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[[Image:Hunnen.jpg|thumb|330px|フン族を描いた19世紀の歴史画([[ヨハン・ネポムク・ガイガー|ヨーハン・ネーポムク・ガイガー]]画)]]
 
[[Image:Huns empire.png|thumb|325px|フン帝国は[[中央アジア]]の[[ステップ (植生)|ステップ]]から現代の[[ドイツ]]、[[黒海]]から[[バルト海]]にまで広がっていた]]
 
  
'''フン族'''(フンぞく、Hun)は北アジアの遊牧[[騎馬民族]]。[[中央アジア]]の[[ステップ地帯]]が出拠と考えられる<ref>[http://www.eliznik.org.uk/RomaniaHistory/trans-map/index.htm ''Transylvania through the age of migrations'']</ref>が、民族自体の出自についてはかなり以前より[[#「フン族」 = 「匈奴」説|「フン」=「匈奴」説]]などがあるものの、いまだ定説となっていない。言語学的には[[テュルク語族]]に属すると考えられている<ref group="注釈">[[テュルク]]の音写として[[丁零]]が知られており、中国の[[秦]]から[[漢]]の時代に[[匈奴]]と覇権を争っていたことがわかっている。[[モンゴル諸語]]はテュルク諸語、[[ツングース諸語]]とともに[[アルタイ語族]]にまとめられているが、まだ弱い相関しか知られておらず系統接続ははっきりしていない。</ref>。
+
'''フン族'''(フンぞく、Hun)
  
4世紀中頃から西に移動を始め、これが当時の東ゴート族、西ゴート族を圧迫して、[[ゲルマン人#ゲルマン民族の大移動|ゲルマン民族大移動]]を誘発、さらには[[西ローマ帝国]]崩壊の遠因ともなった<ref>コトバンク。</ref>。5世紀中頃の[[アッティラ]]の時代に統一帝国を築いて最盛期を迎えたが、[[453年]]に王の死去、翌年には帝国は瓦解、急速に衰退した。
+
中央アジア,ステップ地方に住んでいたウラル=アルタイ語族のトルコ語またはモンゴル語系統に属する遊牧騎馬民族。4世紀頃ドン川流域に移動。 370年頃さらに西進,黒海北岸に住んだゲルマン系の東ゴート人の国家を壊滅させ,次いで今日のルーマニアに居住した西ゴート人を圧迫して,ゲルマン民族移動 ([[民族大移動]] ) の端を開いた。 375年頃ティサ川上流に達し,東南ヨーロッパに一大国家を築いた。初め族長に率いられる諸部族の連合国家であったが,432年に1人の王のもとに統一された。初代ルア (あるいはギラ) 王の甥で兄ブレダとともにその跡を継いだ[[アッチラ]](在位 434~453) のときフン民族の国家は最盛期を迎え,その版図はライン川上流よりウラル川流域に達した。東ローマ帝国を2度攻略 (441,447) ,さらに西ローマ帝国を圧迫したが,451年カタラウヌムの戦いで西ローマ=西ゴート連合軍に敗北。アッチラ死後は,ゲピート族の反乱 (455) ,パンノニアにおける敗戦によって急速に衰微し,ドナウ川下流に退いた。それ以後の史料はきわめて乏しく,5世紀末までにはフン民族は分散消滅してしまった。漢の時代に中国北辺に侵入した匈奴,また5~6世紀にイラン,インドに侵入した遊牧民族ヘフタリットと同一民族であるかどうかは不明。
 
 
同じ名称の後裔または後継者がおおよそ[[4世紀]]から[[6世紀]]に[[東ヨーロッパ]]と[[中央アジア]]の一部に住んでいたと記録されている。フン族の末裔が[[8世紀]]前半に[[カフカス]]で記録されている。
 
 
 
== 歴史上の記録 ==
 
[[Image:Hunnenwanderung.png|thumb|300px|フン族の西方への移動の推定図]]
 
 
 
=== アッティラ以前 ===
 
[[139年]]、[[ローマ帝国|ローマ]]の地理学者[[クラウディオス・プトレマイオス|プトレマイオス]]はクーノイ族(''Χοῦνοι''または''Χουνοἰ'')がスニ(''Suni'')の統治下にある[[ポントス]]地方の{{仮リンク|バスタルン族|en|Bastarnae}}と{{仮リンク|ロクソラン族|en|Roxolani}}の間に住んでいると述べている。彼は[[2世紀]]の初めに列挙したが、これらの民族がフン族か否かは不明である。[[西ローマ帝国]]がしばしば「クーノイ」 (''Χοῦνοι'')または「ウーノイ」(''Ουννοι'')と書いており、[[東ローマ帝国]]では名称のはじめにXの喉頭音を一度も用いていないことを考慮すると「クーノイ」 (''Χοῦνοι'') と「ウーノイ」(''Ουννοι'') の類似は偶然である可能性もある<ref name=Thompson1996>{{Citation | last = Thompson | first = E.A. | year = 1996 | title = The Huns | edition = Revised | series = The Peoples of Europe | isbn = 0631214437 | publisher = Blackwell | location = Oxford}}</ref>。[[5世紀]]の[[アルメニア]]の歴史家{{仮リンク|モヴセス・ホレナツ|en|Movses Khorenatsi}}は「アルメニア史」で[[サルマタイ|サルマタイ族]]の近くに住むフン族について紹介し、[[194年]]から[[214年]]の間の何れかに起きたフン族による[[バルフ]]攻略について物語り、この街をギリシャ人が「ウーノク」(''Hunuk'')と呼ぶ理由を説明している。
 
 
 
確実な記録としては、フン族は[[4世紀]]に初めてヨーロッパに現れた。彼らは[[370年]]頃に[[黒海]]北方に到来した。フン族は[[ヴォルガ川]]を越えて[[アラン人|アラン族]]を攻撃して彼らを服従させた。6世紀の歴史家{{仮リンク|ヨルダネス|en|Jordanes}}<ref>ヨルダネスは6世紀のアリウス派僧侶のローマ帝国官僚でゴート人についての歴史家。</ref>によると{{仮リンク|バランベル|en|Balamber}}(ゴート族によって創作された架空の人物ではないかと疑われている<ref name="Thompson1996" />)に率いられたフン族は{{仮リンク|グルツンギ|en|Greuthungi}}([[東ゴート族]])の集落を襲撃した<ref name="Thompson1996" />。グルツンギ王[[エルマナリク]]は自殺し、甥の息子の[[ヴィティメール]](''Vithimiris'')が後を継いだ。[[376年]]にヴィティメールはフン族とアラン族との戦いで戦死した。この結果、東ゴート族の大半がフン族に服従した<ref name="Thompson1996" />。ヴィティメールの息子のヴィデリック(''Viderichus'')はまだ幼なかったため、残った東ゴート族の難民軍の指揮権は{{仮リンク|アラテウス|en|Alatheus}}と{{仮リンク|サフラスク|en|Saphrax}}に委ねられた。難民は[[ドニエストル川]]西方の{{仮リンク|テルヴィンギ|en|Thervingi}}([[西ゴート王国]])の領域へ逃げ込み、それから[[ローマ帝国]]領へ入った。''(ゴート族のローマ帝国侵入後については「[[ゴート戦争 (376年–382年)]]」も参照)''
 
[[Image:HunSiege-ChroniconPictum.jpg|thumb|300px|フン族の都市包囲戦を[[騎士道|騎士道的]]空想に基づいて描いた[[14世紀]]の絵画。注)武器と鎧と都市は[[時代錯誤]]である。ハンガリーの''{{仮リンク|ピクタム・クロニクル|en|Chronicon Pictum}}''。[[1360年]]]]
 
[[File:Huns by Rochegrosse.jpg|thumb|300px|フン族による略奪。{{仮リンク|ジョルジュ・ロシュグロス|en|Georges Rochegrosse}}画。1910年]]
 
 
 
逃げ出した東ゴート族の一部に続いてフン族は{{仮リンク|アタナリック王|en|Athanaric|label=アタナリック}}の西ゴート族の領土に入った。アタナリックはドニエストル川を越えて遠征軍を派遣したが、フン族はこの小部隊を避けて直接アタナリックを攻めた。ゴート族は[[カルパティア山脈]]へ後退した。ゴート族の難民たちは[[トラキア]]へそしてローマ駐留軍のいる安全地帯へ向かった。
 
 
 
[[395年]]、フン族は初めて東ローマ帝国へ大規模な攻撃をかけた<ref name="Thompson1996" />。フン族はトラキアを攻撃し、[[アルメニア]]を蹂躙して[[カッパドキア]]を却略した。彼らは[[歴史的シリア|シリア]]の一部に侵入して[[アンティオキア]]を脅かし、[[ユーフラテス属州]]を通って押し寄せた。皇帝[[テオドシウス1世]]は軍隊を西方へ派遣しており、そのためフン族は抵抗を受けることなく暴れ回り、[[398年]]に宦官{{仮リンク|エウトロペ|en|Eutropius}}がローマ人とゴート人の軍隊をかき集めて撃退して、ようやく平和を回復することに成功した。
 
 
 
一時的に東ローマ帝国から逸れた間、[[405年]]の{{仮リンク|ラダガイスス|en|Radagaisus}}率いる蛮族の集団のイタリア侵攻や[[406年]]の[[ヴァンダル族]]、[[スエビ族]]そしてアラン族のガリア侵入に証明されるようにフン族ははるか西方に移動したようである<ref name="Thompson1996" />。この時のフン族は一人の統治者元の一つの軍隊ではなかった。多数のフン族が東西ローマ、そしてゴート族の傭兵として雇われていた。[[ウルディン]](個人名が知られる初めてのフン族<ref name="Thompson1996" />)はフン族とアラン族の集団を率いてイタリアを守るためにラダガイススと戦った。ウルディンはドナウ川周辺の東ローマ領で騒乱を起こしていたゴート族を破り、400年から401年頃にゴート族の{{仮リンク|ガイナス|en|Gainas}}の首を斬った。ガイナスの首は贈物と引き換えに東ローマへ与えられて[[コンスタンティノープル]]で晒された。
 
 
 
[[408年]]、東ローマはウルディンのフン族から再び圧力を感じ始めた。ウルディンはドナウ川を越えて[[モエシア|モエシア属州]]のカストラ・マルティス要塞を攻略した。それから、ウルディンはトラキア一帯を略奪した。東ローマはウルディンを買収しようとしたが、彼の要求額が大きすぎて失敗し、代わりに彼の部下たちを買収した。これによりウルディンの陣営から多数が脱走し、ローマ軍に大敗を喫して撤退を余儀なくされた<ref>クローウェル、p47-49</ref><ref>アンビス、p53</ref>。それから程なく、ウルディンは死去している。
 
 
 
西ゴート王[[アラリック1世]]の義弟[[アタウルフ]]は、[[409年]]に[[ジューリア・アルプス山脈]]南方でフン族の傭兵を雇っていたようである。彼らは皇帝[[ホノリウス]]の最高法官オリンピウスに雇われた別のフン族の小集団と対峙した。409年後半に西ローマ帝国は、アラリックを防ぐためにイタリアと[[ダルマチア]]に数千のフン族を駐留させ、このためアラリックはローマへ進軍する計画を放棄している。
 
 
 
410年頃にフン族は、ドナウ川中流域の平原を制圧した<ref>アンビス、p55-58</ref>。フン族は東ローマ帝国への侵入と略奪を繰り返し、このため東ローマ皇帝[[テオドシウス2世]]は430年頃に、フン族へ毎年金350ポンドの貢納金を支払う条約を結んだ<ref>アンビス、p60</ref>。
 
 
 
一方で、フン族は[[西ローマ帝国]]の将軍[[アエティウス]](少年時代にフン族の人質となった経験を持つ)の傭兵となって帝国内の内戦やゲルマン諸族との戦争に参加した。[[433年]]、フン族は西ローマ皇帝[[ウァレンティニアヌス3世]]の母后[[ガッラ・プラキディア]]との内戦状態にあったアエティウスとの取引により、軍事力提供の見返りに[[パンノニア]](と[[イリュリクム]]の一部)の支配を西ローマ帝国に認められた<ref>アンビス、p61</ref>。
 
{{-}}
 
 
 
=== アッティラ統治下の統一帝国 ===
 
{{Main|アッティラ}}
 
[[File:Brogi, Carlo (1850-1925) - n. 8227 - Certosa di Pavia - Medaglione sullo zoccolo della facciata.jpg|thumb|150px|left|[[アッティラ]]のレリーフ。16世紀製作:{{仮リンク|チェルトーザ・ディ・パヴィーア修道院|en|Certosa di Pavia}}]]
 
 
 
[[アッティラ]]の指導の元でフン族は[[複合弓]]と優れた馬術による伝統的な[[弓騎兵|騎乗弓射]]戦術を用いて対抗勢力に対する覇権を確立した。フン族は[[ローマ帝国|ローマ]]諸都市からの略奪と貢納金によって富を蓄えて、[[ゲピド族]]、{{仮リンク|スキール族|en|Scirii}}、{{仮リンク|ルギイ人 (5世紀)|en|Rugians|label=ルギイ族}}<!--{{仮リンク|ルギイ人|en|Lugii|label=ルギイ族}}([[:en:Rugii|Rugii]])-->、[[サルマタイ|サルマタイ族]]、[[東ゴート族]]といった従属部族の忠誠を維持していた。フン族の状況に関する唯一の長文の直接的な文書は、アッティラへの使節の一員だった{{仮リンク|プリスクス|en|Priscus}}によるものである。
 
 
 
[[434年]]に[[ルーア|ルーア王]]が死去して、甥の[[ブレダ (フン族)|ブレダ]]と[[アッティラ]]の兄弟が共同王位に就いた。即位直後にブレダとアッティラは東ローマ帝国の貢納金を倍額にさせる有利な協定を結んだものの、[[440年]]に和平を破って東ローマ帝国へ侵入してバルカン半島一帯を荒らしまわった。東ローマ帝国軍は敗退し、[[443年]]に皇帝[[テオドシウス2世]]は莫大な貢納金の支払いを約束する条約の締結を余儀なくされた。[[445年]]頃にブレダが死に、アッティラの単独統治となった。[[447年]]、アッティラは再び東ローマ領を侵攻して略奪を行い、東ローマ帝国軍を撃破している。
 
[[Image:Leoattila-Raphael.jpg|thumb|250px|『''[[レオ1世 (ローマ教皇)|レオ1世]]とアッティラの会見''』<br>[[ラファエロ・サンティ|ラファエロ]]画。]]
 
 
 
[[451年]]、アッティラは西ローマ皇帝[[ウァレンティニアヌス3世]]の姉[[ユスタ・グラタ・ホノリア|ホノリア]]からの求婚を口実に、大軍を率いて[[ガリア]]に侵入した。[[カタラウヌムの戦い]]でアッティラは、[[アエティウス]]将軍が率いる西ローマ=西ゴート連合軍に敗れ撤退するが、勝ったローマ軍も西ゴート王[[テオドリック1世]]が戦死するなど損害も多く、追撃はできなかった。
 
 
 
翌[[452年]]、体勢を立て直したアッティラは[[イタリア半島]]に侵入して北イタリア各地を却略するが、[[レオ1世 (ローマ教皇)|教皇レオ1世]]の説得により引き返す(実際は、フン族の陣営に[[疫病]]と飢餓が発生していたと見られている<ref>アンビス、p123-124</ref><ref>クローウェル、p66-67</ref><ref>トンプソン、p158-159</ref>)。
 
 
 
パンノニアに帰還したアッティラは、再度の東ローマ帝国侵攻を企図するが、翌[[453年]]に自身の婚礼の祝宴の席で死亡した([[脳出血]]または[[脳梗塞]]という説が有力である)。
 
 
 
ヨーロッパでは、[[ローマ教皇]]の忠告を守らなかったアッティラに神の天罰が下り死亡、残された部下は天罰を恐れ、ローマ教皇の忠告を守り、夕日を背にして生まれ故郷の東方に帰っていった、という非常に有名な伝承が残っている。この事件を[[キリスト教]]が布教活動に利用、ヨーロッパでその後1,000年近く続く、王や諸侯よりも強大なキリスト教の権威が生まれるきっかけになったとされる。
 
 
 
=== アッティラ以後 ===
 
[[Image:Invasions of the Roman Empire 1.png|300px|thumb|right|5世紀の[[民族移動時代|蛮族の侵入]]は[[372年]]から[[375年]]のフン族による両ゴート王国破壊が契機になっている。[[ローマ]]は[[410年]]に[[西ゴート族]]、[[455年]]に[[ヴァンダル族]]に掠奪された。]]
 
[[Image:De Neuville - The Huns at the Battle of Chalons.jpg|300px|thumb|[[カタラウヌムの戦い]]({{仮リンク|アルフォンス・ドヌー|fr|Alphonse de Neuville}}画)]]
 
アッティラの死後、彼の息子の[[エラク]]が兄弟の{{仮リンク|デンキジック|en|Dengizich}}および{{仮リンク|イルナック|en|Ernakh}}との争いに勝ってフン族の王となった。だが、従属部族たちがゲピド族長{{仮リンク|アルダリック|en|Ardaric}}の元に集まり、[[454年]]にネダオ川でフン族に挑んだ({{仮リンク|ネダオ川の戦い|en|Battle of Nedao}})。フン族が敗れ、エラク王も戦死したことによりヨーロッパにおけるフン族の覇権は終わり、それからほどなくして同時代の記録から彼らは消え失せた。パンノニア平野は東ゴート族に[[トランシルヴァニア]]はゲピード族に占領され、その他の諸部族も中央ヨーロッパ各地に割拠した<ref>アンビス、p130</ref>。
 
 
 
後代の歴史家たちは、アッティラの民たちの離散と解明についての一瞥を提供している。伝統に従ってエラクの死後、彼の兄弟たちは2つに分離しているが近く関係する遊牧集団を黒海北方の平原で率いた。デンキジックは{{仮リンク|クトリグール|en|Kutrigur}}・ブルガール族および{{仮リンク|ウトリグール|en|Utigur}}・ブルガール族の王(カーン)となったと信じられ、一方プリスクスはクトリグール族とウトリグール族はイルナックの2人の息子に率いられ、彼らにちなんで名づけられたと主張している。このような区別は不明確であり、そして状況はそれほど明快ではなさそうである。
 
 
 
デンキジックとイルナックに率いられたフン族の一部は、パンノニアの東ゴート族に復讐を挑むが撃退され、{{仮リンク|ダキア・リペンシス|en|Dacia Ripensis}}や{{仮リンク|スキュティア・ミノル|en|Scythia Minor}}といった東ローマ帝国領へ避難した<ref>アンビス、p130-131</ref>。おそらく、その他のフン族と遊牧集団はステップへ撤退した。事実その後、クトリグール族、ウトリグール族、オグール族(''Onogur'')、サダギール族(''Sarigur'')と云った新たな同盟が出現し、これらはひとまとめに「フン族」と呼ばれている。同時に6世紀のスラブ人たちも、[[プロコピオス]]によってフン族として紹介されている。
 
 
 
=== 指導者 ===
 
※アッティラ以前のフン族の指導者については不明な点が多く、諸説ある。
 
{| class="wikitable" border="1"
 
|-
 
! 名前
 
! 治世
 
! 備考
 
|-
 
|{{仮リンク|バランベル|en|Balamber}}
 
|[[360年]] - [[378年]]?
 
|その実在は疑われている<ref name="Thompson1996" />。
 
|-
 
|{{仮リンク|バルタザール (フン族)|en|Baltazár|label=バルタザール}}
 
|[[378年]] - [[390年]]?
 
|
 
|-
 
|[[ウルディン]]
 
|[[390年]] - [[411年]]
 
|フン族全体を統べる指導者ではなく、複数いたフン族の族長の一人と考えられる<ref>クローウェル、p48</ref><ref>アンビス、p55-56</ref><ref>トンプソン、p66</ref>。
 
|-
 
|[[ドナート (フン族)|ドナート]]
 
|[[410年]] - [[412年]]
 
|ウルディンの後継者。
 
|-
 
|[[カラト]]
 
|[[410年]] - [[422年]]
 
|ウルディンとは別系統。<br>アッティラにつながる系統の初代フン王とされる。
 
|-
 
|{{仮リンク|オクタル|en|Octar}}
 
|[[425年]] - [[430年]]?
 
|
 
|-
 
|[[ルーア]]
 
|[[420年代]]<ref>トンプソン、p67</ref>または[[432年]] <ref>クローウェル、p55</ref><br>- [[434年]]
 
|弟オクタルとの共同統治で、420年代に初めてフン族全体の統治を形づくったとの見方もある<ref>トンプソン、p67-69</ref>。<br>ブレダとアッティラの伯父。
 
|-
 
|[[ブレダ (フン族)|ブレダ]]
 
|[[434年]] - [[445年]]?
 
|アッティラの兄、アッティラと共同統治
 
|-
 
|[[アッティラ]]
 
|[[434年]] - [[453年]]
 
|
 
|-
 
|[[エラク]]
 
|[[453年]] - [[454年]]
 
|
 
|-
 
|{{仮リンク|デンキジック|en|Dengizich}}
 
|[[458年]] - [[469年]]
 
|
 
|-
 
|{{仮リンク|イルナック|en|Ernakh}}
 
|[[469年]] - [[503年]]
 
|
 
|}
 
 
 
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{{familytree | | |,|-|-|-|v|-|-|-|.| | |}}
 
{{familytree | |ROU  | |MOU  | |OKT  | |ROU=[[ルーア]]|MOU=[[ムンズク]]|OKT=[[オクタル]]|boxstyle_ROU=background-color: #ff9;|boxstyle_OKT=background-color: #ff9;}}
 
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{{familytree | | | |BLE  | |ATT  | |BLE=[[ブレダ (フン族)|ブレダ]]|ATT=[[アッティラ]]|boxstyle_BLE=background-color: #ff9;|boxstyle_ATT=background-color: #ff9;}}
 
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{{familytree | | | |ELL  | |DEN  | |ERN  | | |ELL=[[エラク]]|DEN=[[デンキジック]]|ERN=[[イルナック]]|boxstyle_ELL=background-color: #ff9;|boxstyle_DEN=background-color: #ff9;|boxstyle_ERN=background-color: #ff9;}}
 
{{familytree/end}}
 
 
 
== 社会 ==
 
[[Image:Young Folks' History of Rome illus406.png|thumb|300px|フン族の野営地の想像画。{{仮リンク|シャーロット・メアリー・ヤング|en|Charlotte Mary Yonge}}作『少年向けローマの歴史(''Young Folks' History of Rome'')』の挿絵。19世紀]]
 
 
 
=== 外見 ===
 
ヨルダネスは、『ゴート人の起源と行為』において、フン族の起源に関する神話的記述の中で、フン族について以下のように述べている。
 
 
 
{{quotation|まず沼に囲まれた所に住みついた、取るに足らない、汚らしい、貧弱な種族である。人間の一種族のようでもあるが、その話す言葉については、人間の言葉との類似が認められるということしか知られていない。|ヨルダネス|『ゴート人の起源と行為』24章(122節)<ref name="getica-latin">ラテン語の原文:http://www.thelatinlibrary.com/iordanes1.html ''De origine actibusque Getarum''</ref><ref name="getica-english">英語版:Jordanes. http://www.acs.ucalgary.ca/~vandersp/Courses/texts/jordgeti.html ''The Origin and Deeds of the Goths'', translated by Charles C. Mierow</ref>}}
 
 
 
それに続くフン族についての伝説を語る中で、以下のように述べている。
 
 
 
{{quotation|彼ら[フン族]は或いは戦闘において少しも優勢でないと見えても、彼らの凄まじい顔付きがとてつもない恐怖を引き起こし、相手を恐ろしさのあまり逃げ出させた。浅黒い見た目が恐ろしかったのである。それは、いわば形を成していない塊のようなものであり、顔ではない。そこにあるのは、眼というより点のような穴である。彼らの気性の剛胆さは、その酷薄な外見に表れている。彼らは、自分の子に対しても狂暴になる。子が生まれたその日に、彼らは男子の頬を鉄剣で切開するのである。母乳の滋養を受ける前に、傷に耐えることを否応なく体験するためである。このゆえに、彼らは髭が無いまま年老いていき、若者たちは見栄えが良くない。鉄剣で顔面に刻まれた傷痕が、年齢にふさわしい髭の魅力を無駄にしてしまうからである。彼らはまったく粗末な姿形をしているが、身のこなしが軽快で、乗馬への意気込み鋭く、肩幅が広く、弓矢に熟練しており、頑丈な首をし、誇りをもって常に堂々としている。この者たちは、確かに人間の形をしてはいるが、野獣の獰猛さをもって生きている。|ヨルダネス|『ゴート人の起源と行為』24章(127-128節)<ref name="getica-latin" /><ref name="getica-english" />}}
 
 
 
フン王アッティラと会見した[[東ローマ帝国]]の[[プリスクス]]の所伝を引用したヨルダネスは「アッティラは背が低く、胸は広く、巨大な顔を持ち、眼は小さくて落ちくぼみ、髯は薄く、鼻は低く、顔色は黒ずんでいた」と記しており、フンがモンゴル型種族([[モンゴロイド]])であったことを示している<ref>内田、p154</ref>。
 
 
 
=== 文化と習慣 ===
 
[[File:Klosz Gyorgy hun.jpg|thumb|left|150px|フン族の大釜]]
 
4世紀の歴史家[[マルケリヌス・アンミアヌス]]はフン族の生活習慣について「食料を煮たり焼いたりせずに生のままで食べ、鞍の下に蓄えた腐肉も食する。女子供は常に荷車の中で生活し育てられる」と述べている<ref>アンビス、p31</ref>。
 
[[Image:Hun bow.jpg|150px|right|thumb|フン族の弓矢の複製品:屈曲型[[短弓]]の[[複合弓]]]]
 
フン族は牛、馬そして山羊と羊の群れを飼っていた<ref name="Thompson1996" />。彼らの他の食料源は狩猟と野草の採集だった。衣類は山羊の皮からつくった丸い帽子、ズボンまたレギンスと亜麻または齧歯類の皮の上着を着ていた。アンミアヌスはフン族はこれらの衣類がぼろぼろになるまで着ていたと伝えている。戦闘では彼らは弓と投げ槍を用いた。矢じりと槍先は骨でつくられていた。また、接近戦では鉄剣と投げ縄を用いた。フン族の剣は長く、真っ直ぐな両刃の[[サーサーン朝]]形式のものである<ref name="Nicolle1990">{{Citation | last = Nicolle | first = David | author-link = David Nicolle | last2 = McBride | first2 = Angus | author2-link = Angus McBride | title = Attila and the Nomad Hordes | year = 1990 | series = Osprey Military Elite Series | isbn = 0850459966 | publisher = Osprey | location = London }}</ref>。フン族の中の地位の象徴は金箔の弓である<ref name="Nicolle1990" />。
 
 
 
彼らは男児の顔を剣で切る[[スカリフィケーション]](傷による身体装飾)を行う。その他の一般的なフン族の習慣は、顔面を広げて敵に恐怖心を与えるために、幼児の頃から子供の鼻を縛り付けて平たくすることである。発掘されたフン族の頭蓋骨は、幼児期に頭を儀式的に縛り付けた結果である人工的な頭蓋骨奇形の証拠を示している<ref name="NationalGeographich2005">{{Citation | last = Delius | first = Peter | author-link = Peter Delius | last2 = Verlag | title = Visual History of the World | year = 2005 | isbn = 0-7922-3695-5 | publisher = National Geographic Society | location = Washington D.C. }}</ref>。
 
 
 
フン族はこの時代の他の蛮族と異なり、ヨーロッパに入ってからも定住生活を行わず、遊牧による移動生活を続けていた<ref>クローウェル、p48</ref>。アッティラの時代になると、フン族社会の経済は遊牧ではなく、略奪と従属部族からの搾取によって成り立っていたと考えられている<ref>トンプソン、p177-182、p192</ref>。
 
 
 
アンミアヌスは、フン族には王はおらず、貴族たちに率いられていると述べている。重大な事柄については、彼らは会議を開き、馬上で議論する。ルーア王の頃にフン族全体をまとめる王権が形づくられ<ref>トンプソン、p67-70</ref>、次のアッティラ王の時代に全盛期を迎えた。
 
 
 
フン族の人口は、ローマ側の史料では女子供を含めた60万から70万人とあるが<ref>クローウェル、p50</ref>、現代の研究者は実際の人口はかなり少なく、兵力は数千騎程度だったと考えている<ref>トンプソン、p52-56</ref><ref>クローウェル、p50-51</ref>。
 
 
 
=== 言語 ===
 
19世紀初頭、[[ドイツ]]の[[J・クラプロート]]が[[フン語|フンの言語]]は[[ウラル語]]系の[[フィン・ウゴル語派|フィノウグール語]]ではないかと提唱した。[[日本]]の[[白鳥庫吉]]もこの説を支持した。この時代の説を引いて、フィン・ウゴル語派に属する「[[フィンランド人]]がフン族の裔」とする説も流れた。しかしこの説は、東ローマの僧の「ハンガリー人はフンと同一民族である」との言い伝えと、同様の内容の[[ハンガリー]]の古記録、フンの種族名の一つにOungri/Ougri(ハンガリー)とあったのを根拠としていた。
 
 
 
[[1882年]]、ハンガリーの[[ヴァーンベーリ・アールミン|ヴァーンベーリ]]は『[[マジャール人]]の起源』において、[[フン語]]=[[トルコ語]]であるとした。その後様々な研究者によってフン語=トルコ語説が支持され、その中でも[[M・A・アリストフ]]は[[チュヴァシ人]](現在はフンの子孫とされている)の言語がフィノウグール語の影響を受けてはいるが、トルコ語がその語幹をなしていると論じた。
 
一方、[[ニコラス・ポッペ|ポッペ]]はその説に対して反論を行い、フン語は[[アルタイ諸語]]で、[[蒙古語]]でもトルコ語でもない別の言語であるとした。これを[[ワシーリィ・バルトリド|バルトリド]]も支持し、フン語は[[テュルク語]]系統の[[古トルコ語]]と[[ブルガール語]]近縁とされる[[チュヴァシ語]]が分岐する前の[[古チュヴァシ・トルコ語]]であるとした。
 
 
 
やがて、かつては同族だったとする[[ウラル・アルタイ語族]]説も否定され、アルタイ諸語に分類されると考えられている。
 
 
 
== 民族系統の考察 ==
 
=== 古代歴史書の見解 ===
 
4世紀の歴史家[[アンミアヌス・マルケリヌス|アンミアヌス]]は「氷結した大海に近い北方からやって来た」と述べた<ref> Peter Heather. ''The Goths''. Page 98</ref>。
 
 
 
5世紀のローマ外交官でギリシャ歴史学者でもあった[[プリスクス]]は、フン族が独自の言葉を持っていたことに言及している。
 
 
 
6世紀の歴史家ヨルダネスはフン族の起源を[[ゴート族]]の[[魔女]]と不浄な魂との交合によるものであると述べている<ref>Jordanes. http://www.acs.ucalgary.ca/~vandersp/Courses/texts/jordgeti.html The origins and deeds of the Goths XXIV (121-2), translated by Charles C. Mierow</ref>。
 
 
 
アラン人を移民に追いやった経過からは、フン族がヴォルガ川以東のかつての[[スキタイ]]方面からの遊牧民の可能性が高いをことを示しているが、これらの古い記述は、フン族が少なくともかなりの北方から渡来してきたことを示唆した。しかし、これ以上の具体的な起源は不明であった。
 
 
 
=== 「フン族」=「匈奴」説 ===
 
[[File:XiongnuMap.png|thumb|250px|250年頃の[[匈奴]]の領域]]
 
「フン族は紀元前3世紀頃に中国の北方に勢力があった[[匈奴]]の子孫であり<ref name="DeGuignes1756">{{Citation | last = De Guignes | first = Joseph | author-link = Joseph de Guignes | title = Histoire générale des Huns, des Turcs, des Mongols et des autres Tartares | year = 1756-1758}}</ref>、[[テュルク系民族]]が[[ユーラシア大陸]]に広がった最初の端緒である<ref>Frucht, Richard C., ''Eastern Europe'', (ABC-CLIO, 2005), 744.</ref>。」とする説がある。
 
 
 
{{要出典範囲|初めフン=[[匈奴]]説は、17~18世紀の[[中国]]に渡来した[[イエズス会|フランスイエズス会]][[宣教師]]のクロード、ヴィスデルー、アントワヌ、ゴービル等が唱えたものである。|date=2015年2月}}つづいて、フランスの[[コレージュ・ド・フランス]]教授[[ジョゼフ・ド・ギーニュ]]が『フン・トルコ・モーコ通史』([[1756年]])において、紀元前3世紀にはフン族と匈奴が中国北部で接していた、と主張した。
 
 
 
さらに、[[ミュンヘン大学]]の[[F・ヒルト]]博士は『ヴォルガフンネンと匈奴について』([[1899年]])において、『[[魏書]]』西域伝に見える「粟特国」を、[[アッティラ]]の死後フンが退居した[[クリミア半島]]の「スグダク」に比定し、西史に見える「フンの[[アラン族]]征服」を、『魏書』西域伝の「匈奴の[[奄蔡]](阿蘭)征服」に比定し、「フルナス(アッティラの末子)」を「忽倪」に比定した。また、『魏書』西域伝に見える「(粟特国の)別名は溫那沙」に注目した[[J・マルカルト]]は『ブルガール王侯表中に於ける非スラブ的表現』([[1910年]])において、「溫那沙=Un-na-sa」の「-sa」の中に、[[オセット語]]の[[接尾語]]「ston」、[[アラン語]]の「stān」が存在すると論じ、「溫那沙」はアラン語または[[ペルシャ語]]の「Hūnastān」すなわち「フンの国」の音訳であるとし、ヒルト説を補強した。
 
 
 
これに対して、前出の歴史学者[[白鳥庫吉]]は、「粟特国はスグダクではなく[[ソグディアナ]]であり、匈奴が粟特国を征服したとあるのは、フンがアランを征服したのではなく、[[エフタル]]がソグディアナを征服した記述である」と反論している。
 
 
 
一方、フン族の指導者たちの名は[[テュルク諸語]]で表されているとされている説がある<ref>Pritsak, Omeljan. 1982 "The Hunnic Language of the Attila Clan." ''Harvard Ukrainian Studies'', vol. 6, pp. 428–476.{{cite web |url=http://www.huri.harvard.edu/pdf/hus_volumes/vVI_n4_dec1982.pdf |title=アーカイブされたコピー |accessdate=1982年6月15日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090205185241/http://www.huri.harvard.edu/pdf/hus_volumes/vVI_n4_dec1982.pdf |archivedate=2009年2月5日 |deadurldate=2017年9月 }}</ref><ref name="kroraina.com">[http://www.kroraina.com/huns/mh/index.html Otto Maenchen-Helfen, Language of Huns Ch. XI.]</ref>。これに白鳥自身が当初フン族をフィン・ウゴル語派としていたため、言語が異なる異民族であると否定している。しかし、匈奴がテュルク語族であったことは否定しなかった。
 
 
 
これらの学説の論拠は名称や墓相・装飾品の類似などである。一部の研究者は「匈奴」の当時の発音が「フンナ」もしくは「ヒュンナ、キョウナ」など、フンを想起されると主張し([[匈奴#読み]]を参照)、また[[後漢]]が北匈奴を討ったこと([[91年]])を根拠に、以降に匈奴の一部が西方に逃れてフン族となったとする説の他、当時の[[北アジア]]・[[中央アジア]]に至る草原地帯の地域的気候変動が遊牧経済に打撃を与えたことが彼らの大移動の要因になっているとする説があるほか、王名などの分析から[[言語学]]的には[[モンゴル系]]に属するという説もある。しかし、それ以外の言語学的資料が少なく不詳となっている。
 
 
 
しかし、大半の学者はフン族と匈奴の関連性について断定的な態度はとっていない。遊牧民の集団は血統を重視するため首長家の婚姻や政治的連合によっても主要な中枢集団の構成要素は容易に変動しないが、フン族集団全体としては匈奴の西走集団と系譜的に繋がるとしても、これを中国北方から西走した匈奴国家の部民が元の体制を維持したまま西方にフン族として登場した可能性には疑問がある。
 
 
 
西ゴート族襲撃以前のフン族については、決定的な証拠はいまだなく、正確に分かることは何も無いため、現状は広く受けいられている学説ではない。
 
 
 
=== 遺伝子学的なアプローチ ===
 
フン族の遺骨から古代の[[DNA]]を分析するアプローチも行われ、これまでにいくつかの手がかりが得られている。「フン族=匈奴説」にもとづいて、紀元前300年~西暦200年頃の匈奴があったとされるモンゴルの地域からのいくつかのサンプルから[[Y染色体]]の[[ハプロタイプ]]を調べたところ、これまで2つから[[ハプログループC2 (Y染色体)|C2]]、他に[[ハプログループQ (Y染色体)|Q-M242]]、[[ハプログループN (Y染色体)|N1c1]]、[[ハプログループR1a (Y染色体)|R1a1a-M17]] が見つかっている。[[新疆]]バルクルからのサンプルでは3つ全てからQ1a3a-M3が見つかった。ハプログループQは[[ネイティブアメリカン]]に多く分布するが、これまでのサンプル数からは断定的なことはなにも言えない。
 
 
 
[[ミトコンドリアDNA|mtDNA]]でも45個のサンプルから調査が行われ、ほとんどから東アジアの出自を示す[[ハプログループB (mtDNA)|B4b]]、[[ハプログループC (mtDNA)|C]]、[[ハプログループD (mtDNA)|D4]]、[[ハプログループF (mtDNA)|F1b]]、[[ハプログループG (mtDNA)|G2a]]が見つかっているが、6つは[[ハプログループU (mtDNA)|U2]]、[[ハプログループU (mtDNA)|U5a]]、J1といったヨーロッパ起源のものが含まれていた<ref>{{Cite web|url=http://www.eupedia.com/forum/threads/29049-The-ancient-Huns-belonged-to-Y-haplogroups-Q-N-C-and-R1a1|title=The ancient Huns belonged to Y-haplogroups Q, N, C and R1a1|publisher=Eupeida forum|accessdate=2016-2-24}}</ref>。
 
 
 
=== 現代の解釈 ===
 
近代の民族集団を形成論的に考察した解釈に<ref name="Pohl"/>、歴史上の大草原における[[国家連合|部族連合]] は民族的に同種ではなく<ref name="Pohl"/>、むしろ[[テュルク|テュルク語族]]、[[エニセイ語族]]([[:en:Yeniseian languages|en]])、[[ツングース|ツングース語族]]、[[ウラル語族]]、[[イラン人|イラン語族]]<ref>[http://books.google.bg/books?id=t-SSqtsGaGwC&pg=PA227&lpg=PA227&dq=Iranian+tribes++origin+of+the+Huns&source=bl&ots=KmjD3n9O0T&sig=gzLZmOVXs5x3aoghoK1sWzbj0nI&hl=bg&ei=br8fSvGEAc2vsgaIj7G_Bg&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=7 History of Russia, Central Asia, and Mongolia, David Christian, Wiley-Blackwell, 1998, p. 227.], ISBN 0631208143.</ref>、[[モンゴル諸語|モンゴル語族]]などのような多民族の連合である。これはフン族も同様であることを示唆している<ref name="Pohl"/>、とするものがある。
 
 
 
説では、威信と名声に基づいて多くの氏族が自らをフン族であると主張したであろうし、それは彼らの共通の特徴や信じられていた起源の場所、評判を記述した部外者のためである<ref name="Pohl">[[:en:Walter Pohl]] (1999), "Huns" in ''Late Antiquity'', editor [[:en:Peter Brown]], p.501-502 .. further references to F.H Bauml and M. Birnbaum, eds., ''Attila: The Man and His Image'' (1993). [[:en:Peter Heather]], "The Huns and the End of the Roman Empire in Western Europe," ''English Historical Review'' 90 (1995):4-41. [[:en:Peter Heather]], ''The Fall of the Roman Empire'' (2005). [[:en:Otto J. Maenchen-Helfen|Otto Maenchen-Helfen]], ''The World of the Huns'' (1973). E. de la Vaissière, "Huns et Xiongnu", ''Central Asiatic Journal'' 2005-1 pp. 3-26</ref>、と断ずる。
 
 
 
同様にギリシャ語やラテン語の年代記編纂者たちも「フン族」という名称を「[[蛮族]]」と同様により大まかな感覚で用いていたことを想起させる。
 
 
 
これらの要素によって、同様の集団の中に民族的な均質性がなく、そして外部の年代記編纂者たちによるフン族の名称との相関関係から、多くの現代の歴史家たちはフン族の起源の説明について民族集団形成([[:en:Ethnogenesis]])のアプローチに向かった。民族集団形成のアプローチでは集団が単一の土地を起源とするか単一の歴史を持つ言語学的または遺伝学的に均質の部族を想定しない。寧ろ貴族階級の戦士たちの小集団が土地から土地へ、世代から世代へと民族的な慣習を受け継ぐであろうとしている。臣下たちはこれら伝統の中枢の周辺に合同したり、離散したりする。フン族の民族性はこれらの集団に受け入れさせることを必要とするが、その際に「部族」の中から生まれたことは必要条件ではない。「私たちが差支えなく言えることは古代末期(4世紀)におけるフン族の名称は草原の戦士の名声のある支配集団を表現していると云うことである」と歴史学者[[ヴァルター・ポール]]は述べている<ref name="Pohl"/>。
 
 
 
同様の解釈を[[フランク王国]]を建国した[[サリ族|サリー族]]にもあてはめる議論があり<ref>[[福井憲彦]]『世界各国史12 フランス史』</ref>、現代の主流となりつつある。
 
 
 
== 後継国家 ==
 
[[ファイル:Buda--Castles01.jpg|thumb|250px|フン王ブレダの名に由来する[[ブダ城]]]]
 
フン帝国の崩壊後、フン族は東ヨーロッパ一帯に子孫を残したが、彼らがかつての栄光を取り戻すことはなかった。その理由の一つはブルガール人やマジャール人、[[ジョチ・ウルス|金帳汗国]]と異なり、フン族が税制や官僚制度といった完全な国家機構を確立することがなかったためである。いったん組織が崩れると、フン族はより組織化された政治体に吸収されてしまった。彼らの後の[[アヴァール]]と異なり、一度フン族の政治的統一が崩れると、フン族はアッティラを頂く多民族帝国になっていたため、それを再建する手段はなかった。フン族は(少なくとも通常は)様々な人々の大群を含んでおり、彼らの各々が自らをフン族の「子孫」であると考えていた。しかしながら、フン族は固有の人民や国家ではなく政治的産物であったので、454年の敗北がこの政治体の終わりとなった。その後に発生した新たな政治体は、以前のフン族連合の人々から構成されており、同じステップ文化を継承していたが、彼らは新たな政治的産物である。
 
 
 
後の多くの国々がフン族の民族的、文化的後継者であると主張している。[[ブルガール王侯表]]([[:en:Nominalia of the Bulgarian Khans|en]])は、ブルガリア王家がアッティラの子孫であると信じていたことを示している。[[ブルガール人]]はおそらくフン族の民族同盟の主要構成員であったであろう。フン族とブルガール人の文化には幾つかの類似があり、例えば人工的[[頭蓋変形]]の習慣などの考古学的証拠は、両者の強い連続性を示唆する。フン族とブルガール人の最も特徴的な武器(複合弓や長く垂直の両刃の剣など)はその外観がほとんど同じである。何人かの学者は[[チュヴァシ語]]([[ブルガール語]]の後裔であると信じられている)は[[フン語]]に最も近い同族言語であると仮説を立てた<ref>Encyclopaedia Britannica, 1997: ''Turkic languages''.<blockquote>"''Formerly, scholars considered [[:en:Chuvash]] probably spoken by the Huns.''"</blockquote></ref>。
 
 
 
[[マジャル人]](ハンガリー人)はフン族の相続者たるを特に強く主張している<ref>アンビス、p7-9</ref>。マジャル族はフン部族連合が消滅した約450年後の[[9世紀]]末に現在のハンガリー地方に定住し始めたが、マジャル起源伝説を含むハンガリー先史時代([[:en:Hungarian prehistory|en]])は幾つかの歴史的事実を残しているとされる。ヨーロッパを侵略したフン族は様々な人々の緩やかな連合を代表し、マジャル人の幾らかもその一部であったろうし、または後になって依然としてフン族を名乗っていたアッティラの子孫に参加したのかもしれない。確定的な歴史学的または考古学的証拠がないにもかかわらず、[[賛称]](ハンガリー国歌)はハンガリー人を「[[ムンズク]](''Bendegúz'':[[:en:Mundzuk|en]])の血統」(アッティラの父)であると述べている。アッティラの兄[[ブレダ (フン族)|ブレダ]](''Bleda'')は現在のハンガリー語ではブダ(''Buda'')と呼ばれている。[[ブダペスト]]西側の[[ブダ]]地区は彼の名に由来するとされている。20世紀前半まで、ハンガリーの歴史学者の多くは[[セーケイ人]]はフン族の後裔であると信じていたが、現在では学界の一般的見解ではない。
 
 
 
[[ベーダ・ヴェネラビリス|ベーダ]]は[[アングロ・サクソン人|アングロサクソン]]が部分的にフン族の血筋を引いていると主張した<ref>{{Cite book|author=ベーダ|title=ベーダ英国民教会史|date=2008年2月7日|year=|accessdate=|publisher=講談社学術文庫|isbn=978-4061598621|author2=高橋博|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=|}} 第五巻 第9章</ref>。
 
 
 
== 伝説 ==
 
[[Image:CaravaggioUrsula crop.jpg|thumb|300px|『''聖ウルスラの受難''』。結婚を拒否した[[聖ウルスラ]]を矢で突き刺すフン王。[[ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ]]画、1610年。]]
 
フン族の征服の記憶は[[ゲルマン民族]]の中で[[口承|口伝伝承]]され、[[古ノルド語]]の『[[ヴォルスンガ・サガ]]』や『[[ヘルヴォルとヘイズレク王のサガ]]』そして[[中高ドイツ語]]の『[[ニーベルンゲンの歌]]』の重要な構成要素となった。これらの物語は[[千年紀]]前半の[[民族移動時代]]の事件を題材としている。
 
 
 
『ヘルヴォルとヘイズレク王のサガ』では、ゴート族は弓を巧みに扱うフン族とはじめて接触し、[[ドナウ川]]の平原で勇壮な戦闘を行う。
 
 
 
『[[ニーベルンゲンの歌]]』では、[[ブルグント族|ブルグント]]王グンテルの陰謀により重臣[[ハゲネ]]に夫[[シグルズ|ジーフリト]]を殺された[[クリエムヒルト]]が、フン族の王エッツェル([[アッティラ]])と結婚する。その後、彼女はエッツェルの妻としての権力を用いて、ハゲネとグンテル王だけでなく全てのブルグント騎士に血なまぐさい復讐を行った。
 
 
 
『[[ヴォルスンガ・サガ]]』では、アトリ(アッティラ)は夫シグルズを失い寡婦となったブルグントの王妹[[グズルーン]]と再婚し<ref>『アイスランドサガ』p.588。</ref>、黄金を手に入れるためにブルグント王グンテルと弟ホグニを騙して自国に招き殺害するが、ホグニの息子に復讐される<ref>『アイスランドサガ』p.590-596。</ref>。
 
 
 
中世の[[キリスト教]]伝説では、1万1千人の処女とともに巡礼の旅に出た[[聖ウルスラ]]はフン族に襲われ、聖ウルスラはフン王の矢で射殺され、1万1千人の処女たちは虐殺されている。
 
 
 
[[16世紀]]のノルウェー南部の農民反乱において、叛徒たちは法廷で「フン王アトル(''Atle'')」が大軍とともに北から来援することを期待していたと主張している。
 
[[File:The Hun and the Home.jpg|thumb|200px|第一次世界大戦時の[[イギリス]]の対独プロパガンダのポスター。敵国ドイツを"'''Hun'''"と形容している。]]
 
近代になって、フン族(''Hun'')の名称は[[第一次世界大戦]]と[[第二次世界大戦]]における[[ナチス・ドイツ|ドイツ]]のあだ名として用いられた<ref>クローウェル、p38</ref>。[[1900年]]の[[義和団の乱]]に際してドイツ皇帝[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]が「敵に対してフン族のように容赦するな」と将兵に命じた<ref>''Weser-Zeitung'', July 28, 1900, second morning edition, p. 1: 'Wie vor tausend Jahren die Hunnen unter ihrem König Etzel sich einen Namen gemacht, der sie noch jetzt in der Überlieferung gewaltig erscheinen läßt, so möge der Name Deutschland in China in einer solchen Weise bekannt werden, daß niemals wieder ein Chinese es wagt, etwa einen Deutschen auch nur schiel anzusehen'.</ref>。この演説が第一次世界大戦の際にドイツ人の野蛮性を強調すべく、[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]に利用された。第二次世界大戦でも、連合国の人々は同じようにドイツ人を形容している。
 
 
 
== 注釈 ==
 
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== 参照 ==
+
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== 参考文献 ==
 
* [[:en:Otto J. Maenchen-Helfen|Otto J. Mänchen-Helfen]] (ed. Max Knight): ''The World of the Huns: Studies in Their History and Culture'' (Berkeley, University of California Press, 1973) ISBN 0-520-01596-7
 
* {{Citation | last = Maenchen-Helfen | first = Otto | author-link = Otto J. Maenchen-Helfen | title = The Legend of the Origin of the Huns | journal = Byzantion | year = 1944-1945| volume = 17 | pages = 244–251 }}
 
* E. A. Thompson: ''A History of Attila and the Huns'' (London, Oxford University Press, 1948)
 
* de la Vaissière, E. "Huns et Xiongnu", Central Asiatic Journal, 2005-1, p.&nbsp;3-26.
 
* Lindner, Rudi Paul. "Nomadism, Horses and Huns", ''Past and Present'', No.&nbsp;92. (Aug., 1981), pp.&nbsp;3–19.
 
* J. Webster: ''The Huns and Existentialist Thought'' (Loudonville, Siena College Press, 2006)
 
* 内田吟風 『北アジア史研究 匈奴篇』(同朋舎出版、1975年)ISBN 978-4810406276
 
* ルイ・アンビス著、安斎和雄訳 『アッチラとフン族』(白水社、1973年)ISBN 978-4560055366
 
* E・A・トンプソン著、木村伸義訳 『フン族―謎の古代帝国の興亡史』(法政大学出版局、1999年)ISBN 978-4588371080
 
* トマス・クローウェル著、蔵持不三也訳 『図説 蛮族の歴史 〜世界史を変えた侵略者たち』(原書房、2009年)ISBN 978-4562042975
 
* ピエール・リシェ著、久野浩訳 『蛮族の侵入―ゲルマン大移動時代』(白水社、1974年)ISBN 978-4560055670
 
* 『アイスランドサガ』、[[谷口幸男]]訳(新潮社、1979年)、ISBN 978-4103137023。
 
* 下津清太郎 編 『世界帝王系図集 増補版』 近藤出版社、1982年
 
 
 
== 外部リンク ==
 
{{Commonscat|Huns}}
 
*[http://steppenreiter.de/hunnen.htm Die Hunnen bei steppenreiter.de/]
 
*[http://www.allempires.com/article/index.php?q=The_Xiong_Nu_Empire] (englisch)
 
*[http://www.zdf.de/ZDFde/inhalt/31/0,1872,2137247,00.html ZDF: Der Hunnensturm über Europa]
 
*[http://www.nhm-wien.ac.at/NHM/prehist/Stadler/Halbturn96/Index.html HomePage der Ausstellung Reitervölker aus dem Osten, Hunnen + Awaren, Burgenländische Landesausstellung 1996] 
 
 
 
{{ウクライナの歴史}}
 
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2018/10/8/ (月) 19:01時点における最新版

フン族(フンぞく、Hun)

中央アジア,ステップ地方に住んでいたウラル=アルタイ語族のトルコ語またはモンゴル語系統に属する遊牧騎馬民族。4世紀頃ドン川流域に移動。 370年頃さらに西進,黒海北岸に住んだゲルマン系の東ゴート人の国家を壊滅させ,次いで今日のルーマニアに居住した西ゴート人を圧迫して,ゲルマン民族移動 (民族大移動 ) の端を開いた。 375年頃ティサ川上流に達し,東南ヨーロッパに一大国家を築いた。初め族長に率いられる諸部族の連合国家であったが,432年に1人の王のもとに統一された。初代ルア (あるいはギラ) 王の甥で兄ブレダとともにその跡を継いだアッチラ王 (在位 434~453) のときフン民族の国家は最盛期を迎え,その版図はライン川上流よりウラル川流域に達した。東ローマ帝国を2度攻略 (441,447) ,さらに西ローマ帝国を圧迫したが,451年カタラウヌムの戦いで西ローマ=西ゴート連合軍に敗北。アッチラ死後は,ゲピート族の反乱 (455) ,パンノニアにおける敗戦によって急速に衰微し,ドナウ川下流に退いた。それ以後の史料はきわめて乏しく,5世紀末までにはフン民族は分散消滅してしまった。漢の時代に中国北辺に侵入した匈奴,また5~6世紀にイラン,インドに侵入した遊牧民族ヘフタリットと同一民族であるかどうかは不明。



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