リンドン・ジョンソン

提供: miniwiki
移動先:案内検索


リンドン・ベインズ・ジョンソンLyndon Baines Johnson1908年8月27日 - 1973年1月22日)は、アメリカ合衆国政治家。第36代アメリカ合衆国大統領。身長6フィート3.5インチ(約192cm)[1]

概要

リンドン・ベインズ・ジョンソンはテキサス州に生まれ、下院議員、上院議員、第37代副大統領、第36代大統領を歴任した。

1961年1月20日に民主党ケネディ政権の副大統領に就任し、1963年11月22日にケネディ大統領暗殺事件で大統領に昇格、政権を引き継いだ。リベラルとして知られたケネディに対して、南部テキサス州出身のジョンソンは民主党の中では保守派と目されていたが、大統領就任にあたって掲げた貧困撲滅と公民権の確立を骨子とする「偉大な社会 (Great Society) 」政策は、非常にリベラル色の強いものであった。

政権初期には、公民権法の早期成立に向けて議会をまとめることに努め、議会との関係が円滑でなかったケネディに比べて巧みな議会工作で法案を可決させ[2]、その他にも内政においては達成した政治課題が多く、ジョンソン政権は同じ民主党のルーズベルト政権と並んで「大きな政府」による社会福祉や教育制度改革、人権擁護を積極的に推進した政権であった。しかし外交政策では、ケネディ政権から引き継いだベトナム戦争への軍事介入を拡大させ、国内に激しい反戦運動と世論の分裂をもたらした。

ケネディ暗殺後の1964年の大統領選では、ケネディへの同情票と昇格後1年間の政権の成果を評価する票で共和党候補を大差で破り、歴史的な大勝を果たした。しかし1965年からベトナム戦争の拡大で国の内外からの強い批判に身動きが取れなくなり、次の再選を目指した1968年の大統領選で民主党大統領候補の指名を受けることが難しい状況に追い込まれ、1968年3月31日、全米に向けたテレビ演説でそれまでのベトナム政策の劇的な転換を発表すると同時に大統領選挙に再出馬をしないことを表明、自らの政治生命に幕を引いた。

生い立ち

リンドン・ベインズ・ジョンソンは、1908年8月27日にテキサス州中央部のテキサス・ヒル・カントリーと呼ばれる地域にある農村、ストーンウォールで生まれた。彼の両親サミュエル・ジョンソンとリベカ・ベインズは、貧しい地域で農場を所有しており、彼らには更に4人の子供がいた。妹のリベカ、兄弟のジョセファ、サム・ヒューストン、ルシア。リンドン・ジョンソンは幼年期を通じて公立学校に通い、1924年にジョンソンシティー高校を卒業した。

1927年には、南西テキサス州教員養成大学(現:テキサス州立大学サンマルコス校)に入学した。校内活動や学校新聞の作成に参加し、苦労しながらも1931年に卒業した。なお在学中に1年休学し、テキサス州の貧しいメキシコ系移民の生徒が通う学校で教師見習いを務めている。

政治家へ

ファイル:FDR-LBJ.png
テキサス州第10下院議員選挙区の補選に出馬したジョンソン(右)の支援に訪れたフランクリン・ルーズベルト(左)

ジョンソンは大学を卒業した後、ヒューストン高校で演説および討論を教えた。しかしながらすぐ教職を辞め、父親の力を借りて政治の世界に入った。ジョンソンの父は、テキサス州議会で5期務めており、後に連邦下院議長となるテキサス州選出下院議員サム・レイバーンEnglish版とは親しい友人だった。以後サム・レイバーンはジョンソンの政治指南役として彼に影響を与え、大統領になった後まで続いた。1931年にジョンソンはウェリー・ホプキンス州議会議員の連邦下院議員選挙に協力し、ホプキンスはその労に報いてジョンソンをリチャード・ケルバーグに紹介、推薦した。これによりジョンソンはケルバーグの立法秘書官となり、ワシントン立法補佐グループの議長の座を与えられた。

秘書としてのジョンソンは数々の影響力を持つ人々と知り合い、彼らがどのようにその地位に達したか、いかにして尊敬を集めているかといったことを学んだ。またルーズベルト政権の主要人物数人ともパイプを持ち、当時副大統領だったジョン・ナンス・ガーナーとは同じテキサス州出身で、その後相談役としてジョンソンを支えていくこととなった。

秘書在任中、ジョンソンはテキサス出身のクローディア・アルタ・テーラーと出逢い、数度のデートの後、1934年11月17日に結婚した。これが後にレディ・バード・ジョンソンとして知られるようになるジョンソンの妻である。夫妻には、1944年に長女のリンダ・バードが、1947年には次女のルーシー・ベインズが生まれている。

1935年にはテキサス州青年局長に就任し、政府が若い人々のために教育の充実と雇用の拡大をするよう尽力した。この活動によってジョンソンは自身の政治的地盤を構築することができた。ジョンソンはとてもタフな上司として部下の間では有名だった。彼は2年間青年局長を務め、議会選挙へ出馬するために辞職した。

1937年にジョンソンはオースティン及び周辺町村を含むテキサス州第10下院議員選挙区の補選に出馬した。彼は妻の大きな支援を受けながら、ニューディール政策の推進を選挙公約に掲げて選挙活動を繰り広げ当選した。下院議員になるとフランクリン・ルーズベルトはこの若いテキサス人に関心を示し、新人議員にとって非常に重要な意味を持つ海軍軍事委員会の委員にジョンソンを指名した。また下院議員として、主に自身の選挙区に電化をもたらすことをはじめ地元発展のために奔走した。

1941年にジョンソンはテキサス州の現職上院議員の死去に伴い上院の補欠選挙に出馬する決意をして、民主党上院議員候補に名乗りを上げて現職テキサス州知事でラジオパーソナリティのW・リー “パピー” オダニエルと民主党候補指名を争った。当時のテキサス州は民主党の牙城で民主党での指名を得ることは即議員に当選すると言われた時代であったが、当時有名だった州知事を前にジョンソンは当初全く歯が立たないと予想された。しかし、力強い選挙活動を展開して、きわどい差まで追い込んだが結局ジョンソンは敗れた。

第二次世界大戦

ファイル:Portrait of Lyndon B. Johnson in Navy Uniform - 42-3-7 - 03-1942.jpg
海軍少佐の制服に身を包んだジョンソン下院議員(1942年)

上院補選の選挙運動の終盤において、ジョンソンはもし戦争が始まったら招集に応じて戦地に赴き敵と戦うという公約を掲げていたが、程なくして1941年12月7日(アメリカ・ハワイ時間)朝、日本軍の真珠湾攻撃で、翌8日にアメリカは日本に宣戦布告し第二次世界大戦に参戦した。大戦中ジョンソンは海軍少佐として従軍し、銀星章、アジア太平洋従軍記章および第二次世界大戦戦勝記念章を受章した。しかし戦後になって銀星章受章の背景には極めて政治的な目論見があったことが臆測されるようになった。

1940年6月20日、下院議員時代に初めて平時の徴兵を行うための法案が議会に提出された時、予備役海軍少佐だったジョンソンは自身の招集を免除する約束を取り付けた上でこの法案に同意した。ところが翌年アメリカが大戦に参戦すると、一転して海軍省次官ジェームズ・フォレスタルに自分を非戦闘員として配置するよう求め、テキサスと西海岸の造船工廠の検査役となった。

1942年春ごろになると、ジョンソンはルーズベルトに、今度はより戦闘地域に近い戦地に自らを配置にするよう求めた。情報が軍の指揮系統を経由する間に歪められることを予想したルーズベルトは、南西太平洋地域で信頼できる情報源を得たいと考えていた。そしてフォレスタルの提案により、ルーズベルトはジョンソンを南西太平洋の偵察隊に配置した。ジョンソンはオーストラリアメルボルンで司令長官ダグラス・マッカーサーと会合し、第22爆撃隊に配属された。偵察目標はニューギニア島にある日本海軍のラエ飛行場だった。司令官は外部の偵察員などかえって足手まといだと感じていたが、ジョンソンはその必要性を強く主張した。

1942年6月9日、ニューギニア付近のポートモレスビーおよびサラマヌアで勇気ある行動を見せた。南西太平洋地域の情報活動任務でジョンソンは戦闘に関する情報を直接得るために、ニューギニアのまだ日本が制空権を握っている空域で危険な任務を帯びた偵察を志願した。ジョンソンの搭乗するB-26マローダー爆撃機とともに偵察活動に出た部隊は日本軍の攻撃を受けたが、ジョンソンの搭乗機はその前にエンジントラブルで引き返しており、爆弾も投下せず、戦闘には参加していなかった[3]。マッカーサーはジョンソンと生き残った偵察員に最高位から3番目に位置する銀星章を授与した。帰国後、ジョンソンは「我々の軍用機は日本の戦闘機にはるかに劣っていた」「士気は高くなかった」などと委員会に報告している。しかしその活動内容は非難を浴びたため、ルーズベルトは軍務に就く議員を議会に戻すことを命じた。

上院議員

1948年の大統領選挙と同時にジョンソンは再び上院議員選挙に挑戦、このときは民主党候補の指名を受けて、共和党候補を破り当選した。ジョンソンはその圧勝により「地滑りリンドン(Landslide Lyndon)」と呼ばれた。上院では軍事委員会の委員に指名され、1950年の後半には調査小委員会の結成に貢献した。その後この委員会の委員長となり、防衛費と予算効率の多くの調査を行った。これらの調査の結果によりジョンソンは他の議員の尊敬と共に全国的な注目を集めた。やがて彼は「論争を最小限に抑えて案件を処理する能力に長けている」と言われ、立法の魔術師というあだ名がつけられた[4]

上院議員として数年の活動後にジョンソンはリーダーシップを発揮して、1953年には少数党院内総務に選出された。ジョンソンの最初の活動は委員会への選出から年功制を取り除くことであった。1954年にジョンソンは上院議員に再選され、民主党は上院で多数派となりジョンソンは多数党院内総務となった。そして「同僚議員を説得する力と他人を操作する技術」をフルに生かして本会議と委員会の運営を支配し多くの法案を成立させるために尽力した[5]

1960年大統領選挙

ジョンソンの上院院内総務としての実績は、1960年大統領選挙で民主党における有力な大統領候補とみなされることになった。しかしこの年3月のニューハンプシャー州の予備選から勝ち上がってきたマサチューセッツ州の上院議員、ジョン・F・ケネディに獲得した代議員数で差をつけられて、またジョンソン自身の立候補宣言が遅すぎたこともあって7月の民主党大会で彼は409票を得たが、その倍近い806票を得たケネディが民主党大統領候補に選出された。そして民主党大会の最終日にケネディが副大統領候補に指名したのは対立候補であったジョンソンであった。

リベラルな北部出身のケネディがジョンソンを副大統領候補に指名したのは、南部テキサス州出身のジョンソンと組むことで、南部の保守票を獲得することにあった。これは当時も現在も正副大統領の組み合わせで南北のバランスを取ることは普通のことであった。しかし副大統領は通常大統領の補佐であって、政権内部でリーダーシップを取ることはなく、この時ジョンソンの政治指南役で同じテキサス州のサム・レイバーン下院議長は副大統領候補を受諾したジョンソンに失望したとされ、フランクリン・ルーズベルト大統領時代に副大統領を務めた同じくテキサス州出身のジョン・ナンス・ガーナーは「副大統領なんぞ、たんつぼほどの値打ちもない」とジョンソンに語っている[6][注 1]

同年11月、民主党のケネディ=ジョンソンは小差で共和党のニクソンロッジに勝利して、トルーマン大統領以来8年ぶりに民主党の大統領が誕生することとなった。

副大統領

ファイル:Webb-Kennedy-Johnson-Gilruth-S62-5628.jpg
NASAで演説を行うケネディ(壇上)、その横にジョンソン

1961年1月に大統領就任後のケネディは、人種差別問題に関心の深いジョンソン副大統領を大統領雇用機会均等委員会の委員長に任命した。そのほかにも副大統領としてジョンソンはいくつかの執務を無難にこなした。内政についてはもともとニューディーラーであった彼の見識の深さはやがて大統領になってから発揮されたが、外交について見識を深めることはなかった。

ベトナム情勢の悪化が進む中でケネディ政権は、アメリカ軍の正規軍人から構成された「軍事顧問団」の派遣と軍事物資の支援を増強することを決定、ケネディはジョンソンと国防長官ロバート・マクナマラ1961年にベトナムに派遣し情勢視察に当たらせた。ジョンソンはベトナム視察の報告書の中で「アメリカが迅速に行動すれば、南ベトナムは救われる」として早急な支援を訴え[8]、マクナマラも「我々は戦争に勝ちつつあると、あらゆる数値が示している」と報告し[9]、ケネディの決定を支持した。

しかし副大統領在任中はケネディ兄弟の高い人気の陰に隠れて、典型的な「外交儀礼用の副大統領」に終始し、ワシントン政界では「ほとんど何でもない男」であった。形式的な存在に過ぎず政権内では孤独であった[5]。そして1963年10月31日の大統領記者会見で「来年の大統領選挙で、副大統領候補はジョンソンとお考えですか?」という記者の質問に対してケネディは「その通り、答えはイエスです」と答えている[10]。翌日のある新聞には「ジョンソンの首がつながった」という露骨な表現まで現れて、まさに大統領の胸三寸で副大統領の首がすげ替えられる訳で、ジョンソンにとっては忍耐の日々であった。

大統領

1963年11月にケネディとジョンソンが副大統領の地元であるテキサス州を遊説することとなったのは、翌年の大統領選挙で保守層が強い南部諸州の中でテキサス州だけはどうしても勝たなければならないと考えたケネディが最初の遊説地に選んだのが発端であった。南部では、人種差別問題へのケネディの強硬な姿勢と公民権法案の議会提出により、政権への反感が高まっていた。

11月21日、ジョンソンはケネディに同行してテキサス遊説を開始した。最初の遊説地サンアントニオとフォートワースを訪ねた後、翌11月22日12時前にダラスラブフィールド空港に到着。ダラス市内のパレードに際しては、ジョンソンの乗った自動車は、シークレットサービスの警護車を間に挟んで大統領夫妻の乗った車の2台後から進んで行った。現地時間12時30分、2発の銃弾を受けてケネディ大統領はオープンカーの後部座席で崩れるように倒れた[11]。ジョンソンには害はなかった。

その後、瀕死状態のケネディが運び込まれたパークランド・メモリアル病院にてケネディが死亡したことが確認されると、ジョンソンはすぐにパークランド病院からシークレットサービスに警護されて、ダラスのラブフィールド空港に駐機していた大統領専用機エアフォースワンに向かい、大統領専用通話でトルーマンアイゼンハワー元大統領に連絡して協力を要請し、機内でただちに大統領宣誓を行い、第36代アメリカ大統領に就任した[12][注 2]。  

「エアフォースワン」とは大統領が搭乗する専用機に振られるコードネームであり、副大統領が搭乗する飛行機は「エアフォースツー」であるが、この時はケネディ大統領が乗っていた飛行機にジョンソンが乗って大統領宣誓式を行い、生死を分けた「2人の大統領」が乗った「エアフォースワン」であった。ジョンソンは一家の友人でもあった連邦判事サラ・ヒューズを前に宣誓を行ったが、女性に宣誓した大統領はこのジョンソンが初めて、また聖書ではなくカトリックのミサ典書に手を置いて宣誓したのも初めてだった。大統領暗殺により副大統領から大統領に昇格したのは1901年にマッキンリー大統領暗殺事件セオドア・ルーズベルトが昇格して以来で、病死を含めて昇格した大統領としてはトルーマン以来史上7人目であった。

 

ジョンソンはワシントンに戻ってすぐに、各閣僚と個別に会議を行い大統領就任直後から精力的に執務を取った。ケネディが任命した閣僚の多くはケネディの友人や個人的な繋がりのある知人だったため、それまでは歴代副大統領の例にもれず蚊帳の外におかれていたジョンソンであったので、大統領暗殺直後で国内も緊迫した事態の中、早急に各閣僚との意思疎通をすぐに円滑にできるようにした[13]。一部にケネディ時代の閣僚からより自身に忠実であることが期待できる者に漸次入れ替えていったという話があるが、政権の閣僚一覧を見れば解るように、ラスク国務長官、ユードル内務長官、フリーマン農務長官は結局ジョンソン大統領の任期期間中も執務を全うしている。ケネディに迎えられたマクナマラ国防長官もジョンソン政権末期まで以後4年間留任しており、政権中枢はケネディ大統領の時のメンバーを変えていない。また特にジョンソンが苦手とされた外交や国防の分野で、国家安全保障担当の大統領補佐官マクジョージ・バンディや同次席補佐官ウォルト・ロストウ、国務次官ジョージ・ボール、国務次官補ウイリアム・バンディ(後に国防次官補)などはそのままジョンソン政権下でも留任した。

ただしケネディ政権の事実上のNo.2であった司法長官で弟のロバート・ケネディについては、政権の継承と浮揚には不可欠な存在と考えていたが、本人がニューヨーク州から上院議員選に出馬する意向を固めて、翌年には司法長官を辞任した。一部には1964年の大統領選挙に出馬するのではという観測があったが、議員も州知事も経験のない彼はまず上院議員を目指して、ジョンソンの次の大統領を視野において政治活動を進めることとなった。これはジョンソンにとってはまず一安心であった。しかし皮肉にも4年後ベトナム戦争に対する非難が渦巻く中で、ジョンソンに再出馬を断念させたのはロバート・ケネディであった。

またケネディ暗殺事件直後に、暗殺事件に関する調査を行うウォーレン委員会を作り、委員会に捜査権を持つ権限を与えて国内での暗殺事件に対する陰謀論やソ連やキューバに対する不安を払拭するように努めた。翌年9月にウォーレン報告として調査結果が提出されて犯人リー・ハーヴェイ・オズワルドの単独犯行とする報告であった。最高裁長官をジョンソン自身が説得して委員長に指名したが、皮肉にもジョンソンはこの報告に満足はしていなかった。

1964年大統領選挙

1964年11月3日にはアメリカ大統領選挙の一般選挙が行われた。与党の民主党はジョンソン大統領と副大統領候補にヒューバート・ハンフリーを指名し、野党の共和党はバリー・ゴールドウォーターとウイリアム・ミラーを正副大統領候補に指名して争い、ケネディ前大統領の暗殺を受けてわずか1年足らず前に大統領職を継いだジョンソンは、同年夏の公民権法制定などの実績をアピールしつつ、対立候補である共和党のゴールドウォーターを、「人種差別主義者」、「この国をソビエト連邦との核戦争に突入させるかもしれない」と極右と印象付ける作戦[注 3]をおこなった。選挙戦に入る直前に、トンキン湾事件が起こったが問題がまだそれほど大きくなかったこともあり、大きな争点となることはなかった。

そしてジョンソンは50州のうち44州とコロンビア特別区を制し、4,312万7,041票を獲得して一般投票が初めてアメリカ全体に広げられた1824年以降最大の得票率61.1%を獲得し、538人の大統領選挙人の内486人の支持を得て、ゴールドウオーターを破り、改めてアメリカ国民からの信任を得た[14]。この時に同時に行われた上下両院議員選挙で民主党が圧勝して、多くの共和党議員が落選し、議会で民主党は絶対多数派を実現させた。これは少なくともその後2年間にジョンソンの国内政策の実行に有利な環境となった。

こうして選挙で選ばれた大統領として、以後ジョンソンはケネディ政権からの脱却を志向するようになる。すでに1964年半ばに「偉大な社会」の構想を述べて国内政策に邁進する決意であったが、同時にベトナム情勢が悪化する中でケネディとは違う方向へ舵を切っていた。

内閣

職名 氏名 在任
大統領 リンドン・ベインズ・ジョンソン 1963–1969
副大統領 不在 1963–1965
ヒューバート・ホレイショー・ハンフリー 1965–1969
国務長官 デイヴィッド・ディーン・ラスク 1961–1969
財務長官 クラレンス・ダグラス・ディロン 1961–1965
  ヘンリー・ハミル・ファウラー 1965–1968
  ジョーゼフ・ウォーカー・バー 1968–1969
国防長官 ロバート・ストレンジ・マクナマラ 1961–1968
  クラーク・マクアダムス・クリフォード 1968–1969
司法長官 ロバート・フランシス・ケネディ 1961–1964
  ニコラス・デベルヴィル・カッツェンバック 1964–1966
  ウィリアム・ラムゼイ・クラーク 1966–1969
郵政長官 ジョン・オースティン・グロノウスキーEnglish版 1963–1965
  ローレンス・フランシス・オブライエンEnglish版 1965–1968
  ウィリアム・マーヴィン・ワトソンEnglish版 1968–1969
内務長官 スチュワート・リー・ユードルEnglish版 1961–1969
農務長官 オーヴィル・ロスロップ・フリーマン 1961–1969
商務長官 ルーサー・ハートウェル・ホッジスEnglish版 1961–1965
  ジョン・トーマス・コナーEnglish版 1965–1967
  アレクザンダー・ビュエル・トロウブリッジEnglish版 1967–1968
  サイラス・ロウレット・スミスEnglish版 1968–1969
労働長官 ウィリアム・ウィラード・ウィルツEnglish版 1962–1967
保健教育福祉長官 アンソニー・ジョセフ・セレブレズ 1962–1965
  ジョン・ウィリアム・ガードナー 1965–1968
  ウィルバー・ジョセフ・コーエン 1968–1969
住宅都市開発長官 ロバート・クリフトン・ウィーヴァー 1966–1968
  ロバート・コールドウェル・ウッド 1969–1969
運輸長官 アラン・スチーブンソン・ボイドEnglish版 1967–1969
ファイル:LBJ HHH.jpg
ハンフリー副大統領とともに

最高裁判所判事

国内政策

1964年大統領選挙から、内政の改革を行い「偉大な社会」を実現すると訴えて、当選後に様々な改革立法を提案して、民主党優位の議会でもあったのでその69%を成立させる驚異的な記録を残した[15]。これは当時司法・行政・立法の三権がイデオロギー的に同調した時期に権力の座にあった珍しい大統領であったからであると言われる[16]。それは議会と大統領と最高裁判所がともに連邦政府の庇護のもとで国民の権利拡大を図るべきだという思想を共有していたからに他ならない。

公民権法

アメリカは第二次世界大戦において「自由で平等な国」を自称してきたが、建国以来200年近くアフリカ系アメリカ人などの少数民族に対する法の上での人種差別が認められてきた。しかし第二次世界大戦中におけるアフリカ系アメリカ人兵士の活躍や、戦後間もない1950年代に入って起きたモンゴメリー・バス・ボイコット事件などをきっかけに、このような法の上での人種差別をなくそうとする公民権運動が全米で盛り上がりを見せてきていた。

ケネディ時代の1962年にアラバマ州でアフリカ系学生の州立大学への入学をめぐって、またバーミンガムの差別撤廃闘争で白人側の反撃で流血に発展して連邦軍を派遣する事態となり、1963年8月に「ワシントン大行進」が行われていた。

ファイル:Lyndon Johnson meeting with civil rights leaders.jpg
大統領執務室でキング牧師らと協議するジョンソン(1964年)

これらの動きを受けて、かねてから人種差別に対して否定的であり、公民権運動に強い理解を示したジョンソンは、公民権法の成立に向けてキング牧師などの公民権運動の指導者らと協議を重ねる傍ら、人種差別的な議員の反対に対して、院内総務を長年務めた経験を生かして粘り強く議会懐柔策を進めた[17]結果、1964年7月2日公民権法に署名し、公民権に関わる訴訟には司法長官が介入することが出来て、ここに長年南部で続いてきた人種差別制度はすべて連邦法で禁止され公共施設での人種差別は全て撤廃されることになった。

またジョンソンは、翌1965年8月6日には、白人側の妨害で遅れていた選挙権登録における差別をなくすための投票権法にも署名し、連邦政府の介入で投票権の保障を強化することなどを定めて、アフリカ系アメリカ人への差別撤廃に対する積極的な姿勢を示した。

この投票権法の法案審議を前にした1965年3月15日議会合同会議においてジョンソンは、公民権運動の象徴である「われらは勝利する(We Shall Overcome)」という言葉を用いた演説を行っている(「アメリカの約束 (The American Promise)」)[18][19]

貧困との戦い

ファイル:A2738-19a small.jpg
群衆の歓呼に応えるジョンソン(1966年)

1964年1月8日、自身初めての一般教書演説で「貧困との戦い」(en:War on Poverty)を提唱して、「アメリカの貧困に対して無条件降伏を求める戦争」を宣言した[2]。また同年5月には「偉大な社会」をスローガンに掲げて、次々と国内の改革計画を打ち出した。経済機会局を設けて社会保障や福祉保険の拡大をめざした「経済機会法」、老人医療無料化を図った「医療法」、教育援助を謳った「初等・中等教育法」、家賃補助を定めた「住宅法」、これらが1965年に相次いで法整備がされて[20]、低所得者に対する公的扶助として、主に高齢者の医療費を補助するメディケア、低所得者の食費を補助するフードスタンプ、低所得者の幼児の就学を支援するヘッドスタートなどのプログラムが制度化された。

この1964年から1965年にかけてジョンソンが連邦議会を動かして行った社会改革は、量においてもその内容においても1933年のルーズベルト大統領の業績に匹敵するほど目覚ましいものであった[21]。アメリカ国民の健康に対する卓越した貢献が認められメアリー・ウッダード・ラスカー公益事業賞を受賞した。ジョンソンが議会操縦にかけては天才的ともいえる能力を発揮し、優秀な議会政治家であったことは間違いないと言われている[22]

大統領を退任後の1971年に出版した回想録の中で、ジョンソンは自分が在任中に「健康関係の政策への支出は41億ドルから139億ドル、教育関連支出は23億ドルから108億ドル、高齢者への補助金は174億ドルから290億ドル、そして貧困者への補助金は125億ドルから246億ドルに増大した」と述べている[23]。しかしケネディ政権時代に介入が本格化したベトナム戦争が激化して多大な出費がかさみ、1966年にベトナム戦争に220億ドルが投入される事態となり、貧困との戦いよりもベトナムでの戦いに予算がつぎ込まれていった[24]。当時「大砲かバターか」と揶揄して、両方の戦いを行う愚かさを主張した識者もいたが、「大砲もバターも」というのがジョンソン政権の立場であった。この過大な予算支出がやがてインフレを招き、そしてドルの信認が揺らぎ、1970年代に入ってドル不安と貿易赤字と財政赤字でアメリカを悩ますこととなった。

外交政策

ファイル:Glassboro-meeting1967.jpg
ソ連のコスイギン首相との会談(グラスボロ)(1967年6月)

ジョンソン大統領時代はベトナム戦争に彩られるが、ケネディ大統領時代の米ソ対立が緊張緩和して、1967年6月にアメリカのニュージャージ州グラスボロでソ連のコスイギン首相と米ソ首脳会談を行い米ソ協調の時代に入っている。ジョンソンの時代にアメリカとソ連とで結んだ協定の数は、国交を結んだ1933年からの30年間よりも、ジョンソンが大統領に在任した5年余りの期間の方が多く、米ソ関係が進展したことを証明している。この間に締結した協定には、宇宙空間平和利用条約、核不拡散条約、領事条約、核兵器製造のための濃縮ウラン生産の相互削減、両国を結ぶ初の定期航空路の開設、文化交流協定の更新などがある[25]

そして戦略兵器削減(SALT)と弾道弾迎撃ミサイル(ABM)の問題について1967年6月のグラスボロ会談で協議し、翌年夏までにはABMを含む攻撃的・防御的な核兵器の制限について話し合うことに同意したが、この時1968年8月にチェコスロヴェキアにソ連が軍事介入したため、米ソ間の協議は頓挫した。この問題は次のニクソン政権に引き継がれた。そして米ソ関係は対話が進んだがベトナム戦争ではソ連と対立して、打開の糸口は掴めなかった[26]

この時期はフランスのド・ゴール大統領の独自外交にも悩まされたが、ベトナム政策を強く支持した日本の佐藤首相には1967年10月の日米首脳会談で日本側の沖縄返還要求に対して「両三年内に結論を出す」として返還の道筋をつけている。

ベトナム戦争

ファイル:Visit of President Johnson in Vietnam.jpg
ベトナムの米軍兵士に勲章を授けるジョンソン(1966年)
ファイル:VietnamkriegPersonen1966.jpg
左からジョンソン、ウェストモーランド将軍、南ベトナムのグエン・バン・チュー国家元首とグエン・カオ・キ首相(1966年10月)

第二次大戦戦後、ベトナムは南北に分断されて、北はホー・チ・ミンが率いるベトナム労働党、南はバオ・ダイ国王を退位させて大統領になったゴ・ディン・ジェム政権が対峙していた。宗主国フランスは1954年にディエンビエンフーが陥落してからベトナムから退き、代わりにアメリカが前面に立ってゴ・ディン・ジェム体制を支えて、アイゼンハワーの時代には毎年2億ドルを支援して政権の安定を図り、軍事顧問団を675名派遣していた。

1960年12月に南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)が結成されて、南ベトナム内で次第に勢力が増大していく状況で、ゴ・ディン・ジェム政権は有効な対策を取れず、政権内部も一族が権力を独占して腐敗して特に仏教徒への弾圧も激しく、ケネディもゴ・ディン・ジェムを見限るほどに混乱していた。

ケネディはアイゼンハワー時代から比べて軍事顧問団を増派して、1963年には16,000名余りがベトナムに駐留していた。これはもう通常の軍事顧問というレベルではなく、事実上の正規軍の派兵というレベルで、ケネディがベトナムでの軍事顧問の性格を変えていた。この当時ベトナムは国内は混乱していたが内戦状態ではなく、世界中から注目されていたわけではない。1963年11月には、ケネディの了解のもとでクーデターが起こり、ジェム大統領は弟のゴ・ディン・ニュー秘密警察長官とともに反乱側に殺された。ケネディ暗殺事件が起こるわずか3週間前であった。

ベトナム戦争に本格介入するきっかけを作ったケネディやマクナマラは、1963年当時のゴ・ディン・ジェム政権と対立した結果、計画していたと言われる軍事顧問団の縮小政策を実施に移すことができなかったと一部で言われているが、後にニクソン政権のキッシンジャー補佐官はケネディ時代にそもそも軍事顧問団を縮小する計画はなかったと述べている。ケネディも撤退を考えていた訳ではなく、当時のドミノ理論からベトナムからの撤退はその後に他の国での共産主義勢力の伸長を招き、アメリカの権益と自由の守護神としてのアメリカの威信が傷つくと考えていた。これは暗殺後に昇格したジョンソンも同じ考えであった。しかし南ベトナムの政治の混乱はクーデター後も再びクーデターが起きて、ズオン・バン・ミンからグエン・カーングエン・カオ・キ、そしてグエン・バン・チューと権力者がそのたびに変っていく状況であった。

ケネディ暗殺後の1964年に入り、南ベトナムへの魚雷攻撃を行う北ベトナム軍艦艇が誤ってアメリカ海軍駆逐艦に誤爆した[注 4]。その数日後アメリカ軍は北ベトナムの魚雷攻撃に対応して「トンキン湾事件」として本格介入への口実を作り、すぐにジョンソンは議会に「トンキン湾決議」を提出して、下院では416対0で、上院では88対2で可決した。この決議で「あらゆる手段でアメリカ軍に対する攻撃を取り除く」権限が大統領に与えられた。これは実質的には大統領に戦争大権を与えたのと同じ結果を生んだ[27]

さらに翌1965年2月7日に、アメリカ軍事顧問団基地(ブレイク基地)が解放戦線によって攻撃され7名のアメリカ軍将兵が死亡し109名が負傷した[27][注 5]。これを受けてジョンソンは怒り、報復として北ベトナムへの爆撃を開始した[注 6]

ただし、ジョンソンは当時北ベトナムに軍事顧問団を多数送っていたソビエト連邦や中華人民共和国との関係を考慮して、北ベトナムの基地関連施設に限定した空爆を行うに止めている。ハノイ港にはソ連の輸送船から荷揚げされた兵器もあったが、ジョンソンはソビエトや中華人民共和国との全面衝突を恐れたからであるが、この結果北ベトナムにはソ連や中華人民共和国からの軍事支援が継続されることになる。

北ベトナムを爆撃したのは「爆撃によって北ベトナムの経済をマヒさせれば、兵力の南下が不可能になりやがて平和交渉に応じてくる」という、ジョンソン政権での国家安全保障担当大統領補佐官マクジョージ・バンディの読みからであった[29]。後にジョンソンの後任であったニクソンは北ベトナムと交渉をしながら爆撃を行い、硬軟合わせた手段の一つとしての北爆を躊躇しなかった。しかし中ソからの膨大な軍事支援を受けていた北ベトナムは屈しなかった。

そして1965年3月8日にダナンにアメリカ軍海兵隊2個大隊3,500人が上陸して本格的な地上戦を展開することとなった。アメリカにとってのベトナム戦争はこの時から始まった。それは結局8年間続くこととなった。ジョンソンはウエストモーランド司令官の要請を受けて1965年末には184,000人に増派し、サイゴンのグエン・バン・チュー政権と南ベトナム解放民族戦線(北ベトナムが支援しその背後には中ソがいた)との内戦であったベトナム戦争がアメリカのベトナム戦争となり、ベトナム全体が戦場と化した。以後トンキン湾決議に基づき全軍の最高司令官としての大統領に付与された権限を行使して、現地の最高司令官ウエストモーランドの要請に応えて小刻みに増派を繰り返し1965年末に184,000人、1966年末に385,000人、1967年末に486,000人、1968年末には536,000人がベトナムの地で戦い、多くの若者が暑いジャングルの中で心身ともに傷ついていった[30]。戦死者数が1966年4,000人、1967年7,000人、1968年は実に12,000人に達した。また1961年から1971年まで全土で散布された枯葉剤は約70,000キロリットル、1972年末までに第二次世界大戦で米軍が使った量の3.5倍に達する爆弾総量がインドシナ半島に投下された[31]

ケネディ、そしてジョンソンがベトナムになぜこれほど大規模に軍事介入するに至ったのか。それは第二次世界大戦の後に東ヨーロッパや中華人民共和国、北朝鮮に相次いで共産主義体制が成立したように、この当時はまだ1つの国が共産化すればすぐに隣国に派生して次々に共産化することを恐れ、また自由陣営の大国としてのアメリカが世界の自由を守る守護神たる使命感を持っていたことである。必ずしも経済的利益のためではなく、冷戦の論理とドミノ理論がジョンソン政権の「最も優秀で最も聡明な人々(ベスト・アンド・ブライテスト)」[注 7]の思考を捉えていた[31]。これがベトナムの自由を守る戦いであった。しかしそれは逆に相手国を知らなさすぎることにもなり、ジョンソンはこの時期に殆ど北ベトナムとの対話のチャンネルを持っていなかった。「北から南への侵略をやめよ」と訴えても交渉の糸口にはなり得ないもので、議会内での根回しや駆け引きはうまいが、こと外交に関してはそうではなかった。

アメリカ兵の戦死者がベトナムで増え[注 8]。米兵の死者数が1965年末に約1,300人、1966年末に約5,000人、1967年末に約10,000に達して[33]、テレビで戦場の模様が放映されるとともにジョンソンへの支持は低下した。1965年10月の世論調査ではベトナム派兵を支持する者は64%であったが、しかし1967年10月の世論調査では支持44%、不支持46%で初めて逆転している[33]

北爆やアメリカ軍兵士の増強で戦争を連続的に拡大して、やがて多数の戦死者・戦傷者を出して、それなのに戦局が好転しないのはなぜかという疑問は、議会から、大学から、そしてテレビで戦場になったベトナムを見た多くの一般家庭のアメリカ国民から声が上がっていった。1966年2月に上院外交委員会(フルブライト委員長)はベトナム公聴会を開き、全米に6日間にわたってテレビ中継されて、ジョージ・ケナンなどから戦争政策への批判が出された。さらに1967年に入ると、ベトナム戦費の増大による福祉予算の圧迫に不満を募らせたキング牧師ら黒人公民権運動の指導者が公然と反戦の声を上げ始め、4月には全米で約30万人を動員する反戦集会が組織されるようになった[33]。このあたりからマスコミからは連日のようにベトナム戦争への対応のまずさを批判され、そしてそれは政策の批判だけでなく大統領と国民との間で信頼感を持つことができないギャップとして認識された。

1967年11月にそれまで北爆を推進してベトナム戦争の最高責任者であったマクナマラ国防長官が辞意を表明した。彼はその1年前に北爆を縮小するよう大統領に進言し、1967年5月に解放民族戦線を含めた連立政権を受け入れるべきと主張する[32]までになったがジョンソンは却下して軍事介入路線を継続する方向に変りはなかった。そして1968年に入ると1月末の旧正月にベトコンテト攻勢で首都サイゴンの中枢部まで攻撃を受けアメリカ大使館を一時占拠され[注 9]、それまで芳しくない戦果であっても南ベトナムでアメリカ軍が優勢であるとの見方[注 10]が急速に崩れて、ジョンソン大統領の弁明に保守派ですら不信感を持ち、もはやアメリカの軍事的勝利は不可能だという認識が広まり[35]、その時までベトナム戦争を支持していた保守層からも戦争継続への不安の声が増大していった。そして2月27日にCBSアンカーマンのウォルター・クロンカイトからもベトナム戦争への疑問と戦況の行き詰まりが表明されるに至った。テト攻勢後、ベトナム派兵は誤りであったと考える人の割合が過半数となるようになった。逆にジョンソン大統領の戦争遂行の仕方に対する支持は26%にまで落ち込んだ[34]

3月にマクナマラの後任として国防長官になったクラーク・クリフォードは、ウエストモーランド司令官からの20万人の増派要求に対して国防総省内で今後の方向の検討を行ったうえで、大統領にもはや戦争を継続しても軍事的に圧倒することはできないとして増派に反対して縮小に方向転換すべき旨を伝えた[注 11][注 12]。ジョンソンにとってはショックであると同時にここでもう一つ大きな壁にぶち当たった。

それは1968年3月12日に大統領選挙の最初の民主党予備選挙であったニューハンプシャー州ユージーン・マッカーシー候補に辛くも勝利するが、得票率は50%を割って46,5%、一方マッカーシー候補は42,4%であった。勝つには勝ったが現職大統領としては政治的敗北であった。この意外なジョンソンへの支持の弱さを見て3月16日にロバート・ケネディが急遽立候補宣言を行い、同時に世論調査でジョンソンへの支持率が最低を記録して、もはや再選の道が閉ざされかけようとしていた。

大統領選挙不出馬

このような厳しい状況の中で、ジョンソンは1968年3月31日夜にテレビ演説を行い、これまでのベトナム政策を劇的に転換し、北ベトナムへの北爆を部分的に停止(完全停止は10月)して無条件で北ベトナムとの対話を呼びかけた。

そして演説の最後には、草稿には無かった、次期大統領選挙に於いて「民主党大統領候補としての再指名を求めない」ことを発表した。

 アメリカ軍の兵士たちが遥か彼方の戦場にいて、アメリカの未来が国内で危機に瀕し、全世界が平和を願おうと、毎日が不安定な状態にある時、私は自分の時間の1時間、1日たりとも、1個人・1党派の目的追求のために捧げるべきではないと考えます。大統領という大きな義務以外の如何なるものも、自分の時間を捧げるべきでないと信じます。
 したがって私は次期大統領候補として、民主党の指名を求めることも、受諾することもありません[36] — リンドン・ジョンソン、1968年3月31日
ファイル:Lbj2.jpg
大統領退任の数日前に穏やかな顔を見せるジョンソン(1969年)

これはベトナム戦争に対する国内世論の分裂拡大をその理由に挙げて、これから任期が終わるまで国内世論の融和をはかることに大統領の職務を全うするため、大統領選挙への出馬を断念することを明らかにするものであった。自己のベトナム介入政策が挫折したことをこの時初めてジョンソンは認めたのである[37]。後にマクナマラが密かにまとめた「国防総省秘密報告」では、この決断が兵力をこれ以上増強しても軍事的勝利を得られないという補佐官たちの確信と、戦争政策をめぐって分裂した国民の団結を回復しなければならないという自己の深刻な決意から生まれたものだと記述されている[37]

この後、5月からパリで北ベトナムとの交渉が始まったが、任期が終わるまで実質何ら成果が上がることはなかった。そして民主党はロバート・ケネディがカリフォルニア州予備選で勝利して、党大統領候補指名に王手をかけた直後に”暗殺”されたため(ロバート・ケネディ暗殺事件)、結局副大統領のハンフリーを指名した。ハンフリーは予備選挙に立候補していなかったため、70年代以後の民主党予備選挙では、指名されるためには立候補が必須条件となった。大統領選挙では共和党のニクソンが得票率43.4%,獲得選挙人301,ハンフリーが得票率42.7%,獲得選挙人191で敗北した[38]。得票率は僅差だったが、ベトナム戦争を泥沼化させたジョンソンへのアメリカ人の批判と反発は強かったのである。1969年1月20日大統領職をニクソンにバトンタッチして、ジョンソンは政界を引退してテキサス州ジョンソンシティーへ戻った。

リンドン・ジョンソンの時代には、大統領はベトナム戦争で厳しい批判を受け、5万数千人のアメリカ兵が戦死した。一方、その間の福祉政策を中心にしたケインズ主義的な「偉大な社会計画」などの国内施策については、ある程度評価された[39]

戦争が終わる直前の死去

ニクソンは、ベトナムからの「名誉ある撤退」をスローガンに、段階的に縮小はしていたが、北ベトナムとの交渉がようやく進むこととなったのは、4年後の1972年秋からで、1973年に入ると和平交渉の動きが加速して1月27日に、ようやく『パリ協定』が調印された。これはアメリカと北ベトナムとの間で停戦が実現して、1973年3月31日までに、全てのアメリカ軍が撤退すること、捕虜となって北ベトナム軍に拘束された、全てのアメリカ軍将兵が解放されることも含まれていた。

しかしジョンソンは、この報を聞くことなく、自宅で心臓発作を起こして死去した。1973年1月22日のことで、ベトナム和平協定が調印される1月27日の僅か5日前であった。ジョンソンが送り出して捕虜となった兵士が、アメリカに帰ってきた時に、アメリカにとってのベトナム戦争が終わった[注 13]。その時ジョンソンは、もうこの世の人ではなかった。

逸話

  • ケネディ大統領暗殺後に昇格したジョンソン(第36代大統領)であったがおよそ100年前に、リンカーン大統領暗殺後に昇格したのもジョンソン(第17代大統領)であった。またケネディ大統領の女性秘書の名前はリンカーンであった。ちなみに南北戦争後に南部出身の政治家はなかなか大統領になれず、南北戦争後およそ100年を経てようやく実現した南部出身大統領がジョンソンであった。
  • ジョンソンの身長は6フィート3と1/2インチ(192cm)あった。これはエイブラハム・リンカーンの6フィート3と3/4インチに継ぐ高さで、2番目に背の高い大統領だった。
  • ジョンソンはテキサス州では大物政治家だったが、ワシントンではケネディ兄弟に支持率で大きく水をあけられており、副大統領どまりの地味な政治家といわれていた。
  • 1937年10月30日にテキサス州ジョンソンシティにあるジョンソンシティ・ロッジNo.561(Johnson City Lodge No.561)にてフリーメイソンに入会[40]
  • ジョンソンは倹約家で有名だった。大統領としてさえ、ホワイトハウスの録音テープには自らが貧しく巨額の負債があるため、カメラマンに無料で家族のポートレートを撮影してくれるよう頼んでいることが記録されていた。実際には彼は裕福だったが、結局無料で写真を受け取った。ホワイトハウスの記者団は、ホワイトハウスで使われていない部屋の明かりを全て消すという彼の習慣に関する冗談をよく話した。ジョンソンの秘書は、彼が発泡スチロールのコップを洗って再使用していたことを後に明らかにした。一方でホワイトハウスの住居部分にはあちこちにテレビを置かせ、同時に4台のテレビを見るのが趣味だった[41]
  • ジョンソンは他人からの評価を非常に気にした。公民権に関する演説後に彼は32人の知人に電話を行い、演説への感想を尋ねた。
  • ジョンソンの弟子のボビー・ベイカーEnglish版ラスベガスシカゴルイジアナなどのマフィアと巨額の取引をしていたという。それでもジョンソンはベイカーのことを「自分が最も信頼する友人の一人」と言っていた。彼はジョンソンが上院院内総務だった頃8年間にわたり秘書を務めた。
  • ジョンソンが余生を送った「LBJ牧場」は広大で、1980年に「リンドン・B・ジョンソン歴史公園」として国立公園になったほどである。1971年に設立された「ジョンソン大統領図書館」建設の際に、完成直前になって突然彼が「オーバルオフィスの複製が欲しい」と言い出したために、急遽屋上に大統領執務室のレプリカが作成されることになった。しかし床面積が足りず実物の8割ほどの大きさのものしか作成することが出来ないことがわかり、レディー・バード夫人が彼を説得して結局現在の形に落ち着いたといわれている。
  • サインペンが世に広まったことにジョンソンは少なからず関係がある。大日本文具(現在のぺんてる)が「新しいペン」としてサインペンを発売したが、日本では全く売れず、アメリカに活路を求めてサンプルを配布したところ、その1本がジョンソンの手元に渡り、ジョンソンはこのペンが気に入って大量注文した。この話が伝わってアメリカで大幅に売れ行きが伸び、その勢いが日本に逆輸入されることになったのだという。
  • ジョンソンの元顧問弁護士バー・マクレランは2005年11月に著書『ケネディを殺した副大統領 その血と金と権力』において、ジョンソン真犯人説を発表した[注 14]
  • ジョンソンは粗野で気が荒く、尊大な性格で議員時代から弱い者いじめをすることで知られていた。他人を説き伏せるときは相手の襟を掴んで威圧した[42]。ケネディ大統領の周囲の人々はジャクリーン夫人から側近に至るまでジョンソンを嫌っていた[43]。ホワイトハウスのスタッフにも過大な要求を行い、特に自身が使うシャワーには極端に強力な水圧と大量の熱湯、強い複数の照明、そしてシャワールームを鏡張りにすることを要求した。この理想のシャワールームの実現には水道ポンプの増設やパイプの変更、強烈な湯気のために火災報知機が反応したために、強力な換気システムの設置などで数万ドルを要し、国家の機密費から賄われた[44]
  • 政権末期の頃、ジョンソンの娘たちは毎日ホワイトハウスの前にやってくる反戦デモの声に怯え、神経をすり減らすようになっていた。デモ隊だけではなくホワイトハウスの見学者の中にもホワイトハウスの中で過激な反戦アピールを行う者も頻繁に現れた。これらのことは、ベトナムに派遣された海兵隊員空軍州兵を夫に持つ二人の娘たちには耐えがたいこととなっていった。デモ隊らに心を掻き乱されていたのはジョンソンも同様であった。厳冬のある日、デモ隊を鎮めるためにホワイトハウスの執事たちに「彼らに温かいコーヒーをふるまうように」と指示したこともあった。ジョンソンが1968年の大統領選挙への不出馬を決めたのは「どうして夫はベトナムに行かなければならなかったのか」と涙ながらに長女のリンダに訴えられたすぐ後のことだった[45]
  • 尊大で威圧的なジョンソンに言い返し、更には黙らすことができたのは娘以外ではジョンソン家の料理人のゼファー・ライトだけだった[46]。議員時代にテキサスからワシントンに向かう際に、南部のホテルで「ジョンソン夫妻の宿泊には応じるが(黒人の)ライトの宿泊は認めない」、と言われた体験が公民権法の成立に努めるきっかけとなった[47]。ライトは家族同然だったが、大統領退任後、テキサスに帰ったジョンソン家には同行せずワシントンに残る決断をした。退任後のジョンソンは抑うつ状態にあり、しきりにライトの料理を懐かしがる姿を見かねた次女のルーシーはライトから料理を習い、忠実に再現するように努めた[48]
  • ルーシーが拾ってきた真っ白な犬「ユキ」(日本語の「雪」のこと。ルーシーが名付けた)を非常に可愛がっていた[49]
  • 1964年大統領選挙では、ルイ・アームストロングの大ヒット曲『ハロー・ドーリー!』を元にした替え歌『ハロー・リンドン!』がキャンペーンソング(Campaign song)として使われた[50][51]

脚注

注釈

  1. ケネディがジョンソンを副大統領候補に指名した経緯については明らかになっていない。弟のロバートはジョンソン嫌いであったことは有名で、このことでケネディ暗殺後にジョンソン政権に残ることを潔しとしなかった。また指名しても受諾しないだろうとジョンが予測した上で礼儀的に対立候補に打診したら予想外に受け入れてしまったという説もあるが、父親のジョセフ・パトリック・ケネディがやはりテキサスを味方につけることでジョンソンを副大統領に強く推したというのが定説になっている[7]
  2. この時に機内からマサチューセッツ州ハイアニスポートに住むケネディ大統領の母ローズ・ケネディにお悔やみの電話をしている。
  3. この作戦をネガティブ・キャンペーンとする向きもあるが、対立候補のゴールドウォーター自身の超保守的な言動が、米ソ対立がまだ続いていた時代のやや時代遅れの言説に、彼を忌避する動きが共和党自体の中にもあり、共和党の有力候補であったロムニー州知事は最後までゴールドウォーター支持を明確にせず、この選挙期間は共和党は分裂した状態になったことが彼の大敗の原因である。彼が獲得したのが人種差別の厳しい深南部の州だけであったことは、彼の政治姿勢の結果である。そして以後に共和党の組織の再編成と新しい組織作りに動いたのがリチャード・ニクソンであり、それが4年後の大統領当選につながっていった。
  4. 後にすべてアメリカ側が作ったウソであったとされたが、実際は2回あった攻撃の最初の1回目は事実で北ベトナムから攻撃であり、2回目の「攻撃」はアメリカ海軍側の作り話(と言うよりもレーダーゴーストの誤認を大げさに報告した)であった。
  5. この時サイゴンにマクジョージ・バンディ大統領補佐官が情勢視察のために来ていた。バンディはこの攻撃で強硬論に凝り固まったと言われている。しかしジョージ・ボール国務次官はベトナムへの全面介入には批判的な立場であった[28]
  6. 歴史資料では死者を出していないトンキン湾事件は大きく扱われる一方で、多くの死傷者を出したアメリカ軍基地爆破事件(ブレイク基地)は殆ど触れていないという意見もあるが、この前年11月にビエンホア基地が攻撃されてアメリカ軍事顧問5人が死亡して、さらにクリスマスイブにサイゴンのホテルで爆弾が仕掛けられて民間のアメリカ人2人が殺害される事態が生じている。ブレイク基地での7名死亡はその動きの一連の経過の一つに過ぎず、むしろその報復としての軍事行動が歯止めの効かない大量の兵士の投入につながったことで、トンキン湾決議は歴史的に重い課題である。
  7. デイビッド・ハルバースタムによる、ベトナム戦争当時の政府閣僚らを取り上げたドキュメンタリー書籍のタイトル。ラスク国務長官、マクナマラ国防長官を始め、マクジョージ・バンディ、ウォルト・ロストウ、ジョージ・ボール、ウイリアム・バンディらを指す。
  8. 1968年には1週間のベトナムにおける米兵の死者が約250人に達して、勝利の展望の無い長期戦になって大きな出血を強いられている事実が次第に明らかになって早期終結を望む声が大きくなった[32]
  9. このテト攻勢について軍事的にはアメリカが圧倒して南ベトナム解放民族戦線側の死者が5万人にのぼり解放民族戦線の方が敗れているとの見方もあるが、個々の戦闘の勝敗よりもサイゴンの中枢を襲われアメリカ大使館を一時占拠されたこと自体が、それまでアメリカの一般国民が抱いていたベトナム戦争のイメージを覆し、急速に幻滅と悲観論が広がった。そして後にこのテト攻勢のアメリカ軍の死者が3,895人に上ったことを明らかにした。これは1968年の戦死者数1万2,000人の30%であり、犠牲が大きかったことが明確になった。そして政治的には大統領選挙の予備選挙が始まるタイミングで衝撃を与えて、結果アメリカの国内で地殻変動を起こしてベトナム戦争が大きなテーマになったことは政治的に極めて大きなものであった。
  10. ウォルター・クロンカイトもそれまで「我々は戦争に勝利しつつあると思っていた」と語っている[34]
  11. 3月25日にホワイトハウスで、クリフォードの提案で各長老や顧問を集めて会議を開いた。出席者はアチソン元国務長官、ディロン元財務長官、リッジウェイ将軍、テーラー将軍(元南ベトナム大使)、ロッジ元南ベトナム大使、ジョージ・ボール元国務次官、マクジョージ・バンディ大統領補佐官などで、この会議でベトナム政策の変更を求める意見が多かった。これがジョンソンに大きな影響を与え直後の3.31声明につながった。
  12. 実際には20万人の増派要求に対して2万人の増派を行った。しかしこれはもういくら増派しても問題の解決にならないことを示しており、今後は南ベトナム軍により大きい戦争遂行の責任を持たすことを要求したものであった。これがベトナム戦争のベトナム化の始まりであった。またその背景として増派が財政を圧迫して1967年秋頃から財政危機に見舞われ、それが為替相場でのドル危機を招き、この1968年3月第1週に金準備が3億ドル減少して、さらに第2週に再び3億ドル以上が流出することとなり(この問題は3年後のニクソン・ショックの原因であった)、またこのベトナム戦争の過大出費が国内の「偉大な社会」政策を直撃していて、もはや増税なしには増派できず、金融危機が発生する可能性も予想される事態にいたっていた。
  13. ニクソン大統領は3月29日にアメリカのベトナム戦争終結宣言を行っている。
  14. ケネディ暗殺の首謀者はジョンソンであるとの仮説は映画や著書の中で論じられてはいるが、ジョンソンが本件で刑事裁判所で有罪判決を受けたことはなく、刑事裁判所に起訴されたこともなく、司法省に告訴されたこともなく、ケネディ大統領の遺族から民事裁判所に提訴されたこともない。本件に関して、ウォーターゲート事件におけるニクソン大統領や大統領の側近、また実行犯のように、連邦議会に証人喚問され、連邦議会議員からの尋問や証拠調べにより、ジョンソンが首謀者であるとの仮説が証明されたこともない。ジョンソン首謀者説は、刑事裁判所や民事裁判所や連邦議会のような公的な場所で、事実と認定されたことはなく、真偽を検証されたこともなく、ジョンソンの死後に発表された、私人による仮説にとどまっている。

出典

  1. The height differences between all the US presidents and first ladies ビジネス・インサイダー
  2. 2.0 2.1 砂田一郎『現代アメリカ政治~60-80年代への変動過程~』芦書房、1981年、pp.90 - 91
  3. 加藤寛一郎『零戦の秘術』講談社、1991年、p.344
  4. 藤本一美ほか『戦後アメリカ大統領事典』大空社、2009年p.155
  5. 5.0 5.1 『戦後アメリカ大統領事典』p.156
  6. 仲晃『ケネディ暗殺事件~その背景と真実~』弘文堂、1964年、p.84
  7. ギャレス・ジェンキンズ(澤田澄江翻訳)『ジョン・F・ケネディ - フォトバイオグラフィ』原書房、2006年、p.134P
  8. ヘンリー・キッシンジャー『外交』日本経済新聞社、1996年
  9. アレックス・アベラ『ランド 世界を支配した研究所』文藝春秋、2008年
  10. 『ケネディ暗殺事件~その背景と真実~』p.83
  11. 『ケネディ暗殺事件~その背景と真実~』pp.36 - 39
  12. 『ケネディ暗殺事件~その背景と真実~』pp.90 - 92
  13. 『ケネディ暗殺事件~その背景と真実~』pp.94 - 95
  14. 藤本一美・濱賀祐子『米国の大統領と国政選挙~リベラルとコンサヴァティブの対立~』専修大学出版局、2004年、p.102
  15. 有賀正編著 『世界歴史大系~アメリカ史2~』 山川出版社、1993年、p.406
  16. ヴァンサン・ミシュロ(藤本一美翻訳)『アメリカ大統領ーその権力と歴史』創元社、2009年、p.85
  17. ウォルター・クロンカイト(浅野輔翻訳)『クロンカイトの世界』TBSブリタニカ、1999年
  18. The House and Selma: Bridging History and Memory”. Artandhistory.house.gov. . 2015閲覧.
  19. President Johnson's Special Message to the Congress: The American Promise”. LBJ PRESIDENTIAL LIBRARY. . 2015閲覧.
  20. 野村達朗『アメリカ合衆国の歴史』ミネルヴァ書房、1998年
  21. 『現代アメリカ政治~60-80年代への変動過程~』p.96
  22. 『戦後アメリカ大統領事典』p.164
  23. 土田宏『アメリカの50年 ケネディの夢は消えた?』彩流社、2015年、p.55
  24. デイビッド・ルー『アメリカ 自由と変革の軌跡』日本経済新聞出版社、2009年、p.282
  25. 佐々木卓也(編著)『戦後アメリカ外交史』有斐閣《有斐閣アルマ》、2009年、p.111
  26. 『戦後アメリカ外交史』p.112
  27. 27.0 27.1 秋元英一・菅英輝『アメリカ20世紀史』東京大学出版会、2003年、p.229
  28. 『世界歴史大系~アメリカ史2~』p. 410
  29. 『アメリカ 自由と変革の軌跡』、p.285
  30. 『アメリカ20世紀史』p.230
  31. 31.0 31.1 『アメリカ20世紀史』p.231
  32. 32.0 32.1 『現代アメリカ政治~60-80年代への変動過程~』p.113
  33. 33.0 33.1 33.2 『世界歴史大系~アメリカ史2~』p.416参照
  34. 34.0 34.1 『アメリカ20世紀史』p.232
  35. 『現代アメリカ政治~60-80年代への変動過程~』p.115
  36. 上岡伸雄(編著)『名演説で読むアメリカの歴史』研究社、2006年、p.195
  37. 37.0 37.1 『現代アメリカ政治~60-80年代への変動過程~』p.116
  38. http://www.presidency.ucsb.edu/showelection.php?year=1968
  39. 『戦後アメリカ大統領事典』p.165
  40. The Grand Lodge of Free and Accepted Masons of Pennsylvania. 2013年5月3日閲覧。
  41. 『使用人が見たホワイトハウス』 ケイト・アンダーセン・ブラウワー著 光文社 2016年 p127
  42. 『20世紀を伝えた男 クロンカイトの世界』 ウォルター・クロンカイトTBSブリタニカ 1999年 p294
  43. 『使用人が見たホワイトハウス』 p96、194-195、
  44. 『使用人が見たホワイトハウス』 p197-202
  45. 『使用人が見たホワイトハウス』 p349-353
  46. 『使用人が見たホワイトハウス』 p206-207
  47. 『使用人が見たホワイトハウス』 p307-308
  48. 『使用人が見たホワイトハウス』 p310-312
  49. 『使用人が見たホワイトハウス』 p323
  50. ‘Hello, Lyndon!’ Joins Campaign At Democratic Parley Next Week - 1964年8月21日 The New York Times ARCHIVES
  51. A Brief History of Campaign Songs - TIME

参考文献

  • 松永市郎 『次席将校 『先任将校』アメリカを行く』 光人社、1991年4月。ISBN 4-7698-0556-x。
  • 秋元英一・菅英輝『アメリカ20世紀史』東京大学出版会、2003年
  • 砂田一郎『現代アメリカ政治~60-80年代への変動過程~』芦書房、1981年
  • 仲晃『ケネディ暗殺事件~その背景と真実~』弘文堂、1964年
  • デイビッド・ルー『アメリカ 自由と変革の軌跡』日本経済新聞出版社、2009年
  • 野村達朗『アメリカ合衆国の歴史』ミネルヴァ書房、1998年
  • 佐々木卓也(編著)『戦後アメリカ外交史』有斐閣《有斐閣アルマ》、2009年
  • デイヴィッド・ハルバースタム(浅野輔翻訳)『ベスト&ブライテスト』(上・中・下)朝日新聞社《朝日文庫》、1999年
  • ウォルター・クロンカイト(浅野輔翻訳)『クロンカイトの世界』TBSブリタニカ、1999年
  • 藤本一美ほか『戦後アメリカ大統領事典』大空社、2009年
  • 有賀正(編著)『世界歴史大系~アメリカ史2~』山川出版社、1993年
  • ギャレス・ジェンキンズ(澤田澄江翻訳)『ジョン・F・ケネディ - フォトバイオグラフィ』原書房、2006年
  • 土田宏『アメリカの50年 ケネディの夢は消えた?』彩流社、2015年
  • 加藤寛一郎『零戦の秘術』講談社、1991年
  • ヘンリー・キッシンジャー『外交』日本経済新聞社、1996年
  • ヴァンサン・ミシュロ(藤本一美翻訳)『アメリカ大統領 - その権力と歴史』創元社、2009年
  • 上岡伸雄(編著)『名演説で読むアメリカの歴史』研究社、2006年

関連項目

外部リンク


先代:
スタイルズ・ブリッジズEnglish版
上院少数党院内総務
1953 - 1955
次代:
ウィリアム・ノーランド
先代:
ウィリアム・ノーランド
上院多数党院内総務
1955 - 1961
次代:
マイケル・マンスフィールド
先代:
リチャード・ニクソン
アメリカ合衆国副大統領
1961 - 1963
次代:
ヒューバート・ハンフリー
先代:
ジョン・ケネディ
アメリカ合衆国大統領
1963 - 1969
次代:
リチャード・ニクソン

テンプレート:アメリカ合衆国副大統領