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[[ファイル:ダマスカスの大モスク.シリア.jpg|サムネイル]]
{{Coor title dm|33|30|N|36|18|E|scale:10000}}
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'''ダマスカス'''
{{世界の市
 
|正式名称 =ダマスカス <!--必須-->
 
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|備考 =
 
}}
 
'''ダマスカス'''は[[シリア]](シリア・アラブ共和国)の[[首都]]。ダマスクスとも表記される。[[アラビア語]]では'''ディマシュク'''('''دمشق''' Dimashq)で、別名を'''シャーム'''('''الشام''' al-sham)という。日本語の聖書翻訳の慣行では'''ダマスコ'''と表記する。「世界一古くから人が住み続けている都市」として知られる。[[カシオン山]]の山麓、[[バラダ川]]沿いに城壁で囲まれた古代から続く都市と新市街が広がる。現在の人口は約200万人といわれるが、都市圏全体では400万人に迫るといわれる。
 
  
== 名前 ==
+
[[シリア]]の首都で,シリア最大の都市。アラビア語ではディマシュク Dimashq。カーシューン山麓で,グータオアシスの間に位置する。住民の大部分はアラブ人,ほかにドゥルーズ人,クルド人などがいる。市街はバラーダ川で二分され,南岸は旧市街でモスク,キャラバンサライ,市場,キリスト教徒居住地区,ドゥルーズ教徒居住地区があり,1979年世界遺産の文化遺産に登録。なかでもウマイヤモスク([[ダマスカスの大モスク]] ) やスーク・ハミーディーヤは,中東で有数のものである。北岸は 1940~60年に新市街が急速に発展した。絨毯,皮細工,金属工芸などの伝統産業のほかに製糖,ガラス,織物,セメントなどの工業が発達。イスラム,キリスト両教徒の聖地。ペルシアに続いてアレクサンドロス3世(大王) や[[セレウコス朝]]が征服し,ローマ時代には商業都市として発展した。のちキリスト教が広まり,司教座が置かれた。 635年アラブ人が侵入し,661年から 750年まで[[ウマイヤ朝]]の首都として,イスラムの政治,文化の中心地となった。 1076年にはセルジューク・トルコが占領。 12世紀後半にはアイユーブ朝が興り,[[サラディン]]治下,町は繁栄をきわめ,宗教,文化が開花し,数多くの壮麗なモスクが建築された。 1516年にはオスマン帝国が征服し,その支配は以後 400年間続いた。 1946年シリア独立と同時に首都となった。人口 161万4500(2004推計)。
アラビア語では、この街は正式にはディマシュク・アッシャーム (دمشق الشام ''Dimashq ash-Sham'') と呼ばれている。多くの人は「ディマシュク」と短縮するが、ダマスカス市民やシリアほかアラブ圏の人々は「アッシャーム」の別名で呼ぶ。「アッシャーム」はアラビア語の「北」を語源とし、シリア(特に、[[歴史的シリア]]について)のことは「ビラード・アッシャーム」(北の地)と呼ぶ。英語の「Damascus」は[[ギリシャ語]]のΔαμασκόςを語源に、[[ラテン語]]経由で伝わった。これはさらに古い[[アラム語]]の都市名でダルメセク(דרמשק ''Darmeśeq'' よく[[灌漑]]された場所)からきている<ref>{{cite web|url=http://www.etymonline.com/index.php?term=Damascus |title=Online Etymology Dictionary |publisher=Etymonline.com |date= |accessdate=2010-06-20}}</ref><ref>{{cite web|url=http://en.wiktionary.org/wiki/Damascus |title=Damascus – Wiktionary |publisher=En.wiktionary.org |date=2010-05-09 |accessdate=2010-06-20}}</ref>。しかし、[[アラム人]]の時代以前の[[遺跡]]である[[エブラ]]の王国跡地から出土した粘土板には、エブラの南にある町を「ダマスキ」と記しており、ダマスカスの名の起源はアラム人以前に遡る可能性が大きい。
 
  
ダマスカスという地名の初出と考えられる文献は、[[紀元前15世紀]]のエジプトの[[トトメス3世]]の残した地理文献にある「T-m-ś-q」と読める文字である<ref>List I, 13 in J. Simons, ''Handbook for the Study of Egyptian Topographical Lists relating to Western Asia'', Leiden 1937. See also Y. AHARONI, ''The Land of the Bible: A Historical Geography'', London 1967, p147, No. 13.</ref>。「T-m-ś-q」の語源は不明だが、[[アッカド語]]では「ディマシュカ Dimašqa」、古代[[エジプト語]]では「T-ms-ḳw」、古[[アラム語]]では「ダマスク Dammaśq {{lang|arc|דמשק}}」、聖書ヘブライ語では「ダメセク Dammeśeq {{lang|he|דמשק}}」と呼ばれていた。アッカド語のものは、[[紀元前14世紀]]の[[アマルナ文書]]におけるアッカド語文献に出てくる。
+
{{テンプレート:20180815sk}}
 
 
後のアラム語における綴りは、「住居」を意味する語幹の「dr」に影響されて「r」(レーシュ)が入るようになり、[[クムラン]]の文献では「ダルメセク Darmeśeq {{lang|arc|דרמשק}}」に、[[シリア語]]では「ダルムスク Darmsûq {{lang|syr|ܕܪܡܣܘܩ}}」となった<ref>{{cite web|url=http://links.jstor.org/sici?sici=0003-097X%28198805%290%3A270%3C97%3AADAHSO%3E2.0.CO%3B2-S |title=(in Book Reviews) '&#39;Ancient Damascus: A Historical Study of the Syrian City-State from Earliest Times Until Its Fall to the Assyrians in 732 BC.'&#39;, Wayne T. Pitard. Review author: Paul E. Dion, '&#39;Bulletin of the American Schools of Oriental Research'&#39;, No. 270, Ancient Syria. (May, 1988), p. 98 |publisher=Links.jstor.org |date= |accessdate=2010-06-20}}</ref><ref>{{cite web|url=http://links.jstor.org/sici?sici=0003-097X%28197202%290%3A205%3C36%3ATSDTMB%3E2.0.CO%3B2-9 |title='&#39;The Stele Dedicated to Melcarth by Ben-Hadad of Damascus'&#39;, Frank Moore Cross. '&#39;Bulletin of the American Schools of Oriental Research'&#39;, No. 205. (Feb., 1972), p. 40 |publisher=Links.jstor.org |date= |accessdate=2010-06-20}}</ref>。
 
 
 
[[ダマスク織]]や金銀細工の[[象嵌|ダマスキナード]]にその名を残す。
 
 
 
== 地理 ==
 
[[ファイル:Umayyad Mosque-Minaret al-Gharbiye.jpg|250px|thumb|left|[[ウマイヤド・モスク]]のミナレット]]
 
ダマスカスは[[地中海]]から約80[[キロメートル|km]]内陸に位置し、[[アンチレバノン山脈]]で海からさえぎられている。街はアンチレバノン山脈の麓の、海抜680[[メートル|m]]の高原の上にある。
 
 
 
城壁に囲まれた[[古代都市ダマスカス]]は[[バラダ川]]のすぐ南岸にある。その南東、北、北東の方角には中世に遡る近郊地域がある。また南西にはミーダーン、北と北西にサールージャとアマーラの各地区がある。これらの地区はもとは都市から外に出る街道沿いの、宗教上重要な墓所の近くに発生したものであった。東には[[グータ]] ({{Lang|ar|الغوطة}} {{Lang|en|Ghouta}}) という、[[バラダ川]]などの内陸河川が潤す森や田園からなる大きな[[オアシス]]があり、[[エデンの園]]のモデルとされる場所である。
 
 
 
[[19世紀]]、旧市街を北西から見下ろすジャバル・カシオン([[カシオン山]]、[[旧約聖書]][[創世記]]において[[カイン]]が[[アベル]]を殺したとされる場所)の斜面上に近郊農村が開発された。すでに近くには、[[イブン・アラビー|ムヒッディーン・イブン・アラビー]]の廟の周りにサリヒイー地区ができていた。これら新しい地域はまず[[クルド人]]の軍人たちや[[オスマン帝国]]のヨーロッパ地域(キリスト教徒に制圧されつつあった)からの[[ムスリム]][[難民]]らが入植した。それゆえ、これら地域は「アクラード」(クルド人)や「ムハージリーン」(移民)と呼ばれている。これらは旧市街から2-3km北に横たわっている。
 
 
 
[[ファイル:Damascus SPOT 1363.jpg|thumb|250px|ダマスカスの衛星画像。ダマスカスは周囲を緑のオアシスに囲まれる]]
 
[[19世紀]]後半から、近代的な行政・商業の中心が旧市街の西側のバラダ川の周囲、「マルジェ(牧草地)」と呼ばれる場所を中心に発生した。マルジェはすぐに近代のダマスカスの中心となる市庁前の広場の名前(マルジェ広場)となった。裁判所、郵便局、[[アナトリア]]や[[ヒジャーズ]]に通じる[[ヒジャーズ駅]]が、少し南の高い場所にできた。ヨーロッパ化された住宅街区がマルジェ広場とサーリヒーヤ地区の間をつなぐ道路沿いにでき始めた。新市街の商業と行政の中心地は、次第にその方向へ、北側へ移動し始めた。
 
 
 
[[20世紀]]になると、より新しい郊外がバラダ川の北側に開発され、旧市街の南にも広がりグータ・オアシスを侵食し始めた。[[1955年]]から、新しい街区[[ヤルムーク]]が数万人の[[パレスチナ]][[難民]]のキャンプとなった。[[ミッシェル・エコシャール]]や[[番匠谷尭二]]といった[[都市計画家]]らは南のグータの森を可能な限り残そうと考えたため、20世紀後半には主な開発は市の北部、および西部のメッゼ地区、最近ではバラダー川の流れる先の北西部ドゥンマルの谷と、北東部のベルゼの山々の斜面で行われている。貧困な地区は、公式な許可なく建てられ、ほとんどは旧市街の南に集中する。
 
 
 
ダマスカスは[[オアシス]]に囲まれている。グータ・オアシスの森は、バラダ川の水に潤されている。バラダ川に沿って西に行ったところにあるフィジェーの泉は市街に飲料水を提供している。グータ・オアシスは、ダマスカスの急速な住宅や産業の拡大により面積が減ってきている。また街の交通、産業、廃棄物により汚染されてきている。
 
 
 
=== 気候 ===
 
1981-2010年の平年値によると、1月の平均気温は6度、7月の平均気温は27度、年間平均気温は16.7度、年降水量は176.1㎜である。
 
{{Weather box
 
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|source 1 = BBC Weather<ref name="weather1">{{cite web
 
|url =http://www.bbc.co.uk/weather/world/city_guides/results.shtml?tt=TT002850 |title =Average Conditions Damascus, Syria |accessdate =2010-11-03 |publisher =BBC Weather |date=July 2011}}</ref>
 
|date=November 2010
 
}}
 
 
 
== 歴史 ==
 
[[ファイル:Damascus by night.JPG|thumb|right|250px|[[カシオン山]]からの夜のダマスカス。緑の明かりは[[ミナレット]]]]
 
古代からシリア地方の中心都市で、[[紀元前10世紀]]には[[アラム人]]の王国の首都が置かれていた。
 
 
 
その独立は[[新バビロニア]]や[[アケメネス朝|ペルシア]]、[[セレウコス朝]]、[[ローマ帝国]]に敗北し失われた。ローマ時代においてダマスカスはギリシャ・ローマ文化のとても重要な中心であり、自由都市連合の名誉都市となった。その後[[イスラム帝国]]によって[[635年]]に征服され、[[ウマイヤ朝]]の首都として栄えた。ウマイヤ朝が[[705年]]に[[キリスト教]]の[[教会]]を[[モスク]]に改造して設けた[[ウマイヤド・モスク]]が現存し、シリアで没した[[サラーフッディーン]](サラディン)や[[バイバルス]]の墓もこの町にある。
 
 
 
=== 古代 ===
 
ダマスカスの辺縁にあるテル・ラマドの遺跡により、ダマスカスは紀元前8000年から10000年もの昔から人が定住していたことが分かる。ダマスカスが人間が連続的に定住した世界で最も古い都市であるといわれるのは、この故である。しかし、[[アラム人]](アラビア半島から来た[[セム語派]]系の遊牧民)の登場までは、ダマスカスは重要な都市として記されることはなかった。バラダ川の利便性を最大に広げた運河と隧道の建設によってダマスカスに水道システムを初めて構築したのはアラム人であることが知られている。後にこのネットワークは[[ローマ人]]と[[ウマイヤ朝]]によって改良され、今日のダマスカス旧市街の水道システムの基礎をなしている。紀元前1100年、この都市はアラム・ダマスカスと呼ばれる強力なアラム人国家の中心になる。アラム・ダマスカスの王はこの地域を[[アッシリア]]人とイスラエル人とのいくつもの戦争に巻き込んだ。そうした王の一人、ベン・ハダト2世は、[[カルカルの戦い]]において[[シャルマネセル3世]]と戦った。アラム人の都市の遺構は壁に囲まれた旧市街の東部に埋まっている可能性が最も高い。紀元前732年に[[ティグラト・ピレセル3世]]が都市を占領し破壊して後、数百年間独立を失い、紀元前572年に始まる[[ネブカドネザル2世]]による[[新バビロニア]]王国の支配下に入る。バビロニア人の支配は、[[紀元前539年]][[大キュロス|キュロス]]率いる[[アケメネス朝|ペルシア帝国]]軍が都市を占領し、ペルシア支配下のシリア州の州都としたときに終わる。
 
 
 
=== ギリシア・ローマ ===
 
[[ファイル:Bab Sharqi Street, Damascus.jpg|thumb|250px|旧市街のバーブ・シャルキー通り。ヴィア・レクタ(Via Recta、「直線通り」)の名残。ヴィア・レクタは古代のローマ都市計画における[[デクマヌス・マクシムス]](東西の中央大通り)であり、東門と西門を直線で結ぶ。[[新約聖書]]の「[[使徒行伝]]」では、[[パウロの回心]]の舞台となった]]
 
[[ファイル:The Jupiter temple in Damascus.jpg|thumb|250px|アル=ハミディヤ市場の入口にあるユピテル神殿跡]]
 
ダマスカスは、近東を席巻した[[アレクサンドロス3世|アレキサンダー大王]]の大遠征により西洋の支配下に入る。[[紀元前323年]]アレキサンダーの死後、ダマスカスは[[セレウコス朝]]と[[プトレマイオス朝]]の闘争の場となる。都市の支配権は両者の間を頻繁に行き来した。アレキサンダーの将軍の一人[[セレウコス1世|セレウコス1世ニカトール]]は、[[アンティオキア]]を彼の広大な帝国の首都にした。これにより、北方の[[ラタキア]]のような新たに建設されたセレウコス朝の都市に比べると、ダマスカスの重要性は衰えることになった。
 
 
 
[[紀元前64年]]、[[ポンペイウス]]率いる[[共和政ローマ|ローマ]]がシリア西部を併合した。彼らはダマスカスを占領し、[[デカポリス]]として知られる十都市連合に組み入れた。ギリシャ・ローマ文明の主要な中心地だと考えられたためであった。[[新約聖書]]によれば、聖[[パウロ]]が幻視を体験したのはダマスカスへ向かう途中であったとされる。[[37年]]、ローマ皇帝[[カリグラ]]は政令によりダマスカスを[[ナバテア王国]]の支配下に置いた。ナバテアの王アレタス四世フィロパトリスは首都[[ペトラ]]からダマスカスを支配した。しかし、[[106年]]頃、ナバテア王国はローマ人に征服され、ダマスカスはローマの支配下に戻る。
 
 
 
ダマスカスは2世紀の始めまでには一個の巨大都市になっており、[[222年]]、皇帝セプティミウス・セヴェルスによりコロニアに昇格する。[[パクス・ロマーナ|パックス・ロマーナ]]の到来とともに、ダマスカスと[[シリア属州|ローマ領シリア]]は全体的に繁栄する。南アラビア、[[パルミラ]]、[[ペトラ]]からの貿易路、および中国に始まる[[絹]]の貿易路がすべてダマスカスに収斂することから、[[キャラバン]]都市としてのダマスカスの重要性は顕著だった。ダマスカスは東方に産する贅沢品へのローマ人たちの需要を満たした。
 
 
 
[[ローマ建築]]の遺構はほとんど残っていないが、旧市街の都市計画は長く続く効果を持っていた。ローマ人の建築家は、ギリシアとアラムの都市基盤を組み合わせ、城壁に囲まれた、長さおよそ1,500×750mの新しいレイアウトに融合させた。城壁には七つの門があったが、東門(バーブ・シャルキー)はローマ時代から残り続けている。ローマ時代のダマスカスはほとんどが現在の都市の5m以内の地下に埋まっている。
 
 
 
=== ムスリムの征服からファーティマ朝まで ===
 
[[ファイル:Omayyad mosque.jpg|right|250px|thumb|'''[[ウマイヤド・モスク]]''' 現在でも利用されているモスクとしては最も古いものの一つであり、規模も最大級である]]
 
[[636年]]、ダマスカスは第2代[[正統カリフ]]・[[ウマル・イブン=ハッターブ]](ウマル一世)に征服される。その直後、[[アンダルス]](現在の[[スペイン]])から[[インド]]まで広がる[[ウマイヤ朝]]([[661年]]-[[750年]])の首都となったときに、この都市の力と威光は頂点に達した。[[705年]]にキリスト教会を[[モスク]]に改造した[[ウマイヤド・モスク]]は今でもダマスカスに残っている。[[744年]]、最後のウマイヤ朝[[カリフ]]、[[マルワーン2世]]は首都を[[ジャズィーラ]](メソポタミア北部)にある[[ハッラーン]]に移し、以後ダマスカスはこれほどの政治的重要性を取り戻すことはない。
 
 
 
[[750年]]、ウマイヤ朝が倒れ、[[アッバース朝]]が興ると、ダマスカスは[[バグダード]]から支配される。[[858年]]、アル=[[ムタワッキル]]は首都をサマラから移転する意図の下に短い間ダマスカスに居を構えたが、すぐにこの考えを放棄した。アッバース朝が傾くに連れ、ダマスカス方面は不安定となり、地方政権の支配下に入る。[[875年]]、エジプトの支配者アフマド・イブン・トゥールーンがこの都市を手に入れ、アッバース朝の支配は[[905年]]になるまで回復しない。[[945年]]、[[ハムダーン朝]]がダマスカスを手に入れ、その後しばらくして[[イフシード朝]]の開祖ムハンマド・イブン=トゥグジュの手に渡る。[[968年]]そして[[971年]]にダマスカスは短い間[[カルマト派]]に占領される。
 
 
 
=== ファーティマ朝、セルジューク、十字軍 ===
 
[[970年]]、[[カイロ]]にいた[[ファーティマ朝]]のカリフがダマスカスの支配を取り戻す。これがこの都市の波乱の時代の幕開けだった。ファティマ軍の主力をなす[[ベルベル人]]の軍隊は、市民の間で非常に不評を買った。シリアにおけるカルマト派、時には[[トルコ人]]の軍隊の存在は、[[ベドウィン]]からの絶え間ない圧力を増やした。[[978年]]から短い間、ダマスカスはイザッディン・アル・カッサムの指導と市民軍の保護の下で自治を行っていた。しかし、グータ・オアシスはベドウィンの侵入を受け、トルコが率いる戦役の後、この都市は再びファティマ朝の支配に屈する。[[1029年]]から[[1041年]]までは、ファーティマ朝カリフ・ザーヒルの下、トルコ人の軍事指導者アヌシュタキンがダマスカスの総督となり、かつての栄光を取り戻すため大いに働いた。
 
 
 
この期間は、ダマスカスがブロックと[[インスラ]](集合住宅)で特徴付けられるギリシア・ローマ風の都市計画から、より親しみやすいイスラム風の都市へとゆっくりと変わっていく時期であったようだ。格子状の直線の大路は、狭い街路のパターンへ変わり、ほとんどの住人が、夜には犯罪者や徴税から守るための重い木戸で閉鎖されるハラートの中に住むようになった。
 
 
 
11世紀後半の[[セルジューク朝]]の到来により、ダマスカスは再び独立国家の首都になる。[[1079年]]から[[1104年]]まではセルジューク朝および[[シリア・セルジューク朝]]に支配されたが、それから別のトルコの王朝、[[ブーリー朝]]に支配される。彼らは[[1148年]]の[[第2回十字軍]]の攻城戦にも耐え抜いた。[[1154年]]にはダマスカスは[[十字軍]]の宿敵、[[アレッポ]]の[[ザンギー朝]]の有名な[[アタベク|アターベク]]・[[ヌールッディーン]]に征服される。彼はダマスカスを首都としたが、彼の死後に[[アイユーブ朝]]エジプトの支配者[[サラーフッディーン]](サラディン)に奪われ、その首都となる。サラーフッディーンは城砦を再建し、彼の統治下では郊外もあたかも都市そのもののごとく広大であったという。[[イブン・ジュバイル]]の記すところによると、サラーフッディーン時代にはダマスカスは多くの大学があり「乱されることのない研究と隠遁」を求めて世界中から集まる勤勉な若者や知識を求める者を歓迎したという。[[アイユーブ朝]]はサラーフッディーンの死後内紛で徐々に衰退する。
 
 
 
この当時[[ダマスカス鋼]]は十字軍の間で伝説的な名声を得、今日なお模様の有る鋼はダマスカスと呼ばれる。ビザンチンや中国でつくられる紋様のある絹織物は、[[シルクロード]]の西の終点ダマスカスを経由して運ばれたため、英語では[[ダマスク織]]という言葉が生まれた。
 
 
 
=== マムルーク朝の支配 ===
 
[[ファイル:Azem Palace.JPG|thumb|250px|アゼム宮殿]]
 
アイユーブ朝の支配(および自治)は、[[1260年]][[モンゴル帝国]]がシリアに侵入したときに終わる。モンゴルの撤退後は[[マムルーク朝]]の地方首都となり、エジプトから支配される。
 
 
 
=== ティムール襲来 ===
 
[[1400年]]にモンゴル人の征服者[[ティムール]]がダマスカスを攻撃した。マムルークのスルタンはカイロから、[[イブン=ハルドゥーン]]ら代表団を送り交渉に当たらせるが、彼らが去った後街は略奪される。[[ウマイヤド・モスク]]は燃やされ、男女は奴隷にされた。膨大な数の職人がティムールの首都[[サマルカンド]]に連れ去られた。それでも、彼らは幸運な部類だった。数多くが虐殺され、その首は城壁の北東隅の外に積み上げられた。今日なお都市の一角に''burj al-ruus''(原義は「首の塔」)という名が付いている。
 
 
 
ダマスカスは再建され、[[1516年]]までマムルーク朝の地方首都として機能した。
 
 
 
=== オスマン帝国の統治 ===
 
[[1516年]]に[[マルジュ・ダービクの戦い]]で[[オスマン帝国]]がマムルーク朝を破って以来、ダマスカスは[[1918年]]までオスマン帝国によって統治されることとなった。オスマン帝国による統治が始まった1516年当時の人口は、全市でおよそ5万5000人(約8000戸)ほどであったと推定されている。オスマン帝国時代には数度にわたる行政区画の改変があったが、ダマスカスは常に[[州都]]の地位を維持していた。これは、ダマスカスが[[アレッポ]]と共に帝国のシリア地方支配の要となる都市であり、長くこの地域の政治・経済の中心地であったほか、[[ムスリム]]にとって重要な[[マッカ]][[巡礼]]に向かう[[キャラバン]]の出発地であったため、その点においても帝国にとって重要な都市であったためである。
 
 
 
[[18世紀]]以降帝国が衰退を始めると、各地で[[アーヤーン]](名士)と呼ばれる半独立の大土地所有者が登場する。シリア地方も例外ではなく、ダマスカスと[[ハマー (都市)|ハマ]]を治めたアズム家などが知られている。アズム家は州の[[総督]]の座を[[世襲]]し、中央の権力から半独立状態を保った。アズム家は[[19世紀]]に入ると中央政府による[[タンジマート|タンズィマート]](恩恵改革)によって独占的な地位を失ったものの、その後もダマスカスの[[名望家]]として地域社会に大きな影響力を与え続けた。ダマスカスの旧市街にはアズム家によって建てられた宮殿が残っており、現在では観光名所の一つとなっている。
 
 
 
その後、二度の[[エジプト・トルコ戦争]]の結果、[[1832年]]から[[1840年]]にかけてシリア地方は[[エジプト]]の[[ムハンマド・アリー朝]]の支配を受け、[[ムハンマド・アリー]]の息子である[[イブラーヒーム・パシャ]]がダマスカスを支配した。その後、1840年のロンドン条約によってダマスカスがオスマン帝国の支配下に戻ると、ダマスカスにはオスマン帝国軍の第5軍団の司令部が置かれた。[[1860年]]には大規模な暴動が発生している。背景にあったのは経済的な問題であったが、[[キリスト教徒]]とムスリムの宗教対立に転嫁したことで多数の犠牲者を生んだ。1870年代にはシリア州総督となった[[ミドハト・パシャ]]によってスーク([[市場]])の整備などが行われ、この時期に整備された二つの屋根付きのスークは現在でも使用されている。また、[[1908年]]には市電が開業している。
 
 
 
[[ファイル:Damascus-Hejaz station.jpg|right|250px|thumb|ダマスカスのヒジャーズ鉄道の[[ヒジャーズ駅]]]]
 
[[19世紀]]後半から[[20世紀]]初頭のダマスカスは、徐々に近代的なインフラの整備も行われ、地域における政治・軍事の中心地としても重要な都市であった。しかし、以前とは異なり経済面では新興の港湾都市である[[ベイルート]]にその地位を脅かされるようになっていた。これは[[スエズ運河]]が開通したことで、[[ヒジャーズ]]方面への旅客・貨物が以前のようにダマスカスを通らずにベイルートから直接船で運ばれるようになったためである。このような状態に危機感を覚えたダマスカスの商人達は、対抗手段としての鉄道建設を強く要望し、中央政府への[[陳情]]を繰り返した。これは、[[1900年]]から始まったダマスカスを起点とする[[ヒジャーズ鉄道]]の建設という形で一応の結実をみたが、それでもベイルートに奪われた地域経済の主導権を奪い返すまでには至らなかった。
 
 
 
また、ダマスカスは[[近東]]におけるドイツの「[[世界政策]]」([[3B政策]])の舞台にもなった。[[1898年]]にはドイツ皇帝[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]自らダマスカスを訪れ、「ドイツ皇帝は世界3億の回教徒の友人である」という有名な演説を行って[[ドイツ帝国]]とオスマン帝国の関係の緊密さをアピールした。この際ヴィルヘルム2世は[[サラーフッディーン]]の[[廟]]に参詣し、石で出来た棺と金属製の花輪を寄贈している(なお、花輪は後に[[トーマス・エドワード・ロレンス]]がダマスカスに入城した際に持ち去ったといわれている。棺の方は現在でも廟に展示されている)。
 
 
 
=== アラブ・ナショナリズムの勃興 ===
 
都市に大きな影響を与えていた名望家層が鉄道建設などを通じて[[イスタンブール]]の宮廷と直接結びついていたこともあって、ダマスカスはベイルートと比べると民族主義の勃興が遅れたが、[[20世紀]]初頭にはダマスカスでも[[民族主義]]的感情が興るようになった。始めは文化的ナショナリズムだったが、次第に政治的色彩を帯び始めるようになる。また、ダマスカスで起こったアラブ・ナショナリズムの諸運動は、ベイルートで起こったアラブ・ナショナリズムの諸運動が早くから帝国からの独立を要求したのと対照的に、比較的遅い時期まで帝国の枠組みの中での自治を要求する傾向があった。
 
 
 
[[1908年]]の[[青年トルコ人革命]]後、[[統一と進歩委員会]]が中央政府を掌握すると、ダマスカスでもアラビア語の[[公用語]]化や連邦制の導入といった、[[アラブ人]]の権利や帝国の分権化を要求する運動が起こるようになる。これらの動きに対し、[[中央集権]]化を進めたい統一と進歩委員会は時には懐柔しつつも、もっぱら強硬策をもって臨んだ。このような統一と進歩委員会の方針は中央集権化という名の「トルコ化」政策であると受け取られ、ダマスカスのアラブ・ナショナリストの中にも自治から独立へとその主張をより強める動きが現れるようになった。
 
 
 
[[第一次世界大戦]]が始まると、統一と進歩委員会の中心人物である[[ジェマル・パシャ]]が方面軍の司令官としてダマスカスに赴任してくる。[[1915年]]から[[1916年]]にベイルートとダマスカスで、ジェマルにより愛国的な知識人が数多く絞首刑にされたことは、さらにナショナリストの感情を逆撫ですることになった。また、この処刑はダマスカスの住民にマッカの太守[[フサイン・イブン・アリー (マッカのシャリーフ)|フサイン・イブン・アリー]]による「[[アラブの反乱]]」への支持を広げる結果にもなり、[[1918年]]にアラブ軍とイギリス軍が迫るに連れて、住民は撤退してゆくトルコ軍に対して発砲した。
 
 
 
=== 近代 ===
 
[[ファイル:Damas en flamme.jpg|thumb|250px|フランス軍のダマスカス空爆(1925年)]]
 
[[1918年]]10月1日、フサインの部下で後の[[イラク王国]]宰相[[ヌーリー・アッ=サイード]]率いるアラブ反乱軍がダマスカスに入城する。同じ日、イギリス軍に属するオーストラリア人部隊の兵士も入城し、オスマン帝国の知事の降伏を受け入れた。[[トーマス・エドワード・ロレンス]]を含む別のイギリス軍部隊もダマスカスに入っている。
 
 
 
しかし[[1917年]]11月、[[十月革命]]で成立したロシアの[[ボリシェビキ]]政府が、[[フランス]]と[[イギリス]]が交わしたアラブ分割に関する密約[[サイクス・ピコ協定]]を暴露したため、アラブの政治的緊張が高まっていた。イギリスとフランスは連名で「トルコに長い間抑圧されてきた人々の完全な解放」を約束する宣言を発表した。シリアでは民主的憲法を定める会議が行われ、[[1920年]]にはフサインの息子である[[ファイサル・イブン・フサイン]]を国王とするシリア王国の建設が宣言された。しかし[[ヴェルサイユ条約]]ではフランスがシリアを[[委任統治]]下に置くことが認められていたため、英仏はファイサルの宣言を認めなかった。1920年7月23日、[[アンチレバノン山脈]]を越えたフランス軍がマイサルン峠でシリア人部隊を破り、ファイサルはダマスカスを追われた。[[サイクス・ピコ協定]]に基づき、シリア地方が英仏に分割されると、ダマスカスは[[フランス委任統治領シリア]]の首都となった。
 
 
 
[[1925年]]、シリア南西部ハウラーン地方で起きた[[ドゥルーズ派]]の反乱([[:en:Great Syrian Revolt|en]])がダマスカスに及んだため、フランス軍はダマスカス市街に対し砲撃と空襲を加えて鎮圧した。アル=ハミディヤ市場(スーク)とミドハト・パシャ市場の間の古い町並みは炎上し、多くの市民が死亡した。この後、旧市街はグータ・オアシスからの反乱分子が入らないよう有刺鉄線で囲まれ、装甲車などが通れるように新しい道路が北部郊外に造られた。[[1941年]][[6月21日]]、イラクから侵入した連合軍部隊が[[ヴィシー政権]]側の守るダマスカスを占領した。
 
 
 
[[1945年]]にフランス軍は再度ダマスカスを空襲したが、イギリス軍の介入でフランス軍は撤退に応じ、[[1946年]]のシリア独立につながった。以来、ダマスカスはシリアの首都となっている。
 
 
 
=== シリア騒乱 ===
 
{{main|シリア騒乱|en: Damascus clashes (2011–present)}}
 
 
 
{{節スタブ}}
 
 
 
== 歴史的地区 ==
 
[[ファイル:Damascus-Ananias_chapel.jpg|thumb|250px|left|アナニアス・チャペル]]
 
ダマスカスは、都市の歴史のさまざまな時代に遡る歴史的地区の宝庫である。この都市は過去の占領者ごとに増築されたため、現在の都市の8フィート地下に埋まっているダマスカスのすべての遺構を発掘するのはほとんど不可能である。ダマスカスの城砦は旧市街の北西隅に位置する。
 
 
 
[[使徒行伝]]第9章第11節にある聖[[パウロ]]の改宗に登場する、''直線と呼ばれる街路''またの名を''Via Recta''は、ローマ時代のダマスカスのメインストリートの一つであり、1,500m以上の長さがあった。
 
 
 
この道は今日ではバーブ・シャルキー通りと覆いのある[[スーク (市)|スーク]](市場)、スーク・ミドハト・パシャとなっている。バーブ・シャルキー通りは小さな商店に満ち、キリスト教徒の区画Bab Touma(聖トマスの門)に通じている。スーク・ミドハト・パシャもまた、ダマスカスの主要な市場であり、スークを刷新したオスマン時代のシリア州知事ミドハト・パシャにちなんで名づけられた。バーブ・シャルキー通りの端には、アナニアスの家の地下貯蔵庫であった地下教会がある。また、ダマスカスにはスーク・ミドハト・パシャと平行にもう一つ屋根つきのスークがあり、こちらは建設当時のオスマン帝国の[[スルタン]]・[[アブデュルハミト2世]]の名にちなみスーク・ハミディーエと呼ばれている。
 
 
 
ウマイヤード・モスク、またの名をダマスカスの大モスクは、世界で最も大きいモスクの一つであり、イスラム教が始まって以来最も長く祈りが捧げられ続けている場所の一つでもある。モスク内の寺院には[[洗礼者ヨハネ]]の頭が納められているといわれている。
 
 
 
=== ダマスカスの城壁と城門 ===
 
[[ファイル:Damascus-Bab Kisan.jpg|thumb|250px|right|Bab Kisanの門、現在は聖パウロを記念した教会]]
 
ダマスカスの旧市街は、北と東、および南の一部を塁壁に囲まれている。現存している門は七つある。最も古いものはローマ時代にまで遡る。城砦の北から時計回りに:
 
* Bab al-Faraj (救いの門)
 
* Bab al-Faradis (果樹園の門)
 
* Bab al-Salam (平和の門)以上三つは旧市街の北側にある。
 
* Bab Touma (トマスの門)北東の隅にあり、同じ名前のキリスト教徒の区画へ通じている。
 
* Bab Sharqi (東門)東の壁にあり、ローマ時代の設計が残っている唯一のもの。
 
* Bab Kisan、南東にあり、聖パウロがここから籠に入って塁壁から吊り下げられてダマスカスから脱出したという伝説が残っている。現在は閉鎖されており、この故事を記念する教会がその場所に建てられた。
 
* al-Bab al-Saghir (小さい門)南側にある。
 
 
 
[[ファイル:BankSharqAndBlueTower.jpg|thumb|250px|ダマスカスのビジネス地区。アル=シャルク銀行とブルータワーホテル]]
 
加えて、Bab a-Faraj、Bab al-Faraidis、スーク・ミドハト・パシャへの入り口にあるBab al-Jabiya、およびスーク・al-Hamidiyyaの入り口近くにあるBab al-Baridは、かつてはスークへの入り口の区域を指していた、ダマシーンという名で呼ばれている。城壁の外にある二つの区域もまた、「門 (bab)」の名を持っている。Bab MousallaとBab Sreijaであるが、どちらも城壁の外の南西にある。
 
 
 
== 交通 ==
 
[[ダマスカス国際空港]]で中東やアジア、欧州各国と結ばれている。同空港は[[シリア・アラブ航空]]のハブ空港でもある。
 
 
 
== 姉妹都市 ==
 
* {{flagicon|Armenia}} [[エレバン]]([[アルメニア]])
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[古代都市ダマスカス]](ダマスカスは[[世界遺産]]となっている。)
 
* [[ダマスコのイオアン]] - [[キリスト教]]の[[聖人]]
 
* [[w:Rulers of Damascus]] シリア歴代の支配者一覧
 
* [[ダマスカス鋼]]
 
* [[アンティオキア教会]]
 
 
 
== 外部リンク ==
 
{{commonscat|Damascus}}
 
* [http://www.souria.com/ep/index.asp ダマスカスのインタラクティブ地図(英文)]
 
* [http://hemsidor.torget.se/users/f/Falah/DAMASKUSMAP.JPG ダマスカスの簡単な地図画像(英文)]
 
* [http://www.ancientroute.com/cities/Damascus.htm ダマスカスの古代街道史(英文)]
 
* [http://www.oldamascus.com/ Oldamascus.com] ダマスカスに捧げられたサイト(英文)
 
* [http://www.zeledi.com/public/Photography/SyriaWinter03/Damascus/ ダマスカスの写真を多く掲載(英文)]
 
* [http://www.saudiaramcoworld.com/issue/198202/restoration.of.damascus.htm 大規模な復旧計画に関する記事(英文)]
 
* [http://ancientneareast.tripod.com/Ramad.html Tell Ramad]
 
* [http://www.ne.jp/asahi/arc/ind/2_meisaku/32_damascus/damas.htm ダマスクス、ウマイヤのモスク (日本語)]
 
* [http://jordansyria.ehoh.net/midokoro/damas/damas.html ダマスカスみどころ写真集(日本語)]
 
 
 
{{シリアの都市}}
 
{{シリアの県}}
 
{{アジアの首都}}
 
{{古代イスラエルの町}}
 
  
 
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ダマスカスの大モスク.シリア.jpg

ダマスカス

シリアの首都で,シリア最大の都市。アラビア語ではディマシュク Dimashq。カーシューン山麓で,グータオアシスの間に位置する。住民の大部分はアラブ人,ほかにドゥルーズ人,クルド人などがいる。市街はバラーダ川で二分され,南岸は旧市街でモスク,キャラバンサライ,市場,キリスト教徒居住地区,ドゥルーズ教徒居住地区があり,1979年世界遺産の文化遺産に登録。なかでもウマイヤモスク(ダマスカスの大モスク ) やスーク・ハミーディーヤは,中東で有数のものである。北岸は 1940~60年に新市街が急速に発展した。絨毯,皮細工,金属工芸などの伝統産業のほかに製糖,ガラス,織物,セメントなどの工業が発達。イスラム,キリスト両教徒の聖地。ペルシアに続いてアレクサンドロス3世(大王) やセレウコス朝が征服し,ローマ時代には商業都市として発展した。のちキリスト教が広まり,司教座が置かれた。 635年アラブ人が侵入し,661年から 750年までウマイヤ朝の首都として,イスラムの政治,文化の中心地となった。 1076年にはセルジューク・トルコが占領。 12世紀後半にはアイユーブ朝が興り,サラディン治下,町は繁栄をきわめ,宗教,文化が開花し,数多くの壮麗なモスクが建築された。 1516年にはオスマン帝国が征服し,その支配は以後 400年間続いた。 1946年シリア独立と同時に首都となった。人口 161万4500(2004推計)。



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