パレスチナ分割決議

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(パレスチナぶんかつけつぎ 、英: United Nations Partition Plan for Palestine)

パレスチナをユダヤ国家とアラブ国家などに分割すること。 1947年 11月 29日,国連総会はパレスチナに対するイギリスの委任統治を廃止し,パレスチナをアラブ国家,ユダヤ国家および国連管理下の国際都市エルサレムに分割する決議を採択した。ユダヤ側はこの決議を受入れ,48年5月14日イスラエルの独立を宣言したが,アラブ側はそれを拒否したためパレスチナ戦争 (第1次中東戦争 ) が勃発。この結果,イスラエルは分割決議で割当てられていたよりはるかに広い範囲に支配を及ぼし,他方イスラエルの支配の及ばなかった地域のうち東エルサレムとヨルダン川西岸地区はヨルダンの,ガザ地区はエジプトの占領下となった。その後 67年の六日戦争 (第3次中東戦争) の結果,東エルサレム,ヨルダン川西岸地区およびガザ地区もイスラエルが占領,このうち東エルサレムは西エルサレムと統合され,イスラエルの首都の一部とされた (ただし,国際的には認められていない) (エルサレム問題 ) 。アラブ諸国およびパレスチナ解放機構 PLOは当初,武力闘争により全パレスチナを解放することを目指していたが,イスラエル国家が既定事実と化し,かつイスラエルによる占領が長期化するにつれ,イスラエルが六日戦争の全占領地から撤退し,そこにパレスチナ国家の樹立を認めるならばイスラエルと平和に共存しようという考えがアラブの多数意見となった。

PLOもまた 88年 11月,その考えにそってパレスチナの独立を宣言した (パレスチナ国家問題 )

一方,イスラエルも占領地のパレスチナ人に一定の自治を認める意思のあることを表明した。その後 93年9月にはイスラエル,PLOの相互承認,パレスチナ暫定自治協定調印が実現した。これにより 94年ガザ地区とヨルダン川西岸のエリコ地区で先行自治が始り,95年新たに6都市が加わった。しかし,5年間の暫定自治を終えた 99年パレスチナ国家独立宣言は延期,さらに問題の全面解決をはかる最終的地位交渉も 2000年に事実上決裂した。同年9月イスラエルのリクード党首の A.シャロンがエルサレム旧市街の「神殿の丘」を訪問したのを機にイスラエルとパレスチナ住民との間で衝突が発生した。