六角氏

提供: miniwiki
2018/8/9/ (木) 00:30時点におけるAdmin (トーク | 投稿記録)による版 (1版 をインポートしました)
(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
移動先:案内検索


六角氏(ろっかくし)は、日本氏族宇多源氏佐々木氏の流れで、鎌倉時代から戦国時代にかけて近江国南部を中心に勢力を持った武家守護大名)。藤原北家流の公家六角家とは血の繋がりは無い。佐々木六角氏とも言う。

概要

近江源氏と呼ばれた佐々木氏の4家に分かれた家のうちの1つで、鎌倉時代より守護として南近江一帯を支配していた。六角氏と名乗ったのは、京都六角東洞院に六角氏の祖となる泰綱が屋敷を得たからと言われている[1][2]

歴史

鎌倉時代、佐々木氏当主・佐々木信綱の死後、所領の多くは三男・泰綱が継承したが、寛元元年(1243年)、信綱の長男・重綱の訴えを幕府が容れ、泰綱が嫡流である事は変わりはなかったが、泰綱は有した近江の所領の一部を失った。近江の所領は兄弟で四分され、重綱と次男・高信、末子・氏信はそれぞれ大原氏高島氏京極氏の祖となり、嫡流の泰綱の家系は六角氏と呼ばれる。

またこれらの家は鎌倉幕府に直接仕えたため、総領たる六角氏が他の3家を家臣団化できず、六角氏の近江統一の障害となった[3]

鎌倉幕府の滅亡時は、当主・六角時信六波羅探題に最後まで味方し、敗れ降伏している。

室町幕府が成立すると、同族である京極氏京極高氏佐々木道誉)が近江守護に任じられたが、後に六角氏頼が守護に任じられ、以降は幕府と対立した一時期を除いて近江一国の守護の地位を占めた。だが、京極氏は出雲国飛騨国の守護に任ぜられ、近江国内でも守護使不入(守護である六角氏の支配を受けない特権)を認められたため、室町時代に入ると六角氏と京極氏は敵対し、近江の覇権をめぐって争った。また、国内の同族の中には高島氏・朽木氏・大原氏など奉公衆として幕府の直臣化される者もおり、彼らは幕府からの直接の命令を奉じて守護の命令には従わなかった。さらに領内には比叡山もあり室町時代を通じてその支配は安定せず、六角満綱持綱父子は家臣の反乱により自害に追いやられ、持綱の弟で後を継いだ久頼京極持清との対立の末に心労により自害して果てている[4]

久頼の跡を継いだ六角高頼応仁の乱では土岐氏と共に西軍に属し、持清と共に東軍についた従兄・政堯と戦い、長享元年(1487年)には9代将軍足利義尚、10代将軍・足利義稙から討伐を受ける(長享・延徳の乱)。高頼はこの侵攻を2度に亘り跳ね除け、守護代である伊庭氏との対立にも勝利し、六角氏の戦国大名化を成し遂げた[5]

ただし通説の久頼の没年と高頼の生年が離れすぎて世代が合わないため、久頼-高頼間に1世代あるとして佐々木哲は古文書に見える六角政勝をその間に置くべきとする[6]

戦国時代に入ると六角定頼(高頼の次男)が登場する。定頼は足利将軍家管領代となり、天文法華の乱の鎮圧にも関与した[7]。近江蒲生郡観音寺城を本拠として近江一帯に一大勢力を築き上げたのみならず伊賀国伊勢国の一部までにも影響力を及ぼしたとされ、六角氏の最盛期を創出した。しかし定頼の死後、後を継いだ六角義賢の代においては、長年の同盟相手であった土岐氏に取って代わった美濃斎藤氏や畿内で台頭した三好氏と度々争い、永禄3年(1560年)に野良田の戦い浅井長政と戦って敗れるなど六角氏の勢力は陰りを見せ始める。義賢の嫡男・義治(義弼)は家督を継いだ後、永禄6年(1563年)に重臣の後藤賢豊父子を殺害したが、これを契機に家中で内紛(観音寺騒動)が起き、六角氏式目への署名を余儀なくされ、六角氏当主の権力は弱体化した。このように六角氏は六角義賢・義治父子の時代に大きく衰退し、永禄11年(1568年)、織田信長率いる上洛軍と戦って敗れ、居城である観音寺城を去る事になる(観音寺城の戦い[8]

その後、義賢と義治は甲賀郡石部城に拠点を移し、信長に対してゲリラ的に抵抗したが、次第に歴史の表舞台から遠ざかる事となった[9]。後に義治は豊臣秀次によって召し出されており、豊臣秀頼の家臣としても見えている[10]

義治は豊臣秀次に近臣として仕え、秀次家が滅亡すると豊臣秀頼に仕えた。義治の婿養子・定治は義父の跡を継ぎ豊臣秀頼の家臣となり大坂の陣を迎えた。大坂城退散後、蒲生氏を経て加賀国前田氏に仕え、江戸時代には加賀藩士の佐々木(六角)家として1,000石となり、子孫が加増され2,100石で幕末に至った。

義治の弟・義定(観音寺騒動の後に義治に当主の座を譲られたとされる[11]。ただしこれには反論もある[12])の子孫も江戸幕府旗本となった。こちらも本苗の佐々木氏を名乗っている。しかし義定の曾孫・求馬定賢が若年で死去し絶家となった。[13]

義治の弟・高一は織田信雄の家臣となり、その子・正勝は生駒氏を称し、大和国宇陀松山藩織田家の重臣となった。子孫は丹波国柏原藩織田家に仕えた。

一方、江戸時代に記された江源武鑑沢田源内が書いた偽書とされる)では、定頼の系統は六角氏庶家の箕作氏で陣代にすぎず、氏綱(定頼の兄)の子・義実の系統が嫡流であるとしている。豊臣秀吉が氏綱の子・義秀に仕えて偏諱を受けた事や、氏綱の子・義郷が豊臣姓と侍従の官を授かった12万石の大名となった等と書かれており、寛政重修諸家譜山岡氏系図などに引用されている。これに対し、江戸時代中期に加賀藩士佐々木家や佐々木庶流の建部氏により、沢田源内が佐々木氏末裔を僭称しているものと批判された。佐々木哲などの在野の歴史家はこの六角氏綱(六角定頼の兄)の子孫が実在したとする立場をとっている。

六角氏の一族

系図

実線は実子、点線は養子・猶子
  
 
 
 
 
佐々木信綱
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大原重綱高島高信六角泰綱京極氏信
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
頼綱佐々頼起
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
頼明宗信(宗継)成綱宗綱時綱時信
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
森川宗春氏頼山内信詮
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
義信京極高詮[17]満高義重
 
 
 
 
 
満綱建部詮秀
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
持綱時綱久頼
 
 
 
 
 
 
 
政信政堯高頼
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
虎夜叉虎千代氏綱定頼大原高保梅戸高実
 
 
 
義賢
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
義治(義弼)義定(高定、賢永)[18]
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
高賢旗本高和
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
加賀藩士佐々木定治(高守)[19]佐々木高重(義忠)  高慶
 
 
 
 
 
定之定賢
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
定賢定保
 
 
 
定明
 
 
 
定国
 
 
 
定則
 
 
 
定正
 
 
 
温二郎

六角氏の主要家臣

室町時代

戦国時代

分国法

脚注

  1. 『国史大辞典 (昭和時代)|国史大辞典』第14巻
  2. 八日市市教育委員会 編『八日市市史』第2巻、1983年、 p75
  3. 前世代に当たる信綱兄弟の分家などはすぐに家臣化している
  4. 新谷、p11
  5. 新谷、p12-p13
  6. 6.0 6.1 佐々木、p111-p116
  7. 新谷、p17
  8. 新谷、p19 - p23
  9. 新谷、p19-p23
  10. 村井、p56
  11. 太田、p6572
  12. 佐々木、p172-p173
  13. 断家譜
  14. 1467年から1470年に「御屋形様」として文書を発給している。
  15. 『近江六角氏の研究動向』では某として不詳、『八日市市史』第2巻では山内政綱の一族と推定する。
  16. 寛永諸家系図伝』では、頼綱の跡は子・宗信(宗継)で、その後成綱・宗綱と直系で続き、成綱弟・時信へ至る。続編の『寛政重修諸家譜』は事蹟の年代などから宗信(宗継)成綱・宗綱・時信を兄弟と考証・修正して記載している。
  17. 義信の没後に氏頼の猶子に迎えられ、満高誕生後はその後見となり、のち京極家へ帰る。
  18. 大原高保の養子となり大原賢永となる。兄・義治の跡を継いだともされる。
  19. 母は義治の娘で、義治の養子と子孫が伝える。

出典

関連項目