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{{Infobox baseball player
 
|選手名 = ロジャー・マリス
 
|英語表記 = Roger Maris
 
|所属球団 =
 
|背番号 =
 
|選手写真ファイル名 = Roger_Maris_Indians.png
 
|写真サイズ = 250
 
|写真のコメント = 1957年
 
|国籍 = {{USA}}
 
|出身地 = [[ミネソタ州]][[ヒビング]]
 
|生年月日 = [[1934年]][[9月10日]]
 
|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1934|9|10|1985|12|14}}
 
|身長 = {{フィートとcm (身長用変換)|6|0}}
 
|体重 = {{ポンドとkg (体重用変換)|200}}
 
|利き腕 = 右
 
|打席 = 左
 
|守備位置 = [[外野手]]
 
|プロ入り年度 = 1953年
 
|ドラフト順位 =
 
|初出場 = 1957年4月16日
 
|最終出場 = 1968年9月29日
 
|年俸 =
 
|経歴 =
 
* [[クリーブランド・インディアンス]] (1957 - 1958)
 
* [[オークランド・アスレチックス|カンザスシティ・アスレチックス]] (1958 - 1959)
 
* [[ニューヨーク・ヤンキース]] (1960 - 1966)
 
* [[セントルイス・カージナルス]] (1967 - 1968)
 
|選出国 =
 
|選出年 =
 
|得票率 =
 
|選出方法 =
 
}}
 
'''ロジャー・ユージーン・マリス'''('''Roger Eugene Maris'''、[[1934年]][[9月10日]] - [[1985年]][[12月14日]])は[[アメリカ合衆国]][[ミネソタ州]][[ヒビング]]出身の[[プロ野球選手]]([[外野手]])である。右投左打。
 
  
[[1961年]]、それまで[[ベーブ・ルース]]が34年間保持してきた年間最多[[本塁打]]記録を破ったことで知られる。現在も[[アメリカンリーグ]]年間最多本塁打記録保持者。
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'''ロジャー・ユージーン・マリス'''('''Roger Eugene Maris'''、[[1934年]][[9月10日]] - [[1985年]][[12月14日]]
  
== 経歴 ==
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アメリカ合衆国のプロ野球選手。本名 Roger Eugene Maris。 1957年[[大リーグ]]のクリーブランド・インディアンズに入団。 1960~66年ニューヨーク・ヤンキーズに所属。 1961年[[ベーブ・ルース]]の記録を抜き,年間本塁打数 61本の偉業を達成したが,マリスの年間試合数 162に対し,ルースの 1927年の記録 (60本) は 154試合時代のものだったことから,当時のコミッショナーにより記録更新は認められなかった。マリスの記録は 1998年にマーク・マグワイア,サミー・ソーサに破られるまで大リーグ最多だった。強打者であると同時に卓越した守備力をもち,1960,1961年アメリカンリーグの最優秀選手 MVPに輝いた。 1967~68年にセントルイス・カーディナルズでプレーし,通算 275本塁打の記録を残して引退。
=== 少年時代 ===
 
'''Roger Eugene Maras'''(後に名字をMarisに変更)は[[クロアチア]]移民の息子として[[アメリカ合衆国|米国]][[ミネソタ州]][[ヒビング]]に生まれる。[[ノースダコタ州]][[グランドフォークス (ノースダコタ州)|グランドフォークス]]で育った彼は同州[[ファーゴ (ノースダコタ州)|ファーゴ]]のシャンリー高校に通い、野球を始めとするさまざまな競技で才能を発揮していった。
 
  
マリスは早い時期から個性的な一面を有しており、[[オクラホマ大学]]にアメリカンフットボールの選手としてスカウトされた際もバスから降り大学側からの出迎えがないのを見ると、失望したマリスはファーゴに帰ってしまった。
+
{{テンプレート:20180815sk}}
 
 
=== 若手時代 ===
 
{{by|1957年}}に[[クリーブランド・インディアンス]]でメジャーデビュー。翌年[[オークランド・アスレチックス|カンザスシティ・アスレチックス]]にトレードされ、{{by|1959年}}に[[虫垂]]手術で45試合欠場するものの自身初の[[MLBオールスターゲーム]]出場を果たす。
 
 
 
同年12月、7人もの選手とのトレードで[[ニューヨーク・ヤンキース]]に移籍(この時の交換相手の一人に[[ドン・ラーセン]]がいる)。当時のアスレチックスは実力選手を頻繁にヤンキースにトレードに出すことで知られ、マリスも例外ではなかった。
 
 
 
ヤンキースでの初めてのシーズンであった{{by|1960年}}は、[[ニューヨーク]]特有の辛辣なメディアからのプレッシャーを他所に大活躍の年となった。長打率・打点・長打でリーグ1位に輝き、本塁打数でも同僚の[[ミッキー・マントル]]に1本差で続く2位であった。素晴らしい守備も評価され、[[ゴールドグラブ賞]]も受賞。同年の[[アメリカンリーグ]][[最優秀選手賞 (MLB)|MVP]]に輝いた。
 
 
 
=== ベーブ・ルース越え ===
 
{{by|1961年}}、アメリカンリーグは新規球団の加盟を認可し、それまでの8球団から10球団に増えた。これにより結果的にリーグ全体の投手の質は低下し、ヤンキースの本塁打数は記録的なペースで積み上げられていった。この年に撮られた有名な写真は[[ミッキー・マントル]]、マリス、[[ヨギ・ベラ]]ら6人のヤンキース選手を並べたもので、最終的にはこの6人合計で207本もの本塁打を打った打線は「殺人打線(Murderer's Row)」として他球団の投手陣から恐れられた。
 
 
 
マリスがシーズン初本塁打を放った4月27日に{{仮リンク|MM砲|en|M&M Boys}}の一方である4番打者マントルは既に7本を記録していたが、5月半ばにマリスが12試合で9本打ってから2人のホームラン競争は激化した(5月末の時点でマリス12本、マントル14本)。シーズンも半ばに入ると6人の中でもマリスかマントル、あるいは両者がルースの34年間保持してきた年間最多本塁打記録を更新する事は確実な情勢になってきていた。好意を持って報じられた[[マーク・マグワイア]]と[[サミー・ソーサ]]による[[1998年のMLBシーズン最多本塁打記録対決|1998年のシーズン最多本塁打記録争い]]とは異なり、当時のスポーツ記者は2人の不仲を騒ぎ立てるような記事を多く書き立てていった(ベラは後年のインタビューで両者の不仲を否定)。
 
 
 
ルースの記録はニューヨークの保守的記者にしてみればまさに「聖域」であった。また、その他にも当時のメディアは生え抜きで記者との関係も良好だったマントルを応援する風潮になっていたのに対しマリスは[[外様]]であり無口だったため「真のヤンキースの一員ではない」などの批判にさらされ、悪者扱いする人たちも少なからずいた。また、マリスの本塁打は[[ヤンキー・スタジアム (1923年)|ヤンキー・スタジアム]]におあつらえ向きのフェンスギリギリの低いライナーの当たりが多かったこと<ref name="202-203">{{Cite book |和書 |author=[[伊東一雄]] |year=1997 |title=メジャー・リーグ紳士録|publisher=[[ベースボール・マガジン社]]|pages=202-203|isbn=978-4583034119}}</ref>、また打率が2割7分前後と平凡だったことで「ルースの記録を破るにふさわしい人物ではない」との評判もあった。
 
 
 
そんなマリスを更に逆風が襲う。ルースの時代では154試合で60本を達成したのに対マリスの時には現行の162試合制であったことから、ルースのゴーストライターで当時[[MLBコミッショナー]]を務めていた[[フォード・フリック]]はルースの記録をマリスが154試合以内で破らない限り両者の記録は併記され、参考記録扱いになると発表した。その他にも「次打者がマントルであるため敬遠されることが少ないのでルースより有利な条件だ」という理由で、たとえマリスがルースの記録を数字の上で破ってもその記録は認めるべきでない、という意見もあったが、いずれもルースの記録を不可侵なものと認識する保守的なファンの苦しいこじつけであった。
 
 
 
40号、50号をマントルよりも早く達成し、迎えた154試合目の9月20日に59号を放つものの60号は打てず、9月26日に60号を記録した。10月1日にヤンキー・スタジアムでのシーズン最終戦対[[ボストン・レッドソックス]]4回裏に{{仮リンク|トレイシー・スタラード|en|Tracy Stallard}}から第61号本塁打を放ち、記録更新を達成。しかし、この時の記憶は彼にとって決して好ましいものとはならなかった。記録達成が近づいたころからはホーム球場で本塁打を打っても地元ファンからブーイングを受けるという、前代未聞の屈辱と苦しみを受けさせられることとなった。後年インタビューでマリスはまるで自分が悪いことをやっているかのように報じられ、大変なストレスが溜まったと述べている。また、他のインタビューでは記録を破るどころか近づかない方がよかったのかも知れないとも語っている。当時のヤンキースファンは本塁打を打つたびに、明るくホームインして大拍手のマントルを善玉、ニコリともしないマリスを悪玉として扱っていた。この1961年に初めて'''{{仮リンク|MM砲|en|M&M Boys}}'''という言葉も生まれている<ref name="202-203" />。
 
 
 
同年は本塁打・打点の二冠王(打点は[[ボルチモア・オリオールズ]]の[[ジム・ジェンタイル]]と同点)に輝き、2年連続となるアメリカンリーグMVPを受賞。
 
[[File:Maris Kennedy.gif|right|thumb|320px|右:[[ジョン・F・ケネディ]]大統領のためにボールにサインをするマリス(1962年)]]
 
 
 
=== 残りの野球人生 ===
 
{{by|1962年}}に4年連続、そして最後となるオールスター出場を果たす。本塁打記録のイメージが強いため彼の守備能力は軽視されがちだが、同年の[[ワールドシリーズ]]最終戦9回では同点タイムリーを防ぐ強肩ぶりを発揮しヤンキースの世界一に貢献する。
 
 
 
しかし、ケガがマリスの野球人生を以後4年間に渡って停滞させる。特に医者の診断ミスにより手の中の骨折が判明した際は{{by|1965年}}シーズンのほとんどを棒に振る結果となってしまった。また、その2年前に全国放送されていた[[ミネアポリス]]での試合でトンネルをした後に野次る観客に向け中指を立て、悪いイメージを米国中に植えつけてしまった。結局マリスは{{by|1966年}}シーズン終了後にヤンキースを去らざるを得なくなり、追われるように[[セントルイス・カージナルス]]にトレードされた。
 
 
 
だが、愚直とも言われる中西部気質のマリスは都会にいた時とは異なり[[セントルイス]]のファンに暖かく受け入れられた。マリスも「ニューヨーク? あんなイヤなところはなかった。この町は最高にいいよ」と語っている<ref name="202-203" />。現役最後の2年間をセントルイスで過ごしたマリスは{{by|1967年}}と{{by|1968年}}のカージナルスのナショナルリーグ制覇に貢献し、その内の1967年にはプレーオフで打率.385を記録し、ワールドシリーズ制覇も達成。それらに感動した球団オーナーでビール会社[[アンハイザー・ブッシュ]]のオーナーでもあったグッシー・ブッシュはマリスに引退後ビール配送業者としての第2の人生を斡旋した。
 
 
 
1968年8月7日にこのシーズン限りで引退することを表明した。8月30日から9月1日までの対[[ニューヨーク・メッツ]]3連戦でカージナルスは[[シェイ・スタジアム]]に乗り込んだ。マリスは初めの2試合には出場したが、9月1日の試合には相手が右投手だったにも関わらず、出場しなかった。「英雄マリスのニューヨーク最後の試合」と電光掲示板が盛り立てている中で、マリスはダッグアウトの一番端に座ってフィールドを見つめたまま。この事について[[伊東一雄]]はマリス自身の口からよく「俺はニューヨークが大嫌いだ」と聞かされていたので、そのニューヨークに対する抵抗だったのではないかと推測している<ref>{{Cite book|和書 |author=伊東一雄 |coauthors=吉川達郎(監修) |year=2003 |title=メジャーリーグこそ我が人生 パンチョ伊東の全仕事 |publisher=[産経新聞出版|[産経新聞ニュースサービス]]|page=412|isbn=978-4594041175}}</ref>。
 
 
 
=== 引退後 ===
 
[[File:YankeesRetired9.svg|right|thumb|200px|ヤンキースの永久欠番。マリスの背番号「9」]]
 
ヤンキースは{{by|1984年}}7月21日に[[野球の背番号|背番号]]9の[[野球界の永久欠番|永久欠番]]を発表し、ヤンキー・スタジアムレフトスタンド後方にあるモニュメント・パークにマリスの業績を称える[[レリーフ]]を設置。そこには「名選手であり、大リーグの歴史の中に最も印象深い章の一つを刻んだ筆者」との文字が書かれている。
 
 
 
マリスは[[1983年]]に[[ホジキンリンパ腫|悪性リンパ腫]]と診断され、これをきっかけに[[癌]]の研究治療費の寄付を目的とした毎年恒例ロジャー・マリス有名人ゴルフ大会を立ち上げる。[[1985年]][[12月14日]]に[[ヒューストン]]で死去。51歳没。
 
 
 
{{by|1974年}}から{{by|1988年}}まで、資格喪失となる15年目まで連続で得票率5%以上をキープして[[アメリカ野球殿堂]]の候補に挙がったが、最高は1988年の43.1%で選出ラインとなる75%を超えることができなかった。
 
 
 
{{by|1991年}}にマリスのシーズン61本塁打は公式記録に変更され、1998年に更新されるまでマリスの記録のみが記載され彼の死後、[[2001年]]にはマリスとマントルの本塁打記録への挑戦を描いた映画『'''61*'''』が公開。その中にはマリスが実際受けた嫌がらせの数々やストレスによる抜け毛が描写されている。マリス役は[[バリー・ペッパー]]により演じられ{{by|2005年}}、マリスを越える61本塁打以上を放った3選手(マグワイア、ソーサ、[[バリー・ボンズ]])に[[アナボリックステロイド]]使用疑惑が浮上した際、ノースダコタ州議会はマリスの記録が正当な記録であると迫る文書をMLB機構に送った。現在でも、正当なシーズン本塁打記録はマリスの61本だと信じるファンも多い。
 
 
 
== その他 ==
 
* 育ちの故郷であるノースダコタ州ファーゴでは依然英雄として人気が高く、マリスの名を冠する道路や博物館に癌センターなどが存在している。また、これらはマリスのアメリカ野球殿堂入りを果たそうとする動きの一部でもある。
 
* マリスは日本における県民栄誉賞に匹敵するノースダコタ州ラフライダー賞を授与されている。
 
 
 
== 詳細情報 ==
 
=== 年度別打撃成績 ===
 
{| {{年度別打撃成績|リーグ=メジャーリーグベースボール}}
 
|-
 
|style="text-align:center;"|{{by2|1957}}
 
|rowspan="2" style="text-align:center;"|[[クリーブランド・インディアンズ|CLE]]
 
|116||424||358||61||84||9||5||14||145||51||8||4||3||2||60||5||1||79||6||.235||.344||.405||.749
 
|-
 
|rowspan="2" style="text-align:center;"|{{by2|1958}}
 
|51||202||182||26||41||5||1||9||75||27||4||2||0||3||17||2||0||33||0||.225||.287||.412||.699
 
|-
 
|rowspan="3" style="text-align:center;"|[[オークランド・アスレチックス|KCA]]
 
|99||435||401||61||99||14||3||19||176||53||0||0||2||2||28||1||2||52||2||.247||.298||.439||.737
 
|-style="background-color:#f2f2f2"
 
!style="text-align:center;"|'58計
 
|150||637||583||87||140||19||4||28||251||80||4||2||2||5||45||3||2||85||2||.240||.294||.431||.725
 
|-
 
|style="text-align:center;"|{{by2|1959}}
 
|122||498||433||69||118||21||7||16||201||72||2||1||0||4||58||5||3||53||4||.273||.359||.464||.824
 
|-
 
|style="text-align:center;"|{{by2|1960}}
 
|rowspan="7" style="text-align:center;"|[[ニューヨーク・ヤンキース|NYY]]
 
|136||578||499||98||141||18||7||39||290||'''112'''||2||2||1||5||70||4||3||65||6||.283||.371||'''.581'''||.952
 
|-
 
|style="text-align:center;"|{{by2|1961}}
 
|161||698||590||'''132'''||159||16||4||'''61'''||'''366'''||'''141'''||0||0||0||7||94||0||7||67||16||.269||.372||.620||.993
 
|-
 
|style="text-align:center;"|{{by2|1962}}
 
|157||687||590||92||151||34||1||33||286||100||1||0||1||3||87||11||6||78||7||.256||.356||.485||.840
 
|-
 
|style="text-align:center;"|{{by2|1963}}
 
|90||351||312||53||84||14||1||23||169||53||1||0||1||1||35||3||2||40||2||.269||.346||.542||.887
 
|-
 
|style="text-align:center;"|{{by2|1964}}
 
|141||584||513||86||144||12||2||26||238||71||3||0||1||2||62||1||6||78||7||.281||.364||.464||.828
 
|-
 
|style="text-align:center;"|{{by2|1965}}
 
|46||186||155||22||37||7||0||8||68||27||0||0||1||1||29||1||0||29||4||.239||.357||.439||.795
 
|-
 
|style="text-align:center;"|{{by2|1966}}
 
|119||391||348||37||81||9||2||13||133||43||0||0||0||4||36||3||3||60||8||.233||.307||.382||.689
 
|-
 
|style="text-align:center;"|{{by2|1967}}
 
|rowspan="2" style="text-align:center;"|[[セントルイス・カージナルス|STL]]
 
|125||472||410||64||107||18||7||9||166||55||0||0||1||5||52||3||4||61||10||.261||.346||.405||.751
 
|-
 
|style="text-align:center;"|{{by2|1968}}
 
|100||340||310||25||79||18||2||5||116||45||0||0||1||4||24||3||1||38||3||.255||.307||.374||.681
 
|-
 
!colspan="2"|通算:12年
 
|1463||5846||5101||826||1325||195||42||275||2429||850||21||9||12||43||652||42||38||733||75||.260||.345||.476||.822
 
|}
 
* '''太字'''はリーグ1位。
 
 
 
=== 獲得タイトル・表彰・記録 ===
 
* [[アメリカンリーグ]][[最優秀選手 (MLB)|MVP]] 2回:[[1960年]]、[[1961年]]
 
* [[最多本塁打 (MLB)|本塁打王]] 1回:1961年(61)
 
* [[打点#最多打点|打点王]] 2回:1960年(112)、1961年(141)
 
* [[ゴールドグラブ賞]] 1回:1960年
 
* [[MLBオールスターゲーム]]選出 4回:[[1959年]] - [[1962年]]
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
{{出典の明記|date=2017年9月|section=1}}
 
* Okrent, Daniel, and Steve Wulf(1993). ''Baseball Anecdotes''. Collins.
 
* Pietrusza, David, Matthew Silverman & Michael Gershman, ed.(2000). Baseball: The Biographical Encyclopedia. Total/Sports Illustrated.
 
* 1968 Baseball Register published by The Sporting News
 
* 『オールタイム大リーグ名選手101人』日本スポーツ出版社、[[1997年]]。
 
 
 
== 外部リンク ==
 
{{commonscat|Roger Maris}}
 
{{MLBstats | br=m/marisro01 | fangraphs=1008110 | cube=Roger-Maris |brm=maris-001rog }}
 
* [http://www.nytimes.com/learning/general/onthisday/bday/0910.html Obituary, New York Times, December 15, 1985]
 
* [http://www.baseballlibrary.com/baseballlibrary/ballplayers/M/Maris_Roger.stm Baseball Library]
 
* [http://news.minnesota.publicradio.org/features/199806/26_gundersond_maris-m/ Tribute - Minnesota Public Radio]
 
* [http://www.msnbc.msn.com/id/7327729 Article on North Dakota's Senate Resolution]
 
* [http://hero.nalal.com/ Roger Maris - Baseball Hero]
 
* [http://www.rogermarismuseum.com/ Roger Maris Museum official website]
 
* [http://www.giveitbacktomaris.com/ Give it Back To Maris - petition to return the single season home run record to Roger Maris]
 
* [http://www.sportingnews.com/baseball/25moments/15.html The Sporting News' Baseball's 25 Greatest Moments: The Summer of '61]
 
* [http://www.retrosheet.org/boxesetc/Pmarir101.htm Retrosheet]
 
 
 
{{Navboxes|title=獲得タイトル・記録
 
|list1=
 
</span>
 
{{アメリカンリーグMVP}}
 
{{アメリカンリーグ本塁打王}}
 
{{アメリカンリーグ打点王}}
 
{{アメリカンリーグ ゴールドグラブ賞 (外野手)}}
 
}}
 
{{1961 ニューヨーク・ヤンキース}}
 
{{1962 ニューヨーク・ヤンキース}}
 
{{1967 セントルイス・カージナルス}}
 
{{New York Yankees}}
 
  
 
{{DEFAULTSORT:まりす ろしやあ}}
 
{{DEFAULTSORT:まりす ろしやあ}}

2019/5/1/ (水) 18:33時点における最新版

ロジャー・ユージーン・マリスRoger Eugene Maris1934年9月10日 - 1985年12月14日

アメリカ合衆国のプロ野球選手。本名 Roger Eugene Maris。 1957年大リーグのクリーブランド・インディアンズに入団。 1960~66年ニューヨーク・ヤンキーズに所属。 1961年ベーブ・ルースの記録を抜き,年間本塁打数 61本の偉業を達成したが,マリスの年間試合数 162に対し,ルースの 1927年の記録 (60本) は 154試合時代のものだったことから,当時のコミッショナーにより記録更新は認められなかった。マリスの記録は 1998年にマーク・マグワイア,サミー・ソーサに破られるまで大リーグ最多だった。強打者であると同時に卓越した守備力をもち,1960,1961年アメリカンリーグの最優秀選手 MVPに輝いた。 1967~68年にセントルイス・カーディナルズでプレーし,通算 275本塁打の記録を残して引退。



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