「バウハウス」の版間の差分

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{{参照方法|date=2012年12月}}
 
{{独自研究|date=2014年2月}}
 
{{出典の明記|date=2014年2月}}
 
{{Otheruses|美術学校}}
 
'''バウハウス'''({{lang-de|Bauhaus}}, バオハオスとも)は、[[1919年]]、[[ヴァイマル共和政|ドイツ国]]・[[ヴァイマル]]に設立された、[[工芸]]・[[写真]]・[[デザイン]]などを含む[[美術]]と[[建築]]に関する総合的な[[教育]]を行った[[学校]]。また、その流れを汲む合理主義的・[[機能主義 (建築)|機能主義]]的な芸術を指すこともある。学校として存在し得たのは、[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]により[[1933年]]に閉校されるまでのわずか14年間であるが、その活動は現代美術に大きな影響を与えた([[モダニズム建築]]、[[20世紀美術]]の項を参照)。
 
  
'''バウハウス'''はドイツ語で「建築の家」を意味する。[[中世]]の[[建築]][[職人]][[組合]]である'''バウヒュッテ''' (Bauhütte, <small>建築の小屋</small>) という語を[[ヴァルター・グロピウス]]が現代風に表現したものである。
+
'''バウハウス'''({{lang-de|Bauhaus}}, バオハオスとも)
 
 
== 沿革 ==
 
[[ファイル:Van-de-Velde-Bau in Weimar (Draufsicht).jpg|thumb|250px|right|ヴァイマル校]]
 
[[ファイル:Van-de-Velde-Bau in Weimar (Südgiebel).jpg|thumb|250px|right|ヴァイマル校]]
 
[[ファイル:Bauhaus.JPG|thumb|250px|right|デッサウ校]]
 
[[ファイル:Bauhaus Archiv Berlin - Haupteingang.jpg|thumb|250px|right|ベルリンにあるバウハウス記念館(Bauhaus-Archiv)]]
 
 
 
バウハウスの歴史はわずかな期間であるが、この間に運営方法は大きく変わった。
 
 
 
=== 前史 ===
 
{{Seealso|{{仮リンク|Neues Weimar|de|Neues Weimar}}}}
 
 
 
[[ドイツ帝国]]の[[ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公国|ヴァイマル大公]][[ヴィルヘルム・エルンスト (ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公)|ヴィルヘルム・エルンスト]]は、ベルギーの建築家で[[アール・ヌーヴォー]]に造詣の深い[[アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデ]]をヴァイマルに招聘した。[[1902年]]、ヴェルデは私設の「工芸ゼミナール」を設立し、1908年、「大公立美術工芸学校」に発展した。1911年には、ヴェルデ設計による工芸学校の校舎が建てられた。
 
 
 
ヴァン・デ・ヴェルデは{{仮リンク|ケルン・工作連盟展 (1914年)|de|Kölner Werkbundausstellung|en|Werkbund Exhibition (1914)|label=ケルンでのドイツ工作連盟展}}(1914年)で、[[イギリス]]の[[アーツ・アンド・クラフツ運動]]の影響を受け、規格化を重視した[[ドイツ工作連盟]]の[[ヘルマン・ムテジウス]]と衝突し({{lang-de|Typenstreit}}、'''規格化論争''')、[[1915年]]にドイツを去らざるを得なくなった。このため、工芸学校を建築家ヴァルター・グロピウスに託した。
 
 
 
=== ヴァイマルでの設立 ===
 
第一次世界大戦後に[[ドイツ革命]]([[1918年]][[11月3日]] - [[1919年]][[8月11日]])が勃発、[[ドイツ帝国]]が崩壊して大公の統治が終わり、[[ヴァイマル共和政|ヴァイマル共和国]]が成立。1919年、工芸学校と美術学校が合併して「国立バウハウス・ヴァイマル」設立(ヴェルデ設計の旧工芸学校の校舎を使用)。初代校長にグロピウスが就任し、同年にバウハウス創立宣言が出された(ちなみに宣言の表紙は[[リオネル・ファイニンガー]]の「社会主義の大聖堂」)。
 
 
 
予備課程を担当していた[[ヨハネス・イッテン]] (Johannes Itten) の方針から、初期の教育内容は、合理主義的(機能主義的)なものと[[表現主義]]的(神秘主義・精神主義的、芸術的、手工業的)なものとを混合していた。
 
 
 
[[1922年]]に[[ソビエト連邦|ソ連]]の高等芸術学校[[ヴフテマス]]([[1920年]] - [[1930年]])から招聘した[[ワシリー・カンディンスキー]]が[[ロシア・アヴァンギャルド]]の[[ロシア構成主義|構成主義]]的な造形教育を開始した後、グロピウスはオランダの[[デ・ステイル]][[ピエト・モンドリアン]]による[[新造形主義]]や、[[テオ・ファン・ドゥースブルフ]]による[[要素主義]])の影響を受け、より合理主義的・機能主義的な考え方をとるようになった。やがて、グロピウスとヨハネス・イッテンとの間に対立が生じ、[[1923年]]にイッテンがバウハウスを去り、後継者には[[ハンガリー]]を亡命した[[:hu:Avantgárd#Avantgárd Magyarországon|ハンガリー・アヴァンギャルド]]構成主義の[[モホリ=ナジ・ラースロー]]が就任、予備課程を担当した。その結果、合理主義・機能主義が、バウハウスの中心的な教育傾向となっていった。これは[[工業デザイン]]や大量生産に合致するものであった。
 
 
 
=== デッサウ移転 ===
 
その後、ヴァイマルのバウハウスは閉鎖され、[[1925年]]に[[デッサウ]]に移転し、「市立バウハウス・デッサウ」となった。デッサウの校舎はグロピウスの設計によるもので、モダニズム建築の代表作として各国に紹介された。グロピウスは1928年に校長を退き、グロピウスの後継者には[[ハンネス・マイヤー]]が指名された。
 
 
 
ムテジウスの系譜に連なるマイヤーは[[唯物論]]の立場から「'''バウエン'''」(Bauen, <small>建築、構築</small>)を唱え、全てを規格化・数値化・計量化し、合目的性・経済性・科学性を徹底的に重視させた。これによりドイツ表現主義的な審美性は無くなり、造形の呼称は「美」に代わって「形成」 (Gestaltung) とされた。マイヤーの手腕でバウハウスは初めて[[黒字]]を生み、国際的な評価が高まり、同校のデザイン活動は最高潮に達していた。[[1929年]]6月にマイヤーの後援でバウハウス内に「[[ドイツ共産党]][[細胞 (政党)|細胞]]」という同好会が結成された。マイヤーが公然たる[[共産主義]]者であったこともあり、さらにバウハウスはナチスら右翼勢力に敵視されるようになる。
 
 
 
[[1930年]]にマイヤーは解任され、[[ミース・ファン・デル・ローエ|ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエ]]が校長に就任した。
 
 
 
=== ベルリン移転・閉校 ===
 
[[1932年]]にデッサウ校は閉鎖し、[[ベルリン]]へ移転して私立学校になった。ミース・ファン・デル・ローエの方針はマイヤーの「バウエン」を継承しつつも、政治色を払拭するものだった。
 
 
 
しかし[[1933年]]には[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]により閉校される前にミース・ファン・デル・ローエにより解散された。(出典、Magdalena Droste"Bauhaus", Taschen)
 
 
 
[[ミース・ファン・デル・ローエ]]は[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に亡命、[[モホリ=ナジ・ラースロー]]もその頃には国外に移動しているなど、国外に活動の場は移動される(ドイツの視点からすると流出)こととなった。
 
 
 
== バウハウスの継承 ==
 
[[ファイル:Crown Hall 060514.jpg|thumb|250px|right|イリノイ工科大学クラウンホール (設計:ミース・ファン・デル・ローエ)]]
 
[[ファイル:Bauhaus-Universität Weimar - Neubau der Fakultät Bauningenieurwesen.jpg|thumb|250px|right|バウハウス大学ヴァイマル]]
 
 
 
=== ニュー・バウハウス ===
 
モホリ=ナジは[[シカゴ]]芸術産業協会に招かれ、[[ニュー・バウハウス]]を設立した([[1937年]])。財政難のため1年ほどで閉鎖されたが、[[1939年]]に School of Design Chicago として再開<!-- 再開? -->、[[1944年]]には拡大し [[:en:IIT Institute of Design|The Institute of Design]] となった。シカゴの活動では特に写真の分野が有名である。モホリ=ナジの教育方式は、[[1949年]]に[[イリノイ工科大学]](IIT)に引き継がれた。
 
 
 
=== バウハウス大学ヴァイマル ===
 
[[ヴァイマル]]校舎は、旧[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]の時代は建築・土木工科大学 (Hochschule für Architektur und Bauwesen Weimar) として機能していたが、[[ドイツ再統一|東西併合]]後にバウハウスの流れを汲む国立の総合芸術大学としての再編が計画され、1996年に建築、土木工学、アート & デザイン、メディアの四領域を有する{{仮リンク|バウハウス大学|de|Bauhaus-Universität Weimar|en|Bauhaus University, Weimar}} ({{lang|de|Bauhaus-Universität Weimar}}) として、改めてバウハウスの名を掲げることとなった。その中でも、大学院修士課程 (MFA) のみのコースとして設置された "Public Art and New Artistic Strategies" は、バウハウス大学の全領域を横断しながら新しい芸術を探求する実験的なコースとして注目されている。
 
 
 
=== バウハウス・デッサウ財団 ===
 
[[1999年]]9月、「{{仮リンク|バウハウス・デッサウ財団|de|Stiftung Bauhaus Dessau|en|Bauhaus Dessau Foundation}}」管理のデッサウ校舎において理事長を務める{{仮リンク|オマー・アクバー|de|Omar Akbar}}が、実験的教育機関「[[バウハウス・コレーグ]]」を立ち上げた。対象は大卒や専門課程既卒者でクラスは英語で行われる。履修期間は一年(三期)で、一学期のみの履修もできる。私設学校であるため公的な卒業資格は得られない。往来のバウハウスが掲げていた「全ては建築に収束する」でなく、テーマは「都市」。メディア、建築、アート、デザインなどの専門知識を持った 20 人前後の学生たちで成り立つ。バウハウスブランドを利用しているという批判もあるが、21世紀のバウハウスを見据えた実験的試みが行われている。
 
 
 
== 日本からの留学者 ==
 
日本からバウハウスに留学した人物としては、[[水谷武彦]](東京美術学校助教授)と[[山脇巌]]・[[山脇道子|道子]]夫妻が知られる<ref>{{Cite web |url = https://jp.toto.com/tsushin/2017_autumn/modernhouse.htm |title = 大ガラスのある白い箱 三岸アトリエ |publisher = [[TOTO]] |accessdate = 2018-06-24 }}</ref>。
 
 
 
*[[新建築工芸学院]]([[1932年]] - [[1938年]])
 
:日本の高等芸術学校。水谷武彦、山脇巌・道子夫妻が講師として参加。
 
 
 
水谷は帰国後、美術学校でバウハウス流の造形教育を行った。
 
 
 
山脇巌はバウハウス閉鎖後日本に帰国し、バウハウスで学んだ[[フォトモンタージュ|フォトコラージュ]]による作品「バウハウスへの打撃」(ナチスの[[突撃隊]]とバウハウスの写真などを組み合わせた)を制作した。山脇はその後、日本大学芸術学部の教授職に就き、バウハウスの経験をもとにカリキュラムを作成する。これが日本で初の大学におけるデザイン教育となる。(当時は美術学科の中にあるデザイン専攻。現在はデザイン学科として独立。)
 
 
 
== 世界遺産 ==
 
「[[ヴァイマルとデッサウのバウハウスとその関連遺産群]]」は、[[1996年]]に[[世界遺産]](文化遺産)に登録された。〈バウハウス叢書〉の刊行も含め、後世の美術[[芸術]]・美術[[思想]]・美術[[教育]]等に与えた影響は大きい。
 
 
 
== 校名・校長の変遷 ==
 
{| class="wikitable" style="margin:0 auto"
 
|+校名・校長の変遷
 
!年
 
!校名
 
!校長
 
|-
 
|1919年〜1925年
 
|国立バウハウス・ヴァイマル
 
|グロピウス
 
|-
 
|1925年〜1928年
 
|市立バウハウス・デッサウ
 
|グロピウス
 
|-
 
|1928年〜1930年
 
|市立バウハウス・デッサウ
 
|マイヤー
 
|-
 
|1930年〜1932年
 
|市立バウハウス・デッサウ
 
|ミース・ファン・デル・ローエ
 
|-
 
|1932年〜1933年
 
|私立バウハウス・ベルリン
 
|ミース・ファン・デル・ローエ
 
|}
 
 
 
=== 運営に係わった人物 ===
 
*[[ミース・ファン・デル・ローエ]]
 
*[[ヴァルター・グロピウス]]
 
*[[パウル・クレー]]
 
*[[ヨゼフ・アルバース]]
 
*[[ヨハネス・イッテン]]
 
*[[テオ・ファン・ドゥースブルフ]]
 
*[[モホリ=ナジ・ラースロー]]
 
*[[ワシリー・カンディンスキー]]
 
*[[リオネル・ファイニンガー]]
 
*[[ヘルベルト・バイヤー]]
 
*[[オスカー・シュレンマー]]
 
*[[ピエト・モンドリアン]]
 
*[[マルセル・ブロイヤー]]
 
 
 
== 参考画像 ==
 
<gallery>
 
File:Bauhaus in Dessau.jpg|
 
File:Bauhaus-Dessau Festsaal.jpg|
 
File:Weimarbauhaus6.jpg|
 
File:Bauhaus-Dessau Fensterfront.JPG
 
</gallery>
 
 
 
== その他 ==
 
[[大阪市立工芸高等学校]]本館 (1923年) はヴァン・デ・ヴェルデのヴァイマル・バウハウス校舎に影響を受けた[[アール・ヌーヴォー]]風の建物。
 
 
 
== 関連書籍 ==
 
;原典
 
*"バウハウス叢書"の邦訳は全14巻で 1991 - 99 年に出版された、[[中央公論美術出版]]。
 
*『バウハウスとその周辺』(叢書別巻1.2) 利光功、宮島久雄、貞包博幸編、1996. 99年。
 
;図録
 
*利光功編 『[[ヴァイマル]]の国立バウハウス 1919-1923』 中央公論美術出版。2009年、創立90年記念出版
 
*[[2008年]]4月から09年3月に『バウハウス・[[デッサウ]]展』が四ヶ所(東京、浜松、新潟、宇都宮)で催され「展覧会図録」が[[産業経済新聞社|産経新聞社]](島津京・細谷誠ほか編)で刊行された。
 
 
 
;概説書 70年代に刊行
 
*『バウハウス 歴史と理念』利光功、[[美術出版社]]
 
*『バウハウス その建築造形理念』杉本俊多、[[鹿島出版会]]
 
*『バウハウス 近代デザイン運動の軌跡』ギリアン・ネイラー、利光功訳、[[パルコ|PARCO 出版局]]
 
 
 
;写真集 2000年代に刊行
 
*『バウハウス 1919-1933』 タッシェン・ジャパン、建築デザインシリーズ
 
:マグダレーナ・ドロステ、Mariko Nakano訳 タッシェン、新版2009年
 
*『ヴァルター・グロピウス バウハウス1925-26、ファグス工場1911-25』
 
:<GAグローバル・アーキテクチュア70>[[A.D.A.Edita Tokyo]]/二川幸夫企画・撮影/デニス・シャープ文
 
*『特集バウハウス 1919-1999』 大口晃央ほか <10+1 = Ten plus one No.17>[[INAX]]出版、 1999年
 
*『誰にでもわかる20世紀建築の3大巨匠+バウハウス』 [[マガジンハウス]]ムック、2006年
 
;学術書
 
*『バウハウスと戦後ドイツ芸術大学改革』 鈴木幹雄、長谷川哲哉編著 風間書房 2009年
 
*『ナチス時代のバウハウス・モデルネ』 ヴィンフリート・ネルディンガー編、清水光二訳 岡山:大学教育出版、2002年
 
  
 +
絵画,彫刻,建築,工芸教育に革新的な方法を用いたドイツの総合的造形学校。 1919年に建築家 W.[[グロピウス]]によってワイマールに創設された。純粋芸術と工芸技術との総合的発展を目的とし,ドイツ,オーストリアから多くの学生が集まったが,ワイマール市民がその革新性に批判的であったため,1925年にデッサウに,さらに 1932年にベルリンに移転したものの,1933年ナチスにより廃校になった。おもな指導者はグロピウスをはじめ建築家[[ミース・ファン・デル・ローエ]],画家 W.[[カンディンスキー]],P.[[クレー]],L.[[モホイ=ナジ]],L.[[ファイニンガー]],彫刻家,デザイナーの G.マルクス,O.シュレンマーなど。学生は半年間の準備コースを終えて,約3年間各専門の実地教育を受けた。廃校後はモホイ=ナジがシカゴにニュー・バウハウス (デザイン研究所) を創設,グロピウス,ミース・ファン・デル・ローエらも渡米し,アメリカでバウハウスの理念を発展させた。ワイマールとデッサウに残るバウハウスの作品群は,1996年世界遺産の文化遺産に登録。
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== 脚注 ==
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{reflist}}
 
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== 関連項目 ==
 
{{Commons|Bauhaus}}
 
*[[モダニズム建築]]
 
<!--*[[民芸運動]]--><!-- 関連性不明 -->
 
  
 
{{西洋の芸術運動}}
 
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[[Category:デザイン学校]]
 
[[Category:デザイン学校]]

2018/10/8/ (月) 12:18時点における最新版

バウハウスドイツ語: Bauhaus, バオハオスとも)

絵画,彫刻,建築,工芸教育に革新的な方法を用いたドイツの総合的造形学校。 1919年に建築家 W.グロピウスによってワイマールに創設された。純粋芸術と工芸技術との総合的発展を目的とし,ドイツ,オーストリアから多くの学生が集まったが,ワイマール市民がその革新性に批判的であったため,1925年にデッサウに,さらに 1932年にベルリンに移転したものの,1933年ナチスにより廃校になった。おもな指導者はグロピウスをはじめ建築家ミース・ファン・デル・ローエ,画家 W.カンディンスキー,P.クレー,L.モホイ=ナジ,L.ファイニンガー,彫刻家,デザイナーの G.マルクス,O.シュレンマーなど。学生は半年間の準備コースを終えて,約3年間各専門の実地教育を受けた。廃校後はモホイ=ナジがシカゴにニュー・バウハウス (デザイン研究所) を創設,グロピウス,ミース・ファン・デル・ローエらも渡米し,アメリカでバウハウスの理念を発展させた。ワイマールとデッサウに残るバウハウスの作品群は,1996年世界遺産の文化遺産に登録。

脚注




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