ベーメン・メーレン保護領

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ベーメン・メーレン保護領ボヘミア・モラヴィア保護領: Reichsprotektorat Böhmen und Mährenチェコ語: Protektorát Čechy a Morava)は、ナチス・ドイツボヘミアモラヴィアの主要部分に設置したチェコ人の保護領。ドイツ軍によるチェコスロバキア占領の後、プラハ城におけるアドルフ・ヒトラーの布告により、1939年3月15日に設置。

成立

ドイツとオーストリアに隣接したチェコスロバキアの国境沿いの地方であるズデーテンラントはドイツ系住民が多く、ドイツによる領土要求の結果、1938年9月30日に行われたミュンヘン会談によってドイツへの割譲が決まった。ミュンヘン会談ではハンガリー王国ポーランドへの係争地域の割譲も求められたため、チェコスロバキア国内の民族運動は激化した。

5ヵ月後、チェコスロバキア東部のスロバキアカルパティア・ルテニアが独立を宣言し、スロバキア共和国カルパト・ウクライナ共和国が成立した。陰でスロバキアの独立運動をあおったヒトラーは、チェコスロバキアの大統領エミール・ハーハベルリン総統官邸に呼び、チェコをドイツの保護下に置かねば軍事侵攻すると脅迫した。ハーハは発作を起こして卒倒したが強心剤によって蘇生し、ドイツへの併合受諾文にサインせざるを得なかった。

政治

法律的には、ボヘミアとモラヴィアはドイツの保護下に入ると宣言され、総督コンスタンティン・フォン・ノイラートの保護下に置かれた。エミール・ハーハは大統領の役職名で国家の法律上のトップとして残ったが、次第に実権を奪われ、ついには飾り物に過ぎなくなった。ドイツに従う少数の役人が個々の省庁に雇用されると同時に、ドイツの役人が各省庁のトップに座って行政を行った。ゲシュタポは警察権力を掌握した。ユダヤ人は市民サービスから外され、法律の適用外とされた。政党活動は禁止され、多数の共産党幹部がソビエト連邦に逃亡した。

経済

保護領の住民は労働者として動員され、ドイツの戦争準備を助けるための特別な省庁が組織された。一般消費財の生産は制限され、戦争準備に大きく関係する工業の運営が強化された。チェコ人労働者は炭鉱、鉱山、製鉄所、軍需工場に動員された。一部の若者はドイツに送られ、ドイツの軍備生産の補充に大きく向けられた。また保護領においては配給制度が行われ、人々の生活は圧迫された。

歴史

ファイル:Lesser arms of Bohemia and Moravia (1939-1945).svg
小型のベーメン・メーレン保護領の紋章

占領後の最初の数ヶ月、ドイツの統治は穏やかであった。チェコの政府と政治システムはハーハにより再組織化され、通常の生活を続けることができた。ゲシュタポの活動は、主にチェコの政治家と知識階級に向いていた。しかし1939年10月28日、反ナチスのチェコ人はチェコスロバキアの独立記念の祭典を行い、占領に対しての示威行動とした。当局の弾圧により負傷者が出たが、負傷者の一人医学生ヤン・オプレタル11月11日に死亡した。その死は学生の間に衝撃を呼び、11月15日にプラハで行われた彼の葬儀は学生による大規模な抗議デモになり、ドイツ当局との衝突に発展した。

おおよそ1800人の生徒と教師、一部の政治家も逮捕された。11月17日、保護領の全ての大学と短期大学は閉鎖され、9人の学生のリーダーが処刑され、数百人がドイツの強制収容所に移送された。

ハイドリヒの統治

1941年の秋、ドイツは保護領に急進的な政策を採用した。SSの最高幹部で国家保安本部長官・ラインハルト・ハイドリヒが保護領副総督に任命され、保護領の実権を掌握した。彼の権力の下で、チェコの政府は再編成され、首相アロイス・エリアーシさえも逮捕された(エリアーシはハイドリヒ暗殺後にヒトラーの命令によって処刑された)。また、チェコの文化施設は閉鎖された。さらにゲシュタポは恣意的な逮捕と処刑を行った。ユダヤ人の強制収容所への追放は組織化され、テレジーンの森に囲まれたテレージエンシュタットは、ユダヤ人の家族にとって絶滅収容所への中間駅となった。その一方で労働者階級の懐柔策をとり、食糧配給と年金支給額を増加させ、チェコで初めての雇用保険を創出させた。こうした中で1942年6月4日にハイドリヒ暗殺計画エンスラポイド作戦が実行され、ハイドリヒは負傷によって死亡した。ハイドリヒの後継者、クルト・ダリューゲ親衛隊上級大将は抗独レジスタンスの大量逮捕と処刑と、暗殺者をかくまったリディツェレジャーキの村民虐殺を命じ、地図上から抹消した。

戦争後期

1943年8月、ドイツによるチェコへの統制はさらに強化された。ナチス党の古参幹部であるヴィルヘルム・フリック(ドイツ前内務大臣)が総督となり、またヒトラー内閣にベーメン・メーレン保護領担当国務相が設置され、カール・ヘルマン・フランクが就任した。約3万人のチェコ人の労働者が不足する労働力の補充のため、ドイツに送られた。保護領における戦争に関係ない産業は禁止された。何千人かのチェコ人が抵抗活動に参加したが、ほとんどのチェコ人は戦争終了前の最後の数ヶ月まで大人しく従っていた。保護領のチェコ人にとって、ドイツの占領は酷い圧政の期間であり、独立と民主主義の記憶において非常な苦痛を伴った期間だった。

政治的迫害によって、あるいは強制収容所内で死亡したチェコ人は、合計で3万6千人から5万5千人に上った。ボヘミアとモラヴィアのユダヤ人はドイツ語を喋っており、1930年の国勢調査の時点で11万8千人いたが、1945年にはほとんどいなくなった。1939年以降、大量のユダヤ人が移送され、7万人以上が殺害されたが、テレジーンに約8千人が生き残った。何千人ものユダヤ人が国外に逃れるか、隠れることによりどうにか自由を手に入れた。

1945年の戦争末期まで保護領内の大部分は直接戦場となることはなかったが、ドイツ軍の占領下に置かれ続けた。ソ連軍が間近に迫る中でのチェコ人パルチザンの蜂起、ソ連とのプラハの戦い、5月8日のドイツ降伏により、ベーメン・メーレン保護領は消滅した。

保護領政府高官の戦後処理

  • 保護領担当国務相フランクは1945年5月9日にアメリカ軍に投降、その身柄はチェコスロヴァキアへ引き渡されて同国の法廷で死刑判決を受け、1946年5月22日に処刑された。
  • 保護領総督フリックは1945年5月4日に連合軍に逮捕され、ニュルンベルク裁判で死刑判決を受け、1946年10月16日に処刑された。
  • 元保護領副総督ダリューゲは副総督退任後は病気療養をしていたが、1945年5月にイギリス軍により逮捕され、その身柄はチェコスロヴァキアへ引き渡されて同国の法廷で死刑判決を受け、同年10月24日に処刑された。
  • 保護領大統領ハーハは1945年5月13日に逮捕され、パンクラーツ刑務所English版に収監されたが、健康状態が悪化しており、6月26日に刑務所内の病院で病死した[1]

脚注

  1. Snyder "Hácha, Emil" Encyclopedia of the Third Reich p. 134

参考文献

関連項目

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