伊藤博文

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伊藤 博文(いとう ひろぶみ、天保12年9月2日1841年10月16日) - 明治42年(1909年10月26日)は、日本武士長州藩士)、政治家位階勲等爵位従一位大勲位公爵博文(ひろぶみ、「ハクブン」と有職読みすることもある)。幼名利助(りすけ)、後に吉田松陰から俊英の俊を与えられ、俊輔(しゅんすけ)とし、さらに春輔(しゅんすけ)と改名した。春畝(しゅんぽ)で、春畝公と表記されることも多い。また小田原の別邸・滄浪閣を所持していたことから滄浪閣主人(そうろうかくしゅじん)を称して落款としても用いた。

周防国出身。長州藩私塾である松下村塾に学び、幕末期の尊王攘夷倒幕運動に参加。維新後は薩長藩閥政権内で力を伸ばし、岩倉使節団の副使、参議工部卿、初代兵庫県知事(官選)を務め、大日本帝国憲法の起草の中心となる。初代第5代第7代第10代内閣総理大臣および初代枢密院議長、初代貴族院議長、初代韓国統監元老を歴任した。内政では、立憲政友会を結成し初代総裁となったこと、外交では日清戦争の勝利に伴う日清講和条約の起草・調印により清国から朝鮮を独立させた(第一条)ことが特記できる。

1909年、ハルビン駅で朝鮮民族主義活動家の朝鮮人安重根暗殺された。

生涯

生い立ち

天保12年(1841年)9月2日、周防国熊毛郡束荷村字野尻(現 山口県光市束荷字野尻)の百姓・林十蔵(後に重蔵)の長男として生まれる。母は秋山長左衛門の長女・琴子。弘化5年(1846年)に破産した父がへ単身赴任したため母と共に母の実家へ預けられたが、嘉永2年(1849年)に父に呼び出され萩に移住した。萩では久保五郎左衛門の塾に通い(同門に吉田稔麿)、家が貧しかったため、12歳ころから父が長州藩蔵元付中間・水井武兵衛の養子となり、武兵衛が安政元年(1854年)に周防佐波郡相畑村の足軽・伊藤弥右衛門の養子となって伊藤直右衛門と改名したため、十蔵・博文父子も足軽となった[1]

松下村塾入門

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志士時代の伊藤博文
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長州五傑。上段左から遠藤謹助野村弥吉(井上勝)、伊藤、下段左から志道聞多(井上馨)、山尾庸三

安政4年(1857年2月江戸湾警備のため相模に派遣されていた時、上司として赴任してきた来原良蔵と昵懇となり、その紹介で吉田松陰松下村塾に入門する。伊藤は友人の稔麿の世話になったが、身分が低いため塾の敷居をまたぐことは許されず、戸外で立ったままの聴講に甘んじていた。

  • 渡邊嵩蔵 「伊藤公なども、もとより塾にて読書を学びたれども、自家生活と、公私の務に服せざるべからざる事情のために、長くは在塾するを得ざりしなり」[2]

翌5年(1858年)7月から10月まで松陰の推薦で長州藩の京都派遣に随行、帰藩後は来原に従い安政6年(1859年)6月まで長崎で勉学に努め、10月からは来原の紹介で来原の義兄の桂小五郎(後の木戸孝允)の従者となり長州藩の江戸屋敷に移り住んだ。ここで志道聞多(後の井上馨)と出会い、親交を結ぶ。

松陰が同年10月に安政の大獄で斬首された際、桂の手附として江戸詰めしていた伊藤は、師の遺骸を引き取ることなる。この時、伊藤は自分がしていた帯を遺体に巻いた。この後、桂を始め久坂玄瑞高杉晋作・井上馨らと尊王攘夷運動に加わる一方で海外渡航も考えるようになり、万延元年12月7日1861年1月17日)に来原に宛てた手紙でイギリス留学を志願している。

文久2年(1862年)には公武合体論を主張する長井雅楽の暗殺を画策し、8月に自害した来原の葬式に参加、12月に品川御殿山英国公使館焼き討ちに参加し、山尾庸三と共に塙忠宝[注釈 1]加藤甲次郎を暗殺するなど、尊王攘夷の志士として活動した[4]

イギリス留学

文久3年(1863年)には井上馨の薦めで海外渡航を決意、5月12日に井上馨・遠藤謹助・山尾庸三・野村弥吉(後の井上勝)らと共に長州五傑の一人としてイギリスに渡航する。伊藤の荷物は文久2年に発行された間違いだらけの『英和対訳袖珍辞書』1冊と寝巻きだけであったという。しかも途中に寄港した上海で別の船に乗せられた際、水兵同然の粗末な扱いをされ苦難の海上生活を強いられた。

9月23日ロンドン到着後、ヒュー・マセソンの世話を受け化学者アレキサンダー・ウィリアムソンの邸に滞在し、英語や礼儀作法の指導を受ける。ロンドンでは英語を学ぶと共に博物館美術館に通い、海軍施設、工場などを見学して見聞を広めた。留学中にイギリスと日本との、あまりにも圧倒的な国力の差を目の当たりにして開国論に転じる。

元治元年(1864年)3月、4国連合艦隊による長州藩攻撃が近いことを知ると、井上馨と共に急ぎ帰国し6月10日横浜上陸後長州藩へ戻り、戦争回避に奔走する。英国公使オールコックと通訳官アーネスト・サトウと会見したが、両名の奔走も空しく、8月5日に4国連合艦隊の砲撃により下関戦争(馬関戦争)が勃発、長州の砲台は徹底的に破壊される。

伊藤は戦後、宍戸刑馬こと高杉晋作の通訳として、ユーリアラス号で艦長クーパーとの和平交渉にあたる。藩世子・毛利元徳へ経過報告した時には、攘夷派の暗殺計画を知り、高杉と共に行方をくらましている。そして、この和平交渉において、天皇将軍が長州藩宛に発した「攘夷実施の命令書」の写しをサトウに手渡したことにより、各国は賠償金江戸幕府に要求するようになる[5]

挙兵

オールコックらとの交渉で伊藤は井上馨と共に長州藩の外国応接係を任されるが、下関戦争と禁門の変で大損害を被った藩は幕府への恭順を掲げる俗論派が台頭、攘夷派の正義派(革新派)との政争が始まった。伊藤は攘夷も幕府にも反対でありどちらの派閥にも加わらなかったが、9月に井上が俗論派の襲撃で重傷を負うと行方をくらました。

11月、長州藩が第一次長州征伐で幕府に恭順の姿勢を見せると、12月に高杉らに従い力士隊を率いて挙兵(功山寺挙兵)。この時、高杉の元に一番に駆けつけたのは伊藤だった。その後、奇兵隊も加わるなど各所で勢力を増やして俗論派を倒し、正義派が藩政を握った。後に伊藤は、この時のことを述懐して、「私の人生において、唯一誇れることがあるとすれば、この時、一番に高杉さんの元に駆けつけたことだろう」と語っている。

それからは目立った活躍は見られず、翌慶応元年(1865年)に藩の実権を握った桂の要請で行った薩摩藩や外国商人との武器購入及び交渉が主な仕事で、第二次長州征伐にも戊辰戦争にも加勢できずに暇を持て余していた。だが、慶応4年(明治元年、1868年)に外国事務総裁東久世通禧に見出され神戸事件堺事件の解決に奔走したことが出世の足掛かりとなった[6]

明治維新

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木戸孝允(前列中央)と伊藤博文(後列右端)ら。明治3年撮影。

明治維新後は伊藤博文と改名し、長州閥の有力者として、英語に堪能な事を買われて参与、外国事務局判事大蔵民部少輔、初代兵庫県知事(官選)、初代工部卿宮内卿など明治政府の様々な要職を歴任する。これには木戸の後ろ盾があり、井上馨や大隈重信と共に改革を進めることを見込まれていたからであった。

兵庫県知事時代の明治2年(1869年1月、『国是綱目』いわゆる「兵庫論」を捧呈し、

  1. 君主政体
  2. 兵馬の大権を朝廷に返上
  3. 世界万国との通交
  4. 国民に上下の別をなくし「自在自由の権」を付与
  5. 「世界万国の学術」の普及
  6. 国際協調・攘夷の戒め

を主張した。

明治3年(1870年)に発足した工部省の長である工部卿として、殖産興業を推進する。後にこれは、内務卿大久保利通のもとで内務省へと引き継がれる。また同年11月から翌年5月まで財政幣制調査のため、芳川顕正福地源一郎らと渡米し、ナショナル・バンクについて学び、帰国後に伊藤の建議により、日本最初の貨幣法である新貨条例が制定される。

明治4年(1871年11月には岩倉使節団の副使として渡米、サンフランシスコで「日の丸演説」を行う[7][注釈 2]。明治6年(1873年)3月にはベルリンに渡り、ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世に謁見し宰相ビスマルクと会見し、ビスマルクから強い影響を受けた。

The red disc in the centre of our national flag shall no longer appear like a wafer over a sealed empire, but henceforth be in fact what it is designed to be, the noble emblem of the rising sun, moving onward and upward amid the enlightened nations of the world.
(国旗の中央なる吾等が緋の丸こそ最早閉ざされし帝国の封蝋の如く見ゆらざれ、将にその原意たる、旭日の貴き徽章、世界の文明諸国の只中に進み昇らん。) — Hirobumi Ito, 23rd of January 1872.

大蔵兼民部少輔を務めた際には、大隈重信と共に殖産興業政策の一環として、鉄道建設を強力に推し進め、京浜間の鉄道は、明治5年5月7日1872年6月12日)に品川 - 横浜間で仮営業を始め、同年9月12日(1872年10月14日)、新橋までの全線が開通した[8]

当初、伊藤が新政府に提出した『国是綱目』が当時新政府内では極秘裏の方針とされていた版籍奉還に触れていたために大久保利通や岩倉具視の不興を買い、大蔵省の権限を巡る論争でも大久保とは対立関係にあった。また、岩倉使節団がアメリカで不平等条約改正交渉を始めた際、全権委任状を取るため一旦大久保と共に帰国したが、取得に5か月もかかったことで木戸との関係も悪化した(改正交渉も中止)。

だが、大久保・岩倉とは西欧旅行を通して親密になり、木戸とも後に和解したため、明治6年(1873年)に帰国して関わった征韓論では「内治優先」路線を掲げた大久保・岩倉・木戸らを支持して大久保の信任を得るようになった(明治六年政変)。この後木戸とは疎遠になる代わりに、政権の重鎮となった大久保・岩倉と連携する道を選ぶ一方、盟友の井上馨と共に木戸と大久保の間を取り結び、板垣退助とも繋ぎを取り明治8年(1875年)1月の大阪会議を斡旋する。明治10年(1877年)に木戸が死去、同年に西南戦争西郷隆盛が敗死、翌11年(1878年)に大久保も暗殺された後は内務卿を継承し、維新の三傑なき後の明治政府指導者の1人として辣腕を振るう[9]

明治12年(1879年)9月に「教育議」を上奏し、教育令発布となる[10]

明治14年(1881年)1月、日本の立憲体制をどう作るか井上馨や大隈重信と熱海で会談。しかし大隈が急進的な構想を内密に提出、独走するようになると、政界追放を決め工作に取りかかり、10月14日の大隈下野で目的を果たし、明治23年(1890年)に国会を開設することを約束する(明治十四年の政変)。伊藤の漸進的な提案が通り、黒田清隆西郷従道ら薩摩派とも提携したことで事実上伊藤が中心となる体制が出来上がった。一方で井上毅が岩倉の指示を受け、大隈案への対抗からプロイセン憲法を元にした憲法の採用を提案した時は退けたが、これは毅が憲法制定を焦り、外国憲法をどう日本に定着させるかについて具体的に論じていないことと、上役の伊藤に憲法制定を促すなど分を越えた動きをしていたからであった。

明治15年(1882年)3月3日、明治天皇憲法調査のための渡欧を命じられ、3月14日、河島醇平田東助吉田正春山崎直胤三好退蔵岩倉具定広橋賢光西園寺公望伊東巳代治ら随員を伴いヨーロッパに向けて出発し、はじめベルリン大学公法学者、ルドルフ・フォン・グナイストに教示を乞い、アルバート・モッセからプロイセン憲法の逐条的講義を受けた。後にウィーン大学の国家学教授・憲法学者であるローレンツ・フォン・シュタインに師事し、歴史法学行政について学ぶ。これが帰国後、近代的な内閣制度を創設し、大日本帝国憲法の起草・制定に中心的役割を果たすことにつながる。

明治18年(1885年)2月、朝鮮で起きた甲申政変の事後処理のため清に派遣され、4月18日には李鴻章との間に天津条約を調印している[11]

初代内閣総理大臣就任

明治18年(1885年)12月の内閣制度移行に際し、誰が初代内閣総理大臣になるかが注目された。衆目の一致する所は、太政大臣として名目上ながらも政府のトップに立っていた三条実美と、大久保の死後事実上の宰相として明治政府を切り回し内閣制度を作り上げた伊藤だった。しかし三条は、藤原北家閑院流の嫡流で清華家の一つ三条家の生まれという高貴な身分、公爵である。一方伊藤といえば、貧農の出で武士になったのも維新の直前という低い身分の出身、お手盛りで伯爵になってはいるものの、その差は歴然としていた。

太政大臣に代わる初代内閣総理大臣を決める宮中での会議では、誰もが口をつぐんでいる中、伊藤の盟友であった井上馨は「これからの総理は赤電報(外国電報)が読めなくてはだめだ」と口火を切り、これに山縣有朋が「そうすると伊藤君より他にはいないではないか」と賛成、これには三条を支持する保守派の参議も返す言葉がなくなった。つまり英語力が決め手となって伊藤は初代内閣総理大臣となったのである。以後、伊藤は4度にわたって内閣総理大臣を務めることになる。

なお、44歳2か月での総理大臣就任は、2018年現在日本の歴代総理大臣の中で最も若い記録である(2番目は近衛文麿の45歳、現行憲法下では安倍晋三の52歳)。維新以来、徐々に政府の実務から外されてきた公卿出身者の退勢はこれで決定的となり、以降、長きにわたって総理大臣はおろか、閣僚すらなかなか出せない状態となった。

第1次伊藤内閣では憲法発布前の下準備の機関創設に奔走、明治19年(1886年)2月には各省官制を制定し、3月には将来の官僚育成のため帝国大学(現在の東京大学)を創設し、翌年3月には国家学会が創設、これを支援した。一方、井上馨を外務大臣として条約改正を任せたが、井上馨が提案した改正案に外国人判事の登用などを盛り込んだことが問題になり、閣内分裂の危機を招いたため、明治20年(1887年)7月に外国へ向けた改正会議は中止、9月に井上馨が辞任したため失敗に終わった、同年6月から夏島で伊東巳代治・井上毅・金子堅太郎らと共に憲法草案の検討を開始する。イギリスの議員ジャスパー・ウィルソン・ジョーンズの義理の息子ピゴットを法学者として法制顧問に迎えるなどし、後に刊行した『秘書類纂』にも数々のピゴットの論文(和訳)を納めた。

明治21年(1888年)4月28日、枢密院開設の際に初代枢密院議長となるために首相を辞任[12]

大日本帝国憲法発布

明治22年(1889年)2月11日、黒田内閣の下で大日本帝国憲法が発布される。これに際し、伊藤は華族同方会憲法に関して演説し、立憲政治の重要性、とりわけ一般国民を政治に参加させることの大切さを主張する。また6月には『憲法義解』を刊行する。明治25年(1892年)には、吏党の大成会を基盤にした政党結成を主張するが、明治天皇の反対により頓挫する[13]

日清戦争

伊藤が明治25年から2度目の首相を務めていた時、朝鮮甲午農民戦争(東学党の乱)をきっかけに、7月に清軍と衝突、朝鮮の主権を巡って意見が対立して8月に日清戦争が起こる。翌年の明治28年(1895年)4月に、陸奥宗光と共に全権大使として、李鴻章との間に下関の春帆楼で講和条約の下関条約(馬関条約)に調印する。また、戦争前に陸奥がイギリスと治外法権撤廃を明記した条約を結び、条約改正に大きく前進した。

朝鮮の独立(第一条)と遼東半島の割譲などを明記した下関条約がドイツフランスロシア三国干渉を引き起こし、第2次伊藤内閣は遼東半島の放棄を決め、翌明治29年(1896年)8月31日、伊藤は首相を辞任する[14]

明治31年(1898年)1月、第3次伊藤内閣が発足。6月に衆議院解散閣議で政党結成の意思を表明するなど、新党結成を唱えるが、山縣有朋の反対に遭い首相を辞任。同年8月に長崎を出発し、朝鮮の漢城高宗と会見。9月には清の北京慶親王康有為らと面談、戊戌変法に取り組んでいた光緒帝に謁見し、10月には張之洞劉坤一と会談している。北京滞在中の9月21日に保守派が決行した戊戌の政変に遭遇、その時の状況と戸惑いを日本の梅子夫人に書き送っている。翌32年(1899年)4月から10月まで半年かけて全国遊説を行い、政党創立の準備と民衆への立憲体制受け入れを呼びかけている。

明治33年(1900年)9月には立憲政友会を創立し、初代総裁を務める。10月に政友会のメンバーを大勢入れた第4次伊藤内閣が発足するが、政党としての内実が整わない状態での組閣だったため、内部分裂を引き起こし翌34年(1901年)5月に辞任。政友会はその後西園寺公望原敬らが中心となり伊藤の手を離れるが、立憲民政党とならぶ2大政党の1つとなり、大正デモクラシーなどで大きな役割を果たすまでに成長した。また貴族院議長に就任[15]

日露戦争

日清戦争後、伊藤は対露宥和政策をとり、陸奥宗光・井上馨らと共に日露協商論満韓交換論を唱え、ロシアとの不戦を主張した。同時に桂太郎・山縣有朋・小村寿太郎らの日英同盟案に反対した。さらに、自ら単身ロシアに渡って満韓交換論を提案するが、ロシア側から拒否される[注釈 3]

明治37年(1904年)から始まった日露戦争をめぐっては、金子堅太郎をアメリカに派遣し、大統領セオドア・ルーズベルトに講和の斡旋を依頼している[注釈 4]。これが翌38年(1905年)のポーツマス条約に結びつくことになる。なおこの日露の講和に際して、首相の桂が日本の全権代表として最初に打診したのは、外相の小村ではなく伊藤であった。桂内閣は、講和条件が日本国民に受け入れがたいものになることを当初から予見し、それまで4度首相を務めた伊藤であれば国民の不満を和らげることができるのではないかと期待したのである。伊藤ははじめは引き受けてもよいという姿勢を示したのに対し、彼の側近は、戦勝の栄誉は桂が担い、講和によって生じる国民の反感を伊藤が一手に引き受けるのは馬鹿げているとして猛反対し、最終的には伊藤も全権大使への就任を辞退した[18]。また交渉の容易でないことをよく知っていた伊藤は、全権代表に選ばれた小村に対しては「君の帰朝の時には、他人はどうあろうとも、吾輩だけは必ず出迎えにゆく」と語り、励ましている[19]。講和後は、勝利を手にした日本と敗戦国ロシアとの間の戦後処理に奔走した[20]

初代韓国統監

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長谷川好道陸軍大将と共に統監府へ向かう伊藤博文(手前)

明治38年(1905年)11月、第二次日韓協約[注釈 5]により韓国統監府が設置されると伊藤が初代統監に就任した。以降、日本は実質的な朝鮮の統治権を掌握した[注釈 6]

伊藤は国際協調重視派で、大陸への膨張を企図して韓国の直轄を急ぐ山縣有朋や桂太郎・寺内正毅陸軍軍閥と、しばしば対立した[21]。また、韓国併合について、保護国化による実質的な統治で充分であるとの考えから当初は併合反対の立場を取っていた。近年発見された伊藤の明治38年(1905年)11月の日付のメモには「韓国の富強の実を認むるに至る迄」という記述があり、これについて京都大学教授の伊藤之雄は「伊藤博文は、韓国を保護国とするのは韓国の国力がつくまでであり、日韓併合には否定的な考えを持っていた事を裏付けるものだ」としている[22][23]。実際に、この文言は「第二次日韓協約」に盛り込まれ、調印された。

伊藤は韓国民の素養を認め韓国の国力・自治力が高まることを期待し、文盲率が94%に留まっていた韓国での教育にも力を注いだ。1907年4月14日、韓国に赴任する日本人教師達の前で「徹頭徹尾誠実と親切とをもって児童を教育し裏表があってはならないこと」「宗教は韓国民の自由でありあれこれ評論しないこと」「日本人教師は余暇を用いて朝鮮語を学ぶこと」を訓諭した[24]。また明治40年(1907年)7月、京城(ソウル)にて新聞記者達の前でも「日本は韓国を合併するの必要なし。韓国は自治を要す。」と演説していた[25]

原田豊次郎著『伊藤公と韓国』(日韓書房、1909年11月)に、韓国駐在の日本人記者を相手にした伊藤の演説の要旨が掲載されている[26]。「今回事件」とは、ハーグ密使事件のことであるが、日本人記者を相手にした演説であり、伊藤の本音か確証はないが、小島毅は「私は本音ととっていいのではないかと思います。研究者もそのようにとっています」「日韓併合については懐疑的な人」としている[26]

吞噬は日本の意にあらず。韓国人は動もすれば日本の意を誤解す、日本は決して此の如き意思を有する者にあらず、素より之を敢てする者にあらざる也。又今回事件の起生せるを機とし、韓国を併合すべしと論ずる日本人ありと云ふ。余は合併の必要なしと考ふ。合併は却て厄介を増すに過ぎず、宜しく韓国をして自治の能力を養成せしむべき也。縦令国富み兵強くなるも、韓国の戈を倒にして我に打ちかかり来るが如き憂はなかるべし。韓国の富国強兵は日本の希望する所なれども、唯一の制限は韓国が永く日本と親しみ、日本と提携すべき事即ち是也。かの独逸連邦ウルテンブルグの如く韓国を指導し勢力を養成し、財政経済教育を普及して、遂には連邦政治を布くに至るやう之を導くを恐らくは日本の利益なりと、余は信ずる者也。

しかし朝鮮内で独立運動である義兵闘争が盛んになるにつれ考え方を変え明治42年(1909年)4月、時の首相・桂太郎と外相・小村壽太郎が伊藤に恐る恐る「韓国の現状に照らして将来を考量するに、韓国を併合するより外に他策なかるべき事由を陳述」すると、「公は両相の説を聞くや、意外にもこれに異存なき旨を言明」し、なおかつ桂・小村の提示した「併合の方針」についても「その大網を是認」した。その2週間後の東京での演説でも伊藤は、「今や方に協同的に進まんとする境遇となり、進んで一家たらんとせり」と併合を示唆し聴衆を驚かせたという。そして同年5月、統監職を辞職する。伊藤の翻意を確認した桂と小村は、「対韓大方針」と「対韓施設大網」を作成し、「韓国」を併合する方針を明らかにし、韓国保護国化政策に全く未練が無くなった伊藤は統監辞職後、4度目の枢密院議長に就任し、事後処理の為訪韓し陣頭指揮に立ち、「韓国」政府に「韓国司法及監獄事務委託に関する覚書」を調印させ、また「韓国軍部廃止勅令公布」を行わせた[27]。併合方針の閣議決定に反対した形跡は無い(適当ノ時期ニ於テ韓国ノ併合ヲ断行スル事 明治42年(1909年7月6日)。また統監として日本の政策への韓国国民の恨みを買うことになり、朝鮮人・安重根による暗殺につながった。事件に動揺した親日派が韓国併合を加速させたが、前述の通り、併合方針は事件前に内閣の閣議で決まっていた。

年表

  • 1905年11月、特派大使として韓国に渡り、ポーツマス条約に基いて第二次日韓協約(韓国保護条約)を締結する。
  • 1905年11月22日、投石により韓国内で負傷する[28]
  • 1905年12月、韓国統監府が設置され、初代統監に就任する。
  • 1906年2月、日本公使館を韓国統監府に改め、国内12カ所に理事庁、11カ所に支庁を置く。
  • 1907年6月、ハーグ密使事件。
  • 1907年7月、京城(ソウル)にて新聞記者達の前で「日本は韓国を合併するの必要なし。」と演説する[29]
  • 1908年、韓国銀行(のちの朝鮮銀行)を設立する[30]
  • 1908年9月、京城(ソウル)に朝鮮皇室博物館(現:韓国国立中央博物館)を造営する[31]
  • 1909年6月、韓国統監を辞任する。
  • 1909年10月、ハルビン駅安重根に暗殺される。

暗殺

伊藤は、亡くなる1か月前に高杉晋作の顕彰碑に、「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し、衆目駭然として敢えて正視するものなし。これ、我が東行高杉君に非ずや」で始まる碑文を寄せている。また、ハルビンで暗殺される前の歓迎会でのスピーチで「戦争が国家の利益になることはない」と語っている[32]

明治42年(1909年)10月26日、ロシア蔵相ウラジーミル・ココツェフ(ココフツォフ)と満州・朝鮮問題について非公式に話し合うため訪れたハルビン駅で、大韓帝国の民族運動家・安重根によって射殺された。

この時、伊藤は「3発あたった。相手は誰だ」と叫んだという。安はロシア官憲にその場で捕縛された。伊藤は絶命までの約30分間に、側近らと幾つか会話を交わしたが、死の間際に、自分を撃ったのが朝鮮人だったことを知らされ、「俺を撃ったりして、馬鹿な奴だ」と呟いたといわれる[33]。また、伊藤の孫にあたる伊藤満洲雄の話によれば「俺は駄目だ。誰か他にやられたか?」と聞き、森槐南も傷ついたと知って「森もやられたか…」と言ったのが、伊藤の最後の言葉だったという。享年69。11月4日日比谷公園国葬が営まれた[34]

暗殺に関しては、安重根単独説のほかにも、異説が存在する[35]。具体的には、暗殺時に伊藤の着用していたコートに残る弾痕から発砲位置を算出した結果、併合強硬派による謀殺説もある[36]

当時伊藤に随行した室田義文首席随行員がおよそ30年後に話した舞台の真相によると、彼の肉に埋まっていた弾丸が安重根のブローニング7連発拳銃用のものではなくフランス騎馬隊カービン銃用であり、また弾丸があけた穴の向きが下向きであることがおかしく、安重根からならば上向きになるはずであり、彼への命中弾は駅の上の食堂あたりからではなかろうか、ということである[37]。しかし室田は事件当時は混乱していたためか、安重根の裁判では「数発爆竹の如き音を聞きたるも狙撃者ありしことを気付かず、少時して洋服を着たる一人男が、露国軍隊の間より身を出して、拳銃を以て自分の方に向ひ発射するを認め、初めて狙撃者あることを知り(中略)、狙撃当時の模様は是以外に知らず」、このように証言した[38]

また別の例では、暗殺現場を間近で目撃したココツェフ蔵相が当日ただちに駐日大使に宛てて電報を次のように打っている。「…陰謀は明らかに組織的なものだった。昨晩、蔡家溝駅で我が警察はブローニング銃を持った3人の疑わしい朝鮮人たちをすでに逮捕していたという…」( В.Н. Коковцов - Н.А.Малевский-Малевичу 13 октября 1909 г. // АВПРИ, Ф. 150, Оп. 493, Д. 171, Л. 175[38]

暗殺の報道は暗号電報を受けた五十嵐秀助電信技師が、全文を受ける前に金子堅太郎に電話した。彼はただちに大磯の別荘に急ぎ梅子夫人に見舞いの言葉を述べたが、夫人は涙一つ落とさなかった。「伊藤は予てから自分は畳の上では満足な死にかたはできぬ、敷居をまたいだときから、是が永久の別れになると思ってくれ」といっていたという[39]

死後

埋葬は東京都品川区西大井六丁目の伊藤家墓所。霊廟として、山口県熊毛郡大和町束荷(現光市束荷)の伊藤公記念公園内に伊藤神社があったが、昭和34年(1959年)に近隣の束荷神社境内に遷座した。記念公園には生家(復元)や銅像、伊藤公記念館、伊藤公資料館などがあり、に混じって韓国国花ムクゲが植えられている。平成18年(2006年)5月、山口県はこの公園に隣接した山林に、森林づくり県民税で「伊藤公の森」を整備して光市に引き渡した。後に日本銀行券C千円券1963年11月1日 - 1984年11月1日発行)の肖像として採用された。

安重根は暗殺後ただちに捕縛され、共犯者の禹徳淳曹道先劉東夏の3名もまたロシア官憲に拘禁された。日本政府は安らを関東都督府地方法院に移し、明治43年(1910年)2月14日、安を死刑に、禹を懲役2年に、曹および劉を懲役1年6か月に処する判決が下された。

韓国では、2009年10月26日を「安重根が国権剥奪の元凶・伊藤博文をハルビンで狙撃した義挙から100周年に当たる」と位置付け、これに合わせ新しい記念館をソウル南山にある現在の記念館付近に建設することを計画している。

人物・業績

明治天皇との関係
4度も内閣総理大臣を務めた国家の重鎮・伊藤と明治天皇の関係は、常に良好であったわけではない。明治10年代(1877年 - 1886年)、天皇は元田永孚佐々木高行ら保守的な宮中側近らを信任したため、近代化を進める伊藤ら太政官首脳との関係は円滑でないこともあった(後年、伊藤が初代の内閣総理大臣と宮内大臣を兼ねた背景には宮中保守派を抑えるとともに、天皇に立憲君主制に対する理解を深めて貰う面があり、機務六条を天皇に提示して認めてもらっている)。また、伊藤が立憲政友会を結成する際には政党嫌いの天皇の不興を買い、その説得に苦慮したという。
しかし、明治天皇は伊藤を信頼していた。明治天皇の好みの性格は、お世辞を言わない無骨な正直者で、金銭にきれいなことだった。伊藤はこれに当てはまり、伊藤に私財のないこと[注釈 7]を知った明治天皇は、明治31年(1898年)に10万円のお手許金を伊藤に与えている。ただし、後述にもある伊藤の芸者好きに対してはほどほどにするようにと苦言を呈したこともあった。日露戦争開戦直前の御前会議当日の早朝、伊藤に即刻参内せよという勅旨が下り、伊藤が参内すると明治天皇は夜着のまま伊藤を引見し、「前もって伊藤の考えを聞いておきたい」と述べた。これに対し伊藤は「万一わが国に利あらずば、畏れながら陛下におかせられても重大なお覚悟が必要かと存じます」と奏上した。また、伊藤は天皇から「東京を離れてはならぬ」とまで命じられていた[41]
女子教育
明治19年(1886年)、当時あまり顧みられていなかった、女子教育の必要性を痛感した伊藤は、自らが創立委員長となり「女子教育奨励会創立委員会」を創設した(翌年には「女子教育奨励会」となる)。委員には、伊藤の他に実業家渋沢栄一岩崎弥之助や、東京帝国大学教授のジェムス・ディクソンらが加わり、東京女学館を創設するなど女子教育の普及に積極的に取り組んだ。また、伊藤は日本女子大学の創設者、成瀬仁蔵から女子大学設立計画への協力を求められ、これに協力した。
女子教育者であった津田梅子とは岩倉使節団で渡米のとき同じ船に乗ってからの交流があった。日本に帰ってから津田は伊藤への英語指導や通訳のため雇われて伊藤家に滞在し、伊藤の娘の家庭教師となり、また「桃夭女塾」へ英語教師として通っている。津田は明治18年(1885年)に伊藤に推薦され、学習院女学部から独立して設立された華族女学校で英語教師として教えることとなった。また、津田とは気が合ったのか、帰宅してから家庭教師の津田と国の将来について語り合っていた。伊藤からみれば津田は同じ日本人の婦人というよりは、顧問のつもりであったという[42]
暮らしぶり
衣食住には頓着しない性格で、大磯で伊藤と隣り合わせで住んでいた西園寺公望は食事に招かれても粗末なものばかりで難渋したと言い、晩年には私邸の滄浪閣を売り払って大井の恩賜館にでも隠棲しようかと梅子夫人を呆れさせてもいる。首相在任時にも自室の装飾などには無関心で、人から高価な珍品を貰っても惜しげもなく他人に贈ってしまったりしている。庭掃除とかを官邸の使用人が手抜きしても気にもかけず、そのため次の総理が伊藤と知るや、使用人一同万歳したと言われている[43]
女好き
女好きは当時から非常に有名であり、女性とよく遊ぶことから「箒」(女が掃いて捨てる程いたため)というあだ名がついた。地方に行った際には一流の芸者ではなく、二流・三流の芸者をよく指名していたという。これは、伊藤の論理によると「その土地々々の一流の芸者は、地元の有力者が後ろ盾にいる。そういう人間と揉め事を起こさないようにするには、一流ではない芸者を指名する必要がある」とのことであった。40度の高熱に浮かされている時でも両側に芸者2人をはべらせたという。柳橋の16歳の芸者りょうを大正天皇の伯父・柳原前光と後落を争い、結果、前光が囲って産まれたのが柳原白蓮である。このような様を、宮武外骨は自身が発行する一連の新聞で、好色漢の代表格としてパロディの手法を使いたびたび取り上げた。しかし実際は、伊藤にはそれほど多くの子供はできなかった。衆議院議員松本剛明はその子孫の一人である。
民族衣装
ファイル:Hirobumi Ito as Governor of Korea.jpg
韓国の民族衣装を着て記念撮影におさまる伊藤(韓国統監時代、前列左から2番目が梅子夫人)
伊藤と妻の梅子が韓国の民族衣装を着ている写真がある[44]。韓国統監として朝鮮人の衣装を身に纏った。伊藤はまた韓国皇太子・李垠を日本に招き、日本語教育を行っている。
操り人形発言
お雇い外国人であったドイツ人医師のエルヴィン・フォン・ベルツは『ベルツの日記』の中で、伊藤が会議の席上、半ば有栖川宮威仁親王の方を向き、「皇太子に生まれるのは、全く不運なことだ。生まれるが早いか、到るところで礼式の鎖にしばられ、大きくなれば、側近者の吹く笛に踊らされねばならない」と言いながら、操り人形を糸で踊らせるような身振りをして見せたことを紹介している。
通称の変遷
当初は自身の曽祖父「利八郎」と「助左衛門」から「利」と「助」をとり「利助(りすけ)」と名づけられたが「としすけ」とも読み、「としすけ」の音から「俊輔」とも書かれるようになり、そうなると今度は「しゅんすけ」と読まれることになり、その音から「春輔」とも表記され、こんどはそれが「しゅんぽ」と音読されたので、最終的に「春畝」をにしたものである。
ふぐ料理とのかかわり
古来から毒魚とされ、明治維新後も食用を禁止されていたふぐ料理を明治21年(1888年)、周囲の反対を押し切って下関にて食した際に大変気に入り、当時の山口県知事に解禁するよう語って食用・商用のきっかけをつくったと伝えられている。

嗜好

  • 関直彦 「伊藤伯もまた葉巻を好まる。嘗て余が東京日日新聞の社長たりし時、しばし伺候しては度々御厄介になりしのみか、憲法発布後その自著の憲法訳義一冊を自著して贈られたれば、その御礼に何がなと思いつつ葉巻が嗜好と気付きたれば、横浜に出向き、洋館の煙草屋にて一本一円ばかりの葉巻(専売前ゆえ、今日の二円のものより遥かに上等のもの)を二箱(五十本)を贈呈せり。その後十日ばかりを経て、再び伺候せしに、公は御機嫌にて、『関、貴公もシガーが好きらしいが、良い葉巻を一本分けてやろう、喫んで見よ』とて一本を割愛せらる。見れば先日余より贈呈したるものなるが、公は之を忘れられて、自慢せられて余に分かたれしものなりき。頭にはただ国家あるのみ、誰から何を贈られしか、そんな小事は気にも止めず、とんと忘却せらるるも誠に無理ならぬことなり。余としては進呈せしものが、公の意に叶いしを知り、大いに満足でありし」[45]

評価

立憲主義者としての評価

  • 伊藤は1882年(明治15年)から翌年にかけてドイツオーストリアイギリスなどヨーロッパ諸国を歴訪して憲法調査を行った。その際に伊藤は議会権力の弱いドイツ・オーストリア型ばかりに固執していたわけではなく、議会権力が強力なイギリス型も将来の視野に入れていた。そして1889年(明治22年)に大日本帝国憲法(明治憲法)を制定して以降、明治天皇の理解も得て数度の憲法危機を憲法停止させずに乗り超えて立憲体制を維持した。1900年(明治33年)に立憲政友会を創設した後は政党政治も推進した。西洋のドイツでさえ憲法を一度停止する事態に追い込まれていたため、憲法を一度も停止することなく立憲体制を存続させた伊藤は、イギリスはじめ西欧諸国から立憲主義・議会政治の父として高い評価を受け続けた[46]
  • 谷干城 「公は憲法制定の大功臣である。初め自由党のごときは乱暴にも主権在民的憲法論を振り回して急いで憲政を敷くことを企図したものであるが、公はこの怒涛澎湃の中を漕ぎ抜けて万事遺漏なき準備の後、明治22年に至って公の起草した憲法を発布し、欧州の憲法史に見られるような凄惨な流血の歴史を繰り返すことなく、平和円満のうちに我が国民を憲政の恩恵に浴せしめた。当時もし自由党の言う通りに行って、明治8年、9年ないし明治14年、15年の段階で憲法を発布したらどうだろう。我が国民はいまだ憲法が何であるか理解できる状況にない故にその議会政治も専らケンケンガクガクとした政客の論争で終わり、真の憲政の運用は到底実現することはなかったであろう。この点においても伊藤公は特に偉いと言わねばならない」[47]
  • 宮武外骨 「我輩は伊博(伊藤博文の略)を平凡の常人なりとは云はない、されど彼の死は世界の大損失ドコロか、日本の小損失にもあらずとするのである。(中略)明治十三四頃、國會願望者なる者全國に蜂起して東京に押寄せ、若し之を聴かずんば極端の暴動も起こるべき輿論の大勢に迫られ、餘義なく十年後を期して輿望を達せしむる事にしたのであって、在朝伊博の輩は、只其時代の要求に屈服したに過ぎないのである。斯かる輩を指して立憲の大元首と賞揚するが如きは、往事迫害を恐れずして自由民権の論を主張せし民間の志士を無視するの甚だしき者である。(中略)非命の死に同情を寄せて、死者を哀惜するのは人情の常であるから、我輩とても亦其事を非難しないが、其程度を過ごせし没理狂的の哀惜には寧ろ大反対である」(『大阪滑稽新聞』11月25日号、通巻26号)

政治家としての評価

  • 大隈重信
    • 「伊藤氏の長所は理想を立てて組織的に仕組む、特に制度法規を立てる才覚は優れていた。準備には非常な手数を要するし、道具立ては面倒であった。氏は激烈な争いをしなかった。まず勢いに促されてすると云うほうだったから敵に対しても味方に対しても態度の鮮明ならぬ事もあった。伊藤のやり口は陽気で派手で、それに政治上の功名心がどこまでも強い人であるから、人心の収攬なども中々考えていた」
    • 「専門分野の知識に偏るのではなく多方面に知識が豊富な政治家であった」
    • 「常に国家のために政治を行ふて、野心のために行はなかった」[48]
  • 犬養毅 「公は職務を行うに、賄賂を使ったことはなく、公自身もまた賄賂を要求することはなかった。公を批判する者はいれども、公の金銭に関する清廉さを非難する者はいない」
  • よく同じ長州閥の山縣有朋と対比され「含雪公(山縣)と春畝公(伊藤)ほど対照的で、且つ力量の似通った一対も珍しい」と評された。現実に両者の政治姿勢は全く違うものであったが、当人たちの仲は非常に良く、お互いの良き相談役であった。2人が長州志士の中でもきわだって貧しい出身(木戸、井上、高杉らは中下級武士とはいっても家柄のはっきりした上士であり、足軽や農民である山縣、伊藤とは当時の意識としても雲泥の差があった)であったことも重要である。
  • 尾崎行雄
    • 「山縣は面倒見が良く、一度世話したものは死ぬまで面倒を見る。結果、山縣には私党ができる。一方、伊藤はそのような事はしない。信奉者が増えるだけで是が非でも伊藤の為に働こうとする者はいなかった。しかし伊藤はそれを以て自己の誇りとしていた」[49]
    • 「伊藤伯は才子なり。才子の功労を経たるものなり稟質多血性なるがため、多情多愛にして、その嗜好する所広く且つ多し。詩文を作り、書画を好み、英語を善くし、弁論巧みに、学は即ち和漢洋の三端を窺へり。もし才芸の多少を比較すれば、世間恐らくは之が右に出るもの少なかるべし。(中略)伊藤伯の手腕は、山縣伯と比すれば頗る敏活なるべし。然れども勇断果快の資質に乏しきが故、鋭利の働きをなすあたわず。常に調和瀰縫の忙しくして、その束縛する所となる」[50]
    • 「伊藤公の人物について最も特色と見るべきことは執着心のないことである。人に対しても物に対しても。だから役人でも気に入る間は思い切って使うが、役に立たなくなると平気で棄ててしまう。あるとき身辺の者が公に向って『犬養でも星でも彼等には終身離れぬ乾分が大分ある』と話したところ、公は『俺はその反対で、乾分を作らぬということが俺の長所である』といった」[51]
    • 「経済のことは若い頃から井上候に一任して少しも研究しなかったためか、公私ともに公の経済知識はすこぶる幼稚であった」[52]
    • 「伊藤公は大変怒りっぽい人だった」[53]
    • 「伊藤のしたことに過失はあっても悪意はなく、あれくらい公平に国家のためを思えば、まず立派な政治家といってよかろう」[54]
  • 三浦梧楼
    • 「伊藤とは、俺は小僧の時からの知り合いだから、まあよく知って居るほうぢゃろう。あれはなかなか豪い奴だよ。井上がいう様に、伊藤の頭脳はあくまで組織的だ。それに欲がない。金の点に於いては大隈、伊藤は全く綺麗なものぢゃ。しかしな、欲といっても金ばかりが欲ぢゃないからのう。欲といえば、それは名誉さ。全く名誉の点に至っちゃ、伊藤は三つ四つの子供だよ。(中略)どうもその名誉欲は非常のものだった」[55]
    • 「伊藤は存外稚気があって、比較的率直だった。山縣は『俺は唯一介の武弁だ』と言った調子で、表をつまらぬもののように見せかけておった。これが二人の間の相異なる点である。ある時、郷里のものが東京に出て来て、二人の所を訪ねた。それが後にて、『山縣さんへ行くと、お取扱いが誠に親切であったが、伊藤さんは大違いで、ろくに話も聞いて下さらない』と言うから、我輩が『なるほどそれはちょっと左様見えるが、伊藤の泣く折りは、本当の涙を出すが、どうも目白(山縣)の涙は、当てにならんぜ』と言ったことだが、これは二人に対する適評だと思う」[56]
  • 関直彦 「伊藤公は官僚の巨頭」[57]

外国人の評価

  • エルヴィン・フォン・ベルツは、「韓国人が公を暗殺したことは、特に悲しむべきことである。何故かといえば、公は韓国人の最も良き友であった。日露戦争後、日本が強硬の態度を以って韓国に臨むや、意外の反抗に逢った。陰謀や日本居留民の殺傷が相次いで起こった。その時、武断派及び東京の言論機関は、高圧手段に訴うべしと絶叫したが公ひとり穏和方針を固持して動かなかった。当時、韓国の政治は、徹頭徹尾 腐敗していた。公は時宜に適し、かつ正しい改革によって、韓国人をして日本統治下に在ることが却って幸福であることを悟らせようとし、六十歳を超えた 高齢で統監という多難の職を引き受けたのである。欧州においては韓国保護について新統治の峻厳を批判する者は多い。これらの批評者は日本当局が学校を創設し、農業を改善し、鉄道を敷設し、道路を開設し、船舶や港湾を建造し、かつ日本人移民によって勤勉な農夫、熟練工たる模範を韓国民に示そうという苦心経営の事実をことごとく無視する者である。私は三度現地に赴き、実際の状況を目撃して感服した。(略) 東京で公より話を聞いた時も、公が韓国とその人民の幸福を推進するためにいかに尊敬すべき企画を持ち、いかに多大な功績をあげたかを明白に推知しえた。」と評した[58]
  • フランシス・ブリンクリーは「公を西洋の政治家と比較するに、公はビスマルクの如く武断的でなく、 平和的であったことはむしろグラッドストンに類するところである。財政の知識の豊富なところはピールに比するところであり、策略の機敏かつ大胆なところはビーコンズフィールドに似ている。公は全ての大政治家の特徴を一身に集めている如き観がある。」と評した[59]
  • 英国留学時代の学友、初代リーズデイル男爵アルジャーノン・ミットフォード(外交官)は、若き日の伊藤を評して「精悍で野性的、のようであり、冒険好き、無類に陽気な青年であった。しかし、いざ仕事となると正確で機敏、天稟が高鳴りする人物だった」と述べている。

その他の評価

  • 少年期には松下村塾に学び、吉田松陰から「才劣り、学幼し。しかし、性質は素直で華美になびかず、僕すこぶる之を愛す」と評され、「俊輔、周旋(政治)の才あり」とされた。
  • 井上馨は自身が刺客に襲われた際に駆けつけた伊藤の様子について「(伊藤は)自分の枕辺に涙をホロホロ落とした。自分は(喋ることも出来ないので)ただ手まねで、お前も危ないから一刻も早く帰ってくれと頼むようにせきたてたけれど、なかなか枕許を離れようとしなかった」と語っている。
  • 大日本帝国憲法を制定する際に担当官に対し、「新憲法を制定するに、伊藤は一法律学者であり、汝らもまた一法律学者である。それ故、我が考えが非也と思わば、どこまでも非也として意見せよ。意見を争わせることがすなわち新憲法を完全ならしめるものである」と訓示している。今よりも特権意識の強い時代の政治家としては異例の見識であるとされている。
  • 当時大磯には伊藤をはじめ、政治家の別邸が立ち並んでいたが、土地には伊藤の人柄について次のような逸話が残っている。「山縣は護衛の人が付き、陸奥は仕込み杖をもつて散歩するが、伊藤博文は、平服で一人テクテク歩き、時には着物のしりをはしょつた姿で出歩き、農家に立ち寄り話しかけ、米の値段や野菜の価格なども聞き、暮らしのことなども畑の畦に腰掛け老人相手に話すことがあった。村の農民や漁民などは伊藤を「テイショウ(大将)」と気軽に呼んで、話しかけた。」
  • これまで伊藤を攻撃していた宮武外骨も、「伊藤公の死は日本の大損失」、「明治維新の大功臣、憲法政治の大元首、古今無類の大偉人を失ひたりと嘆き」と、伊藤を高く評価した[60]
  • アジア最初の立憲体制[注釈 8]の生みの親であり、その立憲体制の上で政治家として活躍した最初の議会政治家として、西洋諸国からも高い評価を得ている[61]

言行

  • 「大いに屈する人を恐れよ、いかに剛にみゆるとも、言動に余裕と味のない人は大事をなすにたらぬ」
  • 「今日の学問は全て皆、実学である。昔の学問は十中八九までは虚学である」
  • 「いやしくも天下に一事一物を成し遂げようとすれば、命懸けのことは始終ある。依頼心を起こしてはならぬ。自力でやれ」
  • 「お前に何でも俺の志を継げよと無理は言はぬ。持って生まれた天分ならば、たとえお前が乞食になったとて、俺は決して悲しまぬ。金持ちになったとて、喜びもせぬ」
  • 「たとえここで学問をして業が成っても、自分の生国が亡びては何の為になるか」
  • 「本当の愛国心とか勇気とかいうものは、肩をそびやかしたり、目を怒らしたりするようなものではない」
  • 「国の安危存亡に関係する外交を軽々しく論じ去つて、何でも意の如く出来るが如くに思ふのは、多くは実験のない人の空論である」
  • 「われわれに歴史は無い。我々の歴史は、今ここからはじまる。」(『ベルツの日記』)

住居

記念館

銅像

1901年に伊藤博文の還暦祝賀会招待者たちが銅像建設を決めたが、出来が悪かったため作り直すなどして大分遅れ、1904年10月22日に神戸の湊川神社に伊藤博文の銅像が建てられ除幕式が行われたが、伊藤がまだ存命であったのに像が立てられたことや、本来この神社に祭られている楠木正成より目立っている[注釈 9]ことが4日後の読売新聞で「嗚呼醜臣軟猿乃図」という挿絵入りの揶揄した風刺記事が載せられる。

この時は揶揄の範囲であったが、日露戦争後の1905年9月7日、講和条約の内容に不満を持った人たちが大黒座で演説会を開いていた所、湊川神社まであふれていた気のたった人達が、工具を持ち込み像の頭を叩いたり鎖(像の周囲にあったものが切断されていた)を巻き付けて引っ張るなど像を倒そうとしている3人の男を見て感化され、いつの間にか集まった数十人で像を文字通り引き倒すと百余名ほどいた群衆たちは面白がって像を引きずり回して暴徒と化し、通り道の派出所を破壊して回った[注釈 10]。最終的に警官隊によって群衆が追い払われ像が回収された時には、銅像は「鼻がすりむけ、顔に3か所の穴、頭部はくぼんで全身に打撲傷多数の上、頭に小便をかけられていた。」という[62]。像本体以外も周囲の物で前述の鎖の切断、柵の杭になっていた石柱も抜かれて壊され、発起者名版も潰されているという破損であった[63]

なお、その後銅像は警官隊が騒動の翌朝、検疫所に使っていた操江に運ばれ、以後数年間表に出ないまま本人が暗殺されてしまい、これを機に伊藤の評価も同情的なものに変わったことで、修繕したうえ[注釈 11]で神戸市諏訪山公園に再建するべく、1910年2月4日から寄付金を集めたが、実際は1911年10月26日に諏訪山ではなく大倉山[注釈 12]、補修ではなく新造で再建された[注釈 13][64]

栄典

位階
勲章等
外国勲章佩用允許

系譜

林氏(伊藤氏)
林氏は本姓越智河野氏の支流といわれる。家紋はもと「折敷に三文字」だが、伊藤姓に改姓以後「上がり藤」を用いた。
博文自身の語るところ[注釈 14]によれば、「先祖は河野通有の裔で、淡路ヶ峠城主の林淡路守通起である」という。また「実家は周防国熊毛郡束荷村の農家で、博文の祖父林助左衛門は、林家の本家林利八郎養子となり本家を継いだ。林助左衛門の子十蔵萩藩の蔵元付中間水井武兵衛の養子となり「水井十蔵」と名乗るが、安政元年(1854年)に水井武兵衛が周防国佐波郡相畑の足軽で藤原姓を称する伊藤弥右衛門の養子となり、伊藤直右衛門と名を改めたため、十蔵も伊藤氏を称した[注釈 15]」という。十蔵の長男が博文である。博文の跡は養子の博邦(盟友井上馨の甥)が継いだ[82]。束荷村に嘗てあった林氏の菩提寺林照寺は、元真言宗寺院吉祥院であったが、江戸時代初めに林淡路守通起の菩提寺となり、浄土真宗に改宗して林照寺と改めた。明治維新後、廃寺となる[83][84]
伊藤家
本姓藤原氏を称する。早川隆の著書『日本の上流社会と閨閥』によれば「もともと伊藤の家は水呑み百姓で父親十蔵は馬車ひきなどをしていたが食い詰めて長州藩の伊藤という中間の家に下僕として住み込んでいるうちに子供のない同家の養子になり伊藤を名乗った。博文は幼名を利助といい捨て子だったという説もある。それが武士のはしくれから明治の指導者に出世すると家系が気になりだしたのか孝霊天皇の息子伊予皇子の三男小千王子が祖先とか、河野通有の子孫とか言い出した。系図屋に、りっぱな系図を作らせるのは今も昔もよくある話で、とがめ立てするほどのこともあるまいが、偉くなってからの彼は故郷へはほとんど帰らなかった。昔の素性を知るものには頭が上がらないからである。だが、身分が低かろうが実力さえあれば偉くなれるという混乱期の日本を象徴するように首相、政党総裁、枢密院議長、公爵と位人臣(くらいじんしん)を極めた伊藤の生涯は、いわば明治版太閤記である」としている[85]。伊藤家の菩提寺は萩市津守町の浄土宗心徳院報恩寺[86][87]

家族・親族

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毎日新報に掲載された写真。左端で腰掛けているのが安俊生、右端で腰掛けているのが文吉である。

関連作品

書籍
  • 浅野豊美 『帝国日本の植民地法制 法域統合と帝国秩序』 名古屋大学出版会、2008年2月。ISBN 978-4-8158-0585-2。
  • 『実録首相列伝 国を担った男達の本懐と蹉跌』 学習研究社編集部編、学習研究社〈歴史群像シリーズ 70号〉、2003年7月。ISBN 4-05-603151-7。
    • 『実録首相列伝 国を担った男達の本懐と蹉跌』 学習研究社編集部編、学習研究社〈学研M文庫〉、2006年9月。ISBN 4-05-901189-4。 - 2003年刊の増訂版。
  • 高松宮宣仁親王著・嶋中鵬二発行人 『高松宮日記 第二巻 昭和八年一月一日~昭和十二年九月二十六日』 中央公論社、1995年6月。
  • 早川隆 『日本の上流社会と閨閥』 角川書店、1983年9月、211-215頁。ISBN 978-4-04-820001-1。
  • 『伊藤博文文書』全36巻、檜山幸夫総編集、伊藤博文文書研究会監修、ゆまに書房、2007-2010年。ISBN 978-4-8433-2294-9,ISBN 978-4-8433-2295-6,ISBN 978-4-8433-2296-3,ISBN 978-4-8433-2297-0,ISBN 978-4-8433-2520-9。
  • 『日本の名家・名門 人物系譜総覧』 新人物往来社〈別冊歴史読本57、第28巻26号〉、2003年9月、226-227頁。ISBN 4-404-03057-6。
  • 人事興信所編『人事興信録 第14版 下巻』人事興信所、1943年。
  • 霞会館華族家系大成編輯委員会編『平成新修旧華族家系大成 上巻』吉川弘文館、1996年。
伝記
  • 伊藤博文 『伊藤博文直話 暗殺直前まで語り下ろした幕末明治回顧録』 新人物往来社編、新人物往来社〈新人物文庫〉、2010年4月。ISBN 978-4-404-03839-5。 - 唯一の回顧記の復刻。
  • 佐々木隆 『伊藤博文の情報戦略 藩閥政治家たちの攻防』 中央公論新社〈中公新書〉、1999年7月。ISBN 4-12-101483-9。
映画
テレビドラマ

脚注

注釈

  1. 塙忠宝の子・塙忠韶は明治維新後政府から召しだされ大学少助教に任ぜられ、文部小助教、租税寮十二等出仕、修史局御用掛へと一旧幕臣でありながらと異例の出世を経験した。これについて小説家の司馬遼太郎は、伊藤が後年自責の念から忠宝を礼遇したのではないかと推測している[3]
  2. 引用内は西洋歴(新暦)。
  3. 伊藤はロシアと戦うことに対しては終始慎重な態度をとり続け、「恐露病」と揶揄されることさえあった。伊藤が自らロシア入りして日露提携の道を探ったことが、逆にロシアとのあいだでグレート・ゲームを繰り広げていたイギリスを刺激する結果となり、日英同盟締結へとつながったことはよく知られている。[16]
  4. 金子がそのような重大な使命は果たせないと固辞すると、伊藤は「ロシアが九州海岸へ来襲すれば自分も武器をとって戦う覚悟だ」と説き、金子はその気迫に感銘を受けて渡米を決意したといわれる。[17]
  5. 韓国側では乙巳保護条約と呼ぶ。
  6. 広義の日本統治時代として韓国併合時代の35年と保護国時代の5年をひとつながりでとらえることもある。
  7. 私的蓄財はほとんどないとされていた伊藤だが、実は公債だけで14万円(2009年換算で約28億円)も溜め込んでいたことが明らかになっている[40]
  8. 1876年発布のオスマン帝国憲法(ミドハト憲法)は大日本帝国憲法より13年早いが、2年後の1878年から1908年まで停止しており、また現在のトルコ共和国政府はトルコをヨーロッパの国であるとみなしている。
  9. 後述の「嗚呼醜臣軟猿乃図」では皇族である有栖川宮大将の像でさえ、楠木正成の像がある宮城前には立てなかったという主張がある。
  10. なお、この事件の起こる2日前に東京でも日露戦争講和条約の内容に不満を持った人たちによる日比谷焼き討ち事件が起きている。神戸の場合主に被害に遭ったのは前述の銅像関係と有馬筋・西門筋・福原口の3か所の派出所。
  11. 前述の破損状況は『神戸新聞』1905年9月9日付けの説明なのだが、1909年12月6日付の同紙では前回と異なり「顔には別段異常はなく、後頭部は摩擦痕はあるが台座を高めにすれば目立たない、服のボタンやポケット付近に目立つ損傷があるがすぐに直せる範囲。」としている。
  12. 所有地寄付の申し出があったため
  13. なお、引きずり回しにされた方の銅像は知人の服部一三がしばらく庭に置き、彼の死後の1930年に山口県萩市の伊藤旧宅隣に寄付されるが戦争中の金属供出に出され現存しない。
  14. 明治42年(1909年)松山での講演会での発言。
  15. 『海南新聞』1909年明治42年)3月18日号の記事によると、同年3月16日松山道後を訪れた伊藤博文は、歓迎会演説の中で自らの出自に就いて 「予ノ祖先ハ當國ヨリ出デタル者ニテ、伊予ニハ予ト同シク河野氏ノ末流多シト存スルガ、予ノ祖先ハ300年以前ニ於テ敗戰ノ結果、河野一族ノ滅亡ト共ニ中國ヘ移リタル者テ「通起(みちおき)」ト称シ慶長16年(1609年)5月26日ニ死歿シタルガ故ニ、明年ニテ恰モ300年ニ相当ス。彼ハ「林淡路守通起」ト称シ、予ハ其レヨリ第11代目ニ當レリ。「通起」ハ敗戰ノ後、毛利氏ヲ頼リタルモ、毛利氏モ當敗軍ニ属シ、頗ル艱難ヲ極メタル時ナルカ故ニ、遂ニ村落ニ埋歿シ落魄シテ、眞ニ僻遠ナルカ寒村ニ居住シ、其裔孫此処ニ存続シテ、今ヤ一族60餘軒ヲ算スルニ至レリ。予モ即チ其一人ニシテ、明年ヲ以テ齢70ニ達スルガ故ニ、恰モ周防ニ移リタル通起ノ歿後230年ニ出生シタルモノナリ。予カ父母ニ擁セラレテ萩ノ城下ニ出デタルハ僅ニ8歳ノ時ニシテ、爾来幾多ノ変遷ヲ経テ、今日ニ及ベリ。近來家系ノ事ニツイテ當國ノ諸君ガ頗ル調査ニ盡力セラレタル結果、周防移住以前ノ事蹟、大ニ明確ト成リタレハ、明年ハ周防ニオイテ親族ヲ参集シ、通起ノ為ニ300回忌ノ法要ヲ營ム心算ナリ。今次當地ニ於テハ、諸君ガ頗ル厚意ヲ以テ來遊ヲ歓迎セラレタルハ、右ノ縁故ニ基クモノトシテ、予ハ殊更ニ諸君ニ対シテ感謝ノ意ヲ表スル次第ナリ。顧フニ古來成敗ノ蹟ニ就テ考フレハ、予ガ祖先ハ當國ヨリ出デタルモノナレバ、當國ハ即チ祖先ノ故郷ナリ。今ヤ祖先ノ故郷ヘ歸リ來リテ斯クノ如ク熱誠ナル諸君ノ歓迎ヲ受ク。胸中萬感ヲ惹カザルヲ得ズ。加之、本日ハ諸君ガ我過失ヲ論ゼズシテ、唯々微功ヲ録セラレタルニ至テハ、深ク諸君ノ厚意ヲ心ニ銘シテ忘却セズ」と発言している。

出典

  1. 伊藤之雄 (2009, pp. 22 - 25)
  2. 『吉田松陰全集 第12巻』
  3. 司馬遼太郎「死んでも死なぬ」『幕末』収録より
  4. 伊藤之雄 (2009, pp. 22 - 25)、瀧井一博 (2010, pp. 3 - 5)
  5. 伊藤之雄 (2009, pp. 25 - 45)、瀧井一博 (2010, pp. 7 - 12)
  6. 伊藤之雄 (2009, pp. 45 - 71)
  7. Lanman, Charles (1872). The Japanese in America, 13-15. 
  8. 朝日新聞 2008年6月3日付記事
  9. 伊藤之雄 (2009, pp. 74 - 141)、瀧井一博 (2010, pp. 18 - 48)
  10. 瀧井一博 (2010, pp. 75, 375)
  11. 伊藤之雄 (2009, pp. 161 - 201)、瀧井一博 (2010, pp. 55 - 66, 75 - 77)
  12. 伊藤之雄 (2009, pp. 201 - 208, 217 - 229)、瀧井一博 (2010, pp. 66 - 84)
  13. 伊藤之雄 (2009, pp. 295 - 298)、瀧井一博 (2010, pp. 92 - 103, 119)
  14. 伊藤之雄 (2009, pp. 309 - 373)
  15. 伊藤之雄 (2009, pp. 393 - 405, 416 - 426, 434 - 457)、瀧井一博 (2010, pp. 120 - 129, 167 - 203)
  16. 黒岩比佐子『日露戦争 勝利のあとの誤算』文藝春秋<文春新書>、2005年10月。ISBN 4-16-660473-2、10頁
  17. 猪木正道『軍国日本の興亡』中央公論社<中公新書>、1995年3月。ISBN 4-12-101232-1、36頁
  18. 黒岩比佐子 (2005, pp. 9 - 10)
  19. 猪木正道 (1995, pp. 56 - 62)
  20. 伊藤之雄 (2009, pp. 458 - 495)
  21. 『伊藤博文と韓国併合』 青木書店
  22. 2010年8月22日放送 7:00-7:45 NHK総合
  23. 韓国併合 伊藤博文のメモ見つかる 2010年8月22日 NHKニュース・オンライン。
  24. 『伊藤博文演説集』〜普通教育に従事する日本人教師への訓諭〜(講談社学術文庫)
  25. 『伊藤博文演説集』(講談社学術文庫)
  26. 26.0 26.1 小島毅『歴史を動かす―東アジアのなかの日本史』亜紀書房、2011/8/2、ISBN 978-4750511153、p62-p63
  27. 伊藤博文伝 春畝公追頌会
  28. 『伊藤博文伝』下巻p702
  29. 『伊藤博文演説集』(講談社学術文庫)
  30. 『ひと目でわかる「日韓併合」時代の真実』(PHP出版社)
  31. 『ひと目でわかる「日韓併合」時代の真実』(PHP出版社)
  32. 『実録 首相列伝』学研
  33. 『親日派のための弁明』ISBN 4-594-04845-5
  34. 伊藤之雄 (2009, pp. 564 - 576)
  35. #高松宮日記2巻263-264頁『六月九日(略)東京での話で、武藤氏の暗殺は刺客をまたその場で殺した人があるのださうだ。刺客の頭の弾丸ハ「ピストル」が異る弾丸ださうだ。その黒幕はまだ不明とか。ほんとに世の中がメンドウになる。そしたらハルピンの伊藤侯の殺されたのも、安重根ではなく、その時は弾丸とピストルを比べなかつたから、どうも近くの二階窓から打つたらしいと云ふ(その時ゐた人の話で疑つてゐるとのこと)。』
  36. 上垣外憲一『暗殺・伊藤博文』ちくま新書、2000年、大野芳『伊藤博文暗殺事件 闇に葬られた真犯人』新潮社、2003年、海野福寿『伊藤博文と韓国併合』青木書店、2004年
  37. 口述筆記の自叙伝『室田義文翁譚』(共編: 田谷広吉山野辺義智、常陽明治記念会東京支部、1938年)
  38. 38.0 38.1 麻田雅文 『日露関係から見た伊藤博文暗殺 ― 両国関係の危機と克服』 東北大学機関リポジトリ、2012年http://ir.library.tohoku.ac.jp/re/bitstream/10097/53686/1/1343-9332-2012-16-1.pdf 
  39. 松村正義 (2014)
  40. 伊藤之雄 (2009, pp. 412 - 413)
  41. 以上引用『実録 首相列伝』学研より。
  42. 大庭みな子『津田梅子』朝日文芸文庫、朝日新聞社、ISBN 4-02-264013-8
  43. 御厨貴編 『歴代首相物語』新書館、ISBN 4-403-25067-X (伊藤の項目は坂本一登が執筆)
  44. 扶桑社刊の『新しい歴史教科書』と小学館刊の『21世紀子ども百科 歴史館』に所収。
  45. 『七十七年の回顧』
  46. 伊藤之雄 2009, p. 581-583.
  47. 春畝公追頌会(編) 2004, p. 894-895.
  48. 春畝公追頌会(編) 2004, p. 888-891.
  49. 尾崎行雄『近代快傑録』(千倉書房、1934年/中公クラシックス、2014年)p.55
  50. 尾崎行雄『内治外交』
  51. 尾崎行雄『咢堂放談』
  52. 尾崎行雄『咢堂放談』
  53. 尾崎行雄『咢堂放談』
  54. ジョージ・アキタ著・荒井孝太郎、坂野潤治訳『明治立憲政と伊藤博文』、東京大学出版会、1971年、292頁。
  55. 『観樹将軍豪快録』
  56. 『観樹将軍縦横談』
  57. 『七十七年の回顧』
  58. 春畝公追頌会(編) 2004, p. 921.
  59. 春畝公追頌会(編) 2004, p. 917.
  60. 木本至『評傳宮武外骨』、社会思想社、1984年、290頁。
  61. 鳥海靖「伊藤博文」『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞出版伊藤之雄 (2009, pp. 582 - 583)
  62. 平瀬礼太、「民衆が市中引き回し、のちに再建「伊藤博文像」」(銅像はつらいよ十選 1)、日本経済新聞、2013年12月13日
  63. 平瀬礼太『銅像受難の時代』吉川弘文館、2011年、P106-108。
  64. 平瀬礼太『銅像受難の時代』吉川弘文館、2011年、P108-109・112-119。
  65. 65.00 65.01 65.02 65.03 65.04 65.05 65.06 65.07 65.08 65.09 65.10 65.11 65.12 65.13 65.14 65.15 65.16 65.17 65.18 65.19 65.20 65.21 65.22 65.23 65.24 65.25 65.26 65.27 65.28 65.29 65.30 65.31 65.32 65.33 65.34 65.35 65.36 65.37 65.38 65.39 65.40 65.41 65.42 65.43 伊藤博文』 アジア歴史資料センター Ref.A06051170400 
  66. 『太政官日誌』 明治7年 第1-63号 コマ番号109
  67. 『官報』第993号「叙任及辞令」1886年10月20日。
  68. 『官報』第3746号「叙任及辞令」1895年12月21日。
  69. 『官報』第7905号「叙任及辞令」1909年10月28日。
  70. 『官報』第307号「叙任及辞令」1884年7月8日。
  71. 『官報』第1683号「叙任及辞令」1889年2月12日。
  72. 『官報』号外「詔勅」1889年11月1日。
  73. 『官報』第1928号「叙任及辞令」1889年11月30日。
  74. 『官報』第3631号「叙任及辞令」1895年8月6日。
  75. 『官報』第3632号「叙任及辞令」1895年8月7日。
  76. 『官報』号外「詔勅」1898年6月30日。
  77. 『官報』号外「叙任及辞令」1907年1月28日。
  78. 『官報』第7272号「授爵・叙任及辞令」1907年9月23日。
  79. 『官報』第68号「賞勲敍任」1883年9月18日。p.2
  80. 『官報』第569号「賞勲」1885年5月27日。
  81. 『官報』第1152号「叙任及辞令」1887年5月5日。
  82. 『日本の名家・名門 人物系譜総覧』 226、227頁
  83. 指定文化財光市/指定文化財
  84. 木造阿弥陀如来坐像 - 文化財要録山口県/社会教育・文化財課/山口県の文化財
  85. 同書211、214頁
  86. 萩の伊藤家墓碑修復 13日お披露目式山口新聞 2009年9月12日(土)掲載
  87. 伊藤博文公先祖の墓碑萩博物館
  88. 88.0 88.1 88.2 88.3 88.4 88.5 88.6 霞会館、P167。
  89. 伊藤之雄 (2009, pp. 56 - 59)
  90. 『明治美人伝』長谷川時雨
  91. 伊藤之雄 (2009, pp. 58 - 59)
  92. 伊藤之雄 (2009, pp. 62 - 63, 88)
  93. 93.0 93.1 霞会館、P768。
  94. 94.0 94.1 94.2 94.3 94.4 94.5 人事興信所、フ42。
  95. 聯合ニュース 2009年10月21日付(朝鮮語)
  96. 毎日新報」1939年10月18日付より。
  97. 伊藤之雄 (2009, pp. 378)

参考文献

  • 『伊藤博文伝』上・中・下巻、春畝公追頌会編、春畝公追頌会、1940年。
    • 『伊藤博文伝』上・中・下巻、春畝公追頌会編、原書房〈明治百年史叢書〉、1970年。 - 上記刊の複製本。
      • 春畝公追頌会(編) 『伊藤博文伝(下)』 原書房〈明治百年史叢書145巻〉、2004年(平成16年)。ISBN 978-4562100460。
  • 春畝公追頌会(編) 『伊藤博文伝(下)』 原書房〈明治百年史叢書145巻〉、2004年(平成16年)。ISBN 978-4562100460。
  • 伊藤之雄 『伊藤博文 近代日本を創った男』 講談社、2009年11月。ISBN 978-4-06-215909-8。
  • 瀧井一博 『伊藤博文 知の政治家』 中央公論新社〈中公新書〉、2010年4月。ISBN 978-4-12-102051-2。
  • 松村正義 『金子堅太郎 槍を立てて登城する人物になる』 ミネルヴァ書房、2014年1月、204-206頁。ISBN 978-4-623-06962-0。

関連項目

外部リンク

公職
先代:
創設
松方正義
松方正義
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初代:1885年 - 1888年
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初代:1888年 - 1889年
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大木喬任
山縣有朋
山縣有朋
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次代:
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初代:1885年 - 1887年
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第3代:1884年 - 1885年
次代:
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大久保利通
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第4代:1874年
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