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{{台風 | name=伊勢湾台風
 
| category=cat5
 
| type=super typhoon
 
| image location=Typhoon Vera analysis 23 Sep 1959.png
 
| image name=伊勢湾台風
 
| kikan=[[1959年]][[9月21日]] 21:00<br /> - [[9月27日]] 21:00
 
| jumyo=6日0時間
 
| fusoku=75 m/s
 
| fusoku2=165 knot<ref name="JTWCRep"/>(約 85 m/s)
 
| kiatsu=895 hPa
 
| higaigaku=
 
| shishasu=死者 4,697名<br />行方不明者 401名<br />負傷者 38,921名
 
| area=[[日本]](九州を除く)<!-- 理科年表を参考 -->
 
}}
 
  
'''伊勢湾台風'''(いせわんたいふう、[[昭和]]34年台風第15号、国際名:ヴェラ〔Vera〕)は、[[1959年]](昭和34年)[[9月26日]]に[[潮岬]]に上陸し、[[紀伊半島]]から[[東海地方]]を中心とし、ほぼ全国にわたって甚大な被害を及ぼした[[台風]]である。伊勢湾沿岸の愛知県・三重県の被害が特に甚大であり、「伊勢湾台風」と呼ばれることとなった。
 
  
== 概要 ==
+
'''伊勢湾台風'''(いせわんたいふう、[[昭和]]34年台風第15号、国際名:ヴェラ〔Vera〕)
[[ファイル:Typhoon Vera 1959 CBC Location.jpg|thumb|被災地を取材するCBC(中部日本放送)のテレビニュース班]]
 
人的被害は、[[紀伊半島]]の[[和歌山県]]、[[奈良県]]、[[伊勢湾]]沿岸の[[三重県]]、[[愛知県]]、[[日本アルプス]]寄りの[[岐阜県]]を中心に犠牲者5,098人(死者4,697人・行方不明者401人)・負傷者38,921人(「[[消防白書]]」平成20年度版)<ref>{{Cite web |url=http://www.quake-learning.pref.aichi.jp/isewan50/about/index.html |title=伊勢湾台風概要 |accessdate=2017-10-22 |date=2009-7-8 |work=伊勢湾台風50年事業実行委員会公式サイト |publisher=愛知県庁 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090708061221/http://www.quake-learning.pref.aichi.jp/isewan50/about/index.html |archivedate=2009-7-8 }}</ref><ref>伊勢湾台風の犠牲者数(死者・行方不明者合計数)については、消防白書の「5,098人」以外にも、「5,041人」「5,101人」と、計3種の数字が発表されている。</ref>にのぼり、さらにほぼ全国に及んだ経済的被害は破格の規模となり、明治維新以来最大の被害を出した台風である。犠牲者を3,000人以上出した台風として、[[室戸台風]]、[[枕崎台風]]とあわせて'''昭和の[[日本三大一覧#その他、自然|三大台風]]'''に挙げられ、その中でも最悪の被害をもたらした<ref group="注">これらのうち、室戸台風は戦前に発生した台風である。</ref>。伊勢湾台風での犠牲者の数は、[[1995年]][[1月17日]]に[[兵庫県南部地震]]([[阪神・淡路大震災]])が発生するまで、第二次世界大戦後の[[自然災害]]で最多のものだった。
 
  
ほぼ全国に及んだ経済的被害は人的被害以上の規模となり、[[GDP]]比被害額は[[阪神・淡路大震災]]の数倍、[[関東大震災]]に匹敵し、[[東日本大震災]]との比較対象に達するものであった。
+
愛知県と三重県を中心に[[高潮]]で,全国的には暴風で多大の被害を与えた 1959年の[[台風]]第15号。9月26日午後6時頃,和歌山県[[潮岬]]の西に上陸し,奈良県と三重県の県境を通り,約 6時間で本土を横断,富山市の東方で日本海に出た。その後衰えながら北上し,27日朝には秋田県の西方海上,次いで青森県八戸沖へ,27日午後3時に根室市の南海上へ進み,さらに東進して[[温帯低気圧]]となった。潮岬通過時の最低気圧は 929.5hPaで,本州で観測された最も低い気圧である。上陸時,風速 25m/s以上の暴風域の直径は 500kmに及んだ。愛知県[[伊良湖岬]]では最大風速 45.4m/s(最大瞬間風速 55.3m/s)を記録。期間降水量の最も多かったのは紀伊半島の南部山岳地帯で 300~600mm,東海地方,山陰地方東部,四国地方東部で 200~300mm。台風による被害は三重県と愛知県をはじめとする中国地方以東の 39都道府県に及び,死者 4697人,行方不明者 401人,負傷者 3万8921人,住家全半壊 83万3965棟,床上・床下浸水 36万3611棟。特に伊勢湾沿岸では高潮が平均潮位より 3.9m高くなり,木曽川河口部一帯に浸水,三重県桑名市から名古屋市西部にかけた一帯は泥海と化し,都市機能はまったくの麻痺状態に陥った。この台風は,高度成長下の無秩序な土地造成と[[ゼロメートル地帯]]の水防について,2年後の 1961年に国の防災対策の基本法律である[[災害対策基本法]]が制定される契機となった。
 
+
人的・経済的被害の規模の大きさから、明治維新以後で最大級の[[自然災害]]の一つである。
+
{{テンプレート:20180815sk}}
 
 
災害対策について定めた[[災害対策基本法]]は、この伊勢湾台風を教訓として成立したものである。また、[[2013年]]に運用を開始した[[特別警報]]も、台風については伊勢湾台風クラスを基準としている<ref name="jmafaq">{{Cite web |url=http://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/faq/faq28.html |title=よくある質問集 > 特別警報について |accessdate=2015-9-12 |date=2015-9-12 |work=気象庁}}</ref>。
 
 
 
== 発生から消滅までの経過 ==
 
[[ファイル:Vera 1959 track.png|250px|thumb|伊勢湾台風の進路]]
 
1959年(昭和34年)9月20日に[[エニウェトク島]]付近で 1,008 [[バール (単位)|mb]](当時の単位「ミリバール」。[[ヘクトパスカル|hPa]] に同じ)の弱い[[熱帯低気圧]](当時の用語)が発生、西に進み、21日には[[サイパン島]]の東を北上しながら次第に発達し、21日21時には 1002 mb の台風第15号となって、再び西寄りに進路を変えて急激に発達した。9月22日9時には 996 mb であったものが同日15時には 970 mb 、翌23日9時には 905 mb となり、22日9時からの24時間で 91 mb も気圧が降下した。発達はさらに続き、23日15時には[[アメリカ軍]]の気象観測飛行機により 894 mb が観測された。中心付近の最大[[風速]]は 75 [[メートル毎秒|m/s]](アメリカ軍の観測では 90 m/s)、風速 25 m/s 以上の暴風雨圏([[暴風域]]に同じ)は半径 300 [[キロメートル|km]] であった。
 
 
 
台風第15号はその後も余り衰えることなく、9月25日昼頃まで 900 mb 前後の猛烈な勢力を保ち、進路を北西から次第に北に転じて26日9時には[[潮岬]]の南南西 400 km に達したが、その時でもなお中心気圧 920 mb 、最大風速 60 m/s 、暴風雨圏は東側 400 km 、西側 300 km という、猛烈で超大型の台風であった。
 
 
 
台風は26日18時過ぎ、930 mb の勢力を持って潮岬の西 15 km 付近に上陸した。26日朝までの進行速度は毎時 30 km 以下であったが次第に加速して、上陸後は 60 - 70 km で[[紀伊半島]]を縦断し、[[中央高地]]を経て27日0時過ぎに[[日本海]]に抜けた頃には 90 km にも達している。27日9時前後に秋田沖に進んだ中心は次第に消滅し、[[青森県]]の日本海上に新たな中心が生じて東北東進する「[[ジャンプ現象]]」を起こした。
 
 
 
台風は同日21時に[[北海道]]の東で[[温帯低気圧]]に変わり、東[[太平洋]]にまで達して10月2日に消滅した。[[伊勢湾]]岸の[[高潮]]による大災害から、9月30日、[[気象庁]]により'''伊勢湾台風'''と命名された。
 
 
 
アメリカ海軍のレポートによれば、中心付近の最大風速は165[[ノット]](約 84.9 m/s)を記録している<ref name="JTWCRep">{{Cite web |url=http://www.npmoc.navy.mil/jtwc/atcr/1959atcr/pdf/wnp/39.pdf |title=JTWC Report |accessdate=2017-10-22 |date=2004-10-19 |work=[[JTWC]] |format=PDF |language=english |page=p11 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20060928125858/http://www.npmoc.navy.mil:80/jtwc/atcr/1959atcr/pdf/wnp/39.pdf |archivedate=2006-9-28 }}</ref>。
 
 
 
{{気象庁命名台風}}
 
 
 
== 観測値 ==
 
* 最低気圧
 
** [[潮岬]] 929.2 mb :26日18時13分
 
** [[尾鷲市|尾鷲]] 939.4 mb :26日19時40分
 
** [[津市|津]] 944.4 mb :26日20時37分
 
** [[伊賀市|上野]] 946.3 mb :26日20時33分
 
** [[彦根市|彦根]] 949.2 mb :26日21時25分
 
* 最大風速 - ( )は最大瞬間風速
 
** [[伊良湖岬|伊良湖]] 45.4 m/s:26日20時45分 (55.3 m/s)
 
** [[洲本市|洲本]] 42.3 m/s:26日18時30分 (49.2 m/s)
 
** [[名古屋市|名古屋]] 37.0 m/s:26日22時00分 (45.7 m/s)
 
** [[津市|津]] 36.8 m/s:26日19時35分 (51.3 m/s)
 
** [[舞鶴市|舞鶴]] 36.5 m/s:26日20時40分 (51.1 m/s)
 
; 特記事項
 
[[1964年]](昭和39年)に、それまで用いていた[[気圧計]]が実際より 0.25 mb 高い誤差であることがわかり、[[1970年代]]には過去のデータの修正が行なわれたため、当初、929.5 mb とされた伊勢湾台風の記録は現行の通り改められたほか、室戸台風の最低気圧 911.9 mb も 911.6 mb に変更されるなど、古い資料を利用するに当たっては注意が必要である。
 
 
 
{{台風の中心気圧 (上陸時)}}
 
 
 
== 特徴と気象官署の対応 ==
 
=== 特徴 ===
 
; 急速に猛烈な台風に発達し、勢力が衰えないまま日本本土を直撃
 
: アメリカ軍の飛行機観測により、台風の中心気圧が正確に実測されていた[[1950年]](昭和25年)から[[1987年]](昭和62年)までの資料によれば、年平均1.3個弱の台風が、900mb以下に発達するが、いずれも海水温の高い北緯20度付近で、日本からは遠く離れた場所であり、日本付近に来た時には、950mb程度に衰弱している場合がほとんどである。
 
: 伊勢湾台風は発生後2日足らずで猛烈な台風に成長し、最低気圧観測の3日後に上陸した時にも929.2mbという、日本本土では史上3番目に低い気圧を観測するほどの勢力を保ち、紀伊半島や中部地方の急峻な山岳地帯を通過しても衰弱の度合いが小さく、暴風や高潮の被害を大きくする原因となった。記録的な風台風とされた[[1991年]](平成3年)の[[平成3年台風第19号|台風第19号]]では、最大風速 30 m/s 以上を観測した気象官署はわずか4箇所に過ぎなかったが、伊勢湾台風では9箇所もあり、40 m/s 以上も2箇所あった(台風第19号ではなし)。
 
; 非常に規模が大きい超大型の台風
 
: 伊勢湾台風以前の記録的な猛台風であった[[1934年]](昭和9年)[[9月21日]]の[[室戸台風]]と比較すると、上陸時の気圧は室戸台風が 911.6 mb でかなり低いが、最盛期における最も外側の閉じた[[等圧線]]の直径は室戸台風がおよそ 2,000 km であるのに対し、伊勢湾台風はおよそ 2,500 kmに及び、 暴風域も非常に広く、北日本と西日本の一部を除いて全国的に最大風速 20 m/s 以上を記録した。
 
; 典型的な[[放物線]]形の経路を取り、進路予想がほぼ正確
 
: この年の台風第14号([[宮古島台風]])も同様であったが、伊勢湾台風もほとんど蛇行せず、進路を急変することもなく、予報通りの経路をたどって上陸した。当時の台風の進路予報は予報円ではなく扇形を用いていたが、発生から上陸して本州東方海上に抜けるまでの経路はすべて扇形の範囲内に収まっており、予報がうまく当ったことを示している。なお、[[2009年]](平成21年)に名古屋地方気象台が作成したパンフレット『第二の伊勢湾台風に備えて』によれば、現在の予報技術を当時生かすことができれば、進路・暴風域・さらに高潮の数値もほぼ予測できていたとしている<ref>{{Cite book|和書 |title=第二の伊勢湾台風に備えて |origdate=2009-05-15 |url=http://www.jma-net.go.jp/nagoya/hp/asl/panf01.pdf |format=PDF |accessdate=2009-10-04 |publisher=名古屋地方気象台 }}</ref>。
 
 
 
=== 気象台・気象庁の対応 ===
 
台風第15号は早くから超大型の台風として日本本土をうかがっていたので、気象官署の対応も早期に実施された。
 
 
 
名古屋地方[[気象台]]は9月25日に海上強風警報を発令、同日に行われた予報検討会では以下の事項を決定した。
 
*[[秋雨前線]]による大雨が予想されるため、25日17時までに大雨注意報を発令する。
 
*台風情報第1号は、[[ラジオ]]・[[テレビ]]の聴取率・視聴率が最も高い(25日)19時のニュースに間に合うよう発表する。
 
*翌26日は土曜日で、官公庁などが午後から休みになるため(当時、週休2日制はなかった。いわゆる[[半ドン]])警報発令は午前中に行なうこと。
 
*同じく、名古屋市内の関係機関・報道機関には26日午前中の早い時間に説明会を開催する。
 
 
 
[[気象庁]]においても、25日午後に建設省・運輸省(いずれも当時の名称)・消防庁・報道関係などに対する説明会を持った。
 
 
 
こうした経緯に沿って、[[愛知県]]では26日11時15分に、[[三重県]]でも11時30分に暴風雨・波浪・高潮の各[[気象警報|警報]]が発令され、厳戒態勢に入ったが、それでも、気象観測始まって以来の大災害が引き起こされた。
 
 
 
== 被害状況 ==
 
[[ファイル:Seawall damage Typhoon Vera 1959.jpg|thumb|破壊された堤防]]
 
全国被害状況集計において、犠牲者5,098人(死者4,697人・行方不明者401人)、うち[[愛知県]]で3,351人(うち[[名古屋市]]1,909人)、[[三重県]]1,211人{{Refn|group="注"|死者1233人、行方不明48人、負傷者5688人<ref>『伊勢湾台風災害誌』(三重県、昭和36年)西川洋「現代三重県の展開」 橋本紀昭・駒田利治・勝山清次・飯田良一・上野秀治・西川洋『三重県の歴史』山川出版社 2000年 293頁</ref>。}}と、[[伊勢湾]]岸の2県に集中。負傷者38,921人。<!--和歌山県と奈良県の死者・行方不明者は?-->
 
 
 
全壊家屋36,135棟・半壊家屋113,052棟、流失家屋4,703棟、床上浸水157,858棟、船舶被害13,759隻。
 
 
 
被災者数は全国で約153万人に及んだ。うち、三重県は約32万人、愛知県は約79万人と、県全人口の約2割が被災した。
 
 
 
南寄りの暴風で、海水が[[熊野灘]]・[[伊勢湾]]・[[三河湾]]の最奥部に吹き寄せられ、[[和歌山県]]南部から愛知県までの広い範囲で高潮による浸水が発生し、名古屋市[[南区 (名古屋市)|南区]]付近は、1ヶ月以上も水が引かなかった地域があった。名古屋市南部(南区、[[港区 (名古屋市)|港区]])、及び、隣接する[[海部郡 (愛知県)|海部郡]]南部([[蟹江町]]、[[飛島村]]、弥富町(現[[弥富市]])、[[十四山村]](同市)など)、[[知多郡]]北部([[大高町]](現名古屋市[[緑区 (名古屋市)|緑区]])、[[上野町 (愛知県)|上野町]](現[[東海市]])など)は[[江戸時代]]に遠浅の海を干拓してできた新田で、海面下2-3mの土地もあったため、高潮により、一旦、海岸堤防が破壊するとひとたまりもなく水没した。これら低地の復旧のためには、まず、堤防を完全に作り直した上でポンプにより海水を排水しなければならなかったため、水没地域が完全になくなったのは被災から半年経った翌年3月下旬であった。その間、多くの世帯の[[汲み取り式便所]]の汚水があふれ出たままとなり、また、孤立した人々の排泄物も停滞するなど、[[公衆衛生]]が著しく悪化した。同年10月6日には早くも次の台風16号が東海地方等を通過し、[[岐阜県]][[養老郡]][[養老町]]で豪雨により田畑が水没する等の被害が出た。水が引いた後の[[5月]]には[[チリ地震 (1960年)|チリ地震]]津波が発生し、台風が通過した東北地方太平洋側と三重県南部を中心に再び被災した。
 
 
 
台風の速度が非常に速く、雨の継続時間が比較的短かったにも関わらず、[[奈良県]][[吉野郡]][[川上村 (奈良県)|川上村]]入之波(しおのは)で夜7時における時間雨量が 118 [[ミリメートル|mm]] 、9月26日の一日雨量が、650mmという猛烈な豪雨となり(紀の川流域におけるこの年の年間降水量は 3,655.8 mm で、平年の2倍以上であった)、[[紀の川]]や[[櫛田川]]など大台ヶ原を水源とする河川では洪水被害が大きくなり、橋梁の流失4,160箇所、堤防決壊5,760箇所などがあったのをはじめ、山間部では[[土石流]]や[[鉄砲水]]による住家や耕地の流失・埋没の被害が大きかった。岐阜県養老郡養老町では[[揖斐川]]の堤防が決壊し、ほとんど水につかった。台風のさいには比較的顕著ではない発雷も豪雨に伴って発生した。
 
 
 
暴風による被害も大きかった。最大風速は四国東部から関東南部の沿岸で30m/s以上、伊勢湾沿岸では45m/s以上、瞬間的には65m/sを超えた所もあった。このため、建物の全半壊、送電線の切断、電柱・鉄塔の倒壊、風倒木が多く、塩風害も多発した。
 
 
 
[[半田競艇場]]は、この台風により、選手控え室を除く全ての建物を損壊したため、閉鎖を余儀なくされた。なお、同競艇場の主催者であった[[半田市]]は現在に至るまで[[常滑競艇場]]において一部日程のレースを主催している。
 
 
 
== 被害拡大の原因 ==
 
伊勢湾台風は進路予想もかなり正確であり、早い時期から上陸が確実視され、充分な災害対策を講じる余裕があったにもかかわらず空前の大被害が発生した。
 
 
 
伊勢湾台風で最も顕著であったのは[[高潮]]の被害であった。台風の勢力が衰えず、熊野灘から[[知多湾]]・[[三河湾]]・伊勢湾では台風が西側を北上して非常に強い南寄りの暴風が持続する状況となり、各地の気象官署で過去の記録を更新、最低気圧の記録も同様であった。この強い風による吹き寄せと低気圧による吸い上げの効果により高潮が起こり、満潮時を外れていたにもかかわらず名古屋港では海水位が平均海面上 3.89 [[メートル|m]](うち気象潮は 3.45 m で、それまでの最高であった室戸台風の 3.1 m を上回った)、工事基準面からの高さは 5.31 m に及ぶ、観測史上最高水位を記録した。名古屋地方気象台では、高潮警報は出したものの潮位は 2 m 程度と予想していた。この記録破りの高潮に対し、伊勢湾奥の海岸堤防の高さは 3.38 m しかなかった。また、名古屋市やその周辺では急速な工業発展に伴う[[地下水]]のくみ上げで[[地盤沈下]]が激しく、高潮に対して非常に脆弱な土地が広がり、そこに無計画に市街化が進んでいたことも被害を大きくした。名古屋市南部を含む伊勢湾岸に多い干拓地の被害も激甚で、有名な[[鍋田干拓地]]では堤防のほとんどが破壊され、住宅地と耕地は全滅、318人の在住者のうち、133名が犠牲となった<ref name="nihonnokantakuti">{{Cite book|和書 |author=山野明男 |authorlink=山野明男 |title=日本の干拓地 |origdate=2006-02-10 |publisher=[[農林統計協会]] }}</ref>。
 
 
 
伊勢湾台風の高潮が記録的であったのは、台風の勢力が強大で猛烈な吸い上げ効果があったことと、伊勢湾が奥行き深く遠浅でその影響を受けやすかったことによる。また、地形が高潮や津波が河川遡上しやすい構造となっているため河川堤防も決壊した。台風襲来時が満潮(さらに大潮)と重なったためであるという話があるが、当日は少なくとも大潮ではなく、上陸時間ともズレがある<ref group="注">当時の満潮時間は9月27日0時45分で、伊勢湾台風が名古屋市に最接近したのは26日21時30分頃であったから、3時間以上のずれがあり、また、当時の月齢は24.0で、これは小潮に近いものである。潮汐と月齢は『中部日本新聞』(現『[[中日新聞]]』)9月26日朝刊及び夕刊による。一方、児童本の「伊勢湾台風物語」においては満潮時刻は26日21時35分と記載されている。</ref>。風向きと、高潮が押し寄せる方角が同じであったことから、暴風によって、陸地に押し寄せる高潮を加速させた。台風による大雨も高潮による陸地部分の浸水の深さを増すことになった。名古屋港は、外洋への出口が狭いことと、(増水した水が港へ流れ込む)河川・河口部が多いことから降水単独による潮位上昇も起きやすい傾向にある。
 
 
 
このような高潮で最も多くの人命が失われたのは名古屋市南西部の南区や港区であるが、これには名古屋港の貯木場(現在の[[白鳥公園]]付近にあった)から流出した 20万 [[トン|t]] に及ぶラワン材などによるところが大きい。直径 1 m 、長さ 10 m 、重量 7 - 8 t にもなる木材の大群が高潮に乗って住宅地を壊滅させたものである。高波と風の勢いでこの巨大な木材が縦に転がったという目撃談もある。南区ではおよそ1,500人の犠牲者の大部分がこうした流木によると考えられる。さらには流木によって流された家屋が他の家屋に衝突した。
 
 
 
また、当時、行政側の効果的な避難誘導や防災体制が不充分だったため、住民の台風災害に対する認識が希薄だった。行政による避難勧告も実施されなかった地域も珍しくなく、自分たちが近くに高台もなく海抜高度の低い危険地帯に住んでいることを知らないまま被災・死亡した人々も多かった。台風の接近により停電となったことも、重要な情報源だった[[ラジオ]]が使えなくなり<ref group="注">当時、[[乾電池]]を電源とする携帯式の[[トランジスタラジオ]]は開発されたばかりでまだ高価格であったため、一般にはまだ普及していなかった。</ref>、結果として避難の機会を失う一因となった。その一方で、[[安政東海地震]]での[[津波]]からの復興に伴い沿岸部からの集団移転が行われた[[豊橋市]]一帯では被害が軽減されることとなり、三重県[[三重郡]][[楠町 (三重県)|楠町]](現・四日市市)や愛知県[[碧南市]]の碧南干拓地(現・川口町)では日没前には住民の避難を完了したことから1人の犠牲者も出さずに済んだ<ref>{{Cite journal|和書 |author=[[安田孝志]] |date=2008-11 |title=1959年9月26日 伊勢湾台風 その2 |journal=広報ぼうさい |issue=48 |publisher=[[内閣府]] |url=http://www.bousai.go.jp/kouhou/h20/11/past.html |accessdate=2009-10-04 }}</ref><ref>{{Cite book|和書 |author=中央防災会議 |authorlink=中央防災会議 |title=第3節 拡大要因としての特性 |origdate=2008-03 |url=http://www.bousai.go.jp/jishin/chubou/kyoukun/rep/1959--isewanTYPHOON/09_chap3-3.pdf |format=PDF |accessdate=2009-10-04 |publisher=内閣府 |series=災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 }}</ref>。
 
 
 
== 伊勢湾台風からの復興 ==
 
[[ファイル:Helicopters evacuate people after Typhoon Vera Japan 1959.jpg|thumb|被災した住民の避難を始める陸上自衛隊と米軍のヘリの様子]]
 
伊勢湾台風の大被害により、日本の災害対策は根本からの変更を迫られた。被災から2週間後の[[1959年]](昭和34年)[[10月9日]]には、当時の科学技術庁長官[[中曽根康弘]]を委員長とする臨時台風科学対策委員会が設けられ、現地を視察した中曽根は防災のための立法措置を示唆している。そして、[[1961年]](昭和36年)[[1月]]に「[[災害対策基本法]]」が公布された。災害対策を総合的かつ計画的に進めることとし、防災計画の作成、災害予防、災害発生時の対策や救援、復旧等の基本がまとめられたものである。
 
 
 
また、[[東京]]をはじめとする全国各地の防潮堤・堤防の建設や改修も伊勢湾台風を基準とし、伊勢湾沿岸では特に地元三重選出の当時の建設政務次官[[田村元]]主導のもとで国や県が協力して防潮堤や堤防を完成させた。高潮の被害にあった愛知県[[弥富市]]の鍋田干拓地の堤防は、伊勢湾台風級の高潮が来ても決壊しないように、高いだけでなく幅も広くとって強固に造られ、オランダ式堤防と呼ばれた。(ただし、地元では前述の田村に感謝を込めて「田村の堤防」とも呼ばれている<ref>「政治家の正体」 講談社</ref>。)
 
 
 
これに加え、[[治水]]対策が強化された。従来進められていた治水計画を大幅に上回る洪水を記録した河川が多く、[[建設省]]や各[[地方自治体]]は河川改修を根本的に見直さざるを得なかった。このため、揖斐川や紀の川、櫛田川、[[淀川]]などの水系で治水計画が改められ、伊勢湾台風時の洪水に耐えうる治水計画・[[河川総合開発事業]]が計画された。これは[[宮川 (三重県)|宮川]]流域だけが[[宮川ダム (三重県)|宮川ダム]]の[[洪水調節]]によって浸水被害を最小限に食い止めたことなども影響している。伊勢湾台風を機に計画・建設された[[ダム]]として、[[徳山ダム]]・[[横山ダム]](揖斐川)、[[大滝ダム]](紀の川)などがある。
 
 
 
== マスメディアの影響 ==
 
伊勢湾台風は[[東海テレビ放送]]及び[[中部日本放送]](現・[[CBCテレビ]]・[[CBCラジオ]])など愛知・岐阜・三重3県の民放再編や、災害時における一般市民とラジオの在り方について影響を与えた。
 
 
 
前年[[1958年]](昭和33年)のクリスマスに開局した東海テレビは、伊勢湾台風当時、まだ開局して1年も経っていなかった。日本で最初に開局し、東海テレビと同じ[[中日新聞社]]系列のCBCも、テレビ放送を開始して3年未満、ラジオ放送を開始して10年に満たず、[[NHK名古屋放送局]]のテレビ放送も5年を経過した状況であった。[[1959年]](昭和34年)[[4月10日]]、[[明仁|当時の皇太子]]と[[皇后美智子|正田美智子]]の「世紀のご成婚」があったことで、テレビジョン放送の全国ネットワークがようやく作られ始めたものの、白黒テレビ<ref group="注">当時、日本国内において[[カラーテレビ]]の放送はまだ実施されていなかった。なお、日本においてカラー放送が開始されたのは[[1960年]][[9月10日]]である。</ref>はまだ高嶺の花(当時、14インチで約6万円程度=現在の価値で換算すると約60万円)、大半の家庭においてはラジオが大きな情報源であった。
 
 
 
主流のラジオは当時[[中波]] ([[ラジオ#中波放送(AM放送)|AM]]) 放送のみであり、NHK名古屋は現在同様3県をエリアとしていた。民放はCBCラジオが名古屋に本社を置いて3県をエリアとしていたものの、中継局は今と比べ少なく、[[東海ラジオ放送|東海ラジオ]]は、岐阜県域の[[ラジオ東海]]と三重県域の[[近畿東海放送]]に分かれている状態(翌年[[1960年]](昭和35年)に一本化)であった。しかも、NHK・民放の両方とも今日のように常時24時間放送を行っているわけではなく、報道取材態勢についても今日ほど充実したものではなかった。
 
 
 
受信機についても、今日当たり前のような電池で作動する小型ラジオはまだ出始めたばかりで、大半の家庭のラジオは商用電源で動く[[真空管]]式の卓上型が主流であったため、暴風雨の最盛期に停電が発生するとラジオもテレビも機能しなくなって情報が途絶したため、災害時の情報伝達が十分には行われず、多大の犠牲者につながったことが一般にも認識されている。この教訓から[[乾電池]]を電源として使用可能な、当時最新の[[半導体]]技術を用いた小型の携帯[[トランジスタラジオ]]の普及が進む要因となり、これによりラジオ受信可能な状況が大幅に増えいつでもどこでも迅速な情報入手が可能となったことで、台風や[[地震]]の時に活用されている。
 
 
 
* [[1951年]](昭和26年)[[9月1日]] - 中部日本放送([[CBCラジオ]])が日本初の民放局として開局。朝6時半に本放送開始([[MBSラジオ|新日本放送(現・MBSメディアホールディングス)]]は同日正午にラジオ本放送開始)
 
* [[1953年]](昭和28年)[[12月1日]] - '''ラジオ三重(東海ラジオの前身で後の近畿東海放送)開局'''
 
* [[1954年]](昭和29年)[[3月1日]] - NHK名古屋放送局、[[NHK総合テレビジョン|総合テレビ]]本放送開始
 
* [[1955年]](昭和30年)
 
** [[3月]] - '''旧・岐阜放送(東海ラジオの前身で後のラジオ東海)開局'''
 
** [[8月]] - 東京通信工業(現・[[ソニー]])、日本初の[[トランジスタラジオ]]発売。
 
* [[1956年]](昭和31年)12月1日 - CBCテレビ本放送開始
 
* [[1958年]](昭和33年)[[12月25日]] - '''近畿東海放送とラジオ東海の合弁により東海テレビ放送開局'''
 
* [[1959年]](昭和34年)[[9月26日]] - '''東海ラジオ放送名古屋局の予備免許下りる。その夜、伊勢湾台風上陸'''
 
* 1959年(昭和34年)[[11月20日]] - '''近畿東海放送とラジオ東海が合併し、東海ラジオ放送設立'''
 
* [[1960年]](昭和35年)[[3月31日]] - '''旧近畿東海放送と旧ラジオ東海がこの日を最後に閉局し、翌日現行の東海ラジオ放送開局'''
 
* [[1962年]](昭和37年)[[12月24日]] - 岐阜日日新聞(現・[[岐阜新聞]])の子会社としてラジオ岐阜(現・[[岐阜放送]]=ぎふチャン)開局
 
 
 
== 逸話 ==
 
* [[名古屋市]]では[[第二次世界大戦]]の[[名古屋空襲]]で焼失した[[名古屋城]]と金の[[鯱]](しゃちほこ、[[金鯱]])が伊勢湾台風が襲来する直前に再建されたが、名古屋の高潮災害は金の鯱のせいではないかと言う話が台風後に名古屋市民の間でささやかれた。もともと鯱(しゃち)は水を呼ぶ力があるとされ、それ故火除けのために城の屋根に付けられるようになったのであるが、伊勢湾台風の水害も金の鯱が呼んだのだ、というわけである。なお、伊勢湾台風の被害により、名古屋の秋の風物詩であった「[[名古屋まつり]]」は中止されたが、名古屋城の[[天守閣]]の完成式だけは、極めて地味に行われている。
 
* 台風襲来によって名古屋市内の工場群も浸水による被害を受けたが、その中で[[住友金属工業]]名古屋工場だけは比較的早く水が引き9月29日には操業を再開した。[[室戸台風]]で自社の事業所が浸水による被害を受けたことから名古屋工場建設に際して嵩上げ工事を行ったことが奏功したのだが、それが他方で周辺部での濁流の勢いを強める結果ともなり、世論の批判を受けることとなった。
 
*台風襲来時の昭和34年の[[近鉄名古屋線]]は、同じ近鉄の路線である[[近鉄大阪線|大阪線]]および[[近鉄山田線|山田線]]と線路の規格([[軌間]])が異なっていたこともあり、名古屋~大阪の名古屋方面と大阪方面の間の直通運転と名古屋~伊勢の名古屋方面と伊勢方面の間の直通運転ができず、三重県内の[[伊勢中川駅]]での乗り換えが必要であった。このため予てから名古屋線[[改軌]]の準備工事を進めていたところに、台風が襲来した。だが、[[木曽川橋梁 (近鉄名古屋線)|木曽川橋梁]]と[[揖斐・長良川橋梁 (近鉄名古屋線)|揖斐・長良川橋梁]]が台風襲来直前に完成<ref group="注">[[9月19日]]に揖斐・長良川橋梁が完成、台風が上陸した26日に木曽川橋梁が完成した。</ref>し尚且つ被害が殆ど無かったことから、当初翌[[1960年]](昭和35年)2月に予定していた改軌工事を台風からの復旧工事と同時に実施。工事は[[11月27日]]に完成し、これにより名古屋 - 大阪間および名古屋 - 伊勢間を乗り換え無しで行くことが可能になり、輸送力の改善が進んだ。
 
* 近鉄名古屋線とともに浸水地域を通過する[[関西本線|国鉄関西本線]]・[[名鉄尾西線]]・[[名鉄常滑線]]も復旧が[[1959年]](昭和34年)[[11月]]までずれ込んだ。名鉄常滑線は海上に仮線を敷設することで復旧され、海水が排水されるまでは列車が海面すれすれの仮線上を走行していた<ref>[[交友社]]『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』1962年10月号(通巻16号)p65 白井昭 電車海を走る 伊勢湾台風を偲ぶ</ref>。なお最後に復旧したのは[[日本国有鉄道|国鉄]]路線では[[長良川鉄道越美南線|越美南線]](現・[[長良川鉄道]])の同年[[12月16日]]、それ以外の路線では[[名古屋市電築地線]]の[[1961年]](昭和36年)[[4月1日]]であった<ref>高杉造酒太郎編 『伊勢湾台風災害調査報告』 日本建築学会、[[1961年]]</ref>。
 
* [[三重県]]と[[愛知県]]の間の陸上交通網([[国道]]・国鉄・近鉄)が遮断されたため、志摩観光汽船株式会社(現・[[志摩マリンレジャー]]株式会社)が[[桑名市|桑名]] - [[四日市市|四日市]] - [[名古屋市|名古屋]]間で海上で代行運航を実施した<ref>鳥羽市観光協会50周年記念誌編纂委員会 編(1980):258ページ</ref>。
 
<!-- 台風一過の27日は文字通り秋晴れとなったが、[[名古屋鉄道]]の[[名鉄西尾線|西尾線]]は送電架線の電柱が右に左に傾いてしまい、復旧工事が終わる10月始めまで不通となった。←西尾線の復旧は10月1日で他の路線と比較して特段遅れたわけではありませんので、コメントアウトさせていただきます -->
 
* ラジオ東海と近畿東海放送は台風以前から名古屋進出を計画し、合併を条件に認められたが、名古屋本局の予備免許が出た当日の夜に伊勢湾台風が本土に上陸した。台風被害に遭い報道の強化を痛感した両社は合併準備を加速させ、[[1959年]](昭和34年)[[11月20日]]に新設(対等)合併し、今の東海ラジオとなった。ただ、岐阜県では、3県で唯一海に面しておらず、地域事情が異なるとして新たに中波ラジオ局を求める運動がおこり、後に[[岐阜放送]]の開局に至った。
 
* その年の[[東京都|東京]][[国民体育大会|国体]]秋季大会、第8回[[全国青年大会]]に出場予定だった三重県、愛知県、岐阜県の各県代表選手たちは台風の被害が大きいことを理由に大会を棄権した。一方で、[[和歌山県]]と[[奈良県]]の代表選手は両大会に参加した。
 
* この台風により、[[月出の中央構造線]]の一部が地表に現れることとなった<ref>{{cite web |url=http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/rekishi/kenshi/asp/hakken2/detail.asp?record=393 |work=歴史の情報蔵 |title=伊勢湾台風で一部露出―月出の中央構造線露頭地 |author=田中喜久雄 |publisher=三重県環境生活部文化振興課県史編さん班 |accessdate=2016-04-18 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160418052201/http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/rekishi/kenshi/asp/hakken2/detail.asp?record=393 |archivedate=2016年4月18日 |deadlinkdate=2017年9月}}</ref><ref>諏訪兼位・宮川邦彦・水谷総助・林田守生・大岩義治(1997)"紀伊半島中部,中央構造線の大露頭:月出露頭(三重県飯南郡飯高町月出ワサビ谷)"地質学雑誌([[日本地質学会]]).'''103'''(11):XXXV-XXXVI. </ref>。
 
*アメリカの女優、[[シャーリー・マクレーン]]は夫のスティーブ・パーカーと共にアメリカ国内で当時の2万ドルを集め、朝日新聞厚生文化事業団に寄託。このお金で同事業団が東海3県で被災に遭った47校(愛知県内30、三重県内15、岐阜県内2)にピアノを贈呈した<ref>[https://web.archive.org/web/20170519161612/http://www.asahi.com/articles/ASJ9X3SLCJ9XONFB003.html S・マクレーンさん寄贈ピアノ、中学生が自由研究で発見]、朝日新聞2016年10月6日付、[http://www.asahi.com/articles/ASJ9X3SLCJ9XONFB003.html オリジナル]よりアーカイブ。</ref>。
 
*逃げる前に汚物が流れないように[[汲み取り式便所]]にコザを被せて避難する人もいた。<ref>http://www.pref.gifu.lg.jp/kurashi/bosai/shizen-saigai/11115/taiken/taikendan-1.html</ref>
 
 
 
== 伊勢湾台風を題材とした作品 ==
 
* 『傾ける海』([[1968年]]に刊行された[[井上靖]]の[[小説]])
 
* 『[[赤い運命]]』([[1976年]]、[[TBSテレビ|TBS]]・[[大映テレビ]]製作の[[赤いシリーズ]]連続ドラマ。伊勢湾台風によって家族が行方不明となったという設定)
 
* 『[[伊勢湾台風物語]]』([[1989年]]公開の[[アニメーション映画]])
 
* 『川のある街:伊勢湾台風物語』([[清水義範]]の小説。[[2009年]][[6月2日]]から同年[[10月]]まで[[中日新聞]]朝刊にて連載)
 
* 『[[嵐がくれたもの]]』(2009年、[[東海テレビ放送]]制作の[[昼ドラ]]。伊勢湾台風で生き別れた家族を描いた)
 
* 『それぞれの伊勢湾台風』([[2014年]]公開の[[ドキュメンタリー]]映画)
 
* 『人間交差点』3巻『流された記憶』(原作・矢島正雄、作画・弘兼憲史による青年漫画) 
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
=== 注釈 ===
 
{{Reflist|group="注"}}
 
=== 出典 ===
 
{{Reflist|30em}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
{{参照方法|date=2009年10月|section=1}}
 
* 「気象」1986年10月号 [[財団法人]][[日本気象協会]]
 
* 「台風経路図30年集」1973年 財団法人日本気象協会
 
* 「'56〜'65年天気図10年集成」1973年版 財団法人日本気象協会
 
* 「台風に備える」1972年 [[日本放送出版協会]]
 
* 「四季の天気予報と気象災害」1968年 [[気象庁]]予報技術研究会
 
* 「河川便覧 平成十六年版」2004年 [[社団法人]][[日本河川協会]]監修・国土開発調査会編
 
* 鳥羽市観光協会50周年記念誌編纂委員会 編『鳥羽の観光50年』鳥羽市観光協会、昭和55年9月15日、289pp.
 
* その他多数{{要文献特定詳細情報|date=2017年10月}}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[ハリケーン・カトリーナ]]
 
* [[平成25年台風第30号]]
 
* [[伊勢湾台風記念館]]
 
 
 
== 外部リンク ==
 
* [http://dil.bosai.go.jp/disaster/1959isewan/ 伊勢湾台風50年事業実行委員会(防災科学技術研究所 自然災害情報室)]
 
* [http://www.data.jma.go.jp/obd/stats/data/bosai/report/1959/19590926/19590926.html 災害をもたらした気象事例(伊勢湾台風)] - [http://www.jma.go.jp/ 気象庁 公式サイト]
 
* [http://agora.ex.nii.ac.jp/digital-typhoon/summary/wnp/s/195915.html.ja デジタル台風:台風195915号 (VERA)]
 
* {{YouTube|ueRc0s54fD8|伊勢湾台風の記録(昭和35年制作)}} - 名古屋市が作成した記録映像
 
  
 
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伊勢湾台風(いせわんたいふう、昭和34年台風第15号、国際名:ヴェラ〔Vera〕)

愛知県と三重県を中心に高潮で,全国的には暴風で多大の被害を与えた 1959年の台風第15号。9月26日午後6時頃,和歌山県潮岬の西に上陸し,奈良県と三重県の県境を通り,約 6時間で本土を横断,富山市の東方で日本海に出た。その後衰えながら北上し,27日朝には秋田県の西方海上,次いで青森県八戸沖へ,27日午後3時に根室市の南海上へ進み,さらに東進して温帯低気圧となった。潮岬通過時の最低気圧は 929.5hPaで,本州で観測された最も低い気圧である。上陸時,風速 25m/s以上の暴風域の直径は 500kmに及んだ。愛知県伊良湖岬では最大風速 45.4m/s(最大瞬間風速 55.3m/s)を記録。期間降水量の最も多かったのは紀伊半島の南部山岳地帯で 300~600mm,東海地方,山陰地方東部,四国地方東部で 200~300mm。台風による被害は三重県と愛知県をはじめとする中国地方以東の 39都道府県に及び,死者 4697人,行方不明者 401人,負傷者 3万8921人,住家全半壊 83万3965棟,床上・床下浸水 36万3611棟。特に伊勢湾沿岸では高潮が平均潮位より 3.9m高くなり,木曽川河口部一帯に浸水,三重県桑名市から名古屋市西部にかけた一帯は泥海と化し,都市機能はまったくの麻痺状態に陥った。この台風は,高度成長下の無秩序な土地造成とゼロメートル地帯の水防について,2年後の 1961年に国の防災対策の基本法律である災害対策基本法が制定される契機となった。



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