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{{commons&cat|Николай II|Nicholas II of Russia}}
 
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'''ニコライ2世'''({{翻字併記|ru|'''Николай II'''|'''Nikolai II'''}}、ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ロマノフ、{{翻字併記|ru|Николай Александрович Романов|Nikolai Aleksandrovich Romanov}}、[[1868年]][[5月18日]]([[ユリウス暦]]5月6日) - [[1918年]][[7月17日]](ユリウス暦7月4日))は、[[ロマノフ朝]]第14代にして最後の[[ロシア帝国|ロシア]][[ロシア皇帝|皇帝]](在位[[1894年]][[11月1日]] - [[1917年]][[3月15日]])。
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'''ニコライ2世'''({{翻字併記|ru|'''Николай II'''|'''Nikolai II'''}}、ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ロマノフ、{{翻字併記|ru|Николай Александрович Романов|Nikolai Aleksandrovich Romanov}}、[[1868年]][[5月18日]]([[ユリウス暦]]5月6日) - [[1918年]][[7月17日]](ユリウス暦7月4日))
  
皇后は[[ヘッセン大公国]]の大公女[[アレクサンドラ・フョードロヴナ (ニコライ2世皇后)|アレクサンドラ・フョードロヴナ]](通称アリックス)。皇子女として[[オリガ・ニコラエヴナ (ニコライ2世皇女)|オリガ皇女]]、[[タチアナ・ニコラエヴナ|タチアナ皇女]]、[[マリア・ニコラエヴナ (ニコライ2世皇女)|マリア皇女]]、[[アナスタシア・ニコラエヴナ|アナスタシア皇女]]、[[アレクセイ・ニコラエヴィチ (ロシア皇太子)|アレクセイ皇太子]]がいる。[[イギリス]][[イギリス君主一覧|国王]][[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ5世]]は従兄にあたる。
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帝政ロシア最後の皇帝 (在位 1894~1917) 。[[アレクサンドル3世]]の長男。 K.P.ポベドノスツェフの訓育を受け,皇帝権不可侵の思想を吹込まれた。 1894年ヘッセン=ダルムシュタット公女アリス (ロシア名アレクサンドラ・フョードロブナ) を妻に迎えた。皇太子アレクセイが血友病であったことが,怪僧 G.E.[[ラスプーチン]]の皇室と国政への干渉を許した。即位当初はロシア資本主義の確立期にあたり,経済的繁栄を誇ったが,20世紀に入る頃から不況が進み,諸列強との帝国主義的対立も顕著となった。そうしたなかで労働運動は激化,農村にも,ロシア国内の被抑圧民族にも動揺は拡大。ツァーリ政府はそれらを軍隊の力で弾圧する一方,対外進出を行うことによって,ブルジョアジーの経済的野心を満たし,国民の不満をかわそうとした。ニコライはすでに 91年,インド,中国,日本などを歴訪してアジアへの関心を示していたが (このとき日本で[[大津事件]]に遭遇) ,91年から始ったシベリア鉄道の敷設を続ける一方,95年の対日三国干渉,清国からの東清鉄道敷設権の獲得 (96) ,朝鮮への勢力拡大などによって極東へ進出,ついに日露戦争 (04~05) を引起した。他方,極東での相次ぐ敗戦,戦費の増大による大衆生活の圧迫は国内でも「[[血の日曜日]]」事件に始る 1905年の革命を招き,ニコライは S.Y.[[ウィッテ]]の起草になる「[[十月宣言]]」を出してブルジョアジーに譲歩を余儀なくされ,また P.A.[[ストルイピン]]の農業改革を行なって,富裕な農民を創出,革命の防波堤にしようとした。日露戦争敗北後はバルカン半島への進出を企て,第1次世界大戦に突入。 15年からは軍部の反対を押切ってみずから戦線を指揮したが,戦況を好転させることはできなかった。 17年3月8日 (旧暦2月 23日) ,ペトログラードにおける暴動 ([[二月革命]]) ののち,同年3月 15日 (旧暦2日) 退位。 300年にわたるロマノフ朝支配 (ツァーリズム) は崩壊した。家族とともに逮捕され,トボリスクからエカテリンブルグへ流され,ウラル地方ソビエトの決定により銃殺された。
 
+
[[日露戦争]]・[[第一次世界大戦]]において指導的な役割を果たすが、革命勢力を厳しく弾圧したため[[ロシア革命]]を招き、1918年7月17日未明に[[エカテリンブルク]]の[[イパチェフ館]]において一家ともども虐殺された。[[東ローマ帝国]]の[[皇帝教皇主義]]の影響を受けたロシアにおいて、皇帝は宗教的な指導者としての性格も強いため、[[正教会]]の[[聖人]]([[新致命者]])に列せられている。
 
 
 
== 生涯 ==
 
=== 出生 ===
 
1868年5月6日、アレクサンドル皇太子(ロシア皇帝[[アレクサンドル2世]]の次男、後の皇帝[[アレクサンドル3世]])とその妃[[マリア・フョードロヴナ (アレクサンドル3世皇后)|マリア・フョードロヴナ]](デンマーク王[[クリスチャン9世 (デンマーク王)|クリスチャン9世]]の第2王女)の間の長男として<ref>[[#ウォーンズ(2001)|ウォーンズ(2001)]] p.215/246/231</ref><ref name="ダンコース(2001)62">[[#ダンコース(2001)|ダンコース(2001)]] p.62</ref>[[ロシア帝国]]首都[[サンクトペテルブルク]]に生まれる<ref name="ウォーンズ(2001)256">[[#ウォーンズ(2001)|ウォーンズ(2001)]] p.256</ref>
 
 
 
ニコライの誕生後、弟として[[アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ|アレクサンドル]](夭折)、[[ゲオルギー・アレクサンドロヴィチ|ゲオルギー]]、[[ミハイル・アレクサンドロヴィチ (1878-1918)|ミハイル]]、また妹として[[クセニア・アレクサンドロヴナ|クセニア]]と[[オリガ・アレクサンドロヴナ|オリガ]]が生まれている<ref name="ウォーンズ(2001)215">[[#ウォーンズ(2001)|ウォーンズ(2001)]] p.215</ref><ref name="マッシー(1996)13">[[#マッシー(1996)|マッシー(1996)]] p.13</ref>。
 
{{Gallery
 
|File:Szása és Minnie in 1868.jpg|1868年、父[[アレクサンドル3世|アレクサンドル皇太子]]と母[[マリア・フョードロヴナ (アレクサンドル3世皇后)|マリア・フョードロヴナ]]。
 
|File:Maria Fyodorovna and her son Niki.jpg|1870年、ニコライ皇子と母[[マリア・フョードロヴナ (アレクサンドル3世皇后)|マリア・フョードロヴナ]]。
 
|ファイル:Nicholas II of Russia as a child with his mother.jpg|1870年、ニコライと母マリア・フョードロヴナ。
 
|ファイル:Engagement official picture of Alexandra and Nicholas.jpg|ニコライと[[アレクサンドラ・フョードロヴナ (ニコライ2世皇后)|アレクサンドラ]]の、公式の婚約写真(1894年4月)
 
|ファイル:Bundesarchiv Bild 183-R43302, Kaiser Wilhelm II. und Zar Nikolaus II..jpg|[[ドイツ帝国|ドイツ]]の[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]とニコライ2世(右)。ヴィルヘルムはチュニック風のロシア軍服を着ており、ニコライは逆にドイツ軍の制服を着ている。
 
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=== 青少年期 ===
 
[[File:1888. Семья императора Александра III.jpg|thumb|right|200px|1888年のロシア皇室一家。中央後ろがニコライ皇太子]]
 
7歳(1875年)から10歳(1878年)まで家庭教師[[アレクサンドラ・オロングレン]]に師事した<ref name="リーベン(1993)64">[[#リーベン(1993)|リーベン(1993)]] p.64</ref>。オロングレンの子ウラジーミルとよく一緒に遊んだ。ウラジーミルによると子供の頃のニコライは「顔や挙動が女の子っぽいときが時々あった」という<ref name="リーベン(1993)61">[[#リーベン(1993)|リーベン(1993)]] p.61</ref>。父アレクサンドル3世も息子の女々しいところをしばしば心配していたという<ref name="リーベン(1993)61-62">[[#リーベン(1993)|リーベン(1993)]] p.61-62</ref>。
 
 
 
10歳の頃から保守的なダニロビッチ将軍が家庭教師となり{{#tag:ref|ニコライは家庭教師ダニロビッチ将軍のことを嫌っていたらしく、「[[コレラ]]」と呼んでいたという<ref name="リーベン(1993)67">[[#リーベン(1993)|リーベン(1993)]] p.67</ref>。|group=注釈}}、彼が選んだ教師によって語学、数学、歴史、地理、科学などを学んだ。とりわけ歴史と語学が得意であり、母語の[[ロシア語]]に加えて、ロシア帝国首脳部で事実上の公用語であった[[フランス語]]、さらに自身の親族が君主として治める地域の言語である[[英語]]や[[ドイツ語]]をも流暢に話せるようになった<ref name="ダンコース(2001)65">[[#ダンコース(2001)|ダンコース(2001)]] p.65</ref><ref name="リーベン(1993)67">[[#リーベン(1993)|リーベン(1993)]] p.67</ref>。
 
 
 
1879年にウラジーミルや弟ゲオルギーととも中学校へ入学。学生時代のニコライは[[石蹴り]]と[[バードウォッチング]]が好きだったという<ref name="リーベン(1993)65">[[#リーベン(1993)|リーベン(1993)]] p.65</ref>。
 
 
 
1881年に祖父の皇帝アレクサンドル2世が爆弾テロで暗殺された。その遺体は足が千切れ顔は判別不能なほどに破損しているなど、当時の感覚では衝撃的な末路であった。その痛ましい姿を見たアレクサンドル皇太子は改革を志向した父帝とは反対に専制政治の強化を決意し、その子のニコライ皇子も決意を同じくしたという<ref name="ダンコース(2001)63">[[#ダンコース(2001)|ダンコース(2001)]] p.63</ref>。
 
 
 
17歳(1885年)の時から[[帝王学]]を受けるようになった。高名な法学者で[[ロシア正教会|ロシア正教]][[聖務会院]]である[[コンスタンチン・ポベドノスツェフ]]から民政法、元大蔵大臣{{仮リンク|ニコライ・ブンゲ|ru|Бунге, Николай Христианович}}から[[政治経済学]]、メール将軍とドラゴミロフ将軍から[[軍事学]]を学んだ<ref name="リーベン(1993)68-69">[[#リーベン(1993)|リーベン(1993)]] p.68-69</ref>。ポベドノスツェフの回顧録によるとニコライ皇太子は勉強熱心ではなく、授業中[[鼻糞]]をほじっていたという。しかしポベドノスツェフの[[専制君主]]体制護持の思想には強い影響を受けた<ref name="ウォーンズ(2001)256">[[#ウォーンズ(2001)|ウォーンズ(2001)]] p.256</ref>。
 
 
 
19歳でプレオブラジェンスキー近衛連隊に入隊した。フッサール近衛軽騎兵連隊や軽騎兵砲兵隊にも配属された。ロシアの近衛連隊は軍隊というよりも貴族の社交の場であり、ニコライ皇太子も将校クラブで楽しく過ごしたという<ref name="リーベン(1993)70-71">[[#リーベン(1993)|リーベン(1993)]] p.70-71</ref>。
 
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=== 世界旅行 ===
 
両親の勧めで[[1890年]]10月から[[1891年]]8月にかけて世界各地を旅行することになった。旅行の中心地はイギリスとロシアが勢力圏争いをしている極東だった<ref name="ダンコース(2001)73">[[#ダンコース(2001)|ダンコース(2001)]] p.73</ref>。ニコライ皇太子本人はほとんど気乗りしていなかったが、仲のいい弟ゲオルギーが同行するという事には喜んでいたという<ref name="ダンコース(2001)73-74">[[#ダンコース(2001)|ダンコース(2001)]] p.73-74</ref>。ただゲオルギーは風邪をこじらせて途中で帰国した<ref name="キーン(2001)下125">[[#キーン(2001)下|キーン(2001)下巻]] p.125</ref>。
 
 
 
まず[[ウィーン]]から[[ギリシャ王国|ギリシャ]]へ向かい、[[ギリシャ国王の一覧|ギリシャ王]][[ゲオルギオス1世 (ギリシャ王)|ゲオルギオス1世]]の次男[[ゲオルギオス (ギリシャ王子)|ゲオルギオス王子]](従兄弟にあたる)がニコライに同行することになった。ニコライとゲオルギー(途中まで)とゲオルギオス王子は、[[エジプト]]、[[イギリス領インド帝国|英領インド]]、[[コロンボ]]([[イギリス領セイロン|英領セイロン]])、英領[[シンガポール]]、[[ホーチミン市|サイゴン]]([[フランス領インドシナ]])、[[オランダ領東インド]]、[[バンコク]]([[タイ王国|シャム]])、英領[[香港]]、[[上海市|上海]]と[[広東省|広東]]([[清]])を歴訪した後、最後に[[日本]]を訪問した<ref name="リーベン(1993)71">[[#リーベン(1993)|リーベン(1993)]] p.71</ref><ref name="キーン(2001)下125">[[#キーン(2001)下|キーン(2001)下巻]] p.125</ref>。
 
 
 
==== 訪日 ====
 
[[ファイル:Prince Nicolas at Nagasaki.jpg|thumb|250px|1891年、[[長崎]]訪問時のニコライ皇太子([[上野彦馬]]撮影)]]
 
1891年4月27日にニコライ皇太子を乗せたロシア軍艦が[[長崎]]に寄港した。以降5月19日まで日本に滞在した。[[日本政府]]はこの未来のロシア皇帝を[[国賓]]待遇で迎え、その接待を念入りに準備していた。各休憩所で出される[[和菓子|茶菓子]]の吟味にまで及んでいた<ref name="キーン(2001)下125">[[#キーン(2001)下|キーン(2001)下巻]] p.125</ref>。公式の接待係には、イギリスへの[[留学]]経験があり当時の皇族中で随一の外国通であった[[有栖川宮威仁親王]](海軍[[大佐]])が任命された。また[[岩倉使節団]]の留学生としてロシアに10年滞在しロシア女性と結婚した[[万里小路正房#親族|万里小路正秀]]が通訳を務めた。
 
 
 
ニコライは長崎寄港前に[[ピエール・ロティ]]の『[[お菊さん]]』を聞いていたため、滞在中一時的に日本人妻を娶りたがっていたという。[[稲佐]]駐在ロシア人将校たちが日本人妻を娶っている事を知るとますますその願望を強めたが、「[[復活祭]]直前の[[キリスト]][[受難]]の週がはじまっているというのに、こんなことを考えているとは何と恥ずかしいことか」と反省して自重した<ref name="キーン(2001)下126">[[#キーン(2001)下|キーン(2001)下巻]] p.126</ref>。
 
 
 
日本政府は復活祭を配慮して5月4日までニコライの予定を組まなかったが、その間もニコライはお忍びで長崎の町を探索した<ref name="キーン(2001)下126" />。ニコライは長崎の印象について日記の中で「長崎の家屋と街路は素晴らしく気持ちのいい印象を与えてくれる。掃除が行き届いており、小ざっぱりとしていて彼らの家の中に入るのは楽しい。日本人は男も女も親切で愛想がよく、中国人とは正反対だ。」という感想を書いている<ref name="保田(1990)23-24">[[#保田(1990)|保田(1990)]] p.23-24</ref>。ニコライはこの長崎滞在中に右腕に[[竜]]の[[入れ墨]]を入れた<ref name="キーン(2001)下126">[[#キーン(2001)下|キーン(2001)下巻]] p.126</ref>。5月4日に[[長崎県知事]][[中野健明]]の歓迎式典を受けた後、[[有田焼]]や[[諏訪神社]]を見学して長崎を後にした<ref name="キーン(2001)下126">[[#キーン(2001)下|キーン(2001)下巻]] p.126</ref>。
 
 
 
ついで5月6日に[[鹿児島]]へ入った。[[島津忠義]]公爵は保守的な外国人嫌いで知られていたが、この時にはニコライを積極的に歓迎した。古風な甲冑を着けた老武士170人を集めて侍踊りを披露し、また忠義自らも[[犬追物]]を披露して見せた。皇太子に随伴していた{{仮リンク|エスペル・ウフトムスキー|label=ウフトムスキー公爵|ru|Ухтомский, Эспер Эсперович}}はこれに不快感を覚えたが、ニコライは喜んでいたという<ref name="キーン(2001)下127">[[#キーン(2001)下|キーン(2001)下巻]] p.127</ref>。
 
 
 
5月9日、[[瀬戸内海]]を通過して[[神戸]]に寄港し、そこから[[汽車]]で[[京都]]へ向かった。5月10日に[[大宮御所]]、[[京都御所]]、[[二条離宮]]、[[東本願寺]]、[[西本願寺]]、[[賀茂別雷神社]]などを訪問した。[[飛鳥井家]]の[[蹴鞠]]や[[祭典競馬|賀茂競馬]]も見学した<ref name="キーン(2001)下128">[[#キーン(2001)下|キーン(2001)下巻]] p.128</ref>。また神戸市長から[[楠木正成]]の話を聞いて、その忠義に感動していたニコライは、京都博覧会場で楠木正成の絵を購入している<ref name="保田(1990)44">[[#保田(1990)|保田(1990)]] p.44</ref>。ニコライは京都が気に入ったようだった。かつての日本の首都ということで京都を[[モスクワ]]になぞらえていた<ref name="キーン(2001)下128">[[#キーン(2001)下|キーン(2001)下巻]] p.128</ref>。
 
 
 
==== 大津事件 ====
 
[[ファイル:Rikshas from Otsu.jpg|thumb|250px|[[大津事件]]の際に[[津田三蔵]]を取り押さえ、ロシア政府から勲章を送られた日本人車夫二人。]]
 
5月11日、[[大津市|大津]]に入り、[[琵琶湖]]や[[唐崎神社]]を見学した。しかし同日、大津から京都へ戻る際、[[滋賀県警察部]]所属の[[警察官]][[津田三蔵]][[巡査]]が[[人力車]]に乗っていたニコライ皇太子にサーベルで斬りかかり、彼の右耳上部を負傷させた([[大津事件]])<ref>[[#キーン(2001)下|キーン(2001)下巻]] p.128-129</ref>。切り傷そのものはそれほど深くなかったものの、重いサーベルによる斬撃を受けたため[[頭蓋骨]]に裂傷が入った([[脳]]には届かなかった)。これ以降ニコライは終生、傷の後遺症と頭痛に苦しむようになった<ref name="ダンコース(2001)75">[[#ダンコース(2001)|ダンコース(2001)]] p.75</ref>。
 
 
 
ニコライはこの時のことを次のように日記に書いている。「人力車が人々が沿道にあふれている通りへ曲がった時、私は右耳の上に強い衝撃を感じた。振り返ると胸が悪くなるほど醜い顔をした巡査が両手でサーベルを持って私を斬りつけようとしていた。とっさに私は『何をする』と叫んで道路に飛び降りた。醜い顔は私を追いかけてきたが、誰も止めようとしないので、私はやむなくその場から逃げた。群衆の中に紛れこもうと思ったが、日本人たちは混乱して四散してしまったので、それも不可能だった。走りながら振り返ると私を追ってくる巡査の後ろからゲオルギオスが追跡しているのが確認できた。更に60歩走ってもう一度振り返ると、ありがたいことに全て終わっていた。ゲオルギオスが竹の杖の一撃で狂人を倒していたのである。私がそこへ戻ると、人力車の車夫と警官たちが狂人を取り押さえていた。一人が狂人の胸ぐらを掴んで、奪ったサーベルを喉につきつけていた。群衆は誰一人として私を助けようとしなかった。なぜ通りの真ん中に私とゲオルギオスとあの狂人だけが取り残されたのか、私は怪訝に思う。」<ref name="キーン(2001)下129">[[#キーン(2001)下|キーン(2001)下巻]] p.129</ref><ref name="ラジンスキー(1993)上53-54">[[#ラジンスキー(1993)上|ラジンスキー(1993)]] 上巻 p.53-54</ref>。
 
 
 
しかし津田の裁判の際の目撃者たちの証言によると、津田を取り押さえた一番の功労者はゲオルギオス王子ではなく、人力車の車夫だったという。確かに最初に津田に立ち向かったのはゲオルギオス王子であり、彼はその日お土産に買った竹の杖を武器にしていた。だがゲオルギオスの竹の杖は津田をひるませただけであり、ひるんだところを人力車の車夫たちが津田に飛びかかり、この時津田がサーベルを落とし、それを拾った車夫が津田の首筋と背中を斬りつけたのだという。ニコライも後に一応これを認めていたらしく、彼を助けた車夫の二人に勲章を送っている。だがニコライは毎年5月11日に行っていた大津事件記念礼拝においては感謝の意を日本人車夫にではなく、ゲオルギオスに捧げていた<ref name="キーン(2001)下130">[[#キーン(2001)下|キーン(2001)下巻]] p.130</ref>。
 
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==== 大津事件の影響 ====
 
[[File:Meiji tenno1.jpg|thumb|180px|1888年の[[明治天皇]]の肖像画]]
 
[[File:Kojima Iken.jpg|thumb|180px|1908年の[[児島惟謙]]の写真]]
 
[[有栖川宮威仁親王]]から電報で事件の報告を受けた[[明治天皇]]はただちにニコライ皇太子のお見舞いのため京都へ[[行幸]]し、常盤ホテル(現在の[[京都ホテル|京都ホテルオークラ]])でニコライ皇太子と面会した。皇太子への同情と事件への怒りを表明し、犯人はただちに処罰される旨を確約した。また回復した後、予定通り[[東京]]へ訪問することを希望した。これに対してニコライ皇太子は「自分は一狂人のために負傷したが、陛下をはじめとして日本国民が示してくれた厚意に感謝の意を持っている事は、事件以前と全く変わっていない」と返答しつつ、視察の継続については父母の指示を仰がねばならないとして確答しなかった<ref name="キーン(2001)下132">[[#キーン(2001)下|キーン(2001)下巻]] p.132</ref>。
 
 
 
結局ニコライ皇太子は父帝アレクサンドル3世の指示に従って東京訪問を中止し、5月19日をもって帰国の途につくことになった。残念がった天皇はニコライ皇太子を[[神戸御用邸]]での晩餐に招待したが、ニコライ皇太子は拝辞し、代わりにロシア軍艦上での晩餐に天皇を招待した。天皇はこれを快諾したが、閣僚たちが反発した。1882年に[[李氏朝鮮]]で[[興宣大院君|大院君]]が清に船で拉致された事件を引き合いに出し、外国軍艦に搭乗する危険性を進言したが、天皇は「ロシアは先進文明国である。そのロシアがなにゆえに汝らが心配するような蛮行をしなければならないのか」と反論し、予定通りロシア軍艦の晩餐に出席した。天皇は改めてニコライ皇太子に謝罪し、それに対してニコライ皇太子は「どこの国にも狂人はいる。いずれにしても軽傷であったので陛下が憂慮されるには及ばない」と返答した。安堵した天皇はニコライ皇太子と談笑に及び、親密な空気の中で別れることができた<ref name="キーン(2001)下134">[[#キーン(2001)下|キーン(2001)下巻]] p.134</ref>。
 
 
 
日本国民の世論もニコライ皇太子への同情と津田への憎しみで占められた。ニコライ皇太子の軍艦には日本中から手紙と贈り物が届いた<ref name="キーン(2001)下135">[[#キーン(2001)下|キーン(2001)下巻]] p.135</ref>。またニコライは日記の中で日本国民たちが許しを乞うように次々と街頭に膝まづいて合掌する姿に感動したと書いている<ref name="キーン(2001)下130">[[#キーン(2001)下|キーン(2001)下巻]] p.130</ref>。[[畠山勇子]]という27歳の日本人女性はこの件で自害し、国内外に衝撃を呼んだ<ref name="キーン(2001)下135">[[#キーン(2001)下|キーン(2001)下巻]] p.135</ref>。[[山形県]][[最上郡]][[金山町 (山形県)|金山村]]は村民に津田姓と三蔵名を禁止する[[条例]]を出している<ref name="キーン(2001)下135">[[#キーン(2001)下|キーン(2001)下巻]] p.135</ref>。こうした日本人の反省の態度に接してニコライは、日本を離れる直前に侍従武官長バリャティンスキーの名前で感謝状を新聞に寄せた<ref name="保田(1990)60">[[#保田(1990)|保田(1990)]] p.60</ref>。
 
 
 
[[内閣総理大臣]][[松方正義]]はロシアとの関係を考慮して津田を死刑にするべきと考えた。[[刑法]]116条(「天皇、[[三后]]、皇太子に危害を加え、または加えようとした者は死刑に処す」)の「皇太子」に外国の皇太子が含まれるかをめぐって政府と[[大審院]]院長[[児島惟謙]]の間で論争になった。松方は「国があっての法律である。法律を厳格に守って国が滅ぶのでは意味がない」と主張して刑法116条で裁くよう要請したが、児島は「ロシアは津田が死刑にならなかったからと攻めてくるような野蛮国ではない。ロシアもドイツも外国皇族の襲撃に対しては自国の皇族に対する物ほど重い罪を定めていない。むしろヨーロッパからは日本の法律の不備が指摘されているのであり、今こそ日本の法治主義を示す時である」と主張した<ref>[[#キーン(2001)下|キーン(2001)下巻]] p.137-138</ref>。結局津田は刑法116条ではなく一般人に対する謀殺未遂罪(刑法292条)で有罪となり、その最高刑である無期徒刑([[無期懲役]])に処された<ref>[[#キーン(2001)下|キーン(2001)下巻]] p.137/139</ref>。
 
 
 
その判決はロシア宮廷やロシア政府にも伝わったが、日本政府が心配したようなロシア軍の軍事行動は起こらなかった<ref name="キーン(2001)下139">[[#キーン(2001)下|キーン(2001)下巻]] p.139</ref>。ロシア外相[[ニコライ・ギールス]]としては、日本の裁判所が津田に死刑判決を下したところでロシア皇帝が減刑嘆願を行い、そのおかげで減刑されるという解決方法が両国の親善に最も良いと考えていたため、日本裁判所が津田に死刑判決が出なかったことに不満を抱いたという<ref name="保田(1990)74">[[#保田(1990)|保田(1990)]] p.74</ref>。しかしアレクサンドル3世は天皇が直接謝罪したことを高く評価しており、日本政府の取った処置にも満足の意を示していたという<ref>[[#保田(1990)|保田(1990)]] p.73-74</ref>。事件以来ロシアの新聞は「皇太子殿下を守ったのはゲオルギオス王子であり、日本人は傍観しているだけだった」といった記事を載せ続けたため、ロシアで反日世論が高まったが、天皇がニコライのお見舞いをしたことを知ったロシア政府は報道管制を敷き、報道を止めさせたという<ref name="保田(1990)51">[[#保田(1990)|保田(1990)]] p.51</ref>。
 
 
 
唯一禍根となったのはニコライの日本人への心象であった。日本では津田と他の日本人全般を区別する発言をしていたニコライだったが、この事件に遭遇して以降、彼は日本人に嫌悪感を持つようになり、ことあるごとに日本人を「[[猿]]」と呼ぶようになる<ref name="ウォーンズ(2001)256">[[#ウォーンズ(2001)|ウォーンズ(2001)]] p.256</ref><ref name="ダンコース(2001)75">[[#ダンコース(2001)|ダンコース(2001)]] p.75</ref>。ロシア首相[[セルゲイ・ヴィッテ]]はニコライ皇太子の日本人蔑視が後の[[日露戦争]]を招いたと分析している<ref name="キーン(2001)下130">[[#キーン(2001)下|キーン(2001)下巻]] p.130</ref>。
 
{{-}}
 
 
 
==== 帰国 ====
 
日本から[[ウラジオストク]]に入港した。予定行事だけこなすと、早々に不快なウラジオストクを離れ、「文明の天国」サンクトペテルブルクへ戻った<ref name="ダンコース(2001)75">[[#ダンコース(2001)|ダンコース(2001)]] p.75</ref>。その途中、[[シベリア]]を横断した。これがきっかけでニコライ皇太子はシベリアには深い関心を寄せるようになった。シベリアはロシア領だが、シベリアを訪れたロシア皇太子はニコライが初めてであった<ref name="リーベン(1993)71">[[#リーベン(1993)|リーベン(1993)]] p.71</ref>。
 
 
 
帰国後、ニコライは公務に励むようになり、1891年11月には飢饉救済特別対策委員委員長、1893年2月にはシベリア鉄道委員会の議長に就任する<ref name="リーベン(1993)73">[[#リーベン(1993)|リーベン(1993)]] p.73</ref>。
 
 
 
=== 即位と結婚 ===
 
[[File:Wedding of Nicholas II and Alexandra Feodorovna by Laurits Tuxen (1895, Hermitage).jpg|thumb|250px|結婚式でのニコライ2世とアレクサンドラ皇后<BR><SUB>1895年</SUB>]]
 
ペテルブルクで[[バレリーナ]]として活躍していた[[マチルダ・クシェシンスカヤ]]を愛人としていたニコライ皇太子にはすでに心に決めた人がいた。それは[[ドイツ帝国]][[領邦]][[ヘッセン大公国]]の大公[[ルートヴィヒ4世 (ヘッセン大公)|ルートヴィヒ4世]]とその妃[[アリス (ヘッセン大公妃)|アリス]]([[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア英女王]]の次女)の間の末娘[[アレクサンドラ・フョードロヴナ (ニコライ2世皇后)|アリックス]]だった。彼女は母を早期に失ったため、祖母ヴィクトリア英女王の下で育てられた「生粋のイギリス人」であった。ニコライとアリックスは1886年、ニコライの叔父[[セルゲイ・アレクサンドロヴィチ]]大公とアリックスの姉[[エリザヴェータ・フョードロヴナ|エリーザベト]]の結婚式で初めて知り合い、その後、何度か再会する機会を得て親しくなった。ニコライは1891年12月に日記の中で「ヘッセン家のアリックスと結婚するのが夢だ」と書いている<ref name="リーベン(1993)82">[[#リーベン(1993)|リーベン(1993)]] p.82</ref>。
 
 
 
ただロシア皇太子妃になるためには[[ロシア正教]]に改宗する必要があり、アリックスはそれを拒んでいた<ref>[[#リーベン(1993)|リーベン(1993)]] p.82-83</ref>。[[1894年]]4月にヘッセン大公[[エルンスト・ルートヴィヒ (ヘッセン大公)|エルンスト・ルートヴィヒ]](アリックスの兄)と[[ヴィクトリア・メリタ・オブ・サクス=コバーグ=ゴータ|ヴィクトリア]](ヴィクトリア英女王の次男[[ザクセン=コーブルク=ゴータ公国|ザクセン=コーブルク=ゴータ公]][[アルフレート (ザクセン=コーブルク=ゴータ公)|アルフレート]]の娘)の結婚式に出席した際、アリックスと二人だけで話す機会に恵まれた。ニコライが熱心に説得した結果、アリックスはロシア正教に改宗して婚約する決意を固めてくれた<ref name="リーベン(1993)83">[[#リーベン(1993)|リーベン(1993)]] p.83</ref>。
 
 
 
同年初秋に父帝アレクサンドル3世が病に倒れた。10月中旬になると[[クリミア]]で寝たきりになり、ニコライ皇太子が皇帝の公務を代行するようになった<ref name="リーベン(1993)92">[[#リーベン(1993)|リーベン(1993)]] p.92</ref>。父帝は[[11月1日]]に崩御した。ニコライは日記の中で「皆にあれほど愛されたパパは神に召されてしまった。これこそが聖人の死だ。この悲しい時をどう耐えたらいいのだろう。神様、どうぞお助けください」と書いている<ref name="リーベン(1993)92">[[#リーベン(1993)|リーベン(1993)]] p.92</ref>。
 
 
 
[[Image:Coronation of Nicholas II by L.Tuxen (1898, Hermitage).jpg|thumb|250px|戴冠式でのニコライ2世とアレクサンドラ皇后、マリア皇太后<BR><SUB>1898年</SUB>]]
 
[[ファイル:SerovV MiropomazanNikolAlek.jpg|thumb|250px|left|1896年、戴冠式で塗油により[[成聖]]されるニコライ2世とアレクサンドラ<BR><SUB>ヴァレンティン・セローフ画、1897年</SUB>]]
 
26歳でロシア皇帝に即位することとなったニコライ2世は、なるべく早期にアリックスを皇后に迎えたがり、父の遺体が屋根の下にあるうちに彼女と結婚することを希望したが、叔父たちが皇帝の結婚式は盛大に行われるべきであり、服喪と一緒に行うわけにはいかないと反対したため、断念した。とりあえずアリックスはロシア正教への改宗を行い、以降アレクサンドラ・フョードロヴナと名乗るようになった<ref name="ダンコース(2001)83">[[#ダンコース(2001)|ダンコース(2001)]] p.83</ref>。結婚式は父帝の大葬から一週間後に挙式されたが、アレクサンドラは「私たちの結婚式は、まるで死者のための[[ミサ]]の連続のように思えました。違ったのは私が黒い喪服から白いドレスに着替えたことだけです」という感想を書いている<ref name="ダンコース(2001)84">[[#ダンコース(2001)|ダンコース(2001)]] p.84</ref>。
 
 
 
ペテルブルクの社交界では[[ロシア語]]と[[フランス語]]が必須だったが、アレクサンドラはロシア語の勉強を始めたばかりで母語の英語以外はうまく扱えなかった。またそもそも彼女は社交的な性格でもなかった。そのため若き皇后はすぐにも社交界での評判が悪くなった。アレクサンドラの方も英国社交界に比べてロシア社交界は贅沢三昧で背徳的と看做して嫌っていた<ref name="リーベン(1993)95">[[#リーベン(1993)|リーベン(1993)]] p.95</ref>。こうしたペテルブルク社交界との不仲のためか、ニコライ2世とアレクサンドラはペテルブルクより[[ツァールスコエ・セロー]]の[[アレクサンドロフスキー宮殿]]で生活することを好んだ<ref name="リーベン(1993)102-103">[[#リーベン(1993)|リーベン(1993)]] p.102-103</ref>。
 
 
 
=== 治世初期の内政 ===
 
ニコライ2世の即位にあたって[[トヴェリ]]の[[ゼムストヴォ]](ロシアの地方議会)は皇位継承を祝いつつ、「民の声と彼らの願いの表明に耳を傾ける」ことを嘆願した。これに対してニコライ2世は「ゼムストヴォの会合では、ゼムストヴォ代表が国事に参加するなどという途方もない夢を表明していると知った。皆さんには知ってほしいが、私は全力を挙げて国民の利益に尽くし、忘れがたき我が父がそうしてきたように専制君主制の原則を守るであろう」という演説をもって返答した<ref name="ダンコース(2001)91">[[#ダンコース(2001)|ダンコース(2001)]] p.91</ref>{{#tag:ref|この演説に[[ドイツ皇帝]][[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]も勇気づけられて、「君主制の原則は、至る所でその力を見せつけることである。だからこそ貴方が改革を要求する議員たちの前で行った素晴らしい演説を聞いて私は嬉しくなった」という手紙をニコライ2世に送っている<ref name="ダンコース(2001)91">[[#ダンコース(2001)|ダンコース(2001)]] p.91</ref>。|group=注釈}}。ニコライ2世はロマノフ家の後継者として先祖が受け継いできた専制君主体制を子孫に受け渡すことが自分の義務であるという信念を固く持っていた。またロシアの民草も専制体制を愛しており、これを転覆させるような主張は一部の狂信者が言ってるだけで全国民の意志を代弁するものではないことも確信していた。こうした思想は[[聖務会院]]院長[[コンスタンチン・ポベドノスツェフ]]の影響で培われたものだった<ref name="ダンコース(2001)92">[[#ダンコース(2001)|ダンコース(2001)]] p.92</ref>。
 
 
 
[[1896年]]ユリウス暦[[5月14日]]、[[モスクワ]]の[[クレムリン]]に所在する[[生神女就寝大聖堂 (モスクワ)|ウスペンスキー大聖堂]]で皇后とともに[[戴冠式]]を行なった。戴冠式に日本からは明治天皇の[[名代]]として[[伏見宮貞愛親王]](陸軍[[少将]])、特命全権大使として[[山縣有朋]]が出席している。
 
 
 
[[ファイル:Khodynka stampede victims.jpg|thumb|250px|ホディンカの惨事の犠牲者]]
 
戴冠式の数日後、モスクワ郊外のホディンカ(Ходынка)の平原に設けられた即位記念の記念祝賀会場(飲み物とパン、それに記念品が配布されると告知された)に来訪した50万に達する大群衆の中で順番待ちの混乱から将棋倒し事故が発生し、多数が圧死・負傷するという事件が起こった([[ホディンカの惨事]])。この事故は約1,400名の死者と1,300名を越す重傷者(その大半は重度障害者となった)を出したが、新皇帝と皇后は何ごともなかったかのように祝賀行事に出席するなど、事件への反応は国民からは「冷淡」「無関心」とも取れるもので、ロシア国民、特に貧困層の反感を買うこととなった。
 
 
 
初めは父の政策を受け継いで蔵相セルゲイ・ヴィッテを重用した。ヴィッテは[[1892年]]に運輸大臣、翌年には蔵相に就任しており、[[1903年]]まで現職としてロシア経済の近代化に務めた。なかでも鉄道網の拡大には熱心で、シベリア鉄道における彼の功績は大きかった。
 
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=== ヨーロッパにおける友好政策 ===
 
ニコライ2世は、ヨーロッパにおいては友好政策をとり、[[1891年]]に[[フランス第三共和政|フランス]]と結んだ協力関係を、[[1894年]]には[[露仏同盟]]として発展させるとともに、[[オーストリア=ハンガリー帝国]]の[[フランツ・ヨーゼフ1世]]や従兄のドイツ皇帝ヴィルヘルム2世とも友好関係を保ち、[[万国平和会議]]の開催を自ら提唱して[[1899年]]の会議では[[ハーグ陸戦条約]]の締結に成功した。
 
 
 
=== 中国分割 ===
 
[[ファイル:China imperialism cartoon.jpg|thumb|200px|列強の中国分割の風刺画。左から[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]](イギリス)、[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]](ドイツ)、ニコライ2世(ロシア)、[[マリアンヌ]](フランス)、[[サムライ]](日本)]]
 
1894年の[[日清戦争]]で清に勝利した日本は巨額の賠償金と重要な海軍拠点の[[旅順]]を含む[[遼東半島]]を獲得した。これに対してロシア政府は蔵相ヴィッテの主導で「日本の南満州支配は認められない」という声明を出し、開戦も辞さない態度で日本を脅迫した。さらに[[ロシアの外相|外相]]{{仮リンク|アレクセイ・ロバノフ=ロストフスキー|ru|Лобанов-Ростовский, Алексей Борисович}}の主導でフランスやドイツの支持も得て、日本に[[三国干渉]]をかけ、遼東半島を清に返還させた。これにより日露関係は急速に悪化した<ref name="田中(1994)317-318">[[#田中(1994)|田中・倉持・和田(1994)]] p.317-318</ref>。
 
 
 
一方日本に対して巨額の賠償金を負った清は、その支払いのためにロシアから借款を余儀なくされた(厳密にはロシアが同盟国フランスから借款した金を清が又借りする形の対ロシア借款)<ref name="ダンコース(2001)123">[[#ダンコース(2001)|ダンコース(2001)]] p.123</ref>。その見返りとして清政府は露仏両国に中国における様々な権益を認めざるをえなくなり、列強諸国による中国分割が進み、[[阿片戦争]]以来の中国のイギリス一国の半植民地([[非公式帝国]])状態が崩壊していくこととなる<ref name="坂井(1967)233">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.233</ref>。
 
 
 
とりわけヴィッテが中国分割に強い意欲を持っていた。鉄道建設にあたってはロシアを横断するより満洲の地を使った方が安上がりであり、中国北部市場をロシアの独占市場にするうえでも有利と考えられたからである<ref name="リーベン(1993)153">[[#リーベン(1993)|リーベン(1993)]] p.153</ref>。1896年にヴィッテは訪露した清の大臣[[李鴻章]]と[[露清密約]]を締結した。これによりロシアは中国を日本から防衛する代わりに[[満洲]]にロシア鉄道を敷設する権利を獲得した。鉄道の土地の管理権と検察権も付属しており、典型的な帝国主義的進出だった<ref name="田中(1994)319">[[#田中(1994)|田中・倉持・和田(1994)]] p.319</ref>。これによりロシアは満洲に強固な足場を獲得し、とりわけ[[ハルビン]]はロシア植民地と化していった<ref name="ダンコース(2001)123">[[#ダンコース(2001)|ダンコース(2001)]] p.123</ref>。
 
 
 
1897年11月に[[山東省]]でドイツ人カトリック宣教師が殺害された事件を口実にドイツ皇帝[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]が[[山東省]]に派兵し、[[膠州湾租借地|膠州湾]]を占領し、そのまま清政府から同地を[[租借地]]として獲得した。危機感を抱いたニコライ2世は11月26日にもその対策会議を招集した。外相{{仮リンク|ミハイル・ニコラエヴィッチ・ムラビヨフ|label=ミハイル・ムラビヨフ|ru|Муравьёв, Михаил Николаевич (министр)}}は「イギリス軍が報復措置で旅順を占領する可能性が高く、先手を打って我々が旅順を占領する必要がある」と主張したが、ヴィッテはその主張に反対した。会議全体の流れも反対派が有力だったので、この会議ではニコライ2世は旅順占領案を却下した。しかしニコライ2世は極東に不凍港を欲しがっていたため、その二週間後にはムラビヨフ外相の説得を受け入れる形で前言撤回し、旅順占領を決定した<ref>[[#リーベン(1993)|リーベン(1993)]] p.153-154</ref>。こうして翌12月に[[遼東半島]]の[[旅順]]と[[大連]]にロシア軍艦が派遣されることになり、清政府を威圧してそのまま旅順と大連をロシア租借地とし、旅順艦隊([[太平洋艦隊 (ロシア海軍)|太平洋艦隊]])を常駐させるとともに、「満洲と清領[[トルキスタン]]はロシアの独占的勢力圏である」との宣言を発することになった<ref name="リーベン(1993)153">[[#リーベン(1993)|リーベン(1993)]] p.153</ref><ref>[[#ダンコース(2001)|ダンコース(2001)]] p.100/124</ref>。イギリス首相[[ロバート・ガスコイン=セシル (第3代ソールズベリー侯)|ソールズベリー侯]]もドイツとロシアに対抗して山東半島の[[威海衛]]を占領して同地を租借した<ref name="坂井(1967)254-255">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.254-255</ref>。日本は3年前の三国干渉で「清の領土を保全せよ」という名目で旅順を放棄させられたから、結局旅順がロシアに取られたことを口惜しがった<ref name="リーベン(1993)154">[[#リーベン(1993)|リーベン(1993)]] p.154</ref>。
 
 
 
列強諸国による中国分割に反発した[[義和団]]が1899年から1900年にかけて北中国を中心に[[義和団の乱]]を起こした。乱自体は列強諸国の連合軍によってただちに叩き潰されたが、ロシア軍はこれを口実に満洲を軍事占領した。日英米の抗議を受けてロシアは撤兵を約束したにも関わらず履行期限を過ぎても撤退せずに駐留軍の増強を図り、さらに権益を拡大するなど極東進出を強引に推し進めた。これには日本もイギリスも憤慨し、1902年1月の[[日英同盟]]の締結に繋がった<ref name="ダンコース(2001)124">[[#ダンコース(2001)|ダンコース(2001)]] p.124</ref><ref name="リーベン(1993)154">[[#リーベン(1993)|リーベン(1993)]] p.154</ref>。
 
 
 
=== 朝鮮への野心 ===
 
ロシアは満洲・中国北部の支配権拡張と並行して朝鮮への影響力の拡大にも努めた。朝鮮はウラジオストクに近いため、ここを他の列強に抑えられると圧迫される可能性があった。また日本が[[対馬]]両岸を抑える事態になれば、旅順港とウラジオストク港を結ぶ[[シーレーン]]が危機に晒される恐れもあった。だが朝鮮半島をロシアに取られれば、圧迫されるのは日本も同じであり、日本も朝鮮への支配権拡張に努めた<ref name="リーベン(1993)154">[[#リーベン(1993)|リーベン(1993)]] p.154</ref>。
 
 
 
一方朝鮮政府では1895年の三国干渉の影響を受けて親露・民族独立勢力が台頭していた。親露派の筆頭だった[[閔妃]]を暗殺するなど日本の強硬姿勢を危惧した国王[[高宗 (朝鮮王)|高宗]]はロシア軍の朝鮮進駐を希望するようになり、1896年2月にはロシア大使館へ逃げ込んだ。これにより日本も妥協を余儀なくされ、[[山縣・ロバノフ協定]]が締結されて日露が対等の関係で朝鮮に接していく旨が合意された<ref name="田中(1994)318">[[#田中(1994)|田中・倉持・和田(1994)]] p.318</ref>。だが1897年にロシアが旅順・大連を占領すると、日本はロシアの朝鮮半島進出の本格化を恐れるようになり、「朝鮮半島を日本が支配し、満洲をロシアが支配する」ことをロシアに提案するようになったが、ロシアからは相手にされなかった<ref name="ダンコース(2001)123-124">[[#ダンコース(2001)|ダンコース(2001)]] p.123-124</ref>。
 
 
 
しかも朝鮮半島に接する[[鴨緑江]]沿岸では、[[アレクサンドル・ベゾブラーゾフ]]ら冒険主義的なロシア貴族が、朝鮮半島北部にロシアの橋頭保を築く目的で伐採事業を開始していた。ベゾブラーゾフはロシアは偉大な大国であるので強硬姿勢をとって当たり前であり、東洋人ごときに生意気を言われる筋合いはないという信念を持っており、蔵相ヴィッテの対日融和政策を毛嫌いして「大臣たちは皇帝陛下に正しい情報を提供せず、陛下に自分たちの考えを押し付けている」と批判していた。これはニコライ2世にとっても耳に心地よい意見だった。ニコライ2世はこのベゾブラーゾフを強く信頼するようになり、対日強硬姿勢を強めていく<ref>[[#リーベン(1993)|リーベン(1993)]] p.155-156</ref>。
 
 
 
1902年1月には対露を目的とした日英同盟が成立したが、一方で日本はロシアとの交渉も諦めておらず、とにかくロシアに朝鮮支配を諦めさせようと努めた<ref name="ダンコース(2001)125">[[#ダンコース(2001)|ダンコース(2001)]] p.125</ref>。こうした情勢の中で1902年から1903年にかけてロシア政府内では極東政策について二つの意見に分かれた。蔵相ヴィッテは「朝鮮支配は諦めるべきである。我々は満洲だけを狙い、そこを足場に中国支配を推し進めることに集中すべきだ」と訴え、対日融和論を説くようになった。またロシア国内では1900年から[[1901年]]にかけて起こった経済危機により、[[工業製品]]の発注が激減し、[[失業者]]が増加したのみならず、農村でも不作が続いていた。そのような状況下で日本と戦争をはじめることにヴィッテは反対していたのである。だが内相[[ヴャチェスラフ・プレーヴェ]]やベゾブラーゾフ、[[エヴゲーニイ・アレクセーエフ]]提督ら対日強硬派は「中国だけではなく朝鮮も支配できる」と主張して譲らなかった。ニコライ2世はとりわけプレーヴェの影響を受けて「朝鮮は多少の危険を冒しても手に入れる価値がある」と考えるようになった<ref name="ダンコース(2001)125">[[#ダンコース(2001)|ダンコース(2001)]] p.125</ref>。
 
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=== 日露戦争とロシア第一革命 ===
 
{{see|日露戦争|ロシア第一革命}}
 
==== 開戦までの経緯 ====
 
[[ファイル:Tsar Nicholas II -1898.jpg|right|thumb|200px|1898年のニコライ2世]]
 
1903年7月にアレクセーエフ提督を極東総督に任じた。この役職は政治・軍事問わず極東に関するあらゆる問題を管轄する役職であり、日本・清・朝鮮など極東諸国との外交権をも握っていた<ref name="リーベン(1993)157">[[#リーベン(1993)|リーベン(1993)]] p.157</ref>。さらにその翌月にはヴィッテを罷免してベゾブラーゾフを国務大臣に任命し、対日強硬路線へ突き進んでいくこととなった<ref name="ダンコース(2001)126">[[#ダンコース(2001)|ダンコース(2001)]] p.126</ref>。
 
 
 
ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世もロシアを欧州から遠ざけ、かつ英露を対立させるチャンスと見てロシアの極東進出を応援した。1904年2月にヴィルヘルム2世はニコライ2世に宛てて手紙を書き、「偏見のない人なら誰でも朝鮮はロシアのものと考えている」としてニコライ2世の方針に支持を表明し、彼に「太平洋提督」になることを勧めた<ref>[[#ダンコース(2001)|ダンコース(2001)]] p.126/136</ref>。
 
 
 
「黄色い猿」を侮蔑するニコライ2世はロシアがどんなに強硬路線を取ろうと日本にロシアと戦争する勇気などあるはずがなく、自分が望まない限り、戦争にはならないと考えていた<ref name="ダンコース(2001)138">[[#ダンコース(2001)|ダンコース(2001)]] p.138</ref>。1903年10月にはアレクセーエフ提督に対して「私は日本との戦争を望まないし、許可もしない」と述べたかと思えば<ref name="リーベン(1993)157">[[#リーベン(1993)|リーベン(1993)]] p.157</ref>、12月には「ロシアの強硬な圧力を受けて日本が旅順から撤退した1895年を思い出す」「どっちにしても日本は野蛮な国だ。開戦か、利権交渉か、一体どちらがよいことやら」と述べる<ref>[[#リーベン(1993)|リーベン(1993)]] p.157-158</ref>。さらに1904年1月の新年のレセプションの席では「何人たりともロシアの忍耐力と平和を愛する心にいつまでも期待をかけてはならない。ロシアは大国であり、行きすぎた挑発は許さない」と演説した<ref name="ダンコース(2001)138">[[#ダンコース(2001)|ダンコース(2001)]] p.138</ref>。
 
 
 
アレクセーエフは全権を与えられているといっても、形式的にであれ皇帝の裁可は不可欠であった。しかし1903年8月から11月にかけてニコライ2世は西欧を歴訪していたこともあり、日本との交渉は遅々として進まず、日本の不信感は高まっていった<ref name="リーベン(1993)157">[[#リーベン(1993)|リーベン(1993)]] p.157</ref>。
 
==== 戦争の経緯 ====
 
1904年2月9日深夜、日本が[[宣戦布告]]なしで旅順のロシア艦隊に攻撃を加えたことで[[日露戦争]]が開戦した。アレクセーエフ提督からこの報告を受けた時ニコライ2世は「宣戦布告なしだと!神よ、我らを助けたまえ」と述べたという<ref name="ダンコース(2001)127">[[#ダンコース(2001)|ダンコース(2001)]] p.127</ref>。
 
 
 
だがニコライの予想とは裏腹に戦況は思わしくなく、日本艦隊は早々に旅順のロシア艦隊をウラジオストクに追って制海権を獲得。5月にはロシア陸軍は鴨緑江で敗北し、[[奉天]]まで後退を余儀なくされた。ロシア軍増援部隊は[[アレクセイ・クロパトキン]]将軍の指揮のもと日本軍に包囲される旅順を解放しようとしたが、失敗し、双方に多大な犠牲を出したすえ1905年1月に旅順が陥落。さらに日本軍は奉天のロシア軍にも攻撃を開始し、ロシア軍は何とか陸軍主力を温存したものの奉天からの退却を余儀なくされた。ニコライ2世の最後の希望だった[[バルチック艦隊]]も、ようやく極東に到着したばかりの5月27〜28日に行われた[[日本海海戦]]において、ほぼ一方的に殲滅されてしまった<ref name="ダンコース(2001)127-128">[[#ダンコース(2001)|ダンコース(2001)]] p.127-128</ref>。
 
 
 
ロシアの敗因はいくつかあるが、まず日本の方が戦闘地域に近いため、[[ヨーロッパロシア]]よりも迅速に動員や補給ができたことがある。開戦当初ロシア軍29個軍団のうち極東にいたのは2個軍団だけであり、他の部隊は戦闘地域に到着するまで数カ月もかかった。シベリア鉄道は単線だったためである<ref name="ダンコース(2001)130-131">[[#ダンコース(2001)|ダンコース(2001)]] p.130-131</ref><ref name="リーベン(1993)218">[[#リーベン(1993)|リーベン(1993)]] p.218</ref>。またロシア側は相次ぐ敗戦で指揮系統の混乱が見られた。極東総督として極東ロシア陸海軍双方に指揮権を持つアレクセーエフ提督は陸軍のトップである[[アレクセイ・クロパトキン]]将軍と折り合いが悪く、アレクセーエフが攻勢志向なのに対して、クロパトキンは後退・再編成志向だった<ref name="ダンコース(2001)131">[[#ダンコース(2001)|ダンコース(2001)]] p.131</ref>。またアレクセーエフ解任後もクロパトキンと[[オスカル・フェルディナント・グリッペンベルク|グリッペンベルク]]将軍の確執があった<ref name="リーベン(1993)219">[[#リーベン(1993)|リーベン(1993)]] p.219</ref>。こうして相矛盾する命令を受けることになったロシア軍の現地部隊は混乱し、これが日本軍に有利に働いた<ref name="ダンコース(2001)131-132">[[#ダンコース(2001)|ダンコース(2001)]] p.131-132</ref>。海戦でもロシアの極東艦隊は数の上では日本艦隊に匹敵したが、まともな基地と修理施設がなかったうえ、[[ステパン・マカロフ]]提督の旗艦「[[ペトロパブロフスク級戦艦|ペトロパブロフスク]]」が機雷にかかるなど様々な不運に見舞われた<ref name="リーベン(1993)218">[[#リーベン(1993)|リーベン(1993)]] p.218</ref>。
 
 
 
そしてもう一つは、国内に蔓延していた革命機運であった。日露戦争勃発当初はロシア国内でも左右を問わず愛国ムードが高揚したが、小国の日本を相手にしながら軍事的失敗が続くなかで、国内での亀裂が再び深まった。学生運動を行っていた大学生らは軍に入隊させられるやアジテーターと化して部隊の士気を低下させようとしたほか、鉄道員にも心理工作を仕掛けてロシア帝国の生命線である軍の極東移動の妨害も図った<ref name="ダンコース(2001)132-133">[[#ダンコース(2001)|ダンコース(2001)]] p.132-133</ref>。
 
 
 
==== 血の日曜日事件 ====
 
{{see|血の日曜日事件 (1905年)}}
 
[[1905年]][[1月9日]]、莫大な戦費や戦役に苦しんだ民衆が皇帝への嘆願書を携えて[[サンクトペテルブルク]]の[[冬宮殿]]前広場に近づくと、兵士は丸腰の10万の群衆に発砲し、2,000 - 3,000人の死者と1,000 - 2,000人の負傷者を出した([[血の日曜日事件 (1905年)|血の日曜日事件]])。敗戦による威信の低下に加え、皇帝が民衆に対して友好的であるという印象が崩れ去り、国民統合の象徴としての存在感を失った。この事件を受けプレーヴェ暗殺後に内相を務めていた[[ピョートル・スヴャトポルク=ミルスキー|スヴャトポルク=ミルスキー]]を解任して、後任に[[アレクサンドル・ブルイギン]]を任命した。さらに2月には自身の叔父にして副都[[モスクワ]]の総督を務める[[セルゲイ・アレクサンドロヴィチ大公|セルゲイ大公]]が暗殺された。
 
 
 
==== ビヨルケ会談 ====
 
1905年7月24日にニコライはドイツ皇帝ヴィルヘルム2世とフィンランド沖ビヨルケで会談し、近臣にも同盟国フランスにも独断で密約を結んだ。バルチック艦隊が日本艦船と間違えて英国漁船を沈めた事件の報復として、すでに[[日英同盟]]を結んでいたイギリスはロシアの孤立化に努めており、これに不満を抱いていたニコライ2世は、日本に対して[[三国干渉]]で共闘したロシア、フランス、ドイツといった大陸ヨーロッパ諸国の連携による日英同盟の打破を考えていたためだった<ref name="ダンコース(2001)141-142">[[#ダンコース(2001)|ダンコース(2001)]] p.141-142</ref>。
 
 
 
しかしロシア外相ラムズドルフは、このような条約はドイツと対立するフランスへの裏切りであり、フランスは決して参加しないと反対した。やがてニコライ2世も徐々に不信感を抱くようになり、海外進出積極主義者のヴィルヘルム2世による露仏離間策と考えるようになったため、この密約は葬られた<ref name="ダンコース(2001)143-144">[[#ダンコース(2001)|ダンコース(2001)]] p.143-144</ref>。
 
 
 
==== 講和と第一革命 ====
 
[[File:Forces returning 2.jpg|thumb|right|[[小林清親]]の版画。[[日露戦争]]の敗北によりボロボロとなったロシア軍の悪夢を見て、飛び起きるニコライ二世。]]
 
日本海海戦の結果を受け[[6月8日]]に、[[アメリカ合衆国]]の[[セオドア・ルーズベルト]]大統領が日露両国に講和会議開催を呼びかけ、10日には日本政府が、12日にはロシア政府がそれを受諾。ニコライ2世はヴィッテを再登用して[[ポーツマス (ニューハンプシャー州)|ポーツマス]]へ全権として派遣し、日本との交渉に当たらせた。
 
 
 
交渉の最中である[[6月27日]]には、黒海艦隊の戦艦「[[ポチョムキン=タヴリーチェスキー公 (戦艦)|ポチョムキン=タヴリーチェスキー公]]」で[[水兵]]による[[反乱]]が起こり、翌28日には港湾でゼネストが起こり、暴動が拡大した。ポチョムキンの反乱に加わったのは[[水雷艇]]1隻と戦艦「[[ゲオルギー・ポベドノーセツ (戦艦)|ゲオルギー・ポベドノーセツ]]」であった。「ポチョムキン」は[[ルーマニア王国|ルーマニア]]へ逃げ込んだが、説得に応じて投降した反乱水兵はすべて[[処刑]]か、[[シベリア]]への[[流罪|流刑]]を言い渡されている。
 
 
 
8月、ニコライ2世は譲歩に応じブルイギン宣言を発した。これは「皇帝を輔弼する」議会の創設、信教の自由、[[ポーランド人]]の[[ポーランド語]]使用、農民の弁済額の減額を認めたものだったが、この程度の譲歩では秩序回復は期待できないことから、皇帝の諮問に応じる[[ドゥーマ]](議会)の創設に応じた。しかし、ドゥーマの権限があまりに小さいこと、また、[[選挙権]]に制限が加えられていることが明らかになると、騒乱はさらに激化した。9月5日には[[ポーツマス条約|日露講和条約]]が成立。賠償金を払わないなどの譲歩は得たものの、日露戦争はロシア側の敗北という形で終結した。一方で国内の騒乱は収まらず、10月には[[ゼネスト]]にまで発展した。ユリウス暦10月14日、ヴィッテは[[アレクシス・オボレンスキイ]]との共同執筆による[[十月宣言]]をニコライ2世に提出した。宣言は9月の地方議会ゼムストヴォの要求(基本的な民権の承認、集会の自由、祭儀の自由、政党結成の許可、国会開設、[[普通選挙]]に向けた選挙権の拡大)に沿った内容であった。
 
 
 
ニコライ2世は3日かけて議論したが、虐殺を避けたい皇帝の意志と他の手段を講じるには軍隊が力不足という現状から、ついに1905年[[10月30日]](ユリウス暦10月17日)に宣言に署名した([[十月詔書]])。皇帝は署名したことを悔しがり「今度の背信行為は恥ずかしくて病気になりそうだ」と語ったと言われる。宣言が発布されると、ロシアの主要都市では宣言支持の自発的なデモが起こった。ドゥーマの議長となる首相にはヴィッテが指名された。
 
 
 
しかしヴィッテは議会の支持を得られなかったため、変わって[[1906年]]5月に改革の敵対者である[[イワン・ゴレムイキン]]が首相となった。ニコライ2世は直前に皇帝専制権が残存する[[ロシア帝国国家基本法|憲法]]を発布し、国会を開催したものの、あまりに自由主義的であるとしてただちに解散、その直後の7月にゴレムイキンを更迭し首相に[[ピョートル・ストルイピン]]を登用した。ストルイピンは1906年[[9月9日]]と、[[1910年]][[6月14日]]の法律で、[[農奴]]の身分を完全に廃止して個人農を推進するなど、「ストルイピン改革」と呼ばれる近代化を進めたが、後に、その強い主導力に不快感をもった皇帝と対立した。
 
 
 
ニコライ2世は、翌[[1907年]]の国会も前年の国会同様「不服従」の理由で会期中に解散させ、[[反ユダヤ主義]]の宣伝と[[テロ活動]]を盛んに行なっていた極右団体「ロシア人同盟」を支援した。3度目の国会では選挙法を改正して投票資格に大幅な制限を加えたため、[[貴族]]ばかりが当選する「貴族のドゥーマ」となった。
 
 
 
==== 怪僧ラスプーチンの台頭 ====
 
日露戦争中の[[1904年]]8月に生まれた皇太子アレクセイは、当時は原因不明の不治の病とされた[[血友病]]の患者であり、皇帝夫妻は幼い皇太子の将来の身を案じていた。
 
 
 
[[1905年]]11月、[[グリゴリー・ラスプーチン]]という農民出身の祈祷僧が宮廷に呼ばれた。ラスプーチンが祈祷を施すと不思議なことにアレクセイ皇太子の病状が好転した。このことから、アレクサンドラ皇后が熱烈にラスプーチンを信用するようになり、愛妻家であった皇帝も皇后に同調した。その後もラスプーチンはたびたび宮殿に呼び寄せられた。皇帝一家がラスプーチンを「我らの友」と呼び、絶大な信頼を寄せたことから、ラスプーチンはいつしか政治にまで口を挟むようになっていた。
 
 
 
ラスプーチンは、馬泥棒の経歴が暴かれたうえ女信者とのみだらな素行を[[教会]]に告発され、それが[[新聞]]でも報じられたにも関わらず、皇后からの信頼は崩れなかった。教会の要職に自分の庇護者を任命させるなど、陰で絶大な権力をふるったため、[[1912年]]のドゥーマでは皇后がラスプーチンを「皇帝一家の友」としたことが問題にされている。皇帝の周囲にはラスプーチンを排除する声もあったが、優柔不断といわれた皇帝は皇后の意向や皇太子の病気を考慮してこれを拒否した。
 
 
 
宰相ストルイピンは、ラスプーチンを皇帝一家から遠ざけるよう尽力した数少ない人物であったが、[[1911年]]、皇帝の目の前で[[アナキズム|アナーキスト]]の[[ドミトリー・ポグロフ]]によって銃撃されて死去し、当時のロシアでは進歩的だった「ストルイピン改革」も頓挫した。
 
 
 
=== 大戦と革命 ===
 
{{see|ロシア革命}}
 
[[ファイル:Gw tsarstaff 01.jpg|thumb|250px|ニコライ2世と司令部員ら]]
 
[[ファイル:RussianHighCommand.jpeg|thumb|250px|[[スタフカ]]会議におけるニコライ2世と戦線司令官ら]]
 
[[1914年]]6月、[[サラエヴォ事件]]が起き、[[7月28日]]にオーストリア=ハンガリーが[[セルビア王国 (近代)|セルビア]]に宣戦を布告すると、ロシア軍部は戦争準備を主張し皇帝へ圧力を掛けた。ニコライ2世とドイツ皇帝ヴィルヘルム2世との間の電報交渉は決裂し、彼は[[第一次世界大戦]]拡大の要因の一つといわれるロシア軍総動員令を[[7月31日]]に布告して、[[汎スラヴ主義]]を掲げて[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]として参戦、ドイツとの戦端を開いた。開戦によりドイツ語風の名をもつ首都サンクトペテルブルクも、これをロシア語に訳したペトログラードと改められた。しかし[[タンネンベルクの戦い (1914年)|タンネンベルクの戦い]]では、敵の3倍近い兵力を有していながら1個軍(20万人相当)を喪失するという壊滅的な敗北を経験した。
 
 
 
さらに[[1915年]]春には、兵装や輸送・通信システムなどにおいて先進的な近代機器を擁するドイツに対して相次ぐ大敗を喫し、戦況が悪化した同年夏には「大退却」を余儀なくされる。同年[[9月5日]]、皇帝はラスプーチンの予言もあって、ほとんどの閣僚が反対したにも関わらず、従叔父にあたる最高司令官[[ニコライ・ニコラエヴィチ (1856-1929)|ニコライ・ニコラエヴィチ]]大公を罷免し、自ら前線に出て最高司令官として指揮を執った。しかし、これは他の連合国から信頼の厚かったニコライ大公に代わるもので、現場では必ずしも好評ではなかった。ただし、[[1916年]]6月に敵国ドイツを参考に[[浸透戦術]]を用いた[[ブルシーロフ攻勢]]では、[[オーストリア=ハンガリー帝国]]軍を主力とした相手に辛くも勝利をつかんでいる。
 
 
 
親征のため皇帝不在の首都ペトログラード(ペテルブルク)では、ニコライ2世から後を託されたアレクサンドラ皇后とラスプーチンが政府を主導していたが、気に入らない人物を次々に罷免するなど失政が目立った。このため人気のなかった2人に対して、貴族から民衆までが、彼らの出自を揶揄した「ドイツ女」「怪物」と蔑んで憎悪の対象とした。皇后とラスプーチンの肉体関係さえ噂され、皇族の権威はさらに失墜した。
 
 
 
ロマノフ家に対する批判的機運が高まったことから、保守派は[[帝政]]を救おうとしてニコライ2世の譲位を画策した。1916年12月、ラスプーチンは皇帝の従弟にあたる[[ドミトリー・パヴロヴィチ|ドミトリー大公]]や姪の夫[[フェリックス・ユスポフ|ユスポフ公]]らによって暗殺され怪死を遂げるが、それでも皇帝は孤立の度合いを深めるばかりであった。
 
 
 
[[1917年]]1月には、改善しない戦況と物資不足に苦しんだ民衆が蜂起した。これには軍隊の一部も反乱に合流し、ロシア全土が大混乱に陥った。前近代的な社会体制からくる矛盾をついに克服できなかった帝政ロシアにとって、近代的な[[総力戦]]を継続することは既に限界に達していたのである。
 
 
 
=== 帝国の崩壊 ===
 
[[File:Отречение от престола императора Николая II. 2 марта 1917.jpg|thumb|250px|left|ニコライ2世の退位詔書([[1917年]][[3月15日]]/[[ユリウス暦]][[3月2日]])]]
 
[[File:1917 март Отречение Николая II манифест.jpg|thumb|250px|退位詔書のコピー]]
 
こうした状況下、[[2月革命 (1917年)|二月革命]]が起こり、さらに3月8日には首都ペトログラードでも暴動が起こると、ニコライ2世は首都の司令官に断乎たる手段をとるよう命じた。秩序回復のために大本営から首都へ軍が差し向けられたものの、内閣は辞職し、軍に支持されたドゥーマは皇帝に退位と譲位を要求した。1917年[[3月15日]](ユリウス暦3月2日)、ニコライ2世は、最終的にはほとんどすべての司令官の賛成によって[[プスコフ]]で退位させられた。この時ニコライ2世は、{{仮リンク|帝位継承法 (ロシア帝国)|en|Pauline Laws|ru|Акт о престолонаследии (1797)|label=帝位継承法}}の規定で本来ならば後継者として予定されていた皇太子アレクセイではなく、弟の[[ミハイル・アレクサンドロヴィチ (1878-1918)|ミハイル・アレクサンドロヴィチ大公]]に皇位を譲った。しかし、ミハイル大公は即位を拒否したため、ここに300年続いたロマノフ朝は幕を閉じ、ロマノフ家の人々は一市民になった。
 
 
 
[[ファイル:AlexeiNicholas1917.jpg|thumb|250px|1917年、トボリスクに監禁されたニコライ2世とアレクセイ]]
 
ユリウス暦3月7日には[[ロシア臨時政府|臨時政府]]によって自由を剥奪され、[[ツァールスコエ・セロー]]に監禁された。英国君主とも血縁関係が強い元ロシア皇帝一家を同盟国でもあるイギリスに亡命させる計画もあったが、ペトログラードの[[ソヴィエト]]を中心として反対論があり、同年8月、妻や5人の子供とともに[[シベリア]]西部の[[トボリスク]]に流された。
 
{{-}}
 
 
 
=== 最期 ===
 
[[ファイル:Nikolaus II. (Russland).jpg|thumb|200px|1917年、ニコライ2世の最後のものと伝わる写真]]
 
{{main|ロマノフ家の処刑}}
 
 
 
[[ボリシェヴィキ]]による[[十月革命]]がおこってケレンスキー政権が倒されると、一家は[[ウラル連邦管区|ウラル地方]]の[[エカテリンブルク]]へ移され、[[イパチェフ館]]に監禁(資産家イパチェフの家を接収して使用)された。イパチェフ館は高い塀と鉄柵で覆われ、全ての窓がペンキで白塗りされ、一家は外部との接触を禁じられて厳しく監視されていたが、互いに協力しあって生活を送った。ニコライ2世は死の4日前まで日記を書き続けた。イパチェフ館の警備兵を務めたアナトーリ・ヤキモフは当時のニコライ2世の様子について後年に「皇帝はもはや若さを失い、髭も白いものが目立ち始めた。私は彼が兵隊シャツを着て、腰に将校ベルトを締めているのを見た。シャツもズボンも同じカーキ色で、長靴は擦り切れていた。眼は優しく、本当に穏やかな表情をしていた。私は彼が親切で、単純素直で、気の置けない人柄だと思った。私に話しかけようとしているように思える時もあった。本当に、私達に話しかけたがっているようだった」と書き記している<ref>{{Cite book|author=[[ジェイムズ・B・ラヴェル]](著)、[[広瀬順弘]](訳)|title=アナスタシア―消えた皇女|publisher=[[角川文庫]]|page=35|isbn=978-4042778011}}</ref>。
 
 
 
しかし、[[チェコ軍団]]の決起によって[[白軍]]がエカテリンブルクに近づくと、ソヴィエト権力は元皇帝が白軍により奪回されることを恐れ、[[1918年]][[7月17日]]午前2時33分、[[ウラジーミル・レーニン]]よりロマノフ一族全員の殺害命令を受けた、元軍医で[[チェーカー]]次席の[[ユダヤ人]]の[[ヤコフ・ユロフスキー]]率いる、ロシア帝政下で抑圧され続けた少数民族のユダヤ人・[[ハンガリー人]]・[[ラトビア人]]で構成された処刑隊が元皇帝一家7人(ニコライ2世、[[アレクサンドラ・フョードロヴナ (ニコライ2世皇后)|アレクサンドラ元皇后]]、[[オリガ・ニコラエヴナ (ニコライ2世皇女)|オリガ元皇女]]、[[タチアナ・ニコラエヴナ|タチアナ元皇女]]、[[マリア・ニコラエヴナ (ニコライ2世皇女)|マリア元皇女]]、[[アナスタシア・ニコラエヴナ|アナスタシア元皇女]]、[[アレクセイ・ニコラエヴィチ (ロシア皇太子)|アレクセイ元皇太子]])、ニコライ2世の専属医([[エフゲニー・ボトキン]])、アレクサンドラの女中([[アンナ・デミドヴァ]])、[[コック (家事使用人)|一家の料理人]]([[イヴァン・ハリトーノフ]])、従僕([[アレクセイ・トルップ]])の合わせて11人をイパチェフ館の地下で銃殺した。これにより、元皇帝夫婦ニコライ2世とアレクサンドラの血筋は途絶えた。
 
 
 
=== 最期の状況と遺体の処理 ===
 
{{出典の明記|date=2017年6月|section=1}}[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]時代は皇帝処刑は革命への貢献とされたため、ソ連政府は一時期、革命教育の一環として処刑に参加した兵士を全国の学校や職場で講演させ、体験を英雄的行為とし、当日の情況を多くの人に詳細に語ったので、皇帝一家が地下室に集められて処刑隊の指揮官が死刑執行を告げたとき、皇帝が当惑したように「何と言ったのだ?」と訊き返したことや、壁際に固まった10代の子供たちを含む一家に拳銃を乱射したこと、皇妃が皇女たちの前に立ちはだかり「子供たちは撃つな!」と叫んだことなど、処刑の状況は正確に判明している。
 
 
 
ユロフスキーが残した資料によると、遺体は一度廃坑に埋めた後掘り起こされ、別の廃坑付近で2体の遺体を焼却した後に残り9体が硫酸をかけた上で森に埋められた。その後、ソヴィエトは「ニコライ2世のみが処刑されたが、家族は安全な場所にいる」と発表。これは、ドイツ出身のアレクサンドラ元皇后や、イギリス王家とも繋がりの深いロマノフ家一族の殺害の事実を伏せ、諸外国とのトラブルを回避するためであった。殺害の決定においては、[[レフ・トロツキー]]が「ニコライを裁判にかけて罪状を裁くべき」と主張したが、レーニンは「ニコライの手は血に塗れているのだから裁判は必要ない」と強硬に殺害を主張し認めさせた。殺害後、レーニンはユロフスキーらに面会してその労をねぎらった。[[赤軍]]出身の歴史家[[ドミトリー・ヴォルコゴーノフ]]は、レーニンらによるニコライ一家の処刑を、[[ボリシェヴィキ]]が「'''法を守る振りさえしなくなった'''」契機だと批判した。事実、一家が処刑された年には、ミハイルら元皇族や元貴族が多数殺害されている。
 
 
 
=== 遺体の認知 ===
 
[[ソ連崩壊]]後の[[1994年]]、発見された遺体が本人たちと確認され、[[2000年]]8月、ニコライ2世は[[ロシア正教会]]において家族や他のロシア革命時の犠牲者とともに[[列聖]]された。またロシア連邦捜査委員会は[[2011年]]1月、レーニンが処刑を下命した証拠は存在しないとの調査結果をまとめた。
 
 
 
== 人物 ==
 
=== 性格 ===
 
ひ弱で凡庸な皇帝とイメージされることが多い。有能な人物に対する嫉妬からこれを遠ざけ、従順な臣下の取り巻きのみを重用するタイプであったため、統治者には向かなかったとする批評もある。プライベートでは[[写真]]撮影が趣味の家庭人で誠実な人物であったという。外交においても、フランスを出し抜いてドイツ皇帝と締結した密約を最終的には破棄するなど、権謀術数が渦巻く当時のヨーロッパにしてはめずらしく、同盟国に対しては忠実であった。
 
 
 
=== 亡命交渉 ===
 
革命が起きた直後、従兄のジョージ5世治下のイギリスへ[[亡命]]しようとした。しかし20世紀に入って結党された[[労働党 (イギリス)|イギリス労働党]]が次第に勢力を伸ばすなか、[[社会主義]]に対し好意的な労働者や知識階級の暴動を恐れた英国政府はこの要請を黙殺。一方、同じく従兄であるヴィルヘルム2世は逆にドイツへの亡命をニコライ2世に勧めたものの、前線で自ら指揮を執っていたこともあるニコライは交戦国への亡命を躊躇し、結果的に死に至る。
 
 
 
=== 容貌 ===
 
従兄であるイギリス国王ジョージ5世とは、入れ替わっても親族さえ気付かないほど容貌がよく似ていた。ロシア革命後イギリスに亡命した皇帝の家臣がジョージ5世に拝謁した時、ニコライ2世が生きていたと思って跪いたという。また、自身の皇后アレクサンドラもジョージ5世の従妹にあたる。
 
 
 
== 死後 ==
 
[[ファイル:Grabraum Nikolaus II.JPG|thumb|250px|[[首座使徒ペトル・パウェル大聖堂 (サンクトペテルブルク)|ペトロパヴロフスキー大聖堂]]にあるニコライ2世の墓]]
 
元皇帝一家の最後の状況については、5番目の皇女がいる、皇帝一家は死んでいない、など長年さまざまな噂が流れていた。末娘[[アナスタシア・ニコラエヴナ|アナスタシア皇女]]を名乗る女性([[アンナ・アンダーソン]]など)がヨーロッパ各地に現れ、世間の話題をさらうこともあった。一方、一家が殺害されたイパチェフ館は、モスクワの指令を受けた[[ボリス・エリツィン]]により、[[1977年]]7月に解体された(エリツィンは[[ロシア連邦大統領|新生ロシアの初代大統領]]になった後にこの件について釈明し、謝罪している)。その後、[[1979年]]になって民間人の地質調査隊がニコライ2世の死に関心を抱き、ボリシェヴィキ出身の両親を持つ映画監督の{{仮リンク|ゲリー・リャボフ|ru|Рябов, Гелий Трофимович}}調査員が元皇帝一家の遺骨を発見したが、モスクワで専門家に「この事に首を突っ込むな、全部忘れてしまえ!」と警告されたため、遺骨の石膏の型が取られた後にいったん埋め戻された。ソ連時代はニコライ2世を裁判なしに殺害した事実はタブーであった。エリツィンによって取り壊されたイパチェフ館の跡地には[[2003年]]になって教会が立てられ、「[[血の上の教会 (エカテリンブルク)|血の上の教会]]」と命名された。
 
 
 
[[1991年]]、ソビエト連邦の崩壊によって公開された記録から、元皇帝一家全員が赤軍に銃殺されたことが正式に確認された。その後、改めて掘り起こされた遺骨の[[DNA型鑑定|DNA鑑定]]を行うため、残されていた複数の資料との照合が行われた。その中には日本に保管されていた「[[大津事件]]血染めのハンカチ」も含まれていたが、サンプルの量が少なく、この資料からは血液型の判定までしか行えなかった。元ロシア皇族の末裔らも、鑑定用に検査に応じた。[[グリュックスブルク家]]と[[ヘッセン大公国|ヘッセン家]]の血を引く[[フィリップ (エディンバラ公)|エディンバラ公]]もその一人である。
 
 
 
結局他の資料から遺骨がニコライ2世本人のものと判明。[[ロシア正教会]]は他のソビエト革命の犠牲者とともにニコライ2世とその家族を「[[新致命者]]」(殉教者の意)として列聖した。この列聖には、過去の清算とイパチェフ館の罪滅ぼしをしたいエリツィンの意向が働いていた。ニコライ2世を単なる致命者ではなく[[イイスス・ハリストス]]と同格の救世主であるとするいわゆるツァレボージニキ({{lang-ru|царебожники}})の運動が1930年代以降断続的にロシア正教会の内部で起こっているが、2008年にはその主導者である[[チュコト]][[主教]]ディオミドらがロシア正教会から追放され彼らの運動は[[モスクワ総主教庁]]と断絶した<ref>[http://pitanov.livejournal.com/355831.html {{lang|ru|Андрей Григорьев. Ультраправославные апологеты уподобили Николая II Христу}}]</ref>。[[2007年]]7月にはエカテリンブルク郊外で新たな二つの遺骨が掘り起こされ、翌[[2008年]][[7月16日]]にアメリカの機関による[[大津事件]]の際の血痕付着のシャツのDNA鑑定の結果、長男アレクセイと3女マリアのものであるということが確認され、元皇帝一家全員分の遺骨が確認された。
 
 
 
2008年[[10月1日]]、ロシア最高裁判所にて「根拠なしに迫害された」として名誉回復の裁定が下された。ロマノフ家事務局代表は「90年前の犯罪が指弾されることは重要」として、この裁定を歓迎した。
 
 
 
==画像==
 
<gallery>
 
画像:Nicholas II of Russia.jpg|肖像写真
 
画像:Nicholas II, Tsar.jpg|ニコライ2世
 
画像:Imperial Monogram of Tsar Nicholas II of Russia.svg|ニコライ2世の[[モノグラム]]
 
画像:Forensic rec. Romanov 01.jpg|[[法医学]]によって復元されたニコライ2世の顔
 
File:Nicholas II right forearm with Chinese dragon tattoo 07.jpg|右袖から日本で彫らせた龍の入れ墨を覗かせるニコライ
 
</gallery>
 
 
 
== 脚注 ==
 
=== 注釈 ===
 
{{reflist|group=注釈|1}}
 
=== 出典 ===
 
{{reflist|1}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
* フランソワ・トレモリエール、カトリーヌ・リシ編『図説 ラルース 世界史人物百科III〔1789-1914〕』原書房、2005年、ISBN 4-562-03730-X
 
* [[ドミトリー・ヴォルコゴーノフ]]『レーニンの秘密』(上・下 白須英子訳、[[日本放送出版協会]]、1995年 特に上巻を参照)ISBN 4140802383/ISBN 4140802391
 
*{{Cite book|和書|author=デヴィッド・ウォーンズ|date=2001年(平成13年)|title=ロシア皇帝歴代誌|translator=[[月森左知]]|publisher=創元社|isbn=978-4422215167|ref=ウォーンズ(2001)}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[ドナルド・キーン]]|translator=[[角地幸男]]|date=2001年(平成13年)|title=明治天皇 下巻|publisher=[[新潮社]]|isbn=978-4103317050|ref=キーン(2001)下}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[坂井秀夫]]|date=1967年(昭和42年)|title=政治指導の歴史的研究 近代イギリスを中心として|publisher=[[創文社]]|asin=B000JA626W|ref=坂井(1967)}}
 
*{{Cite book|和書|author= |translator=|editor=[[田中陽児]]、[[倉持俊一]]、[[和田春樹]]編|date=1994年(平成6年)|title=ロシア史〈2〉18~19世紀|series=世界歴史大系|publisher=山川出版社|isbn=978-4634460706|ref=田中(1994)}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[エレーヌ・カレール=ダンコース]]|translator=[[谷口侑]]|date=2001年(平成13年)|title=甦るニコライ二世 中断されたロシア近代化への道 |publisher=[[藤原書店]]|isbn=978-4894342330|ref=ダンコース(2001)}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[ロバート・K・マッシー]]|translator=[[佐藤俊二]]|date=1996年(平成8年)|title=ニコライ二世とアレクサンドラ皇后 ロシア最後の皇帝一家の悲劇|publisher=[[時事通信社]]|isbn=978-4788796430|ref=マッシー(1996)}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[保田孝一]]|date=1990年(平成2年)|title=最後のロシア皇帝ニコライ二世の日記 増補|publisher=[[朝日新聞社]]|series朝日選書403|isbn=978-4022595034|ref=保田(1990)}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[エドワード・ラジンスキー]]|translator=[[工藤精一郎]]|date=1993年(平成5年)|title=皇帝ニコライ処刑 ロシア革命の真相〈上〉|publisher=[[日本放送出版協会]]|isbn=978-4140801062|ref=ラジンスキー(1993)上}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[ドミニク・リーベン]]|translator=[[小泉摩耶]]|date=1993年(平成5年)|title=ニコライ2世 帝政ロシア崩壊の真実|publisher=[[日本経済新聞社]]|isbn=978-4532161118|ref=リーベン(1993)}}
 
===関連文献===
 
* [[エレーヌ・カレール=ダンコース]] 『甦るニコライ二世 中断されたロシア近代化への道』 (谷口侑訳、[[藤原書店]]、2001年)
 
* [[ロバート・マッシー]] 『ニコライ二世とアレクサンドラ皇后 ロシア最後の皇帝一家の悲劇』(佐藤俊二訳、[[時事通信社]]、1997年)
 
** 『ロマノフ王家の終焉 ロシア最後の皇帝ニコライ二世と[[アナスタシア・ニコラエヴナ|アナスタシア皇女]]をめぐる物語』 (今泉菊雄訳、[[鳥影社]]、1999年)
 
* [[ドミニク・リーベン]] 『ニコライ2世 [[帝政ロシア]]崩壊の真実』 (小泉摩耶訳、[[日本経済新聞出版社]] 1993年)
 
* 植田樹 『最後のロシア皇帝』 ([[ちくま新書]]、1998年)
 
* 保田孝一 『最後の[[ロシア皇帝]] ニコライ二世の日記』(増補版:[[朝日選書]]、1990年、[[講談社学術文庫]] 2009年10月)
 
** 保田孝一 『ニコライ二世と改革の挫折 革命前夜ロシアの社会史』 ([[木鐸社]]、1985年)
 
 
 
* アンソニー・サマーズ/トム・マンゴールド 『[[ロマノフ家]]の最期』(高橋正訳、中公文庫、1987年) ※著者は[[BBC]]のジャーナリスト
 
* パーヴェル・パガヌッツィ 『ロシア皇帝一家暗殺の真相』(進藤義彦訳、[[展転社]]、1988年)
 
 
 
* マーク・スタインバーグ/ヴラジーミル・フルスタリョーフ編 『[[ロマノフ朝|ロマーノフ王朝]]滅亡』(川上洸訳 [[大月書店]]、1997年)※当時の関係者の手紙・日記を収めた資料集の大著
 
 
 
* マーリヤ大公女 『最後のロシア大公女 革命下のロマノフ王家』 (平岡緑訳、[[中公文庫]]、2002年改版)
 
:※著者は[[アレクサンドル2世]]の孫でセーデルマンランド公爵夫人[[マリア・パヴロヴナ (セーデルマンランド公爵夫人)|マリア・パヴロヴナ]]、アメリカに亡命。
 
 
 
* [[土肥恒之]] 『よみがえるロマノフ家』([[講談社]]選書メチエ 2005年)
 
 
 
== 関連作品 ==
 
=== 映画 ===
 
* 『[[ニコライとアレクサンドラ]]』([[1971年]])監督:[[フランクリン・J・シャフナー]]
 
* [http://russiaeigasha.fc2web.com/sp/stpt/hist/04/03.htm 『ロマノフ王朝の最期』]([[1981年]])監督:[[エレム・クリモフ]]([[:en:Elem Klimov|en]])
 
=== 小説 ===
 
* [[夢野久作]]『[[死後の恋]]』
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[ロシア美術館]]
 
* [[エルミタージュ美術館]] 
 
* [[ニコラシカ]]([[カクテル]])
 
* [[スヴェン・ヘディン]]
 
* [[グランドマスター]] - 元はニコライ2世が賞金を提供したチェス大会で、決勝に進出した人に与えた称号
 
* [[三井道郎]] - [[大津事件]]の時の通訳
 
  
 
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ニコライ2世русский: Николай II, ラテン文字転写: Nikolai II、ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ロマノフ、русский: Николай Александрович Романов, ラテン文字転写: Nikolai Aleksandrovich Romanov1868年5月18日ユリウス暦5月6日) - 1918年7月17日(ユリウス暦7月4日))

帝政ロシア最後の皇帝 (在位 1894~1917) 。アレクサンドル3世の長男。 K.P.ポベドノスツェフの訓育を受け,皇帝権不可侵の思想を吹込まれた。 1894年ヘッセン=ダルムシュタット公女アリス (ロシア名アレクサンドラ・フョードロブナ) を妻に迎えた。皇太子アレクセイが血友病であったことが,怪僧 G.E.ラスプーチンの皇室と国政への干渉を許した。即位当初はロシア資本主義の確立期にあたり,経済的繁栄を誇ったが,20世紀に入る頃から不況が進み,諸列強との帝国主義的対立も顕著となった。そうしたなかで労働運動は激化,農村にも,ロシア国内の被抑圧民族にも動揺は拡大。ツァーリ政府はそれらを軍隊の力で弾圧する一方,対外進出を行うことによって,ブルジョアジーの経済的野心を満たし,国民の不満をかわそうとした。ニコライはすでに 91年,インド,中国,日本などを歴訪してアジアへの関心を示していたが (このとき日本で大津事件に遭遇) ,91年から始ったシベリア鉄道の敷設を続ける一方,95年の対日三国干渉,清国からの東清鉄道敷設権の獲得 (96) ,朝鮮への勢力拡大などによって極東へ進出,ついに日露戦争 (04~05) を引起した。他方,極東での相次ぐ敗戦,戦費の増大による大衆生活の圧迫は国内でも「血の日曜日」事件に始る 1905年の革命を招き,ニコライは S.Y.ウィッテの起草になる「十月宣言」を出してブルジョアジーに譲歩を余儀なくされ,また P.A.ストルイピンの農業改革を行なって,富裕な農民を創出,革命の防波堤にしようとした。日露戦争敗北後はバルカン半島への進出を企て,第1次世界大戦に突入。 15年からは軍部の反対を押切ってみずから戦線を指揮したが,戦況を好転させることはできなかった。 17年3月8日 (旧暦2月 23日) ,ペトログラードにおける暴動 (二月革命) ののち,同年3月 15日 (旧暦2日) 退位。 300年にわたるロマノフ朝支配 (ツァーリズム) は崩壊した。家族とともに逮捕され,トボリスクからエカテリンブルグへ流され,ウラル地方ソビエトの決定により銃殺された。






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