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{{基礎情報 君主
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[[ファイル:ヘンリー7世(作者不詳,1505,ロンドン国立肖像画美術館).jpg|サムネイル]]
| 人名      = ヘンリー7世
 
| 各国語表記 = Henry VII
 
| 君主号    = [[イングランド王国|イングランド]]王
 
| 画像      = Henry Seven England.jpg
 
| 画像説明  =テューダー家の薔薇を持つヘンリー7世、1505年
 
| 画像サイズ = 200px
 
| 在位      = [[1485年]][[8月22日]] - [[1509年]][[4月21日]]
 
| 戴冠日    = 1485年[[10月30日]]
 
| 別号      = [[アイルランド卿]]
 
| 継承者    = [[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]
 
| 継承形式  = 王太子
 
| 全名      =
 
| 出生日    = [[1457年]][[1月28日]]
 
| 生地      = {{ENG927}} [[ウェールズ]]、{{仮リンク|ペンブローク宮殿|en|Pembroke Castle}}
 
| 死亡日    = {{死亡年月日と没年齢|1457|1|28|1509|4|21}}
 
| 没地      = {{ENG927}} [[ロンドン]]、{{仮リンク|リッチモンド宮殿|en|Richmond Palace}}
 
| 埋葬日 =1509年
 
| 埋葬地    = [[ウェストミンスター寺院]]
 
| 配偶者1    = [[エリザベス・オブ・ヨーク]]
 
| 子女      = [[アーサー・テューダー|アーサー]]<br/>[[マーガレット・テューダー|マーガレット]]<br/>ヘンリー8世<br/>[[メアリー・テューダー (フランス王妃)|メアリー]]
 
| 王家      = [[テューダー家]]
 
| 王朝      = [[テューダー朝]]
 
| 王室歌    =
 
| 父親      = リッチモンド伯[[エドマンド・テューダー (リッチモンド伯)|エドマンド・テューダー]]
 
| 母親      = [[マーガレット・ボーフォート]]
 
| サイン      = Henry VII Signature.svg
 
}}
 
  
'''ヘンリー7世'''('''Henry VII''', [[1457年]][[1月28日]] - [[1509年]][[4月21日]])は、[[テューダー朝]]初代の[[イングランド王国|イングランド]]王(在位:[[1485年]][[8月22日]] - [[1509年]][[4月21日]])および[[アイルランド卿]]。[[ボズワースの戦い]]で[[リチャード3世 (イングランド王)|リチャード3世]]を破って王位を勝ち取り、戦いで王座を得た最後のイングランド王となった。
+
'''ヘンリー7世'''('''Henry VII''', [[1457年]][[1月28日]] - [[1509年]][[4月21日]]
  
[[ランカスター朝]]の系統のヘンリー7世は、[[ヨーク朝]][[エドワード4世 (イングランド王)|エドワード4世]]の娘にしてリチャード3世の姪にあたる[[エリザベス・オブ・ヨーク]]と結婚して王位を固め、[[薔薇戦争]]による混乱を解決した。[[テューダー朝]]を創立して24年間王位に座り、平和裏に息子[[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]に王位を継承した。君主の権力を回復し、政治を安定させ、優れた統治、積極的な外交政策と経済運営を行った。一方で、富裕層に対しては不当な手続きによって財産罰を濫発した。
+
イギリス,[[チューダー朝]]初代のイングランド王(在位 1485~1509)。父はリッチモンド伯エドマンド・チューダー,母はマーガレット・ボーフォート。1471年以後叔父ジャスパーとともにブルターニュに亡命。1485年8月帰国し,ランカスター家の長として国王[[リチャード3世]][[ボズワースの戦い]]で敗死させ,1485年10月戴冠。ヨーク家のエドワード4世の長女[[エリザベス]]と結婚し,[[バラ戦争]]に終止符を打った。治世の初期にはヨーク派の残党や[[ランバート・シムネル]][[パーキン・ウォーベック]]らの陰謀に悩まされたが,これらを抑えた。外交面では政略結婚で平和の維持に努め,内政面では旧貴族の勢力を減じる官僚制度の整備,国事犯の取り締まり強化策としての[[星室裁判所]]の設置,増税,新税による王室独自の財政の確保,商工業に対する保護奨励など,チューダー朝絶対主義体制の基礎を固める重責を果たした。
  
テューダー朝断絶後にイングランド王位を継承した[[ステュアート朝]]の[[ジェームズ1世 (イングランド王)|ジェームズ1世]]は、ヘンリー7世の長女[[マーガレット・テューダー|マーガレット]]の孫であり、そのためヘンリー7世は現在の[[イギリス王室|イギリス王家]]の祖先にもあたる。
+
{{テンプレート:20180815sk}}
 
 
== 生涯 ==
 
=== 家系および幼少期 ===
 
[[File:Younghenry7.jpg|thumb|left|upright|若きヘンリー]]
 
ヘンリー・テューダー、後のヘンリー7世は[[ウェールズ]]のペンブローク(ペンブルック)城で1457年1月28日に生まれた。母は[[ランカスター朝|ランカスター家]]傍系[[ボーフォート家]]の当時13歳の[[マーガレット・ボーフォート]]。父は[[リッチモンド伯]][[エドマンド・テューダー (リッチモンド伯)|エドマンド・テューダー]]であったが、誕生の3カ月前に死去していた<ref>Caroline Rogers and Roger Turvey, ''Henry VII'', London: Hodder Murray, 2005</ref>。
 
 
 
ヘンリーの祖父[[オウエン・テューダー]]は古の[[ウェールズの君主|ウェールズ君主]]の血をひくが、イングランド王[[ヘンリー5世 (イングランド王)|ヘンリー5世]]の未亡人で[[フランス王国|フランス]]王女である[[キャサリン・オブ・ヴァロワ]]の納戸係秘書を務める下級貴族に過ぎなかった。しかしオウエンはキャサリンと結婚し、その間に生まれたエドマンドは[[ヘンリー6世 (イングランド王)|ヘンリー6世]]の異父弟となり、フランス王家の縁者ともなって、リッチモンド伯に封じられた。
 
[[File:Henry VII groat.jpg|thumb|left|upright|ヘンリーの銀貨]]
 
彼の王位継承権は主に母方のボーフォート家に由来する。母マーガレット・ボーフォートは[[エドワード3世 (イングランド王)|エドワード3世]]の三男の[[ジョン・オブ・ゴーント]]の子である[[ジョン・ボーフォート (初代サマセット伯)|ジョン・ボーフォート]]の孫であった。だが、ジョン・ボーフォートは両親が結婚する前に生まれた私生児であり、後に従兄に当たる[[リチャード2世 (イングランド王)|リチャード2世]]に嫡出子として認められた時、王位継承権を放棄させられていた。さらに女系の血筋であることもあって、ヘンリーの王位継承権には疑問符が付いていた。
 
 
 
しかし[[1483年]]までには、ヘンリー6世と息子の[[プリンス・オブ・ウェールズ|王太子]][[エドワード・オブ・ウェストミンスター]]、さらに他のボーフォート家の成員が死に絶え、ヘンリーがランカスター家一門の最年長の一員となっていた。
 
 
 
ヘンリーはテューダー家がウェールズ君主の末裔であることを活用して、ウェールズからの援軍および軍の通行権を確保した<ref>Chrimes, S.B. Henry VII. p. 3.</ref><ref>Davies, Norman. The Isles – A History. pp. 337–379</ref>。ヘンリーは、いつかウェールズを抑圧から解放するとされる“予言の子”の候補であると見なされており、ウェールズ君主の[[赤い竜 (ウェールズの伝承)|赤いドラゴン]]の旗を[[聖ゲオルギウス十字]]の旗と共に掲げていた。
 
 
 
[[1456年]]、父エドマンドは戦場で[[ヨーク朝|ヨーク家]]側に捕えられ、ヘンリーの誕生3か月前に死んだ。幼年時代は叔父[[ジャスパー・テューダー (ベッドフォード公)|ジャスパー・テューダー]]の保護を受け、ウェールズで暮らした。[[1461年]]にヨーク家の[[エドワード4世 (イングランド王)|エドワード4世]]が王位に着くとジャスパーは追放され、ヨーク派の[[ペンブルック伯]][[ウィリアム・ハーバート (初代ペンブルック伯 1423-1469)|ウィリアム・ハーバート]]がヘンリーと母を保護した。だが[[1469年]]にペンブルック伯は処刑され、[[1470年]]にランカスター家のヘンリー6世が復位し、ジャスパーは追放から戻ってヘンリーを宮廷に連れて行った。
 
 
 
翌[[1471年]]にヘンリー6世と王太子エドワードが殺されてエドワード4世が復位すると、ヘンリーはランカスター家の血を引く最後の男子となり、ヨーク派から命を狙われるようになった。そのため、叔父ジャスパーに連れられて[[フランス王国|フランス]]に渡り、[[ブルターニュ]]に匿われて続く14年間をこの地で過ごした。
 
 
 
=== 王位継承 ===
 
[[File:Coat of Arms of Henry VII of England (1485-1509).svg|thumb|left|ヘンリー7世王の紋章]]
 
[[1483年]]までに、ヘンリーの母マーガレット・ボーフォートはヨーク派の[[トマス・スタンリー (初代ダービー伯爵)|トマス・スタンリー]]と再婚し、ヘンリーをヨーク朝の[[リチャード3世 (イングランド王)|リチャード3世]]に代わる王の候補として運動していた。
 
 
 
1483年に、ヘンリーはエドワード4世の長女[[エリザベス・オブ・ヨーク]]と婚約した。兄弟たちが叔父リチャード3世によって[[ロンドン塔]]に幽閉されて亡くなっていたと思われていたため、エリザベスはエドワード4世の世継ぎとなっていた。
 
 
 
同年、支援者である[[ブルターニュ公国|ブルターニュ]]公[[フランソワ2世 (ブルターニュ公)|フランソワ2世]]の援助で、ヘンリーはイングランドに上陸しようとしたが、嵐のために計画は失敗し同調者の[[バッキンガム公]][[ヘンリー・スタッフォード (第2代バッキンガム公爵)|ヘンリー・スタッフォード]]はリチャード3世に処刑されてしまった<ref>Williams, Neville. The Life and Times of Henry VII. p. 25.</ref>。リチャード3世はブルターニュ公国の宰相を動かしてヘンリーを追放しようとしたが、ヘンリーは[[フランス王国|フランス]]に逃げた。エドワード4世の妹[[マーガレット・オブ・ヨーク]]が嫁いだブルゴーニュ公国はヨーク朝を支援していたため、これと対立するフランス王[[ルイ11世 (フランス王)|ルイ11世]]から軍勢と装備を援助され、ヘンリーは2度目の攻撃の準備を行った。
 
 
 
フランス兵と[[スコットランド王国|スコットランド]]兵を率い、叔父ジャスパーやオックスフォード伯[[ジョン・ド・ヴィアー (第13代オックスフォード伯)|ジョン・ド・ヴィアー]]と共にランカスター派の拠点である[[ウェールズ]]の[[ペンブルックシャー]]に上陸し、イングランドに進軍した。父を通じてウェールズ王の血をひくヘンリーの軍勢は、ウェールズ兵を加えて5000に膨れ上がった<ref>ヘンリーの軍の規模には様々な推定がある。Williams, Neville. The Life and Times of Henry VII. p. 31., では6000の兵だったとされている。</ref>。
 
 
 
ヘンリーは[[ノッティンガム]]と[[レスター]]でも援軍を得て、1485年[[8月22日]]の[[ボズワースの戦い]]でリチャード3世の8000の軍に勝った。リチャード3世側の多くの貴族は日和見し、リチャード3世の味方であった[[ノーサンバランド伯]][[ヘンリー・パーシー (第4代ノーサンバランド伯)|ヘンリー・パーシー]]、およびウィリアム・スタンリー卿とヘンリーの継父[[トマス・スタンリー (初代ダービー伯爵)]]の兄弟は、決定的なタイミングでヘンリーの側に寝返った。リチャード3世は戦死し[[薔薇戦争]]は事実上終結した。だがイングランドが女系の王位継承権を認めているために王位継承権者は数多く、この後もヘンリーの戦いは続いた。
 
 
 
=== 統治 ===
 
==== 婚姻と内乱鎮圧 ====
 
[[File:Tudor Rose.svg|thumb|right|[[テューダー・ローズ]]: ランカスターの赤薔薇とヨークの白薔薇の組み合わせ]]
 
[[画像:Elizabeth_of_York_from_Kings_and_Queens_of_England.jpg|thumb|left|180px|ヘンリー7世妃エリザベス・オブ・ヨーク]]
 
ヘンリー7世はまず王位を固めなければならなかった。[[1486年]]には、共にジョン・オブ・ゴーントの玄孫であり、ヨーク家のエドワード4世の世継ぎエリザベスと[[ウェストミンスター寺院]]で結婚し、長く対立してきたランカスター家とヨーク家を統合した。ランカスター家の赤薔薇の紋とヨーク家の白薔薇の紋を組み合わせて、[[テューダー・ローズ]]をテューダー家の紋とした。また、この結婚によって、エドワード3世の次男の[[ライオネル・オブ・アントワープ]]の娘フィリッパの子孫と結婚した四男の初代[[ヨーク公]][[エドマンド・オブ・ラングリー (初代ヨーク公)|エドマンド・オブ・ラングリー]]の子孫の王位継承権が、三男のジョン・オブ・ゴーントの子孫の王位継承権に勝るのかどうかという長年の論議が終結した。また、エドワード4世の子らを私生児におとしめていた議会の決議を無効とし、妻のエリザベスを嫡出子の地位に戻した。
 
 
 
ヘンリーはボズワースの戦いの前日の1485年[[8月21日]]にさかのぼって即位を宣言し、リチャード3世の側で戦った者全てを反逆罪に問えるようにした。だがその対応は相手に応じて変化し、リチャード3世の甥で王位継承者であったリンカーン伯[[ジョン・ド・ラ・ポール (初代リンカーン伯)|ジョン・ド・ラ・ポール]]は助命する一方、同じくリチャード3世の甥で前の王位継承者であった[[クラレンス公]][[ジョージ・プランタジネット (クラレンス公)|ジョージ]]の長男の[[ウォリック伯]][[エドワード・プランタジネット (ウォリック伯)|エドワード]]は捕え幽閉したが、その姉の[[マーガレット・ポール]]をソールスベリーの女伯爵にして融和を図った。[[10月30日]]にはウェストミンスター寺院で即位式を挙げ、自分に忠誠を誓う者は過去の行動を問わず、その生命と財産を保証するとした。
 
[[File: Lambert Simnel, Pretender to the English Throne, Riding on Supporters in Ireland.gif|thumb|left|エドワード6世を名乗ったランバート・シムネル]]
 
[[File: Perkin Warbeck.jpg|thumb|right|ヨーク公リチャードを名乗ったパーキン・ウォーベック]]
 
 
 
即位後は、ヘンリー7世の王位継承権の疑惑([[テューダー朝#ヘンリー・テューダーの王位継承権について|テューダー朝]]を参照)から王位を僭称するものが相次いだ。[[1486年]]には[[ランバート・シムネル]]がリチャード3世の旧支持者たちに擁立されて、本物は幽閉中であったウォリック伯エドワードと名乗り、翌[[1487年]]に[[ダブリン]]で国王エドワード6世を称した。これにエドワード4世の妹[[ブルゴーニュ公国|ブルゴーニュ公]][[シャルル (ブルゴーニュ公)|シャルル]]妃[[マーガレット・オブ・ヨーク|マーガレット]]や、先に助命したリンカーン伯などが味方して王位要求の軍を起こすが、[[ストーク・フィールドの戦い]]でヘンリー7世に敗れた。シムネルは捕らえられたが、大人に操られただけだとして刑を免じられ、厨房の召使とされた<ref> Williams, Neville. The Life and Times of Henry VII. p. 62</ref>。リンカーン伯は戦死した。
 
 
 
[[1490年]]には[[パーキン・ウォーベック]]がエドワード4世の次男ヨーク公[[リチャード・オブ・シュルーズベリー (ヨーク公)|リチャード]]を名乗って国王リチャード4世を自称し、再びブルゴーニュ公妃マーガレットの支持を得てイングランドへ侵攻し、フランス王[[シャルル8世 (フランス王)|シャルル8世]]や[[スコットランド王国|スコットランド]]王[[ジェームズ4世 (スコットランド王)|ジェームズ4世]]、[[神聖ローマ皇帝]][[マクシミリアン1世 (神聖ローマ皇帝)|マクシミリアン1世]]などを巻き込んで国際的な問題となったが敗れて捕えられた。幽閉していたウォリック伯エドワードとパーキン・ウォーベックは[[1499年]]に脱走を図って失敗し処刑された。エドワードの姉マーガレット・ポールは再び助命されたが、後に[[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]によって処刑されることになる。
 
 
 
==== 経済 ====
 
前任の王たちと違い、ヘンリー7世には即位まで領地の経営や財政運営の経験がなかった。だが在位期間を通じて財政担当者を変えず、事実上破産していたイングランドの財政運営に安定をもたらした。厳しい徴税によって歳入を安定させ、貨幣と度量衡を統一した。ネーデルランドとは自由貿易の通商条約を結び、イングランドとの貿易の特権を有していた[[ヴェネツィア共和国]]や[[ハンザ同盟]]に対しては強硬な態度に出て自主権の回復に努めた。毛織物工業を盛んにするため、羊毛関税を上げ、ネーデルランドから職人を招聘した。顧問官らを用い、不当な手続きにより貴族や商人の富裕層らに罪を着せ、罰金を課して財政を豊かにしかつ統制を図った。
 
 
 
==== 外交 ====
 
ヘンリー7世の外交政策は平和の維持による繁栄であった。前任の王たちが失ったフランス内の領土を奪回しようとはせず、フランスと条約を結び、イングランド王への僭称者を支持しないよう図った。海軍の重要性を理解し、世界初の乾ドックを建設して、貿易を振興した。
 
 
 
[[カスティーリャ王国]]と[[アラゴン王国]]が連合した[[スペイン]]の重要さを認識し、[[メジナデルカンポ条約]]を結んで王太子の[[アーサー・テューダー]]をスペインの王女[[キャサリン・オブ・アラゴン]]と婚約させた。またスコットランド王国と平和条約を結んで娘の[[マーガレット・テューダー|マーガレット王女]]を国王ジェームズ4世と婚約させた。後にこれは、[[ジェームズ1世 (イングランド王)|ジェームズ1世]]によるイングランドとスコットランドの同君連合につながることになる。
 
 
 
さらに、ヘンリー7世は神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世と同盟し、[[教皇|ローマ教皇]][[インノケンティウス8世 (ローマ教皇)|インノケンティウス8世]]を説得して王位僭称者たちを破門させることに成功した。
 
 
 
==== 司法 ====
 
[[File:King Henry VII from NPG.jpg|thumb|left|ヘンリー7世の肖像画の16世紀後半の模写]]
 
薔薇戦争の後で、王室の権威を回復することがヘンリー7世の課題であった。当時は封建制度のもとで、封建貴族が俸給を払って家臣団を率い、家臣が法廷に引き出された時には、貴族が法を曲げることがしばしばであった。ヘンリー7世は貴族が家臣団を率いないことを宣誓させた。星室裁判所(Star Chamber、星法庁、[[星室庁]]とも訳される)を用いて、貴族の専横を裁き、[[コモン・ロー]]では扱えないあらゆる事件を迅速に処理した。全国のあらゆる地域で無給1年任期の[[治安判事]]を任命して、法の順守を徹底させた。
 
 
 
=== 晩年と死 ===
 
[[File:HenryVIIdeathbed.jpg|thumb|死の床のヘンリー7世]]
 
[[粟粒熱]]によって王太子アーサーを[[1502年]]に亡くし<ref>Thomas Penn. Winter King – Henry VII and The Dawn of Tudor England. p. 70. Simon & Schuster, 2011</ref>、次男のヨーク公ヘンリー王子が世継ぎとなった。スペインとの同盟を維持するため、アーサーの未亡人となったスペイン王女[[キャサリン・オブ・アラゴン]]とヘンリー王子との結婚のための特別免除をローマ教皇[[ユリウス2世 (ローマ教皇)|ユリウス2世]]から得た。兄弟の妻をめとることは、聖書の教えに抵触する恐れがあったためである。エリザベス王妃が亡くなり、ヘンリー7世自身がキャサリンと結婚することも考慮されたが実現には至らなかった。キャサリンの持参金の支払いが遅れ、かつスペインの[[イサベル1世 (カスティーリャ女王)|イザベラ女王]]が亡くなって娘のキャサリンの立場が弱まったため、王はヘンリー王子の婚姻を外交交渉のカードとして用いた。ヘンリー7世の存命中は王子との婚儀は行われなかった。
 
 
 
[[結核]]により、1509年4月21日、ヘンリー7世はリッチモンド宮殿において52歳でこの世を去り、ヘンリー8世が後を継いだ。
 
 
 
==子女==
 
ヘンリー7世は王妃[[エリザベス・オブ・ヨーク]]との間に4男4女をもうけたとされるが成長したのは4人である。
 
<div class="center" ><gallery>
 
File:Arthur Prince of Wales c 1500.jpg|[[アーサー・テューダー|アーサー]]
 
File:Margaret Tudor.jpg|[[マーガレット・テューダー|マーガレット]]
 
File:HenryVIII 1509.jpg|[[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]
 
File:The Magdalen, National Gallery, London.jpg|[[メアリー・テューダー (フランス王妃)|メアリ]]
 
</gallery></div>
 
 
 
*[[アーサー・テューダー|アーサー]](1486年9月20日 - 1502年4月2日) 王太子([[プリンス・オブ・ウェールズ]])
 
*[[マーガレット・テューダー|マーガレット]](1489年11月28日 - 1541年10月18日) [[スコットランド王国|スコットランド]]王[[ジェームズ4世 (スコットランド王)|ジェームズ4世]]と結婚、後に第6代アンガス伯アーチボルド・ダグラスと結婚。スコットランド王と[[イングランド王国|イングランド]]王を兼ねた[[ジェームズ1世 (イングランド王)|ジェームズ1世]]の父方と母方の曾祖母。現在のイギリス王家は、[[ステュアート朝]]と[[ハノーヴァー朝]]を通してマーガレットの子孫である。
 
*[[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー]](1491年6月28日 - 1547年1月28日) イングランド王および[[アイルランド王国|アイルランド王]]ヘンリー8世
 
*エリザベス(1492年7月2日 - 1495年9月14日) 夭逝
 
*[[メアリー・テューダー (フランス王妃)|メアリー]](1496年3月18日 - 1533年6月25日) [[フランス王国|フランス]]王[[ルイ12世 (フランス王)|ルイ12世]]と結婚、後に[[サフォーク伯|初代サフォーク公]][[チャールズ・ブランドン (初代サフォーク公)|チャールズ・ブランドン]]と結婚し、9日間だけイングランド王位についた[[ジェーン・グレイ]]の母[[フランセス・ブランドン]]を生んだ。
 
*エドマンド(1499年2月21日 - 1500年6月19日) 夭逝、[[サマセット公]]
 
*エドワード(不明)
 
*キャサリン(1503年2月2日) 夭逝
 
 
 
==系図==
 
{{イングランド王室テューダー朝以降}}
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{Reflist}}
 
 
 
==関連項目==
 
{{commons|Henry VII of England}}
 
*[[薔薇戦争]]
 
*[[テューダー朝]]
 
*[[ランカスター朝]]
 
*[[ボーフォート家]]
 
*[[ボズワースの戦い]]
 
*[[メジナデルカンポ条約]]
 
 
 
{{イングランド王|1485年 - 1509年}}
 
{{Normdaten}}
 
 
{{DEFAULTSORT:へんり7}}
 
{{DEFAULTSORT:へんり7}}
 
[[Category:イングランドの君主]]
 
[[Category:イングランドの君主]]

2019/5/2/ (木) 09:22時点における最新版

ヘンリー7世(作者不詳,1505,ロンドン国立肖像画美術館).jpg

ヘンリー7世Henry VII, 1457年1月28日 - 1509年4月21日

イギリス,チューダー朝初代のイングランド王(在位 1485~1509)。父はリッチモンド伯エドマンド・チューダー,母はマーガレット・ボーフォート。1471年以後叔父ジャスパーとともにブルターニュに亡命。1485年8月帰国し,ランカスター家の長として国王リチャード3世ボズワースの戦いで敗死させ,1485年10月戴冠。ヨーク家のエドワード4世の長女エリザベスと結婚し,バラ戦争に終止符を打った。治世の初期にはヨーク派の残党やランバート・シムネルパーキン・ウォーベックらの陰謀に悩まされたが,これらを抑えた。外交面では政略結婚で平和の維持に努め,内政面では旧貴族の勢力を減じる官僚制度の整備,国事犯の取り締まり強化策としての星室裁判所の設置,増税,新税による王室独自の財政の確保,商工業に対する保護奨励など,チューダー朝絶対主義体制の基礎を固める重責を果たした。



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