「バルト海」の版間の差分

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{{Infobox ocean
 
{{Infobox ocean
 
| Ocean_name        = バルト海
 
| Ocean_name        = バルト海
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}}
 
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[[ファイル:BalticSea March2000 NASA-S2000084115409 md.jpg|right|thumb|3月のバルト海北部の[[ボスニア湾]]は一部氷結している(衛星写真)。]]
 
  
'''バルト海'''(バルトかい、Baltic Sea)は、[[北ヨーロッパ]]に位置する[[地中海 (海洋学)|地中海]]。[[ヨーロッパ大陸]]と[[スカンディナビア半島]]に囲まれた[[海域]]である。[[ユーラシア大陸]]に囲まれた海域と説明されることもある<ref name="新版地学事典_バルト海">「[[#バルト海(地学事典)|バルト海]]」『新版 地学事典』p.1046</ref>。
 
  
西岸に[[スウェーデン]]、東岸は、北から順に[[フィンランド]]、[[ロシア]]、[[エストニア]]、[[ラトビア]]、[[リトアニア]]、南岸は、東から西に[[ポーランド]]、[[ドイツ]]、[[デンマーク]]が位置する。
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'''バルト海'''(バルトかい、Baltic Sea)
  
== 呼称 ==
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バルチック海ともいう。ドイツ,ポーランド,ロシア,バルト3国から東部ヨーロッパ大陸とスカンジナビア半島に取巻かれた北大西洋の縁海の一つ。西はカテガト海峡,スカゲラク海峡を通じて北海,大西洋に連なり,湾の奥はボスニア湾とフィンランド湾に分れ,海中には大小多数の島がある。海岸線は出入りが多い。面積は約42万 km<sup>2</sup>,深さは最深部で 210m,平均深度 55m。海底は粘土,細砂が多く,氷河堆積物の分布が広い。水温は夏 20℃ぐらい,冬2~6℃で湾奥地方は3~5ヵ月間結氷する。漁業はニシン,タラ,スマ,カレイが主。塩分が少く湾奥は淡水に近いので,淡水系の動植物がふえている。
* [[英語]]: Baltic Sea (ボールティック・シー)
 
* [[ドイツ語]]: Ostsee (オストゼー; “東海”)
 
* [[スウェーデン語]] Östersjön (エステション; “東海”)
 
* [[デンマーク語]] Østersøen (“東海”)
 
* [[ロシア語]]: {{lang|ru|Балтийское море}} (バルチーイスカイェ・モーリェ)
 
* [[ポーランド語]]: {{lang|pl|Morze Bałtyckie}} (モジェ・バウティツキェ)
 
* [[フィンランド語]]: Itämeri (イタメリ; “東海”)
 
* [[エストニア語]]: Läänemeri (レーネメリ; “西海”)
 
* 古代[[ラテン語]]: Mare Suebicum (マーレ・スエビクム; “[[スエビ族]]の海”。 Mare Suevicum とも)
 
* 近代ラテン語: Mare Balticum (マーレ・バルティクム)
 
* [[リトアニア語]]: {{lang|lt|Baltijos jūra}}
 
* [[ラトビア語]]: {{lang|lt|Baltijas jūra}}
 
[[日本]]での古称「東海」は、[[ゲルマン語派|ゲルマン系言語]]における名称の[[翻訳借用]]である。
 
 
 
== 概要 ==
 
[[ファイル:Ostseetiefen.png|thumb|300px|upright=1.2|バルト海の水深。]]
 
[[ファイル:Baltic Marine subdivisions.gif|thumb|300px|バルト海の諸海域:<br/>1 = [[:en:Bothnian Bay|ボスニア・ベイ]]<br/>2 = {{仮リンク|ボスニア海|en|Bothnian Sea}}<br/>1 + 2 = [[ボスニア湾]](Gulf of Bothnia)、3と4の海域を含むことがある。<br/>3 = 諸島海<br/>4 = [[オーランド海]]<br/>5 = [[フィンランド湾]]<br/>6 = [[リガ湾]]<br/>7 =北{{仮リンク|ゴトランド海盆|en|Gotland Basin}}<br/>8 =西ゴトランド海盆<br/>9 =東ゴトランド海盆<br/>10 = グダニスク湾<br/>11 =ボルンホルム海盆& Hanö Bight<br/>12 =[[:en:Cape Arkona|アルコナ]]海盆<br>7 – 12 = 厳密な定義でのバルト海<!--原文 Baltic Proper-->。3, 4, 14を含むことがある。<br/>13 = [[エーレスンド海峡]]<br/>14 =ベルト海。バルト海とカテガット海峡とで分割されている。<br/>15 = [[カテガット海峡]]。バルト海には含まれないことがある<ref>{{Cite web |url=http://www.smhi.se/sgn0102/n0205/havsomr/havsomr_plansch.pdf |title=The Baltic Sea, Kattegat and Skagerak – sea areas and drainig basins |publisher={{仮リンク|スウェーデン気象・水文研究所<!--または気象水理研究所-->|en|Swedish Meteorological and Hydrological Institute}} (SMHI) |format=PDF |accessdate=2014-10-27 }}</ref>。<br/>16 = [[スカゲラック海峡]]。バルト海には含まれない。]]
 
 
 
面積40万平方km。平均深度は55mと浅い海洋であるが、最大深度はバルト海中央部、ストックホルム沖で、459mとなっている{{refnest|group="注釈"|『新版 地学事典』(平凡社、1996年)1046頁「バルト海」の項によれば、面積422,000平方km、平均深度55m、最深422m<ref name="新版地学事典_バルト海" />。}}。北部のボスニア湾中央部やバルト海主海域中央部は200m以上の深度があるものの、とくにオーランド諸島付近やボスニア湾北部の水深は非常に浅い。そのうえボスニア湾東部では隆起が続いているため、四百年から五百年前は海底だった土地が、現在では耕地や牧草地となっている<ref>『[[#ヨーロッパの北の海|ヨーロッパの北の海]]』p.48</ref>。特筆すべきこととして、平均[[塩分濃度]]は全海洋平均では31.9[[パーミル]]であるが、バルト海ではそれよりもかなり低い{{refnest|group="注釈"|塩分濃度はバルト海の各所で異なっている。表面では7パーミル、海盆の低層では12-16パーミルである。カテガット海峡では20パーミル以下、ボスニア湾やフィンランド湾では3パーミル以下で、融雪期に河川からの流入量が増すとさらに下がる。特に湾の部分では、下層から外洋の海水が入り込むことで塩分濃度をかろうじて保っている<ref name="新版地学事典_バルト海" />。}}ことがあげられる。この理由としては、流入河川が多い<ref name="新版地学事典_バルト海" />うえに集水域が海全体の4倍にもおよび、流れ込む淡水量が多いこと、高緯度地帯に位置し、水温が低いため蒸発量が少ないこと、外海である北海への主な出口が[[カテガット海峡]]しか存在せず、これが隘路となるため海水の循環が少ないことがあげられる。北海からの高濃度の海水の流入は長期間に及ぶことは少なく、短期に集中的に起こることが多い{{要出典|date=2015年9月22日 (火) 13:24 (UTC)}}。
 
 
 
低水温および低塩分濃度のため、冬季には北部は結氷する。氷結は北端のボスニア湾で10月末から11月初めに始まり、1月末にはフィンランドとオーランド諸島間は氷結して、2月にはボスニア湾およびフィンランド湾は完全に氷結する。この氷は4月中には多くが溶けるが、[[流氷]]として6月ごろまで残ることもある<ref>『[[#ヨーロッパの北の海|ヨーロッパの北の海]]』pp.20-21</ref>。これ以南の海域では結氷しないことも多いが、強い寒波がやってきた年は完全氷結した記録もある。この結氷状態を解消するため、19世紀後半よりバルト海では[[砕氷船]]が積極的に使用されてきた。ヨーロッパ初の砕氷船は、[[1864年]]にロシアの[[クロンシュタット]]港で建造された小型の蒸気砕氷船パイロット号であり、その後1870年代に入るとバルト海沿岸諸港は積極的に砕氷船を就航させ、冬季航行を維持するようになっていった<ref>『[[#ヨーロッパの北の海|ヨーロッパの北の海]]』p.104</ref>。
 
 
 
バルト海は右図の通り、14の海域に分割されている。北端の海域は[[ボスニア湾]]であるが、ここはさらに北のボスニア湾と南のボスニア海とに細分されている。その南側、バルト海主海域との間には、フィンランド自治領の[[オーランド諸島]]を境として、東が諸島海、西が[[オーランド海]]となっている。この海域は諸島海の名の通り、特に東側には地盤の隆起によってできた無数の島々が点在する。東端は[[フィンランド湾]]であり、北のフィンランド、東のロシア、南のエストニアに囲まれた細長い海域である。またこの海域には、東端の[[サンクトペテルブルグ]]、北の[[ヘルシンキ]]、南の[[タリン]]といった大都市が面しており、船舶の航行も多い。フィンランド湾の南、エストニア領[[ヒーウマー島]]、[[サーレマー島]]と大陸本土との間に広がるのが[[リガ湾]]で、その名の通りラトビアの首都[[リガ]]が面している。これらの海域、およびエーレスンド海峡、ベルト海域を除いたものがバルト海の主海域である。この海域は西のスウェーデン、東のエストニア・ラトビア・リトアニア・ロシア領カリーニングラード州、南のポーランド・ドイツ、西端のデンマークに囲まれている。この主海域には[[ボーンホルム島]](デンマーク)、[[ゴットランド島]](スウェーデン)、[[エーランド島]](スウェーデン)などが浮かんでいる。また、この主海域も、南部の{{仮リンク|グダニスク湾|en|Gdańsk Bay}}などいくつかの海域に分かれている。
 
 
 
バルト海は浅く、また氷河期の反動として地盤が隆起を続けているため、上記以外にも[[島嶼]]が数多く存在する。とくに北部には小さい島が無数に存在する。南部は島の数こそ少なくなるが、北部に比べ島の面積は非常に広くなる。最も大きな島はゴットランド島であり、域内の南部のほぼ中央に位置している。
 
 
 
外海とはカテガット海峡を経て[[スカゲラック海峡]]とつながり、さらに[[北海]]を経て[[大西洋]]と結ばれている<ref name="新版地学事典_バルト海" />。さらに、[[白海・バルト海運河]]で[[白海]]と、[[キール運河]]で北海と結ばれているなど、航路が整備されている。
 
 
 
== 地史 ==
 
バルト海が大まかに現在の形となったのは3800年前([[紀元前1800年]]ごろ)と考えられている。[[最終氷期]]の最盛期であった2万年前、バルト海地域は現在のバルト海域を中心とする巨大な[[氷床]]に覆われていた。この氷床の先端は[[ユトランド半島]]から北ドイツ平原を通りポーランド北部やリトアニアにまで達していた。現在でもこの地域には、その時期の名残である[[モレーン]](堆石)が列をなし分布している。氷期から後氷期に入ると氷床は消滅したが、氷河の重みによって旧氷河の中心域は窪地であった。ここには{{仮リンク|アンキルス湖|en|Ancylus Lake}}が形成され、さらに海面が上昇し、そこが海と繋がると[[汽水域|汽水]]の{{仮リンク|リットリナ海|en|Littorina Sea}}となり、バルト海の原型が出来上がった。氷床の重みがなくなったため、現在でもバルト海域では地面が上昇を続けており<ref group="注釈">氷河性アイソスタシー。英語版記事「[[:en:Isostasy#Isostatic effects of ice sheets|Isostasy#Isostatic effects of ice sheets]]」を参照。</ref>、特に北部のボスニア湾周辺地域で上昇が激しい{{refnest|group="注釈"|隆起の中心にあたるのが、かつて存在した厚さ2-3kmの氷床の中心<!--「バルト海」『新版 地学事典』ではおそらくこれを氷極と表現している-->が位置していたボスニア湾で、9mm/年のペースである<ref name="地形学事典p517-518">『[[#地形学事典|地形学事典]]』pp.517-518</ref>。隆起は、バルト海周辺では1-10mm/年<ref name="新版地学事典_バルト海" />、[[フェノスカンジア|バルト楯状地]]全体では5-9mm/年<ref name="バルト楯状地">「[[#バルト楯状地(地学事典)|バルト楯状地]]」『新版 地学事典』p.1046</ref>のペースで進み、バルト楯状地は[[紀元前7千年紀|紀元前6800年]]頃からの累計で約260mも隆起したと考えられている<ref name="バルト楯状地" />。しかし今後も200mは隆起するとみられており、最終的に520mは隆起すると考えられている<ref name="地形学事典p517-518" />。}}。このままのペースで上昇が続くと100年で1mの隆起となり、1万5千年から2万年後にはボスニア湾が消滅してしまうとも考えられている<ref>『[[#地球を旅する地理の本 5|地球を旅する地理の本 5]]』pp.166-167</ref>{{refnest|group="注釈"|『新版 地学事典』(平凡社、1996年)での説明によれば、まず2万-1万2千年前頃に、スカンディナヴィア半島を覆っていた氷床(スカンジナビア氷床)が次第に融けて後退する過程で、現在はバルト海の南部にあたる部分において淡水の湖である{{仮リンク|バルト氷湖|en|Baltic Ice Lake}}を形成した<ref name="地学事典_バルト氷湖">「[[#バルト氷湖(地学事典)|バルト氷湖]]」『新版 地学事典』p.1047</ref>。1万年前には湖は北海に対して開け<ref name="地学事典_バルト氷湖" />、{{仮リンク|ヨルジア海|en|Yoldia Sea}}となった。8千5百年前には、再び湖となり(アンキルス湖またはアンシルス湖)、7千5百年前にリットリナ海となる。その後、4千年前頃にはリムネア海、1千5百年前にはマイア海となって<ref name="新版地学事典_バルト海" />、こんにち知られるバルト海の姿に至る。}}。
 
 
 
== 流入河川 ==
 
{| class="sortable wikitable" style="line-height:1.4em; font-size:95%;"
 
|-style="white-space:nowrap;"
 
! 河川名 || 平均流量<br />[m<sup>3</sup>/s] || 長さ || 流域面積<br />[km<sup>2</sup>] || 流域諸国 || 最も長い流路
 
|-
 
| [[ネヴァ川]] || 2,500 || 74 km<br />(nominal)<hr />860 km<br />(hydrological) || 281,000 ||[[ロシア]]、 [[フィンランド]] || [[スナ川]] (280 km) → [[オネガ湖]] (160 km) → [[スヴィリ川]] (224 km) → [[ラドガ湖]] (122 km) → [[ネヴァ川]]
 
|-
 
| [[ヴィスワ川]] || 1,080 || 1,047 km || 194,424 || [[ポーランド]], 支流: [[ベラルーシ]]、[[ウクライナ]]、[[スロバキア]] ||
 
|-
 
| style="white-space:nowrap;" | [[ダウガヴァ川]] || 678 || 1,020 km || {{Display none|0}}87,900 || [[ロシア]] (源流)、[[ラトビア]] ||
 
|-
 
| [[ネマン川]] || 678 || 937 km || 98,200 || [[ベラルーシ]] (源流)、[[リトアニア]]、[[ロシア]] ||
 
|-
 
| [[ケミ川 (フィンランド)|ケミ川]] || 556 || 550 km<br />(ケミ川のみ)<hr />600 km<br />(最長流路) || {{Display none|0}}51,127.3 || [[フィンランド]], [[ノルウェー]] (Ounasjoki川の源流) || 最も長い支流は[[キティネン川]]。
 
|-
 
| [[オーデル川]] || 540 || 866 km || 118,861 || [[チェコ]] (源流)、[[ポーランド]]、[[ドイツ]] ||
 
|-
 
| [[Lule älv]] || 506 || 461 km || {{Display none|0}}25,240 || [[スウェーデン]] ||
 
|-
 
| [[ナルヴァ川]] || 415 || 77 km<br />(ナルヴァ川のみ)<hr />652 km<br />(最長流路) || {{Display none|0}}56,200 || [[ロシア]] (ヴェリーカヤ川の源流), [[エストニア]] ||[[ヴェリーカヤ川]] (430 km) → [[ペイプシ湖]] (145 km) → [[ナルヴァ川]]
 
|-
 
| [[トルネ川]] || 388 || 520 km<br />(トルネ川のみ)<hr />630 km<br />(最長流路) || {{Display none|0}}40,131.4 || [[ノルウェー]] (源流)、[[スウェーデン]]、[[フィンランド]] || Válfojohka → Kamajåkka → Abiskojaure → [[Abiskojokk]]<br/> (sum = 40 km)→ [[Torneträsk]] (70 km) → [[トルネ川]]
 
|}
 
 
 
== 周辺地域の歴史 ==
 
=== 古代・中世 ===
 
[[古代ローマ]]ではバルト海南東部を''スエビの海''(''Mare Suebicum'')と呼んでいた。南岸に[[ゲルマン人]]とも[[ケルト人]]ともいわれる[[スエビ族]]が住んでいたようである。[[民族移動時代]]の前は、スエビ族は[[ゲルマニア]]の最強民族として知られていた民族である。{{要出典範囲|[[8世紀]]以降、[[スウェーデン人]]を中心とした[[ヴァイキング]]([[ヴァリャーグ]])が、バルト海を掌握していた可能性が高く、バルト海が「ヴァリャーグ海」と呼称されていた時代もある。|date=2015年9月}}このころ、すでに[[シュレースヴィヒ]]には交易都市[[ヘーゼビュー|ハイタブ]]が建設されており、また「[[ヴァリャーグからギリシャへの道|ヴァリャーギからギリシアへの道]]」と呼ばれる、バルト海から[[ノヴゴロド]]や[[ヴォルガ川]]を通って[[黒海]]へ、さらに[[東ローマ帝国]]の首都[[コンスタンティノープル]]へとつながる交易ルートが成立しており、すでに交易上重要な位置を占めるようになっていた<ref>『[[#物語 ウクライナの歴史|物語 ウクライナの歴史]]』pp.32-33</ref>。[[ノース人]]や[[デーン人]]が西方の北海方面へ進出したのに対し、スウェーデン人は東方のバルト海方面へと進出したのである。このルートは直接[[イスラム世界]]へとつながるものであり、[[フランク王国]]経由ルートにかわりこのバルト海ルートが一時スカンディナヴィアと東方世界とをつないでいた<ref>『[[#中世ヨーロッパの歴史|中世ヨーロッパの歴史]]』pp.130-131</ref>。
 
 
 
[[ファイル:Haupthandelsroute Hanse.png|thumb|ハンザ同盟主要交易ルート]]
 
[[12世紀]]にはいると、バルト海南岸に[[東方植民]]運動が起こり、また[[ドイツ騎士団]]などの[[騎士修道会]]によって、バルト海南東域の非キリスト教徒への軍事侵攻および植民が行われた。[[北方十字軍]]とも呼ばれるこの動きによって、西方のドイツから[[ドイツ人]]が次々と植民を行い、この地域はドイツ化していった。この東方植民により、ドイツ商人もこの地域へと進出し、やがて[[ハンザ同盟]]を結成してバルト海の[[制海権]]を握るようになった。12世紀に設立されたこの同盟は、バルト海南岸の[[リューベック]]を盟主とし、[[ヴィスビュー]]や[[リガ]]、[[ダンツィヒ]]など多くのバルト海沿岸都市が加盟した。このころは海流の影響により、バルト海入口の[[スコーネ地方]]において非常に大量の[[ニシン]]が捕れ<ref>『[[#魚で始まる世界史|魚で始まる世界史]]』p.74</ref>、このニシンが同盟諸都市の重要な輸出項目となっていた。ハンザ諸都市は平底で四角い帆の[[コグ船]]と呼ばれる船を主に使用し、ニシンの他フランドルの[[毛織物]]や、[[琥珀]]、[[穀物]](主に[[ライムギ]])といった特産物をやり取りしていた。奢侈品を多く扱う地中海の南方貿易と比べ、北方貿易と呼ばれるこの貿易では穀物など必需品の比重がきわめて高かった。バルト海最奥部からさらに内陸に進んだ[[ノヴゴロド公国|ノヴゴロド共和国]]がバルト海航路の東端であり、ハンザ同盟はここに大規模な[[商館]]を置いて交易拠点としていた。
 
 
 
[[ファイル:Danska väldet under valdemar sejr.jpg|thumb|ヴァルデマー2世時代のデンマーク領]]
 
一方、[[13世紀]]に入るとそれまで主に北海方面に目を向けていた[[デンマーク王国]]が、バルト海沿岸域に進出して一時この地方の[[覇権]]を握った。征服王とも呼ばれる[[ヴァルデマー2世 (デンマーク王)|ヴァルデマー2世]]時代には、[[ホルシュタイン]]、[[メクレンブルク]]、[[ポメラニア|ポンメルン]]、さらに海を越えてエストニアも征服し、バルト海を一時デンマークの内海にした。しかし、[[1223年]]に[[シュヴェリーン]]伯ハインリヒによってヴァルデマー2世は捕虜とされ、解放条件として多くの海外領土を喪失。さらに失地を取り戻そうとして[[1227年]]北ドイツ諸侯やリューベックと戦い、これにも敗れた。しかしデンマークは以降もバルト海の強国として存在し、やがて新興のハンザ同盟と衝突する。[[1340年]]にデンマーク王に[[ヴァルデマー4世 (デンマーク王)|ヴァルデマー4世]]が即位すると、エストニアをドイツ騎士団領に売却し、この資金で支配体制を強化。国内を固めると、[[1361年]]にハンザの中心都市の一つだった[[ゴットランド島]]のヴィスビューを占領し、ハンザ同盟と戦争状態に入った。しかしこの戦争は序盤はデンマーク側が優位だったものの、やがて周辺諸国の支援も得たハンザ側が優位に立ち、[[1370年]]の{{仮リンク|シュトラルズントの和議 (1370年)|en|Treaty of Stralsund (1370)|label=シュトラルズントの和議}}においてハンザの勝利が確定し、これによってバルト海はハンザの制海権下に完全におかれることになった。また、この戦争を通じてバルト海側と北海側のハンザ諸都市の連携が成立し<ref>『[[#ハンザ「同盟」の歴史|ハンザ「同盟」の歴史]]』pp.104-105</ref>、ハンザ同盟は絶頂期を迎えることとなる。デンマークはハンザ同盟に特権を認めさせられたが、領土的損失は無く、ヴァルデマー4世の娘の[[摂政]][[マルグレーテ1世|マルグレーテ]]の元で巻き返しを図ることとなる。
 
 
 
ゴットランド島は、[[1398年]]にドイツ騎士団によって征服されるが、[[1410年]]に[[ポーランド・リトアニア合同|ポーランド・リトアニア連合]]に敗れその庇護を受けることとなり、勢力を無くしたため、[[エーリク7世 (デンマーク王)|エーリク・ア・ポンメルン]]に売却され、[[1449年]]以降は、[[1645年]]にスウェーデン領となるまでデンマークの統治を受けることとなった(ゴットランド島は、バルト海最大の島で、ヴァイキング時代からの通商・貿易の拠点として栄えており、ハンザ同盟においても重要な同盟都市であり、また、[[要塞]]化されたバルト海での地理的拠点であった)。なお、スウェーデン王国は、[[1288年]]にゴットランド島のドイツ商人と島の農民たちとの内戦を鎮圧するなどしていたが、基本的にバルト海での覇を争うほどの力は無く、もっぱらバルト海北部の[[ボスニア湾]]を通じてフィンランド支配を行っていた([[スウェーデン=フィンランド]])。また、スウェーデンは基本的に17世紀初頭までハンザ同盟の勢力圏の傘下にあった。しかし[[1389年]]にスウェーデン王が廃され、事実上デンマークの支配を受けることとなったスウェーデンは、16世紀の再独立後には、デンマークの影響力のみならず、ハンザ同盟の傘下からの離脱に邁進することとなる{{要出典|date=2015年9月22日 (火) 13:24 (UTC)}}。
 
 
 
=== 近世 ===
 
やがて[[15世紀]]に入ると、ハンザ同盟の衰退が明瞭になり始めた。進んだ航海技術を持つ[[ネーデルラント]]商人が、それまで波が荒く航行が困難だった[[エーレスンド海峡]]を航行して直接北海とバルト海を結ぶ交易を行い始めた。これは、バルト海側のリューベックと北海側の[[ハンブルク]]との間の陸送に頼っていたハンザにとっては大打撃となり、さらに[[1397年]]、デンマーク王[[エーリク7世 (デンマーク王)|エーリク7世]]が[[カルマル同盟]]を結んでデンマーク・スウェーデン・ノルウェーの[[同君連合]]の君主に即位し、北欧全域を支配する。エーリク7世はエーレスンド海峡を通る船へ通行税を課し、これで財力を蓄えたデンマークは1426年よりふたたびハンザと戦火を交えた。この戦争では再びハンザが勝利を収めたものの、講和条約をデンマークに守らせる力はハンザにすでになく、勝利は空文化していった。
 
 
 
またこの頃には[[ポーランド王国]]が勢力を伸ばし、[[リトアニア大公国]]と[[ポーランド・リトアニア連合]]を組んだ上に、[[ドイツ騎士団国]]と激しく対立するようになった。[[1410年]]、[[タンネンベルクの戦い (1410年)|タンネンベルクの戦い]]によってポーランド・リトアニア連合は大勝し、ドイツ騎士団国はこの後衰退を続けて、[[1525年]]には世俗化した[[プロシア公領|プロイセン公国]]としてポーランドに編入された<ref>『[[#北の十字軍|北の十字軍]]』p.274</ref>。ポーランドとリトアニアは[[1569年]]に[[ルブリン合同]]を結び、[[16世紀]]ヨーロッパに巨大な国家が出現した。この国家は[[ポーランド・リトアニア共和国|貴族共和政]](共和国)であり、バルト海沿岸から[[黒海]]沿岸まで影響力を誇ったが、バルト海南岸においては、共和国の庇護による[[バルト・ドイツ人]]の[[自治]]によって発展・繁栄していった。しかし共和国は、[[海洋国家]]ではなく、バルト海に勢力を伸長させるまでには到らなかった。世紀をまたぐ強大国ではあったが、度重なる戦争によって、全般的経済危機を生じつつあり、表面的な[[黄金時代]]とは裏腹に、交易等を除いて積極的にバルト海の政治経済に関与することは無かった。なお、共和国の黄金時代は、[[1648年]]の[[フメリニツキーの乱|コサックの反乱]]と[[1655年]]に始まる[[大洪水時代]]によって終わりを告げた。この戦争に[[ロシア・ツァーリ国|ロシア]]([[ロシア・ポーランド戦争 (1654年-1667年)|ロシア・ポーランド戦争]])やスウェーデン([[北方戦争]])といった周辺大国が介入し、共和国の国土は著しく荒廃した。20年にも渡る戦争によって政治的・経済的大打撃を受けた共和国は、内政改革にも失敗し、その後の一時的な中興も空しく、18世紀末の滅亡へ向かって本格的な衰退の時代に入った。16世紀には、ニシンの群れも海流の変化により完全に[[北海]]方面へと移った<ref>『[[#魚で始まる世界史|魚で始まる世界史]]』p.79</ref>。
 
 
 
バルト海交易で大きな比重を持つようになったネーデルラントは、やがて交易の富を基に[[ネーデルラント連邦共和国|オランダ連邦共和国]]として独立し、17世紀には黄金時代を築き上げる。オランダでは穀物が生育しにくく、穀物のほとんどをバルト海交易から入手していた。またオランダの根幹である造船に必要な木材や亜麻などもバルト海貿易に頼ったため、この貿易はオランダでも非常に重視されており、国の根幹の一つとされていた。この穀物交易はオランダ衰退後も、オランダやイギリス商人たちによって継続され、[[グダニスク|ダンツィヒ]]、[[リガ]]、[[ケーニヒスベルク]]などはこの穀物交易、とくに[[ライムギ]]の交易で繁栄した<ref>『[[#商業史|商業史]]』p.122</ref>。一方で、ヨーロッパ貿易全体におけるバルト海の地位は、[[新大陸]]発見に伴う[[大西洋]]・北海方面への交易重心の移動により相対的に低下した。ただし、[[オランダ海上帝国]]のように実態はバルト海貿易などヨーロッパ近海に比重を置く国家は近世以降にも継続しており、[[1523年]]にデンマークから独立した[[スウェーデン|スウェーデン王国]]もそうしたバルト海貿易に比重を持つようになった{{要出典|date=2015年9月22日 (火) 13:24 (UTC)}}。
 
 
 
[[ファイル:Sweden 1658.png|thumb|1650年代、最盛期のバルト帝国]]
 
そして、こうしたバルト海貿易を巡る国々の中で、[[17世紀]]初頭の「北方の[[獅子]]」と呼ばれた[[グスタフ2世アドルフ (スウェーデン王)|グスタフ・アドルフ]]のスウェーデンの時代に勢力を伸ばし、およそ1世紀の間バルト海の覇権を握った。この時期のスウェーデン王国を、後世では[[バルト帝国]]、あるいはマーレ・バルティクム(バルト海のラテン語名)と呼び表すようになった。スウェーデンがバルト海での覇権を持った裏には、オランダとの貿易関係があった。スウェーデンは[[銅]]や[[武器]]などの[[金属]]貿易によって西欧との経済関係が築かれたが、その最大の取引相手がオランダだった。しかし、そのオランダとの敵対、競合関係に至ったことにより、スウェーデンは17世紀後半、特にバルト海沿岸諸国を相手とした[[北方戦争]]より後に停滞時代を迎えることとなる<ref>『[[#近世スウェーデンの貿易と商人|近世スウェーデンの貿易と商人]]』pp.7-27</ref>。この停滞の裏には、[[北海]]における三度に渡る[[英蘭戦争]]も影響していた。この戦争によってオランダの経済は打撃を受け、オランダ経済の衰退の端緒となった。新たな市場となったイギリスはオランダのような取引相手の主体となることは無かった。それでもバルト海におけるスウェーデンの商業システムは、スウェーデンの[[海運|海運業]]の成長を促し、覇権を失った後のスウェーデンの経済的基盤となった<ref>『[[#近世スウェーデンの貿易と商人|近世スウェーデンの貿易と商人]]』pp.39-48</ref>。やがてロシアに[[ピョートル1世|ピョートル大帝]]が現れ、[[1700年]]から[[大北方戦争]]を起こし、[[1703年]]にバルト海の最奥部に新都[[サンクトペテルブルク]]を建設した。この時はまだ、「北方の[[アレクサンドロス3世|アレクサンドロス]]」と呼ばれた[[カール12世 (スウェーデン王)|カール12世]]率いるスウェーデンがバルト海沿岸諸国を圧倒していたが、[[中央ヨーロッパ|中欧]]からロシア国内への遠征中、[[冬将軍]]とロシアによる[[焦土作戦]]にスウェーデン軍は弱体化され、[[1709年]]の[[ポルタヴァの戦い]]でロシアはスウェーデンに大勝し、戦況は一変した。さらに[[1714年]]の[[ハンゲの海戦|ハンゲ沖の海戦]]によってスウェーデン艦隊を撃破して、バルト海の制海権を獲得した。最終的に[[1721年]]の[[ニスタット条約]]でロシアはバルト海沿岸地方を獲得し<ref>『[[#図説ロシアの歴史|図説ロシアの歴史]]』p.62</ref>、スウェーデンのバルト海の覇権を打ち破ると共に強大な[[ロシア帝国|帝政ロシア]]が出現した。新たに建設されたサンクトペテルブルクはバルト海地方最大の都市となり、またロシア国内交易網とバルト海交易ルートの結節点のひとつとなり、またロシアの西欧に対する窓ともなった<ref>小町文雄『サンクト・ペテルブルグ』中央公論新社、2006年、12-14頁。</ref>。また、{{要出典範囲|この戦争によって領土を獲得した[[プロイセン王国]]も台頭した。バルト海南岸の経済を支えていたバルト・ドイツ人に加え、[[フランス王国|フランス]]から亡命してきた[[ユグノー]]や迫害された[[プロテスタント|新教徒]]の追放者を[[東プロイセン]]に受け入れたため、王国は繁栄に向かった。|date=2015年9月}}強国となったロシアとプロイセンは、やがて南岸のポーランド(共和国)を[[緩衝国]]と見なすようになり、[[ポーランド継承戦争]]を経た後、ポーランドとリトアニアは[[1772年]]の第一回[[ポーランド分割]]と[[1795年]]の第三回ポーランド分割によって消滅し、西部をプロイセン王国が、東部をロシア帝国が領有することとなった{{要出典|date=2015年9月22日 (火) 13:24 (UTC)}}。
 
 
 
この頃スウェーデンは、デンマークとロシアに包囲されつつも、[[1788年]]から[[1790年]]までの[[第一次ロシア・スウェーデン戦争|ロシア・スウェーデン戦争]]でロシア艦隊に勝利し、バルト海での[[勢力均衡]]をある程度回復している。[[18世紀]]のバルト海沿岸諸国においては、このロシアとスウェーデンの対立とポーランド分割を除けばほぼ安定していた。しかしこの安定は、[[1790年代]]に始まる[[フランス革命戦争]]とそれに続く[[ナポレオン戦争]]の余波によるヨーロッパ全体の動乱に巻き込まれて行くこととなり、[[第二次ロシア・スウェーデン戦争|ロシア・スウェーデン戦争]]や[[英露戦争]]の勃発により、それまでの[[近世]]的秩序が崩壊し、バルト海世界は[[近代]]への序章を迎えることとなる{{要出典|date=2015年9月22日 (火) 13:24 (UTC)}}。
 
 
 
=== 近現代 ===
 
[[ナポレオン戦争]]によってスウェーデンは最後に残った属領である[[ポメラニア|ポンメルン]]およびフィンランドを喪失し、本土およびノルウェー([[スウェーデン=ノルウェー]])のみの存在となった。とは言え、[[スカンディナヴィア半島]]を幸運にも統一出来たことは、スウェーデンにとって外交政策の選択肢が増えたことを意味していた。ナポレオン戦争後は、中立外交が基本化された時代でもあったが、一方で北欧諸国の[[ナショナリズム]]が沸き上がった時代でもあった。特に北欧全土を覆った[[汎スカンディナヴィア主義]]を利用してスウェーデンは大国復興を目論み、[[プロイセン王国]]や帝政ロシアへの牽制を西欧列強と共に行うのである。しかし、[[汎ゲルマン主義]]との衝突は、汎スカンディナヴィア主義の挫折に到り、以後、スウェーデンは[[中立主義|中立政策]]を強化していくこととなる。なお、[[1832年]]には[[イェータ運河]]が開通し、[[カテガット海峡]]と[[スカゲラク海峡]]を経由して北海へ通ずることとなった。しかし[[鉄道]]が導入されたこともあって、イェータ運河はすぐに時代遅れとなった。中世以来スウェーデン領だったフィンランド([[スウェーデン=フィンランド]])は、[[フィンランド大公国]]としてロシア帝国に編入された。ロシア海軍は、1703年以来この海域に[[バルチック艦隊]]を設置しており、サンクトペテルブルグ近郊の[[クロンシュタット]]を本拠地としてバルト海ににらみを利かせていた。[[1853年]]に始まった[[クリミア戦争]]においては、バルト海でも[[グレートブリテン及びアイルランド連合王国|イギリス]]・[[フランス第二帝政|フランス]]とロシアとの戦いが繰り広げられた。[[1871年]]には[[ドイツ帝国]]が成立し、ドイツとロシアの2大海軍がバルト海において覇を競うこととなった。[[1895年]]には[[キール運河]]が建設され、北海とバルト海の距離が大幅に短縮された。[[1904年]]、[[日露戦争]]時にはこの海域の[[リエパーヤ|リバウ]]軍港より[[日本海]]に向けてバルチック艦隊が出撃した。翌[[1905年]]、スウェーデンとノルウェーの連合は解消され、ノルウェーは独立を果たしたが、この独立をロシアは大いに歓迎している。スウェーデンは中立政策をとったとは言え、ドイツ帝国の興隆を歓迎し、ドイツをロシアからの盾と見なし、ドイツとの友好を計っていた。日露戦争で敗北していたロシアにとって、独露戦争が勃発した際にスウェーデンがドイツに接近し、ドイツ側に立つことを恐れていたからであった。しかし、かかる背景でのノルウェーの分離独立は、北欧の弱体化を意味するものとなった。スウェーデンは以降、「平時の非同盟、戦時の中立」をより高めていくこととなる<ref>『[[#北欧の外交|北欧の外交]]』pp.15-26</ref>。
 
 
 
[[第一次世界大戦]]期には、バルト海もドイツとロシアとの間の戦場となり、[[バルト海の戦い (第一次世界大戦)|バルト海の戦い]]や[[ゴットランド島沖海戦]]が行われた。第一次世界大戦の結果、フィンランド・リトアニア・ラトビア・エストニアが独立し、また独立したポーランドがバルト海につながる回廊([[ポーランド回廊]])を獲得してバルト海への出口を手に入れた。この回廊の出口にあたるダンツィヒは[[ダンツィヒ自由都市]]としてドイツから切り離されたものの、ポーランドには編入されず、これを不満としたポーランドは[[グディニャ]]港を建設して独自の海港を手に入れた。これにより、ダンツィヒの重要性が相対的に低下する一方、グディニャはこの後も工業・港湾都市として発展していった。
 
 
 
[[第二次世界大戦]]と[[冬戦争]]など大戦に先立つ紛争でも、バルト海とその沿岸は領土争奪や戦闘の舞台となった。[[ナチス・ドイツ]]はダンツィヒの[[ヴェステルプラッテ]]地区への奇襲で[[ポーランド侵攻]]の口火を切った。その後の[[独ソ戦]]の緒戦でドイツは[[ソビエト社会主義共和国連邦|ソ連]]に併合されていたバルト三国を席捲し、海上からもソ連の[[バルチック艦隊|バルト海艦隊]]を攻撃したが、[[レニングラード包囲戦|レニングラードを陥落させることができず]]敗退。ドイツは兵士や東プロイセン住民の撤退を支援するためソ連軍に[[艦砲射撃]]を加えるとともに、軍民を海上輸送したが、客船[[ヴィルヘルム・グストロフ]]がソ連潜水艦により撃沈されるなど多くの死者を出した。取り残されたドイツ軍の一部は[[クールラント・ポケット]]で本国降伏まで抗戦を続けた。
 
 
 
第二次世界大戦後、バルト海南岸の[[旧ドイツ東部領土|旧ドイツ領]]は、東端の[[ケーニヒスベルク]]地方が[[カリーニングラード州]]としてソ連に属すようになり、また[[シュチェチン|シュテティン]]以東のドイツ領の大半はポーランドに与えられた([[回復領]])。{{要出典範囲|一方で[[ポーランド・ソビエト戦争]]の結果、[[ポーランド・ソビエト・リガ平和条約|リガ条約]]で獲得した東部領土は、第二次世界大戦後にソヴィエトに割譲したことにより、ポーランド領土は西に移動することとなった。このポーランド・ロシア国境は、第一次世界大戦後に提唱された[[カーゾン線]]の大体の位置に当たる。|date=2015年9月}}戦前にソヴィエトに併合されていた[[バルト三国]]は、戦後もそのままソヴィエト連邦領となっていた。
 
 
 
バルト海はまた、[[冷戦]]の舞台ともなった。バルト海西部の[[ゴットランド島]]は、冷戦期には一般人の立ち入りが制限された一種の[[閉鎖都市]]であった。[[1952年]]にはバルト海の[[公海]]上で[[スウェーデン空軍]]機がソヴィエト連邦の[[ジェット機|ジェット]][[戦闘機]]に二度[[撃墜]]されるという事件が起きた(二度目に撃墜された[[飛行艇]]の名前から[[カタリナ事件]]と呼称される)。[[1981年]]には、[[ロシア海軍|ソ連海軍]]のバルチック艦隊に所属していたウィスキー級潜水艦がスウェーデン[[領海]]で[[座礁]]するといういわゆる[[ウィスキー・オン・ザ・ロック]]事件が起きている。スウェーデンは、冷戦期には[[武装中立|武装中立国]]であったが、実際は[[西側諸国]]寄りでバルト海の対岸は[[東側諸国]]であり、バルト海はその東西対立の最前線にあった<ref>『[[#北欧の外交|北欧の外交]]』pp.77-82</ref>。冷戦終結後は、リトアニア・ラトビア・エストニアが再独立し、[[カリーニングラード]]は[[ロシア連邦]]の飛び地となった。また、[[北ヨーロッパ]]・バルト海の周辺に位置する諸国による[[バルト海諸国理事会]]が[[1992年]]に設立され現在に至っている。
 
 
 
ロシアが[[クリミア半島]]や東部[[ウクライナ]]問題を巡り欧州諸国と対立を深めると、バルト海でも再び軍事的緊張が高まった。2014年にはスウェーデン領海内で目撃された潜水艦らしき物体を同国海軍が捜索。2015年にはフィンランド海軍が領海内で探知した潜水物体に対して小型[[爆雷]]を投下して警告した。
 
 
 
== 沿岸都市 ==
 
[[ファイル:Kontio with other ice breakers at Helsinki.jpg|thumb|ヘルシンキ港]]
 
[[ファイル:Morning in Tallinn Harbor.jpg|thumb|タリン港]]
 
[[ファイル:Klaipeda port.jpg|thumb|クライペダ港]]
 
バルト海沿岸は非常によく開発された地域であり、大規模な都市が多く存在する。沿岸都市で最も大きなものは、人口470万人のロシア・[[サンクトペテルブルク]]である。
 
 
 
バルト海沿岸の大都市は、以下のようになっている(人口順):
 
{| class="sortable wikitable" style="line-height:1.4em; font-size:95%;"
 
|-style="white-space:nowrap;"
 
! 都市名 !! 国 !! 人口 !! 都市圏人口
 
|-
 
|[[サンクトペテルブルク]]||{{Display none|03/}}ロシア||4,700,000人||6,000,000人
 
|-
 
|[[ストックホルム]]||{{Display none|01/}}スウェーデン||{{Display none|0}}843,139人||2,046,103人
 
|-
 
|[[リガ]]||{{Display none|05/}}ラトビア||{{Display none|0}}696,567人||{{Display none|0}}842,000人
 
|-
 
|[[ヘルシンキ]]||{{Display none|02/}}フィンランド||{{Display none|0}}605,022人||1,358,901人
 
|-
 
|[[グダニスク]]||{{Display none|07/}}ポーランド||{{Display none|0}}462,700人||1,041,000人
 
|-
 
|[[カリーニングラード]]||{{Display none|03/}}ロシア||{{Display none|0}}431,500人||
 
|-
 
|[[シュチェチン]]||{{Display none|07/}}ポーランド||{{Display none|0}}413,600人||{{Display none|0}}778,000人
 
|-
 
|[[タリン]]||{{Display none|04/}}エストニア||{{Display none|0}}429,500人||
 
|-
 
|[[グディニャ]]||{{Display none|07/}}ポーランド||{{Display none|0}}255,600人||1,041,000人
 
|-
 
|[[キール (ドイツ)|キール]]||{{Display none|08/}}ドイツ||{{Display none|0}}242,000人<ref>{{Cite web |url=http://www.kiel.de/rathaus/statistik/statistische_berichte/statistische_kurzinformationen/2012/Kurzinfo_Nr._151_-_Amtliche_Einwohnerzahl_im_Dezember_2011.pdf |title=Statistische Kurzinformation {{de icon }} |publisher=Landeshauptstadt Kiel. Amt für Kommunikation, Standortmarketing und Wirtschaftsfragen Abteilung Statistik. |date=2012-07-05 |format=PDF |accessdate=2012-10-11 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20121111143033/http://www.kiel.de/rathaus/statistik/statistische_berichte/statistische_kurzinformationen/2012/Kurzinfo_Nr._151_-_Amtliche_Einwohnerzahl_im_Dezember_2011.pdf |archivedate=2012年11月11日 |deadurldate=2017年9月 }}</ref>||
 
|-
 
|[[エスポー (フィンランド)|エスポー]]||{{Display none|02/}}フィンランド||{{Display none|0}}257,195人||※ヘルシンキ大都市圏の都市
 
|-
 
|[[リューベック]]||{{Display none|08/}}ドイツ||{{Display none|0}}216,100人||
 
|-
 
|[[ロストック]]||{{Display none|08/}}ドイツ||{{Display none|0}}212,700人||
 
|-
 
|[[クライペダ]]||{{Display none|06/}}リトアニア||{{Display none|0}}194,400人||
 
|-
 
|[[オウル]]||{{Display none|02/}}フィンランド||{{Display none|0}}191,050人||
 
|-
 
|[[トゥルク]]||{{Display none|02/}}フィンランド||{{Display none|0}}180,350人||
 
|}
 
 
 
== 海上交通網 ==
 
バルト海は[[内海]]のため、海況が穏やかであり、また対岸までの距離も短いため、古くより海上交通網が発達している。現在は、移動時間の短い[[飛行機]]の利用も多いが、費用が安い、[[航空路]]がない、静養などの理由により船舶を利用する人も多い。貿易船の来航も多いほか、バルト海周辺各国の[[首都]]・主要都市からは毎日、[[シリヤライン]]や[[タリンク]]など海運会社の運航する[[フェリー]]などの大型船舶が出航しており、近隣諸国の諸都市とを結ぶ重要な交通手段となっている。中には[[バルト海クルーズ]]を行うツアーも数多くある。また、北欧諸国特有の海上交通利用法として、ショッピング目的での利用がある。北欧諸国はどこも高[[福祉]]政策をとっているため税金が重く、特に酒や食料品など日用品も高税率となっている。しかし、国際航路であれば船上では[[免税]]となるために、安い品を求めて人々が国際航路に乗り込み、船上のショッピングモールで[[酒]]や[[砂糖]]、肉類などを買い込むといったショッピングクルーズが盛んである<ref>『[[#東欧を知る事典|東欧を知る事典]]』p.390</ref>。これは北欧諸国がのきなみ[[ヨーロッパ連合]]に加盟した21世紀になっても、EU関税同盟に加盟していないオーランド諸島に寄港することで免税条件をクリアする<ref>http://www.finland.or.jp/public/default.aspx?nodeid=46050&contentlan=23&culture=ja-JP 「オーランド諸島」フィンランド大使館、東京 2016年8月6日閲覧</ref>などの方法で続いている。
 
 
 
バルト海南岸と北岸を結ぶ[[鉄道連絡船]]も数多く存在し、とくに島嶼の多いデンマーク国内を結ぶものや、ドイツ・デンマーク・スウェーデン各国を連絡するものなどがある。一般的には車両航送を行うものがほとんどで、乗客は列車に乗車したままバルト海を渡ることができる。しかし20世紀後半以降、各地で橋梁の建設が進み、連絡船は次第に数を減少させつつある{{要出典|date=2015年9月22日 (火) 13:24 (UTC)}}。
 
 
 
[[1980年代]]にはすでに[[小ベルト海峡]]を越えてユトランド半島と[[フュン島]]を結ぶ橋が架けられていたが、[[1997年]][[6月1日]]には[[大ベルト海峡]]を越えてフュン島と[[シェラン島]]とを結ぶ[[グレートベルト・リンク]]が開通し、さらに[[2000年]][[7月1日]]にはエーレスンド海峡を越えてシェラン島のコペンハーゲンとスカンディナビア半島の[[マルメ]]とを結ぶ[[オーレスン・リンク]]が開通して、ここにバルト海を越えてヨーロッパ大陸とスカンディナヴィア半島を直接結ぶ鉄道・道路ルートが完成した。また、[[フェーマルン・ベルト海峡]]を潜って、ドイツの[[フェーマルン島]]とデンマークの[[ロラン島]]を結ぶ[[フェーマルン・ベルトトンネル]]の建設が現在進んでおり、これが完成すれば[[ハンブルク]]とコペンハーゲンの間がさらに短縮される{{要出典|date=2015年9月22日 (火) 13:24 (UTC)}}。
 
 
 
== 政治 ==
 
[[冷戦]]中は、東側に属するソヴィエト連邦と西側に属する[[西ドイツ]]、および中立を標榜する北欧諸国との角逐の場であったが、冷戦終結とソヴィエト連邦崩壊とともに地域協力の必要性が生じ、[[1992年]]には沿岸10か国と[[アイスランド]]の加盟する[[バルト海諸国理事会]]が設立された。[[2005年]]、ロシア大統領の[[ウラジーミル・プーチン]]はバルト海の海底を通ってロシアとドイツを結ぶ[[天然ガス]][[パイプライン輸送|パイプライン]]、[[ノルド・ストリーム]]の建設協定を締結し、[[2011年]]11月8日に稼働を開始した<ref>{{cite news |url=http://synodos.jp/international/2723 |publisher=SYNODOS |title=独露のノルド・ストリームの開通 - その背景と駆け引き |author=[[廣瀬陽子]](旧ソ連地域研究) |date=2011-11-16 |accessdate=2014-11-12 }}</ref>。
 
 
 
== 環境 ==
 
バルト海は狭いスカゲラック海峡を通じて北海にしか通じていない閉鎖性海域であり、海水が滞留しやすく水の入れ替えが少ない。このため、周辺の汚染物質も滞留しやすく、1950年代より徐々に環境が悪化し始め、[[1970年代]]には汚染はピークに達した。1977年以降、1993年初頭までの間、北海からの塩分濃度の高い海水の流入がほぼ止まったため、汚染はさらにひどくなった。このころにはフィンランドやスウェーデンでは汚染対策が進展したのに対し、ソヴィエト連邦およびポーランドにおいては汚染対策が遅れ、とくにフィンランド湾やリガ湾、グダニスク湾などで水質汚染と富栄養化が進んだ<ref>『[[#環バルト海|環バルト海]]』pp.32-36</ref><ref name="バルト海における環境保護の経緯">{{Cite journal |和書 |author=菊池隆之助 |title=バルト海における環境保護の経緯 |journal=環境技術 |publisher=環境技術学会 |date=1999-02-20 |vol=28 |issue=2 |pages=148-150 |naid=10029246157 |doi=10.5956/jriet.28.148 }}</ref>
 
 
 
こうした環境悪化を食い止めるため、[[1974年]]にはバルト海洋環境保護協定(ヘルシンキ協定)が締結された<ref>{{Cite journal |和書 |author=佐伯富樹訳解説 |url=http://ci.nii.ac.jp/els/110004642161.pdf?id=ART0007358560&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1442883069&cp= |title=バルト海域の海洋環境保護に関する条約 |journal=中京大学教養論叢 |publisher=[[中京大学]] |date=1975-03-31 |volume=15 |issue=4 |pages=1091-1105 |naid=110004642161 }}</ref><ref name="バルト海における環境保護の経緯" />。また、[[1982年]]には国際バルト海漁業会議が設置され、バルト海における生物資源保護を担当することとなった。
 
 
 
== その他 ==
 
[[ファイル:Poland Miedzyzdroje.jpg|right|250px|thumb|ポーランド沿岸部には海水浴場が広がる([[西ポモージェ県]]ミェンヅィズドロイェ)。]]
 
バルト海南岸の、現在ドイツ・ポーランド領となっている地域のうち、低湿で農業に適さない西側はポンメルン([[ポモージェ]]、[[ポメラニア]])、より豊かな東側は[[プロイセン]](プルシ、プロシア)と呼ばれていた。
 
 
 
バルト海の西端はスウェーデンとデンマークに挟まれた[[エーレスンド海峡]]で、幅はわずか7kmしかない。[[中世]]より、この海峡はバルト海沿岸諸国が[[大西洋]]、[[北海]]への[[航路]]上必ず通過するルートであった。その為、スウェーデンとデンマークでは[[通行税]]をめぐる争いがあり、[[海峡]]には[[要塞]]や[[城]]が設けられていた。その中で有名な城が、デンマーク側にある[[ウィリアム・シェイクスピア|シェイクスピア]]の「[[ハムレット]]」の舞台となった[[クロンボー城]]([[世界遺産]])である。なお、現在は両国間での争いはなく、船舶が航行できる{{要出典|date=2015年9月22日 (火) 13:24 (UTC)}}。{{要出典範囲|[[近世]]スウェーデンの[[バルト帝国|国家的膨張]]もその一端であり、一時期は通行税の免除を勝ち得ていた。|date=2015年9月}}
 
 
 
バルト海には多数の[[船]]が沈没している。中でも17世紀当時の世界最大の軍艦[[ヴァーサ (戦列艦)|ヴァーサ]]([[スウェーデン海軍]]所属管)が沈んでいて、[[テクニカルダイビング|レックダイバー]]が捜索し、引き上げられている。
 
 
 
バルト海の海底には良質の[[琥珀]]を大量に含む地層が露出している。古来、沿岸各地の海岸では打ち寄せられた琥珀を収穫することができ、地域の[[特産品]]であった。
 
 
 
== 出典 ==
 
=== 注釈 ===
 
<div style="font-size: 95%"><references group="注釈"/></div>
 
=== 出典 ===
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{Reflist|2}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
<!--この節には、記事執筆時に実際に参考にした書籍等のみを記載して下さい-->
 
<!--とりあえず書名の50音順で並べています-->
 
* {{Cite book |和書 |author=[[百瀬宏]] |author2=志摩園子 |author3=大島美穂 |title=環バルト海 - 地域協力のゆくえ |publisher=[[岩波書店]] |series=[[岩波新書]] 新赤版 408 |date=1995-09 |isbn=978-4-00-430408-1 |ref=環バルト海 }}
 
* {{Cite book |和書 |author=山内進 |title=北の十字軍 - 「ヨーロッパ」の北方拡大 |publisher=[[講談社]] |series=講談社選書メチエ 112 |date=1997-09 |isbn=978-4-06-258112-7 |ref=北の十字軍 }}
 
* {{Cite book |和書 |last=ミュラー |first=レオス |others=[[玉木俊明]]、根本聡、入江幸二訳 |title=近世スウェーデンの貿易と商人 |publisher=嵯峨野書院 |date=2006-03 |isbn=978-4-7823-0431-0 |ref=近世スウェーデンの貿易と商人 }}
 
* {{Cite book |和書 |author=越智敏之 |title=魚で始まる世界史 - ニシンとタラとヨーロッパ |publisher=[[平凡社]] |series=[[平凡社新書]] 740 |date=2014-06-13 |isbn=978-4-582-85740-5 |ref=魚で始まる世界史 }}
 
* {{Cite book |和書 |author=石坂昭雄 |author2=壽永欣三郎 |author3=諸田實 |author4=山下幸夫 |title=商業史 |publisher=[[有斐閣]] |series=有斐閣双書 |date=1980-11 |isbn=978-4-641-05617-6 |ref=商業史 }}
 
* {{Cite book|和書|author= |editor=地学団体研究会新版地学事典編集委員会編 |title=新版 地学事典 |publisher=平凡社 |date=1996-10 |isbn=978-4-582-11506-2 }}
 
** {{wikicite
 
    |ref=バルト海(地学事典)
 
    |reference = 佐藤任弘、[[湊正雄]]「バルト海」 p.1046.}}
 
** {{wikicite
 
    |ref=バルト楯状地(地学事典)
 
    |reference = 山下昇、[[中村一明]]「バルト楯状地」 p.1046.}}
 
** {{wikicite
 
    |ref=バルト氷湖(地学事典)
 
    |reference = 那須孝悌、湊正雄「バルト氷湖」 p.1047.}}
 
* {{Cite book |和書 |author=[[栗生沢猛夫]] |title=図説ロシアの歴史 |publisher=[[河出書房新社]] |series=ふくろうの本 |date=2010-05 |isbn=978-4-309-76143-5 |ref=図説ロシアの歴史 }}
 
* {{Cite book |和書 | |author=[[山本茂]]他 |title=地球を旅する地理の本 5 - 東ヨーロッパ・旧ソ連 |publisher=[[大月書店]] |date=1994-03 |isbn=978-4-272-50165-6 |ref=地球を旅する地理の本 5 }}
 
* {{Cite book |和書 |author=[[小野有五]] |editor=町田貞他編 |title=地形学辞典 |publisher=[[二宮書店]] |date=1981-07 |chapter=氷河性アイソスタシー |pages=pp.517-518 |isbn=978-4-8176-0023-3 |ref=地形学事典 }}
 
* {{Cite book |和書 |author=[[堀越孝一]] |title=中世ヨーロッパの歴史 ||publisher=講談社 |series=[[講談社学術文庫]] 1763 |date=2006-05 |isbn=978-4-06-159763-1 |ref=中世ヨーロッパの歴史 }}
 
* {{Cite book |和書 |others=[[伊東孝之]]・[[直野敦]]・荻原直・[[南塚信吾]]・紫宜弘監修 |title=東欧を知る事典 |edition=新訂増補 |publisher=平凡社 |date=2001-03-07 |isbn=978-4-582-12630-3 |ref=東欧を知る事典 }}
 
* {{Cite book |和書 |author=[[高橋理]] |title=ハンザ「同盟」の歴史 - 中世ヨーロッパの都市と商業 |publisher=[[創元社]] |series=創元世界史ライブラリー |date=2013-02 |isbn=978-4-422-20337-9 |ref=ハンザ「同盟」の歴史 }}
 
* {{Cite book |和書 |author=[[武田龍夫]] |title=北欧の外交 - 戦う小国の相克と現実 |publisher=[[学校法人東海大学出版部|東海大学出版会]] |date=1998-08 |isbn=978-4-486-01433-1 |ref=北欧の外交 }}
 
* {{Cite book |和書 |author=[[黒川祐次]] |title = 物語 ウクライナの歴史 - ヨーロッパ最後の大国 |publisher=[[中央公論新社]] |series=[[中公新書]] 1655 |date=2002-08 |isbn=978-4-12-101655-3 |ref=物語 ウクライナの歴史 }}
 
* {{Cite book |和書 |last=カービー |first=デヴィド |authorlink=:en:David Kirby (academic) |last2=ヒンカネン |first2=メルヤ-リーサ |others=[[玉木俊明]]、牧野正憲、谷澤毅、根本聡、柏倉知秀共訳 |title=ヨーロッパの北の海 - 北海・バルト海の歴史」|publisher=[[刀水書房]] |date=2011-04 |isbn=978-4-88708-385-1 |ref=ヨーロッパの北の海 }}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
{{Commonscat|Baltic Sea}}
 
{{Wiktionary pipe|:en:Baltic Sea|Baltic Sea}}
 
{{AmCyc Poster|Baltic Sea}}
 
* 地理: [[フェノスカンジア]] - [[バルト三国]]
 
* 歴史: [[ハンザ同盟]] - [[バルト帝国]] - [[バルチック艦隊]] - [[バルト海の戦い (第一次世界大戦)]]
 
* 政治・環境: [[バルト海諸国理事会]] - {{仮リンク|ヘルシンキ委員会|en|HELCOM}}(バルト海洋環境保護委員会)
 
* 経済: [[琥珀]] - [[バルト海クルーズ]]
 
* [[ヨーロッパ]] / [[北ヨーロッパ]] / [[東ヨーロッパ]] / [[中央ヨーロッパ]]
 
 
 
== 外部リンク ==
 
* [http://tenbou.nies.go.jp/news/fnews/detail.php?i=16282 フィンランドの科学者ら、バルト海地域における地球温暖化の影響を報告] - 環境展望台(国立研究開発法人[[国立環境研究所]])海外ニュース、2015年5月22日付 {{ja icon}}
 
* [http://www.baltic.vtt.fi/demo/baltmap.htm バルト海マップ] - フィンランド・Baltic Marine Environment Bibliography {{en icon}}
 
* [http://www.balticnest.org/ Baltic Nest Institute (BNI)] {{en icon}}
 
* [http://maps.grida.no/baltic/ バルト環境アトラス (Baltic Environmental Atlas)] - [[国際連合環境計画]] (UNEP) {{en icon}}
 
* [http://www.helcom.fi/ ヘルシンキ委員会 (HELCOM)] - 「バルト海域の海洋環境保護に関する条約」の運営組織 {{en icon}}
 
* [http://www.baltic.vtt.fi/ バルト海の環境に関する参考文献] {{en icon}}
 
* [http://www.ferrylines.com/en/ferries/baltic-sea/ バルト海におけるフェリー航路の一覧] - Ferrylines.com {{en icon}}
 
* [http://www.baltice.org/ Baltic Icebreaking Management (BIM)] - バルト海での船舶の運航と氷の状況 {{en icon}}
 
* [https://www.abc.se/~pa/uwa/wrecks.htm 北欧とバルト海の難破船] - 北欧水中考古学 {{en icon}}
 
  
 
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[[Category:東欧]]
 
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2018/9/30/ (日) 17:36時点における最新版

上空から見たボルンホルム島とバルト海.jpg
バルト海
場所 ヨーロッパ
座標 東経20度北緯58度 東経20度58; 20
最長 1,600 km (990 mi)
最大幅 193 km (120 mi)
水面積 377,000 km2 (146,000 sq mi)
平均水深 55 m (180 ft)
水量 20,000 km3 (テンプレート:Rnd/d acre·ft)


バルト海(バルトかい、Baltic Sea)

バルチック海ともいう。ドイツ,ポーランド,ロシア,バルト3国から東部ヨーロッパ大陸とスカンジナビア半島に取巻かれた北大西洋の縁海の一つ。西はカテガト海峡,スカゲラク海峡を通じて北海,大西洋に連なり,湾の奥はボスニア湾とフィンランド湾に分れ,海中には大小多数の島がある。海岸線は出入りが多い。面積は約42万 km2,深さは最深部で 210m,平均深度 55m。海底は粘土,細砂が多く,氷河堆積物の分布が広い。水温は夏 20℃ぐらい,冬2~6℃で湾奥地方は3~5ヵ月間結氷する。漁業はニシン,タラ,スマ,カレイが主。塩分が少く湾奥は淡水に近いので,淡水系の動植物がふえている。




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