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{{出典の明記|date=2016年7月}}
 
'''人文主義者'''(じんぶんしゅぎしゃ)とは、[[ルネサンス]]期において、[[ギリシア]]・[[ローマ]]の古典文芸や聖書原典の[[研究]]を元に、[[神]]や[[人間]]の[[本質]]を考察した[[知識人]]のこと。特に、[[15世紀]]-[[16世紀]]に活動したフランス人の影響が大きいため、日本では[[フランス語]]のまま「'''ユマニスト'''」({{lang-fr-short|humaniste}})と表現されたりもする<ref>[https://kotobank.jp/word/%E3%83%A6%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%82%B9%E3%83%88-145364 ユマニストとは] - [[ブリタニカ国際大百科事典]]/[[世界大百科事典]]/[[コトバンク]]</ref>。[[英語]]では「ヒューマニスト」({{lang-en-short|humanist}})、[[イタリア語]]で「ウマニスタ」({{lang-it-short|Umanista}})など、各言語の相当語彙でも共有・表現される概念だが、[[人道主義]]・[[博愛主義]]などの意味で用いられる場合と区別するために、「ルネサンス・ヒューマニスト」([[:en:Renaissance humanist|Renaissance humanist]])などと表現されたりもする。'''人文学者'''(じんぶんがくしゃ)とも<ref>[https://kotobank.jp/word/%E3%83%A6%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%82%B9%E3%83%88-145364 ユマニストとは] - [[日本大百科全書]]([[ニッポニカ]])/[[コトバンク]]</ref>。
 
  
== 概要 ==
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'''人文主義者'''(じんぶんしゅぎしゃ)
人文主義者は古代ギリシア・ローマの古典を学ぶことによって人格形成を目指した。古典の人文学研究(Studia humanitatis)は[[ペトラルカ]]に始まる。人文主義者の父と呼ばれるペトラルカは、人間を[[学問]]の中心にすえて、本来相容れない古典文化と[[キリスト教]]を折衷した。
 
  
中世の[[スコラ学]]が[[神学]]的な概念中心の学問であり、神学や[[法学]]等の諸学問における研究・議論が枝葉末節に陥り、その本質から逸脱することが見られたのに対し、人文主義者は古典研究を通して、神や人間の本質・本道の理解と実践に立ち返ることを求め、より自由な思考ができた点に特色がある。
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 狭義には人文主義(ユマニスム)の立場に立つルネサンス期の文献学者。ただし,16世紀の後半以降,ヨーロッパの各国で国語と国民文化が成立し,人文主義者(ユマニストhumaniste)の国際語であったラテン語の汎用(はんよう)性が消失するにつれ,ユマニスムは各国ごと,あるいは個人ごとの展開の段階を迎える。それに応じてユマニストの意味合いも多岐にわたるようになった。
  
[[澤井繁男]]は人文主義の流れを(1)市民的人文主義(1378年[[教会大分裂]]-1453年[[コンスタンティノープルの陥落]])、(2)文人的人文主義(1454年-1494年[[イタリア戦争]])、(3)宮廷風人文主義(1494-1544年)と整理している。<ref>澤井繁男『イタリア・ルネサンス』講談社現代新書P86-87</ref>
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 本来,ルネサンスのユマニスム自体が,さまざまな方向へ発展する可能性をもった柔軟な文化運動であった。16世紀の後半以降のユマニストは,そのある側面を事情に応じて拡大してみせたといえる。例えばフランスのモンテーニュは,宗教戦争の動乱の中にあって,いわば自己という局限された領域に閉じこもらざるをえなかったのだが,『エセー』において飾りのない自己を素材として人間性一般の真理を追求し,モラリスト文学(人間性の研究)という分野に先鞭(せんべん)をつけた。これは,ユマニスムのもつ,人間への信頼と人間性の尊重という側面を強調して捉えた試みである。
 
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 また17世紀のオランダでは,ギリシャ学よりも,より政治色の強いローマ文学が好んで研究の対象となり,ユストゥス・リプシウスやフーゴ・グロティウスらが,市民の政治参加という課題への解答をユマニスムの伝統の中に探求した。これもまた,ユマニスムに,社会生活の中でその能力を自由に開花させる人間,という理念が含まれていたからである。
*初期にはラテン語文献の再発見が主であった。修道院の古写本からキケロの書簡集などが見つかり、ペトラルカを感激させた。なお、ペトラルカはホメロスのギリシア語写本も手に入れたが、読めなかった。
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*東ローマ帝国の知識人らを介して[[プラトン]]の文献もいくつか知られていたが、[[メディチ家]]の支援を受けた[[フィチーノ]]がプラトン全集をラテン語に翻訳し、[[プラトン・アカデミー]]が形成された。[[ネオプラトニズム]]はルネサンス期を彩る重要な思想になった。
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 ユマニスムの領域は広く,かつ歴史性に富んでいる。18世紀のドイツでは,フマニストHumanistは古典文学の研究家を意味し,また,シラーやゲーテがHumanität(高貴な人間性)という理想を追求しているが,これはルネサンス期のユマニスムの直接的な前身である中世のhumaniores litterae(より人間に関わる学芸),ないしは古代ローマのhumanitas(自由人として持つべき教養・知識)という概念にまでさかのぼる。
*[[16世紀]]初めにはイタリア・ルネサンスを代表する著作『[[君主論]]』([[ニッコロ・マキャヴェッリ|マキアベリ]])、『宮廷人』([[バルダッサーレ・カスティリオーネ|カスティリオーネ]])などが執筆された。
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 さらに近現代に至っても,資本主義の人間疎外の条件を克服するという意味で,コミュニスムがユマニスムの名を冠せられることがあるが,これもユマニスムに,人間性の十全な開花を妨げる諸制度に対する闘い,という側面があるからである。
 
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「源泉へ」という人文主義の原則<ref name="Roeck">ベルント・レック『歴史のアウトサイダー』中谷博幸、山中叔江訳 昭和堂 2001年、ISBN 4812200210 pp.27-28.</ref>に従って
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 以上,ユマニストは,ユマニスムの歴史的展開にそって多くの側面をもちうるけれども,いずれにせよ,人間の能力と人間性の尊厳とに対する信頼に裏打ちされた意味を伴うのであって,単に人道主義を意味する場合の多い日本語の〈ヒューマニスト〉の語感からは遠い点に注意する必要がある。
旧約・新約聖書の本文について、[[ヘブライ語]]および[[ギリシア語]]原文にさかのぼっての研究も進められ、[[カトリック教会]]の公式なラテン語訳聖書とされていた[[ヴルガータ]]聖書の訳文に問題があることも知られるようになった。ギリシア語原文を読むことは聖書解釈の再検討、ひいてはカトリック批判につながるとして、問題視される場合もあった。
 
また、旧約聖書を突き詰めることで神的啓示を知ろうと、ユダヤ教の書物、[[カバラ]]や[[タルムード]]の研究が行われた<ref name="Roeck"/>。1510年代に改宗ユダヤ人のプフェファールコン及び[[ドミニコ会]]とドイツの人文主義者[[ヨハネス・ロイヒリン]]のあいだでユダヤ教書物没収を巡る論争が起こり、多くの人文主義知識人がロイヒリンの側に立って闘った<ref name="Roeck"/>。
 
 
 
人文主義者の[[思想]]には、後の[[宗教改革]]に結びつく要素も見られ、既成の権威に反抗して弾圧を受けた人物も見られる。ただし人文主義者の多くは穏健な思想を持ち、ほとんどの場合カトリックの信仰を保っていた。学識によって宮廷に仕え、権力者のブレーンとして活動した人物も多かった。従って、カトリック側と宗教改革運動側の対立が激しくなると、人文主義者は渦中から身を引く場合が多かった。「エラスムスが生んだ卵をルターがかえした」と言われるように、宗教改革の初期、エラスムスはルターを支持していたが、まもなく両者は決別した。こうした点で人文主義者の限界が指摘されることもある。しかし、神や人間の本質・本道への理解と実践へ立ち返ることを求めた人文主義者が、[[フランス宗教戦争|ユグノー戦争]]に例を見るような、神の本質の理解と相容れがたい狂信的な宗教対立を忌むことは当然の帰着であり、むしろ人文主義者のそうした声が宗教改革において無視されたともいえる。
 
 
 
そうした中で書かれた[[ミシェル・ド・モンテーニュ|モンテーニュ]]の『[[エセー]]』は、宗教改革期に人文主義者が「本道」を説いた作品といえる。ユグノー戦争の最中、モンテーニュは「寛容」を説き、ヨーロッパ人と人食い人種のどちらが野蛮かを問うた。その思想は今日でも有効性を失っておらず、人文主義者の一つの達成といえる。
 
 
 
== 人文主義者の例 ==
 
*[[ペトラルカ]]
 
*[[ジョヴァンニ・ボッカッチョ|ボッカッチョ]]
 
*[[レオーネ・バッティスタ・アルベルティ|アルベルティ]]
 
*[[ロレンツォ・ヴァッラ]]
 
*[[ピウス2世 (ローマ教皇)]]
 
*[[マルシリオ・フィチーノ]]
 
*[[アンジェロ・ポリツィアーノ]]
 
*[[ピコ・デラ・ミランドラ]]
 
*[[ニッコロ・マキャヴェッリ|マキアベリ]]
 
*[[デジデリウス・エラスムス|エラスムス]]
 
*[[トマス・モア]]
 
*[[ルフェーヴル・デタープル]]
 
*[[ミシェル・セルヴェ]]
 
*[[フランソワ・ラブレー]]
 
*[[ミシェル・ド・モンテーニュ|モンテーニュ]]
 
*[[ジョルダーノ・ブルーノ]]
 
  
 
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人文主義者(じんぶんしゅぎしゃ)

 狭義には人文主義(ユマニスム)の立場に立つルネサンス期の文献学者。ただし,16世紀の後半以降,ヨーロッパの各国で国語と国民文化が成立し,人文主義者(ユマニストhumaniste)の国際語であったラテン語の汎用(はんよう)性が消失するにつれ,ユマニスムは各国ごと,あるいは個人ごとの展開の段階を迎える。それに応じてユマニストの意味合いも多岐にわたるようになった。

 本来,ルネサンスのユマニスム自体が,さまざまな方向へ発展する可能性をもった柔軟な文化運動であった。16世紀の後半以降のユマニストは,そのある側面を事情に応じて拡大してみせたといえる。例えばフランスのモンテーニュは,宗教戦争の動乱の中にあって,いわば自己という局限された領域に閉じこもらざるをえなかったのだが,『エセー』において飾りのない自己を素材として人間性一般の真理を追求し,モラリスト文学(人間性の研究)という分野に先鞭(せんべん)をつけた。これは,ユマニスムのもつ,人間への信頼と人間性の尊重という側面を強調して捉えた試みである。  また17世紀のオランダでは,ギリシャ学よりも,より政治色の強いローマ文学が好んで研究の対象となり,ユストゥス・リプシウスやフーゴ・グロティウスらが,市民の政治参加という課題への解答をユマニスムの伝統の中に探求した。これもまた,ユマニスムに,社会生活の中でその能力を自由に開花させる人間,という理念が含まれていたからである。

 ユマニスムの領域は広く,かつ歴史性に富んでいる。18世紀のドイツでは,フマニストHumanistは古典文学の研究家を意味し,また,シラーやゲーテがHumanität(高貴な人間性)という理想を追求しているが,これはルネサンス期のユマニスムの直接的な前身である中世のhumaniores litterae(より人間に関わる学芸),ないしは古代ローマのhumanitas(自由人として持つべき教養・知識)という概念にまでさかのぼる。  さらに近現代に至っても,資本主義の人間疎外の条件を克服するという意味で,コミュニスムがユマニスムの名を冠せられることがあるが,これもユマニスムに,人間性の十全な開花を妨げる諸制度に対する闘い,という側面があるからである。

 以上,ユマニストは,ユマニスムの歴史的展開にそって多くの側面をもちうるけれども,いずれにせよ,人間の能力と人間性の尊厳とに対する信頼に裏打ちされた意味を伴うのであって,単に人道主義を意味する場合の多い日本語の〈ヒューマニスト〉の語感からは遠い点に注意する必要がある。

注釈

関連項目




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