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{{基礎情報 君主
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[[ファイル:バビロンの吊り庭園(前8世紀~前6世紀頃建設)の再現図.jpg|サムネイル|バビロンの吊り庭園(前8世紀~前6世紀頃建設)の再現図]]
| 人名      = ネブカドネザル2世
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'''ネブカドネザル2世'''('''Nebuchadnezzar II''', 本来の[[アッカド語]]表記では'''ナブー・クドゥリ・ウスル'''('''Nabû-kudurri-uṣur''')、[[紀元前634年]] - [[紀元前562年]])
| 各国語表記 =
 
| 君主号    = [[新バビロニア|バビロニア]]王
 
| 画像      = Nebukadnessar II.jpg
 
| 画像サイズ =
 
| 画像説明  =
 
| 在位      = [[紀元前605年]] - [[紀元前562年]]
 
| 戴冠日    =
 
| 別号      =
 
| 全名      =
 
| 出生日    = [[紀元前634年]]
 
| 生地      =
 
| 死亡日    = [[紀元前562年]]
 
| 没地      =
 
| 埋葬日    =
 
| 埋葬地    =
 
| 配偶者1    = {{仮リンク|アミュティス (メディア)|en|Amytis of Media|label=アミュティス}}
 
| 配偶者2    =
 
| 子女      = [[アメル・マルドゥク]]<br>[[ネルガル・シャレゼル]]の妻
 
| 王家      =
 
| 王朝      = カルデア朝
 
| 王室歌    =
 
| 父親      = [[ナボポラッサル]]
 
| 母親      =
 
| 宗教      =
 
| サイン    =
 
}}
 
'''ネブカドネザル2世'''('''Nebuchadnezzar II''', 本来の[[アッカド語]]表記では'''ナブー・クドゥリ・ウスル'''('''Nabû-kudurri-u&#7779;ur''')、[[紀元前634年]] - [[紀元前562年]])は[[新バビロニア]]王国の2代目の王である(在位:[[紀元前605年]] - [[紀元前562年]])。アッカド語の名前「ナブー・クドゥリ・ウスル」は「[[ナブー (メソポタミア神話)|ナブー神]]よ、私の最初の息子を守りたまえ」を意味する。マルドゥク神の息子ナブー神は、[[バビロニア]]における知恵の神である。彼の名前はかつて誤って「ナブー神よ、クドゥル([[:en:Kudurru|Kudurru]]:国境の境界石)を守りたまえ」と翻訳された<ref>Schrader, Eberhard. 1888. The Cuneiform Inscriptions and the Old Testament. London: Williams and Norgate, p. 48 (footnote).<br />
 
(『楔形文字と旧約聖書』(エバーハード・シュレーダー(19~20世紀のドイツのオリエント学者)、ウィリアムズ・アンド・ノーゲート出版(英国)、1888年)p. 48 脚注)</ref>。
 
だが、統治者の名前に組み入れられたとき、クドゥルは「最初の息子」または「最も年上の息子」の意味になる<ref>Chicago's Assyrian Dictionary sub Kudurru Ca5'(シカゴ大学 『アッシリア事典』 Kudurru Ca5'</ref>。
 
碑文ではネブカドネザルは彼自身のことを「ナブー神に愛されし者にして寵臣」と称している<ref>Harper, R. F. quoted in Peet, Stephen Denison (editor). 1900. “Editorial Notes,” The American Antiquarian and Oriental Journal. New York: Doubleday, vol. XXII, May and June, p. 207.<br />
 
(『古文書・オリエント専門誌 第22巻(1900年1月~11月)』(著 ステファン・デニソン・ピート、ダブルデイ出版(米国ニューヨーク)、1900年)収録の5月・6月号分、p. 207に収められているR.F.ハーパーの論説)</ref>
 
<ref>Lamb, Harold. 1960. Cyrus the Great. New York: Doubleday, p. 104.<br />(『キュロス大王』(ハロルド・ラム、ダブルデイ出版(米国ニューヨーク)、1960年)p. 104)</ref>。
 
彼は[[ナボポラッサル]]の長男である。在位中、荒廃した[[バビロン]]の復興工事や[[エルサレム]]の[[バビロン捕囚]]などを行った。聖書中の「[[ダニエル書]]」ほか各種の書に登場する。
 
  
== 来歴 ==
 
ネブカドネザル2世は[[新バビロニア]]帝国の建国者[[ナボポラッサル]]の最も年上の子にしてかつ、彼の後継者である。彼は紀元前630年頃に生まれた。ネブカドネザル2世は[[旧約聖書]]の中に「ネブカドネツァル」として現れることでも知られる。[[バビロン]]は3世紀にわたり、同じメソポタミアの国家である[[アッシリア]]へ従属し続けていたが、ナボポラッサルはバビロンを[[アッシリア]]から解放した。また、ナボポラッサルは[[メディア王国|メディア]]や[[アケメネス朝|ペルシア]]、[[スキタイ]]、[[キンメリア人|キンメリア]]との同盟のもと、[[ニネヴェ (メソポタミア)|ニネヴェ]]を滅ぼした。[[ベロッソス]]によれば、彼がバビロンの王になる数年前に、バビロン王朝と結ばれた(姻戚関係になった)らしい。[[ニトクリス (バビロン)|バビロンのニトクリス]]女王が彼の妻だったとも、あるいは娘だったともいわれ、相反する記述が残されている。<br>
 
  
[[ナボポラッサル]]は、当時、エジプトの[[ネコ2世|ネコ2世]]の勢力圏にあったシリア西部地域の{{仮リンク|古代アラム|en|Aram (biblical region)}}を[[バビロニア帝国|新バビロニア]]のものにすることを決意。この目的を達成するため、彼は息子ネブカドネザルに大軍を与えると、西方へ派遣した。ネブカドネザルは紀元前607年から606年にかけて皇太子として[[アッシリア]]に遠征し、[[ハッラーン|ハラン]]にあったアッシリアの残存勢力を攻撃。紀元前606年から605年にかけてそれを助けるべく出兵した大国[[古代エジプト|エジプト]]の王[[ネコ2世]]率いるエジプト軍に撃退されると、父親に代わって軍の総裁となって軍を立て直し、[[カルケミシュ]](現在のジュラーブルス)と[[ハマト]]でエジプト軍を打ち破って[[歴史的シリア|シリア]]の大半を制圧。シリア地方と[[フェニキア]]はバビロニアの支配下に入った([[カルケミシュの戦い]])。ところが、父王ナボポラッサルは[[紀元前7世紀|紀元前605年]][[8月15日]]に死去。ネブカドネザルは急きょ[[バビロン]]へ帰還し、三週間で政権を握り、父の王位を継ぎバビロニア王となった。<br>
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[[新バビロニア]]帝国の王 (在位前 605~562) 。バビロニア名ナブ=クドゥリ=ウスル。[[ナボポラッサル]]の子。前 607~606年皇太子としてアッシリア北部に遠征,前 606~605年エジプト軍に撃退されると,父王に代って軍の総帥となり,カルケミシュとハマトで[[ネコ2世]]の率いるエジプト軍を撃破,シリアの大半を制圧した。前 605年8月に父王が没したあと3週間で政権を掌握,父の築いた王国を継承して即位。前 604年6~12月シリアとパレスチナに遠征し,ユダを属国とした。前 601~600年エジプトに大敗し,ユダをはじめ多くの属国を失ったが,態勢を立直し,前599年 12月にはアラビア北西部を攻撃,前 597年3月には,エルサレムを攻略し,エホヤキン王をはじめ,ユダヤ人をバビロンに連行 (第1回[[バビロン捕囚]] ) ,続いてシリア,東部バビロニアに転戦した。前 586年8月再びエルサレムを攻略し,第2回バビロニア捕囚をユダヤ人に強いている。その後も戦いを続け,前 568~567年にもエジプトに侵入を企てている。一貫してアッシリア帝国の領土拡大政策を踏襲し,後年ナポレオンに比せられた。バビロンの再建,拡充にも力を注ぎ,彼の建てたマルドゥク神殿,イシュタル門と行列道路,「[[バビロンの吊り庭園]]」と呼ばれる宮中庭園は有名である。ユダヤ人を苦しめたが,エレミヤを保護し,聖書では悪人を懲らしめる神の器とみなされている。
 
 
バビロニア帝国の北方には強大な[[メディア王国|メディア国]]が展開していたが、メディア国王の娘{{仮リンク|アミュティス|en|Amytis of Media}}とネブカドネザルの政略結婚が成立。2つの帝国の間に友好関係が確立された。<br>
 
 
 
彼が王となってすぐ(紀元前601年)にエジプトは[[歴史的シリア|シリア地方]]とパレスチナへの介入を再開した。紀元前601年のエジプトへの侵入の試みは失敗に終わり、征服したシリア地方の諸王国において各地で反乱の火の手があがった。ネブカドネザルはすぐにこれらの反乱に対処し、[[エルサレム]]を[[紀元前6世紀|紀元前597年]]に占領。[[ユダ王国]]を属国とし、[[エホヤキン]]王を首都[[バビロン]]に連行した(第一回[[バビロン捕囚]])。<br>
 
 
 
[[紀元前6世紀|紀元前595年]]、ネブカドネザルは東に転じて[[エラム]]を攻撃し、かつて全[[オリエント]]を征服して覇を唱えた[[アッシリア]]帝国の領域から、エジプトを除いたのとほぼ同じ領域を支配下に置いた。<br>
 
 
 
[[紀元前6世紀|紀元前589年]]にも再びエジプトがパレスチナ地方に侵入し、[[ユダ王国]]もこれに乗じて再び反乱を起こしたために[[紀元前6世紀|紀元前587年]]に再び[[エルサレム]]を包囲した({{仮リンク|エルサレム包囲戦 (紀元前587年)|en|Siege of Jerusalem (587 BC)|label=エルサレム包囲戦}})。翌年、エルサレムは陥落。神殿とエルサレムは徹底的に破壊された。ユダ王国は属州{{仮リンク|イェハド|en|Yehud (Babylonian province)}}([[紀元前6世紀|紀元前586年]] - [[紀元前6世紀|紀元前539年]])として併合された。その間に捕らえられた多くの捕虜は首都[[バビロン]]へ連行された(第二回[[バビロン捕囚]])。このことは[[旧約聖書]]、『[[列王記]]』下24:8-25:5、『[[エレミヤ書]]』『[[歴代誌]]』にも記されている。同じく旧約聖書中の『[[ダニエル書]]』は彼によってバビロンへ連行された[[ユダヤ人]]たちの物語である。<br>
 
 
 
[[エルサレム]]の破壊後、ネブカドネザルは地中海沿岸の都市[[テュロス]]に対して13年に及ぶ攻囲(紀元前586年~573年)を行ったが、完全な勝利を得ることはできず、テュロスが[[新バビロニア|バビロニア]]帝国に服従することを条件に兵を引くことで決着した。<ref>Ronald F. Youngblood, F. F. Bruce, R. K. Harrison, ed. (2012). Unlock the Bible: Keys to Exploring the Culture and Times. Thomas Nelson. p. 347.<br>
 
(『聖書を解き明かす:文化と時代を探る鍵』 (編:ロナルド F ヤングブラッド、 F.F.ブルース、 R.K.ハリソン、 トーマス・ネルソン社(米国)、2012年) p.347より)</ref>
 
<ref>Allen, Leslie C. (2008). Jeremiah: A Commentary. Westminster John Knox Press. p.472.<br>
 
(『エレミヤ書 注解』(レスリー.C.アレン(フラー神学校(米国)旧約聖書主任教授)、ウェストミニスター・ジョン・ノックス出版(米国)、2008年)p.472より)</ref><br>
 
 
 
テュロスとの講和の後、ネブカドネザルは再びエジプトに向かった。大英博物館に収められている粘土板にはこう記されている。<ref>Elgood, Percival George. 1951. Later Dynasties of Egypt. Oxford: Basil Blackwell, p. 106.<br>
 
(『後期エジプトの王朝』(パーシバル・ジョージ・エルグッド、バジル・ブラックウェル書店(イギリス)、1951年)p.106より)</ref>「バビロンの王ネブカドネザルの治世第37年、王は、ミズレイム<ref>Mitzraim。バビロニアの文書において、エジプトを指す</ref>に対して戦争を行った。エジプトのファラオ、アマシス(注:イアフメス2世)は[彼の軍隊を]集め、進軍してエジプトの領土外に軍を展開した。」<br>
 
 
 
[[フェニキア]]の征服とエジプトへの遠征を終えた後、ネブカドネザルは[[バビロン]]の再建と装飾に着手した。また、彼は運河、水路、寺院、貯水池を整備した。<br>
 
 
 
彼の治世の後半は史料が乏しい。[[旧約聖書]]には彼が発狂したと述べられているが、信憑性の程は分からない。バビロニアの言い伝えによると、ネブカドネザルはその晩年、[[新バビロニア|カルデア王朝]]の破滅が迫っていることを予言したという([[エウセビオス]]の『{{仮リンク|福音の備え|en|Praeparatio evangelica}}』第9章第41節で引用される、[[ベロッソス]]と{{仮リンク|アビュデュノス|en|Abydenus}}<ref>紀元前2~3世紀のギリシア人の歴史家?</ref>の文章による)。 彼はその治世第43年目の第2の月から第6の月の間にバビロンで死に、[[アメル・マルドゥク]]が跡を継いだ。<br>
 
 
 
=== 年表 ===
 
 
 
 
 
{| class="wikitable"
 
|-
 
! 年(紀元前) !! 出来事
 
|-
 
| 634年頃 || ネブカドネザルが生まれる
 
|-
 
| 612年 || ニネヴェの戦い/ニネヴェ陥落
 
|-
 
| 610年 || ハラン包囲戦/ハラン陥落(609年)
 
|-
 
| 609年 || メギドの戦い(エジプト軍対ユダ軍)
 
|-
 
| 605年 || カルケミシュの戦い/アッシリアの残党壊滅/ナボポラッサルが没し、ネブカドネザルがバビロニア王になる
 
|-
 
| 597年 || エルサレムにて第1回バビロン捕囚
 
|-
 
| 595年 || エラム攻略戦
 
|-
 
| 587年 || エルサレムにて第2回バビロン捕囚
 
|-
 
| 586-573年 || テュロス攻囲戦
 
|-
 
| 573年 || テュロスと和睦し、撤収
 
|-
 
| 562年 || ネブカドネザル、没する
 
|}
 
 
 
(暫定的に作成した年表です。今後、精査の予定)
 
 
 
== 建築事業 ==
 
[[Image:Ishtar gate Pergamon Museum.JPG|thumb|right|200px|ペルガモン博物館に復元展示されているイシュタル門]]
 
[[File:Detail of a terracotta cylinder of Nebuchadnezzar II, recording the building and reconstruction works at Babylon. 604-562 BCE. From Babylon, Iraq, housed in the British Museum.jpg|thumb|ネブカドネザル2世の円筒形碑文。バビロンにおける建設・再建事業について記されている。イラク、バビロン出土。大英博物館所蔵]]
 
 
 
 
 
彼はその治世の間に、[[バビロン]]市で大規模な建築事業を行ったことで知られている。[[ニネヴェ (メソポタミア)|ニネヴェ]]が存在した最後の世紀、バビロンは壊滅的に破壊されていた。これは、[[センナケリブ]]や[[アッシュールバニパル]]による破壊のみならず、バビロン市民による度重なる反乱にもよるものであった。ネブカドネザルは、父[[ナボポラッサル]]の事業を継承し、バビロンを世界屈指の都市によみがえらせることを目指した。<br>
 
 
 
バビロンの[[マルドゥク]]神殿と[[ジッグラト]]は大幅な改修が行われ規模が拡張された。バビロニアの数多くの守護神に献げるため、目を見張るほど壮大な新しい建築物が建てられた。ナボポラッサルによって始められた王宮の建設を完了させるため、「杉材、青銅、黄金、銀、希少かつ貴重な石」などの物資が惜しみなく費やされた。<ref>Smith, William and Fuller, J.M. 1893. A Dictionary of the Bible: Comprising Its Antiquities, Biography, Geography, and Natural History. London: John Murray, vol. I, p. 314.<br>
 
({{仮リンク|『スミスの聖書事典 - 遺跡・伝記・地理・自然史』|en|Smith's Bible Dictionary}}(著:ウィリアム・スミス、J.M.フラー、ジョン・マレー出版(英国)、1893年)第1巻p.314より)</ref>[[ユーフラテス川]]に橋を通かけ、地下道を建設して両岸をつなぎ、市域が対岸にも拡張された。都市の周囲には三重の城壁を建設し、まさに難攻不落となったのである。ネブカドネザルはこれらの建築に使われたレンガなどに自分の名前を刻印させており、バビロン市の整備に情熱を燃やした彼の名を現代に留めている。ユーフラテス川に渡された橋は、とりわけ興味深い。橋は、アスファルトで覆われたレンガの橋脚により支えられているが、この橋脚は、上流側の圧力と下流側の乱流に抵抗するために流線型をしており、水流で土台が揺らぐことを防いでいる。<br>
 
 
 
彼はまた、宮殿に通じる大通りを作り(行列道路)、バビロンに入るための8つの門のうちの1つである、「[[イシュタル門]]」を建設したとされる。<ref>Foster, Karen Polinger (1998).  Transformations of Middle Eastern Natural Environments: Legacies and Lessons. New Haven: Yale University. pp. 320-329. Retrieved 2007-08-11.<br>
 
(『中東の自然環境の変容:遺産と教訓』(カレン・ポリンガー・フォスター、イエール大学出版(米国)、1998年(2007年8月再版))p.320-329より)</ref>これは彩色レンガを用いて青を基調にした装飾性豊かな門であり、現在、[[ベルリン]]の[[ペルガモン博物館]]で復元展示されているほか、[[イラク]]でもレプリカが建設されているなど、古代バビロニアを象徴する建造物の一つとなっている。<br>
 
 
 
ネブカドネザルの建設事業は首都に止まらなかった。彼は、[[シッパル]]の湖の再建やペルシア湾での開港、[[メディアの城壁]]の建設を行ったとされる。メディアの城壁とは、ティグリス川とユーフラテス川の間に築かれた城壁で、北方からの敵の侵入を防ぐためのものであった。これらの事業には、膨大な労働力を要した。[[マルドゥク|マルドゥク神]]の大神殿の碑文の記述によれば、彼の公共事業に用いられた労働力は、西アジア各地から連れてこられた奴隷から成る可能性が極めて高い。<br>
 
 
 
またネブカドネザル2世にまつわる伝説として、彼が[[バビロンの空中庭園]]を造営したというものがある。彼は[[メディア王国|メディア王]][[アステュアゲス]]の兄妹で王妃の{{仮リンク|アミュティス (メディア)|en|Amytis of Media|label=アミュティス}}が、故郷を偲んで憂鬱な日々を送っていたのを慰めるために[[ザグロス山脈]]を模した空中庭園を建造したのだという(当然のことながら、バビロン地域([[ヒッラ]])をはじめとして[[イラク]]は見渡す限りの起伏のない平野である)。これは非常に有名な説話であり、[[バビロンの空中庭園]]は古代の七不思議に数えられている。しかし、この伝説が史実であるという確認は出来ていない。空中庭園の建設については、[[アッシリア]]王[[センナケリブ]]が首都[[ニネヴェ (メソポタミア)|ニネヴェ]]に建設したのだとして異論を唱える学者もいる。<ref>Dalley, Stephanie, (2013) The Mystery of the Hanging Garden of Babylon: an elusive world Wonder traced, OUP.<br>
 
(『バビロンの空中庭園の謎:“世界の不思議”の謎を追う』(ステファニー・ダリー、オックスフォード大学出版 2013年))</ref><ref>Rollinger, Robert (2013). "Berossos and the Monuments". In Haubold, Johannes; et al. The World of Berossos. Harrassowitz. p. 155.<br>(『ベロッソスの世界』(ヨハネス・ハボルド 他、ハラソヴィッツ出版(ドイツ)、2013年)に収録されている『ベロッソスと遺跡』(ロバート・ローリンジャー)p.155より)</ref>[[バベルの塔]]のようにモデルとなった建造物があったのかどうかについても、現時点では明らかではない。
 
 
 
== 後世の作品 ==
 
[[ジュゼッペ・ヴェルディ|ヴェルディ]]のオペラ『[[ナブッコ]]』はイタリア語でネブカドネザルの意。ダニエル書を素材にネブカドネザル2世をタイトルロールとしている。
 
 
 
== 脚注 ==
 
<references />
 
 
 
== 関連事項 ==
 
* [[新バビロニア]]
 
* [[バビロンの空中庭園]]
 
* [[カルケミシュの戦い]]
 
* [[ダニエル]]
 
* [[聖書の登場人物の一覧]]
 
* [[エ・テメン・アン・キ]]
 
  
 +
{{テンプレート:20180815sk}}
 
{{先代次代|[[新バビロニア|バビロニア王]]|112代<br>紀元前605年 - 紀元前562年|[[ナボポラッサル]]|[[アメル・マルドゥク]]}}
 
{{先代次代|[[新バビロニア|バビロニア王]]|112代<br>紀元前605年 - 紀元前562年|[[ナボポラッサル]]|[[アメル・マルドゥク]]}}
 
{{DEFAULTSORT:ねふかとねさる2}}
 
{{DEFAULTSORT:ねふかとねさる2}}
 
[[Category:バビロニアの君主]]
 
[[Category:バビロニアの君主]]

2018/12/29/ (土) 11:31時点における最新版

バビロンの吊り庭園(前8世紀~前6世紀頃建設)の再現図

ネブカドネザル2世Nebuchadnezzar II, 本来のアッカド語表記ではナブー・クドゥリ・ウスルNabû-kudurri-uṣur)、紀元前634年 - 紀元前562年


新バビロニア帝国の王 (在位前 605~562) 。バビロニア名ナブ=クドゥリ=ウスル。ナボポラッサルの子。前 607~606年皇太子としてアッシリア北部に遠征,前 606~605年エジプト軍に撃退されると,父王に代って軍の総帥となり,カルケミシュとハマトでネコ2世の率いるエジプト軍を撃破,シリアの大半を制圧した。前 605年8月に父王が没したあと3週間で政権を掌握,父の築いた王国を継承して即位。前 604年6~12月シリアとパレスチナに遠征し,ユダを属国とした。前 601~600年エジプトに大敗し,ユダをはじめ多くの属国を失ったが,態勢を立直し,前599年 12月にはアラビア北西部を攻撃,前 597年3月には,エルサレムを攻略し,エホヤキン王をはじめ,ユダヤ人をバビロンに連行 (第1回バビロン捕囚 ) ,続いてシリア,東部バビロニアに転戦した。前 586年8月再びエルサレムを攻略し,第2回バビロニア捕囚をユダヤ人に強いている。その後も戦いを続け,前 568~567年にもエジプトに侵入を企てている。一貫してアッシリア帝国の領土拡大政策を踏襲し,後年ナポレオンに比せられた。バビロンの再建,拡充にも力を注ぎ,彼の建てたマルドゥク神殿,イシュタル門と行列道路,「バビロンの吊り庭園」と呼ばれる宮中庭園は有名である。ユダヤ人を苦しめたが,エレミヤを保護し,聖書では悪人を懲らしめる神の器とみなされている。



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先代:
ナボポラッサル
バビロニア王
112代
紀元前605年 - 紀元前562年
次代:
アメル・マルドゥク