井深大

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井深大
生誕 (1908-04-11) 1908年4月11日
日本の旗 日本 栃木県上都賀郡日光町
死没 (1997-12-19) 1997年12月19日(89歳没)
日本の旗 日本 東京都
国籍 日本の旗 日本
教育 早稲田大学理工学部
父:井深甫
'業績'
専門分野 電子工学
成果 ソニーの設立
トリニトロンテレビの開発
受賞歴 勲一等旭日大綬章(1986年)
文化功労者(1989年)
文化勲章(1992年)
勲一等旭日桐花大綬章(1997年追贈)

井深 大(いぶか まさる、1908年明治41年)4月11日 - 1997年平成9年)12月19日)は、日本電子技術者および実業家

盛田昭夫とともにソニーの創業者の一人。

生涯

栃木県上都賀郡日光町(現在の日光市)に生まれる。祖先は会津藩の家老であり、親戚には飯盛山自刃した白虎隊の井深茂太郎や明治学院総理を歴任した井深梶之助、ハンセン病に一生を捧げカトリック看護師協会の会長を歴任した井深八重がいる[1]。2歳の時、青銅技師で水力発電所建設技師あった父、甫の死去に伴い、愛知県安城市に住む祖父の基に引き取られる[2]

母と共に5歳から8歳まで東京に転居、その後は再び愛知県へ戻り、安城第一尋常小学校(現在の安城市立安城中部小学校)卒業。のちに再婚した母に従い、母の嫁ぎ先の神戸市葺合区(現在の中央区)に転居。兵庫県立第一神戸中学校(現兵庫県立神戸高等学校)、第一早稲田高等学院早稲田大学理工学部卒業。学生時代から奇抜な発明で有名であった。早稲田大学時代にキリスト教徒の恩師山本忠興の影響で日本基督教会(現・日本基督教団)富士見町教会に通うようになり、洗礼を受けてキリスト教徒になる。[3] 卒論は「変調器としてのケルセル 附光線電話」。

東京芝浦電気(現在の東芝)の入社試験を受けるも不採用。大学卒業後、写真化学研究所(Photo Chemical Laboratory、通称:PCL)[4] に入社、取締役であった増谷麟の屋敷に下宿する。学生時代に発明し、PCL時代に出品した「走るネオン」という製品がパリ万国博覧会で金賞を獲得。後に日本光音工業に移籍。その後、日本光音工業の出資を受けて、日本測定器株式会社を立ち上げて、常務に就任した。日本測定器は軍需電子機器の開発を行っていた会社であり、その縁で、戦時中の熱線誘導兵器開発中に盛田昭夫と知り合う。

敗戦翌日に疎開先の長野県須坂町から上京し、2か月後の1945年昭和20年)10月、東京・日本橋の旧白木屋店内に個人企業東京通信研究所を立ち上げる。後に朝日新聞のコラム「青鉛筆」に掲載された東京通信研究所の記事が盛田の目に留まり、会社設立に合流する。翌年5月に株式会社化し、資本金19万円で、義父の前田多門(終戦直後の東久邇内閣文部大臣)が社長、井深が専務(技術担当)、盛田昭夫が常務(営業担当)、増谷麟が監査、社員20数人の東京通信工業(後のソニー)を創業。

以来、新しい独自技術の開発に挑戦し、一般消費者の生活を豊かに便利にする新商品の提供を経営方針に活動を展開。そして、多くの日本初、世界初という革新的な商品を創りだし、戦後日本経済の奇跡的な復興、急成長を象徴する世界的な大企業に成長していった。

ソニー創業後の略歴

  • 1950年(昭和25年):東京通信工業社長に就任
  • 1951年(昭和26年):テープレコーダーを発売
  • 1955年(昭和30年):トランジスタラジオを発売
  • 1958年(昭和33年):それまで商標名として使っていたSONYを正式な商号に採用してソニーと改称し、ブランド名と社名を統一した
  • 1961年(昭和36年):トランジスタテレビを発売
  • 1962年(昭和37年):日本映画・テレビ録音協会初代名誉会員に選出
  • 1964年(昭和39年):家庭用ビデオ・テープレコーダーを発売
  • 1968年(昭和43年):日本テキサス・インスツルメンツ株式会社 初代 代表取締役社長に就任
  • 1972年(昭和47年):国鉄理事に就任
  • 1975年(昭和50年):ソニー会長に就任
  • 1976年(昭和51年):発明協会会長に就任
  • 1977年(昭和52年):国鉄理事を退任、井深賞設立、ソニー名誉会長に就任
  • 1979年(昭和54年):日本オーディオ協会会長に就任
  • 1987年(昭和62年):鉄道総合技術研究所会長に就任
  • 1990年(平成2年):ソニーファウンダー(創業者)・名誉会長に就任

製品

  • トランジスタラジオ
    アメリカで開発されたトランジスタの国内生産に成功し、それを利用したトランジスタラジオを世に送り出した。現在の電子立国日本の基礎を築く。
  • トリニトロンテレビ
    当初はクロマトロン方式にチャレンジしたソニーだったが、5年間の努力を続けても製品としての完成はほど遠かった。だが、その過程で全く新しい方式のブラウン管であるトリニトロンの開発に成功。色選別機構のアパチャーグリル、1ガン3ビームの電子銃、縦方向にゆがみのないシリンドリカルスクリーン・スクェアコーナーなど、独自技術により高性能を実現。他社がシャドーマスク方式のブラウン管を採用していた中で、技術のソニーを見せつける製品となった。
    その後、シャドーマスク方式も改良が続けられ、画面の平面性などでトリニトロンに匹敵するまで進化したものの、元々の素性の良さとブランドイメージの強さにより、トリニトロンの高付加価値製品としての地位が揺らぐことはなかった。ただし一世を風靡したトリニトロンへの傾注と世界規模での巨額投資(日本、アメリカ、メキシコ、シンガポール、イギリスなど)により液晶への切り替えが遅れた感は否めない。
  • ベータマックス
    家庭用ビデオテープレコーダーでは、自社開発によるベータマックスを推進。結果的に別方式であるVHSに市場で完敗の結果となり、ソニーもVHSを一般市場に向けて生産する判断を行った。だが、ベータマックスやそれ以前からのビデオテープレコーダー開発により取得していた関連特許はVHSにも多く使用されている。また、放送用機材をはじめとする業務用途において、現在でもベータマックスの進化系フォーマットが一部で使用されている。

エピソード

  • 国内でアマチュア無線が昭和2年に解禁される前に、既に違法に送受信して遊んでいた。
  • 死去直前には、身体の自由は利かなくなっており、車いすでの移動を余儀なくされた。だが、当時の側近の言に因れば、最後の最後まで頭ははっきりしていたという。また、「今、なにがやりたいですか?」の問いには「小さい会社を作って、またいろいろチャレンジしたいね」との返答をしたという。
  • 共にソニー創業者である盛田昭夫らは、井深が海外出張などの知見を広げる旅程から戻ると「どうですか?10年後を見てきましたか?」と彼に陽気に聞いたという。
  • 井深の葬儀の際、江崎玲於奈は弔辞で以下の内容を述べた。
「温故知新、という言葉があるが、井深さんは違った。未来を考え、見ることで、現在を、明日を知るひとだった」
  • 一例に、1980年代前半ごろのエピソードで、井深が当時の新素材についてソニー社内の担当責任者にその可能性について意見を聞いた際、その返答は満足のゆくものではなかった。担当者は、現在出来ること、近く出来ることと可能性を話したが、井深は以下の内容を言ったという。
    「なぜ、そういう考え方をするのか。そんな数年後ではない。1990年や、2000年でもなく、2010年、2020年にはどうなっているしどうなるべきだから、という考えかたをしないといけない」。
  • 1987年、ソニーがスポンサーとなりIEEE Masaru Ibuka Consumer Electronics Awardが創設された。

社会貢献活動

教育活動
教育活動に熱心にとりくみ、1969年(昭和44年)に幼児開発協会[5]1972年(昭和47年)にソニー教育振興財団を設立し理事長に就任。また、1985年(昭和60年)にはボーイスカウト日本連盟理事長にも就任している。教育の持論は「この人の能力はこれだけだと決め付けていたらその人の能力は引き出せません。」だった。
社会福祉
一方で、、障害者が自立出来る社会を経営者の立場から考えていた。それがきっかけとなり、1978年に大分県に身体障害者が働ける工場『ソニー太陽』が建設された。また、生産施設を備えた社会福祉法人「希望の家」(栃木県鹿沼市)への支援も行った。

主な著作

  • 『幼稚園では遅すぎる』 (1971年)
  • 『0歳からの母親作戦』 (1979年)
  • 『あと半分の教育』 (1985年)
  • 『わが友本田宗一郎』 (1991年)
  • 『胎児から』 (1992年)

顕彰

栄典

参考文献

  • 井深大『「ソニー」創造への旅』 グラフ社 ISBN 4766207769

関連人物

脚注

  1. 井深家は旧会津藩士の家柄で、祖父基は朱雀隊の生き残り、白虎隊士の石山虎之助は基の実弟。当時は愛知県に居住していた。井深家については井深宅右衛門#井深家を参照。
  2. 井深亮『父井深大』(ごま書房
  3. 夢を実らせた空想科学少年――ソニーを築いた井深大(まさる)
  4. 関連会社のPCL映画株式会社が別の関連会社と合併し、後の東宝となる
  5. 2001年に「幼児開発センター」と改称、2006年3月に業務が収束した。しかし、幼児開発センターで開発された幼児教育のスキルは、いまなお、スタッフに受け継がれている。


ビジネス
先代:
前田多門
2代目:ソニー社長
1950年 - 1975年
次代:
盛田昭夫