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'''ロマン主義'''(ロマンしゅぎ、{{lang-en-short|Romanticism}}、{{lang-fr-short|Romantisme}}、{{lang-de-short|Romantik}}、{{lang-it-short|Romanticismo}}、{{lang-es-short|Romanticismo}}、{{lang-pt-short|Romantismo}})は、主として18世紀末から19世紀前半にヨーロッパで、その後にヨーロッパの影響を受けた諸地域で起こった精神運動の一つである。それまでの理性偏重、合理主義などに対し感受性や主観に重きをおいた一連の運動であり、[[古典主義]]と対をなす。恋愛賛美、[[民族意識]]の高揚、[[中世]]への憧憬といった特徴をもち、近代[[国民国家]]形成を促進した。その動きは[[文芸]]・[[美術]]・[[音楽]]・[[演劇]]など様々な[[芸術]]分野に及んだ。のちに、その反動として[[写実主義]]・[[自然主義]]などをもたらした。
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'''ロマン主義'''(ロマンしゅぎ、{{lang-en-short|Romanticism}}、{{lang-fr-short|Romantisme}}、{{lang-de-short|Romantik}}、{{lang-it-short|Romanticismo}}、{{lang-es-short|Romanticismo}}、{{lang-pt-short|Romantismo}}
[[ファイル:WomenofAlgiers.JPG|thumb|right|360px|[[ウジェーヌ・ドラクロワ|ドラクロワ]]『アルジェの女たち』(1834年、ルーヴル美術館所蔵)]]
 
  
== 概要 ==
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18世紀後半から 19世紀前半にヨーロッパで興った文学,哲学,芸術上の理念や運動。ルソーの思想や「[[シュトゥルム・ウント・ドラング]]」運動に端を発し,17世紀以来の古典主義を人間精神の内奥の力を否定したものとして攻撃,なによりも個性や自我の自由な表現を尊重し,知性よりも情緒を,理性よりも想像力を,形式よりも内容を重んじた。そして古典主義の時代をこえて中世とルネサンスの精神に,また自然との直接的な接触に霊感を求めた。ロマン主義は政治的理想と結ばれて,19世紀の多くの革命運動の指導原理ともなった。また精神分析学への道を開くなど現代の思想に与えた影響はきわめて大きい。[[表現主義]][[シュルレアリスム]]もロマン主義の発展形態である。
ロマン主義は[[教条主義]]、[[古典主義]]の対概念としてとらえられるもので、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[哲学者]]・[[アーサー・ラブジョイ]]([[:en:Arthur Oncken Lovejoy]])は「ロマン主義の時代」を[[1780年]]から[[1830年]]としている<ref>[http://etext.lib.virginia.edu/cgi-local/DHI/dhi.cgi?id=dv4-26 ROMANTICISM-Dictionary of the History of Ideas]、2009-08-20閲覧。</ref>。また、ロマン主義は部分的には[[産業革命]]への反動であった<ref>[http://www.britannica.com/eb/article-9083836 ''Romanticism''. Retrieved 30 January 2008, from Encyclopædia Britannica Online]</ref>。その萌芽は既に[[ジャック=アンリ・ベルナルダン・ド・サン=ピエール|ベルナルダン・ド・サン=ピエール]]や[[ディドロ]]に見られ<ref>ドミニック・ランセ『十九世紀フランス文学の展望』、白水社文庫クセジュ、1980年、pp9-10。</ref>、[[セナンクール]]、[[スタール夫人]]、[[バンジャマン・コンスタン]]、[[フランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアン]]といった初期ロマン派作家によってそれまで[[教条主義]]によって抑圧されてきた個人の根本的独自性を根本とした表現が特徴とされる。これらは[[ナポレオン1世]]の[[フランス第一帝政|第一帝政]]に対する文化的抵抗運動の中で[[文芸サロン]]や[[サークル]]の中で醸成された。また、[[フランス]]の[[ジャン=ジャック・ルソー]]の著作が[[ドイツ]]に伝えられたことで始まったドイツのロマン主義は、さらに再びフランスに逆輸入される形でその花を開いた<ref>{{Cite web|author=中込純次|date=1982-7-29|url=http://www1.odn.ne.jp/sanjinkai/bunka/kako/kakisemi11.html|title=ルソー、ユゴーから鴎外へ「仏ロマン主義運動と日本文学」|publisher=財団法人山人会|language=日本語|accessdate=2006-06-16}}
 
</ref>。フランスのロマン主義運動は[[オノレ・ド・バルザック]]死後の[[1850年代]]以降勢いを失い、[[シャルル・クロス]]等の[[小ロマン派]]を除いては<ref>[[澁澤龍彦]]『小ロマン派群像』(「悪魔のいる文学史」〔中公文庫〕所収)</ref>その座を[[写実主義]]、[[自然主義]]、[[高踏派]]等に譲ることになるが<ref name="f83">ドミニック・ランセ『十九世紀フランス文学の展望』、白水社文庫クセジュ、1980年、p83。</ref>、その影響は[[ヨーロッパ]]全域に広まり、[[世紀末]]から[[20世紀]]の初頭の後期ロマン主義にまで及んだ。ロマン主義を信奉する傾向や集団を指して[[ロマン派]] とも呼ばれる。
 
 
 
ロマン主義の底流に流れているものは、古典主義や教条主義がしばしば無視した個人の根本的独自性の重視、[[自我]]の欲求による[[実存的不安]]といった特性である。ロマン主義においては、それまで古典主義において軽視されてきた[[エキゾチスム]]・[[オリエンタリズム]]・[[神秘主義]]・[[夢]]などといった題材が好まれた。またそれまで教条主義によって抑圧されてきた個人の感情、[[メランコリー|憂鬱]]・[[不安]]・動揺・苦悩・個人的な愛情などを大きく扱った。また、古典主義はその技法上の制約によって[[芸術的自由]]を抑圧したと非難する主張から、及び古典主義の欠陥に対する反発からロマン主義の一部は出発したとされる<ref>ドミニック・ランセ『十九世紀フランス文学の展望』、白水社文庫クセジュ、1980年、p25。</ref>。
 
 
 
この特性及び主張は道徳やキリスト教的倫理から文学を解放し、やがて[[写実主義]]・[[自然主義文学|自然主義]]へと継承された。
 
[[ファイル:Francesco Hayez 026.jpg|thumb|right|200px|[[フランチェスコ・アイエツ]]『オダリスク』(1867年、ブレラ美術館所蔵)]]
 
 
 
=== 「ロマン」の語源 ===
 
ローマ帝国時代のラテン語には文語としての[[古典ラテン語]]と口語としての[[俗ラテン語]]が存在したが、その差はさほど大きくなかった。衰退期にはいると文語と口語の差は徐々に広がってゆく。やがて、一つの言語の変種とはもはや呼べないほどにまでその違いは大きくなり、文語は、古典ラテン語の知識のない庶民にはもはや理解困難なほどにまでなる。対して、その時代の口語を[[ロマンス語]]と呼んだ。そのロマンス語で書かれた文学作品が、[[ロマンス]]と呼ばれるようになり、[[ギリシャ文学|ギリシャ]]・[[ローマ文学|ローマ]]の古典文学の対立概念とされるようになった。ロマン主義(ロマンティシズム)の語源は、ここにある。したがってロマン主義の「ロマン」とは、「[[ローマ帝国]]の(支配階級、知識階級ではなく)庶民の文化に端を発する」という意味である。
 
 
 
== 文学 ==
 
文学では「ロマンティック ({{lang|fr|romantique}})」という言葉を現在、その言葉に含蓄されているような意味合いで初めて使ったといわれるフランスの[[ジャン=ジャック・ルソー|ルソー]](『[[孤独な散歩者の夢想]]』)を嚆矢とし、多くの作家が挙げられる。
 
 
 
=== フランス ===
 
[[ファイル:Victor Hugo.jpg|thumb|right|160px|ヴィクトル・ユゴー]]
 
[[ファイル:Die junge George Sand.jpg|thumb|right|160px|ジョルジュ・サンド]]
 
[[18世紀]]末の[[ベルナルダン・ド・サン=ピエール]]の『{{仮リンク|ポールとヴィルジニー|en|Paul_et_Virginie}}』や[[ディドロ]]の『{{仮リンク|ラモーの甥|en|Rameau's Nephew}}』あるいはルソーの『{{仮リンク|新エロイーズ|en|Julie, or the New Heloise}}』、『[[告白 (ルソー)|告白]]』等に見られるロマン主義の萌芽は19世紀に入り、[[スタール夫人]]、[[バンジャマン・コンスタン]]、[[フランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアン]]、[[セナンクール]]といった初期ロマン派作家によって現実認識及び自我といった根源及び対象を持った本質的欲求の表現を通して、それまで[[教条主義]]によって抑圧されてきた個人の根本的独自性やそれを根源とした苦しみが明確な形をとって表現された。倦怠、不満、無力、自己満足、欲求不満と人に容れられぬという意識、こうした実存的不安、あるいはシャトーブリアンが「情熱の空漠性」と呼び、コンスタンが「今世紀の主要な精神的な病のひとつ」と呼んだものはそれまでの教条主義ではその存在が否定され、[[啓蒙主義]]においてはその輝きの影に隠れたものであった。同時にこの自我の流謫と、他者に対する夢想の中で揺れ動く自我の称揚にロマン主義の基盤が据えられている。これらは[[ナポレオン1世]]の[[フランス第一帝政|第一帝政]]に対する文化的抵抗運動の中、[[文芸サロン]]や[[サークル]]の中で醸成された。また、[[ヴィクトル・ユゴー]]やその兄{{仮リンク|アベル・ユゴー|fr|Abel Hugo}}が属した「{{仮リンク|文学保守|fr|Le Conservateur littéraire}}」誌、あるいは「{{仮リンク|グローブ (雑誌)|label=グローブ|fr|Le Globe}}」誌、「フランス精神」誌などを発表の根拠地としていた。そして[[1825年]]にヴィクトル・ユゴーとシャトーブリアンが[[自由主義]]化することでロマン主義はより大きなうねりとなった。自由主義・[[個人主義]]・[[エゴイズム]]を柱とするロマン主義の確立はそれまでの教条主義・古典主義に対する個人の解放だけでなくあらゆる専制に対する人間性の解放をも目指した。ユゴーは戯曲『[[エルナニ]]』の序文でこう書いている。「芸術における自由、社会における自由、これこそが筋が通り道理に適った全ての精神が足並み揃えて目指さなければならない二重の目的である。(中略)文学の自由は政治的自由の娘である。」[[1830年]]、この戯曲『エルナニ』の上演における混乱は「{{仮リンク|エルナニ事件|fr|Bataille d'Hernani}}」と呼ばれ、フランス芸術界を覆ったロマン主義における一大事件となっている。19世紀前半の代表的なロマン主義詩人としては[[アルフォンス・ド・ラマルティーヌ]]、[[アルフレッド・ド・ミュッセ]]、[[アルフレッド・ド・ヴィニー]]、ヴィクトル・ユゴー、[[ジェラール・ド・ネルヴァル]]らが、小説家としては[[スタンダール]]、[[オノレ・ド・バルザック]]、ヴィクトル・ユゴー、[[プロスペル・メリメ]]、[[ジョルジュ・サンド]]らが挙げられる。[[1848年]]の総選挙によるラマルティーヌの失敗と、[[1850年]]のバルザックの死、及び[[1851年]][[12月2日]]の[[ルイ・ナポレオン]]の[[クーデタ]]を通じ、ロマン主義は幻滅の中で[[写実主義]]・[[自然主義文学|自然主義]]にその座を譲ることになる<ref>ドミニック・ランセ『十九世紀フランス文学の展望』、白水社文庫クセジュ、1980年、pp9-85。</ref>。以降のロマン派は{{仮リンク|シャルル・ラッサイー|fr|Charles Lassailly}}、[[シャルル・クロス]]、[[エリファス・レヴィ]]らの[[小ロマン派]]と呼ばれる詩人・作家たちに[[パリ]]の文芸サロン文化内で細々と継承され、やがて[[象徴主義]]にたどり着くことになる。
 
 
 
=== イギリス ===
 
[[ファイル:George Gordon Byron, 6th Baron Byron by Richard Westall (2).jpg|thumb|left|160px|[[ジョージ・ゴードン・バイロン]]]]
 
[[イギリス]]におけるロマン主義は、ヨーロッパ[[啓蒙主義]]に強い影響を受け、[[ウィリアム・ブレイク]]の詩をその萌芽とし、[[ウィリアム・ワーズワース]]と[[サミュエル・テイラー・コールリッジ]]の共著である詩集『[[抒情民謡集]](Lyrical Ballads)』(1798年)をもって本格的に始まる。さらに[[ロバート・サウジー]]らが牽引した。ワーズワースやコールリッジらは[[フランス革命]]後保守化したが、[[ナポレオン戦争]]後[[ジョージ・ゴードン・バイロン]]、[[パーシー・ビッシュ・シェリー]]、[[ジョン・キーツ]]らは先鋭化しイギリスを去って[[スイス]]・[[イタリア]]等に移り、[[理想主義]]を掲げた。そうした中、『[[穀物条例歌集]]』のように政治に深く関わる作品も著された。またバイロンは[[ギリシャ独立戦争]]に従軍した。これらは[[産業革命]]や[[重商主義]]への反動として産業革命の浸透と時を同じく浸透していったが、やがて産業革命の所作である[[功利主義]]的な思想にとって代わられることとなった。バイロンの死去した[[1820年代]]以降、イギリスにおけるロマン主義は急速に後退していった。
 
 
 
=== ドイツ ===
 
[[ファイル:Deutsche Romantik.jpg|thumb|right|120px|ドイツロマン派の人物たち]]
 
ドイツのロマン主義文学は[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]の作品や[[シュトゥルム・ウント・ドラング|疾風怒濤]]期の作品から理論の形成に大きな影響を受けたが、ゲーテ自身はロマン主義に批判的であった。ドイツ文学におけるロマン主義運動は北部の[[イェーナ|イエナ]]を中心とした。イエナには[[ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公国]]の宰相でもあるゲーテの政策によって、国内を代表する学者たちが教授として招かれていた。ドイツの初期ロマン派(ドイツ・ロマン派、イエナ・ロマン派)の文学者には文学誌「[[アテネーウム]]」を主宰した[[シュレーゲル|シュレーゲル兄弟]]、[[ルートヴィヒ・ティーク|ティーク]]、[[ノヴァーリス]]などがいる。イエナのサークルにはゲーテ、[[フリードリヒ・フォン・シラー|シラー]]、[[フリードリッヒ・シュライエルマッハー|シュライエルマッハー]]、[[ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ|フィヒテ]]、[[フリードリヒ・シェリング|シェリング]]が関わった。またこのサークルには加わらなかったが、[[フリードリヒ・ヘルダーリン|ヘルダーリン]]もイエナでフィヒテの講義を聴講している。この初期ロマン派は哲学への志向を持った。この傾向はシュレーゲルに強く近代の特徴的所産としてフランス革命・フィヒテの[[知識学]]・ゲーテの『[[ヴィルヘルム・マイスター]]』を挙げている。しかしこの文学者からの接近は哲学者からは必ずしも歓迎されなかった。シュレーゲルはイエナ大学で[[哲学]]の講義を行ったが、哲学界からは黙殺された。また[[ヘーゲル]]やシェリングはシュレーゲルの思想を浅薄なものと非難している。しかし[[フィヒテ]]の後期[[知識学]]や、シェリングの後期哲学([[積極哲学]])には明確にロマン主義の影響が認められる。これらの[[ドイツ観念論]]とは異なる哲学的思索については、後に[[ヴァルター・ベンヤミン]]が芸術批評の思想として発掘し、[[カール・ハインツ・ボーラー]]などにより積極的に評価された。哲学史的意味においてこの時期の[[古代ギリシア]]研究に[[アポロン]]と対置された[[ディオニュソス]]的な存在を見出した影響は大きく、[[ニーチェ]]らがこの分類を用いたほか、[[世紀末芸術]]等に[[モチーフ]]が受け継がれた。彼らのグループ・[[イェナロマンティカー]]は各人の転居や死などにより[[1800年]]には解消した。後に[[ベルリン]]の[[アヒム・フォン・アルニム|アルニム]]らによるサロンを中心とする小説家群が輩出された。この文学者群を後期ロマン主義と呼び、[[グリム兄弟]]、[[シャミッソー]]、[[E.T.A.ホフマン|ホフマン]]らが挙げられる。シュレーゲルの友人であるスタール夫人によりドイツのロマン主義はその源流であるフランスに紹介された。
 
 
 
=== ベルギー ===
 
[[ファイル:Hendrik Conscience.jpg|thumb|right|160px|ヘンドリック・コンシャンス]]
 
ヴィクトル・ユゴーの戯曲『エルナニ』の上演をめぐるエルナニ事件が起きた1830年に、[[ベルギー]]は臨時政府議会による独立承認が行われている。独立前の政治的混乱と[[産業革命]]の成功に伴う[[ブルジョワ]]階級の[[功利主義]]の中でロマン主義の受容は遅れていたといわれ、また当時のフランス[[王党派]]色の強いロマン主義文学に対して[[オランダ王家]]([[オラニエ=ナッサウ家]])に対する独立運動を行っていた[[ベルギー人]]の反応は薄かったといわれている<ref name="kobe">岩本和子『ベルギーにおけるロマン主義運動ー想像の「国民文化」形成ー』国際文化学研究 : 神戸大学国際文化学部紀要11号、1999年3月、[http://www.lib.kobe-u.ac.jp/repository/81001211.pdf]{{PDF}},2010-09-27閲覧。</ref>。フランス側からだけでなく、ドイツ側からも喧伝されたが、一部の貴族以外からの反響はなかった<ref name="kobe" />。ベルギーがロマン主義の受容を始めるのは、自由主義とロマン主義を明確に掲げた「グローブ」紙が熱心に読まれ始める1820年代中盤、[[1826年]]に{{仮リンク|オーギュスト・バロン|en|Auguste Baron}} ({{lang|fr|Auguste Baron}}) がパリから[[ブリュッセル]]に移り、バロンの執筆した「ブリュッセル・ジャーナル」誌 ({{lang|fr|Le Journal de Bruxelles}}) と古典派の拠城とされる「歩哨」誌 ({{lang|fr|La Sentinelle}}) との間でロマン主義に関する論争が行われてからのことだった<ref name="kobe" />。また、パリに対してその約半分だったブリュッセルの印刷費と[[フランス第二帝政]]の厳しい[[言論統制]]により、ブリュッセルでフランス向けの海賊出版物が数多く出版されている<ref name="kobe" />。この海賊出版は[[バルザック]]の『19世紀フランスの作家たちへの書簡』で激しく非難されている<ref name="kobe" />。この状態は[[1852年]][[4月22日]]にフランス・ベルギー両政府間で「[[文学・芸術著作権に関する相互保護協定]]」が締結されるまで続いた<ref name="kobe" />。この海賊出版をめぐる論争はフランスのロマン主義に対する攻撃にも発展した。1836年の『ベルギー評論』では既に「想像力のもとで良識を抑圧しようとするこの新しい文学は、風俗を廃れさせ、道徳を破壊し、悪徳と罪とに、金の小片を散りばめた真っ赤なマントを纏わせている」と非難されており、[[1846年]]には詩人ラウルの『ユゴーに反して』({{lang|fr|L'Anti-Hugo}}) というロマン主義を激しく非難する小冊子が刊行され、ブリュッセルではその後次々とロマン主義を攻撃する風刺的小冊子が刊行された<ref name="kobe" />。海賊出版論争の間にベルギー言論界はフランスの自由主義的ロマン主義と自らの矛盾を自覚してベルギー・ナショナリズムが萌芽し、ゲルマン的ロマン主義の模倣を経由しベルギー独自の幻想文学に至っている<ref name="kobe" />。このロマン主義を受容した時期に書かれた小説として{{仮リンク|ヘンドリック・コンシャンス|en|Hendrik Conscience}}(アンリ・コンシャンス)のロマン主義的歴史小説『[[フランデレンの獅子 (小説)|フランデレンの獅子]]』([[1839年]])が挙げられる<ref name="kobe" />。
 
 
 
=== ポルトガル ===
 
[[ポルトガル]]のロマン主義はフランスのそれの影響が強く<ref>田所(1993:150)</ref>、ポルトガルにおいてロマン主義は、1825年に詩人の[[アルメイダ・ガレット]]が亡命先のフランスで発表した『カモンイス』(1825)によって導入された。ガレットの他に、初期のポルトガル・ロマン主義の形成に大きな役割を果たした人物として、[[歴史家]]であり、詩人でもある[[アレシャンドレ・エルクラーノ]]の名を挙げることができる。写実主義の萌芽が見られる[[ジュリオ・ディニス]]や、『破滅の恋』(1862)のような恋愛小説を残した[[カミロ・カステロ・ブランコ]] のような第二世代に続いて保守的で形式的な超ロマン主義が文壇を支配し、こうした超ロマン主義に対して1865年に反ロマン主義者がその後進性を批判した[[コインブラ問題]]は、ポルトガルの後進性を巡る文学論争に発展した。
 
 
 
=== ポーランド ===
 
[[ファイル:Adam Mickiewicz.jpg|thumb|left|160px|ポーランドの詩人、[[アダム・ミツキェヴィチ]]]]
 
[[ポーランド]]のロマン主義({{lang|pl|Romantyzm}})は、[[ポーランド分割]]に参加したドイツの諸作家及びイギリスの[[バイロン]]の影響を強く受けた。[[1831年]]の[[ポーランド蜂起]]から[[1863年]]の[[第2次ポーランド蜂起]]までが盛んな期間であった。
 
 
 
ポーランドロマン主義三大詩人と呼ばれる[[アダム・ミツキェヴィチ]]、[[ユリウシュ・スウォバツキ]]、[[ジグムント・クラシンスキ]]や、歴史小説で知られる[[ユゼフ・イグナツィ・クラシェフスキ]]等が活躍した。ロマン主義隆盛の後、ポーランド文学は19世紀後半の[[実証主義]]、[[自然主義]]に向かって行くことになる。
 
 
 
=== キューバ ===
 
[[キューバ]]においてロマン主義は、[[スペイン]]の[[植民地]]支配に対する抵抗の手段としての役割を果たした<ref>ジョゼ/高見訳(1975:44)</ref>。[[1830年代]]から[[1840年代]]にかけてキューバのロマン主義文学者は[[ドミンゴ・デル・モンテ]]が創刊した雑誌『レビスタ・ビメストレ・クバナ』(1831-1834)に集結し、その中から重要な批評家が現れた。その他にもキューバのロマン主義者として、反スペイン運動に参加した叙事詩人[[ホセ・ハシント・ミラネス]]のような人物の名を挙げることができる。
 
 
 
=== アルゼンチン ===
 
[[ファイル:EstebanEcheverria.jpg|thumb|160px|[[エステバン・エチェベリーア]]]]
 
 
 
[[アルゼンチン]]においてロマン主義は、1829年から1852年までアルゼンチンを独裁的に支配した[[フアン・マヌエル・デ・ロサス]]との関係の中で培われた。ロマン主義が[[ラ・プラタ川]]流域に登場したのは、フランスのロマン主義に影響を受けた[[エステバン・エチェベリーア]]の『エルビア、もしくはエル・プラタの恋人』(1832)によってであった<ref>ジャック・ジョゼ/高見英一、鼓直:訳『ラテンアメリカ文学史』白水社(文庫クセジュ)、1975/07 p.38</ref>。エチェベリーアはその後『調べ』(1837)などを著した後に、ロサスと決定的に敵対したためにウルグアイに亡命し、亡命先でロサスの圧政から着想を得て暴力を描いた小説『エル・マタデーロ』(1840)を著した。
 
 
 
エチェベリーアがそうであったように、ロサスの反対者は「1837年の世代」と呼ばれるグループを結成し、亡命先からロサスと対立したが、そのような人物の中で特に優れていたのは[[チリ]]に亡命していた[[ドミンゴ・ファウスティーノ・サルミエント]]だった。サルミエントは[[ラ・リオハ州 (アルゼンチン)|ラ・リオハ州]]の[[カウディーリョ]]、[[フアン・ファクンド・キロガ]]の生涯を描いた『ファクンド』(1845)で、アルゼンチンにおける「野蛮」なガウチョやカウディーリョと、「文明」であるヨーロッパの文化との対立を描いている。
 
 
 
ロサス失脚後のロマン主義に位置づけられる作家には、『アマリア』の[[ホセ・マルモル]]や、{{仮リンク|ガウチョ文学|en|Gaucho literature}}の大成者であり、「アルゼンチンの聖書」とも呼ばれる[[叙事詩]]『{{仮リンク|マルティン・フィエロ|en|Martín Fierro}}』(1872)を著した[[ホセ・エルナンデス]]の名が挙げられる。
 
 
 
=== ブラジル ===
 
[[ファイル:José_de_Alencar.jpg|thumb|160px|[[ジョゼ・デ・アレンカール]]]]
 
[[ブラジル帝国]]においてロマン主義は、[[ゴンサルヴェス・デ・マガリャンイス]]の『詩的吐息と感情』(1836)によって導入された<ref name="b255">シッコ・アレンカール、マルクス・ヴェニシオ・リベイロ、ルシア・カルピ/東明彦、鈴木茂、アンジェロ・イシ:訳『ブラジルの歴史 ブラジル高校歴史教科書』明石書店、2003/01 p.255</ref>。ブラジルのロマン主義はヨーロッパの形式の模倣に過ぎなかったが<ref name=tadokoro20010204>田所清克「ナショナル・アイデンティティー構築の歴史とその構想者たち」『ブラジル学への誘い その民族と文化の原点を求めて』田所清克、世界思想社、2001/09</ref>、扱われた主題は新たな国民国家のアイデンティティに関するものだった<ref name=tadokoro20010204/>。ヨーロッパのロマン主義において英雄と見なされたのは[[中世]]の[[騎士]]だったが、中世を経験せず、騎士も存在しなかったブラジルにおいてその役割は[[インディオ]]によって担わされることになり、[[インディアニズモ]]と呼ばれる文学潮流が生まれた<ref name=tadokoro20010204/>。その中で目標とされたのは、「ブラジル語」の創造だった<ref name=tadokoro20010204/>。このように、ロマン主義文学者の想像上のインディオはインディアニズモの潮流の中で賞賛されたが、[[奴隷制]]に苦しむ[[アフリカ系ブラジル人|黒人]]は少数の例外を除いてロマン主義文学者のテーマにはならず<ref name=tadokoro20010104>田所清克「ブラジル浪漫主義の思想と主題」『ブラジル学への誘い その民族と文化の原点を求めて』田所清克、世界思想社、2001/09</ref>、実際に存在するインディオに対しては無関心、または敵対的な政策が採られた。
 
 
 
ブラジルロマン主義の文学者としては、詩においてインディアニズモを開拓した[[ムラート]]の[[アントニオ・ゴンサルヴェス・ディアス]]<ref>シッコ・アレンカール、マルクス・ヴェニシオ・リベイロ、ルシア・カルピ/東明彦、鈴木茂、アンジェロ・イシ:訳『ブラジルの歴史 ブラジル高校歴史教科書』明石書店、2003/01 p.254</ref>、インディアニズモ小説の『イラセマ』と『グアラニー』でブラジルロマン主義の頂点に立った[[ジョゼ・デ・アレンカール]]<ref name="b255" />、『ある在郷軍曹の回想録』(1852)で帝都[[リオデジャネイロ|リオ]]の風俗を描き、上流階級を揶揄した[[マヌエル・アントニオ・デ・アルメイダ]]<ref name=tadokoro20010104/>、ブラジルロマン主義に「笑い」をもたらし<ref name="b255" />『苦しめられし犠牲者たち』(1869)で黒人に若干の偏見を持ちながらも黒人奴隷制を告発した[[ジョアキン・マノエル・デ・マセード]]<ref name=tadokoro20010104/>、[[ヴィクトル・ユーゴー]]の人道主義に共感し、[[奴隷制廃止運動]]に携わった詩人[[カストロ・アルヴェス]]<ref name=tadokoro20010104/>、『奴隷女、イザウーラ』(1875)で白人女性のような黒人女性を描いた[[ベルナルド・ギマランエス]]<ref name=tadokoro20010104/>などの名が挙げられる。
 
 
 
=== 日本 ===
 
{{main|大正ロマン}}
 
[[ファイル:Shimazaki Toson2.jpg|thumb|160px|[[島崎藤村]]]]
 
[[日本]]では[[明治]]中期([[1890年]]前後)以降、西欧のロマン主義文学の影響を受け、[[森鴎外]]の『[[舞姫]]』(1890年)によってロマン主義文学が始まり、「[[文学界 (明治)|文学界]]」同人の[[島崎藤村]]・[[北村透谷]]らによって推進された。透谷は『[[内部生命論]]』([[1893年]])で「吾人は人間の根本の生命に重きを置かんとするものなり」と主張した。また、[[写実主義]]に対する反動から[[泉鏡花]]の[[観念小説]]が書かれ、[[日清戦争]]後の社会不安から[[広津柳浪]]の[[悲惨小説]](深刻小説)が書かれた。日本のロマン主義文学の主な作品は、[[樋口一葉]]の短編小説『[[たけくらべ]]』([[1895年]])、島崎藤村の詩集『[[若菜集]]』([[1897年]])、[[国木田独歩]]の随筆的小説『武蔵野』([[1898年]])、[[徳冨蘆花]]の社会的視野を持った家庭小説『[[不如帰 (小説) |不如帰]]』([[1899年]])、泉鏡花の[[幻想小説]]『[[高野聖 (小説)|高野聖]]』([[1900年]])、[[与謝野晶子]]の歌集『[[みだれ髪]]』([[1901年]])、[[高山樗牛]]の評論『美的生活を論ず』(1901年)などである。国木田独歩はやがてロマン主義から自然主義的な作風に変化してゆき、島崎藤村は『[[破戒 (小説)|破戒]]』([[1906年]])により、ロマン主義から[[自然主義文学]]に完全に移行した。日本のロマン主義文学は、西欧のそれに比べて短命であった。また、[[夏目漱石]]は「浪漫」という漢字による[[当て字]]を考案した。日本におけるロマン主義は明治末期に始まり大正初期には自然主義への移行で終わったが、「ロマン主義の終焉した大正時代」の文化世相を「[[大正ロマン]](大正浪漫)」と呼ぶ。
 
 
 
[[1935年]](昭和10年)になると新しいロマン主義を模索する[[保田與重郎]]をはじめとする[[日本浪曼派]]が登場した。これは[[国粋主義]]的な思想の強いものであった。「日本浪曼派」の同人には[[亀井勝一郎]]、[[檀一雄]]、[[太宰治]]等がいる。
 
 
 
== 政治 ==
 
[[ファイル:Eugène Delacroix - La liberté guidant le peuple.jpg|thumb|left|240px|[[民衆を導く自由の女神]](1830年、[[ルーヴル美術館]]所蔵)]]
 
キリスト教的教条主義から表現を解放したロマン主義は、教会の指導から世俗権力に政治的主導権が大きく振られる過程と時を同じくし、[[王権神授説]]によってその正統性を保障された[[ブルボン朝|ブルボン王家]]から[[フランス革命]]によってその権力が離れ、ナポレオンによって[[フランス第一帝政|フランス帝国]]がヨーロッパ全体に伸張する過程で[[ブルジョアジー]]に支持され、普及した。この動きの中でロマン主義陣営からの政治参加がめざましく見られた。フランスにおいては[[ヘレーネ・ツー・メクレンブルク=シュヴェリーン|オルレアン公爵夫人]]の側近を務め、後に[[ナポレオン3世|ルイ・ナポレオン公]]の陣営に転じたヴィクトル・ユゴー<ref>ドミニック・ランセ『十九世紀フランス文学の展望』、白水社文庫クセジュ、1980年、p41。</ref>や、[[1848年革命|二月革命]]の臨時政府で外務大臣に就任したものの同年の大統領選挙で華々しい失敗を演じたアルフォンス・ド・ラマルティーヌ<ref name="f83" />などの政治への参加がみられたものの、[[1851年]]のルイ・ナポレオンの[[クーデター]]によりブルジョアジーの関心は急速にロマン主義からはなれ、科学的経済的進歩の競争に向けられるようになった。フランス革命によって刺激された国民意識の形成は、[[東ヨーロッパ|東欧]]・[[北ヨーロッパ|北欧]]・[[スペイン]]・ドイツなどの諸民族が同様に[[民族主義]]的な文化的国民性及び民族としての一体性を強く意識させた。ドイツにおいては領邦国家に分裂した社会及び近代世界の克服がドイツにおけるロマン主義の主要な主題のひとつであり、これは民族共同体の意識が強かった[[オリエント]]への憧憬や教会と神聖ローマ帝国のもとにあった中世への懐古と結びついた。こうしたドイツにおける保守化・伝統回帰の傾向は特にナポレオン戦争後の[[ウィーン体制]]・[[正統主義]]を背景とした後期ロマン派に顕著である。大戦間において再び隆盛したロマン主義的な政治については[[カール・シュミット]]が、至上化した生の高揚のために政治を利用する[[機会偶因主義]]({{lang-de-short|Okkasionalismus}}、オッカジオナリスムス)であると批判した。
 
 
 
== 絵画 ==
 
[[ファイル:Shipwreck turner.jpg|thumb|right|240px|[[ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー|ターナー]]『ミノタウロス号の難破』]]
 
先行する[[新古典主義]]に対するロマン主義の反伝統的、反制度的表現を準用して、絵画においてもロマン主義の呼称が用いられる。ロマン主義に属する画家としては、スペインの[[フランシスコ・デ・ゴヤ|ゴヤ]]、フランスの[[ウジェーヌ・ドラクロワ|ドラクロワ]]、[[テオドール・ジェリコー]]、[[ギュスターヴ・ドレ]]、イギリスの[[ウィリアム・ブレイク]]、[[ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー]]、[[サミュエル・パーマー]]、[[リチャード・ダッド]]、イタリアの[[フランチェスコ・アイエツ]]、スイスの[[ヨハン・ハインリヒ・フュースリー]]、ドイツでは山岳・廃墟などをテーマにした[[カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ]]、[[フィリップ・オットー・ルンゲ]]、ノルウェーの[[ヨハン・クリスチャン・ダール]]などが挙げられる。
 
 
 
[[日本]]の絵画では[[藤島武二]]、[[青木繁]]らが知られる。
 
 
 
== 音楽 ==
 
[[ファイル:Frederic Chopin photo sepia.jpeg|thumb|left|120px|[[フレデリック・ショパン|ショパン]]]]
 
{{main|ロマン派音楽}}
 
音楽におけるロマン主義(ロマン派)時代は、[[バロック音楽]]に続く[[古典派音楽]]の次に来る時期を指し、ほぼ[[19世紀]]全体及び20世紀初頭に及んでいる。ただし19世紀後半には[[ロシア]]や[[東ヨーロッパ|東欧]]・[[北ヨーロッパ|北欧]]・[[スペイン]]では[[民族主義]]的な[[国民楽派]]が栄え、フランスでは20世紀初頭には[[印象主義音楽]]に移行していた。このため、後期ロマン派と呼ばれる19世紀中盤以降のロマン派音楽は、ドイツ・フランス・イタリア等の限定的な地域での流行となった。代表的な[[作曲家]]として[[フランツ・シューベルト]]、[[エクトル・ベルリオーズ]]、[[フレデリック・ショパン]]、[[ロベルト・シューマン]]、[[フランツ・リスト]]、[[リヒャルト・ワーグナー]]等が挙げられる。
 
 
 
{{-}}
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
* [[澁澤龍彦]]「小ロマン派群像」『悪魔のいる文学史』 中央公論社、のち中公文庫
 
* [[高階秀爾]]『フランス絵画史』[[講談社学術文庫]]、1990年
 
* ジャック・ジョゼ『ラテンアメリカ文学史』[[高見英一]]、[[鼓直]]訳、[[白水社]]〈[[文庫クセジュ]]〉、1975年7月。
 
* ドミニック・ランセ『十九世紀フランス文学の展望』[[加藤民男]]訳、白水社〈文庫クセジュ〉、1980年。
 
* デーヴィッド・ブレイニー・ブラウン『岩波世界の美術 ロマン主義』[[高橋明也]]訳、[[岩波書店]]、2004年
 
* [[田所清克]]「ポルトガルの古き良き伝統を求めて──ポルトガル文学の流れを中心に」『郷愁ポルトガル──地果て海始まるところ』監修、[[泰流社]]、1993年3月。
 
* 田所清克「ナショナル・アイデンティティー構築の歴史とその構想者たち」『ブラジル学への誘い──その民族と文化の原点を求めて』田所清克、[[世界思想社]]、2001年9月。
 
* 田所清克「ブラジル浪漫主義の思想と主題」『ブラジル学への誘い──その民族と文化の原点を求めて』田所清克、世界思想社、2001年9月。
 
* [[中込純次]] (1982-7-29). "ルソー、ユゴーから鴎外へ「仏ロマン主義運動と日本文学」" (日本語). 財団法人山人会. 2006年6月16日閲覧。
 
* [[金七紀男]]『ポルトガル史(増補版)』[[彩流社]]、増補版2003年4月。
 
* 村上義和、池俊介編著『ポルトガルを知るための50章』[[明石書店]]、2001年2月。
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[ロマン派音楽]]
 
* [[リヒャルト・ワーグナー]]
 
* [[ルドルフ・シュタイナー]]
 
* [[マンフレート・フランク]]
 
* [[ヴィンフリート・メニングハウス]]
 
* [[モーリス・ド・ゲラン]]
 
* [[プロスペル・ド・バラント]]
 
* [[アドルフ・ティエール]]
 
* [[シャルル=オーギュスタン・サント=ブーヴ]]
 
* [[ウィリアム・ブレイク]]
 
* [[ゴシック]]
 
* [[世紀末芸術]]
 
* [[退廃芸術]]
 
* [[民俗学]]
 
* [[世俗主義]]
 
* [[イギリス・ロマン派学会]]
 
* [[科学におけるロマン主義]] <!-- TODO: 本文への織り込み -->
 
 
 
== 外部リンク ==
 
{{Commonscat|Romanticism}}
 
* [http://wwwsoc.nii.ac.jp/jaer/ イギリス・ロマン派学会]
 
* [http://www.campus.ouj.ac.jp/~gaikokugo/romanticism/index.html ''Web''ロマン主義入門講座 ~ イギリスのロマン主義文学を、映像、研究者による解説、俳優による朗読でたどる]
 
 
 
{{ロマン主義}}
 
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2019/5/7/ (火) 20:07時点における最新版

ロマン主義(ロマンしゅぎ、: Romanticism: Romantisme: Romantik: Romanticismo西: Romanticismo: Romantismo

18世紀後半から 19世紀前半にヨーロッパで興った文学,哲学,芸術上の理念や運動。ルソーの思想や「シュトゥルム・ウント・ドラング」運動に端を発し,17世紀以来の古典主義を人間精神の内奥の力を否定したものとして攻撃,なによりも個性や自我の自由な表現を尊重し,知性よりも情緒を,理性よりも想像力を,形式よりも内容を重んじた。そして古典主義の時代をこえて中世とルネサンスの精神に,また自然との直接的な接触に霊感を求めた。ロマン主義は政治的理想と結ばれて,19世紀の多くの革命運動の指導原理ともなった。また精神分析学への道を開くなど現代の思想に与えた影響はきわめて大きい。表現主義シュルレアリスムもロマン主義の発展形態である。



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