マムルーク朝

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(マムルークちょう、دولة المماليك Dawla al-Mamālīk)

エジプト,シリア,ヒジャーズを支配したイスラム王朝 (1250~1517) 。首都はカイロ。創始者はアイユーブ朝のスルタン,サーリフの寡婦で宮廷女奴隷の出身であるシャジャル・アッドッルとその夫でマムルーク出身の軍司令官イッズ・ウッディーン・アイバク。王朝はバフリ・マムルーク朝 (1250~1390) とブルジ・マムルーク朝 (1382~1517) の2期に分れ,前期はナイル川 (バフル) 中のローダ島に兵舎があったバフリ・マムルーク軍が中心であり,後期はカイロの城塞(ブルジ) に拠ったブルジ・マムルーク軍のなかから歴代のスルタンが選出された。王朝の基礎を築いたのは第4代スルタン,バイバルス (在位 1260~77) であり,サラディンのあとをうけて,対十字軍戦争を積極的に遂行すると同時に国内秩序の再編成にも力を注ぎ,交通,通信網の整備や軍事力の増強をはかり,1260年にはアッバース家をカリフとしてカイロに擁立することにより,イスラム世界に対するマムルーク朝の宗主権を確立した。これ以後,スルタン,カラーウーンの時代(在位 80~90) を経て,ナーシル (在位 1309~40) の治世末にいたる頃までが経済的にも文化的にも帝国の最盛期であった。ブルジ・マムルーク朝時代に入るとマムルーク軍団内部の勢力争いが激しくなり,さらにペストの流行による農村人口の減少,海外貿易の衰退などが重なったためにイクター制を基礎とする中央集権的なマムルーク体制にも破綻が生じた。カーイト・ベイ (在位 1468~96) の時代に一時的な復興の兆しはみえたものの,国家体制を根本的に建直すことはできず,1517年セリム1世に率いられたオスマン帝国軍に敗れて王朝は滅びた。