九条尚忠

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九条 尚忠(くじょう ひさただ、寛政10年7月25日1798年9月5日) - 明治4年8月21日1871年10月5日))は、江戸時代後期から明治時代の公家。官位は従一位関白。「尚」の字は、かつて室町幕府第9代将軍・足利義尚から偏諱の授与を受けた第15代当主九条尚経からその1字を取ったものである。

左大臣二条治孝の子で、母は樋口基康の娘[1]。正室は唐橋姪子九条道孝は長男。孝明天皇の妃・夙子は娘。大正天皇の后・節子は孫。昭和天皇の曽祖父でもある。

生涯

実兄の権大納言・九条輔嗣に養育された。長期間関白職を務めた鷹司政通から同職を受け継ぐこととなったが、女癖の悪さもあり、各方面より警戒された。安政5年(1858年)、アメリカをはじめとする諸外国との通商に際して、幕府日米修好通商条約の勅許を求めてきた時、幕府との協調路線を推進して条約許可を求めた[2]。また、将軍継嗣問題では徳川慶福の擁立を目指す南紀派についた[3]

しかし同年、幕府との協調路線に反発する88人の公卿たちの猛烈な抗議活動により条約勅許はならなかった(いわゆる廷臣八十八卿列参事件)。更に尚忠が勅許を認めようとしていたことを知った孝明天皇は立腹し、関白の内覧職権を一時停止した(関白の地位にあっても、その最も基本的な職務である内覧職権が停止されれば、事実上の停職処分に相当した)[4]

その後、幕府の援助により復職を許されたが、その後も幕府との協調路線を推進し、公武合体運動の一環である和宮降嫁を積極的に推し進めたため、一部の尊皇攘夷過激派から糾弾されて、文久2(1862年)6月には関白・内覧をともに辞し、落飾・謹慎を命じられて九条村に閉居した[5]

慶応3(1867年)1月、尚忠は謹慎・入洛禁止を免除され、12月8日には還俗を許された[6]

明治元年(1868年)9月18日、准后宣下。

明治4年(1871年)8月21日、薨去[7]。享年74。

墓所は京都市東山区東福寺

系譜

系図


脚注

  1. 「九条尚忠」『朝日日本歴史人物事典』
  2. 「九条尚忠」『朝日日本歴史人物事典』
  3. 「九条尚忠」『朝日日本歴史人物事典』
  4. 「九条尚忠」『朝日日本歴史人物事典』
  5. 「九条尚忠」『朝日日本歴史人物事典』
  6. 「九条尚忠」『朝日日本歴史人物事典』
  7. 「九条尚忠」『朝日日本歴史人物事典』

参考文献

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