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'''ロシア帝国'''(ロシアていこく、{{Llang|言語記事名=ロシア語|ru|'''Российская империя'''}} ラスィーイスカヤ・インピェーリヤ)は、[[1721年]]から[[1917年]]までに存在した[[帝国]]である。[[ロシア]]を始め、[[フィンランド]]、[[リボニア]]、[[リトアニア]]、[[ベラルーシ]]、[[ウクライナ]]、[[ポーランド]]、[[カフカーズ]]、[[中央アジア]]、[[シベリア]]、[[外満州]]などの[[ユーラシア大陸]]の北部を広く支配していた。'''帝政ロシア'''(ていせいロシア)とも呼ばれる。通常は1721年のピョートル1世即位からロシア帝国の名称を用いることが多い。統治王家の[[ロマノフ家]]にちなんで[[ロマノフ朝]]とも呼ばれるがこちらは[[ミハイル・ロマノフ]]が[[ロシア・ツァーリ国]]のツァーリに即位した[[1613年]]を成立年とする。
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'''ロシア帝国'''(ロシアていこく、{{Llang|言語記事名=ロシア語|ru|'''Российская империя'''}} ラスィーイスカヤ・インピェーリヤ)
 
 
== 概要と呼称 ==
 
君主が[[ツァーリ]]を名乗ったそれ以前の[[ロシア・ツァーリ国]]においても「ロシア帝国」と翻訳されることがある<ref group=n>"{{lang|ru|Царство}}"に「{{lang|ru|Царь}}の国」「帝国」「治世」などの訳語を当て、"{{lang|ru|Царь}}"に「帝王」「皇帝」「国王」「ロシヤ皇帝」「第一人者」「王」などの訳語を当てている出典:八杉貞利著『岩波ロシヤ語辞典 増訂版』岩波書店(1465頁、第9刷、1970年11月20日発行)</ref><ref group=n>"{{lang|ru|Царство}}"に「帝国」「王国」「治世」などの訳語を当て、"{{lang|ru|Царь}}"に「(ロシア)皇帝」「ツァーリ」「帝王」「国王」「第一人者」などの訳語を当てている出典:共編『ロシア語ミニ辞典』白水社(414頁、第8刷、2008年2月10日発行)</ref>が、ロシア語では「ツァーリ」<ref>[http://www.gramota.ru/slovari/dic/?word=%F6%E0%F0%FC&all=x&lop=x&bts=x&zar=x&ag=x&ab=x&sin=x&lv=x&az=x&pe=x {{lang|ru|Царь // Справочно-информационный портал ГРАМОТА.РУ }}], [http://www.vedu.ru/ExpDic/enc_searchresult.asp?S=38246 {{lang|ru|Царь // Толковый Словарь Русского Языка }}], [http://www.vedu.ru/BigEncDic/enc_searchresult.asp?S=69469 {{lang|ru|Царь // Большой Энциклопедический Словарь }}], [http://vidahl.agava.ru/cgi-bin/dic.cgi?p=244&t=42239 {{lang|ru|Царь // Толковый словарь В. Даля ON-LINE. Современное написание слов. Републикация выполнена на основе II издания (1880-1882 гг.)}}]</ref>(本来は[[東ローマ皇帝]]を指したが、やがて一部の国の[[王]]、[[ハーン]]などを指す語となった)と「インペラートル」(西欧に倣った[[皇帝]]を指す語)<ref>[http://www.gramota.ru/slovari/dic/?lop=x&bts=x&zar=x&ag=x&ab=x&sin=x&lv=x&az=x&pe=x&word=%E8%EC%EF%E5%F0%E0%F2%EE%F0 {{lang|ru|Император // Справочно-информационный портал ГРАМОТА.РУ }}], [http://www.vedu.ru/ExpDic/enc_searchresult.asp?S=10754 {{lang|ru|Император // Толковый Словарь Русского Языка }}], [http://www.vedu.ru/BigEncDic/enc_searchresult.asp?S=23667 {{lang|ru|Император // Большой Энциклопедический Словарь }}]</ref><ref name="Talina">[https://web.archive.org/web/20100223052546/http://old.portal-slovo.ru/rus/history/87/9256/ {{lang|ru|Г.В. Талина. ''Царская власть в XVII веке: титулование и положение.'' }}]</ref>は異なる称号であるため、留意を要する<ref name="Talina"></ref>。
 
 
 
帝政は[[1721年]]にツァーリ・[[ピョートル1世]]が[[ロシア皇帝|皇帝]]([[インペラートル]])を宣言したことに始まり、[[第一次世界大戦]]中の[[1917年]]に起こった[[2月革命 (1917年)|二月革命]]での[[ニコライ2世]]の退位によって終焉する。
 
 
 
[[領域 (国家)|領土]]は、[[19世紀]]末の時点において、のちの[[ソビエト連邦|ソヴィエト連邦]]の領域に[[フィンランド]]と[[ポーランド]]の一部を加えたものとほぼ一致する[[面積]]2000万[[平方キロメートル|km<sup>2</sup>]]超の広域に及び、1億を越える人口を支配した。[[首都]]は、[[1712年]]まで伝統的にモスクワ国家の首府であった[[モスクワ]]から[[サンクトペテルブルク]]に移され、以降帝国の終末まで帝都となった<ref name=syuto group=n>ピョートル2世の治世に2年間(1728年-1730年)だけモスクワに還都している。</ref>。
 
 
 
政治体制は皇帝による[[専制政治]]であったが、帝政末期には[[ロシア帝国国家基本法|国家基本法]](憲法)が公布され、[[ロシア帝国国家評議会|国家評議会]]と[[ドゥーマ]]からなる[[二院制]]議会が設けられて[[立憲君主制]]に移行した。
 
 
 
宗教は[[キリスト教]][[正教会]]([[ロシア正教会]])が[[国教]]ではあるが、領土の拡大に伴い大規模な[[ムスリム]]社会を内包するようになった。そのほかフィンランドやバルト地方の[[ルーテル教会|ルター派]]、旧[[ポーランド・リトアニア共和国|ポーランド・リトアニア]]の[[カトリック教会|カトリック]]そして[[ユダヤ人]]コミュニティも存在した。
 
 
 
ロシア帝国の臣民は[[#貴族|貴族]]、[[#聖職者|聖職者]]、[[#名誉市民|名誉市民]]、[[#商人・町人・職人|商人・町人・職人]]、[[#カザーク|カザーク]]そして[[#農民|農民]]といった身分に分けられていた。貴族領地の農民は人格的な隷属を強いられる[[#農奴|農奴]]であり、ロシアの農奴制は1861年まで維持された。[[シベリア]]の[[先住民]]や[[中央アジア]]のムスリムそしてユダヤ人は[[#異族人|異族人]]に区分されていた。
 
 
 
ロシア帝国ではロシア暦([[ユリウス暦]])が使用されており、文中の日付はこれに従う。ロシア暦を[[グレゴリオ暦]](新暦)に変換するには17世紀は10日、18世紀は11日、19世紀は12日そして20世紀では13日を加えるとよい<ref>[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],pp.132-133.</ref>。
 
  
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帝政ロシアの正式な名称。 1700~21年の[[北方戦争]]にロシアがスウェーデンに勝利したあと,21年に[[ピョートル1世 (大帝) ]]が元老院から「インペラートル (皇帝) 」の称号を贈られたが,これとともに国名を「ロシア帝国」と定めた。 1917年3月 15日 (旧暦2日) ,[[ニコライ2世]]が退位するまでこの名称が用いられた。
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==脚注==
 
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== 関連項目 ==
 
*[[ソビエト連邦]]
 
*[[ロシア皇帝]]
 
*[[ロシアの歴史]]
 
*[[ロシア・ツァーリ国]]
 
  
 
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2018/8/29/ (水) 18:32時点における版


ロシア帝国(ロシアていこく、ロシア語Российская империя ラスィーイスカヤ・インピェーリヤ)

帝政ロシアの正式な名称。 1700~21年の北方戦争にロシアがスウェーデンに勝利したあと,21年にピョートル1世 (大帝) が元老院から「インペラートル (皇帝) 」の称号を贈られたが,これとともに国名を「ロシア帝国」と定めた。 1917年3月 15日 (旧暦2日) ,ニコライ2世が退位するまでこの名称が用いられた。

脚注



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