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{{ページ番号|date=2017年6月}}
 
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{{日本の氏族
 
|家名 = 佐野氏
 
|家紋 = Japanese Crest mitu Tomoe 2.svg
 
|家紋名称 = 三つ巴
 
|本姓 = [[藤原北家]][[藤原秀郷|秀郷流]][[足利氏 (藤原氏)|足利氏]]支流{{Sfn|太田|1934|p=2656}}
 
|家祖 = [[佐野基綱]]{{Sfn|太田|1934|p=2657}}
 
|種別 = [[武家]]<br>[[士族]]
 
|出身地 = [[下野国]][[安蘇郡]]佐野庄{{Sfn|太田|1934|p=2656}}
 
|根拠地 = 下野国安蘇郡佐野庄
 
|人物 = 佐野基綱、[[佐野秀綱]]<br>[[佐野豊綱]]、[[佐野房綱|天徳寺宝衍]]
 
|支流 = [[桐生氏|後桐生氏]]([[武家]])<br/>[[小見氏]]([[武家]])<br/>[[田沼氏]]([[武家]])<br/>[[多田氏 (曖昧さ回避)|多田氏]]([[武家]])
 
}}
 
  
'''佐野氏'''(さのし)は、[[平安時代]]末期から[[江戸時代]]初期にかけて[[下野国]]を中心に栄えた一族。
+
'''佐野氏'''(さのし)
__TOC__
 
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== 歴史 ==
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秀郷流藤原氏。寿永二年(一一八三)二月、下野国野木宮合戦で、源頼朝に味方する小山朝政が常陸の志田義広軍を破った時、足利俊綱・忠綱は志田に一味して滅亡した。この時、同族の有綱(戸矢子・足利)は子息基綱らと小山氏の側に立ち、乱後基綱は妙音院領(のちに西園寺家領)下野国佐野荘の荘司(地頭)となり、佐野氏の祖となった。また承久の乱の勲功により淡路国都志郷の地頭となり、御家人として活躍した。南北朝内乱期には師綱が足利尊氏方として、享徳の乱では盛綱が古河公方足利成氏を支えてそれぞれ活躍した。唐沢山城の築城も盛綱の代と推定される。戦国時代、昌綱(天正二年(一五七四)没)は上杉輝虎に抵抗し、宗綱は、天正十三年館林の長尾顕長と抗争し戦死した。北条氏は氏康の子氏忠に佐野氏家督を継がせ、一方昌綱の兄弟(一説に子)房綱(俊綱ともいう、天徳寺宝衍・了伯)は、北条氏に叛き、豊臣秀吉と結び天正十八年佐野に復帰した。房綱は、文録元年(一五九二)、家督を富田知信の子信吉に譲り隠退、信吉も慶長十九年(一六一四)改易となり、佐野氏は滅亡した。
=== 出自 ===
 
[[藤原秀郷|秀郷流]]の系統。[[足利氏 (藤原氏)|藤姓足利氏]](源姓の[[足利氏]]とは別)[[庶家|庶流]] 。[[足利有綱]]([[足利俊綱|俊綱]]の弟)の子で[[下野国]][[安蘇郡]]佐野庄に土着した[[佐野基綱]]より始まる{{Sfn|太田|1934|p=2657}}{{Sfn|太田|1934|p=2659}}。
 
  
佐野荘は藤姓足利氏の[[足利家綱]]が立券したとみられ{{Sfn|柳田|1979|pp=38-42}}、家綱の次子・[[佐野成俊]]へ相続され、甥の基綱が継承した{{Sfn|柳田|1979|pp=46-47}}。基綱は成俊の養子となったとみられる{{Sfn|田沼町編|1985|p=203}}。
+
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=== 鎌倉時代 ===
 
本宗である藤姓足利氏当主[[足利忠綱]]が[[源義広 (志田三郎先生)|志田義広]]と手を組んだのに対し、基綱は早くから[[源頼朝]]に味方したため、頼朝によって藤姓足利氏の[[嫡流]]が滅亡したのちも、[[鎌倉幕府]]の[[御家人]]として勢力を維持した。
 
 
 
また佐野庄は庄内を流れる[[秋山川 (栃木県)|秋山川]]の上流と下流で分かれていたとみられ、上流の上佐野に分家、総領家は下流域中心に支配したとみられる。『[[尊卑分脈]]』「[[続群書類従]]」などの佐野系図でも、佐野基綱の次代から大きく国基の系統と景綱の系統に分かれており、これが分裂を示している証ともされる。江田は総領が国基系、上佐野を景綱系とする。また上佐野以外にも庶家(岩崎・小見・船越・戸室・田沼)が広がっていった。
 
 
 
[[承久]]3年([[1222年]])に発生した[[承久の乱]]では、幕府方として参加し戦功を立て、佐野太郎と七郎入道が[[淡路国]]に上皇方の旧領を得ている(「淡路国太田文」)。『栃木県史 資料編中世5』では佐野太郎を基綱とするが、『田沼町史』は年齢差があるとして国綱の時代としている。
 
 
 
[[宝治]]元年([[1247年]])、[[宝治合戦]]において[[三浦氏]]に与し、佐野左衛門尉(実綱?景綱?<ref>『栃木県史 資料編中世5』の比定。しかし「新考佐野武士団」(高崎寿 1974)や柳田(1979 pp.70-74)が実綱・成綱を、『田沼町史』は宗綱も含めて、古文書から宝治合戦後も生存しているとして、戦死したのは別人とする。柳田(1979 pp.80-81)は、左衛門尉を景綱、佐野小五郎は宗綱の子の誰か(直綱?)としている。</ref>)・その子の佐野太郎(成綱?景綱の子?)・佐野小五郎(宗綱?または宗綱の子か)の3名が討死、幕法に照らして本領以外は没収されたと推測され、総領家は一時没落した。
 
 
 
[[文永]]9年([[1272年]])から正中2年([[1325年]])にかけて訴状などの古文書が残り、佐野安房弥太郎増綱や義綱・顕綱の名前が見える。増綱は柳田や『田沼町史』が成綱の子・船越増綱と推測しているが、後の2人は系図上に見えない。
 
 
 
[[元弘]]元年([[1331年]])9月の[[笠置山の戦い]]では、鎌倉幕府方として佐野安房弥太郎が見える(『[[太平記]]』)。
 
 
 
=== 室町時代前期 ===
 
鎌倉幕府の滅亡から[[建武の新政]]の時期の動向ははっきりしない。建武2年~3年には佐野義綱と佐野一王丸が北朝方で活動していたのが「佐野義綱軍忠状」「佐野安房一王丸軍忠状」(「落合文書」)で分かる。義綱は南朝方の同族・[[阿曽沼氏]]などと戦い、建武3年11月3日に戦死し、跡をその子・一王丸が継ぎ、[[斯波氏]]に従っている。また佐野氏綱が、[[高師直]]の配下として[[四條畷の戦い]]や大和・吉野の戦いに参加している。
 
 
 
また氏綱の子・佐野太郎四郎秀綱は、[[足利義詮]]に従って貞治五年([[1366年]])[[越中国]]に所領を与えられた。秀綱は名乗りから総領系とみられる。また文和四年([[1355年]])佐野越前守師綱は佐野庄内の釜谷村・荒居村を押領し、[[佐々木道誉]]から訴えられている。江田によれば、師綱は上佐野系の分家出身で、本領の佐野庄は上佐野系が勢力を持ち、本宗家(国基系)は越中へ拠点を移したと考えられるとしている。
 
 
 
応永23年([[1416年]])、[[上杉禅秀の乱]]が起こると、佐野氏は持氏方として残党処理を行っている。一方、『[[鎌倉大草紙]]』には一族と思われる佐野佐馬助が禅秀方で見える。
 
 
 
[[永享の乱]]および結城合戦での佐野氏の動向は不明。ただし持氏に近く反上杉の傾向だったと推測される。
 
 
 
[[享徳の乱]]では佐野氏は[[古河公方]][[足利成氏]]方に属した。しかし寛正2年(1461年)、[[岩松持国]]が子・次郎とともに上杉方に転じると動揺、同4年に佐野氏も幕府方へ転じている。
 
 
 
また柳田は後代に残った系図から、佐野家総領は、国基系から上佐野の分家、さらに西佐野を領した分家、最後に岩崎系(岩崎氏)へと移ったとみなしている。
 
 
 
=== 室町時代後期 ===
 
[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]になると、「中興の祖」と呼ばれる佐野盛綱が出て、周辺へ勢力を拡大していった。佐野家の分裂は盛綱の下で解消されていたとみられる。
 
 
 
[[古河公方]]の[[足利義氏 (古河公方)|足利義氏]]が[[後北条氏]](小田原北条氏)に軟禁されるなど衰退したため、佐野氏も後北条氏の影響下におかれるようになり、そのため後北条氏と敵対する[[関東管領]][[上杉謙信]]の侵略にたびたびさらされるようになった。[[佐野豊綱]]・[[佐野宗綱]]の代には一定の独立した勢力を保ち、天正10年(1582年)に織田家の[[滝川一益]]が上州入りを果たすと一族の天徳寺宝衍([[佐野房綱]])がその側近となり、佐野氏は織田家に通じた。滝川氏が敗れた[[神流川の戦い]]にも佐野氏は参加している。
 
 
 
滝川氏が敗れ上野国に後北条氏が進出すると、それに反発した佐野氏は後北条方との対立を深め、天正13年(1585年)に後北条方の[[長尾顕長]]と戦うが、この合戦で当主佐野宗綱が戦死してしまった。宗綱には娘しか無く、その婿たる後継の養子先について家中は佐竹氏派と後北条氏派に分裂した。結局、後北条氏から養子([[北条氏忠]])を迎えその傘下となったが、それに反発した天徳寺宝衍や[[山上道及]]ら佐野家中の佐竹氏派の重臣が出奔している。その後、天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原北条氏追討の争い([[小田原征伐]])に際し、実家の北条氏側に付いた佐野(北条)氏忠は本家共々降伏した。天徳寺宝衍が出奔後に[[豊臣秀吉]]へ仕えていたため、佐野家の家督は房綱およびその養子[[佐野信吉]]が継承して存続した。
 
 
 
しかし、慶長19年(1611年)、信吉実兄の[[富田信高]]改易に連座および自身の不行跡を理由として、[[佐野信吉]]は改易処分となり、信濃国松本に配流され、大名としての佐野氏は終焉した。のちに信吉は許され、嫡子・[[佐野久綱|久綱]]の子孫が江戸幕府[[旗本]][[寄合]]3千500石として幕末に至った。信吉の次子・公當は兄の久綱から分与を受け、この系統も旗本として存続した。
 
 
 
==下野佐野氏の一族==
 
;岩崎氏
 
佐野荘の岩崎城城主。佐野氏の分家で家臣。柳田はこの系統から戦国期の佐野氏が出たとする。黒田も、盛綱以来の佐野氏および分家の桐生佐野氏は岩崎氏から出たとする。佐野房綱時代の当主・岩崎吉十郎久長は、佐野宗綱の娘(佐野信吉室の妹)を娶り、養子・信吉と不仲だった主君・佐野房綱から佐野家代々の古文書等を渡されたという(「蓼沼文書」)。岩崎吉十郎の跡は佐野信吉の子・重春(母は佐野信吉室ではない)が継いだ。
 
;[[田沼氏]]
 
佐野荘の田沼城の領主。田沼重綱が祖。分家した時期に諸説ある。[[老中]][[田沼意次]]はこの系統の子孫と称している。
 
;[[小見氏]]
 
小見是綱が祖。分家した時期に諸説ある。「寛政譜」によると、旗本に是綱の末裔を称する佐野家があり、是綱が[[北畠顕家]]・[[北畠顕能|顕能]]に仕え、[[伊勢国]]河曲郷に領地を得て土着したという。ただし佐野忠次([[北畠具教]]と徳川家康に仕える)の曾祖父・式部より前の系図が中絶しており、是綱との繋がりは不詳である。
 
;[[桐生氏|桐生佐野氏]]
 
桐生郷(現・[[桐生市]]周辺)を領した佐野氏の分家。のちに桐生氏に改めた。
 
 
 
==他の藤原秀郷流の佐野氏==
 
;藤原秀郷流の旗本佐野氏
 
下野佐野一族とは秀郷を祖とすることのみ共通し、系図上での繋がりは皆無である。
 
*佐野半四郎政重の家系
 
本国は[[美濃国]]。[[森忠政]]に仕えた半四郎政重が祖。それ以前は不詳。子の政秀が家康に仕え、旗本となったが、直系および分家1家が無嗣断絶し、分家1家が幕末に至った。(『[[寛政譜]]』)
 
 
 
*佐野与八郎正安の家系
 
[[三河国|三河]][[譜代大名|譜代]]の家で、戦国時代に[[三河国]]下和田村を領して[[松平清康]]に仕えた[[佐野正安|佐野与八郎正安]]を祖とする。正安以前は不詳である([[太田亮]]『姓氏家系大辞典』、『[[寛政譜]]』)。
 
 
 
分家を含め旗本に7家あった。のち分家1家が無嗣断絶した。また分家1家は[[天保]]4年([[1784年]])に[[佐野政言]]が[[田沼意次]]の子息、[[若年寄]][[田沼意知]]刃傷事件を引き起こし改易された。ただし[[三田村鳶魚]]の日記によると、江戸末期、与八郎正安系の分家の者に政言の家の再興を認める沙汰が下りたが、幕末の混乱で再興はならなかったという([[山田忠雄]]「佐野政言切腹余話」『史學』57巻4号、三田史学会、1988年)。
 
 
 
==系譜==
 
<div class="NavFrame" style="clear: both; border:0;">
 
<div class="NavHead" style="text-align: center;">佐野氏系図</div>
 
<div class="NavContent" style="text-align: left;">
 
;太字は当主、実線は実子、点線は養子。<!--構成の都合で出生順より組み替え-->
 
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{{familytree |border=0|01|02|03|04|05||||06| 01='''[[佐野秀綱|秀綱]]'''<sup>12</sup>|02={{fontsize|xx-small|[[[小見氏]]]}}<br/>小見是綱{{fontsize|xx-small|{{Efn|小見是綱・船越増綱・戸室親綱・田沼重綱は『田原族譜』によれば盛綱の子。一方、『寛政重修諸家譜』は小見是綱を成綱の子とし、柳田はこれを採って四子を成綱の子とする{{要ページ番号|date=2017年6月}}}}}}|03={{fontsize|xx-small|[船越氏]}}<br/>船越増綱|04={{fontsize|xx-small|[[[戸室氏]]]}}<br/>戸室親綱|05={{fontsize|xx-small|[[[田沼氏]]]}}<br/>田沼重綱|06=重光}}
 
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{{familytree |border=0|01|02||||03||||04|05| 01='''[[佐野昌綱|昌綱]]'''<sup>15</sup><br/>{{fontsize|xx-small|<ref group="※">豊綱の弟とも。</ref>}}|02=桐生重綱|03='''[[佐野房綱|房綱(宝衍)]]'''<sup>18</sup>|04=[[富田一白]]|05=岩崎久長}}
 
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{{familytree |border=0|01|02|03|04|~|y|~|05|06|| 01='''[[佐野宗綱|宗綱]]'''<sup>16</sup>|02=[[桐生親綱]]|03=[[北条氏康]]|04=女|05={{fontsize|xx-small|[[[佐野藩|佐野藩主]]]}}<br/>'''[[佐野信吉]]'''<sup>19</sup>|06=重春}}
 
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{{familytree |border=0|01|~|~|~|02|03|04|05|| 01=女|02=[[北条氏忠|'''氏忠'''<sup>17</sup>(北条氏忠)]]|03={{fontsize|xx-small|[旗本]}}<br/>'''[[佐野久綱|久綱]]'''<sup>20</sup>|04=岩崎重春|05={{fontsize|xx-small|[旗本]}}<br/>[[佐野公當|公當]]|}}
 
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{{familytree |border=0||||||||||01||||02|03| 01='''盛綱'''<sup>21</sup>|02=[[佐野勝由|勝由]]|03=茂包<br/>{{fontsize|xx-small|<ref group="※">勝由の養子</ref>}}}}
 
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{{familytree |border=0||||||||||01||||03|02| 01=直行|02=[[松平資訓|松平(本庄)資訓]]|03=茂包}}
 
{{familytree/end}}
 
<hr/>
 
{{Reflist|group=※}}
 
佐野氏の系譜は諸説あってはっきりしない。『尊卑分脈』が国綱を国基、成綱を盛綱とする以外は、基綱から成綱までの系譜は諸説で一致しており、この部分は確実視されている。房綱(天徳寺宝衍)以下の江戸期以降は『寛政重修諸家譜』に依拠した。
 
</div></div>
 
 
 
==文学作品==
 
[[室町時代]]に成立した[[謡曲]]『[[鉢木|鉢の木]]』の主人公は[[佐野源左衛門|佐野源左衛門尉常世]]である。[[北条時頼]]の廻国伝説を基にしたもので、「いざ鎌倉」という鎌倉武士の意気込みを現す話として教科書などにもよく取り上げられる。後世、彼の子孫が上記の佐野政言とする俗説も流布した{{Harv|山田忠雄|1988}}。
 
なお佐野市内に源左衛門尉常世一族のものと称する墓があるが、柳田は常世のものではなく、下野佐野氏の初期の霊廟であったのではないかとする{{Sfn|柳田|1979|pp=47-49}}。
 
=== 小説 ===
 
* [[伊東潤]] 『見えすぎた物見』(『城を噛ませた男』収録の短編)
 
 
 
== 脚注 ==
 
===注釈===
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{Notelist}}
 
===出典===
 
{{Reflist|2}}
 
 
 
==参考文献==
 
* {{オープンアクセス}}{{Citation|和書|last=太田|first=亮|author-link=太田亮|others=[[上田萬年]]、[[三上参次]]監修|chapter=佐野 サノ|pages=2654-2663|volume=第2|date=1934|title=姓氏家系大辞典|publisher=姓氏家系大辞典刊行会|id={{全国書誌番号|47004572}}|chapter-url={{NDLDC|1130938/421}} 国立国会図書館デジタルコレクション|ncid=BN05000207|oclc=673726070|ref=harv}}
 
* {{Citation|和書|editor=佐野市史編さん委員会|date=1978-3|volume=通史編 上|title=佐野市史|publisher=[[佐野市]]|ncid=BN0268228X|id={{全国書誌番号|78011799}}|ref=harv}}
 
* {{Citation|和書|last=高崎|first=寿|date=1974-12|title=新考佐野武士団|publisher=高崎寿|ref=harv}}
 
* {{Cite book|和書|author=田沼町編|date=1985-3|volume=第6巻 (通史編 上)|title=田沼町史|publisher=[[田沼町]]|ncid=BN01331257|id={{全国書誌番号|86012436}}|ref=harv}}
 
* {{Cite book|和書|author=栃木県史編さん委員会編|date=1976|volume=史料編 中世 5|title=栃木県史|ncid=BN00758121|id={{全国書誌番号|73017329}}|ref=harv}}
 
* {{Citation|和書|last=柳田|first=貞夫|date=1979-5|title=佐野氏の系譜と佐野庄|publisher=柳田貞夫|ncid=BB22865936|id={{全国書誌番号|84033295}}|ref=harv}}
 
* {{オープンアクセス}}{{Cite journal|和書|author=[[山田忠雄]]|title =佐野政言切腹余話|date=1988-3|publisher=三田史学会 |journal=史學|volume=57|issue=4|naid=110007410562|issn=03869334|pages=533-547|url=http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN00100104-19880300-0021|ref=harv}}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
*[[足利氏 (藤原氏)]]
 
*[[避来矢]] - 佐野家の家宝の鎧
 
  
  

2019/6/16/ (日) 07:30時点における最新版

佐野氏(さのし)

秀郷流藤原氏。寿永二年(一一八三)二月、下野国野木宮合戦で、源頼朝に味方する小山朝政が常陸の志田義広軍を破った時、足利俊綱・忠綱は志田に一味して滅亡した。この時、同族の有綱(戸矢子・足利)は子息基綱らと小山氏の側に立ち、乱後基綱は妙音院領(のちに西園寺家領)下野国佐野荘の荘司(地頭)となり、佐野氏の祖となった。また承久の乱の勲功により淡路国都志郷の地頭となり、御家人として活躍した。南北朝内乱期には師綱が足利尊氏方として、享徳の乱では盛綱が古河公方足利成氏を支えてそれぞれ活躍した。唐沢山城の築城も盛綱の代と推定される。戦国時代、昌綱(天正二年(一五七四)没)は上杉輝虎に抵抗し、宗綱は、天正十三年館林の長尾顕長と抗争し戦死した。北条氏は氏康の子氏忠に佐野氏家督を継がせ、一方昌綱の兄弟(一説に子)房綱(俊綱ともいう、天徳寺宝衍・了伯)は、北条氏に叛き、豊臣秀吉と結び天正十八年佐野に復帰した。房綱は、文録元年(一五九二)、家督を富田知信の子信吉に譲り隠退、信吉も慶長十九年(一六一四)改易となり、佐野氏は滅亡した。



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