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| 画像説明  = 『[[玉座のナポレオン|玉座のナポレオン1世]]』<br />([[ドミニク・アングル|アングル]]画、[[1806年]]、[[オテル・デ・ザンヴァリッド|軍事博物館]]蔵)
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| 宗教      = [[カトリック教会|ローマ・カトリック]]
 
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| サイン    = Napolean Bonaparte Signature.svg
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[[ファイル:David_-_Napoleon_crossing_the_Alps_-_Malmaison1.jpg|270px|thumb|[[ジャック・ルイ・ダヴィッド|ダヴィッド]]『[[ベルナール峠からアルプスを越えるボナパルト]]』]]
 
[[ファイル:Grandes Armes Impériales (1804-1815)2.svg|thumb|220px|ナポレオン一世皇家の紋章]]
 
'''ナポレオン・ボナパルト'''({{lang-fr|Napoléon Bonaparte}}、[[1769年]][[8月15日]] - [[1821年]][[5月5日]])または、省略して、'''ナポレオン'''は、革命期の[[フランス]]の[[軍人]]・[[政治家]]である。'''ナポレオン1世'''({{lang-fr|Napoléon I<sup>er</sup>}}、在位:[[1804年]] - [[1814年]]、[[1815年]])として[[フランス第一帝政]]の[[フランス皇帝|皇帝]]にも即位した。
 
  
[[フランス革命]]後の混乱を収拾して軍事独裁政権を樹立した。[[大陸軍 (フランス)|大陸軍(グランダルメ)]]と名付けた巨大な軍隊を築き上げて[[ナポレオン戦争]]を引き起こし、幾多の勝利と婚姻政策によって、イギリス、ロシア、オスマン帝国の領土を除いたヨーロッパ大陸の大半を勢力下に置いたが、最終的には敗北して失脚した。
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'''ナポレオン・ボナパルト'''({{lang-fr|Napoléon Bonaparte}}、[[1769年]][[8月15日]] - [[1821年]][[5月5日]]
  
== 生涯 ==
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フランス[[第一帝政]]の皇帝(在位 1804~14,1815)。生粋のコルシカ人貴族の子。
=== 生い立ち ===
 
[[ファイル:CarloB.jpg|thumb|160px|left|父・カルロ]]
 
[[1769年]]、[[コルシカ島]]の[[アジャクシオ]]において、父[[シャルル・マリ・ボナパルト|カルロ・マリア・ブオナパルテ]]<ref group="注釈">フランス名では[[シャルル・マリ・ボナパルト]]。しばしば貴族名の定冠詞をつけたディ・ブオナパルテまたはド・ボナパルトとも名乗ったり、署名したりしている。</ref>と母[[マリア・レティツィア・ボナパルト|マリア・レティツィア・ラモリーノ]]の間に、12人の子供(4人は夭折)のうち4番目として生まれた。出生時の[[洗礼名]]は'''ナブリオーネ・ブオナパルテ'''<ref group="注釈">[[コルシカ語]]: 「Nabulione Buonaparte」。[[コルシカ語]]は[[イタリア語]]系の方言のなかでもかなり特殊で、「p」表記がbの発音に、「o」表記がuの発音に、なるなど独特の発音になるために表音表記ではこうなる。当時、コルシカ島では[[文語]]は[[ラテン語]]がまだ使われており、実際の表記は表音とさらに異なって書くときは「Nabulion」とラテン語風となり、家族の一般的呼び名は「ナブリオ」になる。幼くしてフランス本土に渡ってフランス語を勉強するようになってからフランス語で書くイタリア語人名表記を使うように指導された。</ref><ref group="注釈">「ナポレオン(ナブリオーネ)」との名が付けられた3番目の子供で、同名の夭折した長兄が一人いる。一つ上の次兄も[[ジョゼフ・ボナパルト|ジョゼフ・ナポレオン]](ジュゼッペ・ナブリオーネ)。またこのナポレオンという名前は伯父からとったもの。</ref>。島を追われてフランスで一生を暮らすと決めて出世しだした[[1794年]]ごろから、ナポレオーネ・ディ・ブオナパルテというイタリア人名の綴りから、フランス風の'''ナポレオン・ボナパルト'''へ改名し、署名も改めた。
 
  
ブオナパルテ家の先祖は中部[[イタリア]][[トスカーナ州]]に起源を持つ、古い[[パトリキ|血統貴族]]であった。それが[[ジェノヴァ共和国]][[傭兵]]隊長としてコルシカ島に渡り[[16世紀]]頃に土着した。[[判事]]であった父カルロは、[[1729年]]に始まっていた[[コルシカ独立戦争|コルシカ独立闘争]]の指導者[[パスカル・パオリ]]の[[副官]]を務めていたが、ナポレオンが生まれる直前にフランス側に転向し、戦後に寝返りへの見返りとして報奨を受け、実質上フランス貴族と同等の権利を得た。旧ジェノヴァ共和国領であるコルシカ島には貴族制度がなかったが、新貴族としての身分を晴れて認められたことで特権を得て、フランス本国への足がかりを得た父カルロは、やがてコルシカ総督とも懇意になり、その援助でナポレオンと兄[[ジョゼフ・ボナパルト|ジュゼッペ]](ジョゼフ)を教育を受けさせるためにフランス本国へと送った。
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フランスで教育を受け,1785年パリ士官学校を卒業。フランス革命初期にはジャコバン・クラブ([[ジャコバン派]])に入会。コルシカ独立運動に参加したが指導者パオリと衝突し,1793年一家をあげてフランスに亡命,同 1793年ニースの連隊に復帰した。この頃からナポレオン・ボナパルトと呼ばれるようになった。同 1793年8月[[国民公会]]軍の砲兵隊の指揮官に任命され,12月反革命派の手中にあったツーロン港の砲撃を指揮して奪回に成功し,准将に昇進。1796年3月イタリア遠征軍司令官となる。同 1796年3月9日[[ジョゼフィーヌ]]と結婚。[[カンポフォルミオ条約]]によってイタリアで 5年間続いた戦争は収拾され,ナポレオンの人気は頂点に達した。1798年7月エジプトに遠征,1799年11月[[エマニュエル=ジョゼフ・シエイエス]]と結んで[[ブリュメール十八日]]のクーデターを断行し[[執政政府]]を樹立,軍事独裁を始めた。1804年5月に帝国成立が宣言されると皇帝に即位。以後産業振興,学制改革,行政,司法の再編成などを行なった。
  
ナポレオンは初め[[修道院]]付属学校に短期間だけ入っていたが、[[1779年]]に貴族の子弟が学ぶ[[:fr:Brienne-le-Château|ブリエンヌ]][[陸軍幼年学校]][[:fr:École de Brienne|fr]])へ国費で入学し、[[数学]]で抜群の成績をおさめたという。[[1784年]]に[[パリ]]の[[陸軍士官学校]]([[:fr:École militaire (France)|fr]])に入学。士官学校には[[騎兵]]科、[[歩兵]]科、[[砲兵]]科の3つがあったが、彼が専門として選んだのは、伝統もあり花形で人気のあった騎兵科ではなく、砲兵科であった<ref group="注釈">騎兵科は主に裕福な名門貴族の登竜門であり、彼らと同じ土俵に立てば出世の見込みがなかったため。他にも後に友人となるマルモンなども中産階級出身であり、身分や財産よりも学業や実務能力が重んじられる道を選んでいる。他の選択肢としては、数学が得意だったことから、天文学や測量などの専門知識が求められる海軍も考えていた。</ref>。[[大砲]]を用いた戦術は、後の彼の命運を大きく左右することになる。卒業試験の成績は58人中42位であったものの、通常の在籍期間が4年前後であるところを、わずか11か月で必要な全課程を修了したことを考えれば、むしろ非常に優秀な成績と言える。実際、この11か月での卒業は開校以来の最短記録であった。
+
1807~10年頃相次ぐ対外戦争の勝利によってその威信と権力は頂点に達したが,1812年の[[ロシア遠征]]の失敗によって諸国民戦争が勃発。1813年[[ライプチヒの戦い]]の敗北で没落は決定的となり,1814年5月[[エルバ島]]に流された。島を脱出し 1815年3月上陸,再びヨーロッパ連合軍と対抗,ベルギーに進撃し,6月リニーでプロシア軍を撃破したが,ワーテルローでイギリス軍と戦って敗れ([[ワーテルローの会戦]][[百日天下]]),[[セントヘレナ島]]に流されて同地で没した。
  
この時期のエピソードとして、クラスで[[雪合戦]]をした際にナポレオンの見事な指揮と[[陣地]]構築で快勝したという話が有名で、このころから[[指揮官]]としての才能があったとされるが、実話ではなく偉人伝を彩る後の作り話である。幼年時のナポレオンは、節約をかねて読書に明け暮れ、特に[[プルタルコス]]の『[[対比列伝|英雄伝]]』や[[ジャン=ジャック・ルソー|ルソー]]の著作<ref group="注釈">これはルソーが「社会契約論」のなかでコルシカ島を革命が起こり憲法が成立する余地があるとした。若い頃のナポレオンはコルシカ民族主義者であった。</ref>などを精読し、無口で友達の少ない小柄な少年であった。学校ではコルシカ訛り<ref group="注釈">ナポレオンのフランス語は青年期まで、イタリア語の一方言であるコルシカ訛りがかなりはっきりとあった。前述のようにコルシカ語ではいくつかのアルファベットの表記が音と異なるため、特に固有名詞で言い間違いが多かったが、皇帝になってからは特にそれを誰も注意しなかった。</ref>を馬鹿にされ、ナポレオーネに近い音でラパイヨネ ({{lang|fr|la paille au nez}}, 藁鼻) とあだ名された。裕福な貴族子弟と折り合いが悪かったためである。その頃の数少ない友人の一人が、後に秘書官を務める[[ルイ・アントワーヌ・フォヴレ・ド・ブーリエンヌ]]であった。一方で、癇癪持ちでもあり、喧嘩っ早く短気な一面もあった。また十代の後半は小説家にも憧れ、その頃から断続的に文学活動もしていた。
 
 
=== 軍人ナポレオン ===
 
[[1785年]]に[[砲兵]][[士官]]として[[任官]]。[[1789年]]、[[フランス革命]]が勃発し、フランス国内の情勢は不穏なものとなっていくが、コルシカ民族主義者であった当時のナポレオンは革命にはほぼ無関心だった。ナポレオンはしばしばコルシカ島へと長期帰郷している。
 
[[1792年]]、故郷アジャクシオの国民衛兵隊[[中佐]]に選ばれるが、ブオナパルテ家が親仏派であったことから、英国に逃れているコルシカ島独立指導者パスカル・パオリの腹心でナポレオンと遠い縁戚関係にもある[[ポッツォ・ディ・ボルゴ]]ら親英派によってブオナパルテ家弾劾決議を下され、軍人ナポレオンと家族はコルシカ島から追放され、船で脱出するという逃避行によって[[マルセイユ]]に移住した。マルセイユでは、ブオナパルテ家は裕福な商家であるクラリー家と親交を深め、ナポレオンの兄ジョゼフは、クラリー家の娘[[ジュリー・クラリー|ジュリー]]と結婚した。ナポレオンもクラリー家の末娘[[デジレ・クラリー|デジレ]]と恋仲となり、婚約する。この頃ナポレオンは、己の政治信条を語る小冊子『ボーケールの晩餐』を著して、当時のフランス政府(革命政府)の中心にいた有力者[[マクシミリアン・ロベスピエール|ロベスピエール]]の弟[[オーギュスタン・ロベスピエール|オーギュスタン]]の知遇を得ていた(この小冊子はのちに、ロベスピエールと[[ジャコバン派]]の独裁を支持するものであるとして、後述するナポレオン逮捕の口実ともなった)。
 
 
[[ファイル:Paul Barras directeur.jpg|thumb|180px|left|ポール・バラス]]
 
 
1793年、原隊に復帰すると、貴族士官の亡命という恩恵を得て、特に何もせずに[[大尉]]に昇進。ナポレオンはフランス軍の中でも主に王党派蜂起の鎮圧を行っていた[[ジャン・フランソワ・カルトー|カルトー将軍]]の南方軍に所属し、[[トゥーロン攻囲戦]]に出征。前任者の負傷を受けて、新たに砲兵司令官となり、[[少佐]]に昇格する。当時の欧州情勢としては、「フランス革命政府」対「反革命側反乱軍(およびそれに介入する[[第一次対仏大同盟]]諸国)」の図式があり、近代的城郭を備えた港湾都市[[トゥーロン]]はフランス地中海艦隊の母港で、イギリス・スペイン艦隊の支援を受けた反革命側が鉄壁の防御を築いていた。革命後の混乱で人材の乏しいフランス側は、元画家のカルトー将軍らの指揮で、要塞都市への無謀ともいえる突撃を繰り返して自ら大損害をこうむっているような状況であった。ここでナポレオンは、まずは港を見下ろす二つの高地を奪取して、次にそこから大砲で敵艦隊を狙い撃ちにする、という作戦を進言する。次の次の司令官であった[[ジャック・フランソワ・デュゴミエ|デュゴミエ将軍]]がこれを採用し、豪雨をついて作戦は決行され成功、外国艦隊を追い払い反革命軍を降伏に追い込んだ。ナポレオン自身は足を負傷したが、この功績により、[[国民公会]]の議員の推薦を受け、当時24歳の彼は一挙に旅団陸将([[少将]]相当)<ref group="注釈">この頃はまだ少将の扱いだった。(cf. 「[[ルイ=ニコラ・ダヴー]]」)</ref>に昇進し、一躍フランス軍を代表する若き英雄へと祭り上げられた。
 
 
[[1794年]]、イタリア方面軍の砲兵司令官となっていたが、革命政府内でロベスピエールが[[テルミドールのクーデター]]で失脚して処刑されたことで、ナポレオンはロベスピエールの弟[[オーギュスタン・ロベスピエール|オーギュスタン]]と繋がりがあったこと、およびイタリア戦線での方針対立などにより逮捕、収監された。短期拘留であったものの軍務から外され、降格処分となった。その後も転属を拒否するなどして、公安委員のオーブリと対立したために[[予備役]]とされてしまった。
 
 
しかし[[1795年]]、[[パリ]]において[[王党派]]の蜂起[[ヴァンデミエールの反乱]]が起こった。この時に国民公会軍司令官となった[[ポール・バラス]]は、トゥーロン攻囲戦のときの[[派遣議員]]であったため、知り合いのナポレオンを副官として登用。実際の鎮圧作戦をこの副官となったナポレオンにほぼ一任した結果、首都の市街地で一般市民に対して大砲(しかも広範囲に被害が及ぶ、[[ぶどう弾]])を撃つという大胆な戦法をとって鎮圧に成功した。これによってナポレオンは師団陸将([[中将]]相当)<ref group="注釈">フランス革命軍では将軍のランクを廃止したため、少将、中将、大将といった階級は存在しない。</ref>に昇進。国内軍副司令官、ついで国内軍司令官<ref group="注釈">国内軍は治安維持を任務とする方面軍と同格の軍組織であり、国軍の総司令官という意味ではないので注意されたい。</ref>の役職を手に入れ、「ヴァンデミエール将軍」の異名をとった。
 
 
=== 若き英雄 ===
 
[[ファイル:Bonabarte Premier consul.jpg|left|thumb|200px|近衛猟騎兵大佐の制服を好んで着用した]]
 
[[1796年]]には、デジレ・クラリーとの婚約を反故にして、貴族の未亡人でバラスの愛人でもあった[[ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ]]と結婚。同年、[[総裁政府]]の総裁となっていたバラスによってナポレオンはイタリア方面軍の司令官に抜擢された。フランス革命へのオーストリアの干渉に端を発した[[フランス革命戦争]]が欧州各国を巻き込んでいくなか、総裁政府はドイツ側の二方面とイタリア側の一方面をもってオーストリアを包囲攻略する作戦を企図しており、ナポレオンはこの内のイタリア側からの攻撃を任されたのである。
 
 
ドイツ側からの部隊がオーストリア軍の抵抗に苦戦したのに対して、ナポレオン軍は連戦連勝<ref group="注釈">当時の北イタリアはオーストリアの支配を受けており、市民革命を成し遂げた新しい秩序の国から来たナポレオンの軍隊は、市民から解放軍として大きな歓迎を受けたといわれる。</ref>。
 
[[1797年]]4月には[[ウィーン]]へと迫り、同年4月にはナポレオンは総裁政府に断ることなく講和交渉に入った。そして10月にはオーストリアと[[カンポ・フォルミオ条約]]を結んだ。これによって[[第一次対仏大同盟]]は崩壊、フランスはイタリア北部に広大な領土を獲得して、いくつもの衛星国([[姉妹共和国]])を建設し、膨大な戦利品を得た。この[[イタリア戦役 (1796-1797年)|イタリア遠征]]をフランス革命戦争から[[ナポレオン戦争]]への転換点とみる見方もある。フランスへの帰国途中、ナポレオンは[[ラシュタット会議]]に儀礼的に参加。12月、パリへと帰還したフランスの英雄ナポレオンは熱狂的な歓迎をもって迎えられた。
 
 
[[ファイル:Francois-Louis-Joseph Watteau 001.jpg|thumb|230px|『ピラミッドの戦い』を描いた絵画]]
 
オーストリアに対する陸での戦勝とは裏腹に、対仏大同盟の雄であり強力な海軍を有し[[制海権]]を握っている[[イギリス]]に対しては、フランスは決定的な打撃を与えられなかった。そこでナポレオンは、イギリスにとって最も重要な植民地である[[インド]]との連携を絶つことを企図し、英印交易の中継地点であり[[オスマン帝国]]の支配下にあったエジプトを押さえること([[エジプト・シリア戦役|エジプト遠征]])を総裁政府に進言し、これを認められた<ref group="注釈">この遠征に関しては、イギリスの海軍の力をそぐための有効策であったかどうか疑問視する見方もあり、対イギリス作戦のためというのは口実でこれまでの戦勝に自信を深めていたナポレオンが自らを古代ギリシアの英雄[[アレクサンドロス3世|アレクサンドロス大王]]になぞらえたかったために言い出したものであり、イタリア戦線で独断でオーストリアとの講和交渉をはじめたりしたナポレオンを総裁政府も疎んじるようになっていたため厄介払いとしてそうした荒唐無稽な遠征を政府も容認したのだとみる見方もある。ナポレオンは、アレクサンドロス大王がしたのと同じように、[[考古学]]者を165人も同行させていた。このときに[[ロゼッタ・ストーン]]が発見されたことはよく知られている。</ref>。
 
 
[[1798年]]7月、ナポレオン軍は[[エジプト]]に上陸し、[[ピラミッドの戦い]]で勝利して[[カイロ]]に入城した。しかしその直後、[[アブキール湾の海戦]]で[[ホレーショ・ネルソン (初代ネルソン子爵)|ネルソン]]率いるイギリス艦隊にフランス艦隊が大敗し、ナポレオン軍はエジプトに孤立してしまった。12月にはイギリスの呼びかけにより再び対仏大同盟が結成され([[第二次対仏大同盟]])、フランス本国も危機に陥った。[[1799年]]にはオーストリアにイタリアを奪還され、フランスの民衆からは総裁政府を糾弾する声が高まっていた。これを知ったナポレオンは、自軍はエジプトに残したまま側近のみをつれ単身フランス本土へ舞い戻った<ref group="注釈">補給路も断たれペストなどの伝染病の中に残されたナポレオン軍の兵はこのあと2年近く抗戦したのちにオスマン・イギリス軍に降伏することとなる。</ref>。
 
 
フランスの民衆はナポレオンの到着を、歓喜をもって迎えた。11月、ナポレオンは[[ブルジョワジー]]の意向をうけた[[エマニュエル=ジョゼフ・シエイエス]]らと[[ブリュメールのクーデター]]を起こし、[[統領政府]]を樹立し自ら第一統領(第一執政)となり、実質的に独裁権を握った。もしこの[[クーデター]]が失敗すれば、ナポレオンはエジプトからの敵前逃亡罪及び国家反逆罪により処刑される可能性もあった。
 
 
=== 統領ナポレオン ===
 
[[ファイル:Gros - First Consul Bonaparte (Detail).png|thumb|200px|[[アントワーヌ=ジャン・グロ]]『第一統領ボナパルト』]]
 
 
[[統領政府]]の第一統領(第一執政)となり政権の座に就いたナポレオンであるが、内外に問題は山積していた。まずは[[第二次対仏大同盟]]に包囲されたフランスの窮状を打破することが急務であった。
 
 
まずイタリアの再獲得を目指し、当時イタリアへの進入路は、直接フランスから[[トリノ]]に向かう峠道、地中海沿い[[リグーリア州]]の2つの有名な峠道、[[ジェノヴァ]]方面の4つが主なものであったが、これらはすでに1794年、1795年、1796年の戦役での侵攻作戦で使用していたため、ナポレオンは[[アルプス山脈]]を[[グラン・サン・ベルナール峠]]で越えて北イタリアに入る奇襲策をとった。これによって主導権を奪って優位に戦争を進めたが、緒戦の大勝の後、メラス将軍率いるオーストリア軍を一時見失って兵力を分割したことから、不意に大軍と遭遇して苦戦を強いられる。しかし別働隊が戻って来て、[[1800年]][[6月14日]]の[[マレンゴの戦い]]においてオーストリア軍に劇的に勝利した。別働隊の指揮官でありナポレオンの友人であった[[ルイ・シャルル・アントワーヌ・ドゼー|ドゼー]]はこの戦闘で亡くなった。12月には、ドイツ方面の[[ホーエンリンデンの戦い]]で[[ジャン・ヴィクトル・マリー・モロー|モロー]]将軍の率いるフランス軍がオーストリア軍に大勝した。翌年2月にオーストリアは和約に応じて([[リュネヴィルの和約]])、[[ライン川]]の左岸をフランスに割譲し、北イタリアなどをフランスの[[保護国]]とした。この和約をもって[[第二次対仏大同盟]]は崩壊し、フランスとなおも交戦するのはイギリスのみとなったが、イギリス国内の対仏強硬派の失脚や宗教・労働運動の問題、そしてナポレオン率いるフランスとしても国内統治の安定に力を注ぐ必要を感じていたことなどにより、[[1802年]]3月には[[アミアンの和約]]で講和が成立した。
 
 
ナポレオンは[[内政]]面でも諸改革を行った。全国的な税制度、行政制度の整備を進めると同時に、革命期に壊滅的な打撃をうけた工業生産力の回復をはじめ産業全般の振興に力を注いだ。1800年には[[フランス銀行]]を設立し通貨と経済の安定を図った<ref group="注釈">1803年には、1フラン=10デシム=100サンチームという新しい通貨制度を制定した。1フランは純銀で約4.5グラムであった(この、いわゆるジェルミナール・フランは以後第1次世界大戦後まで採用されていた)。</ref>。
 
1802年には有名な[[レジオンドヌール勲章]]を創設。さらには国内の法整備にも取り組み、[[1804年]]には「フランス民法典」、いわゆる[[ナポレオン法典]]を公布した。これは各地に残っていた種々の慣習法、封建法を統一した初の本格的な民法典で、「万人の法の前の平等」「国家の世俗性」「信教の自由」「経済活動の自由」等の近代的な価値観を取り入れた画期的なものであった<ref group="注釈">1808年には刑事訴訟法、1810年には刑法を定めるなど整備を逐次おこない、1810年ごろまでには法体系を確立した。</ref>。
 
教育改革にも尽力し「公共教育法」を制定している<ref group="注釈">全国を数個の大学管区に分割し、大学管区の中に、県ごとに中等学校、師範学校を置き、さらに小学校を多数設置した。そして教員不足を補うために、政治的妥協を図って聖職者による教育活動を許した。</ref>。
 
また、交通網の整備を精力的に推進した<ref group="注釈">道路網、運河、港湾などの改修は、商工業の発展だけでなく軍事活動にも関わるものであり、ベルギー・オランダ、イタリア方面にまでひろがった広大な領土を支配するため全国に派遣された100人近い知事の最大の業務のひとつは土木建設だった。知事たちの重要な業務には警察業務もあり、迅速な情報伝達のために「[[腕木通信|テレグラフ]]」網がパリを中心として東西、南北に敷設された。手動で腕木を動かして信号を送るシグナルが数キロおきに立てられ、暗号文が伝達された。</ref>。
 
 
フランス革命以後敵対関係にあった[[カトリック教会|ローマ教会]]との和解も目指したナポレオンは、[[1801年]]に[[教皇]][[ピウス7世 (ローマ教皇)|ピウス7世]]との間で[[政教条約]]を結び、国内の宗教対立を緩和した。また革命で亡命した貴族たちの帰国を許し、[[王党派]]や[[ジャコバン派]]といった前歴を問わず軍や行政に登用し、政治的な和解を推進した。その一方で、体制を覆そうとする者には容赦せずに弾圧した。
 
 
ナポレオンが統領政府の第一統領となった時から彼を狙った暗殺未遂事件は激化し、1800年12月には王党派による爆弾テロも起きていた。そして、それらの事件の果てに起こった[[1804年]]3月のフランス王族[[アンギャン公ルイ・アントワーヌ]]の処刑は、王を戴く欧州諸国の反ナポレオンの感情を呼び覚ますのに十分であった。ナポレオン陣営は相次ぐ暗殺未遂への対抗から独裁色を強め、[[帝制]]への道を突き進んで行くことになる。
 
 
さらにフランスの産業が復興し市場となる衛星国や保護国への支配と整備が進められる一方で、かねてより争いのあったイギリスもまた海外への市場の覇権争いから引くわけにはいかなかった。すでに1803年4月には[[マルタ島]]の管理権をめぐってフランスとイギリスの関係は悪化しており、5月のロシア皇帝[[アレクサンドル1世]]による調停も失敗し、前年に締結したばかりのアミアンの和約はイギリスによって破棄され、英仏両国は講和からわずか1年で再び戦争状態に戻ろうとしていたのである。こうした国内・国外の情勢の中、ナポレオンは自らへの権力の集中によって事態をおしすすめることを選び、1802年[[8月2日]]には[[1791年憲法]]を改定して自らを終身統領(終身執政)と規定した。
 
 
=== ハイチ革命 ===
 
植民地の[[サン=ドマング]]では、ジャコバン派による[[奴隷制廃止]]の後にフランス側に戻った[[黒人]]の将軍[[トゥーサン・ルーヴェルチュール]]が[[イギリス軍]]や[[スペイン軍]]と戦ってサン=ドマングを回復し、さらにはスペイン領[[サントドミンゴ]]に侵攻してスペイン領の[[奴隷]]を解放した後に全[[イスパニョーラ島]]を統一し、1801年7月7日に自身を終身総督とする自治憲法を制定して支配権を確立していた。ナポレオンはサン=ドマングを再征服するために、義弟の[[シャルル・ヴィクトール・エマニュエル・ルクレール|ルクレール]]将軍をサン=ドマング植民地に送った。ルクレール将軍は熱病、ゲリラ戦に苦戦しながらもだまし討ちでトゥーサンを捕え、フランス本国に送り、トゥーサンは獄死した。さらに1803年4月[[アメリカ合衆国]]に[[フランス領ルイジアナ|ルイジアナ植民地]]を売却した([[ルイジアナ買収]])。しかし、奴隷制を復活したことにサン=ドマングの黒人は強く怒り、[[1803年]][[11月18日]]の[[ヴェルティエールの戦い]]でフランス軍は大敗を喫し、1804年1月1日に[[ジャン=ジャック・デサリーヌ]]が指導するフランス領サン=ドマングは[[ハイチ共和国]]として独立した([[ハイチ革命]])。この敗北は、ナポレオンのフランスにとって最初の大規模な敗北となった。
 
 
=== 皇帝ナポレオン ===
 
[[ファイル:Jacques-Louis David, The Coronation of Napoleon edit.jpg|right|thumb|300px|ダヴィッド『[[ナポレオン一世の戴冠式と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠]]』。皇后となるジョゼフィーヌにナポレオンが自ら冠を授けている。]]
 
 
1804年5月、国会の議決と国民投票を経て[[世襲]]でナポレオンの子孫にその位を継がせるという皇帝の地位についた。皇帝の地位に就くにあたって[[国民投票]]を行ったことは、フランス革命で育まれつつあった民主主義を形式的にしても守ろうとしたものだったとする見方もある。[[1804年]][[12月2日]]には「[[フランス皇帝|フランス人民の皇帝]]」としての戴冠式が行われた([[フランス第一帝政]])。英雄が独裁的統治者となったこの出来事は多方面にさまざまな衝撃を与えた。この戴冠式には、教皇ピウス7世も招かれていた。それまでオスマン帝国やロシアをのぞく欧州の皇帝は教皇から王冠を戴くのが儀礼として一般的な形であったが、ナポレオンは教皇の目の前で、自ら王冠をかぶった。政治の支配のもとに教会をおくという意志のあらわれであった<ref group="注釈">1808年にはナポレオン軍は再び[[教皇領]]に侵入し、この時には教皇領をフランス領に接収し、ティブル県およびトラジメーヌ県をおいた。ここに至ってピウス7世はナポレオンをローマ教会から破門とする。ナポレオンはこれに対してピウス7世を北イタリアのサヴォナに監禁した。教皇がローマへ戻れるのはナポレオン退位後、1814年になってからである。</ref>。
 
 
ナポレオンは、閣僚や大臣に多くの政治家・官僚・学者などを登用し、自身が軍人であるほかには、国防大臣のみに軍人を用いた。
 
 
=== 絶頂期 ===
 
[[ファイル:Napoleon in His Study.jpg|left|thumb|200px|皇帝時代のナポレオン。[[近衛兵|近衛]][[連隊|連隊長]]の制服を着用している(画:ダヴィッド)]]
 
[[1805年]]、ナポレオンはイギリス上陸を目指して[[ドーバー海峡]]に面した[[ブローニュ=シュル=メール|ブローニュ]]に大軍を集結させた。イギリスはこれに対してオーストリア・[[ロシア帝国|ロシア]]などを引き込んで[[第三次対仏大同盟]]を結成。[[プロイセン王国|プロイセン]]は同盟に対して中立的な立場を取ったもののイギリス・オーストリアからの外交の手は常に伸びており、ナポレオンはこれを中立のままにしておくためにイギリスから奪った[[ハノーファー]]をプロイセンに譲渡するとの約束をした。
 
 
1805年10月、ネルソン率いるイギリス海軍の前に[[トラファルガーの海戦]]にて完敗。イギリス上陸作戦は失敗に終わる。もっともナポレオンはこの敗戦の報を握り潰し、この敗戦の重要性は、英仏ともに戦後になってようやく理解されることになったという。
 
 
海ではイギリスに敗れたフランス軍だが、陸上では10月の[[ウルム戦役]]でオーストリア軍を破り、ウィーンを占領した。オーストリアの[[フランツ2世|フランツ1世]]の軍は北に逃れ、その救援に来たロシアのアレクサンドル1世の軍と合流。フランス軍とオーストリア・ロシア軍は、奇しくもナポレオン1世の即位一周年の[[12月2日]]にアウステルリッツ郊外のプラツェン高地で激突。この[[アウステルリッツの戦い]]は三人の皇帝が一つの戦場に会したことから'''三帝会戦'''とも呼ばれる。ここはナポレオンの巧妙な作戦で完勝し、12月にフランスとオーストリアの間で[[プレスブルク条約]]が結ばれ、フランスへの多額の[[戦争賠償|賠償金]]支払いと領土の割譲等が取り決められ、[[第三次対仏大同盟]]は崩壊した。イギリス首相[[ウィリアム・ピット (小ピット)|ウィリアム・ピット]](小ピット)は、この敗戦に衝撃を受け、翌年に没した。ちなみに[[エトワール凱旋門|凱旋門]]はアウステルリッツの戦いでの勝利を祝してナポレオン1世が[[1806年]]に建築を命じたものである。
 
 
戦場から逃れたアレクサンドル1世はイギリス・プロイセンと手を組み、1806年10月にはプロイセンが中心となって[[第四次対仏大同盟]]を結成した。これに対しナポレオンは、10月の[[イエナの戦い]]・[[アウエルシュタットの戦い]]でプロイセン軍に大勝して[[ベルリン]]を占領し、プロイセン国王[[フリードリヒ・ヴィルヘルム3世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム3世]]は[[東プロイセン]]へと逃亡する。こうしてロシア・イギリス・スウェーデン・オスマン帝国以外のヨーロッパ中央をほぼ制圧したナポレオンは兄ジョゼフを[[ナポリ王国|ナポリ]]王、弟[[ルイ・ボナパルト|ルイ]]をオランダ王に就け、西南ドイツ一帯を[[ライン同盟]]としてこれを[[保護国]]化することで以後のドイツにおいても強い影響力を持った。これらのことにより、神聖ローマ皇帝[[フランツ2世]]は退位してオーストリア皇帝のみとなり、ドイツ国家群連合として長い歴史を誇ってきた[[神聖ローマ帝国]]は名実ともに消滅した(ナポレオン失脚後にほぼ同じ参加国でオーストリアを議長国としてドイツ連邦が結成される)。
 
 
並行して1806年11月にはイギリスへの対抗策として、[[大陸封鎖令]]を出して、ロシア・プロイセンを含めた欧州大陸諸国とイギリスとの貿易を禁止してイギリスを経済的な困窮に落とし、フランスの市場を広げようと目論んだが、これは[[産業革命]]後のイギリスの製品を輸入していた諸国やフランス民衆の不満を買うこととなった。
 
 
ナポレオンは残る強敵ロシアへの足がかりとして、プロイセン王を追ってポーランドでプロイセン・ロシアの連合軍に戦いを挑んだ。ここで若く美しいポーランド貴族の夫人[[マリア・ヴァレフスカ]]と出会った。彼女はナポレオンの愛人となり、後にナポレオンの庶子[[アレクサンドル・ヴァレフスキ]]を出産した。
 
 
[[1807年]]2月[[アイラウの戦い]]と6月の{{仮リンク|ハイルスベルクの戦い|en|Battle of Heilsberg}}は、猛雪や情報漏れにより苦戦し、ナポレオン側が勝ったとはいうものの失った兵は多く実際は痛み分けのような状況であった。しかし同6月の[[フリートラントの戦い]]でナポレオン軍は大勝。[[ティルジット条約]]において、フランスから地理的に遠く善戦してきたロシアとは[[大陸封鎖令]]に参加させるのみで講和したが、プロイセンは49%の領土を削って小国としてしまい、さらに多額の賠償金をフランスに支払わせることとした。そして[[ポーランド]]の地に[[ワルシャワ公国]]と、ドイツの[[ヴェストファーレン]]地方を含む地域に[[ヴェストファーレン王国]]をフランスの傀儡国家として誕生させた。ヴェストファーレン王には弟[[ジェローム・ボナパルト|ジェローム]]を就けた。[[スウェーデン]]に対してもフランス陸軍[[元帥]][[カール14世ヨハン (スウェーデン王)|ベルナドット]]を王位継承者として送り込み、ベルナドットは[[1818年]]に即位してスウェーデン王[[カール14世ヨハン (スウェーデン王)|カール14世ヨハン]]となる(このスウェーデン王家は現在までも続いている)。スウェーデンはナポレオンの影響下にはあるものの、ベルナドット個人はナポレオンに対し好意を持ってはおらず強固たる関係とはいえない状態であった。また[[デンマーク]]はイギリスからの脅威のためにやむなくフランスと同盟関係を結んだ。とはいえデンマークはナポレオン戦争の終結まで同盟関係を破棄することはなかった。
 
 
ナポレオンの勢力はイギリス・スウェーデンを除くヨーロッパ全土を制圧し、イタリア・ドイツ西南部諸国・ポーランドはフランス帝国の属国に、ドイツ系の残る二大国、オーストリア・プロイセンも従属的な同盟国となった。この頃がナポレオンの絶頂期と評される。しかし、軍事費は高くついた。ナポレオンは[[ストラスブール]]の[[ラビ]]である{{仮リンク|ダーヴィド・ジンツハイム|en|Joseph David Sinzheim|de|David Sinzheim|fr|David Sintzheim}}を呼んで{{仮リンク|グラン・サンヘドリン|en|Grand Sanhedrin|fr|Grand Sanhédrin}}を開かせたのである。
 
 
=== 帝国崩壊へ ===
 
[[ファイル:Empire_français_1811.png|thumb|left|230px|1811年時点の最大勢力図{{legend|#BF4901|フランス帝国}}{{legend|#E1A135|衛星国}}{{legend|#E9BD72|同盟国}}]]
 
[[1808年]]5月、ナポレオンは[[スペイン・ブルボン朝]]の内紛に介入し([[半島戦争]])、ナポリ王に就けていた兄ジョゼフを今度は[[ボナパルト朝|スペイン王]]に就けた。ナポレオン軍のスペイン人虐殺を描いた[[フランシスコ・デ・ゴヤ|ゴヤ]]の絵画(『マドリード、1808年5月3日』)は有名である。同5月17日、ナポレオンは1791年9月27日の[[ユダヤ人]]同権化法の例外として時限立法をなし、向こう10年間彼らの享有できる人権を商業・職業選択・住居移転に限ることとした。一方、[[ジョゼフ・ボナパルト治世下のスペイン|ジョゼフ・ボナパルトの治世]]が始まるやいなやマドリード市民が蜂起した。1808年7月、スペイン軍・ゲリラ連合軍の前に[[ピエール・デュポン (軍人)|デュポン]]将軍率いるフランス軍が降伏した。皇帝に即位して以来ヨーロッパ全土を支配下に入れてきたナポレオンの陸上での最初の敗北だった。8月にイギリスが[[英葡永久同盟]]により参戦し、[[半島戦争]]に発展した。イギリスでは[[ネイサン・メイヤー・ロスチャイルド]]が1798年に[[マンチェスター]]で開業しており、半島戦争までに[[アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)|アーサー・ウェルズリー]]と通じていた。
 
 
ナポレオンがスペインで苦戦しているのを見たオーストリアは、[[1809年]]、ナポレオンに対して再び起ち上がり、プロイセンは参加しなかったもののイギリスと組んで[[第五次対仏大同盟]]を結成する。4月の{{仮リンク|エックミュールの戦い|en|Battle of Eckmühl}}ではナポレオンが勝利し、5月には2度目のウィーン進攻を果たすが[[アスペルン・エスリンクの戦い]]でナポレオンはオーストリア軍に敗れ、[[ジャン・ランヌ]][[フランス元帥|元帥]]が戦死した。しかし続く7月の[[ヴァグラムの戦い]]では双方合わせて30万人以上の兵が激突、両軍あわせて5万人にのぼる死傷者をだしながら辛くもナポレオンが勝利した。そのまま[[シェーンブルンの和約]]を結んでオーストリアの領土を削り、第五次対仏大同盟は消滅した。
 
 
この和約の後、[[皇后]]ジョゼフィーヌを後嗣を生めないと言う理由で離別して、[[1810年]]にオーストリア皇女[[マリア・ルイーザ (パルマ女公)|マリ・ルイーズ]]と再婚した。この婚約は当初アレクサンドル1世の妹、ロシア皇女アンナ・パーヴロヴナ大公女が候補に挙がっていたが、ロシア側の反対によって消滅。オーストリア皇女に決定したのは、オーストリア宰相[[クレメンス・メッテルニヒ|メッテルニヒ]]の裁定によるものであった。そして[[1811年]]に王子[[ナポレオン2世]]が誕生すると、ナポレオンはこの乳児を[[ローマ王]]の地位に就けた。
 
 
[[ファイル:Napoleons retreat from moscow.jpg|thumbnail|300px|[[アドルフ・ノーザン]]『ナポレオンのモスクワからの退却』]]
 
大陸封鎖令を出されたことでイギリスの物産を受け取れなくなった欧州諸国は経済的に困窮し、しかも世界の工場と呼ばれたイギリスの代わりを[[重農主義]]のフランスが務めるのは無理があったので、フランス産業も苦境に陥った。1810年にはロシアが[[大陸封鎖令]]を破ってイギリスとの貿易を再開。これに対しナポレオンは封鎖令の継続を求めたが、ロシアはこれを拒否。そして[[1812年]]、ナポレオンは対ロシア開戦を決意、同盟諸国兵を加えた60万の大軍でロシアに侵攻する。これが[[1812年ロシア戦役|ロシア遠征]]であり、ロシア側では[[祖国戦争]]と呼ばれる。
 
 
ロシア軍の司令官は隻眼の老将・[[ミハイル・クトゥーゾフ]]である。老獪な彼は、いまナポレオンと戦えば確実に負けると判断し、広大なロシアの国土を活用し、会戦を避けてひたすら後退し、フランス軍の進路にある物資や食糧はすべて焼き払う[[焦土戦術]]で、辛抱強くフランス軍の疲弊を待つ。
 
 
荒涼としたロシアの原野を進むフランス軍は[[兵站]]に苦しみ、脱落者が続出、モスクワ前面の[[ボロジノの戦い]]では、開戦前から兵力が1/3以下になっていた。モスクワを制圧すればロシアが降伏するか、食糧が手に入ると期待していたナポレオンは、ボロジノでロシア軍を破って遂に[[モスクワ]]へ入城するが、市内に潜伏したロシア兵がその夜各所に放火、モスクワは3日間燃え続けた大火で焼け野原と化した。ロシアの冬を目前にして、物資の獲得と敵の撃破のいずれにも失敗したナポレオンは、この時点で遠征の失敗を悟る。フランス軍が撤退を開始したことを知ったクトゥーゾフは、[[コサック]]騎兵を繰り出してフランス軍を追撃させた。コサックの襲撃と[[冬将軍]]とが重なり、ロシア国境まで生還したフランス兵は全軍の1%以下の、わずか5千人であった。
 
 
敗報の届いたパリではクーデター事件が発生した(未遂に終わり、首謀者の{{仮リンク|クロード=フランソワ・マレ|fr|Claude-François Malet|label=マレ}}将軍は銃殺)。ナポレオンはクーデター発生の報を聞き、仏軍の撤退指揮を後任に任せ、一足先に脱出帰国する。この途上でナポレオンは、[[大陸軍 (フランス)|大陸軍]]の惨状を嘆き、百年前の[[大北方戦争]]を思い巡らせ、「余はスウェーデン王[[カール12世 (スウェーデン王)|カール12世]]のようにはなりたくない」と洩らしたという<ref group="注釈">かつて広大な領土を有していた[[バルト帝国|スウェーデン王国]]は、カール12世の時代にロシアと戦ったものの、やはり焦土作戦と冬将軍に苦しめられた。そして、カール12世自身は[[ポルタヴァの戦い]]に敗れて黒海北岸にある[[オスマン帝国]]領に亡命した。1718年にカール12世が死ぬと、スウェーデンは一気に弱体化した。</ref>。
 
 
この大敗を見た各国は一斉に反ナポレオンの行動を取る。初めに動いたのがプロイセンであり、諸国に呼びかけて[[第六次対仏大同盟]]を結成する。この同盟には元フランス陸軍将軍でありナポレオンの意向によってスウェーデン[[皇太子|王太子]]についていたベルナドットのスウェーデンも7月に参加した。ロシア遠征で数十万の兵を失った後に強制的に[[徴兵]]された、新米で訓練不足のフランス若年兵たちは「マリー・ルイーズ兵」と陰口を叩かれた。[[1813年]]春、それでもナポレオンはプロイセン・ロシア等の同盟軍と、{{仮リンク|リュッツェンの戦い (1813年)|label=リュッツェンの戦い|en|Battle of Lützen (1813)}}・{{仮リンク|バウツェンの戦い|en|Battle of Bautzen}}に勝って休戦に持ち込んだ。オーストリアのメッテルニヒを介した和平交渉が不調に終わった後、オーストリアも参戦し同盟軍はナポレオン本隊との会戦を避けるトラーヒェンブルク・プランを採用、ナポレオンの部下たちを次々と破った。[[ドレスデンの戦い]]でナポレオンはオーストリア・ロシア同盟軍を破ったが敗走する敵を追撃したフランス軍が{{仮リンク|クルムの戦い|en|Battle of Kulm}}で包囲されて降伏、10月の[[ライプツィヒの戦い]]ではナポレオン軍は対仏同盟軍に包囲されて大敗し、フランスへ逃げ帰った。
 
 
[[1814年]]になるとフランスを取り巻く情勢はさらに悪化。フランスの北東には{{仮リンク|シュヴァルツェンベルク大公カール・フィリップ|de|Karl Philipp zu Schwarzenberg|label=シュヴァルツェンベルク}}、[[ゲプハルト・フォン・ブリュッヒャー]]のオーストリア・プロイセン軍25万、北西には[[カール14世ヨハン (スウェーデン王)|ベルナドット]]のスウェーデン軍16万、南方では[[アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)|ウェリントン公]]率いるイギリス軍10万の大軍がフランス国境を固め、大包囲網が完成しつつあった。一方ナポレオンはわずか7万の手勢しかなく絶望的な戦いを強いられた。[[3月31日]]にはフランス帝国の首都パリが陥落する。ナポレオンは[[外交]]によって退位と終戦を目指したが、[[オーギュスト・マルモン|マルモン]]元帥らの裏切りによって無条件に退位させられ([[4月4日]]、将軍連の反乱)、[[4月16日]]の[[フォンテーヌブロー条約 (1814年)|フォンテーヌブロー条約]]の締結の後、地中海[[コルシカ島]]とイタリア本土の間にある[[エルバ島]]の小領主として追放された。この一連の戦争は[[解放戦争 (ドイツ)|解放戦争]]と呼ばれる。
 
その時に1814年、フランツ1世の使者を名乗る人物が突然[[マリー=ルイーズ]]の所にやってきて、半ば強制的に彼女と[[ナポレオン2世]]を連れて行ってしまった。<ref group="注釈">ttp://www.tv-tokyo.co.jp/tohoho/back/041029.htmlテレビ東京『所さん&おすぎの偉大なるトホホ人物事典』第24回ナポレオンと2人の妻 -</ref>
 
 
4月12日、全てに絶望したナポレオンはフォンテーヌブロー宮殿で毒をあおって自殺を図ったとされている。ナポレオンは、[[ローマ王]]だった実子ナポレオン2世を後継者として望んだが、同盟国側に認められず、また元フランス軍人であり次期スウェーデン王に推戴されていたベルナドットもフランス王位を望んだが、フランス側の反発で砕かれ、紆余曲折の末、[[ブルボン朝|ブルボン家]]が後継に選ばれた([[王政復古]])。
 
 
=== 百日天下とその後 ===
 
ナポレオン失脚後、[[ウィーン会議]]が開かれて欧州をどのようにするかが話し合われていたが、「会議は踊る、されど進まず」の言葉が示すように各国の利害が絡んで会議は遅々として進まなかった。さらに、フランス王に即位した[[ルイ18世 (フランス王)|ルイ18世]]の政治が民衆の不満を買っていた。
 
 
[[1815年]]、ナポレオンはエルバ島を脱出し、パリに戻って復位を成し遂げる。ナポレオンは自由主義的な新憲法を発布し、自身に批判的な勢力との妥協を試みた。そして、連合国に講和を提案したが拒否され、結局戦争へと進んでいく。しかし、緒戦では勝利したもののイギリス・プロイセンの連合軍に[[ワーテルローの戦い]]で完敗してナポレオンの復位([[百日天下]])は幕を閉じることとなる(実際は95日間)。
 
 
ナポレオンは再び退位に追い込まれ、アメリカへの亡命も考えたが港の封鎖により断念、最終的に[[ベレロフォン (戦列艦)|イギリスの軍艦]]に投降した。彼の処遇をめぐってイギリス政府はウェリントン公の提案を採用し、ナポレオンを南[[大西洋]]の孤島[[セントヘレナ|セントヘレナ島]]に幽閉した。<!--  セントヘレナにおけるナポレオンはパズルを中国人から貰うなりしており、現在でもそれが残されている。 -->
 
 
[[ファイル:Napoleon sainthelene.jpg|thumb|left|250px|セントヘレナのナポレオン]]
 
ナポレオンは[[アンリ・ガティアン・ベルトラン|ベルトラン]]、[[シャルル=トリスタン・ド・モントロン|モントロン]]、{{仮リンク|ガスパール・グールゴ|fr|Gaspard Gourgaud|label=グールゴ}}らごく少数の従者と共に、島内中央の[[ロングウッド・ハウス]]で生活した。高温多湿な気候と劣悪な環境はナポレオンを大いに苦しませたばかりか、その屋敷の周囲には多くの[[歩哨]]が立ち、常時行動を監視され、更に乗馬での散歩も制限されるなど、実質的な監禁生活であった。その中でもナポレオンは、側近に口述筆記させた膨大な回想録を残した{{refnest|group="注釈"|[[:en:Emmanuel, comte de Las Cases|ラス・カーズ]]の『[[:en:The Memorial of Saint Helena|セント=ヘレナ覚書]]』は日本語訳が刊行されている(小宮正弘編訳、[[潮出版社]]、2006年3月、ISBN 978-4-267-01710-0)。ほか、ナポレオンの従僕の[[:en:Louis Joseph Marchand|ルイ・ジョゼフ・ナルシス・マルシャン]](1791年-1876年)の回想も抄訳されている(『ナポレオン最期の日 皇帝従僕マルシャンの回想』(藪崎利美訳、MK出版社、2007年、ISBN 9784990208219)。}}。これらは彼の人生のみならず彼の[[世界観]]・[[歴史観]]・[[人生観]]まで網羅したものであり「ナポレオン伝説」の形成に大きく寄与した。
 
 
ナポレオンは特に島の総督[[ハドソン・ロー]]の無礼な振る舞いに苦しめられた。彼は誇り高いナポレオンを「ボナパルト将軍」と呼び、腐ったブドウ酒を振舞うなどナポレオンを徹底して愚弄した。また、ナポレオンの体調が悪化していたにも関わらず主治医を本国に帰国させた。ナポレオンは彼を呪い、「将来、彼の子孫はローという苗字に赤面することになるだろう」と述べている。
 
 
そうした心労も重なってナポレオンの病状は進行し、[[スペイン立憲革命]]や[[ギリシャ独立戦争]]で欧州全体が動揺する中、[[1821年]][[5月5日]]に死去した。彼の遺体は遺言により解剖されて胃に潰瘍と癌が見つかり、死因としては公式には[[胃癌]]と発表されたが、[[ヒ素]]による暗殺の可能性も指摘された(彼の死因をめぐる論議については次節で述べる)。その遺体は[[1840年]]にフランスに返還され、現在はパリの[[オテル・デ・ザンヴァリッド]]([[廃兵院]])に葬られている。
 
 
== 死因をめぐる論議 ==
 
[[ファイル:Napoleon tomb bordercropped.jpg|thumb|300px|[[オテル・デ・ザンヴァリッド]]地下にあるナポレオンの墓]]
 
[[ヒ素]]中毒による暗殺説が語られるのは、本人が臨終の際に「私はイギリスに暗殺されたのだ」と述べたこともさることながら、彼の遺体をフランス本国に返還するために掘り返した時、遺体の状態が死亡直後とほぼ変わりなかった事(ヒ素は剥製にも使われるように保存作用がある)、更には、スウェーデンの歯科医ステン・フォーシュフットがナポレオンの従僕マルシャンの日記を精読して、その異常な病状の変化から毒殺を確信し、グラスゴー大学の法医学研究室ハミルトン・スミス博士の協力のもと、ナポレオンのものとされる頭髪からヒ素を検出して、ヒ素毒殺説をセンセーショナルに発表したことによる。ヒ素はナポレオンとともにセントヘレナに同行した何者かがワインに混入させた'''毒殺説'''以外にも、その当時の壁紙にはヒ素が使われていて、ナポレオンの部屋にあった壁紙のヒ素がカビとともに空気中に舞い、それを吸ったためだという'''中毒説'''がある。フォーシュフットの検査に使った頭髪が実際にナポレオンのものか確証がないという反論があったため、[[2002年]]に改めて[[パリ警視庁]]・ストラスブール法医学研究所が様々なナポレオンの遺髪を再調査した。すると、皇帝時代に採取された彼の髪に放射光をあてて調査した結果、やはりかなりの量のヒ素が検出され、セントヘレナに行く前から[[ヒ素中毒]]であった可能性があると発表された。しかし当時は髪の毛の保存料としてヒ素が広く使われており、ナポレオン以外の頭髪でもヒ素が検出されることがその後の調査で判明し、生前にヒ素を摂取した場合も頭髪に残るが、切り取られた髪の毛の保存料としてヒ素が使われた場合にも、同様にヒ素が髪の内部まで浸透し、科学的には両方の可能性を否定できないため、この場合はヒ素は死因を特定する材料にはならないことがわかった<ref>{{要検証範囲|「ナポレオン謀殺ミステリー」ディスカバリーチャンネルで放送。|date=2015年4月}}</ref>。よってヒ素による慢性あるいは急性の中毒説は否定された<ref>[[#両角 1994|両角 1994]], pp. 282-284.</ref>が、もちろんヒ素以外にも痕跡を残さない毒物はこの世にたくさんあるため、毒殺ではないと証明することは難しい。
 
 
[[ファイル:Napoleon sur son lit de mort Horace Vernet 1826.jpg|thumb|left|230px|ナポレオンの死を描いた1826年の絵画]]
 
ただし、死の直後に公式に発表された'''胃癌説(病死説)'''は公式には今まで一度も覆されたことはなく、最近の研究でも胃癌を支持するものは多い。<ref>The Biology of Gastric Cancers. Timothy C. Wang, James G. Fox, and Andrew S. Giraud. 2009, 251-252.</ref>また同様に[[胃潰瘍]]説も取り沙汰されている。実際ナポレオンの家族にも胃癌で亡くなった者(家族性胃癌症候群)がおり、ナポレオン自身もまた胃潰瘍であった。特に[[1817年]]以降、体調は急激に悪化している。ただ、解剖所見では、胃潰瘍により胃に穿孔していたことが確認され、また初期の癌も見つかったが、癌患者であっても最終的な死因は癌ではない可能性もあるため、直接的な死因と断言するには乏しいのがこの公式見解の弱点である<ref group="注釈">ほとんどの癌患者はなんらかの合併症で亡くなる。ナポレオンの死直前の病状の激変は、通常の癌患者には見られないものであり、ナポレオン本人が毒殺を疑った理由でもある。また癌患者であっても、当然毒殺されうる。</ref>。死因かどうかはともかく、胃潰瘍と胃癌をナポレオンが患っていたのは確かな科学的事実である。
 
 
他には、20年以上に渡り戦場を駆けた重圧と緊張が、元々頑丈ではなかった心身に変調を来たさせたという説もある。若い頃は精神力でカバーできていたが、40歳を迎える頃にはナポレオンの体を蝕んでいたという主張で、その死は激動の生活から無為の生活を強いられた孤島の幽囚生活が心理的[[ストレス (生体)|ストレス]]となり、生活の変調がもたらした致死性胃潰瘍であるという。胃潰瘍と共に悪化した心身の変調を内分泌や脳下垂体の異常を原因と主張する医学者もいた<ref>{{要出典範囲|ヒルマン博士の「ナポレオン1世の神経性内分泌異常症候群」およびフリュジェ博士の「脳下垂体異常」|date=2015年4月}}</ref><ref>[[#両角 1998|両角 1998]], pp. 298 ff.</ref>。
 
このように様々な説があるが、公式見解の胃癌説以外で考慮に値するのは、'''医療ミス説'''である。[[カリフォルニア大学バークレー校]]の心臓病理学者スティーブン・カーチは、ナポレオンを看取った主治医アントマルキのカルテを見て、医師が下剤として酒石酸アンチモニルカリウムを、更に死の前日には嘔吐剤として[[塩化水銀|{{読み仮名|甘汞|かんこう}}]]を大量に処方していたことに気付いた。これらは単独でも毒物であるが、飲みやすくするために使われた甘味料オルジエと合わせると体内でシアン化水銀という猛毒にかわった可能性があり、薬の量からして、体内の電解質のバランスを崩して心拍の乱れを起こして心停止に至ったと判断できるとした。カーチは「ヒ素の長期的影響に加えて医療過誤により悪化した不整脈が直接の死因」と主張する<ref>『[[ナショナルジオグラフィック (雑誌)|ナショナルジオグラフィック]]日本版』[http://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/bn/200505.shtml 2005年5月号]{{要ページ番号|date=2015年4月}}。</ref><ref>{{Cite news | title = Napoleon 'killed by his doctors' | date = 2004-07-22 | url = http://news.bbc.co.uk/2/hi/health/3913213.stm | accessdate = 2014-04-12 | publisher = BBC News |language = English }}</ref>。これはヒ素中毒を、胃癌や胃潰瘍に置き換えても、同じことが言え、更に死の直前に起こった不可解な病状の激変を説明できる唯一の仮説である。
 
 
総合的にはナポレオンの死の原因は現在に至っても決着していない。ヒ素毒殺説は有名であるので誤解されやすいが、フランスでの公式見解は一貫して胃癌説である。また前述のようにかつては毒殺の証拠とみられたヒ素が実は証拠能力がないことも証明された。
 
 
== 評価と影響 ==
 
 
{{独自研究|section=1|date=2012年6月}}
 
 
[[ファイル:2011 Chateau de Malmaison Rueil-Malmaison cite-jardin suresnes 015.JPG|thumb|right|180px|ナポレオンの胸像]]
 
 
ナポレオンは[[フランス革命]]の時流に乗って[[皇帝]]にまで上り詰めたが、彼が鼓舞した諸国民の[[ナショナリズム]]によって彼自身の帝国が滅亡するという皮肉な結果に終わった。
 
 
一連の[[ナポレオン戦争]]では約200万人の命が失われたという。その大きな人命の喪失とナポレオン自身の非人道さから国内外から「食人鬼」「人命の浪費者」「コルシカの悪魔」と酷評(あるいはレッテル貼り)もされた。軍人、小土地自由農民とプチ・ブルジョワジーを基盤とするその権力形態は[[ボナパルティズム]]と呼ばれる。ナポレオンによって起こされた喪失はフランスの総人口にも現われた。以後フランスの人口(とくに青壮年男性を中心とする生産年齢人口)は伸び悩み、国力でイギリスやドイツ(のちにはアメリカ合衆国も)などに抜かれることとなった。[[フランス復古王政]]を経て成立した[[7月王政]]期の[[1831年]]には、フランス軍における人員の夥しい喪失への反省から、フランス人からではなく多国籍の外国人から兵士を採用する[[フランス外人部隊]]が創設されることになった。これ以降、[[21世紀]]に徴兵制が全面廃止されるまで、フランス国民からの徴兵と、外国籍人を含む志願制とが併用されることになる。
 
 
ナポレオンの後に即位したルイ18世とその後の[[シャルル10世 (フランス王)|シャルル10世]]は、ナポレオン以前の状態にフランスを回帰させようとしたが、ナポレオンによってもたらされたものはフランスに深く浸透しており、もはや覆すことはできなかった。[[王党派]]は、1815年の[[フランス復古王政|王政復古]]から、反ボナパルティズムを取り、数年に渡り[[白色テロ]]を繰り返した。王党派とボナパルティストとの長き対立と確執は、フランスに禍根を残すことにも繋がった。[[ウィーン体制]]による[[ヨーロッパ|欧州]]諸国の反動政治もまた、欧州諸国民の憤激を買い、[[フランス革命]]の理念が欧州各国へ飛び火して行くことになる。
 
 
その一方で[[産業革命]]などによって急速に個性を喪失していく中において、全ヨーロッパを駆け抜けたナポレオンをそのような時代に対する抵抗の象徴として「英雄」視する風潮が生まれた。[[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル|ゲオルク・ヘーゲル]]が「世界理性の馬を駆るを見る」と評し、[[フリードリヒ・ニーチェ]]が「今世紀(19世紀)最大の出来事」と評した。その一方で、こうしたナポレオンを理念化されたナポレオンであって現実のナポレオン像ではないとする人々もいた。[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]がその楽譜を破いたとされる故事はそうした背景を象徴するものであると言われている。
 
 
[[1840年]]に遺骸がフランス本国に返還されたことでナポレオンを慕う気持ちが民衆の間で高まり、ナポレオンの栄光を想う感情が[[フランス第二帝政]]を生み出すことになる。
 
 
現在のフランスでは、ナポレオンのイメージを損なうとして、[[ブタ|豚]]にナポレオンと名付けることを禁止している<ref>{{cite news |title=犬の名前「イトラー」に町長が拒絶反応、その理由は フランス|newspaper=[[フランス通信社|AFPBB News]] |date=2014-09-06 |url=http://www.afpbb.com/articles/-/3025128 |accessdate=2014-09-06 }}</ref>。
 
 
== 功績 ==
 
[[ファイル:Code Civil 1804.png|thumb|200px|ナポレオン法典、別名フランス民法典(1804年)]]
 
 
ナポレオンが用いて広めた法・政治・軍事といった制度はその後のヨーロッパにおいて共通のものとなった。かつて[[古代ローマ]]の法・政治・軍事が各国に伝播していったこと以上の影響を世界に与えたと見ることもできる。
 
* [[ナポレオン法典]]はその後の近代的法典の基礎とされ、修正を加えながらオランダ・ポルトガルや日本などの現在の[[民法 (日本)|民法]]に影響を与えている。フランスにおいては現在に至るまでナポレオン法典が現行法である。[[アメリカ合衆国]][[ルイジアナ州]]の現行民法もナポレオン法典である。ナポレオンはこの法典の条文の完全性に自信をもち注釈書の発行を禁じた。
 
* [[軍事]]的にもナポレオンが生み出した、[[国民軍]]の創設、砲兵・騎兵・歩兵の連携([[三兵戦術]])、[[輜重]]の重視、指揮官の養成などは、その後の近代戦争・近代的軍隊の基礎となり、プロイセンにおいて[[カール・フォン・クラウゼヴィッツ]]によって『[[戦争論]]』に理論化されることになる。
 
* 「輜重の重視」という方針を実行する過程において、軍用食の開発のために効率的な食料の保存方法を広く公募することも行い、そこで発明されて採用されたのが[[ニコラ・アペール]]が発明した「[[瓶詰]]」である。「瓶詰」そのものは加工の手間がかかり過ぎて普及しにくかったものの、ここで発明された「密封後に加熱殺菌」という概念が、後に「[[缶詰]]」(1810年イギリスにて発明)などの保存食の大発展へと繋がっていく。
 
* ナポレオンの[[大陸封鎖令]](対イギリス経済封鎖)によって砂糖価格が暴騰した結果、[[テンサイ|ビート]](砂糖大根)からの[[製糖]]が一気に普及した。
 
* [[道路]]の[[右側通行]]がヨーロッパ全土に普及したのもこの頃である(イギリスは占領されなかったので[[左側通行]]のままとなっている)。
 
* 政治思想史においても[[フランス革命]]の理念([[自由、平等、友愛|自由、平等、博愛]])がナポレオン戦争によって各国に輸出されたということも見逃してはならない。
 
* 短い期間ではあったが、ナポレオンに支配された諸国は、急激な変化を経験した。ナポレオンは、各地で領主の支配や農奴制を打破し、憲法と議会をおき、フランス式の行政や司法の制度を確立し、フランスと同様の民法を移植していった。長くフランスの支配を受けた地域では工業化が始まり、19世紀にはヨーロッパの先進地帯となっていった。また、ヨーロッパの諸民族は他民族からの解放や民族の統一を学んだ。列強の君主たちは、ナポレオン退位後にヨーロッパ社会をフランス革命以前に戻そうとしたが、社会の仕組みは既に変化しており、新しい政治勢力が生まれていた。
 
 
== 語録 ==
 
{{Wikiquote|ナポレオン・ボナパルト}}
 
''詳細はウィキクォートを参照。''
 
;{{Lang|fr|Impossible, n'est pas français.}}「''不可能という言葉はフランス的ではない''」
 
: 直訳すれば「不可能はフランス語ではない」。ナポレオンが日常よく口にした言葉とされ、一般には「'''余の辞書に不可能の文字は無い'''」として知られている。元は「不可能と言う文字は愚か者の辞書にのみ存在する」という言葉だったという説もある。また、他にも「フランス人は不可能という言葉を語ってはならない」という説もある。実際にナポレオンが口にしたかどうかは定かでなく後世の創作ともいわれる。
 
 
== 逸話 ==
 
=== ヘーゲル ===
 
哲学者[[ヘーゲル]]がイエナ大学教授時代、彼の著書『精神現象学』を発表する際にフランス軍はイエナに入城した。旧弊の国家を統合するナポレオン、ヨーロッパにおける近代市民社会の形成期、ナポレオンはフランス革命の精神たる「自由」をヨーロッパに広めようとしていると彼には見えた。ヘーゲルの言う「自由」とは理性(絶対精神)が歴史を舞台として自己実現をとげる全体的自由のことであり、ヘーゲルの目にはナポレオンが世界精神そのものと映った。彼は、「皇帝が…この世界精神が…陣地偵察のために馬上ゆたかに街を出ていくところを見ました。この個人こそ、この一地点に集結して馬上にまたがっていながら、しかも世界を鷲づかみにして、これを支配しています<ref>[[#ヘーゲル 1975|ヘーゲル 1975]]{{要ページ番号|date=2015年4月}}</ref>」とナポレオンのことを書き送っている。
 
 
=== ベートーヴェンの「英雄」 ===
 
{{main|交響曲第3番 (ベートーヴェン)#作曲の経緯}}
 
ナポレオンを人民の英雄と期待し、「ボナパルト」という題名でナポレオンに献呈する予定で[[交響曲第3番 (ベートーヴェン)|交響曲第3番]]を作曲していた[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]は、ナポレオンの皇帝即位に失望して彼へのメッセージを破棄して、曲名も『英雄』に変更したという逸話が伝わっているが、この逸話が事実であるかどうかについては異説も多い。ベートーヴェンは旧体制側の人間で革命派ではなかったが、終始ナポレオンを尊敬しており、第2楽章が英雄の死と葬送をテーマにしているため、これではナポレオンに対して失礼であるとして、あえて曲名を変更し、献呈を取りやめたのだとする逸話や、定説とは逆に、実際に献呈すべく面会を求めたが全く相手にされず、その怒りから改題し上記の定説を友人に話したという、作曲家の地位向上の境目の時代を意識したような逸話も存在する。
 
 
=== その他の逸話 ===
 
[[ファイル:Napoleon a Cherbourg bordercropped.jpg|thumb|right|180px|1858年にナポレオン三世によって発表された[[シェルブール]]のナポレオン像]]
 
ナポレオンには数多くの逸話が存在するが、後世の創作といわれるものも多い。
 
* セント・ヘレナで死んだのは影武者の兵士で、セントヘレナを脱出したナポレオンは、[[マリー・ルイーズ]]をシェーンブルン宮殿に訪ねて銃殺されたなどの説が、まことしやかにささやかれてきた<ref>[[#浜 1985|浜 1985]]{{要ページ番号|date=2015年4月}}</ref>。
 
* 探検家[[バジル・ホール]]はイギリスへの帰国途中に当時セントヘレナ島へ島流しにあっていたナポレオンに面会し、ユーラシア大陸の東に位置する[[琉球]]のことを報告した。武器を持たず外国と交易ができる王国の話に驚き「そんな国があるのなら行ってみたい」と語った。
 
* [[ジャック=ルイ・ダヴィッド]]による「アルプス越え」の絵画では、ナポレオンが白い毛並みの馬にまたがっている姿が描かれているため<ref group="注釈">cf. 「[[:en:Napoleon Crossing the Alps|Napoleon Crossing the Alps]]」</ref>、この馬のモデルがナポレオンの愛馬[[マレンゴ]]([[芦毛]])であるという誤解が一部にある。しかし、実際に乗っていたのは山道のためのロバだったとされる。ダヴィッドは写実的に描いたわけではなく、馬と人間との大きさの比率が [[デフォルメ]]がされているなど、現実にはあり得ない構図やディティールを多用し、独特の絵画手法を用いている。
 
* エジプトに遠征した折、[[ピラミッド]]を遠望した会戦の前「兵士諸君、ピラミッドの頂から、四十世紀の歴史が諸君を見つめている」と言って兵士達を鼓舞した。ピラミッド内部にはフランス人士官が当時書いた落書きが残っている。またフランス軍が[[ギザの大スフィンクス|スフィンクス]]を標的にして大砲を打ち込んで、一部を打ち壊したとされる'''俗説'''が広まったが、実際にはフランス人が到着した時点ですでに鼻は欠けていて、破片が砂に埋もれており、スフィンクス自体も頭部の一部が見えるだけで深く砂に埋没していた{{refnest|group="注釈"|東方遠征に随行した画家デノンの記録がある<ref>{{Citation | last =Russel | first =Terence M. | year =2005 | title =The Discovery of Egypt: Vivant Denon's Travels with Napoleon's Army | publisher =The History Press | edition =First British Edition | isbn =0750941456}}</ref>。}}。
 
* 破損は[[ムスリム]]によるものという説もあるが、これまた確証はなく、像のクビを落とすような原理主義的な行動は当時のエジプトでは見られておらず、むしろオスマン帝国の[[スルタン]]などはピラミッド探検や調査に熱心で、その保護者だったというのが事実である。断面の具合を調査した結果からは人為的な破壊の痕跡はみられず、もともと脆い[[石灰岩]]で造られており、[[風化]]や水の浸食による自然落下だろうという説が一般的である。
 
* 当時のイギリスの首相[[ウィリアム・ピット (小ピット)|ウィリアム・ピット]]は、「革命騒ぎの宝くじを最後に引き当てた男」とナポレオンを評し、一方ゲーテは「徳を求めたもののこれを見出せず、権力を掴むに至った」と評している。
 
* ナポレオンが愛用していた[[二角帽子]]は、[[ビーバー]]の[[毛皮]](フエルト)から作られたもので、権力の座に就いていた約15年の間に120個ほどが作られた。現存しているものはわずかであるが、時折、[[競売]]に出品されることもある<ref>{{Cite web |date= 2018-06-16|url= http://www.afpbb.com/articles/-/3178742|title= ナポレオンの「二角帽子」競売へ、ワーテルローの戦いで敵の手に|publisher= AFP|accessdate=2018-06-16}}</ref>。
 
 
<div style="margin:0.8em 0;">
 
{{出典の明記|section=1|date=2009年1月|ソートキー=人1821年没}}
 
</div>
 
<!--出典明記されたら上に上げてください-->
 
 
=== ナポレオンの健康面 ===
 
精神的な面では、一定時間その場所にいられなかったほど落ち着きがなく、[[てんかん]]持ちであったと言われている。[[注意欠陥・多動性障害|ADHD]]説すらある。一日三時間しか睡眠を取らなかったと言われるのは、夜間に[[発作]]が起きたからだと言われている。イタリアの学者[[チェーザレ・ロンブローゾ]]は、著書「天才論」で、ナポレオンのてんかんの症状を指摘し、天才とてんかんとの関連性を説いた。「天才と狂人は紙一重」という言葉はここから生まれたという。2回自殺未遂をしたことがある。
 
* 新しく雇った秘書の前でいきなり延々と自らの政見を述べ、述べ終えた後それを筆記することを求め、できないと拒絶されると激怒し即日解雇にしてしまった。独り言のように政見を延々と述べる癖があったらしく、しかも内容は思いつきと勢いで述べられており、秘書は最大五百枚の原稿を筆記したという。その上ナポレオンのすさまじい仕事量についていけず、次々と秘書を使いつぶしては新しく雇うという有様だった。
 
* 肉体的な面では、若い頃に最前線で部下の兵士にうつされたという[[疥癬]]や、長時間の乗馬での移動を強いられるためにできた[[痔]]、他には[[胃下垂]]などに罹っていた。王であり軍神という偶像化された自分の立場の重い責務でストレスを溜め、夜遅くまで酒を飲み、脂肪分の多い食事を摂り、昼に眠るという生活が死期を早めたとされる<ref group="注釈">脂肪に富んだ食事をして昼寝をすると、微小な脂肪細胞が胸管中で凝集し脂肪血栓を引き起こす危険性が高くなる。</ref>。
 
* 嗜好について。臭いが好きだった。例として戦場から恋人に、「今から帰るから、風呂にだけは入るな」という手紙を書いたこともあった。ちなみに、ナポレオンが寝ているところに鼻先に[[ブルーチーズ]]を持って行ったところ、ナポレオンは「おお、ジョゼフィーヌか。今夜は勘弁してくれ」と寝言を言ったという冗談がある。ナポレオン本人は朝風呂が好きで、[[シャンパン]]を入れた風呂に入っていた。
 
* [[鶏肉]]が好きだった。特に若鶏のマレンゴ風<ref group="注釈">鶏肉をトマトをベースに煮込んだ料理。</ref>が好物だった。これは[[マレンゴの戦い]]の勝利後、シェフが現地にて即席で創作した料理である。エルバ島から脱出しパリに戻る道中では[[目玉焼き]]を好んで食べていた。
 
* 数学が好きだった。側近に[[ジョゼフ・フーリエ|フーリエ]]などの数学者を置いて数学の勉強を続けた。また、[[アドリアン=マリ・ルジャンドル|ルジャンドル]]や[[ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ|ラグランジュ]]とも親交があった。ナポレオンが発見したとされる[[ナポレオンの定理]]や[[ナポレオン点]]、[[ナポレオンの問題]]というものがあるが、諸説あり、真相は定かではない。
 
* 読書が好きだった。しかし、飽きっぽい性格のため読破した本はほとんどなく、妻のジョゼフィーヌに、毎晩読んでもらうのが日課だった。ただし[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]の『[[若きウェルテルの悩み]]』だけは例外で、生涯に7度も自分で読んでいる。
 
* [[クレープ]]占いに凝っていた。左手にコインを持って、右手のフライパンで焼けたクレープをうまくひっくり返せたら1年がうまくいくというものである。1812年2月2日に挑戦したクレープ占いでは、5枚目で失敗。その年、彼はモスクワ遠征も失敗し、退却する際「余の5枚目のクレープだ」と呟いたという話がある。
 
 
{{雑多な内容の箇条書き|section=1|date=2011年4月}}
 
* 早飯食いだった。食事にかけた時間は、将軍になった時10分、第一執政になった時15分、皇帝になった時でさえ30分だった<ref>『世界の旅路 くにぐにの物語2 フランス』p190 [[千趣会]]1978年6月1日</ref>。
 
* 当時としては珍しい[[ギター]]弾きであった。だが[[音痴]]だった。
 
* [[暗殺]]されるのを恐れ、自分で髭を剃っていた。
 
* 友人に宛てて書いた手紙があまりの悪筆で、戦場の地図と間違えられたことがある。
 
* 背が低いとされ、しばしば文学や演劇のネタにされてきた([[ナポレオン・コンプレックス]])。[[バーゼル大学|バーゼル大]]病院のリュグリの研究によると身長167cmと推定されるが、当時のフランス人としてはこれはむしろ平均以上である。にもかかわらず低身長とされるのは、彼の周囲の軍人がことごとく高身長だったからだと推測される。例を挙げれば、モルティエ元帥は196センチ、ミュラ元帥は180以上、ランヌ元帥は178センチ、ネイ元帥は178センチ。そして親衛隊の入隊基準には身長178センチとあり、これらによって相対的に小さく見えてしまったためと思われる。
 
* 妻ジョゼフィーヌのベッドに入った際、彼女の愛犬フォーチュン([[パグ]])に噛まれたことがある。
 
* 乗っていた馬の中には[[アイルランド]]産もいる。
 
* ナポレオンがイタリア戦線で名声を挙げている時に革命政府がもう一人の将軍を派遣しようとした際、「軍隊は、二人の良将に指揮させるより一人の愚将に指揮させる方がまし」といって拒否したという話がある。
 
* 事実ではないがブレザーなどの袖についているボタンは、ナポレオンがロシア遠征の際に、兵士達が袖で鼻水を拭えないようにするために付けたのが始まりであるという逸話がある。これと同じ話が前時代の[[フリードリヒ大王]]にもある。
 
* ナポレオンの肖像は第4共和国最後の10,000[[フランス・フラン|フラン]]紙幣と、第5共和国重フラン制度最初の100Nフランに描かれていた。
 
*ナポレオン自身がフリーメイソンに加入したことを証明する書類はないが、彼は兄弟たちをフランスのフリーメイソンの高位職につけた。[[ルイ・ボナパルト|ルイ]]は副グランドマスター、[[ジェローム・ボナパルト|ジェローム]]はウェストファーレンのグランド・オリエントのグランドマスター、[[ジョゼフ・ボナパルト|ジョゼフ]]はフランスのグランド・オリエントのグランドマスターに就任している<ref>{{Cite web |url=http://freemasonry.bcy.ca/biography/bonaparte_n/bonaparte_n.html |title=Napoleon I |accessdate= 2015-09-04 |work= [http://freemasonry.bcy.ca/grandlodge.html Grand Lodge of British Columbia and Yukon] |language= 英語 }}</ref>。
 
 
== 関係者 ==
 
[[ファイル:Marie Louise von Österreich Napoleon Zweite.jpg|thumb|right|200px|二番目の妻 マリ・ルイーズ<br />ナポレオン2世とともに]]
 
 
=== ナポレオンの家族・妻・愛人 ===
 
ナポレオンの存命中に生存もしくは誕生していた人物に限定する。一族全員については[[:Category:ボナパルト家]]を参照。
 
; 両親とその兄弟
 
* 父:[[シャルル・マリ・ボナパルト]](カルロ・マリア・ブオナパルテ)
 
* 母:[[マリア・レティツィア・ボナパルト]](旧姓ラモリノ)
 
* 母方の叔父:[[ジョゼフ・フェッシュ]]
 
; 兄弟
 
* 兄:[[ジョゼフ・ボナパルト]](ジュゼッペ)
 
** ジョゼフの妻:[[ジュリー・クラリー|マリー・ジュリー・クラリー]]
 
* 弟:[[リュシアン・ボナパルト]](ルチアーノ)
 
** リュシアンの子:[[ピエール=ナポレオン・ボナパルト]]
 
* 妹:[[エリザ・ボナパルト]](マリア・アンナ)
 
** エリザの夫:[[フェリーチェ・バチョッキ]]
 
* 弟:[[ルイ・ボナパルト]](ルイジ)
 
** ルイの妻は、ナポレオンの継子となる。
 
** ルイの子:[[ナポレオン・ルイ・ボナパルト]]
 
** ルイの子:ルイ=ナポレオン・ボナパルト([[ナポレオン3世]])
 
** ルイの孫:ナポレオン・ウジェーヌ・ルイ・ボナパルト([[ナポレオン4世]])
 
* 妹:[[ポーリーヌ・ボナパルト]](パオレッタ)
 
* 妹:[[カロリーヌ・ボナパルト]](マリア・アヌンツィアタ)
 
** カロリーヌの夫:[[ジョアシャン・ミュラ]]
 
* 弟:[[ジェローム・ボナパルト]](ジローラモ)
 
** ジェロームの子:[[マチルド・ボナパルト]]
 
** ジェロームの子:ナポレオン・ウジェーヌ・ルイ・ジャン・ジョゼフ・ボナパルト
 
** ジェロームの孫:ナポレオン・ヴィクトル・ボナパルト([[ナポレオン5世]])
 
; 妻と嫡子・養子
 
* 妻:[[ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ]]
 
** 継子:[[ウジェーヌ・ド・ボアルネ]]
 
** 継子、弟ルイの妻:[[オルタンス・ド・ボアルネ]]
 
** 養女、ジョゼフィーヌの姻戚:[[ステファニー・ド・ボアルネ]]
 
* 妻:[[マリア・ルイーザ (パルマ女公)|マリ・ルイーズ]]
 
** 子:[[ナポレオン2世]](ナポレオン・フランソワ・シャルル・ジョゼフ またはフランソワ・ボナパルト)
 
; 愛人と庶子
 
* 愛人:[[エレオノール・ドニュエル]]
 
** 子:[[レオン伯シャルル]]
 
* 愛人:[[マリア・ヴァレフスカ]]
 
** 子:[[アレクサンドル・ヴァレフスキ|アレクサンドル・コロンナ=ヴァレフスキ]]
 
; 愛人にならなかった人物
 
* [[ジュリエット・レカミエ]]
 
; 元婚約者
 
* [[デジレ・クラリー]]
 
; 愛馬
 
* [[マレンゴ]] - 芦毛のアラブ馬でナポレオンはこの馬によく乗っていた。上の絵画『アルプス越えのナポレオン』にも描かれている
 
 
=== 第一帝政期の元帥 ===
 
{{col-begin}}
 
{{col-3}}
 
* [[ユゼフ・アントニ・ポニャトフスキ]]
 
* [[ミシェル・ネイ]]
 
* [[カール14世ヨハン (スウェーデン王)|ジャン=バティスト・ジュール・ベルナドット]]
 
* [[ニコラ=ジャン・ド・デュ・スールト]]
 
* [[ルイ=ニコラ・ダヴー]]
 
* [[ジョアシャン・ミュラ]]
 
* [[アンドレ・マッセナ]]
 
* [[ルイ=アレクサンドル・ベルティエ]]
 
* [[ジャン・ランヌ]]
 
{{col-3}}
 
* [[ルイ=ガブリエル・スーシェ]]
 
* [[ニコラ・ウディノ]]
 
* [[フランソワ・ジョゼフ・ルフェーヴル]]
 
* [[ジャン=バティスト・ジュールダン]]
 
* [[ジャン=バティスト・ベシェール]]
 
* [[ギヨーム=マリ=アン・ブリューヌ]]
 
* [[ボン・アドリアン・ジャノー・ド・モンセー]]
 
* [[エドゥアール・モルティエ]]
 
* [[シャルル・ピエール・フランソワ・オージュロー]]
 
{{col-3}}
 
* [[ジャン=マチュー・フィリベール・セリュリエ]]
 
* [[クロード・ヴィクトル=ペラン]]
 
* [[ジャック・マクドナル]]
 
* [[オーギュスト・マルモン]]
 
* [[ローラン・グーヴィオン=サン=シール]]
 
* [[フランソワ・クリストフ・ケレルマン]]
 
* [[カトリーヌ=ドミニク・ド・ペリニョン]]
 
* [[エマニュエル・ド・グルーシー]]
 
{{col-end}}
 
 
== 関連書籍 ==
 
{{Notice|参考文献とは異なります。編集に用いられている書籍は下の節に移動させてください。|small=yes}}
 
<!--下記の書籍に基づいて編集をした場合は、本文中に脚注形式で出典のページを明記した上で、書籍を「参考文献」の節に移動してください--><!--初版発行順-->
 
* ヴィゴ=ルシヨン, フランソワ 『ナポレオン戦線従軍記』 瀧川好庸訳、[[中央公論新社|中央公論社]]、1982年。ISBN 978-4-12-001089-7。
 
** のち[[中公文庫]]に収録、1988年4月。ISBN 978-4-12-201508-1。
 
* 『ナポレオン言行録』 {{仮リンク|オクターヴ・オブリ|en|Octave Aubry|label=オブリ, オクターヴ}}編、[[大塚幸男]]訳、[[岩波書店]]〈[[岩波文庫]]〉、1983年9月。ISBN 978-4-00-334351-7。
 
* {{仮リンク|ジョルジュ・ルノートル|en|Théodore Gosselin|label=ルノートル, G.}} 『ナポレオン秘話』 [[大塚幸男]]訳、白水社〈[[白水Uブックス]] 1012〉、1991年8月。ISBN 978-4-560-07312-4。
 
* [[長塚隆二]] 『ナポレオン』上・下、[[文藝春秋社]]〈[[文春文庫]]〉、1996年9月。上:ISBN 978-4-16-743902-6。下:ISBN 978-4-16-743903-3。
 
* {{仮リンク|ティエリー・レンツ|fr|Thierry Lentz|label=レンツ, ティエリー}} 『ナポレオンの生涯 ヨーロッパをわが手に』 [[福井憲彦]]監修、遠藤ゆかり訳、[[創元社]]〈[[「知の再発見」双書]] 84〉、1999年6月。ISBN 978-4-422-21144-2。
 
* [[安達正勝]] 『ナポレオンを創った女たち』 [[集英社]]〈[[集英社新書]] 0109〉、2001年10月。ISBN 978-4-08-720109-3。
 
* [[鹿島茂]]『情念戦争』[[集英社インターナショナル]]、2003年10月、ISBN 978-4-7976-7080-6。
 
** のち『ナポレオン フーシェ タレーラン 情念戦争1789-1815』に改変。[[講談社]]〈[[講談社学術文庫]] 1959〉、2009年8月、ISBN 978-4-06-291959-3。
 
* {{仮リンク|ロジェ・デュフレス|de|Roger Dufraisse|label=デュフレス, ロジェ}} 『ナポレオンの生涯』 [[安達正勝]]訳、[[白水社]]〈[[文庫クセジュ]] 871〉、2004年2月。ISBN 978-4-560-05871-8。
 
* [[エミール・ルートヴィヒ|ルートヴィヒ, エミール]] 『ナポレオン 英雄の野望と苦悩』上・下、北沢真木訳、[[講談社]]〈[[講談社学術文庫]]〉。上:2004年5月、ISBN 978-4-06-159659-7。下:2004年6月、ISBN 978-4-06-159660-3。
 
* エリス, ジェフリー 『ナポレオン帝国』 [[杉本淑彦]]、中山俊訳、[[岩波書店]]〈ヨーロッパ史入門〉、2008年12月。ISBN 978-4-00-027201-8。
 
* 『皇帝ナポレオンのすべて ビジュアル詳解 欧州制覇への道とボナパルト家の実像』 [[新人物往来社]]〈別冊歴史読本 35〉、2009年12月。ISBN 978-4-404-03635-3。
 
 
=== 古い関連書籍 ===
 
<!--以下は2008年11月29日 16:54 UTC で偽書さんが書籍名のみ提示した関連書籍。もしこれらを参考に加筆した場合は参考文献の節に移動してください。--><!--発行順-->
 
* 『拿勃列翁兵家格言』 月曜会文庫、1885年。[http://www.meitan.j.u-tokyo.ac.jp/detail/22623 東京大学明治新聞雑誌文庫]
 
* 梅崎延太郎講述『奈翁戦史講授録』陸軍大学校将校集会所、1916年。{{全国書誌番号|42030245}}、{{NDLJP|925972}}。
 
* [[ルイ・アントワーヌ・フォヴレ・ド・ブーリエンヌ|ド・ブーリエンヌ]] 『奈翁実伝』 栗原元吉訳、玄黄社、1920年。{{全国書誌番号|43028438}}、{{NDLJP|960724}}。
 
* {{仮リンク|ラス・カーズ|en|Emmanuel, comte de Las Cases}} 『ナポレオン大戦回想録 全3冊』 難波浩訳、改造社、1937-1938年。{{NCID|BA41522656}}。
 
* 『戦争・政治・人間 ナポレオンの言葉』 柳沢恭雄訳、河出書房、1939年。{{全国書誌番号|46061737}}。
 
* ナポレオン 『イタリア戦記 上』 難波浩訳、昭和刊行会〈ナポレオン全集 第1巻〉、1943年。{{全国書誌番号|46014332}}。
 
* 梅崎延太郎『偕行叢書 第13-14 奈翁戦史略 上・下』 偕行社、1943年。{{全国書誌番号|46035584}}。
 
* 大場弥平、上田修一郎共著 『ナポレオン戦略』 甲陽書房〈国防双書 第2編〉、1966年。{{全国書誌番号|66005588}}。
 
* 『ナポレオン作品集』[[:fr:Tancrède Martel|マルテル]]編、若井林一訳、[[読売新聞社]]、1972年。{{全国書誌番号|73005600}}
 
<!--国会図書館サーチなどでも見つからず、コメントアウト。
 
* 『戦史ナポレオン 将軍としてのナポレオン 全3巻』ウオテンベルグ (防衛大学、1955年)-->
 
 
== ナポレオンを扱った作品 ==
 
=== 映画 ===
 
[[ギネス・ワールド・レコーズ|ギネスブック]]によると、歴史上の人物でもっとも多く映画に登場したのはナポレオンで、177回である。以下にその一部を掲載する。なお「#」印は、ナポレオンは登場するものの直接に扱われていない作品である。
 
* 『[[ナポレオン (1927年の映画)|ナポレオン]]』(1927年 監督:[[アベル・ガンス]])
 
* 『[[タレイラン (映画)|タレイラン]]』(1948年 監督:[[サシャ・ギトリ]])#
 
* 『[[ナポレオン (1954年の映画)|ナポレオン]]』(1954年 監督:サシャ・ギトリ)
 
* 『[[戦争と平和 (1956年の映画)|戦争と平和]]』(1956年 監督:[[キング・ヴィダー]])#
 
* 『[[アウステルリッツ (映画)|アウステルリッツ]]』(1960年 監督:[[アベル・ガンス]])
 
* 『[[戦争と平和 (1967年の映画)|戦争と平和]]』(1966・67年 監督:[[セルゲーイ・ボンダルチューク]])#
 
* 『[[ワーテルロー (映画)|ワーテルロー]]』(1970年 監督:セルゲーイ・ボンダルチューク)
 
* 『[[ボナパルトと革命]]』(1971年 監督:[[アベル・ガンス]])
 
* 『[[アデュー・ボナパルト]]』(1984年 監督:ヨーセフ・シャヒーン)(映画祭上映のみ)
 
* 『[[ビルとテッドの大冒険]]』(1989年 監督:スティーブン・ヘレック)#
 
* 『[[帽子を脱いだナポレオン]]』(2001年 監督:[[アラン・テイラー]])
 
* 『[[キング・オブ・キングス (2003年の映画)|キング・オブ・キングス]]』(2003年 監督:[[イヴ・シモノー]])
 
* 『[[ナイト ミュージアム2]]』(2009年 監督:[[ショーン・レヴィ]])#
 
 
=== 演劇 ===
 
* 『[[酔いどれ公爵]]』([[1985年]] 演出:[[千葉真一]])
 
* 『[[愛あれば命は永遠に]]』([[1985年]] [[宝塚歌劇]][[花組 (宝塚歌劇)|花組]]公演 脚本・演出:[[植田紳爾]]) ナポレオン・ボナパルト役は[[高汐巴]]。
 
*『TRAFALGAR-ネルソン、その愛と奇跡-』([[2010年]] [[宝塚歌劇]][[宙組 (宝塚歌劇)|宙組]]公演)作・演出:[[齋藤吉正]] ナポレオン・ボナパルト役は[[蘭寿とむ]]。
 
* 『おのれナポレオン』([[2013年]] 脚本・演出:[[三谷幸喜]]) ナポレオン・ボナパルト役は[[野田秀樹]]。
 
* 『英雄のうた』([[2013年]] 脚本・演出:[[毛利亘宏]]) ナポレオン・ボナパルト役は[[大山真志]]。
 
* 『[[眠らない男・ナポレオン -愛と栄光の涯に-]]』([[2014年]] [[宝塚歌劇]][[星組 (宝塚歌劇)|星組]]公演)作・演出:[[小池修一郎]] 作曲:ジェラール・プレスギュルヴィック、ナポレオン・ボナパルト役は[[柚希礼音]]。
 
 
=== 書籍 ===
 
ナポレオンは「死んだ翌日から」伝記が書かれた人物と呼ばれるほど、彼について書かれた書籍は多い。
 
* 伝記
 
** 『ナポレオン―英雄の野望と苦悩』([[エーミール・ルートヴィヒ|エミール・ルートヴィヒ]])
 
** 『ナポレオンの生涯』(ティエリー・レンツ)
 
** 『ナポレオン自伝』([[アンドレ・マルロー]])
 
** 『セント=ヘレナ覚書』(ラス・カーズ)
 
* 小説
 
** 『皇帝ナポレオン』([[藤本ひとみ]])
 
** 『ナポレオンと田虫』([[横光利一]])
 
* 漫画
 
** 『[[栄光のナポレオン-エロイカ]]』([[池田理代子]])
 
** 『[[ナポレオン -獅子の時代-]]』([[長谷川哲也]])
 
* 戯曲
 
** 『ナポレオン』([[東隆明]])
 
 
=== ゲーム ===
 
[[ボードゲーム]]か[[コンピューターゲーム]]かに限らず、ナポレオン関連の[[ウォー・シミュレーションゲーム|ウォーゲーム]]はナポレオニックと呼ばれる。
 
 
==== トランプ ====
 
* [[ナポレオン (日本のトランプゲーム)]]
 
* [[ナポレオン (イギリスのトランプゲーム)]]
 
 
==== ボードゲーム ====
 
<div class="references-small">
 
* M.McLaughlin  『戦争と平和』([[ホビージャパン]]) - ''WAR and PEACE'' ([[アバロンヒル]],1980年)
 
* K.Zucker  『Napoleon's Last Battles』([[:en:Decision Games|en:Decision Games]],1995年)
 
* 森野智次 『ナポレオンモスクワへ』 [[アド・テクノス]]
 
* 加藤伸郎・森野智次 『バウツェンの戦い』 アド・テクノス
 
* 加藤伸郎・森野智次 『アウステルリッツの太陽』 アド・テクノス
 
* 森野智次 『ナポレオン帝国の崩壊』 アド・テクノス
 
* 平野茂 『皇帝ナポレオン』 [[翔企画]]
 
* 上田広樹 『ワーテルロー』 翔企画
 
* 平野茂 「赤い夕日のナポレオン」『[[コマンドマガジン日本版]]』第52号、[[国際通信社]]、2003年。
 
* 関山康紀一 「アイラウの戦い」『[[タクテクス]]』10号、[[ホビージャパン]]、1980年代。(絶版)
 
* 「大堡塁」『タクテクス』12号、[[ホビージャパン]]、1980年代。(ポロディノの戦い、ミニゲーム)
 
* 井村正佳 「Battle field Auelstadt-1806」『[[ゲームジャーナル#同人旧ゲームジャーナル|旧ゲームジャーナル]]』42号、シミュレーションジャーナル。
 
* 亀掛川彰夫 「FINナポレオン」『旧ゲームジャーナル』52号、シミュレーションジャーナル。
 
* 「ウーグモン」(コマンドマガジン61号)、国際通信社、2005年。(ワーテルローの戦いで、フランス軍とイギリス軍の中間にあったウーグモン館をめぐる攻防戦を描いたゲーム)
 
* 『ナポレオン』、任天堂。ダイヤモンドゲームの亜流。
 
*[[:en:Jim Dunnigan|en:James F. Dunnigan]] 『ワーテルロー』(タクテクス25号) - ''Napoleon at Waterloo'' (SPI、1971)
 
*D.Isby 『マレンゴの戦い』(タクテクス34号) - ''Marengo: Napoleon in Italy, 14 June 1800'' ([[シミュレーションズ・パブリケイションズ|SPI]]、1975年)
 
*T.Walczyk 『イエナ=アウエルシュタット』(タクテクス41号) - ''Jena-Auerstadt '' (SPI,1975)
 
* I.Hardy『ワグラムの戦い』(タクテクス47号) - ''Wagram'' (SPI,1975)
 
*L.Schutz, T.Shaw 『ワーテルロー』(ホビージャパン) - '' Waterloo''(アバロンヒル,1962年)
 
* T.Dalgliesh 『ナポレオン』(ホビージャパン) - ''[[:en:Napoleon (game)|en:Napoleon]]'' (Gamma Two Games,1974;アバロンヒル,1977;Columbia Games,1993)
 
*K.Zucker 『ナポレオンの黄昏』(ホビージャパン) - ''Struggle of Nations'' (アバロンヒル,1982)
 
ほか海外物多数、現在も出版され続けている
 
</div>
 
 
==== コンピュータゲーム ====
 
<div class="references-small">
 
発売順, タイトル, 発売元, 機種, 発売年, ジャンル順。
 
:※英字タイトルは海外版。なお海外版だが日本のPCで問題なく起動しプレイ可能であることを前提としている。
 
* 『英雄ナポレオン』PONYCA([[ポニーキャニオン]]の旧ブランド), [[PC-9801シリーズ|PC-9801]], 1987年(春夏秋冬ターン制[[シミュレーションゲーム|SLG]])
 
* 『[[ナポレオン戦記]]』[[アイレム]], [[ファミリーコンピュータ]], 1988年 ([[リアルタイムストラテジー|RTS]][[アクションゲーム|アクション]])
 
* 『[[ランペルール]]』[[コーエー|光栄]], [[PC-8801シリーズ|PC-8801]]・PC-9801・[[X68000]]・[[FM TOWNS]]・[[MSX|MSX2]]・[[ファミリーコンピュータ]]・[[Microsoft Windows|Windows]], 1990年(ターン制, 光栄SLG)
 
*『Battleground 3: Waterloo』, TalonSoft, Windows95, 1996年(TBS)
 
*『Battleground 6: Napoleon in Russia』, TalonSoft, Windows95, 1997年(TBS)
 
*『Battleground 8: Prelude to Waterloo』, TalonSoft, Windows95, 1997年(TBS)
 
* 『NAPOLEON 1813』, Empire Interactive, Windows95-97, 1999年(RTS+会戦級<ref>戦略モードと会戦モードの二つがある</ref>)
 
* 『[[ナポレオン (ゲーム)|ナポレオン]]<ref name="non-napo" />』[[任天堂]], [[ゲームボーイアドバンス]], 2001年(RTSアクション)
 
* 『Waterloo: Napoleon's Last Battle』, StrategyFisrst (Davilex), Windows 95-XP, 2002年(会戦級RTS)
 
* 『Austerlitz: Napoleon's Greatest Victory』, StrategyFisrst, Windows 95-XP, 2002年(会戦級RTS)
 
* 『WAR AND PEACE 1796 - 1815』, Microids, Windows 98-XP, 2002年(ヨーロッパ大陸級RTS)
 
* 『Campaigns On The Danube』, Matrix Games, Windows95-XP, 2004年(TBS)
 
* 『コサックスII 〜皇帝ナポレオン〜』 [[ズー (会社)|ズー]], WindowsXP, 2005年(RTS)
 
* 『Crown of Glory: Europe in the Age of Napoleon』, Matrix Games, Windows2000-XP, 2005年(TBS)
 
* 『Napoleon in Italy』, Matrix Games, Windows98-XP-7, 2007年(TBS)
 
* 『Empires in Arms』, Matrix Games, Windows2000-NT-XP-Vista-7, 2007年(TBSマルチゲーム)
 
* 『John Tiller's Battleground Napoleonic Wars<ref>Talon soft社のBattlegroundシリーズの復刻・移植版</ref>』, Matrix Games, Windows98-2000-XP-Vista-7, 2007年(TBS)
 
* 『[[Europa Universalis#Europa Universalis III: Napoleon's ambition|ヨーロッパ・ユニバーサリスIIIナポレオンの野望【完全日本語版】]]』[[サイバーフロント]], WindowsXP, 2008年(RTS)
 
* 『Commander - Napoleon at War』, Matrix Games, Windows98-2000-XP-Vista-7, 2008年(TBS)
 
* 『Napoleon's Campaigns』, Ascaron, WindowsXP, 2008年(TBS)
 
* 『シヴィライゼーション レボリューション<ref name="non-napo">ナポレオンは登場するが、ナポレオニックゲームではない、またはその要素が極めて少ない</ref>』, サイバーフロント, xbox360・2008年, ニンテンドーDS・2009年, PS3・2009年(STR)
 
* 『Napoleon: Total War』, SEGA of America, WindowsXP-Vista-7,2010年(RTS)</div>
 
 
== 脚注 ==
 
=== 注釈 ===
 
{{Reflist|group="注釈"}}
 
=== 出典 ===
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{Reflist|2}}
 
 
== 参考文献 ==
 
<!--編集にあたって実際に参照した書籍等のみを記載してください-->
 
<!--{{Cite book}}等の出典テンプレートの利用をご検討ください-->
 
* {{Cite book|和書|author=[[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル|ヘーゲル]] |others=小島貞介訳 |title=ヘーゲル書簡集 |publisher=日清堂書店 |date=1975-10 |ncid=BN01905221 |ref=ヘーゲル 1975}}
 
* {{Cite book|和書|author=浜洋 |title=世界の謎と怪奇 |publisher=[[大陸書房]] |series=世界の謎シリーズ |date=1985-07 |isbn=978-4-8033-0916-4 |ref=浜 1985 }}
 
* {{Cite book|和書|author=[[両角良彦]] |title=セント・ヘレナ落日 ナポレオン遠島始末 |publisher=[[朝日新聞出版]] |series=朝日選書 514 |date=1994-11 |edition=新版 |isbn=978-4-02-259614-7 |ref=両角 1994 }}
 
* {{Cite book|和書|author=両角良彦 |title=反ナポレオン考 時代と人間 |publisher=朝日新聞出版 |series=朝日選書 615 |date=1998-12 |edition=新版 |isbn=978-4-02-259715-1 |ref=両角 1998 }}
 
 
== 関連項目 ==
 
{{Portal box|フランス|ヨーロッパ|歴史|戦争}}
 
{{commons&cat|Napoléon Bonaparte|Napoleon I of France}}
 
{{Wikiquote|ナポレオン・ボナパルト}}
 
* [[古参近衛隊]]
 
* [[ヘーゲル]]
 
* [[交響曲第3番 (ベートーヴェン)]]
 
* [[ロゼッタ・ストーン]]
 
* [[戦車 (タロット)]]
 
* [[ドンブロフスキのマズルカ]] - ポーランド国歌。2番の歌詞にボナパルトの名が入っている。
 
* [[1812年 (序曲)|序曲1812年]]
 
* [[分進合撃]]
 
* [[ポルタ・ニグラ]]
 
* [[オリバー・クロムウェル]]
 
* [[奴隷制]] - 1794年にジャコバン派はフランス領での奴隷制を廃止したが、ナポレオンは1802年に奴隷制を復活した。
 
* [[恐竜]] - 1796年以降のナポレオンのヨーロッパ征服により、各地の[[化石]]などがフランスに持ち込まれ、[[ジョルジュ・キュビエ]]らの研究の発展に貢献した。
 
* [[ナポレオン帽]]
 
 
===「ナポレオン」の異名を与えられた人物 ===
 
{{col-begin}}
 
{{col-2}}
 
* [[ナーディル・シャー]] - [[アフシャール朝]]の開祖。「ペルシアのナポレオン」
 
* [[トトメス3世]] - [[古代エジプト]][[第18王朝]]の[[ファラオ]]。「エジプトのナポレオン」
 
::上記の2人は、ナポレオンが生まれる前の時代の人物である。
 
* [[トゥーサン・ルーヴェルチュール]] - [[ハイチ]]の[[独立運動]]指導者。「黒いナポレオン」
 
* [[アンドレス・デ・サンタ・クルス]] - [[ペルー・ボリビア連合]]指導者。「[[アンデス山脈|アンデス]]のナポレオンにして[[インカ帝国]]の後継者」
 
* [[セシル・ローズ]] - [[イギリス]]の[[政治家]]。「アフリカのナポレオン」
 
* [[ミハイル・トゥハチェフスキー]] - [[ソビエト連邦|ソ連]][[赤軍]]総参謀長。「赤いナポレオン」
 
* [[ヴォー・グエン・ザップ]] - [[北ベトナム]]人民軍総司令官。「赤いナポレオン」
 
{{col-2}}
 
* [[ミシェル・プラティニ]] - [[サッカー選手]]
 
* [[ジャン=ベデル・ボカサ]] - [[中央アフリカ帝国]]皇帝。「黒いナポレオン」
 
* [[ジョン・マグロー]] - [[メジャーリーグベースボール|MLB]][[監督]]。[[サンフランシスコ・ジャイアンツ|ニューヨーク・ジャイアンツ]]の監督として黄金時代を築き、その独裁的采配で「リトル・ナポレオン」の異名をとる。
 
* [[ジェームズ・モリアーティ]] - 推理小説「[[シャーロック・ホームズシリーズ]]」の登場人物。「犯罪のナポレオン」
 
* [[金子直吉]] - [[神戸市]]に存在した[[総合商社]]「[[鈴木商店]]」の[[大番頭]]。「財界のナポレオン」
 
* [[山田顕義]] - [[日本]]の初代[[司法大臣]]。「小ナポレオン」
 
{{col-end}}
 
 
== 外部リンク ==
 
*[http://www.napoleonicsociety.com/ International Napoleonic Society]
 
*[http://www.westpoint.edu/history/SitePages/Napoleonic%20Wars.aspx UNITED STATES MILITARY ACADEMY WEST POINT ナポレオン戦争の会戦図(英語)]
 
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! style="background:#ccf;"|地位の継承
 
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{{s-new|reason=[[ブリュメールのクーデター|執政政府成立]]}}
 
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[[Category:ジャコバン派]]
 
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[[Category:フランスの亡命者]]
 
 
[[Category:フランス革命期の軍人]]
 
[[Category:フランス革命期の軍人]]
 
[[Category:フランスの紙幣の人物]]
 
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[[Category:カトリック教会に破門された人物]]
 
 
[[Category:金羊毛騎士団員]]
 
[[Category:金羊毛騎士団員]]
[[Category:クーデター政権指導者]]
 
 
[[Category:アジャクシオ出身の人物]]
 
[[Category:アジャクシオ出身の人物]]
 
[[Category:1769年生]]
 
[[Category:1769年生]]
 
[[Category:1821年没]]
 
[[Category:1821年没]]

2018/8/16/ (木) 12:47時点における最新版

David - Napoleon crossing the Alps - Malmaison1.jpg


ナポレオン・ボナパルトフランス語: Napoléon Bonaparte1769年8月15日 - 1821年5月5日

フランス第一帝政の皇帝(在位 1804~14,1815)。生粋のコルシカ人貴族の子。

フランスで教育を受け,1785年パリ士官学校を卒業。フランス革命初期にはジャコバン・クラブ(ジャコバン派)に入会。コルシカ独立運動に参加したが指導者パオリと衝突し,1793年一家をあげてフランスに亡命,同 1793年ニースの連隊に復帰した。この頃からナポレオン・ボナパルトと呼ばれるようになった。同 1793年8月国民公会軍の砲兵隊の指揮官に任命され,12月反革命派の手中にあったツーロン港の砲撃を指揮して奪回に成功し,准将に昇進。1796年3月イタリア遠征軍司令官となる。同 1796年3月9日ジョゼフィーヌと結婚。カンポフォルミオ条約によってイタリアで 5年間続いた戦争は収拾され,ナポレオンの人気は頂点に達した。1798年7月エジプトに遠征,1799年11月エマニュエル=ジョゼフ・シエイエスと結んでブリュメール十八日のクーデターを断行し執政政府を樹立,軍事独裁を始めた。1804年5月に帝国成立が宣言されると皇帝に即位。以後産業振興,学制改革,行政,司法の再編成などを行なった。

1807~10年頃相次ぐ対外戦争の勝利によってその威信と権力は頂点に達したが,1812年のロシア遠征の失敗によって諸国民戦争が勃発。1813年ライプチヒの戦いの敗北で没落は決定的となり,1814年5月エルバ島に流された。島を脱出し 1815年3月上陸,再びヨーロッパ連合軍と対抗,ベルギーに進撃し,6月リニーでプロシア軍を撃破したが,ワーテルローでイギリス軍と戦って敗れ(ワーテルローの会戦百日天下),セントヘレナ島に流されて同地で没した。





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