佐野城

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佐野城
栃木県
別名 春日岡城、春日城、姥城(うばがじょう)
城郭構造 平山城
築城主 佐野信吉
築城年 1602年(慶長7年)
主な城主 佐野信吉
廃城年 1614年(慶長19年)
遺構 郭、堀切、土塁
指定文化財 市指定史跡[1]
位置
地図
佐野城の位置
佐野城

佐野城(さのじょう)は、下野国安蘇郡佐野(現在の栃木県佐野市若松町)に築かれた日本の城平山城)である。別名春日岡城春日城姥城(うばがじょう)。

概要

佐野氏は元々佐野の北部にある唐沢山城を拠点としていた。佐野氏は北条氏から養子を迎えていたため、小田原征伐の際には滅亡の危機を迎えた。だが、一族の佐野房綱が豊臣秀吉に仕えていたため、役後に房綱が当主に就くことで断絶を免れた。その後、房綱は豊臣氏近臣である富田氏から信吉を養子に迎えて家の安泰を図った。豊臣政権側も同城を江戸城徳川家康を牽制するために活用しようと図った。ところが、関ヶ原の戦いによって徳川政権が成立したことによって佐野氏を継いでいた佐野信吉の立場は微妙となった。

1602年慶長7年)佐野氏は徳川家康の意向を受けて、上杉謙信の攻撃をもしのいだ山城の唐沢山城を廃して麓に新規に佐野城を築城した。唐沢山城の廃止理由としては、江戸大火展望説、山城禁令説、豊家縁故説などが出されている。理由は明らかではないものの、徳川政権の本拠地である江戸の近くに豊臣氏に近い大名が山城を持つことが徳川氏にとって不都合であったことが推定される。

佐野城は春日岡にあった惣宗寺の跡地に新しい佐野氏の本拠地に相応しい近世城郭として築城され、築城途中の1607年(慶長12年)には城主である佐野信吉も唐沢山城から佐野城に移転して城下町も整備されたが、整備半ばの1614年(慶長19年)に突如佐野氏が改易されたために、わずか14年で廃城となった。

城の形式は連郭式の平山城で、東西約370m・南北約500mの規模を有する、城跡としては曲輪の跡や堀切・土塁などが残されている。外堀(水堀)は区画整理等により消滅した[1]。南から三の丸・二の丸・本丸・北出丸と並び、各部分は堀切によって仕切られている。最も高い本丸の標高は約56mである。

1988年(昭和63年)から1998年(平成10年)にかけて佐野市による発掘調査が行われ、現在は佐野城山公園となっている。また、築城によって移転を命じられた惣宗寺は今日でも「佐野厄除け大師」の愛称で広く知られている。

参考文献

  • 齋藤慎一「中近世移行期の断絶と継承」(『中世東国の道と城館』(東京大学出版会、2010年) ISBN 978-4-13-020147-6 第10章(論文初出2003年))
  • 『日本歴史地名大系9 栃木県の地名』「春日城」(平凡社、1988年) ISBN 978-4-582-91028-5 P701
  • 影山幹男「佐野城」(『栃木県大百科事典』(下野新聞社、1981年))

脚注

  1. 1.0 1.1 佐野市. “佐野市指定文化財 佐野城跡”. 佐野市役所. . 2017閲覧.

関連項目