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{{政党
 
|国名 = {{ROC}}
 
|党名 = 中国国民党
 
|公用語名 = Tiong-kok Kok-bîn-tóng<br />{{Lang|zh|中國國民黨}}<br />{{Lang|en|Kuomintang of China}}
 
|色相 = {{Chinese Nationalist Party/meta/color}}
 
|画像 = Naval Jack of the Republic of China.svg
 
|画像説明 = 党旗([[中華民国の国旗#歴史|青天白日旗]])
 
|党首職名 = [[主席]]
 
|党首氏名 = 呉敦義
 
|議院代表職名 = 秘書長
 
|議院代表氏名 = 曾永權
 
|成立年月日 = [[1919年]][[10月10日]]
 
|本部所在地 = {{ROC}}[[台北市]][[中山区 (台北市)|中山区]] 八徳路 2 段 232-234 号
 
|議院 = [[立法院 (中華民国)|立法院]]
 
|議員数 = {{Infobox political party/seats|35|113|hex=Lightblue}}
 
|議員定数 =
 
|議員集計年月日 = [[2017年]]現在
 
|党員・党友数 = 1,090,000
 
|党員・党友数集計年月日 = [[2011年]]
 
|政治的思想・立場 = [[中華民族|中華民族主義]]<br />[[三民主義]]<br />[[立憲主義]]<br />[[共和主義]]<br />[[中道右派]]<ref>{{ISBN|0252090810}}</ref><ref>{{cite web|url=https://books.google.com/books?id=2RHIAeZEYjIC&pg=PA190&dq=kuomintang+right+wing&hl=en&sa=X&ei=QeVqVaWJEqXLmAXgkYH4BA&ved=0CBwQ6AEwAA|title=Missionaries of Revolution|publisher=|accessdate=July 4, 2015}}</ref>
 
|機関紙 = [[中央日報 (機関紙)|中央日報]]
 
|ウェブサイト = http://www.kmt.org.tw/japan/index.aspx
 
|サイトタイトル = 中国国民党公式サイト
 
|シンボル = [[File:Emblem of the Kuomintang.svg|100px]]<br />党章
 
|国際組織 = [[国際民主同盟]]
 
|その他 =[[泛藍連盟]](政治同盟)<br> [[中国国民党青年団]](青年の翼)
 
}}
 
  
'''中国国民党'''(ちゅうごくこくみんとう、[[繁体字]]:'''中國國民黨'''、{{lang-en|Kuomintang of China, '''KMT'''; Chinese Nationalist Party}})は、[[中華民国]]の[[政党]]である。
+
'''中国国民党'''(ちゅうごくこくみんとう、[[繁体字]]:'''中國國民黨'''、{{lang-en|Kuomintang of China, '''KMT'''; Chinese Nationalist Party}}
 
 
略称について、[[冷戦]]時代の国民党[[一党独裁]]体制下においては「国府」と呼ばれたこともあったが、[[複数政党制]]が認められ、中国国民党が相対化された現在では'''国民党'''(こくみんとう)が一般的。英語名の略称は「'''Kuomintang'''」(クォミンタン。「国民党」の[[中国語]]発音)を略した「'''KMT'''」である。
 
 
 
== 概要 ==
 
[[1919年]]10月10日、[[孫文]]が[[中華革命党]]を改組して結党した。
 
 
 
[[ポツダム宣言]]([[第二次世界大戦]]終結)に基づいて[[1945年]][[10月25日]]に中華民国が[[台湾光復|台湾を編入]]し、[[中国共産党]]との[[国共内戦|内戦]]を開いた中台両地域統治時代を経て、[[1949年]][[10月1日]]に内戦で敗れた中華民国政府が[[台北市|台北]]に事実上遷都した1949年[[12月7日]]以後は、[[台湾]]を地盤とした政党として存続し、台湾への土着化(台湾化・本土化)を経て今日に至っている。
 
 
 
[[2000年]]に[[民主進歩党]](民進党)の[[陳水扁]][[中華民国総統|総統]]が就任し、史上初めて[[野党]]となった。[[2001年]]には[[中華民国立法院|立法院]](国会)第1党の座も奪われた。しかし、[[2008年]]に国民党の[[馬英九]]総統が就任し、立法院第1党も奪回、[[政権]][[与党]]に復帰した。
 
 
 
[[台湾]]及び[[福建省]]のごく一部のみを基盤とした政党となって久しいが、党の精神的支柱として今なお[[孫文]]を党[[総理]]とし<ref>国民党で「総理」と呼ばれるのは孫文のみ。党首は「主席」。</ref>、また[[蒋介石]]をも[[2014年]]から「永久[[総裁]]」としており、いまだ「[[中国]]」の政党としての建前は捨てていない。「大陸反攻」のスローガンを撤回した[[李登輝]]時代には党の台湾化、いわゆる「本土化」が一定程度進んだが、李登輝が総統を退任して国民党を離党した[[2000年]]頃からは党内「本土派」が退潮し、[[中華民国副総統|副総統]]だった[[連戦]]が党主席に就任してからは「中華民族アイデンティティ」を強調する傾向に回帰している。
 
 
 
孫文と蒋介石が[[日中戦争]]の前から[[日本]]と関わりが深かったこと(敵としても友としても)や、[[冷戦]]時代に[[反共主義]]による[[一党独裁制|一党独裁]]体制をとり、日本の[[自由民主党 (日本)|自民党]](とりわけ[[清和会]])と太いパイプを持ったため、[[知日派]]を多数擁しているといわれ、国民党の公式ウェブサイトには、開設初期から中国語版、[[英語]]版と並んで[[日本語]]版がある。一方で近年は大陸の[[中国共産党]]との党間交流を図るも、二度の[[国共合作]]の失敗から中台統一に慎重な声も根強く、現主席の[[呉敦義]]は{{仮リンク|統派|zh|統派}}と距離を置く現状維持を志向する本土派の人間である<ref>{{Cite news|url=https://mainichi.jp/articles/20170521/k00/00m/030/067000c|title=国民党主席に呉敦義氏|newspaper=[[毎日新聞]]|date=2017-05-20|accessdate=2017-12-31}}</ref>。
 
 
 
== 歴史 ==
 
=== 黎明時代 ===
 
[[1894年]]11月、[[清朝]]を打倒し[[共和制]][[国家]]樹立を目的とした[[興中会]]が[[孫文]]を中心として[[ハワイ]]で結成された。[[興中会]]はたびたび[[武装蜂起]]を試みたが失敗した。
 
 
 
[[1905年]]8月には清朝を打倒することを目指して結成されていた結社が大同団結することで合意し、興中会、[[華興会]]、[[光復会 (清国)|光復会]]が合併して日本の[[東京]]で[[中国同盟会]]が結成された。中国同盟会は[[機関紙]]の『[[民報]]』を発行し、孫文は[[三民主義]]の[[思想]]を発表した。
 
 
 
[[1911年]]10月には[[武昌起義]]が起こり、翌[[1912年]]1月には[[南京]]で[[中華民国]]が成立、孫文を[[中華民国大総統|臨時大総統]]に選出した。2月には[[宣統帝]](溥儀)が退位し、[[辛亥革命]]が成り、清朝は滅亡した。同年8月には[[中国同盟会]]を中心として[[統一共和党]]、[[国民公党]]、[[国民共進会]]、[[共和実進会]]等が合併して「[[国民党 (宋教仁)|国民党]]」が結成された(この国民党は本記事の中国国民党とは別の組織であると認識されている)。
 
 
 
1912年12月から翌[[1913年]]2月にかけて実施された国会選挙では国民党が第1党となったが臨時大総統に就任していた[[袁世凱]]に警戒され、国民党の主要人物であった[[宋教仁]]は[[上海]]で[[暗殺]]された。反発した国民党員は袁世凱打倒のため武装蜂起を試みるが失敗に終わり、主要党員の多くは[[海外]]に[[逃亡]]、残った党員も[[弾圧]]されて国民党は破滅状態になり、11月には国民党に解散命令が出された。日本に[[亡命]]した孫文は[[1914年]]7月、東京で[[中華革命党]](こちらが中国国民党の前身)を結成した。この中華革命党において孫文は党員に対して絶対服従を要求した。
 
 
 
=== 中国大陸時代 ===
 
[[1919年]]10月10日、結成されたものの活動が停止していた中華革命党を改組する形で中国国民党が結成された。本部は上海に置かれ<ref>深町英夫 {{PDFlink|[http://repository.tufs.ac.jp/bitstream/10108/35555/12/dt-ko-0002010.pdf 「中国国民党形成史の研究 : 「孫文革命」の展開と党国体制の成立 第6章 中国国民党と地域社会」]}} 88頁。</ref>、党総理には孫文が就任した。
 
 
 
[[第一次世界大戦]]後の[[パリ講和会議]]によって[[ドイツ]]から[[山東省]]権益が日本に[[譲渡]]されたのを受けて、中国全土で「[[五・四運動|反日愛国運動]]」が盛り上がった。この運動以降、中国の青年達に[[共産主義]]思想への共感が拡大していく<ref>[[天児慧]]『巨龍の胎動 毛沢東VS鄧小平』<中国の歴史 11>(講談社、2004 年)61 頁</ref>。[[陳独秀]]や[[毛沢東]]もこのときに[[マルクス主義]]に急接近する。この反日愛国運動は、孫文にも影響を与え、「連ソ[[容共]]・労農扶助」と方針を転換した<ref>[[天児慧]]同書 63頁</ref>。旧来のエリートによる野合政党から近代的な革命政党へと脱皮することを決断し、[[ボルシェビキ]]をモデルとした<ref>[[天児慧]]同書 63頁</ref>。実際に、[[ロシア]]から[[コミンテルン]]代表のボロディンを国民党最高顧問に迎え、[[赤軍]]にあたる国民革命軍と軍官学校を設立した。それゆえ、中国共産党と中国国民党とを「異母兄弟」とする見方もある<ref>[[天児慧]] 同書 63 頁</ref>。他にも[[ソビエト連邦共産党]]のシステムを学び、[[ソビエト連邦]]と同様の[[党国体制]]を布いた。
 
 
 
[[1921年]]に[[中国共産党]]が樹立されると、中国国民党は当初は容共の立場をとり、[[1922年]]のコミンテルン極東民族大会において「[[植民地]]・半植民地における[[反帝国主義]]統一戦線の形成」という方針採択を受けて、1923年1月にはソ連との連帯を鮮明にした「[[孫文・ヨッフェ共同宣言]]」が発表される<ref>[[天児慧]] 同書 64頁</ref>。[[1923年]]6月の中国共産党第3回全国代表大会においてコミンテルン代表マーリン指導で、国共合作が方針となった<ref>[[天児慧]] 同書 64頁</ref>。[[1924年]][[1月20日]]には、中国共産党との[[第一次国共合作]]が成立し、[[軍閥]]に対抗するための素地が形成された。
 
 
 
孫文の死後、[[1925年]]に[[上海]]で発生した[[五・三〇事件]]を背景にして、汪兆銘を主席とする[[広東省|広東]][[国民政府]]を樹立、[[1926年]]には、[[北伐]]を開始した。[[1927年]]に、[[蒋介石]]の[[上海クーデター]]により[[国共合作]]は崩壊したものの、北伐は継続され、[[1928年]][[6月9日]]には[[北京]]に入城し、[[北京政府]]を倒すことに成功した。
 
 
 
北伐の完了を受けて、[[1928年]]、南京に蒋介石を主席とする国民政府が成立した。しかし、その内実は、北伐の過程で、各地の軍閥を取り込んだ、雑居政党となっており、それらを整理しようとする蒋介石の動きを1つの契機として、中原大戦([[1930年]][[5月1日]]~[[10月10日]])を頂点とする、党内対立の激化が起こり、最大の危機を迎えることになる。
 
 
 
[[1932年]]には、強大な[[軍事力]]と[[ブルジョアジー]]の支持を背景に、蒋介石はなんとかその危機を乗り越えるが、他方で、その間の中国共産党の勢力回復や[[満州事変]]以降勢力拡大する[[日本軍]]に脅かされることになる。
 
 
 
蒋介石は、[[抗日]]戦より[[反共主義]]を優先し、[[1930年]]から[[1934年]]にかけて、5次にわたる反共囲剿戦(掃共戦)を繰り広げるも、[[共産党]]は[[井崗山]]の革命根拠地を撤収・放棄して[[長征]]を行ったことから共産党を亡ぼすには至らなかった。この頃の[[国民革命軍|国民党軍]]は[[ドイツ国防軍]]からファルケンハウゼンを軍事顧問として招き精鋭化されていた。[[1936年]]には、なおも抗日戦における中国共産党との共闘に徹底的に反対していた蒋介石が軟禁され ([[西安事件]])、これが、国共両党の接近をもたらした。[[1937年]]に[[日中戦争]]が開始され、同年 [[9月22日]]、[[第二次国共合作]]が成立。同年末に南京が陥落すると、国民党政府は[[重慶]]に移転して日本軍の攻撃をしのぎ、執行機関を[[武漢]]に置いた。民国27年([[1938年]])3月29日、[[漢口]]に於いて臨時全国代表大会を開き、三民主義を再確認するとともに、憲章改正で総裁制が定められた<ref>孫文が総理として有した同格の地位が蒋介石に与えられ、総裁に蒋介石、汪兆銘が副総裁となる。</ref>。
 
[[太平洋戦争]]期には遠征軍が[[ビルマの戦い]]に参加し、10万名の戦死者を出した([[抗日老兵]])。
 
 
 
=== 国共内戦 ===
 
[[1945年]][[8月18日]]に[[満州国]]が[[ソビエト連邦]]の赤軍の侵攻で崩壊(三日前の[[8月15日|15日]]には[[大日本帝国]]が降伏勧告を受け入れ無条件降伏と全軍の武装放棄を決定・発令している)、[[1945年]][[9月2日]]には[[ポツダム宣言]]受諾の調印があり、[[10月25日]]に[[台湾]]は[[台湾光復|国民党政府に明け渡され]]、日本軍は中国本土から撤退し、国民党政府は[[旅順]]・[[大連]]・[[香港]]・[[マカオ]]を除く中国大陸と、台湾の両地域を領土とした(満州は翌年[[1946年]]5月までソ連軍政下に置かれて東北問題という外交問題になった)。1945年10月に結ばれた[[双十協定]]は失敗し、同年11月から[[国共内戦]]が再開されるが、国共内戦中にアメリカからの支援が縮小されたことや[[法幣]]の濫発が災いして、ソ連が支援する[[中国共産党|共産党]]に対して劣勢に陥り、[[1949年]][[10月1日]] には国民党政府は内戦に敗れ、台湾島に逃れた。このため、中国国民党の実質統治範囲は、建国以来の福建省(馬祖・金門)と、1945年の日本降伏後に連合国として統治していた [[台湾]]島一帯だけとなった。
 
 
 
国共内戦で敗北すると大多数の人物が台湾に逃れたが、四川・雲南方面の部隊は [[タイ王国|タイ]]、[[ミャンマー]]、[[ラオス]]など[[東南アジア]]に逃れ、東南アジアの[[政治]]的混乱に乗じる形で抵抗拠点を築いた。
 
 
 
特に[[内戦]]の激しいミャンマーでは、同政府の支配が事実上なされていない[[シャン州]]に逃れた。有力な[[ワ族]]など[[少数民族]]と連携し、同州を大陸反攻の拠点として占拠した。麻薬生産等にも関わって勢力を拡張した時期もあり、[[アメリカ]]は[[中央情報局|CIA]]を用いて公然と国民党軍(KMT)への支援した。支援は大規模なものであり、同州内に飛行場や軍事基地が構築された他、輸送機による物資・人員の補給も活発に行なわれていた。
 
 
 
当時、[[1950年代]]のビルマ政府は少数民族の武装蜂起や[[ビルマ共産党]]の政権からの離脱などが相次いでいた。KMTのシャン州での占領はビルマの動揺を増幅するものであった。当時の[[ウー・ヌ]]首相は、[[国際連合]]において、KMTのシャン州占領を不法行為とみなし、KMT将兵の[[国外退去]]を要求している。また、後に政権を獲得する事になる[[ネ・ウィン]]国防大臣は、少数民族の反乱を鎮圧にこぎつけたのを機に、シャン州にて抵抗を続けるKMT残党の掃討作戦も開始。時には[[中国人民解放軍]]と連携して共同作戦を取りながら、KMT勢力の追放に取り掛かった。
 
 
 
こうしたビルマ政府の反発によって、シャン州にいた元KMT将兵の大半は台湾やタイなどに出国するか、地元に土着化していった。
 
 
 
=== 台湾移転 ===
 
[[台湾]]に本拠地を移して以降は、長期的な視野では[[中国大陸]]との統一を主張しているが、短期的な視野では現状維持を志向している。
 
 
 
台湾移転後は臨時[[立法]]だった筈の[[動員戡乱時期臨時条款]]により、40年近く[[一党独裁体制]]で政権を担ってきたが、[[美麗島事件|1979年高雄事件]]をきっかけに、[[1987年]]に[[蒋経国]]総統が政党結成を解禁したことにより(党禁)、[[一党独裁体制]]は終結した。
 
 
 
そして、[[1996年]] には[[総統民選期の中華民国|中華民国の国民による総統選挙]]に移行し、[[2000年]]の総統選挙で民進党の[[陳水扁]]に敗れて野党になり、[[2001年]]には[[中華民国立法院|立法院]](議会)でも第2党になった。
 
 
 
[[2005年]]に、国民党主席の[[連戦]]らが[[北京]]を訪問。[[中国共産党]][[中国共産党中央委員会総書記|総書記]]・[[中華人民共和国主席]]の[[胡錦濤]]と会談した。両党トップの会談は1945年以来60年ぶりで、[[台湾独立]]反対という姿勢で一致した。
 
 
 
[[2008年]]に立法院第1党に返り咲くとともに、中国国民党の[[馬英九]]が総統選挙に勝利し、8年ぶりに政権与党の座に復帰した。同年には[[呉伯雄]]主席が与党党首としては初めて訪中して胡錦濤総書記と会見し、[[北京オリンピックの開会式]]と[[上海万博]]開幕式にも出席した<ref>{{cite news
 
|url = http://big5.gwytb.gov.cn/speech/speech/201101/t20110123_1723943.htm|title = 胡錦濤會見連戰吳伯雄宋楚瑜|newspaper = 国務院台湾事務弁公室|date = 2008-08-08|accessdate = 2017-04-23}}</ref><ref>{{cite news| url = http://j.people.com.cn/94474/6968879.html| title = 胡錦濤総書記、万博開幕式出席の台湾各界有力者と面会| newspaper = 人民網| date = 2010-04-30| accessdate = 2017-11-25}}</ref>。2009年に馬英九総統が国民党主席に当選した際は胡錦濤総書記から祝電がおくられている<ref>{{Cite news|url=http://www.recordchina.co.jp/b33825-s0-c10.html|title=馬英九総統が国民党主席に当選=胡錦濤国家主席が祝電―台湾|newspaper=[[Record China]]|date=2009-07-28|accessdate=2017-05-27}}</ref>。
 
 
 
[[2012年]]の立法院選挙では第1党を守り、総統選挙でも再選を果たした。同年の[[中国共産党第十八回全国代表大会]]では国民党中央委員会が初めて祝電を打ち<ref>{{Cite news|url=http://j.people.com.cn/94474/8011770.html|title=中国国民党中央委員会が中国共産党の党大会開催に祝電|newspaper=[[人民網]]|date=2012-11-09|accessdate=2017-04-23}}</ref>、[[習近平]]が中国共産党総書記に選出された際は馬英九総統が異例の祝電をおくった<ref>{{Cite news|url=http://japan.cna.com.tw/news/aall/201211150008.aspx|title=馬総統、習近平氏に初祝電 国民党主席名義で|newspaper=[[中央通訊社]]|date=2012-11-15|accessdate=2017-04-23}}</ref>。習近平総書記も国民党で新たな主席が当選するたびに祝電をおくっている<ref>{{Cite news|url=http://j.people.com.cn/n/2015/0118/c94474-8837569.html|title=習近平総書記、国民党の朱立倫主席に祝電|newspaper=[[人民網]]|date=2015-01-18|accessdate=2017-05-27}}</ref><ref>{{Cite news|url=http://www.recordchina.co.jp/b131981-s0-c30.html|title=中国・習近平氏、台湾・国民党主席に当選の洪秀柱氏に祝電―中国メディア|newspaper=[[Record China]]|date=2016-03-27|accessdate=2017-05-27}}</ref><ref>{{Cite news|url=http://japanese.cri.cn/2021/2017/05/21/141s261632.htm|title=習近平総書記、国民党主席当選の呉敦義氏に祝電|newspaper=[[中央通訊社]]|date=2017-05-21|accessdate=2017-05-27}}</ref>。
 
 
 
[[2015年]][[11月7日]]<ref>{{cite news |title=中台が首脳会談 歴史的握手交わす|newspaper=[[日本経済新聞]] |date=2015-11-7|url=http://www.nikkei.com/article/DGXLASGM07H2N_X01C15A1000000/ |accessdate=2016-2-5}}</ref>、[[シンガポール]]のシャングリラホテルで、馬英九総統は中国共産党の習近平総書記([[中華人民共和国の最高指導者一覧|中国最高指導者]]の役職)と[[1949年]]の中台分断後初となる[[:zh:两岸领导人会面|中台首脳会談]]を行った。
 
 
 
[[2016年]]に行われた[[2016年中華民国総統選挙]]にて、総統候補の[[朱立倫]]主席は、[[民主進歩党]]の[[蔡英文]]主席に敗れて、国民党は再び野党となった。
 
 
 
== 組織 ==
 
=== 歴代の党首 ===
 
{|class="wikitable"
 
|-
 
|colspan=8 align="center" bgcolor="#CCCCFF" |
 
|-
 
! rowspan=2 width=5% | 代
 
! rowspan=2 width=10% | 姓名
 
! rowspan=2 width=5% | 肖像
 
! colspan=2 width=30% | 在任期間
 
! rowspan=2 width=30% | 在任中の出来事
 
! rowspan=2 width=30% | 備考
 
|-
 
!width="15%" align ="center"|就任|| width="15%" align ="center"|退任
 
|-
 
! style="background:#eee"|1
 
|align="center"|[[孫文]]<br />(國民党理事長)
 
|align="center"|[[File:Sun Yat Sen 1900.png|80px]]
 
|[[1912年]][[8月25日]]||[[1914年]][[7月8日]]
 
|
 
|
 
|-
 
! style="background:#eee"|1
 
|align="center"|[[孫文]]<br />(中華革命党総理)
 
|align="center"|[[File:Sun Yat Sen 1900.png|80px]]
 
|[[1914年]][[7月8日]]||[[1919年]][[10月10日]]
 
|
 
|
 
|-
 
! style="background:#eee"|1
 
|align="center"|[[孫文]]<br />(永久総理)
 
|align="center"|[[File:Sun Yat-sen 2.jpg|80px]]
 
|[[1919年]][[10月10日]]||[[1925年]][[3月12日]](死亡)
 
|
 
|
 
|-
 
! style="background:#eee"|2
 
|align="center"|[[張静江]]<br />(中執委常委會主席)
 
|align="center"|[[File:Zhang Jingjiang3.jpg|80px]]
 
|[[1926年]][[5月19日]]||[[1926年]][[7月6日]]
 
|
 
|
 
|-
 
! style="background:#eee"|3
 
|align="center"|[[蒋介石]]
 
|align="center"|[[File:Chiang Kai-shek Colour.jpg|80px]]
 
|[[1926年]][[7月6日]]||[[1927年]][[3月11日]]
 
|
 
|
 
|-
 
! style="background:#eee"|4
 
|align="center"|[[胡漢民]]
 
|align="center"|[[File:Hu Hanmin2.jpg|80px]]
 
|[[1935年]][[12月7日]]||[[1936年]][[5月12日]](死亡)
 
|
 
|
 
|-
 
! style="background:#eee"|5
 
|align="center"|[[蒋介石]]<br />(永久総裁)
 
|align="center"|[[File:Chiang Kai-shek Colour.jpg|80px]]
 
|[[1938年]][[4月1日]]||[[1975年]][[4月5日]](死亡)
 
|
 
|
 
|-
 
! style="background:#eee"|6
 
|align="center"|[[蒋経国]]<br />(中央委員會主席)
 
|align="center"|[[File:Chiang Ching-Kuo in 1954.png|80px]]
 
|[[1975年]][[4月28日]]||[[1988年]][[1月13日]](死亡)
 
|[[十大建設 (台湾)|十大建設]] を推進。1987年7月14日、[[戒厳令]]を解除し、政党結成を自由化。
 
|[[浙江省]] 生まれ。[[中華民国国防部|国防部長]]、[[行政院長]](首相)を経て、1978年[[中華民国総統|総統]]。
 
|-
 
! style="background:#eee"|7
 
|align="center"|[[李登輝]]
 
|align="center"|[[File:Lee Teng-hui 2004-cropped.jpg|80px]]
 
|[[1988年]][[1月27日]]||[[2000年]][[3月24日]]
 
|1991年、[[動員戡乱時期臨時条款]]を廃止、[[国家統一綱領]]策定。1996年、初の総統直接選挙を実施。同年、台湾海峡危機。1999年、二国論(両国論)を提唱。
 
|1971年入党。[[台北市|台北市長]]、台湾省主席、副総統を経て、1988年総統。[[2000年中華民国総統選挙|2000年総統選]]敗北の責任をとって辞任後、[[台湾団結連盟]]結成。2001年、党籍剥奪。
 
|-
 
! style="background:#eee"|8
 
|align="center"|[[連戦]]
 
|align="center"|[[File:2005KMT NanjingTour LienChan.jpg|80px]]
 
|[[2000年]][[3月24日]]||[[2005年]][[8月19日]]
 
|2001年3月の党主席選挙で初の党員直接選挙を実施。同年12月に訪日(党主席の訪日は初)。2005年4月、北京で[[胡錦涛]]共産党総書記と60年ぶりの国共トップ会談。
 
|蒋経国政権で [[中華民国交通部|交通部長]]、行政院副院長(副首相)、李登輝政権で[[中華民国外交部|外交部長]]、行政院長(首相)。1996年副総統。[[2000年中華民国総統選挙|2000年総統選]]、[[2004年中華民国総統選挙|2004年総統選]]にいずれも惨敗。2005年から党名誉主席。
 
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|align="center"|[[馬英九]]
 
|align="center"|[[File:Ma Ying-jeou Berkeley 2006 (cropped).jpg|80px]]
 
|[[2005年]][[8月19日]]||[[2007年]][[2月13日]]
 
|党政治綱領を改訂し、「[[九二共識]]」の受入れ、「[[一国二制度]]」の反対を盛込む。2006年3月、党本部ビルを売却。同年4月、[[両岸経済貿易文化フォーラム]]発足。同年8月、党資産の情報公開。
 
|蒋経国総統の英語通訳、李登輝政権では台北市長、[[中華民国法務部|法務部長]]。2008年から総統。2012年に総統再選。
 
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|align="center"|[[呉伯雄]]
 
|align="center"|[[File:2005KMT NanjingTour PHWu.jpg|80px]]
 
|[[2007年]][[4月11日]]||[[2009年]][[10月17日]]
 
|2008年5月、台湾の与党党首として初めて中国を訪問し、[[胡錦濤]] 中国共産党総書記と初会談。2008年12月に訪日。
 
|李登輝政権で[[中華民国内政部|内政部長]]、台北市長、総統府秘書長など歴任。2009年から党名誉主席。
 
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! style="background:#eee"|11
 
|align="center"|[[馬英九]]
 
|align="center"|[[File:中華民國第12、13任總統馬英九先生官方肖像照.jpg|80px]]
 
|[[2009年]][[10月17日]]||[[2014年]][[12月3日]]
 
|2010年6月、中国との間で[[両岸経済協力枠組協議]](ECFA)を締結。2012年に総統再選。2013年に主席再選。2014年11月の統一地方選挙大敗に伴い引責辞任。
 
|第9代を参照。
 
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|align="center"|[[朱立倫]]
 
|align="center"|[[File:Eric-Chu-cropped.png|80px]]
 
|[[2015年]][[1月17日]]||[[2016年]][[1月16日]]
 
|前任の馬英九主席辞任に伴い、2015年1月に実施された主席選挙で当選。
 
|2001年から2期に渡り[[桃園県長]]を務める。2008年11月から党副主席。2009年9月、行政院副秘書長。2010年10月、[[新北市長]]に当選。2014年11月、新北市長に再選。[[2016年]][[1月16日]]に総選挙大敗の責任を取り辞任し、新北市長の職務に戻った<ref>http://news.ifeng.com/a/20160118/47118374_0.shtml 朱立伦辞党主席不接受慰留 回锅任新北市长</ref>。
 
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|align="center"|[[黄敏恵]]
 
|align="center"|
 
|[[2016年]][[1月18日]]
 
|[[2016年]][[3月26日]]
 
|
 
|[[朱立倫]]主席辞任に伴い、主席代理就任
 
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|align="center"|[[洪秀柱]]
 
|align="center"|[[File:Hung Hsiu-chu in blue chopped.png|80px]]
 
|[[2016年]][[3月28日]]
 
|[[2017年]][[8月20日]]
 
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|朱立倫の後任を決める主席選挙で[[黄敏恵]]らを退けて当選
 
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! style="background:#eee"|13
 
|align="center"|[[呉敦義]]
 
|align="center"|[[File: Wu Den-yih VOA.jpg|80px]]
 
|[[2017年]][[8月20日]]
 
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|[[中華民国副総統|前副総統]]。洪秀柱の後任を決める主席選挙で[[洪秀柱]]らを退けて当選
 
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|}
 
 
 
=== 党役員 ===
 
党章上、党員が総統在任中は党主席を兼任すると定めており、野党時は党員の直接選挙により選出される<ref>党主席の選出方法は 2001年3月に初めて党員直接選挙で実施された。</ref>。
 
 
 
なお、総統在職中だった馬英九は2014年11月に実施された統一地方選挙で大敗し、主席を引責辞任した。これに伴い、総統が党主席を兼任する条文は空文化した。2015年1月、党主席選挙が実施され、新北市長朱立倫が当選した。しかし2016年1月に行われた総選挙大敗の責任を取り党主席を辞任し、前[[嘉義市長]]の[[黄敏恵]]が主席代理に就任した<ref>http://news.sina.com.cn/c/gat/2016-01-18/doc-ifxnrahr8467881.shtml 朱立伦辞去国民党主席 副主席黄敏惠暂代党主席</ref>。その後[[3月26日]]に主席選挙が行われ、統一志向の[[洪秀柱]]が主席代行を務めていた黄敏恵らを退け初当選した。洪は、[[黄埔軍校同学会]]などで中国大陸と繋がりの強い退役軍人や年金改革に反発する公務員といった{{仮リンク|軍公教|zh|軍公教}}を支持基盤にしている<ref>{{Cite web |url=http://mainichi.jp/articles/20160904/k00/00m/030/050000c |title= 年金改革に反発、大規模デモ 蔡政権発足後、初|publisher=毎日新聞|accessdate=2017-05-07|date=2016-09-03}}</ref>。また総統選の際にいったんは党の公認候補に選ばれたのに支持低迷を理由に途中で交代させられ、党内に同情論が強かったことも追い風になった模様<ref>{{Cite web |url=http://mainichi.jp/articles/20160327/k00/00m/030/090000c |title= 国民党主席に洪秀柱氏 対中国では統一志向|publisher=毎日新聞|accessdate=2016-03-26}}</ref>。
 
 
 
秘書長(党幹事長に相当)は、李四川。なお[[連戦]]と[[呉伯雄]]の両元主席は「名誉主席」の称号を与えられている。
 
 
 
== 脚注 ==
 
<references/>
 
 
 
== 関連項目 ==
 
*[[国民政府]]
 
*[[国共内戦]]
 
*[[中華民国国歌]] - [[三民主義]]とも呼ばれ、元々は中国国民党の党歌。
 
*[[中国国民党革命委員会]] - [[中華人民共和国]]の「民主諸党派」([[中国共産党]]の[[衛星政党]])の一つ。
 
  
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[[中国共産党]]と並ぶ近代中国の主要政党。五・四運動後の 1919年 10月に[[孫文]]が三民主義を理論的基礎としてそれまで指導してきた興中会,中国同盟会,国民党を再建したもの。 24年1月の一全大会で「以党治国」の方針を打出し,27年南京に統一的国民政府を樹立した。以後[[蒋介石]]一派が実権を掌握し,31年9月の満州事変に始り日中戦争を経て太平洋戦争にいたる一連の抗日戦の間に,共産党の討伐,[[国共合作]],財政近代化,通貨統一,新生活運動などを展開して政権の維持と蒋独裁制を確立した。第2次世界大戦後再び国共内戦が起り,党内の腐敗と反動化で大衆が離反し,軍事的にも共産党に敗れて台湾に移った。 63年第 10回全国大会で蒋介石を総裁に6選した。 78年4月蒋介石が死去,翌5月には長男の[[蒋経国]]が総統に就任。以後,党の若返りと[[本省人]]の登用を進めていった。 88年1月の蒋経国死亡後,[[李登輝]]が本省人として初めて主席に就任,90年には総統となった。李登輝は,民主化と「1国2政府」路線を打出し,96年からは総統の直接選挙制度を実施。 98年 12月の総選挙では過半数を上回る 123議席を獲得したが,2000年に実施された総統選挙で[[民主進歩党]]の陳水扁候補に敗れ,下野。 1971年国連から脱退を余儀なくされて国際的には孤立化したものの,経済力を背景に外交関係をもつ国は 98年現在 28ヵ国に及ぶ。
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== 外部リンク ==
 
== 外部リンク ==
{{commons category|Kuomintang}}
 
 
* [http://www.kmt.org.tw/ 中国国民党公式サイト(中国語版)]
 
* [http://www.kmt.org.tw/ 中国国民党公式サイト(中国語版)]
 
* [http://www1.kmt.org.tw/japan/index.aspx 中国国民党公式サイト(日本語版)]
 
* [http://www1.kmt.org.tw/japan/index.aspx 中国国民党公式サイト(日本語版)]
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[[Category:中国国民党|*]]
 
[[Category:中国国民党|*]]

2018/12/24/ (月) 16:19時点における最新版

中国国民党(ちゅうごくこくみんとう、繁体字中國國民黨英語: Kuomintang of China, KMT; Chinese Nationalist Party

中国共産党と並ぶ近代中国の主要政党。五・四運動後の 1919年 10月に孫文が三民主義を理論的基礎としてそれまで指導してきた興中会,中国同盟会,国民党を再建したもの。 24年1月の一全大会で「以党治国」の方針を打出し,27年南京に統一的国民政府を樹立した。以後蒋介石一派が実権を掌握し,31年9月の満州事変に始り日中戦争を経て太平洋戦争にいたる一連の抗日戦の間に,共産党の討伐,国共合作,財政近代化,通貨統一,新生活運動などを展開して政権の維持と蒋独裁制を確立した。第2次世界大戦後再び国共内戦が起り,党内の腐敗と反動化で大衆が離反し,軍事的にも共産党に敗れて台湾に移った。 63年第 10回全国大会で蒋介石を総裁に6選した。 78年4月蒋介石が死去,翌5月には長男の蒋経国が総統に就任。以後,党の若返りと本省人の登用を進めていった。 88年1月の蒋経国死亡後,李登輝が本省人として初めて主席に就任,90年には総統となった。李登輝は,民主化と「1国2政府」路線を打出し,96年からは総統の直接選挙制度を実施。 98年 12月の総選挙では過半数を上回る 123議席を獲得したが,2000年に実施された総統選挙で民主進歩党の陳水扁候補に敗れ,下野。 1971年国連から脱退を余儀なくされて国際的には孤立化したものの,経済力を背景に外交関係をもつ国は 98年現在 28ヵ国に及ぶ。


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