎』 (95) などにその入信の道程が告白されている。理想団に加わり足尾銅山鉱毒事件を攻撃し,日露戦争に際しては信仰の立場から大胆な非戦論を唱えた。 1900年には雑誌『聖書之研究』を創刊し,誌上と集会によって無教会主義のキリスト教を説いた。晩年は社会的活動から身をひき,福音の宣教に力をつくした。『内村鑑三全集』 (20巻) がある。

  1. 朝日年鑑 昭和6年』 朝日新聞社、1930年、738頁。 


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