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| 画像コメント = 映画『[[チャップリンの失恋]]』のチャップリン
 
 
| 本名 = チャールズ・スペンサー・チャップリン<br />Charles Spencer Chaplin
 
| 本名 = チャールズ・スペンサー・チャップリン<br />Charles Spencer Chaplin
 
| 別名義 = チャーリー・チャップリン<br />Charlie Chaplin
 
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| 活動期間 = [[1895年]] - [[1976年]]
 
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| 配偶者 = [[ミルドレッド・ハリス]](1918年 - 1920年)<br/>[[リタ・グレイ]](1924年 - 1928年)<br/>[[ポーレット・ゴダード]](事実婚)(1936年 - 1942年)<br/>[[ウーナ・オニール]](1943年 - 1977年)
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| 英国アカデミー賞 =  
 
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| トニー賞 =  
 
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| 日本アカデミー賞 =  
 
| 日本アカデミー賞 =  
| その他の賞 = '''NY批評家協会賞'''<br />1940年 男優賞(『独裁者』)<br />'''[[ヴェネツィア国際映画祭]]'''<br />1972年 栄誉賞
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| その他の賞 =
 
| 備考 =  
 
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'''“チャーリー”サー・チャールズ・スペンサー・チャップリン'''('''Sir Charles Spencer "Charlie" Chaplin''', [[KBE]]、[[1889年]][[4月16日]] - [[1977年]][[12月25日]])は、[[イギリス]]出身の[[映画]][[俳優]]、[[映画監督]]、[[コメディアン]]、[[脚本家]]、[[映画プロデューサー]]、[[作曲家]]である。
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'''“チャーリー”サー・チャールズ・スペンサー・チャップリン'''('''Sir Charles Spencer "Charlie" Chaplin''', [[KBE]]、[[1889年]][[4月16日]] - [[1977年]][[12月25日]]
  
== 生涯 ==
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イギリス生まれの喜劇俳優,監督,制作者。本名 Charles Spencer Chaplin。
映画の黎明期において、数々の傑作[[コメディ映画]]を作り上げ、「'''[[喜劇]]王'''」の異名をもつ。同年代に活躍したコメディアン、[[バスター・キートン]]や[[ハロルド・ロイド]]と並び、「世界の三大喜劇王」と呼ばれる。チャップリンは、[[ハリウッド]]において極めてマルチな才能を示した人物であり、徹底した完璧主義で知られていた。その作品は、[[ユーモア]]の陰に鋭い[[風刺|社会諷刺]]、下町に生きる庶民の哀愁や怒り、涙までも描かれているため、{{要出典範囲|純粋に笑いのみを追求する他のコメディアンとは一線を画す存在であることは特筆すべきである。各種[[メディア (媒体)|メディア]]を通じ、現在においても彼の姿や作品に触れることは容易である。 今以て研究が続けられ、作品の修復プロジェクトは進行中である。関連書やオリジナルグッズも多く発売され、新発見と驚きでファンを魅了し続ける。|date=2017年1月}}
 
 
 
=== 前半生 ===
 
[[1889年]][[4月16日]]、[[イギリス]]・[[ロンドン]]のケニントン地区、ランベスのイースト・レーンで生まれた<ref>「近年発見されたチャップリン宛の手紙では、彼がバーミンガム郊外のジプシー集落で生まれたとある[http://www.guardian.co.uk/film/2011/feb/17/charlie-chaplin-gypsy-heritage]」などと報道されたが、チャップリン研究の大野裕之によると{{信頼性要検証|date=2013年1月}}、この手紙の存在は以前から研究者の間で知られており、「薄気味悪い話の好きなチャップリンは頭のおかしな人からの手紙をとっておいただけ」とのことである。</ref>。父は[[チャールズ・チャップリン・シニア]]、母は[[ハンナ・チャップリン]]で、ともに[[ミュージック・ホール]]の俳優である。1歳のときに両親は離婚し、以降は母親のもとで育てられた。
 
 
 
5歳のとき、[[オールダーショット|オルダーショット]]の劇場での公演で、舞台に立っていた母ハンナが喉をつぶしてしまう。そこで支配人は、チャーリーが舞台裏で様々な芸で母親の友人たちを笑わせているところを見たため、彼を急きょ舞台に立たせることにした。チャーリーはそこで歌を歌って大喝采を浴びた。これがチャーリー・チャップリンの初舞台となった。しかし、これによって母親は二度と舞台に立つことができず、チャップリン家は貧窮生活に陥った。そして[[1896年]]頃に母親は精神に異常をきたし施設に収容された。
 
 
 
どん底生活を余儀なくされたチャーリーは、4歳違いの異父兄[[シドニー・チャップリン (1885年生)|シドニー]]といくつかの貧民院や孤児学校を渡り歩き、生きるために床屋、印刷工、ガラス職人、新聞やマーケットの売り子とあらゆる職を転々とし、時にはコソ泥まで働いた。その傍ら俳優斡旋所に通い、[[1899年]]に木靴ダンスの一座「エイト・ランカシア・ラッズ」に加わった。[[1901年]]、父チャールズ・シニアが[[アルコール依存症]]で死去。
 
 
 
[[1903年]]、『ロンドン子ジムの物語』のサム役、『[[シャーロック・ホームズ]]』のビリー役を演じ、地方巡業にも参加。その後、様々な劇団を転々とし演技のスキルを積んでいった。
 
 
 
[[1908年]]、兄の勧めで名門{{仮リンク|フレッド・カーノー|en|Fred Karno}}劇団に入り<ref>この劇団には後に[[ローレル&ハーディ]]として有名になるスタン・ローレルも在籍していた。</ref>、寸劇『フットボール試合』のけちんぼ役、『恐れ知らずのジミー』などで成功。一座の若手看板俳優となった。この頃15歳のコーラス・ガール[[ヘティ・ケリー]]に恋をする。
 
 
 
[[1909年]]、[[パリ]]巡業。[[1910年]]、寸劇『スケート』や『ワウワウ』に主演し好評を博す。 [[アメリカ合衆国|アメリカ]]および[[カナダ]]各地を巡業。
 
ことにボックス席の酔っ払いが騒動を巻きおこす『マミング・バーズ(唖鳥)』は当たり役となり、以後『ロンドン・クラブの一夜』と題されて成功をおさめた。
 
 
 
=== 映画界へ ===
 
[[Image:ChaplinMakinALiving.jpg|thumb|right|200px|デビュー作『成功争ひ』(1914)より、ペテン師役のチャップリン(右側)]]
 
[[1913年]]、カーノー劇団の2度目のアメリカ巡業の際に、映画プロデューサー[[マック・セネット]]の目にとまり、週給150ドルの契約で、「[[キーストン・コップス]]」で有名な[[キーストン・スタジオ|キーストン社]]([[:en:Keystone Studios|英語版]])に入社する。翌[[1914年]]、『[[成功争ひ]]』で映画デビュー。セネットに「面白い格好をしろ」と要求され、チャップリンは楽屋にいって山高帽に窮屈な上着、だぶだぶのズボンにドタ靴、ちょび髭にステッキという扮装で、2作目の『[[ヴェニスの子供自動車競走]]』に出演。以降『[[独裁者 (映画)|独裁者]]』(1940年)までこの扮装が彼のトレードマークとなった。
 
 
 
キーストン社のトップスターである[[フォード・スターリング]]や[[メーベル・ノーマンド]]、[[ロスコー・アーバックル]]らと共演し、たちまち人気者となったチャップリンは、同年に『[[恋の二十分]]』で初めて監督・脚本を務めた。この年だけでチャップリンは35本の短編と、『[[醜女の深情け|醜女の深情]]』というマック・セネット監督の長編に出演している。
 
 
 
=== 国際的スター ===
 
[[1915年]]、[[シカゴ]]の[[エッサネイ・スタジオ|エッサネイ社]]([[:en:Essanay Studios|英語版]])に週給1250ドルの契約で移籍。自身で監督・脚本・主演した作品を14本作り、チャップリン演じる浮浪者が繰り広げる[[スラップスティック・コメディ映画|ドタバタコメディ]]は人気を博した。エッサネイ社第2作の『[[アルコール夜通し転宅]]』で[[エドナ・パーヴァイアンス]]が起用され、以後8年間、公私ともに良きパートナーとして過ごす。
 
 
 
[[1916年]]、週給1万ドルにボーナス15万ドル、年額67万ドル(アメリカ大統領の年俸の7倍)という破格の契約金で[[ミューチュアル・フィルム|ミューチュアル社]]([[:en:Mutual Film|英語版]])に迎えられる。ここでは製作の自由を与えられ、よりよい環境とスタッフの下12本の傑作を世に送った。
 
 
 
この年に兄シドニーが弟のマネージャーとなり、運転手として日本人の[[高野虎市]]が雇われた。チャップリンは、「ミューチュアルで働いていた頃が、一番幸福な時期だったかもしれない」と語っている。またこれらの作品はアメリカのみならず、イギリスや[[フランス]]、[[日本]]など世界各国に配給され、高い人気を得た<ref>チャップリンはその当時驚異的な人気ゆえに、扮装から軽妙な動作に至る模倣者が多く出現した。[[ビリー・ウェスト (俳優)|ビリー・ウェスト]]や[[ハロルド・ロイド]]もその一人で、1917年に、チャップリン側は物まね芸人を相手取って訴訟を起こした。無論勝訴したのだが、権利概念の乏しかった時代に、後の[[ミッキーマウス]]などに代表される「キャラクター商標権」をこのとき初めて導入したのが兄シドニーであった。</ref>。
 
 
 
[[1918年]]、[[ハリウッド]]のラ・ブレア通りに自身の撮影スタジオを設け、[[ファースト・ナショナル社]]([[:en:First National|英語版]]、後に[[ワーナー・ブラザース]]と合併)と、年間100万ドル超の契約を結び、名実ともに世界的ビッグスターとなる。一作ごとにかける時間と労力を惜しまず、マイペースで作品を作れる環境を整え、多くの名作を生みだした。また同年には、[[第一次世界大戦]]にイギリスや日本などとともに参戦した、アメリカ政府の発行する戦時[[公債]]促進キャンペーンに尽力し、[[プロパガンダ映画]]『[[公債 (映画)|公債]]』を製作。16歳の新進女優[[ミルドレッド・ハリス]]と初めての結婚も果した。
 
 
 
[[ファイル:United_Artists_contract_signature_1919.jpg|thumb|left|200px|UA創立メンバー(左から)[[D・W・グリフィス]]、[[メアリー・ピックフォード]]、'''チャップリン'''、[[ダグラス・フェアバンクス]](1919年)]]
 
[[1919年]]、盟友の[[ダグラス・フェアバンクス]]、[[メアリー・ピックフォード]]、監督の[[D・W・グリフィス]]とともに配給会社[[ユナイテッド・アーティスツ]](現[[メトロ・ゴールドウィン・メイヤー]]傘下)を設立し、俳優がプロデューサーを介さず映画製作が出来る公益な場を提供する。
 
 
 
[[1921年]]、全米で大ヒット中の映画『[[キッド (1921年の映画)|キッド]]』を携え、故郷ロンドンヘ凱旋帰国。たいへんな歓迎ぶりで、小説家[[H.G.ウェルズ]]や各界著名人と親交を結んだ。パリ、[[ベルリン]]と、戦後のヨーロッパの各都市を一巡したチャップリンは、戦禍の傷跡を人々の間に目の当たりにする[http://www.youtube.com/watch?v=g6v33jiXNT8]。帰国後、口述で『My Trip Abroad』をしたためる<ref>この書物は[[1922年]]に[[欧米]]で刊行され、日本では『僕の旅』(高瀬毅訳)として[[1930年]](昭和5年)に[[中央公論社]]より出版された。</ref>。
 
 
 
[[1923年]]、初の自身が出演しない監督作品『[[巴里の女性]]』をユナイテッド・アーティスツから発表。
 
 
 
[[1925年]]、『[[黄金狂時代]]』が記録的大ヒット。
 
 
 
[[1928年]]、『[[サーカス (映画)|サーカス]]』を製作し、同年度の[[第1回アカデミー賞]]で特別賞を受賞する。同年、母親が死去。
 
 
 
[[ファイル:Chaplin and Gandhi.jpg|thumb|right|220px|[[インド]]独立の父・[[マハトマ・ガンディー]](中央)と会談するチャップリン(前列左から2人目)。機械文明について意見が交わされた。[http://www.youtube.com/watch?v=j7xWpUnXIPk]1931年9月、[[ロンドン]]にて]]
 
[[1931年]]、[[トーキー]]隆盛の中、[[サイレント映画|サイレント]]の孤塁を守って3年がかりで撮った『[[街の灯]]』が興行的な成功をおさめ、人気のピークを迎えていたチャップリンは、一年半に及ぶ世界旅行へと出立。10年ぶりに訪れたロンドンでは[[ウィンストン・チャーチル|チャーチル]]や劇作家の[[ジョージ・バーナード・ショー|バーナード・ショー]]と、ベルリンでは『街の灯』のプレミアに招聘した[[アルベルト・アインシュタイン|アインシュタイン]]や[[マレーネ・ディートリヒ]]と再会を果たす。
 
 
 
[[1932年]]、イギリスの[[植民地]]である[[シンガポール]]に[[ジャワ島|ジャワ]]、[[バリ島]]を経て兄シドニーとともに日本へ。[[神戸]]や[[東京]]を訪問するものの、訪日中にたまたま発生した[[国粋主義]]的な[[士官]]による[[クーデター]]未遂事件である[[五・一五事件]]の巻添えになりかける。「日本に退廃文化を流した元凶」として、首謀者たちの間でチャップリンの[[暗殺]]が画策されていた。
 
 
 
[[1936年]]、機械文明と[[資本主義]]を批判した『[[モダン・タイムス]]』と、[[1940年]]に[[ナチス・ドイツ]]を批判した『[[独裁者 (映画)|独裁者]]』を発表。{{要出典範囲|しかしこれら2作は政治的メッセージが強いと受け止めるものも多く、この頃から欧米や日本などにおける鋭進的な左右両派からの突き上げが激しくなっていく。|date=2017年1月}}
 
 
 
[[1941年]]12月にはアメリカが[[第二次世界大戦]]に参戦したことで戦時体制下に入ったために、戦時中は映画製作の停止を余儀なくされた。
 
 
 
=== 赤狩りとハリウッド追放 ===
 
[[1945年]]に第二次世界大戦が終結し、[[ソビエト連邦]]をはじめとする[[東側諸国]]との[[冷戦]]が始まったアメリカで、『モダン・タイムス』以降の一連の作風が「[[容共]]的である」とされ、非難の的とされた。特に[[1947年]]公開の『[[殺人狂時代 (1947年の映画)|殺人狂時代]]』以降はバッシングも最高潮に達し、[[1950年代]]に入り、[[ジョセフ・マッカーシー]][[上院議員]]指揮の下、[[赤狩り]]を進める[[下院非米活動委員会]]から、他の「容共的である」とされた俳優や監督とともに何度も召喚命令を受ける。[[1948年]]に、フランス映画批評家協会は彼を[[ノーベル平和賞]]に推薦した。
 
 
 
[[1952年]]、ロンドンで『[[ライムライト (映画)|ライムライト]]』のプレミアのために向かう船の途中、アメリカの[[ハリー・S・トルーマン|トルーマン]]政権の[[アメリカ合衆国司法長官|司法長官]][[ジェームズ・P・マグラネリー]]([[:en:James P. McGranery]])から事実上の国外追放命令を受ける。自身の意にはそぐわなかったが、[[スイス]]・[[ローザンヌ]]のアメリカ[[領事館]]で再入国許可証を返還した。
 
 
 
アメリカの一般国民はこのチャップリンの追放劇に激しく抗議。決定した国務長官のもとに国内だけで数万通に及ぶ抗議の手紙が殺到した。マグラネリーは特別に、「チャップリン氏がアメリカにとって危険な人物である証拠は存在するが、今は明らかにできない」と声明を出した。[[1954年]]には左派団体の[[世界平和評議会]]が「平和国際賞」を贈るなど、この追放劇はチャップリンの名声を利用しようとした世界各国の右派、左派両方から政治的に利用される結果となった。
 
 
 
[[File:Visited the family and Ukai sightseeing Chaplin.jpg|thumb|250px|家族と鵜飼見物に訪れ、鵜匠と記念写真を撮るチャップリン (右端).]]
 
 
 
アメリカを去ったチャップリンは、映画への出演もめっきり少なくなるが、スイスの[[葡萄園|ブドウ畑]]を臨む広大な邸宅「マノワール・ド・バン」に移り住み、妻[[ウーナ・オニール|ウーナ]]や8人の子供たちと晩年を送る。世界的な名士として、[[クララ・ハスキル]]や[[パブロ・カザルス]]、[[ジャン・コクトー]]、[[山口淑子]]、[[周恩来]]らと交友関係を持った。
 
 
 
[[1965年]]に[[エラスムス賞]]を受賞。その頃に公刊された『私の自叙伝』は空前の[[ベストセラー]]となった。[[1969年]]、3女ヴィクトリアのために新作を構想。「[[フリーク (チャップリンの映画)|ザ・フリーク]]」([[:en:The Freak|The Freak]])の台本にとりかかる。また旧作を再公開するため、[[バックグラウンドミュージック]]の作曲を続けた。
 
 
 
[[1971年]]、フランス政府により[[レジオンドヌール勲章]]、パリ市議会からは[[名誉市民]]の称号を与えられる。
 
 
 
=== 再びアメリカへ ===
 
[[1972年]]、[[アカデミー賞]][[アカデミー名誉賞|名誉賞]]に選ばれ、授賞式に出席するため、20年ぶりにアメリカの地を踏む([[#アカデミー賞|後述]])。舞台に登壇したチャップリンに対し、会場にいる全ての者が[[スタンディングオベーション]]で迎えた。
 
 
 
[[1975年]]、それまでの活動を評価され[[エリザベス2世]]より[[ナイト]]に叙され「サー・チャールズ」となった。しかし、左寄りとされた思想や女性問題で叙勲がかなり遅れたことが分かっている([[#スキャンダル|後述]])。
 
 
 
[[1976年]]の秋、スイスの「クニー・サーカス」([[:en:Circus Knie|Circus Knie]])の公演に[[車イス]]姿で目撃される。これはチャップリンがスイスに居住して以来、毎年欠かさない鑑賞行事であった。
 
 
 
=== 死去 ===
 
[[Image:Charlie Chaplin grave.jpg|160px|thumb|チャップリンの墓]]
 
[[1977年]]の[[クリスマス]]の朝、スイス・[[ヴェヴェイ]]の街を見渡せる村コルズィエ=スュール=ヴェヴェイの自宅で死去。88歳だった。
 
 
 
生前は隣村に移住していたイギリスの俳優[[ジェームズ・メイソン]](1984年没)と親交を深めていた。両者は死後、村の墓地に3メートルほどの距離で埋葬された。
 
 
 
死後、金銭目的で墓から柩が持ち出される事件があったが、柩は墓地から17キロメートル離れた[[レマン湖]]畔のトウモロコシ畑で発見された[http://www.youtube.com/watch?v=UoJv_dMjzrE]。
 
 
 
後日、主犯の[[ポーランド人]]ロマン・ワルダス(Roman Wardas)と、[[ブルガリア人]]ガンチョ・ガネフ(Gantscho Ganev)の2人が逮捕された[http://news.bbc.co.uk/onthisday/hi/dates/stories/may/17/newsid_2512000/2512129.stm]。
 
 
 
ヴェヴェイのレマン湖畔にはチャップリンの銅像が建立された。なお、ロンドンの[[レスター・スクウェア]]にも同型のチャップリン立像がある。
 
 
 
== 作品の特徴 ==
 
{{出典の明記|date=2017年1月|section=1}}
 
=== 役柄 ===
 
[[image:Chaplin - Kid Auto Races in Venice.png|thumb|200px|left|初めて「トランプさん」の扮装で登場した『ヴェニスの子供自動車競走』[http://www.youtube.com/watch?v=pQH0j2Ofqkg]]]
 
チャップリンの最もよく知られている役柄は「小さな放浪者=[[:en:The Tramp|The Little Tramp]]」である。窮屈な上着に、だぶだぶのズボンと大きすぎる靴([[ドタ靴]])、[[山高帽]]に竹の[[ステッキ]]といったいでたち、[[パーマ]]頭にちょび[[髭]]の人物で、[[アヒル]]のように足を大きく広げてガニ股で歩く特徴をもつ。[[ホームレス]]だが紳士としての威厳をもち、優雅な物腰とその持ち前の反骨精神で[[ブルジョワジー|ブルジョワ]]を茶化し、権力を振りかざすものを笑い飛ばした。
 
 
 
この独特の扮装と役柄は、映画出演2作目『[[ヴェニスの子供自動車競走]]』([[1914年]])で初めて登場している (チャップリン本人は当初、観客に受け入れられるとは思わなかったという)。以後、このTrampは年代とともに徐々に変化し、滑稽味の中にもペーソス(悲壮感)を湛えたハートフルな[[キャラクター]]に成長。貧しくとも人間としての誇りを失わない永遠の“放浪紳士チャーリー”が誕生する。アメリカの反動的なマスコミから、「危険思想をバラ撒き、健全な市民階級に毒素を注入している」などと揶揄されたが、そんな保守的な世論にも果敢に立ち向かい、[[プロレタリアート]]の立場から、[[資本主義]]社会に対する不平等への“怒り”を表現するに至る。
 
 
 
=== 作風 ===
 
初期はショート作品が主体で、放浪者のキャラクターも心優しさよりは寧ろコミカルな動き一辺倒で笑わせる非道な[[スラップスティック・コメディ映画|ドタバタ]]が主流であった。貧困階層の市民として、当時の世相や政府を風刺したものが多く、また思想的には[[アナキズム|アナーキー]]でドライな作風が多い(女たらしで喧嘩っ早く、周囲との揉め事は始終絶えない。ラストは偽った身分もバレて巡査との追いかけっこ、というパターンがお決まりである)。
 
 
 
しかし、[[1917年]]の『[[チャップリンの勇敢|勇敢]]』・『[[チャップリンの移民|移民]]』あたりから、社会的弱者に対する同情が彼独自の[[ヒューマニズム]]となり、コメディー路線に新たな境地を切り拓く。
 
 
 
[[ファイル:Chaplin The Kid.jpg|200px|right|thumb|“ほほ笑みと、ひと粒の涙を”- 『キッド』のワンシーン。[[ジャッキー・クーガン]]と]]
 
[[1918年]]の『[[犬の生活]]』でよく知られる「心優しき放浪者」が完成された後、『[[担へ銃]]』では戦争の愚かさと一兵卒の悲哀を[[ユーモア]]のなかに描き、『[[偽牧師]](1923)』では、宗教を笠に着る偽善を巧みに暴いてみせた。また『[[サニーサイド]](1919)』では、甘美な夢と痛ましい現実が交錯し、初の長編『[[キッド (1921年の映画)|キッド]](1921)』ではドタバタも控えめに、ドラマ性重視の[[コミックリリーフ|コメディリリーフ]]を試みた。捨て子と実母との再会までの奇跡を、実の親子以上の絆で結ばれた二人の物語となって、観客の胸を打つ。
 
 
 
さらに[[リアリズム]]に徹した意欲作『[[巴里の女性]](1923)』。[[アラスカ地区|アラスカ]]・[[クロンダイク (ユーコン準州)|クロンダイク]]の金鉱発掘者たちのドラマ『[[黄金狂時代]](1925)』。曲馬団の少女に恋をして奮闘する『[[サーカス (映画)|サーカス]](1928)』などで、高い芸術性が評価されるようになる。<br>また、背中を向けてひとり悄然と、しかし朗らかに歩み去っていくラストシーンは、初期の『[[チャップリンの失恋|失恋]](1915)』で初めて登場して以来の定石であるが、[[エドナ・パーヴァイアンス]]との出会いから生み出されたと言われる。
 
 
 
以降、美しいものへの憧憬と、放浪者のまなざしが社会の歪みや冷酷さへ向けられると、その作風も大きく変わってゆく。
 
 
 
街角で出会った盲目の花売り娘に、無償の愛を注ぐ『[[街の灯]](1931)』。大不況のさ中に苦悶する労働者の実態を通し、幸福とはなにかを問い掛ける『[[モダン・タイムス]](1936)』。ナチス・ドイツが台頭するヨーロッパで、ヒトラーをこてんぱんにカリカチュアした『[[独裁者 (映画)|独裁者]](1940)』。“チャーリー”スタイルから脱却し、反戦メッセージを含ます異色のブラック・コメディ『[[殺人狂時代 (1947年の映画)|殺人狂時代]](1947)』。落ちぶれた老芸人が、足の不自由なバレリーナと再起を賭ける『[[ライムライト (映画)|ライムライト]](1952)』。現代アメリカの矛盾点を鋭くえぐった『[[ニューヨークの王様]](1957)』など。
 
 
 
フランスの映画監督[[ジャン・ルノワール]]は「チャップリンはただ一つの作品をつくったのだ」と言っている。
 
 
 
専属の[[キャメラマン]]に、エッサネイ時代から『殺人狂時代』までの長きにわたり{{仮リンク|ローランド・H・トザロー|en|Roland Totheroh}}が務めた。
 
 
 
[[ファイル:Chaplin The Immigrant.jpg|200px|thumb|『チャップリンの移民』(1917年)より。ヒロイン役のエドナ・パーヴァイアンスとは30本以上の作品で共演した。エドナ最後のチャップリン映画は『巴里の女性』である。]]
 
出演者には同じ俳優を起用することが多く、[[ヒロイン]]役には[[エドナ・パーヴァイアンス]]が[[1915年]]から[[1923年]]までの全35本の作品に出演している。そのほかのヒロイン役としては[[ジョージア・ヘイル]](『黄金狂時代』)、[[ヴァージニア・チェリル]](『街の灯』)、[[ポーレット・ゴダード]](『モダン・タイムス』『独裁者』)、[[クレア・ブルーム]](『ライムライト』)などが挙げられる。助演者にはチャップリンの右腕で良き親友でもあった[[ヘンリー・バーグマン]](全20本に出演)をはじめ、[[アルバート・オースチン]]、[[アラン・ガルシア (俳優)|アラン・ガルシア]]、[[エリック・キャンベル]]、[[ジョン・ランド]]、[[レオ・ホワイト]]などが常連出演した。また[[マック・スウェイン]]、[[フィリス・アレン]]、[[チェスター・コンクリン]]、[[ハンク・マン]]といったキーストン・スタジオ出身の喜劇俳優たちも長くチャップリン映画で活躍した。
 
 
 
=== ペーソス ===
 
チャップリンに関して伝えられる物語の一つに、彼が子供の時に見た[[屠畜場|食肉処理場]]から逃げ出した[[ヒツジ|羊]]の話がある。周囲の人間は慌てて羊を追いかけるのだが、羊も必死で逃げるから羊も人間も右往左往、あちこちぶつかってはひっくり返った。そのおかしな光景に周りの人間は腹を抱えて笑ったが、やがて羊がつかまえられたとき、「あの羊、殺されるよ…」と泣きながら母のもとに走って行った。喜劇と悲劇が紙一重になっているチャップリンの作風の原点となっている。(『自伝』より)
 
 
 
[[image:Charlie Chaplin by Charles C. Zoller 4.jpg|left|200px|thumb|『犬の生活』のセットで ([[ジョージ・イーストマン]]・ハウス収蔵)]]
 
“永遠の放浪者チャーリー”のモデルとされる人物には、幼少に見たルンペンたち、ミュージック・ホール時代のスターたち、草創期の映画スターたち(特に[[マックス・ランデー]])など多くのモデルがいる。<br>チャップリンの母[[ハンナ・チャップリン|ハンナ]]は、通りをゆく人々を[[パントマイム]]で表現し、幼い彼に人間観察の大切さを教えたという。
 
 
 
映画の中で笑いの起爆剤となる[[靴|ドタ靴]]について、[[淀川長治]]は著書や講演の際に「寒い雪の中を教会の慈善スープを貰いに、母親の靴を履かされた思い出」などを語っているが、作り話であった。
 
 
 
チャップリンの幼少期の経験は、後に作られる数々の作品の中で断片的に投影されていく。
 
 
 
劇団の巡業で渡米する際、母親の入国許可は下りなかったが、ハリウッドで成功してからは母を呼び寄せることができた。彼女を風光明媚な海岸の一軒家に住まわせ、面倒見のいい夫婦と経験豊かな看護婦を雇った。しかし彼女は最後まで息子の成功を理解できぬまま、[[1928年]]に亡くなった。もう生活の気苦労はなかったはずなのに、この先何か問題が起こるのではないかと心配していた、と後年チャップリンは回想している。
 
 
 
=== 反ナチズム ===
 
[[image:Bundesarchiv Bild 102-11347, Berlin, Charly Chaplin mit Schutzpolizisten.jpg|right|170px|thumb|ドイツ、[[国会議事堂 (ドイツ)|ベルリン国会議事堂]]前のチャップリン(1931年3月)]]
 
チャップリンは、[[ドイツ]]の[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチ党]]の指導者で、選挙を経て同国の総統となり、その後独裁体制を敷いた[[アドルフ・ヒトラー]]に強い反感を持ち、[[1940年]]に発表した『[[独裁者 (映画)|独裁者]]』ではヒトラーを痛烈に批判している。
 
 
 
ただ、『独裁者』製作時のアメリカはまだ[[第二次世界大戦]]に参戦しておらず、国内にはドイツ系市民を中核とする親ナチ派が歴として存在していた。[[ファシズム]]色を濃くし、[[ユダヤ人]]への弾圧強化、[[オーストリア]]や[[チェコスロバキア]]を併合していった上に第二次世界大戦を引き起こしたヒトラーに対してさえ、「[[共産主義]]の防波堤」と称賛する者もいたほどで、チャップリンの元には連日のように製作中止を求めるクレーム、暗殺を仄めかす脅迫状が届いた。しかし、そんな陰の圧力にも屈せず公開させると、批評家からは概ね好評で、熱烈な反ファシストを宣言していた[[フランクリン・ルーズベルト|F・D・ルーズベルト]]大統領から[[ホワイトハウス]]に招かれるなど、それまでのチャップリン映画中、最も興収を上げた作品となった。
 
 
 
[[Image:Dictator_charlie5.jpg|left|220px|thumb|『独裁者』(1940)より、風船の地球儀を弄ぶ名シーン]]
 
なお、この映画に出てくる床屋のイメージからか「チャップリン=ユダヤ人」と捉える人も根強くいるが、チャップリンはユダヤ人ではない<ref>兄の[[シドニー・チャップリン (1885年生)|シドニー・チャップリン]]がユダヤ人の[[クォーター]]であると主張しており、それが関連している可能性がある。詳しくは英語版Wikipedia ‐ [[:en:Sydney Chaplin|Sydney Chaplin]]を参照のこと。</ref>。チャップリンはカーノー劇団所属時での寸劇や、ごく初期の作品でユダヤ人を小馬鹿にする[[ギャグ]]を使っている(挨拶の際、ユダヤ人特有の長い顎鬚で涙を拭ったり引張ったりする)。また、ある人には「ユダヤ人と思われて光栄だ」と語っており、それが「チャップリン=ユダヤ人」説の原因になったのかもしれない。
 
 
 
=== 完璧主義者 ===
 
監督、主演だけではなく脚本や演出も担当し、『街の灯』以降の全作品、[[1918年]]からの『キッド』、『黄金狂時代』、『サーカス』などの一連のサイレント作品をリバイバル上映用に再編集して、自ら[[劇伴]]を作曲したこと、わずか数秒のシーンを納得のいくまで何百テイクと撮り直したことなどから、業界随一の'''完璧主義者'''と呼ばれた。特に『街の灯』における花売り娘との出会いのシーン(正味3分ほど)では、一年以上にわたって342回もの[[NG (放送用語)|NG]]を出した(チャップリンが主演の[[ヴァージニア・チェリル]]を根本的に好かなかったという理由がある)。この映画は完成までに534日かかっているが、たった一つの場面だけに368日が費やされている。前作の『サーカス』においては、地上数十メートルの高さで[[スタント]]なしで綱渡りを披露したことも例に挙げられる。
 
 
 
また、唯一のシリアスメロドラマ『[[巴里の女性]]』(1923年)においては、映画作家としての手腕を発揮し、後世の映画人に与えた影響は大きい。最後に撮った『[[伯爵夫人 (映画)|伯爵夫人]]』(1967年)同様、監督にのみ徹し主演はしていないが、後者は[[ソフィア・ローレン]]、[[マーロン・ブランド]]という二大ビッグスターを起用し話題にはなったものの、コメディに不向きなマーロンを抜擢したのが良くなかったのか、「時代おくれ」 「偉大な天才の凡作」という評価が多かった。一方『巴里の女性』は、永年の相手役エドナ・パーヴァイアンスを大女優にすべく製作されたもので、それまでのハリウッド製娯楽映画にはみられなかった[[ソフィスティケイテッド・コメディ|ソフィスティケート]]された演出が話題をさらい、当時の批評家やインテリ層を唸らせた。しかし一般受けせず、興行成績も芳しくなかったため、長らくの[[お蔵入り]]となる。この「幻の名作」が再び世に出たのは[[1976年]]、死の前年のことであった。
 
 
 
== 技術的・音楽的な特徴 ==
 
[[ファイル:Charlie Chaplin playing the cello 1915.jpg|170px|right|thumb|チェロを弾くチャップリン]]
 
出演した作品は[[無声映画|サイレント映画]]がほとんどで、こういったことから「チャップリンは[[トーキー]]を軽蔑し、サイレントに固執していた」という印象が強いが、軽蔑していたのではなく放浪者のイメージが声で崩れることを恐れたとされる。
 
 
 
[[1929年]]には、アメリカの大半がトーキー(サウンド)映画に移行する中で、「'''パントマイム芸こそが世界共通語'''」だと疑わぬチャップリンには信念があった。実際[[1931年]]の『[[街の灯]]』では、サイレント形式にこだわりつつも、全編にわたって初めて音響効果を伴うサウンドを付けた<ref>作品の重要な[[モチーフ]]となっている「{{仮リンク|La Violetera|en|La Violetera}}(すみれの花売り娘)」は、[[スペイン]]の歌手[[ラケル・メレエ]]によって広く歌われた[[シャンソン]]で、チャップリンはこの曲をこよなく愛した。</ref>。続く[[1936年]]の『[[モダン・タイムス]]』では、ストーリー上必要な部分にだけトーキーを使い<ref>当初はトーキー映画として構想されたが、撮影初期段階でできばえに満足せず、サイレントに切り替えられた。</ref>、[[1940年]]公開の『[[独裁者 (映画)|独裁者]]』で初めて、完全なトーキーに踏みきった。全編[[カラー映画|カラー]]の[[画面アスペクト比|シネマスコープ]]作品は『伯爵夫人』のみである。
 
 
 
音楽家になる夢を捨てきれず、[[1916年]]にチャーリー・チャップリン音楽会社を設立し、自作の曲3曲を出版した(「Peace Patrol」、「Oh!That Cello」、「There's Always One You Can't Forget」)。しかし2000部刷った楽譜は3部しか売れず、すぐに頓挫してしまったらしい。[[1925年]]には、[[エイブ・ライマン・オーケストラ]]([[:en:Abe Lyman|Abe Lyman]])をバックに2曲(「Sing A Song」、「With You Dear In Bombay」[http://www.youtube.com/watch?v=eA6j_SFy47k])をレコーディング。ゲスト・コンダクターとして指揮をとり、ヴァイオリンのソロパートも自ら演奏した。
 
 
 
正式な音楽教育は受けていないため、[[譜面]]の読み書きは出来なかったという意見もあるが、サイレント映画における伴奏音楽の重要性を早くから認識し、『[[キッド (1921年の映画)|キッド]]』を上映の際には全ての劇場に[[キューシート]]を配付するなど、音に対して万全であった。チャップリンの作曲は、思いついたメロディを[[ピアノ]]で弾いたり口ずさんだりしたものを、専属の[[アレンジャー]]が写譜する形を取った。撮影の合間を縫っては、かけだしの頃に独学で習得した[[チェロ]]や[[ヴァイオリン]](左利きだったため、弦は通常とは逆の並びに張られている特注品を愛用)を奏で、アイディアに行き詰まると自宅に備え付けられた[[ハーモニウム]]を何時間でも鳴らしたという。 そこでチェロ、ヴァイオリン、ピアノ、ハーモニウムを自在に演奏し、音楽会社まで設立した人間が、「譜面の読み書きは出来ない」というのは無理があり、チャップリンが全く出来なかったことは[[オーケストレーション]]と[[編曲|アレンジ]]であったと考えるのが妥当である。 ただ、多くのチャップリンについての伝記には依然として、「譜面の読み書きは出来ない」と書かれている。
 
 
 
チャップリンは[[後期ロマン派]]の爛熟した時代に生まれ、現代音楽の黎明期をリアルタイムで接し「前衛の時代の終焉」の時代に没したため、特に音楽的な語彙の豊富な映画監督になった。ロンドンの街角で辻楽士が弾く「スイカズラと蜂[http://www.youtube.com/watch?v=A9wYs5LV2kM]」という[[流行歌|流行り唄]]に魅せられた幼少期から、[[ミュージック・ホール]]に根ざした大衆音楽([[ポピュラー音楽|ポピュラーソング]])に慣れ親しんだ彼だからこそ書けるメロディーラインが、そこにはあった。アメリカの風刺画家[[ラルフ・バートン]]([[:en:Ralph Barton|Ralph Barton]])を通じて知り合った[[タイユフェール]]、ナチス政権を逃れてハリウッドに定住していた[[イーゴリ・ストラヴィンスキー|ストラヴィンスキー]]や[[アルノルト・シェーンベルク|シェーンベルク]]、[[ハンス・アイスラー]]と分け隔てなく交流したことも、彼にインスピレーションを与えた。また[[レオポルド・ゴドフスキー]]とは友人であり、一緒に写った写真が残されている。チャップリンの作曲は「ずぶの素人」にでも分かりやすい同じフレーズの反復を多用したが、これはゴドフスキーが「古きウィーン」でみせた作曲法と全く同一である。この点、プロの作曲や難解な[[和声]][[イディオム]]を前面に押し出した[[ヒッチコック]]とは対照的である。 『独裁者』及び『[[黄金狂時代]]』のサウンド版で、[[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]、[[ヨハネス・ブラームス|ブラームス]]といった[[クラシック音楽|クラシック]]の既成曲を大胆なアレンジで聞かせているのも、センスの良さが窺える。『[[ニューヨークの王様]]』の出だしから[[星条旗 (国歌)|アメリカ国歌]]を直裁に引用したのも、最後まで反骨精神を失わなかった証である。
 
 
 
チャップリンの作曲した楽曲としては、“[[スマイル (チャールズ・チャップリンの曲)|スマイル]]”(Smile)(『モダン・タイムス』)や“[[エターナリー (チャールズ・チャップリンの曲)|エターナリー]]”(Eternally)(『[[ライムライト (映画)|ライムライト]]』)が有名。[[プッチーニ]]の[[アリア]]にも似た美しい“スマイル”は、最初歌詞が付けられていなかったが、[[1954年]]に歌詞が付けられ、[[ナット・キング・コール]]の歌により大ヒットした。その後は[[マイケル・ジャクソン]]や[[エルヴィス・コステロ]]らによってカヴァーされ、今日でも[[スタンダード・ナンバー]]として多くのアーティストにより歌い継がれている。<br>また、『モダン・タイムス』の劇中においてチャップリンが歌ったデタラメ語による“[[ティティーナ]]”(Titina)は、ロサンゼルスの[[ラッパー]]、[[J-Five]]によって[[サンプリング]]され、[[ラップ]]でも歌われた。
 
 
 
近年、生の[[オーケストラ]]をバックに、チャップリンの色褪せぬ[[映画音楽|フィルム・ミュージック]]を[[スクリーン]]とともに愉しむ機会が世界的に増えてきた。[[指揮者]]の[[カール・デイヴィス]]([[:en:Carl Davis|Carl Davis]])や[[ティモシー・ブロック]]([[:en:Timothy Brock|Timothy Brock]])が基あるオリジナル・スコアを忠実に復元したものが、劇場で新たな命を吹き込まれ、「ライブ・シネマ」という形で甦っている。
 
 
 
== 家族 ==
 
[[image:Charles-chaplin 1920.jpg|150px|thumb|right|素顔のチャップリン(Photo by Homer Peyton, c.1929)]]
 
* 父:[[チャールズ・チャップリン・シニア]]
 
* 母:[[ハンナ・チャップリン]]
 
* 異父兄:[[シドニー・チャップリン]]
 
* 異父弟:[[ウィーラー・ドライデン]]
 
 
 
チャップリンは生涯に4度の結婚を行ったとされる。〈〉は妻との間に生まれた子。()内は結婚期間
 
 
 
* 最初の妻:[[ミルドレッド・ハリス]]([[:en:Mildred Harris|Mildred Harris(英語版)]])([[1918年]] - [[1920年]])※当時16歳で結婚
 
** 長男〈長男〉:[[ノーマン・スペンサー・チャップリン]]([[1919年]]生、生後3日で死去)
 
:『キッド』制作中の1920年3月、ミルドレッドは精神上の虐待を理由に離婚申し立ての訴訟を起こし、『キッド』のフィルムを差し押さえようとした。それを逃れるため、チャップリンは州を越えた[[ソルトレイクシティ]]へ逃避し、ホテルの一室を借りて編集作業を行った。同年8月に裁判が開始し、11月にミルドレッドに10万ドルの[[損害賠償|慰謝料]]と共有財産折半の条件を飲んで離婚が成立した。
 
 
 
* 2人目の妻:[[リタ・グレイ]]([[:en:Lita Grey|Lita Grey(英語版)]])([[1924年]] - [[1928年]])
 
** 次男〈長男〉:[[チャールズ・チャップリン・ジュニア|チャールズ・チャップリンJr]]([[1925年]]生 - [[1968年]]没)
 
** 三男〈次男〉:[[シドニー・チャップリン (1926年生)|シドニー・アール・チャップリン]]([[1926年]]生 - [[2009年]]没、俳優で『ライムライト』、『伯爵夫人』などに出演)
 
:リタとは『キッド』などで共演しており、『黄金狂時代』のヒロインに起用したことで、関係が始まった。1924年にリタの妊娠が発覚し、リタの両親が激怒。カリフォルニア州法では未成年女性と関係を持つと[[強姦罪]]に問われ、最高30年の刑になるため、リタの両親はそれをタネにチャップリンに結婚を強要し、11月に[[メキシコ]]で密かに挙式を挙げた。これにより、リタは『黄金狂時代』のヒロインを降板し、代わりに[[ジョージア・ヘイル]]が務めることとなった。
 
 
 
* 3人目の妻:[[ポーレット・ゴダード]]([[:en:Paulette Goddard|Paulette Goddard(英語版)]])([[1936年]] - [[1942年]])
 
:ただし法的な籍はいれておらず、内縁関係であったという<ref>大野裕之著『チャップリン・未公開NGフィルムの全貌』p.8。また、チャップリンの従兄弟も二人は結婚していなかったと回想している。</ref>。
 
 
 
* 4人目の妻:[[ウーナ・オニール]]([[:en:Oona O'Neill|Oona O'Neill(英語版)]])([[1943年]] - [[1977年]])
 
** 長女〈長女〉:[[ジェラルディン・チャップリン]](1944年生 - 、女優で『[[ドクトル・ジバゴ (1965年の映画)|ドクトル・ジバゴ]]』、『[[チャーリー (映画)|チャーリー]]』などに出演。女優としては最も有名)
 
** 四男〈長男〉:[[マイケル・チャップリン]](1946年生 - 、『ニューヨークの王様』に出演)
 
*** 孫:[[ドロレス・チャップリン]](女優、J-FIVE ''Modern Times'' の[[ミュージックビデオ]]に出演)
 
*** 孫:[[カルメン・チャップリン]](女優)
 
** 次女〈次女〉:[[ジョゼフィン・チャップリン]](1949年生 - 、女優で『[[カンタベリー物語]]』に出演。[[日本チャップリン協会]]最高顧問)
 
** 三女〈三女〉:[[ヴィクトリア・チャップリン]](1951年生 - 、女優、『独裁者』のメイキングフィルム(カラー)を発見した)
 
** 五男〈次男〉:[[ユージーン・チャップリン]](1953年生 - 、[[レコーディング・エンジニア]]、ノック・サーカス(Circus Nock)芸術監督)
 
*** 孫:{{仮リンク|キエラ・チャップリン|en|Kiera Chaplin}}([[モデル (職業)|モデル]]、[[実業家]]でもある)
 
** 四女〈四女〉:[[ジェーン・チャップリン]](1957年生 - )
 
** 五女〈五女〉:[[アネット・チャップリン]](1959年生 - 、[[モーリス・ベジャール]]振付によるバレエ「Mr.C」(1994年)に主演)
 
** 六男〈三男〉:[[クリストファー・チャップリン]](1962年生 - )
 
 
 
== スキャンダル ==
 
チャップリンの華やかな女性遍歴を指摘する声も多々あるが、映画史家デイヴィッド・ロビンソンによると、チャップリンは女性との関係において、「ハリウッドの標準としては慎ましやかなものだった」という。3度の結婚が未成年者であることから、[[ロリータ・コンプレックス|ロリータ嗜好]]があったというのは後の人間による憶測に過ぎない。
 
 
 
[[1922年]]に婚約説が流れた[[ポーラ・ネグリ]]。『黄金狂時代』のヒロイン[[ジョージア・ヘイル]]。新聞王[[ウィリアム・ランドルフ・ハースト]]の妾の[[マリオン・デイヴィス]]といった女優との浮名も流している。
 
 
 
『サーカス』制作中の[[1927年]]、[[リタ・グレイ]]に離婚訴訟を起こされ、自身の私生活を公表される。示談金62万5000ドルを支払うことで終結し、離婚が成立するが、この騒動は当時38歳のチャップリンを心労で白髪させるほどのものであった。後年に執筆した[[自伝]]では彼女についてほとんど触れられていない。後にリタは「じゃあ私が書きます。」と自分で赤裸々な暴露本を書いた。また、撮影スタジオの[[火災]]や、[[1928年]]には最愛の母の死もあり、チャップリンにとってあまりいい時期ではないようだ。
 
 
 
18年間チャップリンの元で秘書として仕え、身の回りの世話を任されていた日本人[[高野虎市]]であったが、3番目の妻([[事実婚]])とされる[[ポーレット・ゴダード]]のあまりの浪費癖に辟易し、[[1934年]]には彼のもとを去っている。
 
 
 
[[1943年]]、女優[[ジョーン・バリー (アメリカの女優)|ジョーン・バリー]]([[:en:Joan Barry (American actress)|英語版]])には子供の父権認知訴訟を起こされる。[[ABO式血液型#判定方法|血液判定]]ではチャップリンの子ではないと判定されたが、血液検査を無視した滅茶苦茶な裁判の結果、1対11の[[陪審員]]評決で扶養義務を負うことになった。バリーは、これ以前に銃を携行してチャップリン邸に押し入るなど奇行がみられた。
 
 
 
また戦争への出兵拒否、[[ソビエト連邦|ソ連]]を助けるための第二戦線開始のアジ演説をしたことで[[連邦捜査局|FBI]]から牽制を受けるなど、チャップリンをめぐる[[噂|ゴシップ]]は[[マスメディア|マスコミ]]の餌食となり、[[第二次世界大戦]]から[[冷戦]]期のアメリカでは、その平和思想もあいまって[[ネガティブ・キャンペーン]]の的となった。
 
 
 
== フリーメイソンリー ==
 
{{External media
 
| image1 = [http://www.chaplin.pl/pgallery/different/208big.jpg Liberty Loan 1918] - チャップリン、F・D・ルーズベルト、[[マリー・ドレスラー]]、[[メアリー・ピックフォード]]、ダグラス・フェアバンクス他。[[:en:3rd Liberty Loan Act|Liberty Loan Act]]にて。(The Life and Art of Charlie Chaplin)
 
}}
 
{{See also|独裁者 (映画)#フリーメイソンリー|殺人狂時代 (1947年の映画)#フリーメイソンリー}}
 
チャップリンの関係者・接触者の中で著名な[[フリーメイソン]]は、チャップリンと[[ユナイテッド・アーティスツ]]社を共同設立した[[ダグラス・フェアバンクス]](1925年フリーメイソンリー入会)<ref>{{Cite web |url= http://www.calodges.org/no528/hist/|title= The History of our Worshipful Lodge|publisher= [http://www.calodges.org/no528/home.htm Beverly Hills Masonic Center Lodge No. 528]|accessdate=2013-10-21}}</ref>と[[D・W・グリフィス]]<ref>{{Cite web |url= http://freemasonry.bcy.ca/textfiles/famous.html|title= A few famous freemasons|publisher= Grand Lodge of British Columbia and Yukon|accessdate=2013-10-21}}</ref>、チャップリン映画の俳優[[チェスター・コンクリン]](1916年フリーメイソンの階級を昇級)<ref>{{Cite web |url= http://www.calodges.org/no394/index.xml|title= CDATA|publisher= [http://www.calodges.org/no394/ Torrance University Lodge #394]|accessdate=2013-10-21}}</ref>、チャップリンを厚遇した[[フランクリン・ルーズベルト|F・D・ルーズベルト]](1911年入会)<ref name="10000famousQ-Z">{{Cite book|author=ウィリアム・R・デンスロウ & ハリー・S・トルーマン|year=1957|title = 10,000 Famous Freemasons: Volume IV Q to Z|url= http://www.phoenixmasonry.org/10,000_famous_freemasons/Volume_4_Q_to_Z.htm|publisher= Macoy Publishing & Masonic Supply Co., Inc. (optically scanned by [http://www.phoenixmasonry.org/main/ Phoenixmasonry])}}</ref>など。チャップリンが米国から追放された当時の大統領[[ハリー・S・トルーマン]]もフリーメイソンである(1909年入会)<ref name="10000famousQ-Z" />。『モダン・タイムス』に関してはチェスター・コンクリンが出演した他、1954年に「スマイル」を歌詞付で発表した[[ナット・キング・コール]]はフリーメイソンである(1944年1月9日入会<ref>{{Cite web |url=http://www.pinallodge30.com/famousmasons.aspx |title=Famous Masons |publisher=Pinal Lodge #30 (Freemasons' lodge in Arizona) |archiveurl=https://archive.is/20121208144505/http://www.pinallodge30.com/famousmasons.aspx |archivedate=2012年12月8日 |accessdate=2014-10-31 |deadurldate=2017年9月 }}</ref>)。
 
 
 
== チャップリンと日本 ==
 
* [[大正|大正時代]]から日本では「'''変凹君'''」「'''アルコール先生'''」という愛称で親しまれた。これは当時の日本人にはチャップリンの名が発音しにくかったため、[[映画会社の一覧|配給会社]]があだ名での紹介をしたためで、酔いどれ役も多かったことからそのように呼ばれた。
 
* 正月興行として恒例だった[[ニコニコ大会]]。[[ロスコー・アーバックル]](通称デブ君)、[[メーベル・ノーマンド]]、[[チェスター・コンクリン]]、[[マック・スウェイン]]、[[ベン・ターピン]]など花形の喜劇役者がお目見えする中、ひと際子供たちに人気があったのがチャップリンだった。
 
* チャップリン喜劇を得意とした映画説明者([[活動弁士]])に[[大蔵貢]]、[[杉浦市郎]]、[[松竹]]で活躍した俳優・[[小倉繁]]は“和製チャップリン”といわれた。
 
[[image:Great Dictator speech.jpg|thumb|250px|『独裁者』日本公開版での演説シーン。]]
 
* 戦前に日本で公開されたチャップリン映画は『[[モダン・タイムス]]』([[1938年]]/昭和13年封切)までで、[[太平洋戦争]]による空白期間を経て、戦後初のチャップリン作品は『[[黄金狂時代]]』サウンド版だった([[1946年]]/昭和21年)。[[1940年]]製作の『[[独裁者 (映画)|独裁者]]』は[[1960年]](昭和35年)に封切られた。
 
* チャップリンが映画の中で使用した有名な根鞭[[杖|ステッキ]]は、[[滋賀県]][[草津市]]の[[特産品]]で、地元の[[竹]]([[寒竹]])で作られており、しなりが強い。ただし最初からステッキを使っていたわけではなく、当初は[[雨傘]]を用いていた。
 
* 運転手(後に[[秘書]])として採用した[[高野虎市]]の仕事ぶりを高く評価していたため、一時家の[[家事使用人|使用人]]がすべて日本人で占められていた。2番目の夫人リタ・グレイは、「まるで日本の中で暮らしているかのよう」と評した。ただ、その次にチャップリンに身を寄せていた[[ポーレット・ゴダード]]は高野を嫌っていたため衝突し、高野は辞任した(高野解雇説は『チャップリンの影』のなかで大野裕之が資料を元に否定)。
 
* 『[[サーカス (映画)|サーカス]]』の製作中、映画監督の[[牛原虚彦]]が高野の紹介で弟子入りしていた。撮影されたシーンの出来をチャップリンが試写室で確認する際、彼も見学することができたという。非常に勉強になったと後に[[淀川長治]]との対談などで振り返っている。
 
* [[プロレタリア文学|プロレタリア作家]]・[[小林多喜二]]は小樽映画鑑賞会の会員としてその機関誌「シネマ」に次々と映画批評を執筆した。中でもチャップリンが大好きで何度も見ているが、チャップリンのセンチメンタルなヒューマニズムの限界を指摘し、高収入を上げすぎたゆえ、自らとは全く違う立場の人間であると批判した。
 
* 文豪・[[芥川龍之介]]はその随筆で、「あのチャーリー・チャップリンもやはり[[社会主義|社会主義者]]の一人である。もし社会主義者を迫害するとすれば、チャップリンもまた迫害しなければなるまい」と述べている。
 
 
 
[[File:Charles Chaplin and Sumo wrestlers.jpg|250px|thumb|right|初来日時に撮影されたチャップリン一行と力士たち。右から3人目がチャップリン、同2人目が[[高野虎市]]]]
 
* [[1932年]](昭和7年)5月14日に初来日。[[東京駅]]には推定4万人の群衆が押し寄せた。当時の新聞記事は「何のことはない、震災当時の避難民の喧騒と怒号が渦巻いていた」と伝えた。翌日には首相官邸で歓迎会に出席する予定であったが、ただならぬ[[五・一五事件]]に遭遇して<ref>チャップリンは[[犬養毅]]首相との面会予定をキャンセルし、犬養の息子[[犬養健|健]]と[[両国国技館|国技館]]で[[相撲]]を観戦したあと散歩をしていたため、事件そのものには遭わなかった。しかし狙われている可能性があると、高野と親しかった元陸軍少将・[[櫻井忠温]]からの情報により助けられた。陸軍青年将校らの不穏な動きを知らされた高野は東京駅から帝国ホテルに向かう車中、チャップリンに車から降りて[[皇居]]に遥拝してほしいと頼む。6月2日の帰国当日の朝、[[斎藤実]]首相を官邸に訪問した後、犬養毅が暗殺された現場に案内されたチャップリンは、板戸に残る弾痕を見て、思わず「テリブル、テリブル」と呟いたという。</ref>、多大な衝撃を受けた。[[歌舞伎座]]や[[明治座]]で念願だった[[伝統芸能]]を鑑賞。[[中村吉右衛門 (初代)|初代中村吉右衛門]]や[[尾上菊五郎 (6代目)|六代目尾上菊五郎]]、[[市川左團次 (2代目)|二代目市川左團次]]の楽屋を訪ね、所感を述べた。また喜劇役者の[[曾我廼家五郎]]とは、互いに[[富士山]]を色紙に描いて交換しあう。 記者会見で「各国の文化水準は監獄を見れば解る」との持論から、5月20日に小菅刑務所(現・[[東京拘置所]])を視察。「恐らく設備、明るさの点からいって世界一」と絶賛した。またその際、「私はどの国でも猥褻犯の質問をします。この犯のパーセンテージでその国の国民性がわかる」と話したという<ref>[[読売新聞]] 2018年3月5日 P.8 「時代の証言者」『冤罪のち次官 村木 厚子 28 最終回</ref>。[[帝国ホテル]]に定宿し、[[和牛]][[ステーキ]]をえらく気に入った。また[[箱根町|箱根]]の[[富士屋ホテル]]、[[横浜市|横浜]]の[[ホテルニューグランド]]に逗留。[[銀座|日本橋]]の「花長」では[[エビ|海老]]の[[天ぷら]]を36尾も平らげ、その後の来日でも好んで[[えび天|エビ天]]を食べたことから、「'''天ぷら男'''」のあだ名がついた。さらに「花長」で修行した[[板前]]が乗船しているということで、帰国時の船を[[氷川丸]]に決めたのはこの時だった。なお、花長での記録は現在も破られていないという。
 
*5月19日に五・一五事件で殺害された犬養首相の葬儀が総理官邸の大ホールでとり行われた。その際にチャップリンは「憂国の大宰相・犬養毅閣下の永眠を謹んで哀悼す」との弔電を寄せた。この事に驚く参列者も多かった。
 
* その1932年の初来日の際、通訳を務めたのは当時[[読売新聞]]文芸部長を務め、後に小説家に転身した[[小野金次郎]]で、小野金次郎がチャップリンから戴いたサイン入りポートレートが孫である俳優の[[小野武彦]]が自身の自宅に保存していることを明かしている<ref>『[[ウチくる!?]]』([[フジテレビジョン|フジテレビ]] 2013年3月10日放送)にて小野武彦自身の述懐。</ref>。
 
* [[1936年]](昭和11年)3月に再来日。[[ユナイト映画]]の大阪支社に勤務していた[[淀川長治]]が、[[神戸港]]に停泊するクーリッジ号で、45分の単独インタビューに成功。同年5月には、当時の愛人[[ポーレット・ゴダード]]との[[新婚旅行]]を兼ねた世界漫遊の途中で3度目の来日。船上で[[ジャン・コクトー]]と合流する。[[京都市|京都]]に足を運び、最高級の[[老舗]][[旅館]]「柊家」に宿泊。名所旧跡を訪ね、[[西陣]]で[[絹]]のガウンを購入した。[[銀座|銀ブラ]]、[[浅草]]、[[相撲]]見物と愉しみ、足早に離日。チャップリンは船のタラップを駆け上り、やおら振り向くと、帽子をつぶして、[[セントヘレナ島]]へ流される[[ナポレオン]]のポーズをとって、見送りの人々をドッと笑わせたという。
 
[[ファイル:Shibuya in 1950s.jpg|thumb|250px|チャップリンが『義経千本桜』を鑑賞した「東横ホール」があった東急百貨店東横店(1959年の写真)]]
 
* 戦後は[[1961年]](昭和36年)7月にウーナ夫人、長女の[[ジェラルディン・チャップリン|ジェラルディン]]、長男のマイケルを連れて4度目の来日。通訳を務めたのは[[山口淑子]]。[[渋谷]]の[[東急百貨店東横店|東横ホール]]で、[[中村富十郎 (5代目)|五代目中村富十郎]]の『[[義経千本桜]]』を鑑賞。[[日光東照宮]]では靴下に草履ばきで、指が入らず突っ掛けて、お参り。藁ぶき屋根の農家や、風情ある[[銭湯]]を見つけるとふらり立ち寄り、お茶をご馳走になったり、脱衣場に居合わせた人々にビールやアイスクリームを振る舞ったという。[[高度経済成長|高度成長]]期で変貌著しい[[東京都|東京]]の風景には失望するも、チャップリンがもっとも愛したと言われる京都に来て、「古き良き日本の姿」を見て喜んだと伝えられる。
 
* [[日本映画]]は[[黒澤明]]の『[[羅生門 (1950年の映画)|羅生門]]』しか見ていなかったが、「非常に高い水準の作品」と褒め称えている。
 
* [[1970年]](昭和45年)の[[日本万国博覧会|大阪万博]]の時に、日本側が招聘を試みたが実現しなかった。[[1972年]](昭和47年)の[[リバイバル]]上映時も来日が企画されたが実現せず、代わりに次女ジョゼフィンが来日した。
 
* 3度目の来日で[[岐阜市|岐阜]]を訪れ、[[長良川鵜飼|鵜飼]]を鑑賞した。鵜匠山下幹司の絶妙な手縄さばきに「ワンダフル」を連発。幻想的な篝火にも魅了され、「鵜飼は一遍の詩であり、鵜匠は詩人である」と言い残した。その後、4度目の来日の際にも再び岐阜を訪れたが、すっかり変わり果てた鵜飼の姿に「戦前はこんなのではなかった……」と落胆した。なお、現在岐阜市内での鵜飼の[[ポスター]]には、チャップリンと鵜が共にいる[[デザイン]]のものが用いられている。[[下呂温泉]]の白鷺橋には記念の[[銅像|ブロンズ像]]が[[2001年]]に設置された。
 
* 晩年[[マスメディア|マスコミ]]から遠ざかり、[[スイス]]に隠棲していたチャップリンに、幸運にも接する機会を得た著名人として[[タレント]]の[[萩本欽一]]、[[ヴァイオリニスト]]の[[前橋汀子]]がいる。
 
* 1972年、世界中でチャップリン回顧ブームとなる中、日本では[[東宝東和]]が「ビバ! チャップリン」と銘打ち、『モダン・タイムス』を皮切りに代表作10本(併映小品あり)を順次公開すると、異例の大ヒットを記録した。[[ロングラン]]は続き、[[1986年]](昭和61年)に国内での上映権が一旦切れた後は、[[日本における衛星放送|衛星放送]]や市販[[磁気テープ|ビデオ]]、[[レーザーディスク]]などで楽しむ他はなかった。しかし[[2003年]](平成15年)、[[角川ヘラルド・ピクチャーズ|日本ヘラルド映画]]が『[[犬の生活]]』以降の国内上映権を再購入し、同年5月から[[朝日新聞]]と日本ヘラルド映画の主催で「Love Chaplin! チャップリン映画祭」が全国各地の[[映画館]]で行われ、後に[[DVD-Video|DVDソフト]]として[[デジタルリマスター]]された版が日本ヘラルド映画(発売元)、[[NBCユニバーサル・エンターテイメントジャパン|ジェネオンエンタテインメント]](販売元)からリリースされた<ref>このコレクターズ・ボックスは廃盤となり、現在メモリアル・エディションとして[[紀伊國屋書店]]から再リリースされている。特典映像を含め、内容は同一のものである。しかし[[PAL]]マスター(ヨーロッパ仕様の規格)を流用しているため、再生速度の問題(4%の早回しで国内の既発盤より音声ピッチが高いこと)、『[[チャップリン・レヴュー]]』の原版違いによるカットなどが指摘されている。</ref>。
 
[[File:Newtokyo sukiyabasibldg.jpg|thumb|200px|『放浪紳士チャーリー』のメイン上映館であったニュー東宝シネマ<ref>{{PDFlink|[https://www.toho.co.jp/files/pdf/%E4%B8%8A%E6%98%A0%E4%BD%9C%E5%93%81%EF%BC%98%EF%BC%93.pdf 直営洋画劇場上映作品 1965-1983 有楽町、ロードショー(洋画)上映作品リスト]}} - [[東宝|東宝株式会社]]</ref>(後の[[TOHOシネマズ有楽座]]。[[ニユートーキヨー]]ビル内)]]
 
* [[1977年]](昭和52年)の[[クリスマス]]、折しも[[有楽町]]で上映されていた、彼の半生を綴る[[ドキュメンタリー]]『[[放浪紳士チャーリー]](The Gentleman Tramp)』(1975)。上映終了後、館内に訃報のアナウンスが流れると、客席からはすすり泣きや感動の拍手が沸き起こった。
 
* ビデオテープが普及する前、権利なしのチャップリンの映画は家庭用[[8ミリ映画|8mmフィルム]]や[[16mm]]でよく見られていた(中でも人気だったのが『[[チャップリンの冒険]]』や『[[キッド (1921年の映画)|キッド]]』※但しサイレント版。サウンド版には著作権が存在する)。アメリカの[[ブラックホーク社]]が大量のクラシック映画を一般家庭用に分売しており、輸入業者を通じて手軽に入手できた。[[マツダ映画社]]や[[公共図書館]]などの弁士付き上映会でも頻繁にかかっていた。
 
* [[テレビ]]でもチャップリン映画は盛んに放映されており、古くは[[フランキー堺]](「チャップリン小劇場〔[[日本放送協会|NHK]]〕」)や[[愛川欽也]](『キッド』)による[[ナレーター|ナレーション]]入りで、[[1990年代|90年代]]は[[永井一郎]]や[[小松政夫]]が[[吹き替え]]た短編コメディーの放送があった。長編作品では、[[宝田明]](『[[殺人狂時代 (1947年の映画)|殺人狂時代]]』のヴェルドゥ役)や、[[高橋昌也 (俳優)|高橋昌也]](『[[ライムライト (映画)|ライムライト]]』のカルヴェロ役)、[[春風亭小朝]](『黄金狂時代』) などの吹き替え版もあった。 最近ではオリジナルを尊重し、そのままの形で放送されることが多い。
 
* 1986年に国内での上映権が切れたのは前述の通りだが、[[1988年]]から[[VHS]]でまとめて購入することが可能になった。この期間の終了は日本でも大きく報じられ、購買広告が1988年ごろにどこの新聞でも掲載されていた。さらに、NHKがチャップリンの放映権を独占しており、初期短編から『[[街の灯]]』、『[[独裁者 (映画)|独裁者]]』などの名作を中心に、[[プライムタイム]](「世界名画劇場」や「[[衛星映画劇場]]」)でよく放映していた。
 
* [[1977年]]の11月、「チャップリンと私」という作文を募った雑誌[[ロードショー (雑誌)|ロードショー]]の企画で、優秀賞に選ばれた読者がスイスのチャップリン邸を訪問するツアーが敢行された。喜劇俳優の[[伴淳三郎]]も参加し、一行はウーナ夫人に温かく迎えられたものの、チャップリン本人には会えなかった。置土産に持参した[[市松人形]]は、永くチャップリンの自室に飾られたという。
 
* [[三谷幸喜]]は小学生の頃、「ビバ! チャップリン」シリーズを見てファンになり、自分の描いた似顔絵を持って会いに行ったが会うことはできず、秘書に手渡したら1ヵ月後にサイン付きで送り返してくれたと語っている<ref>『[[スタジオパークからこんにちは]]』(NHK 2011年10月26日放送)、『[[新堂本兄弟]]』(フジテレビ 2013年11月3日放送)にゲスト出演した際、現物を披露した。</ref>。
 
* 日本におけるチャップリンの[[評論家]]としては長く[[淀川長治]]が代表的な存在だったが、淀川の死後は[[劇団とっても便利]]の[[大野裕之]]がチャップリン評論家の第一人者となった。まだ20歳代の大野は「Love Chaplin! チャップリン映画祭」(劇場パンフレット執筆)、「Love Chaplin! DVDコレクターズ・エディション」([[ライナーノーツ]]執筆)の監修を行い、[[2005年]]7月に[[ロンドン]]で行われたチャップリン国際会議にも、日本を代表して出席した。
 
* [[2006年]]に[[日本チャップリン協会]]が設立された。名誉会長は[[黒柳徹子]]、最高顧問にジョゼフィン・チャップリン、名誉顧問に山口淑子、会長に[[大野裕之]]が就任、本部は[[京都大学]]にある。2006年3月25日から4月2日まで、「チャップリンの日本」と題して、高野虎市遺品展と国際[[シンポジウム]]が[[京都市]]で開催され、大きな話題を呼んだ。国際シンポジウムではジョゼフィン・チャップリン、黒柳徹子、チャップリン研究の権威[[デイヴィッド・ロビンソン]]、大野裕之、[[ハリウッド]]の[[日系人]]俳優[[クライド・クサツ]]らが講演した。[[2007年]]3月には、京都市で日本チャップリン協会の主催で、「チャップリンと戦争」と題して、第二回チャップリン国際シンポジウムが開催され、チャップリンの孫のチャーリー・シストヴァリス、[[市川染五郎 (7代目)|市川染五郎]]、大野裕之らが講演した。第三回にあたる[[2009年]]3月には、次男のユージーンが招かれ、父親との思い出を語った。
 
* [[手塚治虫]]は、生前「どうすれば、人々の記憶に残る[[漫画]]が描けるのですか?」という質問に対して「とにかくチャップリンの映画を観ろ。あれにすべての答えがある」と決まって答えている。また「私の漫画の手法はチャップリンなしに考えられない」と語っており、[[ヒゲオヤジ]]のキャラクターの足の先が太くしゃんと立てないのはチャップリンの真似であったと明かし、さらに画面の[[齣|コマ]]を斜めにして、それまでの漫画の常識を壊したのも『黄金狂時代』のラストの真似だったと明かした。自著においても、[[ウォルト・ディズニー]]と同等チャップリンを敬愛している旨を述べている。
 
*  86年にコント山口君と武田君がいつものコントのノリで「放浪者」・「番頭」・「勇敢」をアテレコしたビデオが発売され後に再発された。
 
*  80年代に東映からチャップリンの短編のビデオが発売された。それらは独自の音楽と弁士の活弁がつけられた。
 
*  NHKで89年に「知られざるチャップリン」が放送されたがそれは本編をかなり短縮してかなりカットし、2部構成にし元のナレーションを加賀美アナにアテレコさせ淀川長治がチャップリンを語るシーンがあるが大半は萩本欽一のトークが占めていた。93年に再放映された。
 
 
 
== フィルモグラフィー ==
 
=== キーストン時代 ===
 
[[File:Dough and Dynamite 1914 Poster de la película.jpg|150px|right|thumb|『チャップリンのパン屋』(1914)のポスター]]
 
* [[1914年]]『[[成功争ひ]]』[[:en:Making a Living|Making a Living]]
 
* 1914年『[[ヴェニスの子供自動車競走]]』[[:en:Kid Auto Races at Venice|Kid Auto Races at Venice]]
 
* 1914年『[[メーベルの窮境]]』[[:en:Mabel's Strange Predicament|Mabel's Strange Predicament]]
 
* 1914年『[[泥棒を捕まえる人]]』[[:en:A Thief Catcher|A Thief Catcher]]
 
* 1914年『[[夕立 (1914年の映画)|夕立]]』[[:en:Between Showers|Between Showers]]
 
* 1914年『[[チャップリンの活動狂|新米活動屋]]』[[:en:A Film Johnnie|A Film Johnnie]]
 
* 1914年『[[タンゴのもつれ|もつれタンゴ]]』[[:en:Tango Tangles|Tango Tangles]]
 
* 1914年『[[彼がお好みの娯楽]]』[[:en:His Favorite Pastime|His Favorite Pastime]]
 
* 1914年『[[痛ましの恋]]』[[:en:Cruel,_Cruel_Love|Cruel,Cruel Love]]
 
* 1914年『[[幻燈会]]』[[:en:The Star Boarder|The Star Boarder]]
 
* 1914年『[[メーベルの身替り運転]]』[[:en:Mabel at the Wheel|Mabel at the Wheel]]
 
* 1914年『[[恋の二十分]]』[[:en:Twenty Minutes of Love|Twenty Minutes of Love]](初監督作)
 
* 1914年『[[チャップリンの総理大臣|キャバレー御難の巻]]』[[:en:Caught in a Cabaret|Caught in a Cabaret]]
 
* 1914年『[[とんだ災難 (1914年の映画)|とんだ災難]]』[[:en:Caught in the Rain|Caught in the Rain]]
 
* 1914年『[[多忙な一日|つらあて]]』[[:en:A Busy Day|A Busy Day]]
 
* 1914年『[[チャップリンの衝突]]』[[:en:The Fatal Mallet|The Fatal Mallet]]
 
* 1914年『[[彼女の友人である追いはぎ]]』[[:en:Her Friend the Bandit|Her Friend the Bandit]]
 
* 1914年『[[ノックアウト (1914年の映画)|ノックアウト]]』[[:en:The Knockout|The Knockout]]
 
* 1914年『[[メーベルの多忙な一日]]』[[:en:Mabel's Busy Day|Mabel's Busy Day]]
 
* 1914年『[[メーベルの結婚生活]]』[[:en:Mabel's Married Life|Mabel's Married Life]]
 
* 1914年『[[笑ひのガス]]』[[:en:Laughing Gas (1914 film)|Laughing Gas]]
 
* 1914年『[[チャップリンの道具方|小道具係]]』[[:en:The Property Man|The Property Man]]
 
* 1914年『[[チャップリンの画工]]』[[:en:The Face on the Bar Room Floor|The Face on the Bar Room Floor]]
 
* 1914年『[[レクリエーション (映画)|レクリエーション]]』[[:en:Recreation|Recreation]]
 
* 1914年『[[男か女か]]』[[:en:The Masquerader (1914 film)|The Masquerader]]
 
* 1914年『[[チャップリンの独身]]』[[:en:His New Profession|His New Profession]]
 
* 1914年『[[両夫婦]]』[[:en:The Rounders (1914 film)|The Rounders]]
 
* 1914年『[[新米雑役夫]]』[[:en:The New Janitor|The New Janitor]]
 
* 1914年『[[髭のあと]]』[[:en:Those Love Pangs|Those Love Pangs]]
 
* 1914年『[[チャップリンとパン屋|チャップリンのパン屋]]』[[:en:Dough and Dynamite|Dough and Dynamite]]
 
* 1914年『[[アルコール自動車競争の巻]]』[[:en:Gentlemen of Nerve|Gentlemen of Nerve]]
 
* 1914年『[[アルコール先生ピアノの巻]]』[[:en:His Musical Career|His Musical Career]]
 
* 1914年『[[他人の外套|逢引きの場所]]』[[:en:His Trysting Place|His Trysting Place]]
 
* 1914年『[[醜女の深情け|醜女の深情]]』[[:en:Tillie's Punctured Romance (1914 film)|Tillie's Punctured Romance]](監督=マック・セネット、主演=[[マリー・ドレスラー]]、[[アメリカ映画]]史上初の長編コメディ)
 
* 1914年『[[夫婦交換騒動]]』[[:en:Getting Acquainted|Getting Acquainted]]
 
* 1914年『[[アルコール先生原始時代の巻]]』[[:en:His Prehistoric Past|His Prehistoric Past]]
 
 
 
=== エッサネイ時代 ===
 
[[image:CC_The_Champion_1915.jpg|180px|right|thumb|『チャップリンの拳闘』(1915)のオリジナル・ポスター]]
 
* [[1915年]]『[[チャップリンの役者]]』[[:en:His New Job|His New Job]]
 
* 1915年『[[アルコール夜通し転宅]]』[[:en:A Night Out (film)|A Night Out]]
 
* 1915年『[[チャップリンの拳闘]]』[[:en:The Champion (film)|The Champion]]
 
* 1915年『[[アルコール先生公園の巻]]』[[:en:In the Park|In the Park]]
 
* 1915年『[[チャップリンの駈落]]』[[:en:A Jitney Elopement|A Jitney Elopement]]
 
* 1915年『[[チャップリンの失恋]]』[[:en:The Tramp (film)|The Tramp]]
 
* 1915年『[[アルコール先生海水浴の巻]]』[[:en:By the Sea|By the Sea]]
 
* 1915年『[[チャップリンのお仕事]]』[[:en:Work (1915 film)|Work]]
 
* 1915年『[[チャップリンの女装]]』[[:en:A Woman|A Woman]]
 
* 1915年『[[チャップリンの掃除番]]』[[:en:The Bank|The Bank]]
 
* 1915年『[[チャップリンの船乗り生活]]』[[:en:Shanghaied (1915 film)|Shanghaied]]
 
* 1915年『[[チャップリンの寄席見物]]』[[:en:A Night in the Show|A Night in the Show]]
 
* 1915年『[[チャップリンのカルメン]]』[[:en:Burlesque on Carmen|Burlesque on Carmen]]
 
* [[1916年]]『[[チャップリンの悔悟]]』[[:en:Police (1916 film)|Police]]
 
 
 
=== ミューチュアル時代===
 
[[File:One A.M. poster.jpg|thumb|170px|『午前一時』(1916)のオリジナル・ポスター]]
 
この期に製作された短編のアウトテイクスが奇跡的に残されており、『知られざるチャップリン(チャップリン・その素顔と未公開映像)』([[:en:Unknown Chaplin|Unknown Chaplin]])という[[ドキュメンタリー]]の中で見ることができる。[[日本放送協会|NHK]]でも一部放映された。
 
* [[1916年]]『[[チャップリンの替玉]]』[[:en:The Floorwalker|The Floorwalker]]
 
* 1916年『[[チャップリンの消防夫]]』[[:en:The Fireman (film)|The Fireman]]
 
* 1916年『[[チャップリンの放浪者]]』[[:en:The Vagabond|The Vagabond]]
 
* 1916年『[[午前一時]]』[[:en:One A.M.|One A.M.]]
 
* 1916年『[[チャップリンの伯爵]]』[[:en:The Count (film)|The Count]]
 
* 1916年『[[チャップリンの番頭]]』[[:en:The Pawnshop|The Pawnshop]]
 
* 1916年『[[チャップリンの舞台裏]]』[[:en:Behind the Screen|Behind the Screen]]
 
* 1916年『[[チャップリンのスケート]]』[[:en:The Rink (film)|The Rink]]
 
* [[1917年]]『[[チャップリンの勇敢]]』[[:en:Easy Street (film)|Easy Street]]
 
* 1917年『[[チャップリンの霊泉]]』[[:en:The Cure (film)|The Cure]]
 
* 1917年『[[チャップリンの移民]]』[[:en:The Immigrant|The Immigrant]]
 
* 1917年『[[チャップリンの冒険]]』[[:en:The Adventurer (film)|The Adventurer]]
 
 
 
=== ファースト・ナショナル時代 ===
 
[[ファイル:Shoulder Arms.jpg|thumb|180px|『担へ銃』(1918年)]]
 
* [[1918年]]『[[犬の生活]]』[[:en:A Dog's Life|A Dog's Life]]
 
* 1918年『[[公債 (映画)|公債]]』[[:en:The Bond|The Bond]]
 
* 1918年『[[担へ銃]]』[[:en:Shoulder Arms|Shoulder Arms]]
 
* [[1919年]]『[[サニーサイド]]』[[:en:Sunnyside (film)|Sunnyside]]
 
* 1919年『[[一日の行楽]]』[[:en:A Day's Pleasure|A Day's Pleasure]]
 
* [[1921年]]『[[キッド (1921年の映画)|キッド]]』[[:en:The Kid (1921 movie)|The Kid]]
 
* 1921年『[[のらくら]]』[[:en:The Idle Class|The Idle Class]]
 
* [[1922年]]『[[給料日]]』[[:en:Pay Day (1922 movie)|Pay Day]]
 
* [[1923年]]『[[偽牧師]]』[[:en:The Pilgrim (film)|The Pilgrim]]
 
:↑ここまでは全作品米国では[[パブリックドメイン]](音楽を除く)(米国以外では許諾が必要)↑
 
 
 
=== ユナイテッド・アーティスツ時代 ===
 
[[ファイル:Chaplin the gold rush boot.jpg|thumb|200px|『黄金狂時代』(1925年)の靴を食べる名シーン]]
 
[[ファイル:Chaplin - Modern Times.jpg|thumb|200px|『モダン・タイムス』(1936年)]]
 
:※:米国では[[パブリックドメイン]](米国以外では許諾が必要)
 
* [[1923年]]『[[巴里の女性]]』[[:en:A Woman of Paris|A Woman of Paris]](監督のみ、主演=[[エドナ・パーヴァイアンス]])
 
* [[1925年]]『[[黄金狂時代]]』※[[:en:The Gold Rush|The Gold Rush]]
 
* [[1928年]]『[[サーカス (映画)|サーカス]]』[[:en:The Circus (silent film)|The Circus]]
 
* [[1931年]]『[[街の灯]]』[[:en:City Lights|City Lights]]
 
* [[1936年]]『[[モダン・タイムス]]』[[:en:Modern Times (film)|Modern Times]]
 
* [[1940年]]『[[独裁者 (映画)|独裁者]]』[[:en:The Great Dictator|The Great Dictator]]
 
* [[1942年]]『黄金狂時代』サウンド版(1925年の『黄金狂時代』にチャップリン自身の作曲とナレーションを施したもの)
 
* [[1947年]]『[[殺人狂時代 (1947年の映画)|殺人狂時代]]』[[:en:Monsieur Verdoux|Monsieur Verdoux]]
 
* [[1952年]]『[[ライムライト (映画)|ライムライト]]』[[:en:Limelight (film)|Limelight]]
 
 
 
=== イギリスでの作品他 ===
 
* [[1957年]]『[[ニューヨークの王様]]』[[:en:A King in New York|A King in New York]]
 
* [[1959年]]『[[チャップリン・レヴュー]]』[[:en:The Chaplin Revue|The Chaplin Revue]](『犬の生活』、『担へ銃』、『偽牧師』の3本をまとめ、チャップリン自身の作曲とナレーションを施して再編集した映画)
 
* [[1967年]]『[[伯爵夫人 (映画)|伯爵夫人]]』[[:en:A Countess from Hong Kong|A Countess from Hong Kong]](監督のみ、唯一のカラー作品、主演=[[ソフィア・ローレン]]、[[マーロン・ブランド]])
 
 
 
== 受賞歴 ==
 
=== アカデミー賞 ===
 
;受賞
 
:[[第1回アカデミー賞|1929年]] [[アカデミー名誉賞|アカデミー特別賞]]:『[[サーカス (映画)|サーカス]]』
 
:[[第44回アカデミー賞|1972年]] アカデミー名誉賞
 
:[[第45回アカデミー賞|1973年]] [[アカデミー作曲賞]]:『[[ライムライト (映画)|ライムライト]]』
 
;ノミネート
 
:[[第13回アカデミー賞|1941年]] [[アカデミー主演男優賞]]、[[アカデミー脚本賞]]:『[[独裁者 (映画)|独裁者]]』
 
:[[第20回アカデミー賞|1948年]] アカデミー脚本賞:『[[殺人狂時代 (1947年の映画)|殺人狂時代]]』
 
 
 
1929年、『[[サーカス (映画)|サーカス]]』で第1回[[アカデミー賞]]の[[アカデミー賞#特別賞|特別賞]]を受賞した。「『サーカス』での脚本、演技、監督、製作で示した非凡な才能」に対しての受賞だった。だがチャップリンは授賞式には欠席し、後日、賞の授与の際も、「わずかの人間で決めた賞なんて、そうたいした名誉ではない。私の欲しいのは大衆の喝采だ。大衆が私の仕事を賞賛してくれるならば、それで十分だ」と語り、もらった[[オスカー像]]はドアのつっかいにされていた、と息子のチャールズJrは回想する<ref>C.チャップリンJr著『わが父チャップリン』p.41</ref>。なお、この受賞に伴い、ノミネートされていた喜劇監督賞<ref>この賞はこれ以降廃止された。</ref>と[[アカデミー主演男優賞|主演男優賞]]が取り消された。
 
 
 
[[ファイル:Chaplin oscar.JPG|thumb|220px|[[アカデミー名誉賞]]を受賞するチャップリン(右)。左はプレゼンターの[[ジャック・レモン]](1972年)]]
 
[[1972年]]、アメリカから追放されて20年後、第44回アカデミー賞で2度目の[[アカデミー賞#特別賞|特別名誉賞]]を受賞した[http://www.youtube.com/watch?v=J3Pl-qvA1X8]。これは、彼を守り切れなかったアメリカ映画界からの事実上の謝罪の意と、「映画を20世紀の芸術たらしめたチャップリンへの計り知れない功績」に対しての受賞だった。
 
 
 
この授賞式では、[[スタンディングオベーション]]が5分以上にもわたって続くという、現在でも他に例のない最大の祝福を受け取っている。自身作曲による“[[モダン・タイムス#音楽|スマイル]]”(『モダン・タイムス』)も会場のゲスト全員で歌われ、「'''チャップリンは単なる名前以上のもの。チャップリンは映画用語の一つである'''」とアカデミーの会長[[ダニエル・タラダッシュ]]([[:en:Daniel Taradash|Daniel Taradash]])は述べた。余談だが、この授賞式に先立って行われた[[ニューヨーク]]での歓迎会では[[黒柳徹子]]と面会している。彼女と対面した時、チャップリンは大変感激して「キョウト、フジヤマ、ウカイ・・」と感涙した。
 
 
 
その後、[[ロサンゼルス]]で『[[ライムライト (映画)|ライムライト]]』(1952年アメリカ製作)が初めて劇場公開され、第45回[[アカデミー作曲賞]]を受賞した。本作は[[1952年]]にニューヨークで先に公開されたが、[[アカデミー賞#選考|アカデミー賞の選考基準]]である'''ロサンゼルスでの公開'''はされていなかったので、本年度の受賞対象作品となった。
 
 
 
また、[[ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム]]から名前が消されていた事実も、この20年ぶりの帰国によって、ロサンゼルス市議会が11対3で星印を残すことに可決したのである。これらのことはアメリカとの事実上の和解となった。
 
 
 
=== ニューヨーク映画批評家協会賞 ===
 
;受賞
 
*[[第6回ニューヨーク映画批評家協会賞|1940年]]:[[ニューヨーク映画批評家協会賞 主演男優賞|主演男優賞]]『[[独裁者 (映画)]]』
 
;ノミネート
 
*[[第18回ニューヨーク映画批評家協会賞|1952年]]:主演男優賞『[[ライムライト (映画)|ライムライト]]』
 
 
 
===その他===
 
*[[1954年]]:[[世界平和評議会]]平和国際賞
 
*[[1965年]]:[[エラスムス賞]]
 
*[[1972年]]:[[ヴェネツィア国際映画祭]][[栄誉金獅子賞]]
 
*[[1976年]]:[[英国アカデミー賞]]名誉賞
 
*[[1977年]]、[[1987年]]:[[セザール賞]]オマージュ
 
 
 
=== 栄典・勲章・称号 ===
 
*[[1962年]]:[[オックスフォード大学]]名誉博士号
 
*1962年:[[ダラム大学]]名誉博士号
 
*[[1971年]]:パリ[[名誉市民]]
 
*[[1975年]]:[[ナイト]]
 
 
 
== 著作権問題 ==
 
上記の主要な作品の内、1952年までの作品は[[著作権の保護期間]](公開後50年)が終了したと考えられたことから、幾つかの作品が[[パブリックドメインDVD|激安DVD]]で発売された。これに対し、製作者([[版権]]継承者)の[[リヒテンシュタイン]]の法人は、米国で[[パブリックドメイン]]となった作品を含む全作品の著作権が2015年(監督没後38年)まで日本で存続すると主張して発売業者を相手取り、発売差し止めと在庫の廃棄を求める訴えを[[東京地方裁判所|東京地裁]]に起こした。2007年8月29日に東京地裁で[[原告]]全面勝訴の判決が下った。このうち、『殺人狂時代』は2017年、『ライムライト』は2022年まで保護期間が存続するとされた<ref>何れも監督没後38年と、公開後70年の長い現行法を適用。</ref><ref>{{cite web |title=平成18(ワ)15552
 
 著作権侵害差止等請求事件 : 裁判所 裁判例情報:検索結果詳細画面 |url=http://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail7?id=35065 |format=PDF |work=裁判所ウェブサイト |publisher=東京地方裁判所 民事第29部 |date=2007-08-29 |accessdate=2016-12-18 }}</ref>。発売業者は[[知的財産高等裁判所|知財高裁]]に[[控訴]]したが、2008年2月28日に控訴棄却の判決を下した。2009年10月8日に[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]第一[[小法廷]]は発売業者の[[上告]]を棄却、判決が確定した。
 
 
 
== トピックス ==
 
[[Image:Vevey_Chaplin.jpg|right|190px|thumb|[[スイス]]の[[ヴェヴェイ]]に立つ銅像]]
 
*チャップリンが晩年を過ごしたスイスの自宅「マノワール・ド・バン」が、チャップリンの記念博物館となり、[[2016年]]春にオープンした<ref>2016年4月18日付 [[AFP通信]][http://www.afpbb.com/articles/-/3084291]</ref>。
 
*チャップリンが生前に出版した自伝を基に、[[リチャード・アッテンボロー]]監督によってチャップリンの生涯を描いた伝記映画『[[チャーリー (映画)|チャーリー]]』が[[1992年]]に公開されている。
 
*[[1999年]]、アメリカ『[[タイム (雑誌)|タイム]]』誌は、「[[タイム100|20世紀の最も影響力のある100人]]」から“アーティストとエンターテイナー”を20人選出した。絵画の世界では[[パブロ・ピカソ]]、服飾では[[ココ・シャネル]]、音楽では[[ビートルズ]]と、時代を変えた世界的なアーティストたちが名を連ねる中、映画界から[[スティーヴン・スピルバーグ]]と並び選出されている。
 
*チャップリンが、ある記者に『あなたが関わった作品の中で最高傑作は何ですか?』と聞かれ、"Next One (次作だよ)"と即答したというエピソードが語られることがあるが、チャップリン研究家の大野裕之によるとそのような事実はない。<ref>[http://ameblo.jp/onohiroyuki/entry-11248659872.html トヨタの豊田章男社長の偽チャップリン発言について、「ウォール・ストリート・ジャーナル」の取材に答 - 大野裕之 amebaブログ]</ref>
 
* [[2000年]]に発表された『[[キネマ旬報]]』の「[[キネマ旬報20世紀の映画スター|20世紀の映画スター]]」で読者選出の外国男優部門の第1位に輝いた。
 
*[[2005年]]、詩人の[[谷川俊太郎]]によって、『[[ヴェニスの子供自動車競走]]』を上映しながら、新たに書き起こした詩を生演奏付きで朗誦するライヴが行なわれた<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=s_qLwPWozp4 谷川俊太郎とチャップリン - YouTube]
 
</ref>。
 
*没後30年にあたる[[2007年]]12月、名場面と豪華出演者へのインタビューで構成されたドキュメンタリー『[[チャーリー・チャップリン ライフ・アンド・アート]]』(2003)が劇場公開され、DVDも同時発売された。
 
*[[2009年]]、未公開映画 "Charlie Chaplin in Zepped" のフィルムが発見との報道がされたが、実際は編集版の作品だった<ref>[http://www.guardian.co.uk/culture/2009/nov/05/charlie-chaplin-ebay-reel-tin Collector finds unseen Charlie Chaplin film in tin sold for £3.20 on eBay]
 
</ref>。
 
*[[2010年]]、デビュー直後に出演した "A Thief Catcher([[泥棒を捕まえる人]])"という作品が、アメリカ・ミシガン州の骨董市で某フィルム・コレクターによって発見され、デイヴィッド・ロビンソン、大野裕之ら、世界のチャップリン研究の権威が鑑定し、正式にチャップリン作品と認められた。主演は当時のキーストン社のスター、[[フォード・スターリング]]である。
 
*[[周防正行]]監督による映画『[[ダンシング・チャップリン]]』が、[[2011年]]に公開された<ref>[http://www.dancing-chaplin.jp/ 映画「ダンシング・チャップリン」公式サイト]
 
</ref>。
 
*[[2012年]]に、『チャップリン・ザ・ルーツ』と題して、初期作の完全[[デジタルリマスター]]版が大野裕之監修のもと世界初劇場公開された。うち16本に[[羽佐間道夫]]、[[野沢雅子]]、[[山寺宏一]]らの[[声優]]・[[活動弁士|弁士]]が声を充てた吹替え版も同時公開された。これらは[[DVD-BOX]]として発売中<ref>[http://elevenarts-japan.net/chaplin.html 映画「チャップリン・ザ・ルーツ」公式サイト]
 
</ref>。
 
*チャップリンがもし現代にいたら…!?という設定のもと制作された[[コンピュータアニメーション|CGアニメーション]]シリーズ『チャップリン&CO』が、[[カートゥーン ネットワーク]]で放送中<ref>[http://www.cartoonnetwork.jp/cn_programs/view/00515 カートゥーンネットワーク - チャップリン&CO]
 
</ref>。
 
*  ドキュメンタリーが4本製作された。1本は彼の死の直前に製作された「放浪紳士チャーリー」(1975)、2本目は映画のNGフィルムを中心とした「知られざるチャップリン」(1983)、3本目はジョニー・リップらの証言も取り入れた「チャップリンライフアンドアート」(2003)、4本目は72年の再渡米を軸にチャップリンとアメリカの関係を苦い視線から描いたフランス製作の「チャップリン20世紀の伝説」(2014)である。それらはビデオやDVD化され鑑賞可能である。
 
  
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1913年巡業先のアメリカで {{M.セネット]]と契約を結び,以後数多くの短編[[喜劇映画]]に出演,またみずから監督し,山高帽とちょびひげにどた靴という独特の扮装で,一躍世界の人気者となった。『独裁者』 The Great Dictator (1940) ではナチズムを痛烈に諷刺した。アメリカの反共主義の風潮を逃れて 1953年からスイスに移住。代表作『移民』 The Immigrant (1917) ,『犬の生活』A Dog's Life (1918) ,『担え銃』 Shoulder Arms (1918) ,『キッド』 The Kid (1921) ,『[[黄金狂時代]]』 The Gold Rush (1925) ,『サーカス』 The Circus (1928) ,『街の灯』 City Lights (1931) ,『[[モダン・タイムス]]』 Modern Times (1936) ,『殺人狂時代』 Monsieur Verdoux (1947) ,『ライムライト』 Limelight (1952) 。 1975年イギリス王室よりナイトに叙せられ,サーの称号を受けた。
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== 脚注 ==
 
== 脚注 ==
 
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==著作(訳書)==
 
*『チャップリン自伝』 [[中野好夫]]訳、[[新潮社]]、1966年
 
** 『チャップリン自伝〈上〉 若き日々』 [[新潮文庫]]、1981年、改版2005年
 
** 『チャップリン自伝〈下〉 栄光の日々』 新潮文庫、1992年。解説[[淀川長治]]
 
*新訳版 『チャップリン自伝 若き日々』 中里京子訳、新潮文庫、2017年4月
 
*同 『チャップリン自伝 栄光と波瀾の日々』 [[中里京子]]訳、新潮文庫、2017年12月
 
*『小説ライムライト チャップリンの映画世界』デイヴィッド・ロビンソン編、大野裕之監修、[[上岡伸雄]]・[[南條竹則]]訳(集英社、2017年)
 
 
== 関連書籍(日本語) ==
 
* [[大野裕之]] 『チャップリン 作品とその生涯』[[中公文庫]]、2017年。文庫書き下ろし
 
* 大野裕之 『チャップリン再入門』  [[日本放送出版協会]]〈生活人新書〉、2005年、ISBN 4-14-088141-0
 
* 大野裕之 『知るを楽しむ 私のこだわり人物伝 チャップリン-なぜ世界中が笑えるのか』 日本放送出版協会、2006年、ISBN 4-14-189148-7
 
:([[NHK教育テレビ]]『[[知るを楽しむ]]』のテキスト、[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]併録。 大野がチャップリンの魅力を語った4回シリーズ)
 
* 大野裕之 『チャップリンの日本』  日本チャップリン協会、2006年
 
* 大野裕之 『チャップリン暗殺 5.15事件で誰よりも狙われた男』  [[メディアファクトリー]]、2007年、ISBN 978-4-8401-2090-6
 
* 大野裕之 『チャップリン・未公開NGフィルムの全貌』  日本放送出版協会、2007年、ISBN 978-4-14-081183-2
 
* 大野裕之 『チャップリンの影〜日本人秘書・高野虎市』 
 
: [[講談社]]、2009年(講談社100周年記念出版)、ISBN 978-4063397598
 
* 大野裕之編 『チャップリンのために』  とっても便利出版部、2000年
 
:(チャーリー・チャップリンと[[淀川長治]]・[[江藤文夫]]・[[澤登翠]]・小松弘・千葉伸夫・大野裕之の著作を収める)
 
*『チャップリンと戦争 『チャップリンの独裁者』展 チャップリン没後30年記念』
 
**デイヴィッド・ロビンソン企画・監修、日本版・大野裕之編・監修、日本チャップリン協会、2007年
 
* [[橋本勝]] 『チャップリン イラスト版オリジナル』  [[現代書館]]「FOR BEGINEERSシリーズ」、1986年
 
* [[千葉伸夫]] 『チャプリンが日本を走った』  [[青蛙房]]、1992年、新装版2017年
 
* [[土橋章宏]] 『チャップリン暗殺指令』 文藝春秋、2017年
 
* 新野敏也 『サイレント・コメディ全史』  [[喜劇映画研究会]]、1992年、ISBN 978-4906409013
 
* [[マック・セネット]] 『〈喜劇映画〉を発明した男 帝王マック・セネット、自らを語る』 [[作品社]]、2014年、ISBN 4861824729
 
===品切・絶版書籍===
 
* デイヴィッド・ロビンソン、宮本高晴・高田恵子訳、1993年
 
** 『チャップリン』  [[文藝春秋]](上下)   
 
** 『チャップリンの愛した女たち』  [[文春文庫]]  
 
* {{仮リンク|ジョルジュ・サドゥール|en|Georges Sadoul}} [[鈴木力衛]]、[[清水馨]]訳 
 
:『チャップリン その映画とその時代』  [[岩波書店]]、1966年
 
* [[岩崎昶]] 『チャーリー・チャップリン』 [[講談社現代新書]]、1973年
 
* [[淀川長治]] 『私のチャップリン』 [[ちくま文庫]]、1995年 ※初版は[[PHP研究所|PHP]]
 
* [[江藤文夫]] 『チャップリンの仕事』 [[みすず書房]]、1989年
 
 
* [[日下圭介]] 『チャップリンを撃て』  [[講談社ノベルス]]、1986年/[[光文社]]文庫、1993年
 
* [[川田武]] 『五月十五日のチャップリン』  [[光文社文庫]]、2005年
 
* [[松田十刻]] 『チャップリン謀殺指令』 新人物文庫、2010年
 
:(※上記3冊とも、[[1932年]](昭和7年)の5・15事件来日時を舞台にした歴史[[ミステリー]])
 
 
* C.チャップリンJr./N.&M.ロー、木槿三郎訳 
 
:『わが父チャップリン - 息子が見た喜劇王の素顔』 [[恒文社]]、1975年
 
* 『世界の映画作家19 チャールズ・チャップリン』 [[キネマ旬報社]]、1973年
 
* 『世界の映画作家26 バスター・キートンと喜劇の黄金時代』 [[キネマ旬報社]]、1975年
 
* [[小林信彦]] 『世界の喜劇人』 新潮文庫、1983年。※初版は中原弓彦の名義で「喜劇の王様たち」 校倉書房
 
**加筆・再構成され『笑殺の美学―映像における笑いとは何か』 大光社、および『世界の喜劇人』 [[晶文社]]
 
* [[杜こなて]] 『チャップリンと音楽狂時代 - クラシックとポピュラーをめぐる近・現代史』 [[春秋社]]、1995年
 
 
== 関連項目 ==
 
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* [[大野裕之]]
 
* [[高野虎市]]
 
* [[シドニー・チャップリン (1885年生)]]
 
* [[エドナ・パーヴァイアンス]]
 
* [[カンティンフラス]]
 
* [[クライド・クサツ]]
 
* [[Mr.ビーン]]
 
* [[茶風林]]
 
* [[チョップリン]]
 
* [[日本チャップリン・梅廼家ウグイス]]
 
* [[杖]]
 
* [[ロマ]]
 
* [[喜劇映画研究会]]
 
*[[チャップリンからの贈りもの]] - チャップリン死後に金銭目的で遺体を誘拐した二人の犯行の実話を基にした2014年フランスの伝記コメディ映画。
 
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* シャンハイ・ナイト-ジャッキー・チェン主演の西部劇アクションコメデイ映画。19世紀のイギリスが舞台だが少年時代のチャップリンがジャッキーと共演する。
 
* ジャッキー・チェン
 
 
== 外部リンク ==
 
{{Commons|Charlie Chaplin}}
 
{{Wikiquotelang|en|Charlie Chaplin}}
 
* {{allcinema name|5171|チャールズ・チャップリン}}
 
* {{Kinejun name|11772|チャールズ・チャップリン}}
 
* {{IMDb name|0000122|Charles Chaplin}}
 
* {{DNB-Portal|118520113}}
 
* [http://www.charliechaplin.com Association Chaplin]
 
* [http://www.chaplinmuseum.com/en/ Chaplin's World - The Modern Times Museum]
 
  
 
{{チャールズ・チャップリン}}
 
{{チャールズ・チャップリン}}
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[[Category:チャーリー・チャップリン|*]]
 
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2018/9/25/ (火) 18:09時点における版

“チャーリー”サー・チャールズ・スペンサー・チャップリンSir Charles Spencer "Charlie" Chaplin, KBE1889年4月16日 - 1977年12月25日

イギリス生まれの喜劇俳優,監督,制作者。本名 Charles Spencer Chaplin。

1913年巡業先のアメリカで {{M.セネット]]と契約を結び,以後数多くの短編喜劇映画に出演,またみずから監督し,山高帽とちょびひげにどた靴という独特の扮装で,一躍世界の人気者となった。『独裁者』 The Great Dictator (1940) ではナチズムを痛烈に諷刺した。アメリカの反共主義の風潮を逃れて 1953年からスイスに移住。代表作『移民』 The Immigrant (1917) ,『犬の生活』A Dog's Life (1918) ,『担え銃』 Shoulder Arms (1918) ,『キッド』 The Kid (1921) ,『黄金狂時代』 The Gold Rush (1925) ,『サーカス』 The Circus (1928) ,『街の灯』 City Lights (1931) ,『モダン・タイムス』 Modern Times (1936) ,『殺人狂時代』 Monsieur Verdoux (1947) ,『ライムライト』 Limelight (1952) 。 1975年イギリス王室よりナイトに叙せられ,サーの称号を受けた。

脚注






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