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{{出典の明記|date=2012年2月|ソートキー=ふらんす革命戦争__世界史}}
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[[画像:La Bataille du Pont d'Arcole.jpg|thumb|right|250px|[[アルコレの戦い]]]]
 
[[画像:Aboukir.jpg|thumb|right|250px|[[ナイルの海戦]]]]
 
 
'''フランス革命戦争'''(フランスかくめいせんそう、{{lang-fr-short|Guerres de la Révolution française}}, {{lang-en-short|French Revolutionary Wars}})は、[[1792年]][[4月20日]]から[[1802年]][[3月25日]]までの、革命後の[[フランス第一共和政|フランス]]と、反革命を標榜する[[対仏大同盟]]<ref>[[イギリス帝国|イギリス]]および[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]を中心としたヨーロッパ[[列強]]</ref>との一連の[[戦争]]である。当初は[[フランス革命]]に対する外国の干渉戦争であり、[[シベリア出兵]]と同様に旧債務を確認する意味をもっていた。[[1794年]]前後を境に形勢は逆転し、フランスによる侵略戦争に変貌した。
 
 
== 概要 ==
 
フランス革命戦争は、[[オーストリア]]による[[フランス革命]]への干渉を契機として、[[1792年]][[4月20日]]にフランス革命政府([[ジロンド派]]内閣)のオーストリアへの[[宣戦布告]]によって開始された。[[フランス]]北部および東部、[[オランダ]]、[[ベルギー]]、[[ドイツ]]、[[北イタリア]]、[[エジプト]]、一部の[[植民地]]などが主要な戦場となった。[[1793年]]にはイギリスを中心として[[第一次対仏大同盟]]が結成され、国内での反乱も相まってフランスは危機に陥った。だが革命の熱気によってもたらされた国民的な戦争への参画と、国家総動員体制の整備や[[師団]]編成の導入をはじめとする軍事的革新をばねとして反撃に転じた。[[1797年]]には[[カンポ・フォルミオの和約]]によってオーストリアが一旦戦争から脱落した。
 
 
[[1798年]]、[[第二次対仏大同盟]]が結成され、オーストリアが再度参戦しフランスは再び劣勢に立たされる。こうした状況下、[[エジプト・シリア戦役|エジプト遠征]]から帰還した[[ナポレオン・ボナパルト]]が最高権力を掌握した。ボナパルトの反撃によって、オーストリアは[[1801年]]の[[リュネヴィルの和約]]により再度講和し、イギリスも[[1802年]][[3月25日]]の[[アミアンの和約]]に応じた。これによりフランス革命戦争は終結した。
 
 
戦争に勝利したフランスは革命政府の国際的承認と大幅な領土拡大とを勝ち取った。だがアミアンの和約後の平和は長続きせず、1803年には再び英仏は戦争状態に入り、ヨーロッパ諸国は[[ナポレオン戦争]]へと突入していく。
 
 
=== 参戦国 ===
 
[[フランス第一共和政|フランス]]側では、戦争の過程で誕生した[[姉妹共和国|フランスの衛星国]]と、1796年10月以降は[[スペイン]]が参戦した。
 
 
対仏大同盟に参加した諸国は以下の通りである。他にフランスは[[オランダ]]、[[スイス]]、[[ヴェネツィア共和国]]、[[教皇領]]などを侵略している。
 
* [[第一次対仏大同盟]] - [[グレートブリテン王国|イギリス]]、[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]、[[南ネーデルラント|オーストリア領ネーデルラント]]([[ベルギー]]、[[ルクセンブルク]])、[[プロイセン王国]]、スペイン、[[ナポリ王国]]、[[サルデーニャ王国]](ピエモンテ)
 
* [[第二次対仏大同盟]] - [[グレートブリテンおよびアイルランド連合王国|イギリス王国]]、オーストリア、[[ロシア帝国]]、[[オスマン帝国]]
 
 
== 背景 ==
 
[[1780年代]]末、[[七年戦争]]以来のヨーロッパ大国間の対立関係は解消されつつあった。プロイセン、オーストリア、ロシアの3国は第1回[[ポーランド分割]]([[1772年]])で協調し、それぞれ国境に隣接する地域を獲得した。ロシアと[[スウェーデン]]は[[1788年]]から[[第一次ロシア・スウェーデン戦争]]を戦っていたが、スウェーデンの優勢によってロシアは[[スウェーデン=フィンランド|フィンランド]]への干渉を停止し、両国の関係は改善されることとなった。イギリスは[[アメリカ独立戦争]]に伴う第一次[[武装中立同盟]]の結成によって国際的孤立に立たされたが、戦争終結によって孤立も解消された。こうした国際環境の中で[[フランス革命]]が勃発した。
 
 
ヨーロッパの君主たちはフランス革命の動向を注視していた。スウェーデン国王[[グスタフ3世 (スウェーデン王)|グスタフ3世]]は、フランス王家との繋がりから早くから[[反革命]]の立場を表明していた。[[1791年]]6月、ルイ16世一家の革命勢力からの脱出が失敗に終ると([[ヴァレンヌ事件]])、直ちにフランスからの[[亡命]][[貴族]]([[エミグレ]])と結び、[[反革命十字軍]]の結成をヨーロッパ諸国に呼びかけた。しかし呼びかけに答えたのは[[ロシア皇帝]][[エカチェリーナ2世]]のみで、結成には至らなかった。1792年3月にグスタフ3世が[[暗殺]]されたことで、スウェーデンは革命戦争に参加することはなかった。
 
 
神聖ローマ皇帝[[レオポルト2世 (神聖ローマ皇帝)|レオポルト2世]]も決断を迫られていた。レオポルト2世はフランス国王[[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]の王妃[[マリー・アントワネット]]の実の兄として、革命が過激化していくにつれて親族の身に迫る危険を看過しえなくなっていたのである。[[1791年]]8月27日、レオポルト2世は亡命貴族の[[シャルル10世 (フランス王)|アルトワ伯爵]](ルイ16世の弟)の仲介のもと、プロイセン国王[[フリードリヒ・ヴィルヘルム2世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム2世]]と共同で[[ピルニッツ宣言]]を発表した。これは、フランス王家の安全を守るため、必要があれば革命に介入する用意があるとするものであった。
 
 
レオポルト2世自身は必ずしも戦争を望んではいなかったと言われるが、フランス革命政府においてこの宣言は深刻な脅迫として受け止められた。さらに、[[南ネーデルラント|オーストリア領ネーデルラント]]([[ベルギー]]、[[ルクセンブルク]])や[[ドイツ]]における王党派亡命貴族による扇動活動も革命政府を刺激するに十分であった。フランスとオーストリアとの間には[[アルザス=ロレーヌ]]の帰属問題という積年の対立もあった。こうしたことを背景に、当時外務大臣の地位にあった{{仮リンク|シャルル・フランソワ・デュムーリエ|fr|Charles-François Dumouriez|label=デュムーリエ}}らの主導のもと、フランス[[立法議会]]は[[1792年]]4月20日、オーストリアへの宣戦布告を決議した。
 
 
== 経過 ==
 
=== 祖国は危機にあり! ===
 
[[ファイル:Bataille de Valmy ag1.jpg|right|thumb|250px|ヴァルミーの戦い]]
 
デュムーリエは[[南ネーデルラント]]への侵攻作戦を計画していた。現地住民はフランス軍に呼応して皇帝の支配に対して蜂起するであろうという期待もあった。しかし、そう都合よくはいかなかった。革命によってフランス軍の機構も混乱していたのである。士官たちは貴族階級であるので革命政府に非協力的であり、兵士たちの規律も緩み、敵前逃亡したり、革命にことよせて上官を殺害するといった行為に及んだ。
 
 
マリー・アントワネットにいたっては敵方にフランス軍の作戦を漏らしていた。プロイセンがフランスへ宣戦布告し、[[カール・ヴィルヘルム・フェルディナント・フォン・ブラウンシュヴァイク|ブラウンシュヴァイク公爵]]の率いるプロイセン軍は7月に国境を越え[[ヴェルダン]]を陥落させた([[ヴェルダンの戦い (1792年)|ヴェルダンの戦い]])。ブラウンシュヴァイク公は、亡命貴族の[[ルイ5世ジョゼフ・ド・ブルボン=コンデ|コンデ公]]が作成した、王政を復古させ反対者は死刑とするという宣言を発表する。
 
 
7月11日、立法議会は「祖国は危機にあり!」との宣言を発し、宣言に応じてフランス各地から義勇兵が[[パリ]]に集結した。このとき[[マルセイユ]]からやって来た義勇兵が歌っていた軍歌が広まり、後に「[[ラ・マルセイエーズ]]」と名づけられる。パリ市民と義勇兵は、フランス軍の劣勢の原因はルイ16世とマリー・アントワネットがオーストリア・プロイセン軍と内通していると考え、8月10日に[[テュイルリー宮殿]]を襲撃し、王権を停止して国王一家を[[タンプル塔]]へ幽閉した([[8月10日事件]])。
 
 
デュムーリエと[[フランソワ・クリストフ・ケレルマン|ケレルマン]]が率いるフランス義勇兵と砲兵隊は、[[ヴァルミーの戦い]](9月20日)でプロイセン軍の侵略を食い止めた。戦闘自体は激しいものではなく、プロイセン軍の退却は戦術的後退に過ぎなかったものの、初めての勝利はフランス国民を沸き立たせた。フランス軍は攻勢に転じ、[[フランドル]]方面ではデュムーリエが[[ジュマップの戦い]](11月6日)でオーストリア軍に勝利し、南ネーデルラント全域を占領した。[[アダム・フィリップ・ド・キュスティーヌ|キュスティーヌ]]はドイツへ侵攻し[[フランクフルト・アム・マイン|フランクフルト]]まで到達した。
 
 
=== 国家総動員 ===
 
[[1793年]]1月、[[国民公会]]は戦時体制の強化のため国防委員会(後の[[公安委員会 (フランス革命)|公安委員会]])を設置した。しかしそのころフランス軍の状態は悪化していた。前年に軍へ参集した義勇兵たちは満期を理由に帰郷し、常備軍の兵士たちは満足な給与も与えられておらず、前線の兵力は次第に減少していった。さらに、1月21日の革命政府によるルイ16世の処刑はヨーロッパ中を震撼させ、[[スペイン]]、[[ネーデルラント連邦共和国|オランダ]]、[[ナポリ王国]]、[[サルデーニャ王国]]、さらにはそれまで市民革命に同情的であったイギリスすら反革命に立たせる。またイギリスにとっては、オランダがフランスの手に落ちることは自国の安全保障からも重大な問題であった。こうした理由から、イギリスを中心とした主要国間で[[第一次対仏大同盟]]が結成される。2月1日、フランスはイギリスとオランダに対しても宣戦布告した。
 
 
2月24日、国民公会は兵力不足を補うための「30万人募兵」を可決したが、思ったほど兵士は集まらなかった。それどころか募兵への反発から3月には[[ヴァンデの反乱]]が勃発した。前線では、デュムーリエが南ネーデルラント防衛という政府の方針を無視してオランダへ侵攻したが、兵力不足とオーストリア軍の反撃の前に撤退を余儀なくされ、さらに[[ネールヴィンデンの戦い (1793年)|ネールヴィンデンの戦い]](3月18日)に敗北した。追い詰められたデュムーリエは、[[ジャコバン派]]に処刑されるよりはと政府に対する反乱を部隊に呼びかけるが、部下の反対にあい、4月5日に敵陣へ逃げ込む羽目になる。
 
 
南フランスではジャコバン派政権に対する反乱も起きた。4月29日に[[マルセイユ]]、5月29日に[[リヨン]]で反政府の反乱政権が誕生、7月12日には[[トゥーロン]]が反旗を翻しイギリス軍を援軍に招きいれた。さらにイギリスは5月31日にフランスに対する海上封鎖を発令し、スペイン軍、サルデーニャ軍も国境を越え、[[7月27日]]オーストリア軍は{{仮リンク|ヴァレンシエンヌ包囲戦 (1793年)|en|Siege of Valenciennes (1793)|label=ヴァレンシエンヌ包囲戦}}を陥落させた。フランスは再び窮地に陥った。
 
 
8月23日、国民公会は「国家総動員」を発令し、[[徴兵制度]]を施行した。身代わりの許された30万人募兵と違って、各階層の国民を平等に徴兵し、新たに120万の兵士が軍に加わった。これは[[傭兵]]を軍の主力としていた当時のヨーロッパの君主制国家では想像できないほどの大兵力であった。巨大化し[[国民軍]]へと変質したフランス軍は[[ラザール・カルノー|カルノー]]の指導の下で13個[[軍団]]に再編され、反撃の準備は整った。9月、{{仮リンク|ジャン・ニコラ・ウーシャール|en|Jean Nicolas Houchard|label=ウーシャール}}が[[フレデリック (ヨーク・オールバニ公)|ヨーク公]]の率いるイギリス軍を{{仮リンク|オンドスコートの戦い (1793年)|en|Battle of Hondschoote (1793)|label=オンドスコートの戦い}}(9月6日-8日)で破り、[[ダンケルク]]を包囲から解放した。10月には後任の[[ジャン=バティスト・ジュールダン|ジュールダン]]が{{仮リンク|ワッチニーの戦い|en|Battle of Wattignies}}(10月15-16日)でオーストリア軍に勝利した。
 
 
国内でも、8月25日にはマルセイユ、10月10日にはリヨンの反乱が鎮圧された。だがトゥーロンはイギリス軍の支援を受けていたため攻略に難航する。フランス軍は10月30日と11月15日の2回の攻撃に失敗し、司令官が罷免された。後任の司令官に就任した[[ジャック・フランソワ・デュゴミエ|デュゴミエ]]は、当時まだ24歳の砲兵士官[[ナポレオン・ボナパルト]]の立てた作戦を採用し、12月19日にトゥーロンの奪回に成功した([[トゥーロン攻囲戦]])。
 
 
=== オランダ占領 ===
 
フランス軍は巨大化し、兵力で対仏大同盟軍を圧倒したが、一方でそのような大軍は[[兵站|補給]]物資の多くを敵国の領土からの徴発に依存していた。以後、戦争はフランスによる侵略の様相を帯びてゆく。[[1794年]]、ジュールダンが{{仮リンク|フルリュスの戦い (1794年)|en|Battle of Fleurus (1794)|label=フルリュスの戦い}}(6月26日)でオーストリア軍に勝利した。この結果対仏大同盟軍は[[ライン川]]以西からの撤退を余儀なくされ、フランス軍は[[南ネーデルラント]]と[[ラインラント]]の大部分を制圧した。
 
 
[[1795年]]初頭、河川の結氷により[[オランダ]]の要塞の防御力が低下する冬季を衝いて、{{仮リンク|ジャン・シャルル・ピシュグリュ|en|Jean-Charles Pichegru|label=ピシュグリュ}}の率いるフランス軍はオランダへ大挙して攻撃をかけた。オランダではフランス革命に賛同し協力する人々も多く、都市は次々と陥落し、オランダ総督[[ウィレム5世 (オラニエ公)|ウィレム5世]]は逃亡、オランダ艦隊は接収された。オランダには[[バタヴィア共和国]]が成立し、[[ブラバント]]と[[マーストリヒト]]がフランスへ割譲された。
 
 
オランダの陥落を見てプロイセンもフランスとの講和を決め、[[バーゼルの和約]](4月5日)を結んだ。和約によってプロイセンはフランスのラインラント併合を認めたが、[[ポーランド分割]]に集中できるようになった。同年、フランス軍はスペインでも進撃を遂げ、スペインも和平に応じた。第二次バーゼルの和約(7月22日)において、スペインは占領地の回復と引き換えに革命政府の承認と[[サントドミンゴ]]の割譲を認めた。両国との講和によってフランスは当面の窮地を脱した。
 
 
=== イタリア戦役 ===
 
{{main|イタリア戦役 (1796-1797年)}}
 
[[ファイル:Bataille de Rivoli ag1.jpg|right|thumb|250px|リヴォリの戦い]]
 
 
[[1796年]]、フランス[[総裁政府]]はオーストリアを屈服させるための3方向からの攻勢を計画した。ライン方面からの2個軍はジュールダンと[[ジャン・ヴィクトール・マリー・モロー|モロー]]が率い、イタリア方面軍の司令官には[[ポール・バラス|バラス]]の計らいによりボナパルトが抜擢された。3つの軍は[[チロル]]で合流し[[ウィーン]]を占領する作戦であった。
 
 
作戦は4月に開始された。当初、ジュールダンとモローは順調に進撃した。モローはバイエルンを通過し、9月にはチロルの国境にまで到達した。しかしジュールダンの軍が[[カール・フォン・エスターライヒ=テシェン|カール大公]]に敗れ、フランス軍はライン川の西への退却を余儀なくされる。
 
 
一方ナポレオンはイタリアでの作戦を成功させていた。まず、これまで最前線でフランス軍と対峙してきたサルデーニャ王国をわずか1か月で降伏させ、オーストリア軍の拠点[[マントヴァ]]を包囲した。{{仮リンク|ダゴベルト・ジークムント・フォン・ヴルムザー|en|Dagobert Sigmund von Wurmser|label=ヴルムザー}}と{{仮リンク|ヨーゼフ・アルヴィンツィ|en|József Alvinczi|label=アルヴィンツィ}}が率いるオーストリア軍はマントヴァ解放を目指して反撃に出るが、ボナパルトの前に[[カスティリオーネの戦い (1796年)|カスティリオーネの戦い]](8月5日)、[[アルコレの戦い]](11月15日-17日)で敗北した。
 
 
そのころ、王党派の参加やイギリスの支援によって長引いていた[[ヴァンデの反乱]]が、[[ルイ=ラザール・オッシュ|オッシュ]]によって1796年前半までに鎮圧された。12月、オッシュはさらに[[アイルランド]]への遠征を試みるが([[フランスのアイルランド遠征]])、イギリス艦隊の妨害によって上陸作戦は失敗に終わった。また、10月にはスペインがフランス側に立ってイギリスへ宣戦布告するが、スペイン艦隊は[[サン・ビセンテ岬の海戦]](1797年2月14日)で[[ジョン・ジャーヴィス|ジャーヴィス]]と[[ホレーショ・ネルソン (初代ネルソン子爵)|ネルソン]]の率いるイギリス艦隊に敗れた。
 
 
[[1797年]]、イタリア方面では、オーストリアが[[リヴォリの戦い]](1月14日)でも敗北し、2月2日にマントヴァが開城する。ボナパルトはチロルからウィーンへ向けて進撃し、カール大公もナポレオンの勢いを止められなかった。オーストリアは停戦を申し入れ、4月18日に[[レオーベンの和約]]が成立した。その後半年あまりの交渉を経て、10月17日、フランスとオーストリアは[[カンポ・フォルミオの和約]]を締結した。フランスは南ネーデルラントを併合し、北イタリアに[[チザルピーナ共和国]]などの[[姉妹共和国|衛星国]]を成立させた。引き換えにオーストリアは[[ヴェネツィア共和国]]を併合した。オーストリアの脱落で第一次対仏大同盟は崩壊した。
 
 
=== エジプト遠征 ===
 
{{main|エジプト・シリア戦役}}
 
[[画像:Bataille des pyramides ag1.png|right|thumb|250px|ピラミッドの戦い]]
 
 
オーストリアの脱落によりイギリスのみが戦争を続ける状況となったが、[[制海権]]を握っているイギリスに対してフランスは打撃を与えられなかった。そこでナポレオンはイギリスとインドとの連携を絶つため、[[オスマン帝国]]領[[エジプト]]への遠征を総裁政府に進言した。
 
 
[[1798年]]5月19日、ナポレオンの率いるエジプト遠征軍はトゥーロン港を出発。途中[[マルタ島]]を占領し、7月2日にエジプトの[[アブキール湾]]に上陸した。[[ピラミッドの戦い]](7月21日)で現地軍に勝利し、次いで[[カイロ]]に入城する。しかし直後の[[ナイルの海戦]](8月1日)において、ネルソン率いるイギリス艦隊にフランス艦隊は大敗し、ナポレオンはエジプトに孤立してしまう。ナポレオンは[[シリア]]方面へ侵攻し[[アッコ]]を攻囲するものの([[アッコ攻囲戦]], [[1799年]]3月18日-5月20日)、攻略に失敗しエジプトへ退却した。
 
 
このころヨーロッパでは、2月にフランス軍が[[教皇領]]へ侵攻し[[ローマ共和国 (18世紀)|ローマ共和国]]を建国した。3月には[[スイス]]での内乱に介入して同地に[[ヘルヴェティア共和国]]を建国、さらに[[ジュネーヴ]]を併合した。さらに8月、{{仮リンク|アイルランド反乱 (1798年)|en|Irish Rebellion of 1798|label=アイルランド反乱}}に乗じてフランス軍は再度アイルランドへの遠征を実施する。今度は上陸に成功するが、制海権のない状況では作戦は長続きせず、増援に失敗し遠征軍は9月に降伏した。
 
  
=== 第二次イタリア戦役 ===
+
'''フランス革命戦争'''(フランスかくめいせんそう、{{lang-fr-short|Guerres de la Révolution française}}, {{lang-en-short|French Revolutionary Wars}}
{{main|イタリア戦役 (1799-1800年)}}
 
 
 
1798年1月より、[[スウェーデン]]の[[ハンス・アクセル・フォン・フェルセン|フェルセン伯爵]]の調停のもと、フランス革命戦争の終結を目指した[[ラシュタット会議]]が開かれるも、[[クレメンス・メッテルニヒ|メッテルニヒ]]の策略でオーストリアは会議を先延ばしにし、講和に至らせる前に対仏大同盟の再建という時間稼ぎに成功する。12月、イギリス、オーストリア、ロシアなどによって[[第二次対仏大同盟]]が結成された。
 
 
 
[[1799年]]、[[北イタリア]]ではオーストリア軍の攻勢と[[アレクサンドル・スヴォーロフ|スヴォーロフ]]が率いるロシア軍の戦線加入によってフランス軍は劣勢に立たされ、イタリア方面軍の司令官モローは8月には[[ジェノヴァ]]まで後退した。ライン方面では、カール大公率いるオーストリア軍に対してフランス軍は{{仮リンク|シュトックアッハの戦い (1799年)|fr|Bataille de Stockach (1799)|label=シュトックアッハの戦い}}(3月25日)で敗れ、ジュールダンは解任されて[[アンドレ・マッセナ|マッセナ]]が後任となった。スイス方面ではロシア・オーストリア連合軍とフランス軍が一進一退の攻防を続けていたが、マッセナは{{仮リンク|第二次チューリッヒの戦い|fr|Deuxième bataille de Zurich}}(9月25日)で連合軍を破った。ロシアは翌年にはフランスと和平を結んだ。
 
 
 
この状況の中、ナポレオンは少数の部下と共にエジプトを脱出してフランスに戻り、11月9日、[[ブリュメール18日のクーデター]]を起こして[[執政政府]]を樹立、第一執政に就任し独裁権を握った。[[1800年]]、ナポレオンは反撃のため[[アルプス山脈]]を越えて北イタリアに進出。[[マレンゴの戦い]](6月14日)では、フランス軍はオーストリア軍の急襲を受け窮地に追い込まれるが逆襲に成功する。[[ジャン・ヴィクトル・マリー・モロー|モロー]]が率いるライン方面軍も[[ホーエンリンデンの戦い]](12月3日)でオーストリア軍に勝利した。翌年、オーストリアは[[リュネヴィルの和約]]を締結しフランスと講和した。
 
 
 
フランスとの戦争を続けるのは主要国では再びイギリスのみとなった。さらに、イギリスのマルタ島占領で通商権を侵害された[[デンマーク]]、[[スウェーデン]]と、イギリスの地中海進出に難色を示したロシアがプロイセンと結び、第二次[[武装中立同盟]]を結成してイギリスと対立した。[[1801年]]、イギリスは[[コペンハーゲンの海戦]](4月2日)でデンマーク艦隊を撃破して武装中立同盟を解体させ、エジプトではイギリス軍が[[アブキールの戦い (1801年)|第二次アブキールの戦い]](3月8日)、[[アレクサンドリアの戦い]](3月22日)に勝利して半年後にフランスのエジプト遠征軍を降伏に追い込んだ。
 
 
 
== 講和 ==
 
[[画像:France ecc 1789 1802.jpg|right|thumb|300px|1789年から1802年にかけてのフランス領の拡大。フランスは南ネーデルラント、ラインラント、サヴォワ、ニースを併合した]]
 
[[画像:Italy 1803.jpg|right|thumb|300px|1803年の北イタリア。スイスに建国されたヘルヴェティア共和国と、北イタリアに建国されたチザルピーナ共和国、リグリア共和国はフランスの衛星国となった]]
 
{{main|アミアンの和約}}
 
 
 
1801年、イギリスでは対フランス強硬派の[[ウィリアム・ピット (小ピット)|小ピット]]が国内の宗教問題などから退陣し、対フランス融和派の[[ヘンリー・アディントン|アディントン]]が首相となった。フランスでも、第一執政のナポレオンは国内の安定を重視し、講和は望むものであった。[[1802年]]3月25日、両国はフランス北部の[[アミアン]]で講和条約を締結した。
 
 
 
イギリスはそれまでのフランスによる領土獲得を承認し、マルタ島、[[ケープ植民地]]、エジプトといった占領地から軍を撤収することを約した。フランスもナポリ王国や教皇領からの撤退を約した。この後1年余り、ヨーロッパには平和がもたらされた。
 
 
 
== 影響 ==
 
[[フランス第一共和政|フランス革命政府]]は、崩壊寸前のぎりぎりの状況まで追い込まれながら、国民軍を作り上げて対仏大同盟軍を打ち破った。オランダ、南ネーデルラント、ラインラント、スイス、イタリアといった地域を征服し、フランスの歴代君主たちが長年抱いてきた領土的野心をまたたく間に達成した。だが戦争の過程で共和国内部では軍隊の政治力が増していった。将軍たちは勝手に敵国と交渉し、[[ナポレオン・ボナパルト]]に至っては一士官から最高権力者にまで上り詰めた。ナポレオンによる[[フランス第一帝政|帝政]]の開始(1804年)は共和政自体を終焉させた。
 
 
 
アミアンの和約によっても英仏間の対立関係は根本的には解消されなかった。[[1803年]]5月16日、イギリスはアミアンの和約を破棄してフランスへ宣戦布告し、両国はヨーロッパ全体を巻き込んだ[[ナポレオン戦争]]へと突入していく。ナポレオン率いる新生フランスは他の諸国を圧倒するが、その先には革命戦争で得た成果を全て喪失する最終的敗北が待ち受けているのであった。
 
 
 
== 主要な戦闘 ==
 
* [[1792年]]9月20日 - [[ヴァルミーの戦い]]
 
* 1792年11月6日 - [[ジュマップの戦い]]
 
* [[1793年]]3月18日 - [[ネールヴィンデンの戦い (1793年)|ネールヴィンデンの戦い]]
 
* [[1793年]]7月27日 - {{仮リンク|ヴァレンシエンヌ包囲戦 (1793年)|en|Siege of Valenciennes (1793)|label=ヴァレンシエンヌ包囲戦}}
 
* 1793年9月8日 - {{仮リンク|オンドスコートの戦い (1793年)|en|Battle of Hondschoote (1793)|label=オンドスコートの戦い}}
 
* 1793年10月15-16日 - {{仮リンク|ワッチニーの戦い|en|Battle of Wattignies}}
 
* [[1794年]]6月1日 - [[栄光の6月1日]](革命暦2年プレリアル13日の海戦)
 
* 1794年6月26日 - {{仮リンク|フルリュスの戦い (1794年)|en|Battle of Fleurus (1794)|label=フルリュスの戦い}}
 
* [[1796年]]8月5日 - [[カスティリオーネの戦い (1796年)|カスティリオーネの戦い]]
 
* 1796年11月15日-17日 - [[アルコレの戦い]]
 
* [[1797年]]1月14日 - [[リヴォリの戦い]]
 
* 1797年2月14日 - [[サン・ビセンテ岬の海戦]]
 
* [[1798年]]7月21日 - [[ピラミッドの戦い]]
 
* 1798年8月1日 - [[ナイルの海戦]]
 
* [[1799年]]3月18日-5月20日 - [[アッコ攻囲戦]]
 
* 1799年3月25日 - {{仮リンク|シュトックアッハの戦い (1799年)|fr|Bataille de Stockach (1799)|label=シュトックアッハの戦い}}
 
* 1799年9月25日 - {{仮リンク|第二次チューリッヒの戦い|fr|Deuxième bataille de Zurich}}
 
* [[1800年]]6月14日 - [[マレンゴの戦い]]
 
* 1800年12月3日 - [[ホーエンリンデンの戦い]]
 
* [[1801年]]3月22日 - [[アレクサンドリアの戦い]]
 
* 1801年4月2日 - [[コペンハーゲンの海戦]]
 
 
 
== 主要な条約・協定 ==
 
* [[1793年]] - [[第一次対仏大同盟]]
 
* [[1795年]]4月5日, 7月22日 - [[バーゼルの和約]]
 
* [[1797年]]4月18日 - [[レオーベンの和約]]
 
* 1797年10月17日 - [[カンポ・フォルミオ条約|カンポ・フォルミオの和約]]
 
* [[1798年]]-[[1799年]] - [[ラシュタット会議]]
 
* 1798年12月24日 - [[第二次対仏大同盟]]
 
* [[1800年]] - 第二次[[武装中立同盟]]
 
* 1801年2月9日 - [[リュネヴィルの和約]]
 
* [[1802年]]3月25日 - [[アミアンの和約]]
 
  
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1792~99年にフランスと他のヨーロッパ各国との間に生じた戦争行為の総称。 92年4月[[ジロンド派]]政権は戦争によって反革命派を駆逐しようとオーストリアに宣戦布告し,最初は苦戦したが,8月のドルミにおける勝利以降各地で優勢を保ち,ライン川左岸から北イタリアまで進出した。これに対しイギリスをはじめほとんど全ヨーロッパがフランスと交戦状態に入り,第1,2次[[対仏大同盟]]が結成された。 99年にナポレオン (1世) が政権を得たのちは,アミアンの休戦を除き,1814年に退位するまでのいわゆる[[ナポレオン戦争]]がこれに続いた。フランス革命戦争はフランス国内の政治情勢の変化 ([[フランス革命]] ) と特に密接な関係をもっており,国家と社会の基本構造が変ったために近隣諸国への侵攻が行われたとみなされている。革命政府は政治情勢の推移に対応していやおうなく近隣諸国との戦争に追込まれたのであり,一方諸外国はフランスの領土拡張政策とフランス革命の信条に対抗して反フランス戦争に駆りたてられた。戦争中にもフランス国内の政治的・社会的革命は継続し,軍事や外交政策に大きな影響を及ぼした。
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== 脚注 ==
 
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== 関連項目 ==
 
* [[反革命十字軍]]
 
* [[ピルニッツ宣言]]
 
* [[気球]]
 
* [[アマルガム]]
 
* [[第2次百年戦争]]
 
* [[ハイチ革命]]
 
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2018/9/25/ (火) 16:22時点における版

フランス革命戦争
戦争: フランス革命戦争
年月日: 1792年1802年
場所: ヨーロッパエジプト中東大西洋西インド諸島
結果: フランス側の勝利。
交戦勢力
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
プロイセン王国の旗 プロイセン王国
グレートブリテン王国の旗 グレートブリテン王国
ロシア帝国の旗 ロシア帝国

[[ファイル:テンプレート:Country flag alias FRA1589|border|25x20px|テンプレート:Country alias FRA1589の旗]] フランス王党派
スペインの旗 スペイン王国
25px ポルトガル王国
テンプレート:ITA1720
25px ナポリ王国
25px オスマン帝国
テンプレート:NLD1581
25x20px アメリカ合衆国

Flag of France (1790-1794).svg フランス共和国

25px United Irishmen
25x22px Polish Legions
デンマークの旗 デンマーク=ノルウェー

戦力
損害
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フランス革命戦争(フランスかくめいせんそう、: Guerres de la Révolution française, : French Revolutionary Wars

1792~99年にフランスと他のヨーロッパ各国との間に生じた戦争行為の総称。 92年4月ジロンド派政権は戦争によって反革命派を駆逐しようとオーストリアに宣戦布告し,最初は苦戦したが,8月のドルミにおける勝利以降各地で優勢を保ち,ライン川左岸から北イタリアまで進出した。これに対しイギリスをはじめほとんど全ヨーロッパがフランスと交戦状態に入り,第1,2次対仏大同盟が結成された。 99年にナポレオン (1世) が政権を得たのちは,アミアンの休戦を除き,1814年に退位するまでのいわゆるナポレオン戦争がこれに続いた。フランス革命戦争はフランス国内の政治情勢の変化 (フランス革命 ) と特に密接な関係をもっており,国家と社会の基本構造が変ったために近隣諸国への侵攻が行われたとみなされている。革命政府は政治情勢の推移に対応していやおうなく近隣諸国との戦争に追込まれたのであり,一方諸外国はフランスの領土拡張政策とフランス革命の信条に対抗して反フランス戦争に駆りたてられた。戦争中にもフランス国内の政治的・社会的革命は継続し,軍事や外交政策に大きな影響を及ぼした。

脚注



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