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'''ハプニング解散'''(ハプニングかいさん)は、[[1980年]][[5月19日]]の[[衆議院解散]]の通称。
 
 
 
== 経緯 ==
 
前年[[1979年]]に、[[与党]]・[[自由民主党 (日本)|自民党]]議員の[[内閣総理大臣指名選挙|首相指名選挙]]での投票先がほぼ二分されるという[[日本国憲法]]施行以来前代未聞の事態([[四十日抗争]])があった[[1980年]]5月16日、[[日本社会党]]の[[飛鳥田一雄]]委員長が、[[浜田幸一]][[衆議院議員]]の[[ラスベガス]]・[[カジノ]]疑惑・[[KDD事件]]・[[日本鉄道建設公団|鉄建公団]]不正経理事件など、一連の[[自由民主党 (日本)|自民党]]政治下でのスキャンダルを理由として、[[衆議院]]に[[大平正芳|大平]][[内閣不信任決議]]案を提出した。解散総選挙を警戒していた[[公明党]]、[[民社党]]も同調の気配を見せ、これに呼応するかのように自民党の反主流派が動き出し、浜田の[[証人喚問]]とKDD事件のため国会に綱紀粛正委員会を設置することを求め、大平正芳首相の回答を求めた。
 
 
 
これに先立ち、[[社公民路線|社公民]]の[[野党]]3党は不信任案について党首会談を行った。当然のごとく自民党議員全員が反対し否決すると思い込んでいた飛鳥田と公明党の[[竹入義勝]]委員長は不信任案提出で合意したのに対し、民社党は[[春日一幸]]顧問から「自民党内の反主流派の動向が掴めないため、不信任案を提出することは危険だ」との分析を受けていた[[佐々木良作]]委員長が提出に難色を示すが<ref>つまり、自民党の不祥事が続いたせいもあって気勢を上げるためにも内閣不信任案を提出したいが、前年に総選挙があったばかりなので実際に不信任案可決・解散になっては困るというのが社公民の立場で、自民党反主流派の動きが不穏で実際に可決されかねないので提出を見送るべきだというのが春日の分析であった。</ref>、この意見は受け流される格好となり、大平内閣不信任決議案は、議事進行係・[[玉沢徳一郎]]を通じて衆院本会議に上程された。
 
 
 
自民党の反主流派は不信任案を巡って同調するか否かで混乱し、[[灘尾弘吉]][[衆議院議長]]は当初午後3時の予定だった本会議の開会を5時まで延長する。しかし、それでも反主流派は結論に達せず再延長を灘尾に申し込むが、灘尾はこれを[[国会]]を軽視するものと拒否し開会を宣言。
 
前年の[[四十日抗争]]で大角([[大平派]]と[[田中派]])主流派に敗れ、自民党内で反主流派となっていた[[番町政策研究所|三木派]]や[[清和政策研究会|福田派]]、[[自由革新同友会|中川グループ]]などの議員69人は本会議を欠席した。これにより内閣不信任決議案は賛成243票・反対187票で56票差で可決となった。内閣不信任決議可決は[[1953年]]以来27年ぶり。
 
 
 
[[政策科学研究所 (派閥)|中曽根派]]は土壇場で反主流派を離脱し、本会議に出席して反対票を投じた。ほかに、福田派から13人、三木派から6人が本会議に出席している。反主流派ながら党幹部として不信任案反対の意向であった[[安倍晋太郎]]政調会長は、本会議場において[[森喜朗]]等若手議員に羽交い絞めにされるようにして会議途中に退席した。また[[福永健司]](大平派)、[[小坂善太郎]](無派閥)が病気入院のため欠席したが、元大平派の小坂に対しては一部から親三木・反大平だったことから欠席したのではないかとの憶測がなされた。
 
 
 
可決後、大平は即座に総辞職ではなく解散する旨を表明、[[第2次大平内閣|大平内閣]]は[[閣議]]で衆議院解散を決定し、3日後の5月19日に灘尾議長が本会議を開かずに議長応接室に各[[院内会派|会派]]の代表を集め、[[衆議院解散#解散詔書|解散詔書]]を朗読し、前回の選挙からわずか7ヶ月余で衆議院は解散となった。内閣不信任決議可決当日に衆議院を解散しなかったのはこの時だけである。内閣は[[6月22日]]の[[参議院議員通常選挙|参院選]]と同時に[[衆議院議員総選挙|衆院選]]の投票を実施することを決め、史上初の[[衆参同日選挙]]となった。野党は不信任案が可決されることを予測しておらず、自民党内の反主流派も戦略なく行き当たりばったりで本会議を欠席し、結果として解散に至ったため、「'''ハプニング解散'''」と呼ばれる。当初から不信任案可決ー解散の流れを警戒していた春日は可決後、「切れないノコギリを自分の腹に当てやがって」(首相を退陣に追い込むどころか提出した側が全員失職した意)と野党の未熟ぶりを嘆いたという。
 
 
 
なお、大平首相は新聞記者に対し「政党は夫婦みたいなもので、こんなことがあってもどうということはない。俺も鳩山内閣不信任案に欠席をしたことがある。政党は分離と独立を繰り返していくものだ。昨年の首班指名の時は別の名前を書かれたが、今回は欠席だから状況はよくなっている。諸君は事実上の分裂選挙と言うが、総裁以下号令一下、挙党一致で闘ったことなど一度もないんだよな」と語っている。
 
 
 
自民党執行部は不信任案に反対した田中・大平両主流派や旧中間派の議員と反主流派のうち本会議に出席して不信任案に反対した中曽根派議員を第1次公認とし、欠席した反主流派の議員は第2次公認という形を取った。当初は分裂選挙の様相を呈していたが、選挙中であった6月12日に大平が急死するという緊急事態が起こり、それを受けて自民党主流・反主流両派は一転して融和・団結し[[弔い選挙]]の様相を見せて選挙戦を進めた。22日の投票で自民党は衆参両院で地すべり的大勝を収め、不信任案を提出した野党、特に公明党は大敗を喫した。これで6年間続いた衆参両院における[[伯仲国会|与野党伯仲状態]]は完全に解消した。大平の死と引き換えに得た大勝利であった。
 
 
 
これは自民党に多くの同情票が集まったためと言われることが多いが、一方で[[石川真澄]]などは「四十日抗争、ハプニング解散、そして現職首相の総選挙中の死という異常な出来事が1年の間に次々と起きたことが、有権者の政治への興味、関心を高め、投票所に向かわせたことが勝因である」との見解を示している。また、一般的には敗北とみなされている前年の衆院選でも、自民党の得票率は回復傾向を見せていた。自民党の勝利は、都市部で投票率が大きく上がり、それがそのまま得票増になったところが大きく、都市住民の自民回帰も指摘された。
 
 
 
ともあれ、大平の死によって形としては党の一致団結を見せたものの、解散の引き金となった福田・三木派といった反主流派は、ポスト大平において声を上げることが困難となり、[[鈴木善幸]]の後継選出につながった。ギリギリの判断で不信任案反対に回った中曽根は後継を逃したものの、この混乱過程で主流派入りを宣言し、行管庁長官という立場でポスト鈴木の最右翼につけることになった。こうして、ハプニング解散は以後の自民党政治の帰趨に大きな影響を与えたといえる。
 
 
 
== 内閣不信任案に欠席した自民党議員 ==
 
必要に応じて出席者も明記した。
 
=== 福田派 ===
 
*欠席35人 - [[山口シヅエ]]、[[中野四郎]]、[[坊秀男]]、[[福田赳夫]]、[[田中龍夫]]、[[渡海元三郎]]、[[始関伊平]]、[[久保田円次]]、[[安倍晋太郎]]、[[三ッ林弥太郎]]、[[塩川正十郎]]、[[福家俊一]]、[[加藤六月]]、[[田辺国男]]、[[村田敬次郎]]、[[森喜朗]]、[[山崎平八郎]]、[[国場幸昌]]、[[三塚博]]、[[中島源太郎]]、[[越智通雄]]、[[小泉純一郎]]、[[松本十郎_(衆議院議員)|松本十郎]]、[[村上茂利]]、[[鹿野道彦]]、[[石橋一弥]]、[[大塚雄司]]、[[佐藤隆_(政治家)|佐藤隆]]、[[佐野嘉吉]]、[[田名部匡省]]、[[狩野明男]]、[[中村正三郎 (政治家)|中村正三郎]]、[[亀井静香]]、[[吹田あきら|吹田愰]]、[[宮下創平]]
 
*病欠1人 - [[宇野亨]]
 
*出席13人 - [[倉石忠雄]]、[[早川崇]]、[[秋田大助]]、[[白浜仁吉]]、[[正示啓次郎]]、[[細田吉蔵]]、[[藤尾正行]]、[[三枝三郎]]、[[玉沢徳一郎]]、[[塚原俊平]]、[[石川要三]]、[[池田淳]]、[[佐藤一郎 (政治家)|佐藤一郎]]
 
 
 
=== 三木派 ===
 
*欠席25人 - [[三木武夫]]、[[井出一太郎]]、[[田中伊三次]]、[[赤城宗徳]]、[[河本敏夫]]、[[加藤常太郎]]、[[森山欽司]]、[[丹羽兵助]]、[[毛利松平]]、[[渋谷直蔵]]、[[海部俊樹]]、[[藤井勝志]]、[[伊藤宗一郎]]、[[谷川和穂]]、[[鯨岡兵輔]]、[[菅波茂]]、[[坂本三十次]]、[[橋口隆]]、[[近藤鉄雄]]、[[森美秀]]、[[山下徳夫]]、[[志賀節]]、[[辻英雄]]、[[北川石松]]、[[工藤巌]]
 
*出席6人 - [[石田博英]]、[[野呂恭一]]、[[大西正男]]、[[有馬元治]]、[[塩谷一夫]]、[[地崎宇三郎 (三代)|地崎宇三郎]]
 
 
 
=== 中川派 ===
 
*欠席7人 - [[松沢雄蔵]]、[[長谷川峻]]、[[中川一郎]]、[[古屋亨]]、[[石原慎太郎]]、[[上草義輝]]、[[高橋辰夫]]
 
*出席2人 - [[長谷川四郎 (政治家)|長谷川四郎]]、[[中村弘海]]
 
 
 
=== 中曽根派 ===
 
*欠席2人 - [[稲葉修]]、[[中尾栄一]]
 
**[[中曽根康弘]]は本会議直前に反主流派離脱を表明し、本会議に出席。所属議員のほとんどがこれに従った。
 
 
 
=== 大平派 ===
 
*欠席1名 - [[福永健司]]
 
**総裁派閥の福永であるが、病気入院のため本会議に出席できなかった。
 
 
 
=== 無派閥 ===
 
*欠席1名 - [[小坂善太郎]]
 
**急病を理由に欠席したが、かつて宏池会内の主導権争いで大平と対峙し、その後大平派を脱退した経緯があり、この頃三木派の若手を中心とした派閥横断グループを主宰していたこともあって、[[確信犯]]ではないかと疑われた。
 
 
 
== 脚注 ==
 
<references />
 
 
 
== 関連項目 ==
 
*[[バカヤロー解散]]
 
*[[四十日抗争]]
 
*[[衆参同日選挙]]
 
*[[第36回衆議院議員総選挙]]
 
*[[第12回参議院議員通常選挙]]
 
*[[鈴木善幸]] - ハプニング解散後の自由民主党総裁
 
*[[伊東正義]] - 当時の官房長官で、「大平を殺した」と福田・三木のことを終生許さなかった。
 
*[[加藤の乱]] - 加藤は当時官房副長官を務めており、官邸内からこの動きを見ていた。後に加藤の乱を起こした際は、このことを強く意識していたとされる。
 
 
 
== 参考文献 ==
 
*{{Cite book|和書
 
|author=福永文夫
 
|authorlink=福永文夫
 
|title=大平正芳…「戦後保守」とは何か
 
|origdate=2008-12-20
 
|accessdate=2009-04-15
 
|edition=初版
 
|publisher=[[中央公論新社]]
 
|series=[[中公新書]]
 
|isbn=9784121019769
 
}}
 
 
 
== 外部リンク ==
 
*[http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/091/0001/09105160001025a.html 1980年5月16日衆議院本会議議事録]
 
 
 
{{自由民主党総裁選挙}}
 
 
 
{{DEFAULTSORT:はふにんくかいさん}}
 
[[Category:衆議院解散]]
 
[[Category:政治騒動]]
 
[[Category:自由民主党内の政治抗争]]
 
[[Category:1980年の日本の政治]]
 
[[Category:1980年5月]]
 
[[Category:大平正芳]]
 
[[Category:福田赳夫]]
 
[[Category:三木武夫]]
 

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