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{{条約
 
|題名 =日清両国媾和条約
 
|画像 =《马关条约》签字时的情景.jpg
 
|画像キャプション =調印の様子。向かって左に着席するのが日本の伊藤全権、右が清国の李全権
 
|通称 =日清講和条約、下関条約
 
|起草 =
 
|署名 =1895年4月17日([[赤間関市]])
 
|効力発生 =1895年5月8日
 
|寄託者 =
 
|番号 =明治28年5月13日勅令
 
|言語 =
 
|内容 =日清戦争の講和条約
 
|関連 =
 
|ウィキソース =下関条約
 
|リンク =[http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/pw/18950417.T1J.html 東京大学東洋文化研究所]
 
}}
 
'''下関条約'''(しものせきじょうやく)は、[[日清戦争]]で[[日本]]が[[清国]]に戦勝したことにより、[[1895年]][[4月17日]]に[[下関]]の[[春帆楼]](しゅんぱんろう)での講和会議を経て調印された条約である。正式名称は'''日清講和条約'''(にっしんこうわじょうやく)。
 
  
会議が開かれた[[山口県]]の[[赤間関市]](現[[下関市]])の通称だった「馬関」<ref>「赤間関」は「赤馬関」とも表記され、江戸時代の漢学者がこれを漢風に縮めて「馬関」としたもの。</ref>をとって、一般には'''馬関条約'''(ばかんじょうやく)と呼ばれた<ref>明治時代に作られた[[鉄道唱歌]]の第二集(山陽九州編)でも、「世界にその名いと高き 馬關條約結びたる 春帆樓の跡とひて 昔しのぶもおもしろや」との歌詞で紹介されている。</ref>。「下関条約」は、日本で戦後定着した呼称である<ref>条約調印後に「馬関」(赤間関市)が「下関」(下関市)になっても、「馬関海峡」が「関門海峡」になっても、この「馬関条約」の名称は長らく使われ続けた。「下関条約」という言い換えが完全に定着するのは、戦後になってからのことである。</ref>。もう一方の当事国である中国では、現在でも「[[:zh:马关条约|馬関条約]]」({{zh2|s=马关条约|t=馬關條約|p=Mǎguān tiáoyuē}})という。
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'''下関条約'''(しものせきじょうやく)
  
== 条約概説 ==
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[[日清戦争]]の講和条約。 1895年3月 20日,下関の春帆楼で,清国全権[[李鴻章]]と日本の伊藤博文,陸奥宗光両全権との間に第1回会談が開かれた。 24日の第3回会談の帰途,李鴻章が狙撃され負傷する事件が起ったため日本側は休戦に応じ,同 30日休戦条約が締結され,次いで4月 17日日清講和条約 11ヵ条が調印された。その内容は,(1)清国は朝鮮が独立自主の国であることを確認すること,(2) リヤオトン (遼東) 半島,台湾全島,ポンフー (澎湖) 列島を日本に割譲すること,(3) 2億テールの賠償金を支払うこと,(4) シャーシー (沙市) ,チョンチン (重慶) ,スーチョウ(蘇州) ,ハンチョウ (杭州) の市港を開くこと,(5) 揚子江航行権を与えること,(6) 最恵国待遇を与えることなどであった。批准交換は5月8日に行われたが,その間に[[三国干渉]]がなされ,日本はリヤオトン半島を清国に還付することになった。
[[File:Japan China Peace Treaty 17 April 1895.jpg|thumb|1895年4月17日に調印された日清講和条約]]
 
[[File:Convention of retrocession of the Liatung Peninsula 8 November 1895.jpg|thumb|1895年11月8日、三国干渉の結果、[[遼東還付条約]]に調印]]
 
*主な内容
 
**清国は[[李氏朝鮮|朝鮮国]]が完全無欠なる独立自主の国であることを確認し、独立自主を損害するような朝鮮国から清国に対する貢・献上・典礼等は永遠に廃止する。(第一条)
 
**清国は[[遼東半島]]、[[台湾]]、[[澎湖諸島]]など付属諸島嶼の主権ならびに該地方にある城塁、兵器製造所及び官有物を永遠に日本に割与する。(第二条、第三条)
 
**清国は[[戦争賠償|賠償金]]2億[[銀錠|テール]]<ref><!--銀価格の流動性を考えるとこの表記は参考にならないのでは?-->(現在価値{{いつ|date=2013年5月}}で銀1kgが12万円程度なので、8950億円前後。当時価格で{{疑問点範囲|日本の国家予算8000万円の4倍強|date=2012年10月}}の3億6000万円前後)</ref>を日本に支払う。(第四条)
 
**割与された土地の住人は自由に所有不動産を売却して居住地を選択することができ、条約批准2年後も割与地に住んでいる住人は日本の都合で日本国民と見なすことができる。(第五条)
 
**清国は[[沙市]]、[[重慶市|重慶]]、[[蘇州市|蘇州]]、[[杭州市|杭州]]を日本に開放する。また清国は、日本に[[最恵国待遇]]を認める。(第六条)
 
**日本は3か月以内に清国領土内の日本軍を引き揚げる。(第七条)
 
**清国は日本軍による[[山東省]][[威海衛]]の一時占領を認める。賠償金の支払いに不備があれば日本軍は引き揚げない。(第八条)
 
**清国にいる日本人[[俘虜]]を返還し、虐待もしくは処刑してはいけない。日本軍に協力した清国人にいかなる処刑もしてはいけないし、させてはいけない。(第九条)
 
**条約批准の日から戦闘を停止する。(第十条)
 
**条約は大日本国皇帝および大清国皇帝が批准し、批准は山東省[[芝罘]]で明治28年5月8日、すなわち[[光緒]]21年4月14日に交換される。(第十一条)
 
*調印
 
**大日本帝国[[全権|全権弁理大臣]][[伊藤博文]]([[内閣総理大臣]])
 
**大日本帝国全権弁理大臣[[陸奥宗光]]([[外務大臣 (日本)|外務大臣]])
 
**大清帝国欽差頭等全権大臣[[李鴻章]]([[北洋大臣]][[直隷総督]])
 
**大清帝国欽差全権大臣[[李経方]]([[欽差大臣]])
 
*影響
 
**[[伊藤博文]]全権が起草・調印したこの条約によって[[李氏朝鮮]]は[[清]]の[[冊封体制]]から離脱して[[大韓帝国]]となり、第26代の[[高宗 (朝鮮王)|高宗]]が中国皇帝の臣下を意味する「国王」の称号を廃して、はじめて皇帝と称することとなった{{要出典|date=2016年8月}}。
 
<!-- <ref>崔 基鎬『韓国 堕落の2000年史』 ISBN 4-396-31407-8 </ref> -->
 
<!--  * 参考文献の偏向性と信ぴょう性に問題有り。 -->
 
**後に[[ロシア]]・[[ドイツ]]・[[フランス]]による[[三国干渉]]が起こった。
 
<!--  * 現在、朝鮮半島の南北ともに、元々[[清]]の[[冊封国]]だった事や下関条約について教えていない。-->
 
<!--(の歴史的事実を)←具体的には何?存在自体教えていない?-->
 
開港開市の規定などについては、英仏などの欧米列強は既に最恵国待遇を得ていたので、日本も同じ恩恵に与ることが出来た。
 
  
なお賠償金のテール(両)は、1テール=37.3gで2億両(746万kg相当)の銀払いだった。その後の[[三国干渉]]による遼東半島の代償の3000万両(111.9万kg)を上乗せして合計857.9万kg(現在価値(2011.4 日中銀取引相場価格)で銀1kgが12万円程度なので、1兆294億円前後。当時価格で日本の国家予算8000万円の4倍強の3億6000万円前後)以上の銀を日本は清国に対して3年分割で[[イギリス・ポンド|英ポンド]][[金貨]]で支払わせた。日本はこれを財源として長年の悲願だった[[金本位制]]への復帰を遂げた。一方賠償金の支払いは清国にとって大きな負担になり、清国は更に弱体化した。
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{{テンプレート:20180815sk}}
  
==経過==
 
[[File:Treaty of Shimonoseiki.jpg|thumb|right|250px|講和会議の会場となった春帆楼]]
 
陸奥宗光が後に記した『[[蹇々録]]』によれば、交渉は以下のように進んだと記されている。
 
 
[[1894年]](明治27年)11月上旬から米、英、露が調停のための斡旋を開始する。しかし[[12月4日]]、伊藤博文[[第2次伊藤内閣|内閣]]は「威海衛を衝き台湾を略すべき方略」を大本営に提出。実際に台湾を占領しなければ、世論に応え、台湾の譲与を和平条約の要件として盛り込むことはできないと確認した<ref>当時、海軍では台湾全島を望む上で遼東半島は朝鮮に任せてもよいという意見が主流であり、逆に陸軍では最も血を流した遼東半島は無論のこと山東省も希望していた。</ref>。
 
 
1895年(明治28年)[[1月31日]]、清国使節の[[張蔭桓]]と[[邵友濂]]が講和のために広島に到着したが、陸奥宗光は翌[[2月1日]]の会談において、両者の持っている書簡は全権委任状ではなく、地位についても不十分なので、講和を結ぶことができないとした。伊藤博文は清国使節団の随員[[伍廷芳]]に[[李鴻章]]か[[愛新覚羅奕キン|恭親王]]を全権大使として求め、第一回の使節団は[[2月12日]]、長崎を離れ帰国した。
 
 
[[3月19日]]、全権大臣の李鴻章と甥の李経方が下関に到着。翌[[3月20日|20日]]、全権委任状を持っていることをお互いに確認、同地の割烹旅館・春帆楼で講和会議が始まる。清側はまず休戦を求めるが、[[3月21日|21日]]、日本側は徹底した譲歩を要求した条件提示したので休戦は先延ばしとなった。[[3月23日|23日]]、日本側は歩兵一個旅団を台湾島西方の澎湖諸島に上陸させた。
 
 
[[3月24日|24日]]、清国側は休戦よりも講和条約の締結を望み、条約の条項に他国の干渉を招くような項目を控えるように望んだ。この会談の帰途に李鴻章は[[小山豊太郎]]に襲われ負傷する。これによって各国の同情が清に集まることとなり、休戦の先延ばしが困難になる。
 
 
[[3月28日|28日]]、日本側は休戦条約の草案を清側に提示するが、「台湾、澎湖列島およびその付近において交戦に従事する所の遠征軍を除く他」などという文面を清側が訂正を求める。日本側は「日清両帝国政府は盛京省、直隷省、山東省地方に在て下に記する所の條項に従ひ両国海陸軍の休戦を約す」という文面に変更し、[[3月30日|30日]]に休戦定約が締結される。
 
 
[[4月1日]]、講和条約の草案を日本側が提示する。[[4月5日|5日]]、清側は草案について以下のような修正を望む。(1) 朝鮮の独立については、清側だけでなく両国が認めるという形に訂正すること、(2) 割譲地は全面拒否、(3) 賠償金の大幅な減額、(4) 開港場所の見直し他
 
 
[[4月8日|8日]]から、負傷した李鴻章に加えて李経方が欽差全権大臣として交渉の席につく。[[4月9日|9日]]の清側による訂正案は、(1) 前回と同様、(2) 割譲地は[[奉天省]]内の[[東港市|安東県]]、[[寛甸満族自治県|寛甸県]]、[[鳳城市|鳳凰県]]、[[岫巖満族自治県|岫巌州]]、[[澎湖列島]]に止め、台湾を除くこと、(3) 賠償金は無利子の1億両他などが出された。
 
 
[[4月10日|10日]]、陸奥は(1) 朝鮮については訂正を許さず、(2) 台湾は絶対の条件だということ、(3) 賠償金は2億両、(4) 新規開港の数は減らすなどの訂正案を提示し、これについて受諾かどうかのみを問うた。清側は (2) 台湾は武力で占領されたものではないので受け入れ不可、奉天省内も[[営口]]を除くこと、(3) 更なる賠償金の減額を求めた。[[4月11日|11日]]にも清側は重ねて (2) 台湾の除外と (3) 賠償金の更なる減額を求めたが、日本側はこれを退けた。
 
 
[[4月15日|15日]]、割譲地の微細な変更や支払いの方法等の調整がなされ、17日に講和条約が結ばれた。
 
 
== 日清講和記念館 ==
 
[[File:Memorial museum of Treaty of Shimonoseki.jpg|thumb|right|200px|春帆楼に併設されている日清講和記念館]]
 
1937年、日清講和記念館が春帆楼の敷地内に設置された。館内には会議の様子が再現されている。
 
 
== 補注 ==
 
{{reflist}}
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[日清戦争]]
 
* [[中国朝鮮関係史]]
 
* [[独立門]]
 
* [[露清銀行]]
 
* [[下関市]]
 
 
== 外部リンク ==
 
{{Wikisource|下関条約|下関条約}}
 
{{Commonscat|Treaty of Shimonoseki}}
 
* [http://www.shunpanro.com/ 下関春帆楼]
 
* [http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/html/history/kaisetsu/other/shimonoseki.html 日清講和条約]
 
* [http://npmhost.npm.gov.tw/tts/npmkm2/10010.html 清朝の条約、中華民国外交部]
 
 
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下関条約(しものせきじょうやく)

日清戦争の講和条約。 1895年3月 20日,下関の春帆楼で,清国全権李鴻章と日本の伊藤博文,陸奥宗光両全権との間に第1回会談が開かれた。 24日の第3回会談の帰途,李鴻章が狙撃され負傷する事件が起ったため日本側は休戦に応じ,同 30日休戦条約が締結され,次いで4月 17日日清講和条約 11ヵ条が調印された。その内容は,(1)清国は朝鮮が独立自主の国であることを確認すること,(2) リヤオトン (遼東) 半島,台湾全島,ポンフー (澎湖) 列島を日本に割譲すること,(3) 2億テールの賠償金を支払うこと,(4) シャーシー (沙市) ,チョンチン (重慶) ,スーチョウ(蘇州) ,ハンチョウ (杭州) の市港を開くこと,(5) 揚子江航行権を与えること,(6) 最恵国待遇を与えることなどであった。批准交換は5月8日に行われたが,その間に三国干渉がなされ,日本はリヤオトン半島を清国に還付することになった。



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