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(内容を「'''中国大返し'''(ちゅうごくおおがえし) 天正10年(1582)に織田信長が明智光秀に討たれた本能寺の変の後、羽柴秀吉がとっ...」で置換)
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'''中国大返し'''(ちゅうごくおおがえし)は、[[天正]]10年[[6月 (旧暦)|6月]]([[西暦]][[1582年]][[6月]]-[[7月]])、[[備中高松城の戦い]]にあった[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]が主君[[織田信長]]の[[本能寺の変]]での[[横死]]を知った後、速やかに[[毛利氏]]との[[講和]]を取りまとめ、主君の仇[[明智光秀]]を[[敵討|討つ]]ため[[京都|京]]に向けて全軍を取って返した約10日間にわたる[[軍団]]大[[移動]]のこと。[[備中国|備中]][[高松城 (備中国)|高松城]]([[岡山県]][[岡山市]][[北区 (岡山市)|北区]])から[[山城国|山城]][[山崎宿|山崎]]([[京都府]][[乙訓郡]][[大山崎町]])までの約200 km を踏破した、日本史上屈指の大強行軍として知られる。この[[行軍]]の後、秀吉は[[摂津国|摂津]]・山城[[国境]]付近の[[山崎の戦い]]において明智光秀の軍を[[撃破]]した。
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'''中国大返し'''(ちゅうごくおおがえし)
  
* 文中の( )内の年は[[西暦]]、[[ユリウス暦]](1582年[[10月15日]]以降は[[グレゴリオ暦]])、月日は全て[[和暦]]、[[宣明暦]]の[[長暦]]による。
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天正10年(1582)に織田信長が明智光秀に討たれた本能寺の変の後、羽柴秀吉がとった一連の軍事行動を指す。備中高松城で信長の死を知った秀吉は、即座に毛利氏との講和を成立させると、全軍を率いて京都へ向かい、山崎の戦いで光秀軍を撃破した。
  
== 高松城攻めと本能寺の変 ==
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{{テンプレート:20180815sk}}
=== 備中高松城攻め ===
 
{{Main|中国攻め|備中高松城の戦い}}
 
主君織田信長より中国路平定を目的とした中国方面軍の軍団長に任じられていた羽柴秀吉は天正10年(1582年)3月、[[播磨国|播磨]][[姫路城]]([[兵庫県]][[姫路市]])より[[備前国|備前]]に入り、[[3月17日 (旧暦)|3月17日]]に[[常山城]]([[岡山市]][[南区 (岡山市)|南区]])を攻め<ref group="注釈">常山城の戦いは「御次公」と呼ばれた信長の四男で秀吉の[[養子]]となった[[羽柴秀勝]]の[[初陣]]となった。</ref>、4月中旬には備前[[岡山城]](当時は石山城)の[[宇喜多秀家]]の軍勢と合流、総勢3万の兵力となって<ref>『真説歴史の道第8号』(2010)p.4</ref>、備中[[日畑城]](日幡城、岡山県[[倉敷市]])、備中[[冠山城]](岡山市北区)、備中[[庭瀬城]](岡山市北区)、備中[[加茂城]](岡山市北区)など、備前・備中における毛利方の諸城を陥落させていった<ref name=ichikawa>市川(1996)pp.102-104 </ref>。一方で秀吉は動揺する[[毛利水軍]]への調略もおこない<ref>天正10年3月17日付の[[蜂須賀正勝]]・[[黒田孝高]]連署の書状によれば、秀吉は、隆景の重臣で[[小早川水軍]]の総帥格であった[[乃美氏]]に対して、乃美氏が毛利家より離反した場合、恩賞として[[安芸国|安芸]]・[[周防国|周防]]・[[長門国|長門]]及び[[金貨|黄金]]500枚を与える旨を伝えている。藤田(2003)p.152</ref>、[[4月14日 (旧暦)|4月14日]]には毛利水軍に帰属していた[[伊予国|伊予]]の[[村上水軍#村上水軍の一族|来島氏]]と村上(能島)氏を帰順させている。
 
  
[[ファイル:Takamatsumizuseme.jpg|360px|right|thumb|[[月岡芳年]]画「高松城水攻築堤の図」(岡山市立中央図書館蔵)]]
 
備中高松城(岡山市北区)の城主[[清水宗治]]は、織田・毛利両陣営双方から引き抜きを受けたが、[[織田氏]]からの誘いを断り[[毛利氏]]に留まった<ref>[[藤田達生]]は、清水氏の本来の本拠は、備中[[幸山城]](岡山県[[総社市]][[清音村|清音]])であり、水攻めの行われた高松には大きな利害の無かった勢力であるとしている。藤田(2003)pp.150-151</ref>。秀吉は、僅か3,000の兵員しか持たない高松城を攻めるのに、城を大軍で包囲して一気に殲滅する作戦を採った。しかし、秀吉は苦戦を余儀なくされた。そこで、秀吉は主君信長に援軍を要請し、信長もまた家臣[[明智光秀]]を派遣することを伝えたが、同時に高松城攻略に専心するよう秀吉に命じた<ref name=michi5>『真説歴史の道第8号』(2010)p.5</ref>。
 
 
勇将・清水宗治の守る高松城を攻めあぐねた秀吉は、[[5月7日 (旧暦)|5月7日]]、水攻めにすることを決した。高松城は、三方が深い[[沼]]、一方が広い[[水堀]]となっており、要害であった<ref name=yasuda184>安田(1984)p.184</ref>。このとき水攻めを発案したのは、一説には[[軍師]][[黒田孝高]](如水)ではないかともいわれている<ref name=michi5/><ref>『クロニック戦国全史』(1995)p.471</ref>。城の周囲に築かれた[[堤防]]は、[[5月8日 (旧暦)|5月8日]]に蜂須賀正勝を奉行として造成工事が始まり、[[5月19日 (旧暦)|19日]]に終えた。作戦は、堤防内に城の西側を南流する[[足守川]]の流れを引き込もうというものであった。
 
 
高松城の水攻めは「空前」<ref name=yasui16>安井(1996)p.16</ref>の「奇策」<ref name=yasuda184/>であり、秀吉の特異な戦法として世に知られる。秀吉は無益な人的損耗を避けるため、綿密な[[地勢]]研究の結果に基づいてこの策に決定、兵や人民に高額な経済的[[報酬]]を与えることによって、全長4km弱におよぶ[[堤防]]をわずか12日間で築造したのである<ref name=michi5/><ref name=yasui16/>。
 
 
こうして秀吉は、宗治救援に駆けつけた[[吉川元春]]・[[小早川隆景]]ら毛利軍主力と全面的に対決することとなったが、折からの[[梅雨]]で城の周囲は浸水し、高松城は「陸の孤島」となって毛利軍は手が出せない状況となった。
 
 
=== 本能寺の変 ===
 
{{Main|本能寺の変}}
 
明智光秀は[[甲州征伐]]から帰還した後、[[5月15日 (旧暦)|5月15日]]に信長の命により長年[[武田氏]]との戦いで労のあった[[徳川家康]]の接待役を拝命した。しかし、同日に秀吉から信長にあてた[[中国攻め]]の援軍要請の書状が届き、備中[[猿掛城]](岡山県倉敷市・[[矢掛町]])に本陣を置く[[毛利輝元]]が高松城親征に乗り出すことも報じたため、[[5月17日 (旧暦)|17日]]、光秀は接待役を中途解任され、すぐに[[安土城]]([[滋賀県]][[近江八幡市]][[安土町地域自治区|安土町]])から居城の[[近江国|近江]][[坂本城]]([[滋賀県]][[大津市]])へ立ち帰って秀吉援護の出陣準備に取りかかるよう命ぜられた。光秀は安土から坂本へ、さらに[[丹波国|丹波]][[亀山城 (丹波国)|亀山城]](京都府[[亀岡市]])に移って出陣の準備を進め、[[5月27日 (旧暦)|5月27日]]<ref name=hyakuin>『クロニック戦国全史』(1995)p.472。なお、写本によっては連歌の会の日付を[[5月24日 (旧暦)|5月24日]]、[[5月25日 (旧暦)|5月25日]]と記すものがあり、信長の家臣[[太田牛一]]の著作『[[信長公記]]』では[[5月28日 (旧暦)|5月28日]]のこととしている。</ref>、丹波・山城国境の[[愛宕山]]威徳山([[京都市]][[右京区]])に参籠して戦勝祈願の[[連歌]]の会([[愛宕百韻]])を催した。光秀はその時「時は今 天が下知る 五月哉」の発句を詠んだことで知られている。
 
 
一方の信長は[[5月29日 (旧暦)|5月29日]]に秀吉の援軍に自ら出陣するため[[小姓]]など70名ないし80名のわずかな供回りをしたがえ、留守を[[蒲生賢秀]]に託して安土城を発ち、同日、京の西洞院四条坊門の[[本能寺]]([[京都市]][[中京区]])に入って、ここで軍勢の集結を待った。信長の嫡男で[[美濃国|美濃]][[岐阜城]]([[岐阜県]][[岐阜市]])の城主[[織田信忠]]は同時に京都室町薬師寺町の[[妙覚寺 (京都市)|妙覚寺]](京都市[[上京区]])に入った。翌[[6月1日 (旧暦)|6月1日]]、信長は本能寺で博多の豪商[[島井宗室]]らをまねいて茶会を開いた<ref name=chronicle472>『クロニック戦国全史』(1995)p.472</ref>。
 
 
1日夕刻、光秀は1万3,000人の手勢を率いて亀山城を出発し京に向かった。一般には翌未明に[[大枝山|老ノ坂]](京都市[[西京区]])を通り、[[桂川 (淀川水系)|桂川]]を渡ったところで、光秀が周囲に敵が本能寺にあることを伝えたとされる<ref group="注釈">江戸時代の[[頼山陽]]『[[日本外史]]』では、亀山城を進発する際に「信長公の[[観兵式|閲兵]]を受ける」と指示したうえで桂川渡河後に信長襲撃の意図を全軍に示したと記しているが、実際には一部の重臣しか知らなかった可能性がある。また、信忠襲撃には別働隊があたり、京に続く別の山道(俗に「明智越え」と称す)を用いたという説がある。</ref>。ルイス・フロイス『[[フロイス日本史|日本史]]』や従軍した本城惣右衛門が[[江戸時代]]になってから著した『[[本城惣右衛門覚書]]』には、この時末端の兵士には徳川家康を討つと伝えられたことが記されている。
 
 
[[ファイル:Honnoj.jpg|thumb|360px|本能寺焼討之図]]
 
天正10年6月2日([[ユリウス暦]]では1582年6月21日、[[グレゴリオ暦]]で換算すると7月1日)の早朝、本能寺は光秀軍によって包囲された。馬の嘶きや物音に目覚めた信長が[[森成利]](蘭丸)にたずねて様子をうかがわせた。小姓衆は当初使用人たちの[[喧嘩]]と思っていたという。成利(蘭丸)は見聞の結果、「本能寺はすでに敵勢に包囲されており、多くの旗が見えた。旗に描かれているのは桔梗の紋である」と報告、信長は謀反の首謀者が明智光秀であったことを悟った。信長は「是非に及ばず」と語り、弓を手に持って応戦したが、弦が切れたため、次には槍を手に取り敵を突き伏せた。しかし殺到する兵により肘に槍傷を受けたため、それ以上の防戦を断念し、女たちに逃亡するよう指示して殿中の奥にこもり、成利(蘭丸)に火を放たせ、切腹して自らの命を絶った<ref>『信長公記』による経過。本能寺から避難した女衆に取材したとある。</ref>。
 
 
[[京都所司代]]として京の行政を担当していた[[村井貞勝]]の屋敷は本能寺門外にあった。貞勝より光秀謀反の報を受けた妙覚寺の信忠は父の救援のため本能寺に向かおうとしたが、既に大勢は決したとして周囲に制止された。明智軍の包囲は十分でなく、信忠と共にあった叔父の[[織田長益]](有楽斎)と[[前田玄以]]は逃亡に成功している。しかし信忠は、明智軍による検問があるだろうと判断して逃亡を諦め、貞勝らと共に兵500を率いて守備に向かない妙覚寺から東隣の[[二条御所]](二条新造御所)へ移って防戦した。信忠は、二条御所にいた[[誠仁親王]]([[正親町天皇]]第五皇子)を連歌師[[里村紹巴]]が町屋から用意した荷輿に乗せて[[内裏]]へ避難させ<ref name=chronicle472/>{{Sfn|高柳|1958|p=222}}、明智軍相手に奮戦し、自ら何箇所もの傷を負いながら兵2名を斬り倒し、少人数ながらも抵抗して明智軍を3度退却させている。
 
 
時間の経過と共に、京に別泊していた[[馬廻]]たちも少しずつ駆けつけてきたため、明智軍は最終手段として隣接する[[近衛前久]]邸の屋根から内側の見える二条御所を銃や矢で狙い打った。これにより信忠の近臣は倒れ、信忠もそれ以上の抗戦を断念して自刃した<ref>『信長公記』および『[[當代記]]』による記述。</ref>。討死したのは村井貞勝、[[菅屋長頼]]、[[猪子高就]]ら多数にのぼった。戦死者の遺体は、京都[[阿弥陀寺 (京都市上京区)|阿弥陀寺]](京都市上京区)の開基[[清玉]]が集め葬送したと伝えられる<ref name=ikegami112>池上(2002)pp.111-112</ref>。
 
 
光秀は、変後は信長残党の捜索追捕と京の治安維持に当たったが、[[山岡景隆]]・[[山岡景佐|景佐]]の兄弟が守っていた[[瀬田城]](大津市)では、2日、山岡兄弟が光秀の誘いを拒絶し、瀬田城と[[瀬田の唐橋]]を焼き落として抵抗の構えを見せた後、[[甲賀市|甲賀]]方面に避難した。2日夕刻、光秀軍は橋詰めに足がかりの塁を築いて坂本城に帰り、諸方に協力要請の書状を送った。この時、信長の部下であった美濃[[野口城]](岐阜県[[各務原市]])の城主[[西尾光教]]に対して、味方となって美濃[[大垣城]](岐阜県[[大垣市]])を攻め取るよう指令しているが、同様の書状は各所に送られたものと推定される{{Sfn|高柳|1958|p=223-224}}。
 
 
光秀は3日・4日と坂本城にいて、近江や美濃の国衆の誘降についやした。3日には[[武田元明]]・[[京極高次]]らを近江に派兵して、4日のうちには近江の大半を制圧した。ただし、山岡兄弟の件もそうであるが、安土城留守居役であった蒲生賢秀・[[蒲生氏郷|賦秀]](氏郷)父子もまた、城内にいた信長の妻妾をみずからの居城[[日野城]](滋賀県[[蒲生郡]][[日野町 (滋賀県)|日野町]])に避難させ<ref name=ikegami112/>、光秀に対して不服従の態度を明らかにするなど、当初から必ずしも光秀の思惑通りには進まなかった。このとき、信長の妻妾は安土城に火をかけ、城内の金銀財宝を移すよう主張したが、賢秀はその申し出の両方を断ったという{{Sfn|高柳|1958|p=225}}。
 
 
一方、[[大和国|大和]]の[[筒井順慶]]は、信長から中国攻めを命じられたので2日に[[郡山城 (大和国)|郡山城]]([[奈良県]][[大和郡山市]])を発し京都へ向かったが、途中本能寺の変報を聞き一旦郡山に帰り、翌3日には兵を出して[[大安寺]]・辰市・東九条・[[法華寺]](いずれも[[奈良市]])の周辺を警備して治安維持につとめた。この時、摂津にあった信長の三男・[[織田信孝|神戸信孝]]と[[丹羽長秀]]が兵員不足に窮したため与力を求められたが、これには応じず、4日に山城[[槇島城]](京都府[[宇治市]])の城主[[井戸良弘]]と順慶配下の一部の兵は山城を経て5日には光秀軍と合流して近江に入った{{Sfn|高柳|1958|p=245}}。
 
 
光秀は、5日には瀬田橋を復旧させて安土城を攻撃してこれを奪取し、信長の残した金銀財宝を家臣や新しく従属した将兵に分与した<ref name=michi7>『真説歴史の道第8号』(2010)p.7</ref>。さらに秀吉の本拠[[長浜城 (近江国)|長浜城]](滋賀県[[長浜市]])や丹羽長秀の本拠だった[[佐和山城]](滋賀県[[彦根市]])、[[山本山城]](長浜市)なども占領させた。なお、長浜城は京極高次・[[阿閉貞征]]により開城されて、光秀はここに[[斎藤利三]]を入れた。佐和山城には[[山崎片家]]が入った{{Sfn|高柳|1958|p=225-226}}。光秀は7日まで安土城にいた。
 
 
== 中国大返し ==
 
=== 変の報せと各将 ===
 
[[ファイル:Niwa Nagahide2.jpg|130px|right|thumb|[[丹羽長秀]]]]
 
[[ファイル:Shibata Katsuie large.jpg|130px|right|thumb|[[柴田勝家]]]]
 
 
{{Main|四国攻め|魚津城の戦い|伊賀越え|天正壬午の乱}}
 
信長の死は、各地に伝えられた。
 
 
'''丹羽長秀'''は神戸信孝と共に[[四国平定]]の任を負い、副将[[三好康長]]・[[蜂屋頼隆]]・[[津田信澄]]と共に[[大坂]]及び[[堺]]で渡海作戦にとりかかっていた。5月29日、信孝軍は摂津[[住吉郡|住吉]]に着陣し、また津田・丹羽勢は大坂、蜂屋勢は[[和泉国|和泉]][[岸和田]]に集結して、当初6月2日予定の渡海に備えていた。変報は'''6月2日[[午前]]'''に伝わったとみられる。津田信澄は信長の弟[[織田信行]]の子で、近江[[高島郡 (滋賀県)|高島郡]][[大溝城]](滋賀県[[高島市]])の城主であったが、光秀の[[婿]]であったため内通を疑われ、[[6月5日 (旧暦)|6月5日]]、信孝と長秀の軍勢に襲撃されて[[野田城 (摂津国)|野田城]]([[大阪市]][[福島区]])で信孝家臣[[峰竹右衛門]]・[[山路段左衛門]]・[[上田重安]]によって殺害された。京に近い大坂・堺にあった長秀と信孝は、光秀を討つには最も有利な位置にあったが、逆に[[緘口令]]が徹底できなかったため兵の多くが逃亡し、やむをえず守りを固めて羽柴軍の到着を待つかたちとなった。
 
 
'''[[柴田勝家]]'''は、[[北陸地方|北陸]]戦線にあって[[上杉景勝]]の支配する[[越中国|越中]][[魚津城]]([[富山県]][[魚津市]])を攻略中であり、'''[[6月3日 (旧暦)|6月3日]]の午前6時頃'''魚津城を陥落させ、その直後、余勢を駆って[[越後国|越後]]へむかおうとしていた矢先に変報が届いた<ref name=chronicle473>『クロニック戦国全史』(1995)p.473</ref>。勝家は後事を[[前田利家]]・[[佐々成政]]らに託し、直ちに魚津から[[船]]に乗って越中[[富山市|富山]]を経て居城の越前[[北庄城]]([[福井県]][[福井市]])に帰り、光秀討伐の準備を開始した。光秀征討の[[先鋒]]として[[養子]]であった甥の[[柴田勝豊]]や従兄弟の[[柴田勝政]]を出陣させ、[[6月18日 (旧暦)|6月18日]]には近江[[長浜市|長浜]](滋賀県[[長浜市]])まで進出させた<ref name=chronicle473/>が、その時すでに光秀は秀吉によって討滅させられた後であった。
 
 
'''徳川家康'''は、甲州征伐の際に[[駿河国|駿河]]を拝領した礼を述べるため武田旧臣の[[穴山信君]](梅雪)を伴って5月29日に安土城に上って信長に面会し、信長の勧めにより京都や和泉[[堺市|堺]]を遊覧中であった。堺では代官[[松井友閑]]や豪商達の饗応を受けていたが、'''6月2日の午前'''のうちに本能寺の変報を聞くと、上洛と称してすぐさま堺を出奔し、その日は近江[[信楽町|信楽]](滋賀県[[甲賀市]])に宿泊した(家康と別行動を取った穴山梅雪は山城で土民に殺された)。3日朝、[[伊賀越え]]の道より[[伊賀国|伊賀]]に入り、領国[[三河国|三河]]への最短距離となる[[間道]]を抜けて[[伊勢国|伊勢]][[加太]]([[三重県]][[亀山市]])を通過して伊勢の[[白子 (鈴鹿市)|白子]](三重県鈴鹿市)から船に乗り、[[6月4日 (旧暦)|6月4日]]には三河の大浜([[愛知県]][[碧南市]])に到着して本拠の[[岡崎城]](愛知県[[岡崎市]])にたどりついた<ref name=chronicle473/>。家康もまた光秀攻めをめざして[[熱田神宮]]([[名古屋市]][[熱田区]])まで進んだが間に合わず、一転して[[甲斐国|甲斐]]・[[信濃国|信濃]]攻めに着手し、短期間で領国を拡大させた([[天正壬午の乱]])<ref name=chronicle473/>。
 
 
'''[[滝川一益]]'''は[[上野国|上野]][[前橋城|厩橋城]]([[群馬県]][[前橋市]])を本拠として[[後北条氏|北条氏]]と対峙しながら[[東国]]の新領土の経営に奮闘しており、変の報せが到着したのも大幅に遅れた。また、[[河尻秀隆]]は甲斐に、[[森長可]]は信濃にあって、やはり新しく織田領となった地域の経営に努めていた。
 
 
'''[[織田信雄]]'''(信長の次男)は、本領の伊勢[[松ヶ島城]](三重県[[松阪市]])にいた。しかし、その兵の大部分は信孝の四国征討軍に従軍していたので、信雄の周囲には僅かな兵しかなく、伊勢より動くことはできなかった{{Sfn|高柳|1958|p=227-228}}。
 
 
以上のように、本能寺の変の起こった当時、信長軍団の[[師団長]]ともいうべき諸将は光秀を除いて殆どが遠方に出払い、あるいは、戦争準備の最中であり、同盟者であった家康も僅かな供回りを連れての[[上方]]遊覧の途上にあって、[[畿内]]中心部は一種の戦力空白に近い状況であった<ref name=momose>百瀬(1996)pp.62-71</ref>。加えて、光秀の組下として行動をともにすることの多かった[[丹後国|丹後]]の[[細川幽斎|細川藤孝]]・[[細川忠興|忠興]]父子や大和の筒井順慶、摂津の[[池田恒興]]・[[中川清秀]]・[[高山右近]]らは国元で中国攻めの軍を準備中であった<ref>熱田(1992)p.188</ref>。
 
 
本能寺の変報が各地に伝えられると共に、光秀に与同する者も現れたが、[[日和見主義|日和見]]的な態度をとる者も多かった<ref name=yasuda188>安田(1984)pp.188-189</ref>。こうした情勢は、しばしば織田方諸将の行動を牽制させることともなっていた。
 
 
=== 秀吉と高松城陥落 ===
 
[[ファイル:Bitchu Takamatsu castle ruins.jpg|260px|right|thumb|備中高松城本丸址公園]]
 
 
'''羽柴秀吉'''が、「信長斃れる」の変報を聞いたのは'''6月3日夜から4日未明'''にかけてのことであった{{Efn|京から200 km離れた備中高松の地で1日後に本能寺の変を察知し、対応を始めたことが後世に光秀の謀反を予見していた説や黒幕説に使われることがある<ref name=100nin>『週間 日本の100人005号 豊臣秀吉』pp.16-17</ref>。}}。『[[太閤記]]』では、光秀が毛利氏に向けて送った密使を捕縛したことを説明している。『[[常山紀談]]』では、秀吉が所々に忍びを配置しており、[[備中国|備中]]庭瀬(岡山県岡山市北区庭瀬)で怪しい[[飛脚]]を生け捕りにしたところ「信長を打ち取らば、秀吉必ず敗北すべし。秀吉を追い撃たれよ」と毛利側へ送る密書を持っていたとしている。また、京の動向を知らせるよう依頼していた信長の側近で茶人の[[長谷川宗仁]]の使者から知りえたともいわれている。なお、光秀の密使としては明智氏家臣の[[藤田伝八郎]]の名が伝わっており、岡山市北区立田には「藤田伝八郎の塚」が現在も残っている<ref name=michi7/>{{Efn|[[藤田達生]]は、秀吉本陣と小早川隆景本陣との間が5キロメートル離れていることから、密使が敵陣に迷い込むというミス犯す蓋然性は著しく低いと述べている<ref>藤田(2003)p.159</ref>}}。
 
 
秀吉は変報が伝わると情報が漏洩しないよう備前・備中への道を完全に遮断し、自陣に対しても緘口令を敷いて毛利側に信長の死を秘して[[講和]]を結び、一刻も早く上洛しようとした<ref name=100nin/>。また、変報が伝わった際、黒田孝高は傍らで主君信長の仇を討つよう進言したという逸話がある<ref name=michi8>『真説歴史の道第8号』(2010)p.8</ref>{{Efn|『毛利家文書』『當代記』などでは、黒田孝高が秀吉に対し、本能寺の変報を天の加護を得たものだ、これで何ごとも意のままになったと語ったと伝えている{{Sfn|高柳|1958|p=238}}}}。秀吉は情報を遮断した状況下で直ちに6月3日の夜のうちに毛利側から外交僧[[安国寺恵瓊]]を自陣に招き、黒田孝高と交渉させた。毛利側も、清水宗治の救援が困難だとの結論に達しつつあり秀吉との和睦に傾いていており<ref name=michi8/>、変報を知ったのは秀吉が撤退した翌日だった{{Sfn|宮本|1994}}。この、本能寺の変を知りえるまでの情報入手における微かな時間差がその後の両者の命運を大きく分けたことになる<ref name=ikegami133>池上(2002)pp.133-134</ref>。
 
 
3日深夜から4日にかけての会談で、当初要求していた備中・[[備後国|備後]]・[[美作国|美作]]・[[伯耆国|伯耆]]・[[出雲国|出雲]]の5か国割譲に代えて備後・出雲を除く備中・美作・伯耆の3か国の割譲と宗治の[[切腹]]が和睦条件として提示された<ref>秀吉と毛利の講和については、本能寺の変以前から領土画定交渉も含め進行していたとする見解がある。藤田(2003)pp.146-148</ref>。秀吉側は毛利氏に宛てて[[内藤広俊]]を講和の使者に立てている。忠義を尽くした宗治の切腹という条件について毛利家は難色を示したが、恵瓊は、高松城の城兵の助命を条件に宗治に開城を説き、ついに宗治も決断した。
 
 
秀吉は宗治に[[酒肴]]を贈った。小舟で高松城を漕ぎ出した宗治は、水上で[[曲舞]]を舞い納めた後自刃した。「浮世をば今こそ渡れもののふの名を高松の苔に残して」が[[辞世]]であったといわれる。秀吉は宗治の切腹を見届け、「古今武士の明鑑」と賞したという<ref name=michi9>(『真説歴史の道』8号、2010)p.9</ref>。宗治とその兄僧[[月清]]らの自刃は6月4日の午前10時頃と推定される<ref name=michi9/><ref>熱田(1992)p.190</ref>。この後、秀吉は高松城に[[妻]]北政所([[高台院|ねね]])の[[叔父]]にあたる腹心の[[杉原家次]]を置いた後、兵を[[東]]方へ引き返した。
 
 
毛利方が本能寺の変報を入手したのは秀吉撤退の日の翌日で、[[紀伊国|紀伊]]の[[雑賀衆]]からの情報であったことが[[吉川広家]]の覚書(案文)から確認できる{{Sfn|宮本|1994}}。この時、吉川元春などから秀吉軍を追撃しようという声もあがったが、元春の弟・小早川隆景はこれを制し、誓紙を交換している上は和睦を遵守すべきと主張したため、交戦には至らなかった<ref name=chronicle473/><ref>隆景は自分の判断を高く評価したために毛利家は安堵しているのであると、後に周囲に自慢したという。熱田(1992)p.190</ref>。輝元もこれを了承し人質として秀吉側から[[毛利重政]]・[[毛利高政|高政]]兄弟、毛利側から[[毛利秀包|小早川秀包]]と[[桂広繁]]が送られる<ref>『日向記』</ref>。また、これについては、毛利勢は備中[[松山城 (備中国)|松山城]](岡山県[[高梁市]])に[[本陣]]を置き、領国防衛を第一とする基本的な構えで秀吉軍に対峙していることから、守備態勢を追撃態勢に切り換えることは事実上不可能であったとする見解もある<ref name=momose/>。事実、秀吉は万一毛利勢から追撃される場合を措定して備前に宇喜多秀家の軍を留め置いている。仮に宇喜多軍が突破されても、伯耆の[[南条元続]]が毛利領に侵攻して毛利軍の背後を突く手筈となっていたことも考えられる<ref>藤田(2003)p.154</ref>。光秀の立場からすれば、毛利の勢力が秀吉の背後を突き、東西から挟撃する態勢となることを期待したが、毛利氏はそれに呼応しなかったし、呼応しても秀吉に挟撃できない状況を作られていたことになる。
 
 
=== 姫路への撤退 ===
 
[[ファイル:Portrait of Nakagawa Kiyohide.jpg|150px|right|thumb|[[山崎の戦い|山崎]]では軍功をあげたが[[賤ヶ岳の戦い|賤ヶ岳]]で戦死した[[中川清秀]]]]
 
 
「中国大返し」における姫路までの行軍の実態はよくわかっていない部分も多いが、経路は[[山陽道]]の[[野殿]](岡山市北区)を経由するルートがとられたものと考えられる<ref name=michi10>『真説歴史の道第8号』(2010)p.10</ref>。
 
 
このルートについて[[湯浅常山]]の著書『[[常山紀談]]』巻の五によると、[[宇喜多氏|宇喜多]]が[[明智光秀]]に通じており、長臣老将の面々が「秀吉の帰路を塞ぐべきや、如何せん」「さらば城中にて討取るべし。願う処の幸なり」と相議して秀吉を討取ろうとしていたが、秀吉は、6月7日の明け方に備中高松から岡山に行くと嘘の情報を流して宇喜多を欺き、奥州驪(おうしゅうぐろ)という名馬に乗り、雑卒に交じり[[吉井川]]を渡り片上([[備前市]])を過ぎ、宇根([[兵庫県]][[赤穂市]]有年)に馳せ著けたれば馬疲れたり」としており、野殿や沼城に立寄ったとは書かれておらず、逆に討取られるのを恐れたのか、宇喜多の勢力圏内から逃げ帰るように播磨まで駆け抜けたとしている。『梅林寺文書』では五日には野殿に在陣していたとある<ref>[http://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/handle/2324/1516170/hattori_2015_6.pdf ほらの達人 秀吉・「中国大返し」考]</ref>。
 
 
秀吉軍が備中高松城の陣を引き払って撤退し、備前[[亀山城 (備前国)|沼城]](岡山市[[東区 (岡山市)|東区]])へ向かって「中国大返し」を開始したのは、清水宗治の自刃を見送ってすぐの6月4日の午後<ref name=chronicle473/>とする見解もあるが、[[高柳光寿]]{{Sfn|高柳|1958|p=238}}、[[池享]]<ref name=ike>池(2003)p.51</ref>、藤田達生<ref name=fujita158>藤田(2003)p.158,p.195</ref>らをはじめとして6月6日とする説が有力である。[[谷口克広]]もまた、『浅野家文書』や『惟任謀反記』などより6月6日未刻(午後2時ころ)としている<ref name=taniguchi76>谷口(2007)pp.76-77</ref>。
 
 
藤田によれば、5日のうちは毛利方の出方を見極め、6日には水攻めに用いた堤防を切って高松城包囲の陣を解いたのちの出発ということになる<ref name=fujita158/>。この場合、堤防南端を切ることで足守川の[[下流]]一帯が泥沼の状態となれば、万一、毛利氏が追撃を決して、それを行動にうつしたとしても、全軍が移動するのには相当の時間がかかるだろうという計算もみえる<ref name=momose/>。谷口もやはり毛利軍の出方を警戒して2日間高松に滞陣したとしており、その上で『萩藩閥閲録』を根拠に毛利軍が高松の陣を払って引き上げたのを確認してから出発したと述べている<ref name=taniguchi76/>。
 
 
6月5日、秀吉は摂津[[茨木城]](大阪府[[茨木市]])の城主で明智光秀に近い中川清秀に対して返書を送っている。それによれば、野殿で貴下の書状を読んだが、成り行き任せで5日のうちには沼城まで行く予定であると記しており、同時に、ただ今京都より下った者の確かな話によれば、
 
 
{{quotation|
 
上様ならびに殿様いづれも御別儀なく御切り抜けなされ候。膳所が崎へ御退きなされ候。
 
}}
 
と述べている。つまり、上様(信長)も殿様(信忠)も無事に難を切り抜け、近江[[膳所]](滋賀県大津市)まで逃れているということであり、続けて[[福富秀勝|福富平左衛門]]が比類ない働きをした、めでたい、自分も早く帰城すると記している。
 
 
これは、明らかな[[偽情報|虚偽の情報]]であった。この[[手紙]]が高松の陣で書かれたのか、野殿で書かれたのかは不明であるが、本能寺の変に伴う清秀の動揺や疑心暗鬼を、偽情報を流してでも鎮めようとしたものと考えられる。秀吉は既にこの時点で、[[情報操作]]によって少なくとも清秀が光秀に加担しないように気を配り、事を自らの有利に運ぼうと画策したことが覗われる<ref name=michi10/>。
 
 
岡山城の東方に立地する沼城は、その姿から亀山城とも呼ばれ、岡山城に本拠を移すまで[[宇喜多直家]]の居城であり、嫡男・秀家の生まれた城であった。高松城から沼城までの距離はおよそ22キロメートルあり、重装備での行軍となった。6月6日未刻に高松を発したとする場合、沼城への入城はその日のうちのことであると思われる<ref name=taniguchi76/>。
 
 
4日に高松を出発した説に従えば、4日夜は、野殿を過ぎたところで[[野営]]を行ったとみられ、沼城へは翌[[6月5日 (旧暦)|6月5日]]の[[昼]]過ぎに到着して数時間ここで休憩をとり、宇喜多勢をここに残して、秀吉の本拠地播磨国[[姫路城]](兵庫県[[姫路市]])へと向かったとされている<ref name=michi10/>。
 
 
毛利氏が絶好の上洛の機会を捨てて高松の陣を引き上げてしまったのは何故かということに関しては、谷口が『萩藩閥閲録』に「謀反した者は津田信澄・明智光秀・柴田勝家」と記されていることに着目し、もしこの情報通りであると毛利方が受け止めたなら、仮に秀吉軍を破っても明智・柴田の大軍と対峙しながら入京するのは困難だと判断したのではないかと論じている<ref>谷口(2007)pp.77-78</ref>。
 
 
=== 姫路城への帰還 ===
 
[[ファイル:Funasaka pass.jpg|thumb|240px|right|備前・播磨国境の[[船坂峠]]]]
 
[[ファイル:Himeji Castle The Keep Towers.jpg|240px|right|thumb|[[池田輝政]]によって改修された[[姫路城]]の天守(ユネスコ[[世界遺産]])]]
 
 
姫路城は、秀吉の中国攻め以前は姫路山城といい、黒田孝高の居城であったが、天正5年([[1577年]])の秀吉の播磨着陣の際に孝高より秀吉に献上され、播磨を再び平定した後にあらためて城が築かれ、城下町の整備が成された城であった。
 
 
沼城から姫路城までは約70キロメートルの道のりであるが、秀吉が姫路城に帰還したのは6月7日夕方とする見解が最も多い<ref name=chronicle473/>。6月4日のうちに備中高松を引き払ったとする説では姫路帰還は6月6日夜のことと考えられている<ref name=michi10/>。なお、藤田達生は、7日は洪水のため滞陣し、姫路到着を8日とする見解を示している<ref>藤田(2003)p.195</ref>。
 
 
沼城と姫路城の間には[[軍記物語]]『[[太平記]]』に「山陽道第一の難処」と記された[[船坂峠]]があり、[[谷]]が深く、[[道]]が狭隘な上に滑り易いとされていた<ref>『真説歴史の道第8号』(2010)p.11</ref>。また、姫路城への帰還は[[暴風雨]]の中行われたという記録もあり<ref name=chronicle473/>、道筋の[[河川]]は相次いで増水したという<ref name=momose/>。この時、秀吉は[[氾濫]]した川近くの[[農民]]を雇って、人の[[鎖]]をつくり、その[[肩]]に負いすがりつつ川を渡らせたという逸話が残っている<ref name=owada>小和田(2003)pp.86-89</ref>。
 
 
行軍は、秀吉を先頭に2万以上の軍勢が、一部は後方の毛利軍を牽制しながらなされた。街道で道幅の狭い箇所では2間(約3.6メートル)に満たないところもあり、兵は延々と縦列になって進まざるをえないことも多かったと考えられる<ref name=michi10/>。これは非常に危険な行軍となったことから、秀吉自身と物資を[[輸送]]するための[[輜重隊]]とは、危険と混乱を回避するために[[海路]]を利用したのではないかという憶測も生まれた<ref name=michi10/>。いずれにしても、悪天候の中1日で70キロメートルの距離を走破したこととなり、これは当時にあって驚異的な速度といってよい<ref name=momose/>。尚、姫路への帰還が最も早かった者からみれば、最後尾の者の到着は相当遅く、全軍の帰還には時間がかかったといわれている。帰還がもっとも早かった者は騎馬武者と考えるのが自然であり、そうだったとすれば1日70キロの速度もそんなに無茶なものではない。当然ながら徒歩の兵の到着はかなり遅れたであろう。
 
 
本拠地姫路城に到着した秀吉軍は、[[6月9日 (旧暦)|6月9日]]朝まで滞留し、休養をとった。休養にあてた一日、秀吉は姫路城の[[蔵奉行]]を召集し、城内に備蓄してあった[[金銭]]・[[米穀]]の数量を調べさせ、これらを[[身分]]に応じて配下の将兵に悉く分与したといわれる<ref name=momose/>。これは、姫路籠城の選択肢はないこと、目的は光秀討伐以外ないことを鮮明にし、決死の姿勢を示した上で、負けても姫路へは帰れないが、勝てば更なる[[恩賞]]も期待できることを示唆しての処置であったと考えられる<ref name=momose/>。
 
 
一方の明智光秀は、娘[[細川ガラシャ|ガラシャ]](たま)の夫で丹後[[田辺城 (丹後国)|田辺城]](京都府[[舞鶴市]])の城主細川忠興とその父で[[足利義昭]]以来の僚友・細川藤孝を味方に誘うなど、新体制作りに専心した。ところが、藤孝・忠興の父子は6月3日の段階で「信長の喪に服す」と称して[[剃髪]]し、[[中立]]の構えを見せることで、婉曲にこれを拒んだ。藤孝は、この時「幽斎玄旨」と名を改めて家督を忠興に譲り、忠興の正室ガラシャは丹波山中に幽閉された<ref>ガラシャの幽閉先を丹後味土野の山中([[京丹後市]]弥栄町)とする説もある。</ref>。なお、6月8日までの間に、秀吉方は藤孝と連絡をとっている可能性がある(後述)<ref name=fujita161>藤田(2003)pp.161-162</ref>。
 
 
[[朝廷]]は、近江をほぼ平定した光秀に対し、[[6月7日 (旧暦)|6月7日]]、[[吉田兼見]]を勅使として安土城に派遣し、光秀の勝利を祝賀している。光秀はこれと会見し、8日には坂本城に帰った<ref name=atsuta189>熱田(1992)p.189</ref>。
 
 
なお、[[武田勝頼]]に内通した疑いで天正8年に織田家より追放されていた[[安藤守就]]は、本能寺の変では光秀に呼応し、2日、子の[[安藤尚就|尚就]]と共に美濃で挙兵したが、8日に[[北方城]]([[岐阜県]][[北方町]])の城主[[稲葉良通]](一鉄)に攻められ自害している。光秀が秀吉の大行軍の情報に接したのは、同じ8日のことであった。
 
 
=== 洲本占領と尼崎到着 ===
 
[[ファイル:Akashi Castle03s4592.jpg|240px|right|thumb|[[兵庫県立明石公園]]]]
 
[[ファイル:Owadanotomari-iwakura.jpg|thumb|right|240px|兵庫港の前身[[大輪田泊]]の石椋]]
 
[[ファイル:Amagasaki.jpg|240px|right|thumb|当時は大物城と呼称した[[尼崎城]]]]
 
 
姫路を出発したのが6月9日であったことについては、それぞれの[[史料]]において一致している。9日朝、秀吉は子飼いの浅野長吉(後の[[浅野長政]])を[[留守居役]]として姫路に留め、残り全軍を率いて姫路城を進発した。この日は[[明石市|明石]]を経て、夜半には[[兵庫港]]([[神戸市]][[兵庫区]])近くに野営した。また、別働隊を組織して[[明石海峡]]より[[淡路島]]東岸に進軍させ、明智方にまわる可能性のある[[菅達長]](菅平右衛門)の守る[[洲本城]](兵庫県[[洲本市]])を攻撃した<ref name=momose/>。菅氏は毛利氏に与力していたので、[[水軍]]による海上からの襲撃を警戒したものであった<ref name=michi12>『真説歴史の道第8号』(2010)p.12</ref>。洲本城は9日のうちに落城した。
 
 
秀吉は同時に、播磨・摂津国境付近に[[岩屋砦]]を[[普請]]している。これは、[[6月10日 (旧暦)|6月10日]]付の秀吉書状によれば明智光秀が[[久我]](京都市[[伏見区]])付近に着陣したと記されていることから、光秀が摂津・[[河内国|河内]]方面へ移動するのではないかと考えたため、国境付近をかためて急襲に備える必要に迫られたからと推定される<ref name=michi12/>。
 
 
当時、大坂に滞在中の神戸信孝が光秀軍に包囲されて自刃したという風評も流れていた。10日付けの秀吉書状には、6月11日まで兵庫または[[西宮市|西宮]](兵庫県[[西宮市]])あたりまで行軍する予定であると記されている<ref name=michi12/>。実際には10日の段階で光秀は京の[[下鳥羽]](京都市[[伏見区]])におり、山崎周辺にも兵を派遣していた<ref name=michi13>『真説歴史の道第8号』(2010)p.13</ref>。この段階では、秀吉・光秀の双方が互いの腹を探り合いつつ、意図的に風評を流すことも含めた激しい情報戦を展開していたのである。
 
 
秀吉軍は慎重に行軍しながら10日朝に明石を出発し、同日の夜には兵庫まで進んでいた。10日夜は兵庫で充分に休息し、翌[[6月11日 (旧暦)|6月11日]]朝に出発。摂津[[尼崎市|尼崎]]へ到着したのは、その日の夕刻であったろうと考えられる。尼崎東方には[[淀川]]が流れ、その対岸は大坂である。秀吉が亡君の[[弔い]][[合戦]]に臨む決意を示すため、当時、尼崎東郊にあったとされる[[栖賢寺]](廃寺)で自身の[[髻]](もとどり)を切ったという逸話が残っている。秀吉は大坂在陣中の丹羽長秀、神戸信孝および[[伊丹城|有岡城]](兵庫県[[伊丹市]])の城主池田恒興らに尼崎へ着陣したことを書面で伝えた。
 
 
この間、光秀は近江方面の攻略が一段落した9日、勅使下向の返礼と称して安土より上洛した。光秀入京の際には[[公家]]や[[町衆]]が群がって出迎えたといわれる。光秀は吉田兼見を通じて朝廷に銀子500枚、[[京都五山]]・[[大徳寺]]などをふくめると700枚の銀子を献上、さらに上京・下京に対し[[地子銭]]免除の特典を発し、新たな天下人として振る舞った<ref name=michi7/><ref name=yasuda188/><ref group="注釈">光秀の銀子献上に対し、正親町天皇は献上御礼の[[女房奉書]]を与えている。</ref>。
 
 
また光秀は、6月9日付で細川藤孝(幽斎)に対して再び書状を送り、味方してくれれば摂津一国と、希望とあれば[[但馬国|但馬]]でも[[若狭国|若狭]]でも藤孝父子に差し上げる、50日・100日の間に近国を平定し、その後は忠興や自分の嫡子[[明智光慶]]に政務を譲って引退すると約束した<ref name=atsuta189/>。しかし、藤孝はまたも中立の姿勢を貫いたが、藤田達生によれば、この間、遅くとも6月8日までに秀吉の使者が藤孝と接触していたとしている<ref name=fujita161/>。藤孝は光秀からの要請に応じなかったが、山崎の戦いでは秀吉にも加勢しなかったにもかかわらず、[[7月11日 (旧暦)|7月11日]]付の書状においては秀吉は藤孝に対し、その全面的な協力に謝意を表し、今後の[[細川氏]]の処遇を請け合うことを神に誓う[[起請文]]を発している<ref name=fujita161/>。
 
 
一方で大和には使者を送り筒井順慶に加勢を求めた。順慶は、6月2日の時点では上洛の途中であったが、本能寺の変報を聞いて引き返した。4日には兵を山城に出し、5日には一部を近江に進出させて光秀に協力したため、光秀への加担が確実なものと周囲には思われていた<ref>『多聞院日記』にも、「順慶はかたく光秀と一味か」と記されている。熱田(1992)p.189</ref>が、9日には居城の郡山城に退去して、籠城の覚悟を決めて米や塩を入れはじめた<ref name=atsuta189/>。態度をはっきりさせない順慶に対して光秀は、10日、[[淀川|宇治川]]・[[木津川 (京都府)|木津川]]をこえて男山(京都府[[八幡市]])に近い[[洞ヶ峠]](京都府[[八幡市]]・大阪府[[枚方市]])まで出かけて圧力をかけたが手応えがなく、同日、順慶は山城に派遣していた兵も引きあげてしまった<ref name=atsuta189/>。光秀は順慶への誘いを諦め、男山に伏せておいた兵力を撤収させ、洞ヶ峠をおりて下鳥羽に陣を敷いた。また、兵の一部と近在の[[農民]]を徴発して[[天王山]]の北に位置する[[淀古城|淀城]](京都市伏見区)を修築し、その西方の[[勝竜寺城]](京都府[[長岡京市]])にも兵を入れた<ref name=momose/>。これは10日から11日にかけてのことと考えられる。
 
 
なお、秀吉は備中高松から姫路までの移動の迅速さに比べれば、姫路からの移動は、慎重さを伴い、着実な行軍に重点が置かれている。姫路までは、毛利方の追撃を免れるため何よりも[[スピード]]が重視されたのに対し、姫路からは光秀の放った[[伏兵]]などを警戒しながらの行軍であり<ref group="注釈">尼崎の西には、飛翔する[[キジ]]をみて秀吉が光秀の伏兵を察知したという伝承地「雉ガ坂」がある。</ref>、同時に同盟者を募り、情報戦を繰り広げながらの行軍だったのである。
 
 
=== 摂津富田への布陣 ===
 
[[ファイル:高槻城4.jpg|240px|right|thumb|[[高槻城]]跡の[[石碑]]]]
 
 
長秀・信孝・恒興らに尼崎着陣を伝えた書状において秀吉は、今回の戦いは「逆賊明智光秀を討つための義戦である」ということを強調している。[[6月12日 (旧暦)|6月12日]]、秀吉軍は尼崎から[[西国街道]]をそのまま進み[[富田 (高槻市)|富田]](大阪府[[高槻市]])に着陣したが、秀吉の[[宣伝]]は功を奏し、恒興、中川清秀、高山右近ら摂津の諸将が相次いで秀吉陣営にはせ参じた<ref name=momose/>。中国方面軍司令官である秀吉が大軍を率いて無傷で帰還したことで、それまで去就をためらっていた諸勢力が一気に秀吉方についたのであり、このことが山崎の戦いでの秀吉の大勝利につながった。一方の光秀は[[キリシタン大名]]の右近に対して[[イエズス会]]の[[宣教師]][[グネッキ・ソルディ・オルガンティノ|オルガンティノ]]を通して説得したが、成功しなかった<ref name=michi15>『真説歴史の道第8号』(2010)p.15</ref>。
 
 
大坂で信孝・長秀の軍と合流した上で京に向かうのではなく、秀吉が西国街道をそのまま進んで富田に着陣したことについては、秀吉が既にこの時点で戦後の政局を考慮しており、誰よりも早く主君の弔い合戦に駆けつけたのは秀吉軍であるということを広く天下に知らしめる必要があったとする見解がある<ref>藤田(2003)p.166</ref>。
 
 
[[浄土真宗]][[教行寺 (高槻市)|教行寺]]の[[寺内町]]として栄えた富田は[[大阪平野]]北端にあって天王山にも近く、茨木城と[[高槻城]]のほぼ中間に位置して[[西国街道]]が通じ、淀川の水運も利用できた。また、微高地状の地形になっていて守備も比較的容易だったため軍事拠点に選ばれたのである。秀吉は富田に野営を設けて作戦会議を開き、その結果、
 
#左翼(山手)…[[豊臣秀長|羽柴秀長]]、黒田孝高ら
 
#中央(中手筋道)…高山右近、中川清秀、[[堀秀政]]ら
 
#右翼(川手)…池田恒興、[[池田元助]]、[[加藤光泰]]ら
 
の三軍に分かれて進撃することに決し、右近・清秀らに先発を命じた。そこへ信孝・長秀が大坂より合流した<ref>熱田公は、信孝・長秀の参陣を13日昼頃、山崎において合流としている。熱田(1992)p.194。また、谷口も信孝到着を13日昼としている。谷口(2007)p.80</ref>。秀吉軍の軍勢は『太閤記』では4万余、『兼見卿記』では2万余と記しているが、谷口は2万余が実数に近いのではないかと推測している<ref name=taniguchi80>谷口(2007)p.80</ref>。明智討伐軍の総大将には信孝が立ったものの、信孝自身兵の多くが逃亡し、ひたすら秀吉の到着を待つほかなかった。畿内の有力諸将を味方につけてこれを編成した功績は秀吉にあり、秀吉が終始主導権を握ったのも自然の成り行きであった<ref name=taniguchi80/>。
 
 
[[ファイル:Tennozan Shimamoto.jpg|240px|right|thumb|大阪府側からみた[[天王山]]([[東海道本線]]奥に見える)]]
 
対する光秀軍は、右近、清秀、順慶のみならず姻戚関係にあった細川父子からも協力が得られなかったため、兵員は秀吉軍の半数以下であった。『[[太閤記]]』には、秀吉軍計4万人に対して、光秀軍1万6,000人と記しているが、多めに見積もっても兵員1万5,000程に過ぎなかったという見解もある。いずれにせよ、寡兵で戦わざるをえない光秀としては、淀川と天王山に挟まれた山崎の狭隘な道を秀吉軍が縦長の陣形で進軍してくるところを順次撃破していくという作戦しかとれなかった。
 
 
今日においても[[大阪平野]]の[[北摂|北摂地方]]から[[京都盆地]]に入るには、どうしても通らなければならないのが山崎の地である<ref name=owada/>。光秀としては、秀吉の大軍をどうにかして山崎の隘路において防ぎとめなければならないと考えていたものと思われる<ref name=owada/>。光秀はこの作戦に基づいて勝竜寺城を前線として淀城を左翼、[[円明寺川]]に沿った線を右翼として兵を配置、中央には子飼いの斎藤利三や阿閉貞征らの近江衆を配し先鋒隊とした。しかし、光秀の本陣は12日時点でも下鳥羽に置かれたままであった。その面では、光秀の作戦は[[軍事]]的のみならず[[心理]]的にも守勢に立ったものといってよい<ref name=momose/>。なお、この作戦を有利に展開していくためには、山崎を見下ろす戦略的な要地である天王山を確保しなければならなかったという見解がある<ref>藤田(2003)p.167</ref><ref>『太閤記』では、天王山の争奪が戦運を左右したように記している。</ref>一方、天王山の重要性に否定的な見解もある<ref>熱田(1992)pp.194-195</ref>。
 
 
== 山崎の戦い ==
 
{{Main|山崎の戦い}}
 
秀吉が富田に着陣した頃から、既に光秀軍との[[前哨戦]]が始まっていた。光秀が駐留していた勝竜寺城付近で既に[[鉄砲]]を打ち合っていることが確認されていることより、秀吉には遊撃軍のような部隊があって、[[偵察]]も兼ねて背後より光秀を攻撃しようとしていたことが覗われる。勝竜寺城はかつて細川氏の居城であったが、丹後移封後は村井貞勝の与力矢部善七郎、矢部猪子兵助が守備にあたっていた。光秀はその[[矢部氏]]より勝竜寺城を奪ったのである<ref>『真説歴史の道第8号』(2010)p.16</ref>。
 
 
6月12日夜、富田で一夜を過ごした秀吉は、[[6月13日 (旧暦)|6月13日]](ユリウス暦では1582年7月2日、グレゴリオ暦換算では7月12日)朝には同地を出発し、決戦の地山崎へと向かった。光秀もようやく本陣を下鳥羽から[[御坊塚]](京都府大山崎町)へ移して戦線を円明寺川一帯へとひろげた。
 
 
[[ファイル:Yamazaki02.jpg|right|thumb|450px|現在の小泉川([[京滋バイパス]])をはさんで両軍が対陣したといわれている山崎の町]]
 
[[ファイル:Syouryuuj22.jpg|200px|thumb|[[細川忠興]]と[[細川ガラシャ|ガラシャ]]がかつて婚儀をむすんだ[[勝竜寺城]](推定城郭部分)<br/>{{国土航空写真}}]]
 
 
山崎は、木津川・宇治川・桂川の三川が合流して淀川となって[[大坂湾]]に流れ込む結節点となっており、現在でも、[[新幹線]]をふくむ[[鉄道]]や[[高速道路]]をふくむ[[幹線道路]]が何本も集中する土地柄である。また、[[中世]]を通じて[[灯明|灯明油]]の販売で発展し、「[[大山崎油座|大山崎惣中]]」なる[[自治]]組織と[[特権]]を認められてきた町でもあった。
 
 
本能寺の変の翌日、山崎では光秀より[[禁制]]を得て、軍勢の狼藉や陣取り・[[放火]]の禁止、[[兵糧米]]賦課免除に成功した。光秀から禁制を得たことは、とりあえずは光秀を信長の後継者たる為政者とみなしたこととなる。無論、禁制の対価として光秀に対しては金銀が支払われた。しかし、ここに秀吉軍が侵入するという段になって、富裕な町であった山崎も混乱をきわめた。もう一方の総大将である信孝からも禁制を得て[[掠奪]]や狼藉から免れようとしたが、山崎が激戦の舞台となることは、もはや避けられなかったのである<ref>『真説歴史の道第8号』(2010)pp.14-15</ref>。
 
 
秀吉が山崎に着陣したのは13日の昼頃であり、[[宝積寺]](京都府大山崎町)に本陣を置いた。[[梅雨]]の[[季節]]ということもあって[[雨]]も降りしきっていたという。この戦いに先立って、勝敗の行方を決すると見なされていた天王山は、既に先遣隊の中川清秀らによって占拠されていて、高山右近隊も山崎の町に入って西国街道の通る関門を手中におさめた。この時、秀吉本隊は池田恒興らと共に右翼の川手方面を進んでいる。
 
 
[[申]]の刻(午後4時ころ)、光秀軍の先鋒[[並河易家]]・[[松田政近]]隊ら丹波衆による中川清秀、黒田孝高・[[神子田正治]]隊への攻撃がはじまり、秀吉軍は反撃を開始した<ref name=owada/><ref>吉田兼見『[[兼見卿記]]』の記述による。</ref>。近くに居城を構える清秀・右近らは山崎周辺の[[地理]]にも明るく、兵力差もあって秀吉軍優位のうちに戦いは推移した。戦闘は光秀軍の丹波衆と天王山の山腹をしめる中川隊との間から、やがて東の淀川沿いへと波及していった。
 
 
秀吉はこの状況をみてすかさず全軍に総攻撃を発令した。秀吉本隊の大軍が山崎の隘路より殺到したため、兵力、士気ともに勝る秀吉軍が光秀軍を圧倒し、光秀軍は副将斎藤利三らの奮戦にもかかわらず、たちまち総崩れとなった<ref name=momose/><ref name=rizou>小和田哲男は、斎藤利三は山崎の戦いで戦死したとしている。小和田(2003)p.88</ref>。ただしフロイスの観察によれば、高山・中川・池田の摂津衆に比べて、秀吉が中国地方より引き連れてきた兵はいずれも疲れていたという<ref>藤田(2003)p.169</ref>。このとき、光秀の軍勢は、光秀直属の家臣のほかに近江衆と丹波衆、そして京都近郊を本拠地とする旧幕府衆より構成されていた。このうち近江衆が、変後の近江平定の際に光秀に従った者が多く、総じて士気が低かった<ref>このときの近江衆には[[池田景雄|池田秀雄]]や[[小川祐忠]]、[[京極高次]]など山崎戦後も処罰されず、豊臣大名となった者もいる。</ref>のに対し、[[伊勢貞興]]、[[諏訪盛直]]、[[御牧景重]]などからなる旧幕府衆は奮戦し、多くが討ち死にしている<ref>藤田(2003)pp.170-171</ref>。
 
 
光秀は、山崎周辺に伏せておいた兵を早々に撤収させ、光秀本陣も解いて勝竜寺城に籠もらせたが、そこもまもなく秀吉軍に包囲された。勝竜寺城は堅城ではあったが、数万の軍勢による攻撃を支えることは無理であったため、光秀は近臣を従えて勝竜寺城を脱出して京方面に逃亡した。このため、京都市中は一時混乱をきわめ、主を失った勝竜寺城内の将兵もまた相次いで逃亡した<ref name=momose/>。日本史学者[[小和田哲男]]は、この時の敗走が丹波へ向かう亀山組と近江へ向かう坂本組の二手に分かれてしまったことを指摘し、敗走先を一地点に集中できなかったことが「光秀にとって最大の誤算」と評している<ref name=owada/>。翌朝、兵員僅かとなった勝竜寺城は秀吉軍に[[降伏]]を申し入れた。光秀自身は、近江での再起をはかるべく、居城坂本城を目指して逃亡した。そして、現代の時法では日付の替わる翌[[未明]]、[[小栗栖]](京都市伏見区)の間道へと差しかかったところを[[土民]]に襲われて死亡した。光秀の介錯をしたのは[[溝尾茂朝]]であったといわれる<ref name=momose/>。
 
 
秀吉は13日夜は勝竜寺城包囲を配下に任せ、淀城に宿営している。翌14日、まだ光秀が死去したことを知らない秀吉は近江に進軍して[[三井寺]](滋賀県大津市)に本陣を構えた。『[[豊鑑]]』などによれば、秀吉が光秀の死を確認したのは、この三井寺滞陣中のことであったとされている。小栗栖の里人が[[布]]で包まれた首級を発見し、近江方面をも見回るうちに秀吉進駐の事実を知って申し出たものだという<ref name=momose/>。秀吉は首が光秀のものであることを確認し、首級は京都の[[粟田口]]にさらされた<ref name=michi17>『真説歴史の道第8号』(2010)p.17</ref>。これには、洛中洛外より多くの見物人が集まったといわれている<ref name=michi17/>。
 
 
[[6月15日 (旧暦)|6月15日]]、安土城は原因不明の出火によって焼け落ちた。秀吉はその翌日に安土に入り、山本山城の城主[[阿閉貞大]](貞征の子)に占領されていた長浜城を奪回し、丹羽長秀も佐和山城を回復した<ref name=atsuta196>熱田(1992)p.196</ref>。秀吉は貞征・貞大父子を殺し、[[6月22日 (旧暦)|6月22日]]からは信孝と共に美濃・尾張へと進軍し、山城・近江とあわせて信長・信忠父子の本拠だった地域をあらかた掌握した<ref name=ikegami133/>。秀吉の母[[大政所|なか]]と妻ねねは貞大の占領中は[[伊吹山]]の山麓にひそんでいたという<ref name=atsuta196/>。
 
 
なお、東国にあった滝川一益は、[[6月16日 (旧暦)|6月16日]]から[[6月19日 (旧暦)|6月19日]]にかけて、[[神流川の戦い]]で[[北条氏直]]の軍に大敗し西方への撤退を余儀なくされている。一方、甲斐にあった河尻秀隆に対しては、徳川家康がこれを奪おうとして6月10日頃家臣[[本多信俊]]を甲斐へ送り込んで退去を促した(武田旧臣を煽り一揆を起こさせたともいう)。退去を拒否した秀隆は信俊を殺害するも、6月18日、一揆勢に襲撃されて落命した{{Sfn|高柳|1958|p=230}}。信濃も森長可ら織田家の部将が撤退したため甲斐・信濃は空白地帯となり、両国を巡り家康と氏直が争うことになる([[天正壬午の乱]])。
 
 
== 歴史的意義 ==
 
[[ファイル:Toyotomi hideyoshi5.jpg|thumb|清洲会議の一場面([[絵本太閤記]])/日本城郭資料館所蔵]]
 
[[ファイル:Kiyosu_Castle.JPG|160px|right|thumb|[[清洲会議]]のひらかれた尾張[[清洲城]](模擬天守閣)]]
 
本能寺の変は、上述したように、畿内中央において一種の戦力の空白状態となっているところへ、光秀には中国攻めへの加勢という大軍を動かす名分と理由があり、一方で主君信長は70人ほどの[[小姓]]衆とともに本能寺に投宿するという状況のなかで起こった。光秀からしてみれば、信長を弑逆するのに、これ以上はないという好条件のそろったなか、絶妙なタイミングでの謀反であった<ref name=momose/>。
 
 
そしてここには、仮に遠征中の諸将が本能寺の変を知ったとしても、戦線を撤収して光秀を討つべく反転し、京都に攻めのぼってくるのには時間がかかるであろうとの読みがあったと思われる。また、諸将が対戦している当の敵(毛利氏、[[上杉氏]]など)と光秀自身とが同盟し、織田方の諸将を挟撃する体勢にもっていければ、さらに時間を稼ぐことができるものと判断したであろうことは、光秀が毛利氏などに変報を伝えようと伝令を発していることからもうかがわれる<ref name=momose/>。
 
 
もし、そのように時間的な余裕をつくりだすことに成功すれば、その間、朝廷を味方につけたうえでみずからの後ろ盾とし、軍事的には、畿内中央ほか近江や美濃など信長の領国の核心部を制圧して、仮に遠征中の諸将が合同して光秀に立ち向かったとしても、ある程度の余裕をもって対抗できる勢力をそこに培うことが可能であるという見通しがあったものと思われる<ref name=momose/>。そのことは、上述した光秀の細川幽斎あての6月9日付書状にも、50日、100日のうちには近国を固め、その後を忠興らに託したいとの文章があることからもうかがえる{{Sfn|高柳|1958|p=243-244}}。
 
 
秀吉の迅速果敢な中国大返しの大行軍は、このような光秀の読みや見通しを覆す効果を有していた。光秀・秀吉はともに「時間が勝負」であるという認識をもっていたと思われるが、結果からみれば、光秀はそれに失敗し、わずか10日以内に中国地方から京に駆けつけた秀吉は大成功をおさめたことになる。他の信長の部将と比較しても、その行動力と作戦能力は群を抜いていた。光秀は、羽柴軍の予想を上回る速い進撃に対応が遅れた<ref name=ike/>。
 
 
このことについて、ルイス・フロイスは光秀の失敗は、彼が摂津の諸城を占領して、諸大名から人質をとらなかったことに起因するとしている{{Sfn|高柳|1958|p=251}}。藤田達生もまた、光秀にとって最も深刻たるべき誤算は、従前彼の組下であった清秀・右近・恒興ら摂津諸将の離反とみなしている<ref>藤田(2003)p.196-197</ref>。これに対し、高柳光寿は結果からすればまさしくその通りではあるものの、当時の光秀の立場に即して考えれば、それまで光秀と深い関係にあった大名や組下の大名の本拠としていた摂津・大和・丹後方面よりも、まずは明らかに対立勢力の基盤となる怖れのある近江・美濃方面の鎮定を優先したのは、決して間違っていなかったとみる{{Sfn|高柳|1958|p=251-252}}。そして、秀吉の上洛がいま少し遅れていたならば、摂津・大和・丹後方面の経略も成功していたのではないかと推測する{{Sfn|高柳|1958|p=251-252}}。
 
 
秀吉からみれば、山崎の戦いは亡き主君信長の弔い合戦であった。この合戦に先だって、秀吉は積極的に[[情報戦]]を繰り広げ、多数派工作と[[大義名分]]の獲得に成功した。そして、亡君の弔い合戦をほぼ独力で成し遂げ、あるいは終始これを主導したという実績は、戦後の織田家中にあって断然大きな意味をもっていた。秀吉の政治的地位の向上は、もはや自然の成り行きであり、その戦勝の成果は6月27日に[[尾張国|尾張]][[清洲城]](愛知県[[清須市]])で開催された[[清洲会議]]でもいかんなく発揮され、宿老柴田勝家の発言力を上まわって会議を席巻した<ref name=chronicle473/>。
 
 
天正10年6月の、この疾風のような破竹の大行軍とそれにつづく山崎での劇的な勝利は、「秀吉の天下」が一気に現実性を帯びることとなる大きな契機となったのである。
 
 
== 軌跡 ==
 
*年はいずれも天正10年(1582年)である。
 
{|class="wikitable" cellspacing="0"
 
! style="white-space:nowrap;" |和暦<br/>[[太陰太陽暦]]|| style="white-space:nowrap;" |西暦<br/>[[ユリウス暦]]|| style="white-space:nowrap;" |[[グレゴリオ暦|グレゴリ<br/>オ暦]]換算||[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]の動向||[[明智光秀]]の動向||その他のできごと
 
|-
 
||天正10年<br/>5月8日||1582年<br/>5月29日||6月8日||[[備中国|備中]][[高松城 (備中国)|高松城]]を包囲して[[備中高松城の戦い|水攻め]]を開始||||
 
|-
 
||5月15日||6月5日||6月15日||||主君[[織田信長]]より[[徳川家康]]の[[饗応役]]を仰せつかる||
 
|-
 
||5月17日||6月7日||6月17日||信長への援軍を要請。信長の中国出陣が現実化||家康饗応役を解任されて[[坂本城]]に帰城||
 
|-
 
||5月19日||6月9日||6月19日||高松城水攻めの堤防工事が完了||||
 
|-
 
||5月26日||6月16日||6月26日||||[[丹波国|丹波]][[丹波亀山城|亀山城]]に入城||
 
|-
 
||5月27日||6月17日||6月27日||||戦勝祈願のため[[愛宕山 (京都市)|愛宕山]]に登る||
 
|-
 
||5月28日||6月18日||6月28日||||愛宕山[[威徳院]]で[[里村紹巴]]らと戦勝祈願の百韻連歌会を開催<ref name=hyakuin/>||
 
|-
 
||5月29日||6月19日||6月29日||||||家康、[[近江国|近江]][[安土城]]を訪れて信長に面会。駿河拝領の礼を述べる<br/>信長、安土城を出発して京都[[本能寺]]に到着<br/>[[織田信孝|神戸信孝]]、四国攻めのため[[摂津国]][[住吉区|住吉]]に着陣
 
|-
 
||6月1日||6月20日||6月30日||||丹波亀山城を進発して本能寺へ向かう||信長、本能寺で茶会をひらき、勅使・公家・堺衆に名物の茶器を披露<br/>同夜、[[本因坊算砂]]と[[碁]]を打つ
 
|-
 
||6月2日||6月21日||7月1日||||'''[[本能寺の変]]'''。本能寺と二条城を急襲し信長・[[織田信忠|信忠]]父子を自害に追い込む<br/>その後、安土城へ向かうが[[山岡兄弟]]に[[瀬田橋]]を破壊され果たせず<br/>夕方、坂本城へ戻り、諸方に協力要請の書状を送る||家康、[[堺]]遊覧中に本能寺の変の報せを受けて避難。近江[[信楽]]で宿泊<br/>[[穴山梅雪]]、[[宇治田原町|宇治田原]]<ref group="注釈">京都府[[京田辺市]]の山城大橋付近という説もある。</ref>で野武士に殺される(家康首謀説あり)
 
|-
 
||6月3日||6月22日||7月2日||夜~翌朝の間に本能寺の変報届く<br/>[[安国寺恵瓊]]を自陣に招いて停戦交渉開始||家臣を近江平定のために派遣する||午前、[[柴田勝家]]、[[越中国|越中]][[魚津城]]を陥落させる。直後本能寺の変報を聞く<br/>[[細川幽斎|細川藤孝]]・[[細川忠興|忠興]]、剃髪して信長の喪に服する
 
|-
 
||6月4日||6月23日||7月3日||信長の死を秘して[[毛利輝元]]と和議<br/>午前、高松城主[[清水宗治]]切腹を見分<br/>一説によると、この日から'''中国大返し'''を開始<ref>[http://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/handle/2324/1516170/hattori_2015_6.pdf ほらの達人 秀吉・「中国大返し」考]</ref>。||[[筒井順慶]]と結ぶ<br/>近江をほぼ平定||家康、[[三河国|三河]][[岡崎城]]に帰還<br/>夕刻、毛利方に本能寺の変報がとどく
 
|-
 
||6月5日||6月24日||7月4日||[[中川清秀]]あてに信長・信忠無事の書状を送る<ref>[https://mainichi.jp/premier/business/articles/20150811/biz/00m/010/032000c 「中国大返し」で秀吉の窮地を救った策略]</ref>、この日高松退陣、備前野殿を経て沼城へ(秋田家文書・梅林寺文書)||安土城陥落<br/>信長の遺産を接収<br/>[[京極高次]]・[[阿閉貞征]]に命じて近江[[長浜城]]を陥落させ、[[斎藤利三]]を入れる||[[津田信澄]]、[[大坂城]]で[[織田信孝]]・[[丹羽長秀]]らに殺害される
 
|-
 
||6月6日||6月25日||7月5日||従来の通説によると、この日から'''中国大返し'''を開始。実際は秀吉先陣が姫路城に到着(松井文書)<br/>[[沼城]]に立ち寄る。高松城-沼城間22 km。全行程200 km中22 km踏破||||[[小早川隆景]]、備中[[幸山城]]などの国境地域を堅める
 
|-
 
||6月7日||6月26日||7月6日||6日から8日の間に'''[[播磨国|播磨]][[姫路城]]に帰還'''。沼城-姫路城間70 km。全行程200 km中92 km踏破||||朝廷が勅使[[吉田兼見]]を安土におくり、光秀の勝利を祝賀
 
|-
 
||6月8日||6月27日||7月7日||細川藤孝と連絡をとる||坂本城に帰還<br/>秀吉大行軍の情報を得る||光秀に呼応した[[安藤守就]]が[[美濃国|美濃]]で[[稲葉良通]]との戦闘で敗死
 
|-
 
||6月9日||6月28日||7月8日||未明に'''姫路城を出発'''<br/>正午に'''[[明石]]に到着'''。姫路城-明石間35 km。全行程200 km中127 km踏破<br/>別働隊、[[淡路国|淡路]][[洲本城]]を占拠<br/>[[高山右近]]より光秀の動向を伝えられる||上洛して朝廷などに銀子を献上<br/>吉田兼見邸宅での夕食<br/>その後、[[下鳥羽]]に出陣<br/>細川藤孝あてに二度目の書状||筒井順慶、光秀の誘いを断り、[[大和国|大和]][[郡山城 (大和国)|郡山城]]で籠城準備<br/>[[足利義昭]]、みずからの京都入りについて[[吉川元春]]父子・小早川隆景に命令
 
|-
 
||6月10日||6月29日||7月9日||'''[[兵庫]]に到着'''。明石-兵庫間18 km。全行程200 km中145 km踏破||筒井順慶の出陣をうながすため[[洞ヶ峠]]に滞陣
 
|-
 
||6月11日||6月30日||7月10日||'''[[尼崎]]に到着'''。兵庫-尼崎間26 km。全行程200 km中171 km踏破<br/>[[栖賢寺]]で剃髪||筒井順慶の説得のため[[藤田伝五]]を派遣するが拒まれる<br/>この日までに[[淀城]]と[[勝竜寺城]]を修築<br/>下鳥羽帰陣||
 
|-
 
||6月12日||7月1日||7月11日||'''[[富田 (高槻市)|富田]]に到着'''。尼崎-富田間23 km。全行程200 km中194 km踏破<br/>布陣して作戦会議<br/>夜は当地に宿営||[[紀伊国|紀伊]][[惣国一揆]]に出陣要請||[[顕如]]と[[教如]]の和解が成立
 
|-
 
||6月13日||7月2日||7月12日||'''[[山崎宿|山崎]]に到着'''。富田-山崎間6 km。全行程200 km踏破。'''中国大返し'''を完了<br/>[[織田信孝]]と対面<br/>光秀軍と山崎で決戦('''[[山崎の戦い]]''')。勝利<br/>淀城で宿営||'''山崎の戦い'''。敗北<br/>勝竜寺城より坂本城へ向かう途中、[[落ち武者狩り]]に遭い[[小栗栖]]で死す||
 
|-
 
||6月14日||7月3日||7月13日||近江に入る。[[三井寺]]在陣中に光秀の死を知る||||[[堀秀政]]隊、[[明智秀満]]軍を撃破<br/>坂本城落城<br/>徳川家康、光秀討伐のため[[尾張国|尾張]][[熱田宿|熱田]]まで進軍(秀吉の申し入れで帰陣)
 
|-
 
||6月15日||7月4日||7月14日||||||安土城天主、原因不明の出火で焼亡
 
|-
 
||6月16日||7月5日||7月15日||安土に入る<br/>明智方の近江諸城(長浜城の[[妻木範賢]]、[[佐和山城]]の[[荒木行重]]、[[山本山城]]の[[阿閉貞征]]・[[山崎片家]])を陥落させて近江平定||首と遺体が本能寺の焼け跡に晒される||
 
|-
 
||6月17日||7月6日||7月16日||||||斎藤利三、近江[[堅田]](大津市)で捕縛される(洛中引き回しのうえ[[六条河原]]で磔刑)<ref name=rizou/>
 
|-
 
||6月18日||7月7日||7月17日||||||[[柴田勝豊]]・[[柴田勝政]]、近江[[長浜]]に進出<br/>[[河尻秀隆]]、[[甲斐国|甲斐]][[武田氏]]旧臣による[[一揆]]で討死
 
|-
 
||6月19日||7月8日||7月18日||||||[[滝川一益]]、[[神流川の戦い]]で敗北
 
|-
 
||6月22日||7月11日||7月21日||||[[粟田口]]に光秀と斎藤利三の首塚が築かれる||
 
|-
 
||6月25日||7月14日||7月24日||織田信孝とともに美濃・尾張に入り、光秀方残党を掃討||||
 
|-
 
||6月27日||7月16日||7月26日||[[清洲会議]]||||
 
|}
 
 
== 注釈 ==
 
{{Reflist|group="注釈"}}
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{Reflist|2}}
 
 
== 参考文献 ==
 
* {{Cite book|和書|author=高柳光寿|authorlink=高柳光寿|date=1958-09|title=明智光秀|publisher=[[吉川弘文館]]|series=人物叢書|ref = {{SfnRef|高柳|1958}}}}
 
* [[安田元久]]『日本史小百科18 戦乱』[[近藤出版社]]、1984年6月。
 
* [[熱田公]]『日本の歴史11 天下一統』[[集英社]]、1992年4月。ISBN 4-08-195011-3
 
* [[池上裕子]]・[[池享]]・[[小和田哲男]]・小林清治・[[峰岸純夫]]ら編『クロニック戦国全史』[[講談社]]、1995年12月。ISBN 4-06-206016-7
 
* [[百瀬明治]]「天下分け目の天王山」『歴史と旅 「太閤記」秀吉戦記』23巻第4号、1996年3月。
 
* 市川俊介ほか「豊臣秀吉合戦総覧」『別冊歴史読本 豊臣秀吉合戦総覧』21巻35号 、1996年8月。ISBN 4-404-02407-X
 
* 安井久善「秀吉の戦略・戦術」『別冊歴史読本 豊臣秀吉合戦総覧』21巻35号 、1996年8月。ISBN 4-404-02407-X
 
* 池上裕子『日本の歴史15 大織豊政権と江戸幕府』講談社、2002年1月。ISBN 4-06-268915-4
 
* 中村整史朗「備中高松城の戦い」『図説 戦国合戦50』新人物往来社、2003年10月。ISBN 4-404-03063-0
 
* [[小和田哲男]]「山崎の戦い」『図説 戦国合戦50』新人物往来社、2003年10月。ISBN 4-404-03063-0
 
* [[藤田達生]]『謎とき 本能寺の変』講談社&lt;講談社現代新書&gt;、2003年10月。ISBN 4-06-149685-9
 
* 池享「天下統一と朝鮮侵略」池享編『日本の時代史13 天下統一と朝鮮侵略』吉川弘文館、2003年6月。ISBN 4-642-00813-6
 
* [[デアゴスティーニ・ジャパン]]編集『週間 日本の100人005号 豊臣秀吉』デアゴスティーニ・ジャパン、2006年3月。
 
* [[谷口克広]]『検証 本能寺の変』吉川弘文館、2007年5月。ISBN 978-4-642-05632-8
 
* [[渡邊大門]]『週刊 真説歴史の道第8号 豊臣秀吉①中国大返し』[[小学館]]&lt;小学館ウィークリーブック&gt;、2010年4月。
 
*[[藤井讓治]]編『織豊期主要人物居所集成』2011思文閣出版 ISBN 978-4-7842-1579-9
 
*[[服部英雄]]「ほらの達人 秀吉・「中国大返し」考」Thoughts on “Chugoku Ogaeshi (Bicchu Ogaeshi)” of the Boaster Hideyoshi [http://hdl.handle.net/2324/1516170 九州大学機関リポジトリ2015年6月]
 
* {{Cite journal|和書|author=宮本義己|authorlink=宮本義己|year=1994|title=三道併進策による毛利家の「上洛作戦」|journal=歴史読本|volume=39巻|issue=9号|ref = {{SfnRef|宮本|1994}}}}
 
 
== 関連項目 ==
 
*[[織田政権]]
 
*[[豊臣政権]]
 
*[[美濃大返し]]
 
  
 
{{DEFAULTSORT:ちゆうこくおおかえし}}
 
{{DEFAULTSORT:ちゆうこくおおかえし}}

2018/11/12/ (月) 23:41時点における最新版

中国大返し(ちゅうごくおおがえし)

天正10年(1582)に織田信長が明智光秀に討たれた本能寺の変の後、羽柴秀吉がとった一連の軍事行動を指す。備中高松城で信長の死を知った秀吉は、即座に毛利氏との講和を成立させると、全軍を率いて京都へ向かい、山崎の戦いで光秀軍を撃破した。



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