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{{混同|マルタ会談}}
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[[ファイル:ヤルタ会談の 3首脳.左からイギリスのチャーチル首相,アメリカのルーズベルト大統領,ソビエトのスターリン首相(1945.2.).jpg|サムネイル]]
[[ファイル:Yalta summit 1945 with Churchill, Roosevelt, Stalin.jpg|320px|thumb|[[リヴァディア宮殿]]で会談に臨む(前列左から)[[ウィンストン・チャーチル|チャーチル]]、[[フランクリン・ルーズベルト|ルーズベルト]]、[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]]]
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'''ヤルタ会談'''(ヤルタかいだん、{{lang-en-short|Yalta Conference}}
'''ヤルタ会談'''(ヤルタかいだん、{{lang-en-short|Yalta Conference}})は、[[1945年]][[2月4日]]から[[2月11日|11日]]にかけて、当時の[[ソビエト連邦|ソ連]][[クリミア自治ソビエト社会主義共和国]]の[[ヤルタ]]近郊の[[リヴァディア宮殿]]で行われた、[[アメリカ合衆国]]・[[イギリス]]・[[ソビエト連邦]]による首脳会談である。
 
  
[[第二次世界大戦]]が終盤に入る中、[[ソ連対日参戦]]、[[国際連合]]の設立について協議されたほか、[[ドイツ]]および中部・東部ヨーロッパにおける米ソの利害を調整することで、大戦後の[[国際レジーム]]を規定し、東西[[冷戦]]の端緒ともなった('''ヤルタ体制''')。
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1945年2月4~11日,クリミア半島のヤルタで行われたアメリカの F.ルーズベルト大統領,イギリスの W.チャーチル首相,ソ連の I.スターリン首相の会議。クリミア会議とも呼ばれる。これが連合国3巨頭の最後の会談となった (ルーズベルトは 1945年4月に死去)。同会談では戦後のドイツ処理問題や東欧問題などの第2次世界大戦の戦後処理,国際連合の創設やソ連の対日参戦などについて話し合われ,10をこえる各種の協定 (秘密協定を含む) が結ばれた。この会談はそれまでに開かれた[[カイロ会談]]などの延長線上に位置する会談であり,戦後の国際秩序の枠組みと基礎を確立した重要な会談であった。このため第2次世界大戦後の国際秩序を[[ヤルタ体制]]と呼ぶようになった。またソ連の対日参戦を取決めた秘密協定は,千島列島のソ連への帰属を明記したことから,戦後,北方領土問題との関連で,この協定の法的効力をめぐって日ソ間の論争の的となったが,ソ連解体後この問題は日本とロシアの交渉に引継がれている。
  
== 概要 ==
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{{テンプレート:20180815sk}}  
{{German borders}} {{Borders of Poland}}
 
{{Seealso|第二次世界大戦の会談・会議|ダンバートン・オークス会議|サンフランシスコ会議}}
 
1945年1月に[[ポーランド]]を占領した[[ソビエト連邦軍|ソ連軍]]([[赤軍]])がドイツ国境付近に達しつつあり、西部戦線においてはアメリカ・イギリス等の連合軍が[[ライン川]]に迫る情勢のもと、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]の主要3カ国首脳の会談が行われた。会談の結果、第二次世界大戦後の処理について[[ヤルタ協定]]を結び、イギリス・アメリカ・[[フランス]]・ソ連の4カ国による[[ナチス・ドイツ|ドイツ]]の分割統治、[[ポーランド]]の国境策定、[[エストニア]]・[[ラトビア]]・[[リトアニア]]の[[バルト三国]]の処遇などの[[東ヨーロッパ|東欧]]諸国の戦後処理が取り決められた。
 
 
 
併せて、アメリカとソ連の間でヤルタ秘密協定を締結し、ドイツ敗戦後90日後の[[ソ連対日参戦]]、および[[千島列島]]・[[樺太]]・[[朝鮮半島]]・[[台湾]]などの[[大日本帝国]]領土の処遇も決定し、[[2018年]]現在も続く[[北方領土問題]]の端緒となった。
 
 
 
また、戦後の発足が議論されていた[[国際連合]]の投票方式について、イギリス・アメリカ・フランス・[[中華民国]]・ソ連の5カ国(後の国際連合[[常任理事国]]メンバー)の[[拒否権]]を認めたのもこの会談であった。
 
 
 
会談が行われた[[クリミア半島]]は、当時はソ連構成国であるロシア共和国の領土であり(1954年にソ連構成国であるウクライナ共和国の領土となった上で[[ソ連崩壊]]後[[ウクライナ]]領となるが、[[2014年クリミア危機]]を経て[[ロシアによるクリミア・セヴァストポリの編入|ロシアが編入宣言]])、ヤルタはクリミア半島の南端、[[黒海]]を臨むソ連随一のリゾート地であった。会場となった[[リヴァディア宮殿]]は、ロシア皇帝[[ニコライ2世]]の別荘(離宮)として建造されたものである。
 
 
 
なお、この会議に先立つ同年1月30日から2月3日にかけ、ルーズベルト大統領とチャーチル首相は[[マルタ島]]において会談を行っている([[マルタ会談 (1945年)]])。
 
 
 
== ポーランド問題 ==
 
ヤルタ会談の半分以上の日程は、この[[ポーランド]]問題について話し合われた。
 
 
 
[[1939年]]、ドイツとソ連はともにポーランドに侵攻し、西半分及び東半分をそれぞれ分割占領したが、[[1941年]]、ドイツは[[独ソ不可侵条約]]を破りポーランド東部に侵攻、全域を[[占領]]するに至った。その後ソ連は再び東半分をドイツから奪還し、[[1944年]]、[[ルブリン]]において[[ポーランド国民解放委員会]](後のルブリン共産党政権)を樹立した。
 
 
 
同年7月から8月にかけてソ連軍は首都[[ワルシャワ]]に迫り、その際[[国内軍_(ポーランド)|国内軍]](ポーランド国民による反[[ナチス・ドイツ|ナチス]]抵抗組織)に対し[[ロシアの声|モスクワ放送]]を通じて蜂起を呼びかけた。国内軍はこれに呼応して蜂起し([[ワルシャワ蜂起]])、ワルシャワを占領するが、ソ連軍は進軍を停止してこれを支援せず、結局ドイツ軍により蜂起は鎮圧された。このときアメリカとイギリスは、ソ連に国内軍への支援を要求したが、スターリンはこれを無視した。この戦闘で、ワルシャワ市内の8割の建物が破壊され、15万人以上の死者が出たといわれる。
 
 
 
当時[[ロンドン]]には[[ポーランド亡命政府]]が存在し、イギリスはこれをポーランドの正式な政権として承認していたが、[[1943年]]にソ連軍に連行されたポーランド人捕虜の大量虐殺事件([[カティンの森事件]])が発覚し、[[赤十字国際委員会]]に調査を依頼すると、亡命政権とソ連は関係を断絶した。ソ連はポーランド国民解放委員会(ルブリン共産党政権)こそ「ポーランドの正式な政権だ」と各国に認めさせるため、彼らによる国内統治の障害となる恐れがあった国内軍を意図的に壊滅させたとみられる。
 
 
 
ヤルタ会談では、この両政権のどちらが正式な政権であるかを巡って、イギリスとソ連が対立した。ソ連にとって、ポーランドは自国の安全保障上の重要地域であり、一方イギリスにとっては、[[社会主義]]の拡大への懸念から、[[ポーランド統一労働者党|共産党政権]]を認めることはできなかった。会談では結局アメリカの仲介により、ポーランドにおいて総選挙を実施し、国民自身で政権を選ぶこと、またポーランドの[[国境]]と場所自体を、西へ移動させることで決着した。
 
 
 
ところが、スターリンは帰国したロンドン亡命政権の指導者を逮捕し、ルブリン共産党政権によるポーランドの社会主義国化が決定的となった。後のアメリカ大統領、[[ハリー・S・トルーマン|トルーマン]]はこれを知って激怒し、米ソの対立が深まった。
 
 
 
== ドイツ問題 ==
 
[[ナチス・ドイツ]]は、現在の[[オーデル・ナイセ線]]以東にある、[[シレジア]]・[[ポメラニア]]・[[東プロイセン]]の領土をすべて失い、これらの領土は[[ポーランド]]領となることが決定された(東プロイセンの北半分についてはソ連領)。これは当時ドイツ国土の4分の1に当たり、ドイツにとっては[[プロイセン王国|プロイセン]]の故地である、東プロイセンを含めた広大な領土を失うこととなり、きわめて喪失感の大きい内容となった。
 
 
 
なお、ポーランドについては、ドイツの東部領土を自領とする代わり、従来の東部領土をソ連に割譲することが決定された。この結果、ポーランドの国土は従来と比べ大きく[[西]]へずれ、若干の領土縮小につながった。また、[[ガリツィア]]等旧東部領に居住するポーランド人は、そのままソ連領へ編入される結果となった。
 
 
 
一方、戦後のドイツの処遇について、首都[[ベルリン]]も含め、ドイツを[[東側諸国|東側陣営]](ソビエト社会主義共和国連邦)と[[西側諸国|西側陣営]](イギリス・フランス・アメリカ合衆国)で共同管理することが決められた。
 
 
 
== 極東密約(ヤルタ協定) ==
 
主に[[大日本帝国]](日本)に関して、[[1945年]][[2月8日]]に[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[フランクリン・ルーズベルト|ルーズベルト]]、ソ連の[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]で秘密会談を行い、その後イギリスの[[ウィンストン・チャーチル|チャーチル]]との間で交わされた秘密協定。1944年12月14日に、スターリンはアメリカの駐ソ大使[[W・アヴェレル・ハリマン]]に対して、[[満州国]]の権益([[南満州鉄道]]や港)、[[樺太]](サハリン)南部や[[千島列島]]などの領有を要求しており<ref>[[長谷川毅]]『暗闘 スターリン、トルーマンと日本降伏』(上)[[中公文庫]]、2011年、p64 - 65</ref>、ルーズベルトは[[太平洋戦争]]の[[日本の降伏]]にソ連の協力が欠かせないため、1945年2月8日にこれらの要求に応じる形で、[[日ソ中立条約]]の一方的破棄、すなわち[[ソ連対日参戦]]を促した。
 
 
 
ヤルタ会談では、これが秘密協定としてまとめられた<ref>{{PDFlink|[http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/hoppo/1992.pdf 日露間領土問題の歴史に関する共同作成資料集]}}(日本国外務省・ロシア連邦外務省編、1992年)
 
*23ページ目「ヤルタ会議における米ソ首脳発言(1945年)」
 
*24ページ目「ヤルタ協定」</ref>。この協定では、ソ連の強い影響下にあった[[外モンゴル]]([[モンゴル人民共和国]])の現状を維持すること、樺太(サハリン)南部をソ連に返還すること、千島列島をソ連に引き渡すこと<ref>樺太と千島の表現の違いは協定原文通り(上記外務省資料を参照)。</ref>、[[満州国]]の港湾と[[南満州鉄道]]における、ソ連の権益を確保することなどを条件に、ドイツ降伏後2ヶ月または3ヶ月を経て、ソ連が対日参戦することが取り決められた。
 
 
 
アメリカからソ連に対する対日参戦要請は早く、日米開戦翌日(アメリカ時間)の1941年12月8日にソ連の駐米大使[[マクシム・リトヴィノフ]]にルーズベルト大統領と[[コーデル・ハル|ハル]]国務長官から出されている<ref name="hasegawap39">『暗闘』(上)p39 - 40</ref>。このときはソ連の[[ヴャチェスラフ・モロトフ|モロトフ]]外相からリトヴィノフに独ソ戦への集中と日ソ中立条約の制約から不可能と回答するよう訓令が送られた<ref name="hasegawap39"/>。
 
 
 
しかしその10日後には、スターリンはイギリスの[[アンソニー・イーデン|イーデン]]外相に対し、将来日本に対する戦争に参加するであろうと表明した<ref name="hasegawap39"/>。スターリンが、具体的な時期を明らかにして対日参戦の意思を示したのは、1943年10月のモスクワでの連合国外相会談の際で、ハル国務長官に対して「連合国のドイツへの勝利後に対日戦争に参加する」と述べたことを、ハルやスターリンの通訳が証言している<ref>『暗闘』(上)p47(注釈として『ハル回顧録』とNHKによる『これがソ連の対日外交だ 秘録・北方領土交渉』(日本放送出版協会、1995年)が挙げられている)</ref><ref>ベレズホフ『私は、スターリンの通訳だった』p293</ref>。ヤルタ協定はこうした積み重ねの上に結ばれたものだった<ref>なお、枢軸側でもドイツから日本に対し対ソ開戦の要請が来ていたが、日本側はその時期ではないと拒否していた(『暗闘』(上)p41)。</ref>。
 
 
 
ドイツが無条件降伏した、1945年5月8日([[ヨーロッパ戦勝記念日]])の約3ヵ月後の[[8月9日]]、[[ヨセフ・スターリン|スターリン]]は[[ヤルタ]]での協定に従って、ソ連は[[大日本帝国]]に[[宣戦布告]]し、[[満州国]]に侵入、[[千島列島]]と[[樺太]]を占領した。しかし、[[ソ連対日参戦]]の翌日(1945年[[8月10日]])に、大日本帝国が「[[ポツダム宣言]]受諾」を[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]に通告したため、戦争末期([[9月2日]]の[[日本の降伏文書]]調印まで)の極めて短期間の間に、ソ連の戦果に対して大日本帝国の領土を与えるという、結果としてソ連に有利な内容になった。
 
 
 
[[1946年]][[2月11日]]に極東密約(ヤルタ協定)が公開された。
 
 
 
なお[[1956年]]に、共和党[[ドワイト・D・アイゼンハワー|アイゼンハワー]]政権は「(ソ連による[[北方地域|北方領土]]占有を含む)ヤルタ協定はルーズベルト個人の文書であり、[[アメリカ合衆国連邦政府]]の公式文書ではなく無効である」との[[アメリカ合衆国国務省]]が公式声明を発出している。また、[[アメリカ合衆国上院]]は、1951年の[[サンフランシスコ講和条約]]批准を承認する際、決議において「この承認は、合衆国としてヤルタ協定に含まれている、ソ連に有利な規定の承認を意味しない」との宣言を行っている<ref>北方領土問題の経緯【第4版】{{PDFlink|[http://www.ndl.go.jp/jp/data/publication/issue/pdf/0697.pdf]}}P.4(国立国会図書館、2011. 2. 3.)</ref>。
 
 
 
=== 台湾と朝鮮半島について ===
 
[[台湾]]について、米ソ両国は[[カイロ会談]]で決定していた[[中華民国]]への返還を改めて確認した。また[[朝鮮半島]]は、当面の間連合国の[[信託統治]]とすることとし、[[第二次世界大戦]]後になって[[北緯38度線]]を境に暫定的に南側をアメリカ、北側をソ連へと分割占領にする事と決定した。しかし、米ソの対立が深刻になると、その[[代理戦争]]が[[朝鮮戦争]]となって勃発し、朝鮮半島は[[2018年]]に至る現在も、[[38度線]]を境に分断されている。
 
 
 
=== 日本側の停戦工作への影響 ===
 
1945年1月6日、[[アメリカ軍]]の動きを懸念した[[昭和天皇]]が[[重臣会議|重臣]]の意見を求めたため、[[内大臣府#歴代内大臣|内大臣]][[木戸幸一]]と[[宮内大臣]][[松平恒雄]]が協議して、木戸が拝謁準備を行い<ref>{{Cite book |和書 |last= |first= |author= [[藤田尚徳]]|authorlink= |coauthors= |year=1987 |title=侍従長の回想  |publisher=[[中央公論社]] |page= |id= |isbn= 4122014239|quote= }}</ref>、2月になって[[平沼騏一郎]]、[[広田弘毅]]、[[近衛文麿]]、[[若槻禮次郎]]、[[牧野伸顕]]、[[岡田啓介]]、[[東條英機]]が順次に拝謁して意見を述べた<ref>[[木戸幸一]]『木戸幸一日記』上巻、木戸日記研究会校訂、東京大学出版会、1966年。ISBN {{ISBN|9784130300117}}。{{Cite book|和書
 
|author=岡義武
 
|authorlink=岡義武
 
|year=1966
 
|title=解題
 
|pages=上巻三一頁
 
}}</ref>。そのうち[[ヨハンセングループ]]の[[吉田茂]]が支持した[[近衛上奏文]]は連合国との和平調停に向けた人事異動を推奨するものであったが、予定されていたこれら重臣全員の拝謁が終わったのは2月26日だった。
 
 
 
7月には近衛文麿が[[モスクワ]]に派遣され、ソ連に対し連合国との和平調停の仲介を求めたものの既にヤルタ協定が行われていたため仲介を拒絶された、と言われている<ref>NHK取材班『太平洋戦争 日本の敗因6 外交なき戦争の終末』角川書店《角川文庫》、1995年、p225(「[[ドキュメント太平洋戦争]]」の書籍化)。</ref><ref name="nhkp226">『太平洋戦争日本の敗因6 外交なき戦争の終末』pp.226 - 228。</ref>。
 
 
 
== 会談の意義 ==
 
本会談の意義については、アメリカ、イギリス、ソ連といった戦勝国による、第二次世界大戦後における[[世界]]の[[国際レジーム]]枠組みに関する「利害調整の場」であったとする指摘が多い。中でも、領土に関する様々な取決めについては、当事国抜きで行われたにもかかわらず、中・東欧の政治体制、外交問題等、戦後世界に非常に広範で多岐に渡る影響を及ぼしている。
 
 
 
この会談以後の戦後体制をしばしば'''ヤルタ体制'''と呼び、この会談以降、アメリカを中心とする[[資本主義]]国陣営と、ソ連を中心とする[[共産主義]]国陣営の間で本格的な東西[[冷戦]]が開始されたと言われている。[[J・ウィリアム・フルブライト|フルブライト]]は「1945年2月の米英ソのヤルタでの誓いは1947年3月12日の[[トルーマン・ドクトリン|トルーマン宣言]]で崩壊し、これが[[イデオロギー]]の戦争としての冷戦の始まりであった」<ref>The Crippled Giant:The Truman in Europe and the World(New York,Random House.1972 pp.17&18)。直接の引用は「東西冷戦における米ソコミュニケーションとレトリック」堅田義明(NUCB journal of economics and information science2003-07-01)[http://nucba.sampleple.net/themes/s_cic@cic@nucba/pdf/njeis481/03KATADA.pdf][http://ci.nii.ac.jp/naid/110001037565]PDF-P.12</ref>と述べている。
 
 
 
== 関連文献・映像 ==
 
*アルチュール・コント 『ヤルタ会談 世界の分割 戦後体制を決めた8日間の記録』、[[山口俊章]]訳、[[二玄社]](新版)、2009年。旧版は[[サイマル出版会]]
 
*[[倉田保雄]] 『ヤルタ会談 戦後米ソ関係の舞台裏』、[[筑摩書房]]〈ちくまライブラリー〉、1988年
 
*スーザン・バトラー『ローズヴェルトとスターリン テヘラン・ヤルタ会談と戦後構想』、松本幸重訳、[[白水社]](上下)、2017年
 
* [[NHKスペシャル]] 『[[映像の世紀]] 第7集 勝者の世界分割』、[[日本放送協会]]、1995年10月放送。新版DVD、NHKエンタープライズ、2016年1月
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
* ワレンチン・M・ベレズホフ『私は、スターリンの通訳だった。<small>第二次世界大戦秘話</small>』栗山洋児訳(同朋舎出版、1995年)266-304頁<br /> スターリン通訳から見たヤルタ会談。
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[第二次世界大戦の会談・会議|第二次世界大戦中の連合国による主な首脳会談]]
 
** [[大西洋会談]](1941年8月9日 - 12日)
 
** [[カサブランカ会談]](1943年1月14日 - 23日)
 
** [[カイロ会談]](1943年11月22日 - 26日)
 
** [[テヘラン会談]](1943年11月28日 - 12月1日)
 
** [[ポツダム会談]](1945年7月17日 - 8月2日)
 
* [[エルベの誓い]]
 
* [[小野寺信]]
 
* [[マルタ会談]] - [[1989年]]12月、東西冷戦を終結させた米ソ首脳会談。「ヤルタからマルタへ("From Yalta to Malta")」といわれた。
 
 
 
== 外部リンク ==
 
{{Commonscat}}
 
* [http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/docs/19450211.T1J.html ヤルタ協定] - 東京大学東洋文化研究所 田中明彦研究室
 
 
 
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[[Category:20世紀の世界史]]
 
[[Category:20世紀の世界史]]

2019/6/27/ (木) 15:46時点における最新版

ヤルタ会談の 3首脳.左からイギリスのチャーチル首相,アメリカのルーズベルト大統領,ソビエトのスターリン首相(1945.2.).jpg

ヤルタ会談(ヤルタかいだん、: Yalta Conference

1945年2月4~11日,クリミア半島のヤルタで行われたアメリカの F.ルーズベルト大統領,イギリスの W.チャーチル首相,ソ連の I.スターリン首相の会議。クリミア会議とも呼ばれる。これが連合国3巨頭の最後の会談となった (ルーズベルトは 1945年4月に死去)。同会談では戦後のドイツ処理問題や東欧問題などの第2次世界大戦の戦後処理,国際連合の創設やソ連の対日参戦などについて話し合われ,10をこえる各種の協定 (秘密協定を含む) が結ばれた。この会談はそれまでに開かれたカイロ会談などの延長線上に位置する会談であり,戦後の国際秩序の枠組みと基礎を確立した重要な会談であった。このため第2次世界大戦後の国際秩序をヤルタ体制と呼ぶようになった。またソ連の対日参戦を取決めた秘密協定は,千島列島のソ連への帰属を明記したことから,戦後,北方領土問題との関連で,この協定の法的効力をめぐって日ソ間の論争の的となったが,ソ連解体後この問題は日本とロシアの交渉に引継がれている。



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