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(内容を「'''ランディ・ウイリアム・バス'''('''Randy William Bass''', 1954年3月13日 - ) アメリカ合衆国のプロ野球選手。大リーグの...」で置換)
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{{Infobox baseball player
+
'''ランディ・ウイリアム・バス'''('''Randy William Bass''', [[1954年]][[3月13日]] -
|選手名 = ランディ・バース
 
|英語表記 = Randy Bass
 
|所属球団 =
 
|背番号 =
 
|選手写真ファイル名 = Randy Bass in Hanshin Umeda IMG 2878 20131222.JPG
 
|写真サイズ = 200
 
|写真のコメント = 2013年12月、[[阪急百貨店うめだ本店|梅田阪急百貨店]]のクリスマスイベントでのバース
 
|国籍 = {{USA}}
 
|出身地 = [[オクラホマ州]][[ロートン (オクラホマ州)|ロートン]]
 
|生年月日 = {{生年月日と年齢|1954|3|13}}
 
|没年月日 =
 
|身長 = 184
 
|体重 = 95
 
|利き腕 = 右
 
|打席 = 左
 
|守備位置 = [[一塁手]]
 
|プロ入り年度 = 1972年
 
|ドラフト順位 = ドラフト7巡目
 
|初出場 = MLB / 1977年9月3日<br />NPB / 1983年4月16日
 
|最終出場 = MLB / 1982年6月7日<br />NPB / 1988年5月5日
 
|年俸 =
 
|経歴 =
 
* ロートン高等学校
 
* [[オクラホマ大学]]
 
* [[ミネソタ・ツインズ]] (1977)
 
* [[カンザスシティ・ロイヤルズ]] (1978)
 
* [[ワシントン・ナショナルズ|モントリオール・エクスポズ]] (1979)
 
* [[サンディエゴ・パドレス]] (1980 - 1982)
 
* [[テキサス・レンジャーズ]] (1982)
 
* [[阪神タイガース]] (1983 - 1988)
 
|選出国 =
 
|選出年 =
 
|得票率 =
 
|選出方法 =
 
}}
 
'''ランディ・ウイリアム・バス'''('''Randy William Bass''', [[1954年]][[3月13日]] - )は、[[アメリカ合衆国]][[オクラホマ州]][[ロートン (オクラホマ州)|ロートン]]生まれの元[[プロ野球選手]]([[内野手]])、[[政治家]]。
 
  
[[1983年]]から[[1988年]]まで[[日本プロ野球機構|NPB]]の[[阪神タイガース]]でプレー。6シーズンに渡る在籍は、[[ウィリー・カークランド]]、[[マット・マートン]]と並び球団の歴代外国人野手としての史上最長記録である。現役引退後、[[2004年]]からオクラホマ州議会の上院議員([[民主党 (アメリカ)|民主党]])を務めている(現職)。
+
アメリカ合衆国のプロ野球選手。[[大リーグ]]のミネソタ・ツインズ,カンザスシティー・ロイヤルズ,サンディエゴ・パドレスなどに在籍したのち,1983年日本の[[プロ野球]]球団阪神タイガースに入団。3年目の 1985年に打率3割5分0厘,54本塁打,134打点で三冠王とセントラルリーグ最優秀選手 MVPを獲得。この活躍で阪神は 21年ぶりにリーグ優勝を果たし,日本シリーズも制覇した。 1986年も日本記録となる打率3割8分9厘で首位打者に輝くなど,2年連続で三冠王となった。
  
NPBにおけるシーズン[[打率]]の日本記録保持者(.389)であり、外国人選手ではNPB史上最多となる2度の[[三冠 (野球)|三冠王]]に輝いている。
+
1988年シーズン途中で子供の難病治療のため帰国,そのまま退団した。
 
 
== 経歴 ==
 
=== メジャーリーグ時代 ===
 
[[メジャーリーグベースボール]]時代は[[ミネソタ・ツインズ]]、[[カンザスシティ・ロイヤルズ]]、[[ワシントン・ナショナルズ|モントリオール・エクスポズ]]、[[サンディエゴ・パドレス]]、[[テキサス・レンジャーズ]]を転々としていた。
 
 
 
メジャー時代はその長打力から「[[ニューヨーク]]から[[ロサンゼルス]]まで飛ばす男」と言われたこともあったが、幼少時に足を複雑骨折していたことから全力疾走ができない状態であり、守れないということでレギュラーは獲得していない。さらに速球に弱いという弱点が重なりメジャー通算本塁打は9本に終わっている。エクスポズ時代のチームメイトには、後に[[読売ジャイアンツ]]で活躍する[[ウォーレン・クロマティ]]がいた。
 
 
 
[[1982年]]のオフ、ハワイのMLBウィンター・ミーティングでは阪神と[[オリックス・バファローズ|阪急ブレーブス]]との間で獲得競争となり、阪神の渉外担当[[藤江清志]]と阪急常務の[[矢形勝洋]]が契約金額を競り合ったが、[[ブーマー・ウェルズ]]に着目した阪急は乗り換えて手を引いた<ref>[[福本豊]]『阪急ブレーブス 光を超えた影法師』[[ベースボール・マガジン社]]、2014年、pp.170 - 172。阪急はブーマー獲得に際して、[[ミネソタ・ツインズ]]から求められた移籍金を含めて3000万円を支払ったが、それでも競り合いで吊り上がったバースの年俸よりは安かったという。</ref>。
 
 
 
=== 阪神タイガース時代 ===
 
{{by|1983年}}に来日し、阪神に入団。阪神入団当初は[[藤田平]]が一塁手として多用されていたこともあり、[[右翼手]]として守備に就いていたが、上記の通り全力疾走できないことと、藤田の年齢による衰えから、後に一塁手に固定される。体調不良でシーズン序盤を出遅れたにもかかわらず、1年目から[[打率]].288、35[[本塁打]]、82[[打点]]と長打力を見せつける。また、同年のシーズン終盤には25試合連続安打も記録しており、これは2001年に[[桧山進次郎]]が28試合で更新するまで球団記録であった。
 
 
 
この1983年に、バースはシーズン途中で解雇されていた可能性があった。前年後半にチームが大躍進したこともあり阪神ファンは優勝への期待を募らせていたが、4月を2位で終了したものの5月途中には1勝15敗と大きく負け越してしまう。調子の上がらないバースが不調の原因との批判も多く、同期入団でミートの上手い[[スティーブ・ストローター]]の方が日本の野球に適合しているとの評価が高かった{{refnest|この年、5月24日から29日にかけての6連戦では、ストローターが6試合全てで3番スタメンだったのに対し、同じく左打ちだったバースは6番か7番、しかもスタメン起用はうち4試合だけ(他の2試合は代打と欠場)であった<ref name="nk170126">[[日刊スポーツ]](大阪版),2017年1月26日付4面『あの猛虎は今』</ref>。}}。そんな中、先発投手陣が手薄な球団は投手の[[リチャード・オルセン]]の獲得に動く。当時の規定では[[外国人枠 (日本プロ野球)|外国人選手は1チーム3名までしか契約できなかった]]こともあり、既にバース、ストローター、[[キム・アレン|アレン]]の3人の野手と契約していた球団は、このうち誰か1人を解雇する必要に迫られた。ミートは上手いが怪我が重症であった<ref name="nk170126" />ストローターか、外角に落ちる変化球をことごとく空振りするなど調子の上がらなかったバースかの選択となったが、球団はパワーのほかに、態度、努力、人格を評価しバースを残留させた。その期待通り、バースは後半戦から一気に調子を上げた。翌{{by|1984年}}は.326という高打率を挙げたものの、前年を下回る27本塁打に終わり、また夏場に負傷で離脱したことによりチーム全体の失速を招いてしまう。さらにオフに外野手の[[岡田彰布|岡田]]を三塁に、三塁手の[[掛布雅之|掛布]]を一塁にコンバートする案が持ち上がり、掛布と重複し守備力に難のあるバースを解雇するという情報が流れたが、来季から再任する[[吉田義男]]監督が球団に残留を強く進言、前述の掛布の一塁コンバート案も白紙となったことで、解雇を免れている。
 
 
 
{{by|1985年}}には[[掛布雅之]]、[[岡田彰布]]と強力な[[クリーンナップ]]を形成。同年4月17日の対巨人戦、[[槙原寛己]]からの[[バックスクリーン3連発]]での1本がバースのこの年の第1号本塁打である。この年は打率.350、54本塁打、134打点の成績を残して[[三冠 (野球)|三冠王]]に輝き、阪神の21年ぶりのリーグ優勝・初の日本一に大きく貢献した。また、[[セントラル・リーグ]]初の外国人選手による[[最多本塁打 (日本プロ野球)|本塁打王]]となった。
 
ともに[[ミネソタ・ツインズ]]出身の[[チャーリー・マニエル]]が保持していた外国人登録選手のシーズン最多本塁打記録48本に並ぶところから、54号までの経緯は以下の通り。10月9日[[高野光]]から右翼へ48号2ラン([[阪神甲子園球場|甲子園球場]])、12日[[大野豊 (野球)|大野豊]]からバックスクリーンへ決勝49号ソロで当時の外国人記録を更新([[広島市民球場 (初代)|広島市民球場]])、14日は風を読んで左翼へ[[川口和久]]から50号3ランおよび[[小林誠二]]から51号ソロ(広島)、16日は21年ぶりの優勝を決めた試合で[[荒木大輔]]から右翼へ52号2ラン([[明治神宮野球場|神宮球場]])、17日高野光からバックスクリーン左の中段席へ53号ソロ(神宮)、20日にシーズン16勝目を挙げ最多勝当確の[[小松辰雄]]から左翼ポール際へ54号2ラン([[ナゴヤ球場]])。
 
 
 
この年は[[王貞治]]が{{by|1964年}}に記録したシーズン55本塁打の更新が注目されたが、54本目を打った段階で残り試合数が2試合になった。いずれも巨人戦で、その監督は王貞治。最初の試合(10月22日、甲子園)で先発した[[江川卓 (野球)|江川卓]]は3打席ストライクで勝負し1安打に抑えるも、他の投手は事実上の[[故意四球|敬遠]]攻めであった。最終戦(24日、後楽園)の第1、2、4、5打席はストレートの四球、第3打席は先発の[[斎藤雅樹]]がバットが届くところに投じた初球の外角高めの球に飛びつくようにセンター前に単打して、結局1打数1安打4四球で記録は達成できず、翌日の[[報知新聞]]には「バース記録達成失敗」という見出しと「自分はバースに敬遠を指示しなかった」という王のコメントが掲載された。当時巨人に在籍した外国人投手[[キース・カムストック]]は、後に自らの著書でこのことを振り返り、「バースにストライクを投げると、1球につき罰金1000ドルが課せられていた」と記している。指示を出したのは、当時一軍投手コーチだった[[堀内恒夫]]であった<ref>TBS「S☆1 Jスポ」2009年7月12日放映「阪神伝説の3連発トリオ・・・バース・掛布・岡田ぶち抜きSP!」での槙原寛己の会話より。</ref>。また当時バースは、最終戦を前に「記録達成は無理だろう、私はガイジン(外人)だから」とも語っていた。一方、この敬遠攻めの影響でバースの[[出塁率]]が上昇し、前日まで9厘差でトップだった[[吉村禎章]](当日4打席で出塁0)を最終打席で.0005差で抜いたことで、バースは[[最高出塁率 (日本プロ野球)|最高出塁率]]のタイトルも獲得した。前年(1984年)までセ・リーグでは『最多出塁数』が表彰タイトルであったが、この1985年からは『最高出塁率』が表彰タイトルへと変更されており、当時の巨人ベンチはこの記録のことをよく理解しておらず忘れていたことが原因であった。結果的にバースは当時表彰タイトルだった[[勝利打点|最多勝利打点]]と併せ、打撃部門5冠に輝いた。ちなみにバースは、記録を恐れず真っ向勝負してきた江川を高く評価し、「日本の今のプロ野球で最高の投手だ。メジャーでも十分通用する」とコメントしている。
 
 
 
[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]との[[1985年の日本シリーズ|日本シリーズ]]はセ・リーグの名遊撃手であった[[吉田義男]]と[[広岡達朗]]が監督として戦う因縁の対決であった。バースは第1戦から第3戦で3試合連続本塁打(第1戦は[[工藤公康]]の外角カーブを左翼へ決勝3ラン、第2戦は[[高橋直樹 (野球)|高橋直樹]]の110 km/hの外角カーブを左翼へ決勝2ラン、第3戦は工藤公康から右翼へ3ラン)を放ち、第2戦には守備でも歴史的ファインプレーを見せる(後述)など攻守に渡る大活躍でチームを牽引。阪神を球団創設以来初(2017年シーズン終了時点で唯一)の日本一に導き、バースはシーズンと日本シリーズの両方で[[最優秀選手 (日本プロ野球)|MVP]]を獲得する快挙を達成した。なお阪神の日本一はこの1回だけであることから、バースは阪神唯一の日本シリーズMVP獲得者である。(2017年現在)
 
 
 
新ストライクゾーンが導入された{{by|1986年}}4月、開幕試合の大洋戦は5打数無安打としたものの、8試合目に3割台とし、5月は6試合連続マルチ安打を記録、5月下旬から6月にかけて16打数12安打で打率.369に上げ、5月31日にはこの年初めて首位打者に立ち、以降譲ることなく打率をさらに上げて、7月2日の大洋戦で5打数4安打として打率を.402と4割に乗せる。7月8日に.407としたのをピークに中日の[[小松辰雄]]に4打数無安打で抑えられ、打率4割を切り、その後25打数無安打とスランプに入り.376まで落とすが、8月に入り12日に.399まで戻す。8月以降は各試合終了時点で打率4割を越える事はなかったが、8月は.390を割る事はなかった。9月は3日と19日に.389としたものの、9月終了時点で.394とした。10月、打率4割の可能性はまだ残っていたものの、7日の大洋戦と続く広島戦で無安打で.388に落とし、14日の最終戦の大洋戦で2打数2安打で.389、打率の日本プロ野球記録を更新し<ref>ここまでの記述の出典は、講談社刊 宇佐美徹也著「日本プロ野球記録大鑑」274-275ページ</ref>、他にも47本塁打、109打点の成績を挙げ、[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテオリオンズ]]の[[落合博満]]と共に、2年連続三冠王となった。バースは規定打席到達後、それまで[[張本勲]]が持っていたシーズン打率.383の日本記録を下回ってしまうと日本の投手がそれ以上勝負してくれないのではないかと考え、監督に直訴してそれ以降の試合を欠場させてもらうつもりでいたが、結局一度も下回ることはなく、最後まで打席に立ち続けた。
 
 
 
また、32歳のバースは日本の球場なら左方向に打っても本塁打になることを悟り、左翼への本塁打を量産し、この年の6月26日には王貞治と並ぶ7試合連続本塁打の日本タイ記録を達成。6月18日高野光から左翼へ16号ソロ(甲子園球場)、19日荒木大輔から右翼へ17号2ラン(甲子園)、20日[[郭源治]]から左翼ポールへ18号2ラン(甲子園)、21日[[鈴木孝政]]から左翼へ19号ソロ(甲子園)、22日[[平沼定晴]]の内角フォークを左翼へ20号2ラン(甲子園)、24日はルーキー[[桑田真澄]]が投じた114 km/hのド真ん中のカーブをバックスクリーン右へ21号2ラン([[後楽園球場]])、タイ記録達成の26日は5対5で迎えた8回表に球数120超の江川卓が投じたこの打席2球目136 km/hの真ん中の高さの内角直球を後楽園球場の右翼場外の釣具店の屋根まで運んだ飛距離約150mの決勝22号ソロ(通算138号)だった。このときは記録を達成したバースのみならず、この試合でバースに投じた12球のうち11球が直球の真っ向勝負を挑んだ江川に対しても賛辞が贈られた。当時、江川以外でバースに真っ向勝負を挑んだ投手として[[広島東洋カープ]]の[[津田恒実]]がおり、バースに対して全て150 km/h超のストレートで挑み、3球三振に仕留めたこともある。この試合後、津田に対してバースは「ツダはクレイジーだ」とコメントしている。
 
 
 
他にも5月30日の6・8回と[[関根浩史]]から本塁打を放つと翌6月1日には1回と4回に[[欠端光則]]から本塁打を打って2日にわたって4打数連続本塁打、13試合連続打点(前述の7試合連続本塁打からスタートし、7月4日まで)や、シーズン[[長打率]].777(当時<ref>2013年に[[ウラディミール・バレンティン]]が.779で記録を更新。{{Cite news |url=http://www.asahi.com/sports/update/1008/JJT201310080009.html |title=バレンティンが歴代最高長打率 86年のバース上回る |newspaper=朝日新聞デジタル |date=2013-10-08 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20131010004435/http://www.asahi.com/sports/update/1008/JJT201310080009.html |archivedate=2013年10月10日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>)といった日本記録を次々に達成。[[OPS (野球)|OPS]]も王貞治の1.293(1974年)に次ぐ歴代2位となる1.258を記録した。しかしMVPには、優勝した広島の[[北別府学]]が選出された<ref>過去の三冠王獲得者では、1974年の王貞治と、1982年・1985年の落合博満はいずれも所属チームが優勝しなかったがMVPに選出されている。</ref>。
 
 
 
{{by|1987年}}には[[落合博満]]がトレードで[[中日ドラゴンズ]]に移籍し「三冠王対決」と騒がれたが、両者とも成績を落として無冠に終わる。(1985年と1986年はラビットボールの使用疑惑が持ち上がるほど本塁打が増加するなど投低打高化している)また、前年から囁かれていた吉田義男監督との確執がエスカレートした。無冠に終わり、チームが低迷したこの年、雑誌のインタビューで吉田監督批判を行ったため、球団からペナルティとして罰金を科せられるという事件もあった。この罰金は最終的にうやむやになってしまい、実際には払われなかった。なお、インタビューを行った[[ロバート・ホワイティング]]は責任を感じてバースに同額を支払っている。
 
 
 
{{by|1988年}}、[[水頭症]]を患った長男への対応を巡り球団と対立し、シーズン途中で解雇された。契約では家族の疾病の際には球団が医療費を負担することになっており、多額の医療費を負担することを恐れたための解雇だった。この経緯については、退団後に発売された自伝『バースの日記』でも述べられている。なお、このバース退団後の7月19日、当時の阪神球団代表だった[[古谷真吾]]が東京都内のホテルで飛び降り自殺する事件が起き、バースの退団をめぐるトラブルで球団とバースの板挟みになったのではないかと報じられた。この一件は、後に球団側が示談金を払ったことで解決した。
 
 
 
=== 選手引退後 ===
 
==== アメリカでの活動 ====
 
{{政治家
 
|人名 = ランディ・バス
 
|各国語表記 = {{Llang|en|Randy William Bass}}
 
|画像 = Randy Bass.jpg
 
|画像サイズ =
 
|画像説明 = オクラホマ州上院議員として(2004年)
 
|国略称 = {{USA}}
 
|生年月日 = {{生年月日と年齢|1954|3|13}}
 
|出生地 = {{Flagicon|Oklahoma}} [[オクラホマ州]][[ロートン (オクラホマ州)|ロートン市]]
 
|没年月日 =
 
|死没地 =
 
|出身校 = ロートン高等学校卒業
 
|前職 = [[野球選手]]
 
|現職 = [[酪農家]]・[[小麦]][[農家]]
 
|所属政党 = [[民主党 (アメリカ)|民主党]]
 
|称号・勲章 =
 
|親族(政治家) =
 
|配偶者 =
 
|サイン =
 
|ウェブサイト = http://www.oksenate.gov/Senators/biographies/bass_bio.html
 
|サイトタイトル = Oklahoma State Senate - Senators
 
|国旗 = Oklahoma
 
|職名 = [[オクラホマ州]][[上院議員]]
 
|内閣 =
 
|選挙区 = オクラホマ州第32区
 
|当選回数 = 4回<ref name="ballotpedia">[http://ballotpedia.org/Randy_Bass Randy Bass - Ballotpedia] 2017年12月7日閲覧</ref>
 
|就任日 = [[2004年]]
 
|退任日 = 現職
 
|所属委員会 =
 
|議員会館 =
 
|元首職 =
 
|元首 =
 
<!-- ↓省略可↓ -->
 
|国旗2 =
 
|職名2 = ロートン市議会議員
 
|内閣2 =
 
|選挙区2 =
 
|当選回数2 = 1回
 
|就任日2 = [[2001年]]
 
|退任日2 = 2004年
 
|元首職2 =
 
|元首2 =
 
|国旗3 =
 
|職名3 =
 
|内閣3 =
 
|選挙区3 =
 
|当選回数3 =
 
|就任日3 =
 
|退任日3 =
 
|元首職3 =
 
|元首3 =
 
|国旗4 =
 
|職名4 =
 
|内閣4 =
 
|選挙区4 =
 
|当選回数4 =
 
|就任日4 =
 
|退任日4 =
 
|元首職4 =
 
|元首4 =
 
|国旗5 =
 
|職名5 =
 
|内閣5 =
 
|選挙区5 =
 
|当選回数5 =
 
|就任日5 =
 
|退任日5 =
 
|元首職5 =
 
|元首5 =
 
|国旗6 =
 
|その他職歴1 =
 
|就任日6 =
 
|退任日6 =
 
|国旗7 =
 
|その他職歴2 =
 
|就任日7 =
 
|退任日7 =
 
|国旗8 =
 
|その他職歴3 =
 
|就任日8 =
 
|退任日8 =
 
|国旗9 =
 
|その他職歴4 =
 
|就任日9 =
 
|退任日9 =
 
|国旗10 =
 
|その他職歴5 =
 
|就任日10 =
 
|退任日10 =
 
|国旗11 =
 
|その他職歴6 =
 
|就任日11 =
 
|退任日11 =
 
|国旗12 =
 
|その他職歴7 =
 
|就任日12 =
 
|退任日12 =
 
|国旗13 =
 
|その他職歴8 =
 
|就任日13 =
 
|退任日13 =
 
|国旗14 =
 
|その他職歴9 =
 
|就任日14 =
 
|退任日14 =
 
|国旗15 =
 
|その他職歴10 =
 
|就任日15 =
 
|退任日15 =
 
<!-- ↑省略可↑ -->
 
}}
 
帰国後は本業の農場経営の傍ら、1998年から2003年まで東京ジャイアンツのスカウトをしていたとしている<ref name="senate">オクラホマ州議会公式HPでのバースの紹介 [http://www.oksenate.gov/Senators/biographies/bass_bio.aspx オクラホマ州議会-Senator Randy Bass - District 32]</ref>。また2000年から2003年までは、ロートンハイスクールで女子ゴルフのコーチを務めている<ref name="votesmart">[https://votesmart.org/candidate/biography/45919/randy-bass Randy Bass' Biography - The Voter's Self Defense System - Vote Smart] 2017年12月7日閲覧</ref>。
 
 
 
2001年、故郷のロートンの市議に当選。1期務めた後、[[2004年]]オクラホマ州議会上院議員選挙で地元第32区における[[民主党 (アメリカ)|民主党]]の候補者指名を受ける。大統領選挙一般投票と同日である11月2日の投票では9,809票を獲得し、35票の僅差で[[共和党 (アメリカ)|共和党]]のイーストン候補を破り初当選した。[[2006年]]11月には63.34%の得票率で勝利し再選を果たしている。2010年は民主党予備選挙・本選挙とも対立候補がなく当選。2014年にも民主党予備選挙では対立候補がなく、また共和党側は予備選挙中に唯一の立候補者が辞退したため、再び対立候補なしで当選。連続4選<ref name="ballotpedia"/>。会派のリーダーである少数党院内総務を務め、その後は少数党名誉院内総務となる<ref name="votesmart" />。任期制限により、2018年の改選には出馬できない<ref name="ballotpedia"/>。<!-- オクラホマ州議会の公式サイトでもバースの日本での活躍を取り上げ「Randy is a baseball legend in Japan.」と紹介されている<ref name="senate" />。 2017年12月7日現在該当記述なし-->
 
 
 
==== 日本での活動 ====
 
選手引退後もイベントなどでたびたび訪日している。1995年から開催されているサントリードリームマッチには毎年必ず出場している他、[[プロ野球マスターズリーグ]]にも大阪ロマンズの選手として登録されている。かつてのライバルであった[[大野豊 (野球)|大野豊]]とは、直球とフルスイングでファンを沸かせているが、現役時代と変わらぬ体型と肉体を維持し、140&nbsp;km/hを超える大野の直球に、今のところ全打席三振を喫している。[[サントリー]][[モルツ]](モルツ球団)、[[日産・サニー]](B14型系)などCMにもいくつか出演し、また[[東京スター銀行]]大阪支店名誉支店長にも就任。[[2007年]]8月19日に放送された『[[24時間テレビ 「愛は地球を救う」]]』で人生が変わる瞬間の“女子ソフトメダリストからヒットを狙う”コーナーにバッターとして出演した(結果は凡退)。
 
 
 
[[2008年]]8月28日の阪神対中日戦(甲子園球場)では始球式を行い、テレビ解説にも登場した。8月29日には『わくわく宝島SP』(読売テレビ)に登場。「10年に一度、来日している」と語っている。翌2009年11月にも来日し、[[奈良県]]で[[2010年]]に開催の「[[平城遷都1300年祭]]」への支援として奈良県に100万円を寄付した<ref>[http://www.jiji.com/jc/c?g=spo_30&k=2009112700130 元阪神のバース氏が100万円寄付=平城遷都1300年祭に]{{リンク切れ|date=2017年9月}}</ref>。これはバースが阪神選手時代からイメージキャラクターを務めている[[ユニットバス]]製造メーカー「日ポリ化工」が奈良県[[香芝市]]に本社があることから、「奈良への恩返し」の意味合いも込めているという。
 
 
 
[[2012年]]には[[クイズ☆タレント名鑑]]で「掛布と2者連続でホームラン(アベックホームラン)が打てるか?」という企画に挑戦するために来日(当初はこれに岡田も参加し「バックスクリーン3連発を再現できるか?」だったがスケジュールの都合のため、岡田は参加できなかった)。挑戦こそ失敗したものの、明るく朗らかながら本気で企画に挑戦するバースの姿とその真摯な人柄に出演者が皆が感心していた。
 
 
 
==== 選手引退後の人気 ====
 
退団後20年以上がたった現在でも往年の阪神ファンからは絶大な人気を誇り、バースの活躍以降、関西のメディアでは阪神の新外国人打者がキャンプやオープン戦で好調な場合「バースの再来」と報じることが恒例になっている。
 
 
 
2016年日本シリーズ(広島vs日本ハム)で、同じ名字「Bass(バス)」で登録名も同じ「バース」である北海道日本ハムファイターズの[[アンソニー・バス|アンソニー・バース]]投手が中継ぎで3勝、防御率0.00に加え、日本一を決める試合でダメ押しとなる6点目のタイムリーヒットを放つなど大車輪の活躍を見せ、インターネット上などで「バースの再来」「バース緊急来日」などのジョークが多く書き込まれた様に、他球団ファンにも人気を誇るプレイヤーである。
 
 
 
「日本シリーズ影のMVP(MVPは3本塁打の[[ブランドン・レアード]]に譲ったものの)」「影の二刀流」「二刀流は大谷だけじゃなかった」「バースが日本シリーズで打点は31年ぶり」など、30年以上経った今も野球ファンの多くは「バース」という登録名に敏感である様に、人気の程が伺える。
 
 
 
== 選手としての特徴 ==
 
{{スポーツ選手の出典明記|選手=現役時代|選手としての特徴|section=1|date=2011年8月}}
 
=== 打撃 ===
 
バースが高い成績を残せた理由としては、苦手としていた速球投手が日本に少なかったこと、日本に順応しようと努力していたことが挙げられている。[[掛布雅之]]が浜風の強い甲子園対策として身に付けていた独特の流し打ちを伝授したこともバースの打撃の幅を広げ、持ち前のパワーと相まって驚異的な成績を残すことになる。狭い球場や左方向に強い風が吹いているときには、軽く流しただけでレフトスタンドへの本塁打になるほどだった。1985年の日本シリーズ第1・2戦の本塁打などはその典型である。ちなみに、メジャー時代はそのパワーから
 
「ニューヨークからロスまで飛ばす男」と呼ばれていた。
 
 
 
他にも、[[長崎慶一|長崎啓二]]の打撃を徹底的に研究しており、長崎が打った日本シリーズ第5・6戦のホームランを指し、「ボクのホームランはたまたま風に乗っただけだよ。その点、ナガサキのホームランは本物だった」と絶賛していた。また[[川藤幸三]]に色々な面で世話になったことから、今でも「カワトウには感謝している」と語っている。ある特集番組では「三冠王を獲ることができたのはカケフのおかげである」と語ったこともある。
 
 
 
規定打席に到達した5シーズンのうち、[[OPS (野球)|OPS]]でリーグ1位を3回、リーグ2位を2回記録している。
 
 
 
日本では記録に残る活躍をしたバースだが、『実録スポーツヒーロー列伝 松井秀喜物語』での作中によると、日本風の打撃にした自分のスイングではメジャーの直球は打てないと考えていた。
 
 
 
=== 守備 ===
 
一塁手としての守備範囲は狭かったが捕球は堅実で、多くのファインプレーでチームのピンチを救った。[[1985年の日本シリーズ]]では、当初対戦相手の西武の[[広岡達朗]]監督が「阪神の弱点はバースの守備」と公言していたが、10月27日の第2戦7回1死一三塁で[[辻発彦]]がカウント1ストライク2ボールでの4球目に実行したプッシュバント・スクイズを右手(素手)でつかみ、三塁走者の[[秋山幸二]]を本塁で封殺したプレーなどで日本一に貢献<ref>{{cite  web|url=http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_octorber/KFullNormal20071016150.html|title=【10月27日】1985年(昭60) “神様、仏様、バース様”、守備でも魅せた!|work=[[スポーツニッポン]]|date=2007.10.27|accessdate=2012.9.28}}</ref>。広岡は評価を改めて「あの怪物にはアメリカに帰ってもらいたいですね」とコメントした。来日一年目は一塁手以外にも、外野手、主に右翼手として出場していたが、来日前から懸念されていた守備力の低さを露呈してしまっていた。1983年のシーズンにはバースの他に[[キム・アレン]]、[[スティーブ・ストローター]]のいずれも外野手二人がおり、守備力の劣るバースはこの二人にポジションを譲ることが幾度とあった。しかしアレンは怪我のため5月に解雇、ストローターも6月に外国人投手を補強するために解雇され、バースもベテランの一塁手[[藤田平]]からポジションを奪い、何とか一塁手に定着することができた。しかし、83年オフに、守備力の低さを理由に、一時は解雇も検討されることとなってしまう。翌1984年オフにも解雇の話は持ち上がったが、再任となる[[吉田義男]]監督が守備力の低さを差し引いてもお釣りがくる打力であると、解雇に反対し残留した。
 
 
 
== 人物 ==
 
=== 名前 ===
 
名字は正しくは「'''バス'''」{{IPA-en|bæs|}}と発音する<ref>名字が同じく「Bass」である、2007年に[[東北楽天ゴールデンイーグルス|東北楽天]]に所属した[[アダム・バス]](Adam Bass)、2016年に[[北海道日本ハムファイターズ|北海道日本ハム]]に所属した[[アンソニー・バス]](Anthony Bass)も、ともに同じく「'''バス'''」と発音する。アンソニー・バスは登録名を同じく「バース」としたが、アダム・バスは登録名はそのまま「バス」とした。</ref>が、当時[[阪神バス]]が球団親会社である[[阪神電気鉄道|阪神電鉄]]の直営事業だったこともあって、好調時に「阪神バス大爆発」、怪我をしたときに「阪神バス故障」、不振時に「阪神バス急ブレーキ」「阪神バス大渋滞」などとマスコミに揶揄されるのを嫌った球団側の配慮で、あえて音を延ばした「'''バース'''」を登録名とした<ref>水本義政によると、当初のプレスリリースでは「Bass(バス)」という表記だった。バースがアメリカ時代に足を故障して走れないことを知っていた水本は、打っても「阪神バス、エンストばかり」打たなくても「阪神バス、ブレーキ」と書かれると球団フロントに指摘したところ、「バスではなく、バースである」と訂正発表されたという。バースが初年度に17打数ノーヒットだった時は「バスだとバスストップになっていた」という球団フロントのブラックジョークも出たとされている。出典:ベースボールマガジン2012年1月号63ページ</ref>。
 
 
 
=== ひげ ===
 
バースの[[ひげ]]は彼の[[トレードマーク]]だったが、1986年のキャンプ前、[[ジレット]]社の[[安全剃刀|ひげ剃り]]の[[広告]]でひげを剃った姿を披露し、ファンを驚かせた。この広告は2日連続で新聞に掲載されたもので、最初の日が「明日の俺を見てくれ」というキャプションでひげ剃り前の写真、翌日がひげ剃り後の写真であった([[ティーザー広告]])。テレビコマーシャルも放送されており、「俺はひげをそれない」とひげをそる前にコメントし、その後ひげをそって「剃刀の三冠王」と宣伝していた。
 
 
 
開幕に備えて来日した時にはひげは元通りになっていたが、この“ひげ剃り料”は当時として破格の1億円であった。なお、起用したジレット社の経常利益は約100億円になった。ただし1983年の来日当初はあごひげがないなど、後年おなじみとなる風貌とは若干異なっていた。
 
 
 
=== 好物 ===
 
[[神戸ビーフ|神戸牛]]が大好物である。[[米国産牛肉]]の対日輸出問題について「日本人が牛肉にかける思い、情熱を私ほど理解している政治家はアメリカにはいない」「日本人が輸入にナーバスになる心情が良く理解できる」と語っている。また甲子園球場内の[[うどん]]も好んで食べていた。
 
 
 
=== 私生活 ===
 
私生活では阪神退団後に離婚するが、のちに再婚して1児をもうける。幼いころに重病を患った長男は結婚し、[[グッドイヤー]]に勤めている。また、子供たちも結婚し、3人の孫にも恵まれている。
 
 
 
8歳のときにアメリカの競馬場でホットワーカー([[厩務員]])をした経験があり<ref name="yusyun">{{Cite journal|和書|title=馬家先生のパカパカ問答 (9) ゲスト R・バースさん|year=1985|month=11|journal=[[優駿]]|pages=72-73|publisher=[[日本中央競馬会]]}}</ref>、日本では親交があった翻訳家・平尾圭吾のすすめで[[社台レースホース|社台サラブレッドクラブ]]の[[一口馬主]]となっていた<ref name="yusyun" />。2011年時点ではアメリカのローカル競馬に出走する競走馬を5頭所有する[[馬主]]となっている<ref>夕刊フジ 2011年9月13日号</ref>。
 
 
 
日本で最も成功したといわれる元外国人プロレスラー、[[スタン・ハンセン]]とは近所に住んでいたこともあり親交が深い。
 
 
 
[[ルーテル教会]]に属し、教会役員([[長老 (キリスト教)|長老]])に就いている<ref name="senate" />。
 
 
 
阪神在籍中、チームメイトの[[川藤幸三]]から[[将棋]]を教えてもらっており、それがきっかけで趣味とするようになった。
 
 
 
=== 史上最強の助っ人 ===
 
2度の三冠王に輝き、阪神の優勝・日本一に貢献した事から、1985年当時を知る阪神ファンからは「神」と呼ばれる事も多い。(当時のセ・リーグチーム名を一文字に略した場合、阪神は「神」になることから新聞やテレビの紹介テロップでは'''バース(神)'''と書かれた事が多いのも要因。)球界内外からも今でも「史上最強の助っ人」と言われることが多い。[[高田文夫]]の著書によれば、モルツ球団が[[張本勲]]の打順を3番にした際、4番のつもりの張本は激怒して「4番は誰が打つんだ?!」と関係者に詰め寄るも、「バースです」という答えに暫し沈黙し、「それなら仕方ないな」と納得してしまったという。
 
 
 
== 詳細情報 ==
 
=== 年度別打撃成績 ===
 
{|{{年度別打撃成績}}
 
|-
 
|style="text-align:center;"|{{by2|1977}}
 
|style="text-align:center;white-space:nowrap;"|[[ミネソタ・ツインズ|MIN]]
 
|9||19||19||0||2||0||0||0||2||0||0||0||0||0||0||0||0||5||0||.105||.105||.105||.211
 
|-
 
|style="text-align:center;"|{{by2|1978}}
 
|style="text-align:center;white-space:nowrap;"|[[カンザスシティ・ロイヤルズ|KC]]
 
|2||2||2||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||.000||.000||.000||.000
 
|-
 
|style="text-align:center;"|{{by2|1979}}
 
|style="text-align:center;white-space:nowrap;"|[[ワシントン・ナショナルズ|MON]]
 
|2||1||1||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||.000||.000||.000||.000
 
|-
 
|style="text-align:center;"|{{by2|1980}}
 
|rowspan="3" style="text-align:center;white-space:nowrap;"|[[サンディエゴ・パドレス|SD]]
 
|19||57||49||5||14||0||1||3||25||8||0||0||0||0||7||1||1||7||0||.286||.386||.510||.896
 
|-
 
|style="text-align:center;"|{{by2|1981}}
 
|69||201||176||13||37||4||1||4||55||20||0||1||3||1||20||1||1||28||7||.210||.293||.313||.605
 
|-
 
|rowspan="2" style="text-align:center;"|{{by2|1982}}
 
|13||34||30||1||6||0||0||1||9||8||0||0||0||1||2||0||1||4||0||.200||.265||.300||.565
 
|-
 
|rowspan="2" style="text-align:center;white-space:nowrap;"|[[テキサス・レンジャーズ|TEX]]
 
|16||52||48||5||10||2||0||1||15||6||0||0||0||2||1||0||1||7||1||.208||.231||.313||.543
 
|-style="background-color:#f2f2f2"
 
!style="text-align:center;"|'82計
 
|29||86||78||6||16||2||0||2||24||14||0||0||0||3||3||0||2||11||1||.205||.244||.308||.552
 
|-
 
|style="text-align:center;"|{{by2|1983}}
 
|rowspan="6" style="text-align:center;white-space:nowrap;"|[[阪神タイガース|阪神]]
 
|113||420||371||69||107||15||0||35||227||83||0||1||0||5||39||2||5||57||13||.288||.360||'''.612'''||.971
 
|-
 
|style="text-align:center;"|{{by2|1984}}
 
|104||407||356||57||116||16||0||27||213||73||1||0||0||4||38||3||9||64||8||.326||.400||'''.598'''||'''.999'''
 
|-
 
|style="text-align:center;"|{{by2|1985}}
 
|126||570||497||100||'''174'''||21||0||'''54'''||'''357'''||'''134'''||1||0||0||3||67||5||3||61||14||'''.350'''||'''.428'''||'''.718'''||'''1.146'''
 
|-
 
|style="text-align:center;"|{{by2|1986}}
 
|126||541||453||92||'''176'''||31||2||'''47'''||'''352'''||'''109'''||2||0||0||4||'''82'''||'''18'''||2||70||9||{{Color|red|'''.389'''}}||'''.481'''||'''.777'''||'''1.258'''
 
|-
 
|style="text-align:center;"|{{by2|1987}}
 
|123||518||453||60||145||15||2||37||275||79||1||0||0||1||60||13||4||70||8||.320||.403||.607||1.011
 
|-
 
|style="text-align:center;"|{{by2|1988}}
 
|22||94||78||9||25||2||0||2||33||8||0||0||0||3||13||0||0||15||5||.321||.404||.423||.827
 
|-
 
!colspan="2"|[[メジャーリーグベースボール|MLB]]:6年
 
|130||366||325||24||69||6||2||9||106||42||0||1||3||4||30||2||4||51||8||.212||.284||.326||.610
 
|-
 
!colspan="2"|[[日本プロ野球|NPB]]:6年
 
|614||2550||2208||387||743||100||4||202||1457||486||5||1||0||20||299||41||23||337||57||.337||.418||.660||1.078
 
|}
 
* 各年度の'''太字'''はリーグ最高
 
* {{Color|red|'''赤太字'''}}は日本プロ野球最高
 
 
 
=== タイトル ===
 
;NPB
 
* [[首位打者 (日本プロ野球)|首位打者]]:2回 (1985年、1986年)
 
* [[最多本塁打 (日本プロ野球)|本塁打王]]:2回 (1985年、1986年)
 
* [[最多打点 (日本プロ野球)|打点王]]:2回(1985年、1986年)
 
* [[最高出塁率 (日本プロ野球)|最高出塁率]]:2回(1985年、1986年)
 
* [[勝利打点|最多勝利打点]]:1回 (1985年)
 
* [[最多安打 (日本プロ野球)|最多安打]](当時連盟表彰なし):2回 (1985年、1986年)  ※1994年より表彰
 
 
 
=== 表彰 ===
 
;NPB
 
* [[最優秀選手 (日本プロ野球)|MVP]]:1回 (1985年)
 
* [[ベストナイン (日本プロ野球)|ベストナイン]]:3回 (1985年 - 1987年)
 
* [[日本選手権シリーズ|日本シリーズ]]MVP:1回 ([[1985年の日本シリーズ|1985年]])
 
* [[月間MVP (日本プロ野球)|月間MVP]]:2回 (1985年4月、1986年6月)
 
* [[日本プロスポーツ大賞]]:1回 (1985年)<ref>{{Cite web|url=http://www.jpsa.jp/award_history.html|title=歴代授賞者|work=日本プロスポーツ大賞|publisher=公益財団法人[[日本プロスポーツ協会]]|accessdate=2017-11-25}}</ref>
 
 
 
=== 記録 ===
 
; NPB初記録
 
*初出場:1983年4月16日、対[[読売ジャイアンツ]]2回戦([[阪神甲子園球場]])、8回表に[[一塁手]]として出場
 
*初先発出場:1983年4月24日、対[[中日ドラゴンズ]]2回戦([[ナゴヤ球場]])、3番・[[左翼手]]として先発出場
 
*初打点:同上、6回表に[[三沢淳]]から
 
*初安打:1983年5月4日、対読売ジャイアンツ5回戦([[後楽園球場]])、6回表に[[吉竹春樹]]の代打として出場、[[江川卓 (野球)|江川卓]]から適時打
 
*初本塁打:1983年5月7日、対[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]2回戦([[明治神宮野球場]])、6回表に[[梶間健一]]からソロ
 
; NPB節目の記録
 
*100本塁打:1985年8月24日、対ヤクルトスワローズ17回戦([[岡山県野球場]])、4回裏に[[荒木大輔]]からソロ ※史上142人目
 
*150本塁打:1986年8月19日、対[[横浜DeNAベイスターズ|横浜大洋ホエールズ]]19回戦([[横浜スタジアム]])、8回表に[[遠藤一彦]]から中越ソロ ※史上82人目
 
*200本塁打:1987年10月3日、対ヤクルトスワローズ25回戦(明治神宮野球場)、7回表に荒木大輔から2ラン ※史上54人目(外国人選手7人目)
 
; NPBその他の記録
 
* [[三冠 (野球)|三冠王]]:2回 (1985年、1986年)
 
* シーズン最高打率:.389(1986年)(日本記録)
 
* シーズン40本塁打到達スピード1位タイ: 97試合 (1985年)
 
* 25試合連続安打(1983年9月6日 - 1983年10月15日)
 
* 連続試合本塁打:7(1986年6月18日 - 1986年6月26日)(日本記録)
 
* 5試合連続本塁打(1985年4月17日 - 1985年4月22日)
 
* 連続打数本塁打:4(1986年5月31日 - 1986年6月1日)(日本タイ記録)
 
* 連続試合打点:13(1986年6月18日 - 1986年7月4日)(日本記録)
 
* シーズン最多勝利打点:22(1985年)(日本記録)
 
* 連続試合勝利打点:4(1985年10月9日 - 1985年10月14日)
 
* [[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]出場:3回 (1985年 - 1987年)
 
 
 
=== 背番号 ===
 
* '''2''' (1977年)
 
* '''7''' (1978年)
 
* '''41''' (1979年)
 
* '''5''' (1980年 - 1982年)
 
* '''35''' (1982年)
 
* '''44''' (1983年 - 1988年)
 
 
 
== 関連情報 ==
 
=== 書籍 ===
 
* ランディ・バース著 平尾圭吾訳 『バースの日記。』([[集英社]], 1990年)ISBN 4-08-749685-6
 
* 平尾圭吾著 『この一年バースが言いたかったこと: オレはオレのやり方でやった』([[徳間書店]], 1985年)ISBN 4-19-503172-9
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{Reflist|2}}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[メジャーリーグベースボールの選手一覧 B]]
 
* [[北米・欧州出身の日本プロ野球外国人選手一覧#アメリカ合衆国]]
 
* [[阪神タイガースの選手一覧]]
 
* [[カーネル・サンダース]] - 1985年リーグ優勝時、[[ケンタッキーフライドチキン]]道頓堀店(現在は閉店)に展示のカーネル像をバースに見立ててファンが胴上げし、道頓堀川に投げ込んだ。このカーネル像は2009年3月になるまで発見されず、後に'''[[カーネル・サンダースの呪い]]'''という都市伝説を生むことになる。
 
* [[シャノン・ヒギンス]]
 
* [http://www.nippori.co.jp/ 日ポリ化工](イメージキャラクターを務めている。キャッチフレーズは「バースのバス」)
 
* [[必殺仕事人V・旋風編]] - 主演の[[藤田まこと]]が当時ミュージカル出演のために髭を蓄えたまま出演しているシーンがあり、その回のサブタイトルが「'''主水バースになる'''」。
 
* [[プロポーズ大作戦 (テレビドラマ)]] - ヒロインから主人公に贈られた誕生日プレゼントがバースの[[フィギュア]]。ハッピー“バース”デーと掛けている。
 
* [[岡山一成]] - [[ベガルタ仙台]]におけるサポーターソングとしてバースの応援歌が使われている。おもちゃのバットを使ってコールを行う。
 
* [[ミスター・ルーキー]] - 阪神タイガースの投手を主人公にした映画。終盤で代打「ミスター・バース」として登場する。
 
* [[ハンマープライス]] - 草野球で一打席代打をしてもらえる権利が出品された。
 
* [[ナツメブラザーズ!]] - バースの名前にちなんだコーナーがある。
 
* [[インディアン]] - 血をひいている。
 
 
 
== 外部リンク ==
 
{{MLBstats |mlb= 110661 |espn= 16 | br= b/bassra01 | fangraphs= 1000648 | cube= Randy-Bass |brm= bass--002ran}}
 
{{NPB|61063867|バース}}
 
* [http://www.oksenate.gov/Senators/biographies/bass_bio.html Senator Randy Bass - District 32(英語)]([http://www.oksenate.gov/index.htm The Oklahoma State Senate] より)
 
 
 
{{Navboxes|title= 業績
 
|list1=
 
</span>
 
{{日本プロスポーツ大賞}}
 
{{日本プロ野球打撃三冠達成者}}
 
{{日本シリーズMVP}}
 
{{セントラル・リーグMVP}}
 
{{セントラル・リーグ首位打者}}
 
{{セントラル・リーグ本塁打王}}
 
{{セントラル・リーグ打点王}}
 
{{セントラル・リーグ最高出塁率}}
 
{{セントラル・リーグ最多勝利打点}}
 
{{セントラル・リーグ ベストナイン (一塁手)}}
 
{{報知プロスポーツ大賞受賞者-セ・リーグ}}
 
}}
 
  
 +
{{テンプレート:20180815sk}}
 
{{デフォルトソート:はあす らんてい}}
 
{{デフォルトソート:はあす らんてい}}
 
[[Category:アメリカ合衆国の野球選手]]
 
[[Category:アメリカ合衆国の野球選手]]

2019/4/28/ (日) 23:38時点における最新版

ランディ・ウイリアム・バスRandy William Bass, 1954年3月13日 - )

アメリカ合衆国のプロ野球選手。大リーグのミネソタ・ツインズ,カンザスシティー・ロイヤルズ,サンディエゴ・パドレスなどに在籍したのち,1983年日本のプロ野球球団阪神タイガースに入団。3年目の 1985年に打率3割5分0厘,54本塁打,134打点で三冠王とセントラルリーグ最優秀選手 MVPを獲得。この活躍で阪神は 21年ぶりにリーグ優勝を果たし,日本シリーズも制覇した。 1986年も日本記録となる打率3割8分9厘で首位打者に輝くなど,2年連続で三冠王となった。

1988年シーズン途中で子供の難病治療のため帰国,そのまま退団した。



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