タンガニーカ湖

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タンガニーカ湖
座標 東経29度50分南緯6.5度 東経29.833度-6.5; 29.833
湖の種類 Rift Valley Lake
主な流入 ルジジ川
マラガラシ川
カランボ川
主な流出 ルクガ川
集水域面積 231,000 km2 ({{rnd/b構文エラー: 予期しない演算子 < です。|構文エラー: 予期しない演算子 < です。|(構文エラー: 予期しない演算子 < です。)|構文エラー: 予期しない演算子 < です。 }} sq mi)
ブルンジ
コンゴ民主共和国
タンザニア
ザンビア
最長 673 km (418 mi)
最大幅 72 km (45 mi)
水面積 32,900 km2 (12,700 sq mi)
平均水深 570 m (1,870 ft)
最深部 1,470 m (4,820 ft)
水量 18,900 km3 (4,500 cu mi)
滞留時間 5500年[1]
岸全長1 1,828 km (1,136 mi)
水面標高 773 m (2,536 ft)[2]
自治体 キゴマ、タンザニア
カレミ、コンゴ民主共和国
ブジュンブラ、ブルンジ
ムプルング、ザンビア
脚注 [2]
1 岸の長さは厳密な測定によるものではない。

タンガニーカ湖(タンガニーカこ、Lake Tanganyika)は、タンザニア西端にある淡水湖。湖の東岸はタンザニア、湖の西岸はコンゴ民主共和国に面しており、南端部はザンビア、北東端はブルンジに面する。

地誌

南緯3°25' - 8°45'、東経29°10' - 31°10'、海抜773mに位置し、東西40 - 50km、南北670kmに細長くのびる。面積は32,900km2で、アフリカではヴィクトリア湖に次いで2位、世界で6位。深さは平均水深570m、最大水深1,470mでアフリカで1位、世界ではバイカル湖に次いで2位[3]。周囲は1,900km、貯水量約18900km3[4]。水量もバイカル湖に次いで2位である[3]バイカル湖に次ぐ世界で2番目に古い古代湖(推定2000万年)といわれる。アフリカの大地溝帯・グレート・リフト・バレーによって形成された構造湖である。地溝帯内にある最大の湖で、地溝帯内では西リフト・バレー内にある。西リフト・バレーには、北から順にアルバート湖エドワード湖、キブ湖、タンガニーカ湖の4つの大湖沼が並んで存在しているが、このうちアルバート湖とエドワード湖はナイル川水系に属していてタンガニーカ湖とはつながりがなく、キブ湖のみが南端から発するルジジ川を通じてタンガニーカ湖とつながっている。上記の湖のほかに、ヴィクトリア湖マラウイ湖などを含めたアフリカ大湖沼の一角をなす。これらの湖はすべて大地溝帯に属しており共通点はあるものの、タンガニーカ湖とはキブ湖を除き水系はつながっていない。

タンガニーカ湖の湖底は全域において非常に深いが、なかでも北部の中央部と南部の中央部に非常に深い湖盆がそれぞれ存在する。北部湖盆は湖面より1250m以上深く、南部湖盆はさらに深くて1400m以上となる。中央部は250mよりは深いものの、南北湖盆よりはかなり浅くなる[5]

非常に深いこと、低緯度地方にあることから気温の季節変化が非常に少ないことなどから湖水の上下循環がきわめて悪く、深層の水は流動せず、「化石水」と呼ばれる貧酸素水塊となっている。循環が悪いため湖水は水温によって層をなしており、これが崩壊することはない。しかし、5月から9月における乾季には強い南風が吹くため、その力によって湖の南端で中層の水が湧き上がる。また、それ以外の季節でも湖の南北両端においては中層からの水の上昇がある。この水は栄養分を多量に含んでおり、貧栄養湖であるタンガニーカ湖において貴重な養分の主な供給源となっている[6]

集水域は約231,000km2で、主要な流入河川は、キブ湖から出てタンガニーカ湖北岸に流入するルジジ川と、タンザニアで2番目に大きく、タンガニーカ東岸に流入するマラガラシ川、それにザンビアから湖の南端へと流れ込み、湖畔近くでアフリカ第2の高さの滝であるカランボ滝をつくるカランボ川であるが、このほかにも無数の小河川が湖に注ぎ込んでいる。しかし、年間流入水の湖水に対する割合は1500分の1にすぎない[7]。一方、流出河川は西側にあるルクガ川のみであるため、湖水の滞留時間が非常に長く、湖水の平均滞留時間は5500年にも及ぶといわれる[8]が、その90%以上は蒸発により失われるとされる。ルクガ川は下流でコンゴ川に合流し、大西洋へと注いでいる[9]。そのため、水系としてはコンゴ川水系に属する。ルクガ川への流出口は1837年に大規模な地滑りによってふさがれてしまい、40年後の1878年までタンガニーカ湖からの流出河川は存在しなかった。これによって湖水位が10m上昇したが[10]、1878年の増水によってルクガ川の流出口が復活し[11]、深い流出口が刻まれるようになると元に戻った。

タンガニーカ湖はプレートの動きでできた湖であるために、周辺では地震も多く起きる。2005年12月5日にはタンガニーカ湖中部のカレミ沖合でM6.8の地震が発生し、死傷者が出た。

歴史

19世紀まで

古来よりこの地域にはピグミーが居住していたが、紀元前300年ごろにバントゥー系民族の大移動の波がこの地域に到達し、ピグミーに変わってこの地域の主な住民となった。300年ごろには北から製鉄の飼育の技術が伝播したが、湖岸に平野部が少ないこともあり領域国家は長い間成立しなかった。16世紀になるとヴィクトリア湖北岸・西岸と西の西リフトバレーの諸湖との間の地域に牧畜民が侵入して厳重の農耕民を支配し[12]ブニョロ王国ブガンダ王国トロ王国アンコーレ王国ルワンダ王国といった諸王国が相次いで成立するようになり、タンガニーカ湖地方においても北端にブルンジ王国が成立したものの、それ以南においては以後も領域国家は成立せず、部族単位の分立が続いた。タンガニーカ湖畔の諸民族は主にインド洋に面した大陸東岸にやってくるアラブ人たちとの遠距離交易を行っていたが、この時代にはアラブ人たちはタンガニーカ湖畔には到達しておらず、アフリカ人の諸民族がインド洋沿岸にまで出向いて交易を行っていた。また、ブルンジ王国はやってくる隊商と積極的な交易をおこなわず、隊商の自国立ち入りも原則禁止していて、東隣にあって交易路上に位置するカラグウェ王国にまで自国の商隊を派遣して交易をおこなうのにとどまっていた[13]

19世紀半ばになると、タンガニーカ湖とインド洋沿岸のちょうど中間地点近くに勢力を張るニャムウェジ人が、ミランボ王のもとで統一され、両地域間の交易を担うようになった。またこのころになると、海岸部のザンジバルに拠点を置いたオマーン王国国王サイイド・サイードが交易を奨励したことから、従来海岸部にとどまって内陸諸民族から交易品の供給を待っていたアラブ人商人が直接内陸部へと進出して交易に乗り出すようになり、ティップー・ティプなどの奴隷商人がこの地域に進出するようになった。リンガフランカとしてスワヒリ語が湖岸全域に徐々に広まりだしたのもこのころのことである。この両勢力間の間には対立もあったが、やがて1876年には通商協定が結ばれて共存が行われた[14]。タンガニーカ湖畔へのキャラバンの主な出発地はインド洋に面したバガモヨで、ここからまっすぐ西へと向かい、ニャムウェジ人の本拠であるカゼ(タボラ)を経由してタンガニーカ湖東岸中部のウジジへと到達するものだった[15]。ウジジはこの地域の交易の中心となり[16]、のちのヨーロッパ人の探検家たちもここに本拠を置いて周囲を探索することを常とした。また、ウジジからタンガニーカ湖を越えてさらに東へと交易ルートを伸ばす商人も現れ始めた。1860年ごろからはティップー・ティプがタンガニーカ湖西岸に本拠を置いてコンゴ川上流域(ルアラバ川地域)にかけての商業帝国を築き上げ、20年ほど帝国を存続させた。「ザンジバルで笛吹けば、湖岸の人々踊りだす」という言葉がささやかれたのもこのころのことである[17]

ヨーロッパ人による「探検」

一方、この頃には産業革命によって資源の供給地や工業製品の販路を求めるようになったヨーロッパ諸国がアフリカ大陸内部を探険するようになった。ヨーロッパ人が初めてこの湖の存在を確認したのは、1858年イギリス人の探検家 ジョン・ハニング・スピークリチャード・フランシス・バートンによってである[18]。彼らはザンジバルから出発してナイル川の水源を探す探検を行い、タンガニーカ中央部のカゼ(現在のタボラ)にたどり着く。ここで二人は、北にニアンザ湖、西にウジジ湖と呼ばれる大きな湖があることを聞いた。二人はまず西から探検を進めることとし、1858年2月13日にウジジ湖(タンガニーカ湖)を発見した。さらにこの湖の北にルジジ川と呼ばれる川があることを聞くが、その川はタンガニーカ湖から流れ出すのではなく流れ込む川であると聞いた。これにより、二人は湖の北端まで探検行に出ることはなかった。この発見の後、二人はカゼに戻った。バートンは体調不良によりここで探検をストップしたが、探検を続行したスピークは北に向かい、ニアンザ湖(ヴィクトリア湖)を発見。二人はどちらの湖をナイル源流と考えるかで対立した。帰国後スピークが王立地理学会にてヴィクトリア湖がナイルの水源であると講演したことから二人はいさかいを起こし、タンガニーカ湖がナイル川の源流であると考えるバートンと、ヴィクトリア湖がナイルの源流であると考えるスピークの大論争が勃発した[19]

この論争に決着をつけるべく、デイヴィッド・リヴィングストン1866年に探検を開始し、1867年にはタンガニーカ湖畔にたどりついたものの体調が悪化し、1868年にはキゴマの南西7kmに位置する湖畔のウジジの村で静養した。リヴィングストンのウジジ滞在は3年に及び、本国イギリスと音信不通となったため、ニューヨーク・ヘラルド紙は救出隊としてヘンリー・モートン・スタンリーを派遣。1871年11月10日、両者はウジジで対面した。このときにスタンリーが発した「リヴィングストン博士でいらっしゃいますか?(Dr. Livingstone, I presume?)」は、当時の流行語となった。この邂逅ののち二人は共同でタンガニーカ湖北端までの小探検をおこない、ルジジ川が現地で聞いた通りタンガニーカ湖に流れ込む川であることを確認した[20]

その後、再びリヴィングストンの消息が途絶えると、これを探し出すために1874年、イギリスの王立地理学協会がヴァーニー・ロヴェット・カメロンを隊長とする探検隊を派遣したが、途中のカゼでリヴィングストンの棺を運ぶ従者たちと出会ったため、カメロンは目的をこの地域の探検に切り替えてさらに西進し、タンガニーカ湖の調査にかかった。カメロンはタンガニーカ湖の南半分の800kmに及ぶ湖岸線を調査し、タンガニーカ湖西部中央から流れ出るルクガ川を発見した[21]。カメロンが西へ向かった後、2年遅れた1876年にスタンリーがタンガニーカ湖に到達して湖を周航し、タンガニーカ湖の地理をほぼ明らかにした。スタンリーはその後、ルクガ川からルアラバ川を通ってコンゴ川を海岸まで下り、これによってタンガニーカ湖がコンゴ川水系に属すること、およびコンゴ川の水源のかなりが判明した[22]

植民地時代

スタンリーによる探検によってアフリカ中部内陸部の情勢がほぼ明らかとなると、ヨーロッパ各国がこの地域に食指を伸ばし始めた。なかでも最も早くこの地域に関心を示したのはベルギー国王レオポルド2世であり、1878年にはスタンリーのコンゴ川流域の探検を支援し、そのかわり流域各地の首長たちを従属させるという契約を結んだ。この探検によってレオポルド2世はこの地域のかなりを支配下に置いたが、これにポルトガルなどが反発し、結局1884年から1885年2月にかけてのベルリン会議によってコンゴ盆地は自由貿易地域となり、事実上コンゴ国際協会の統治下におかれることになった。この自由貿易地域は理論上はタンガニーカ湖東岸にまで伸びていたが、ベルリン会議以降ドイツがインド洋沿岸から急速に進出し、1886年にはイギリスとドイツの協定によってタンガニーカ湖の西に広がる地域はドイツの勢力範囲とされ、コンゴ自由国との境界線が決定されて、タンガニーカ湖はその西端となった。その後も両国はタンガニーカ湖北端などにおいて係争を続けたが、結局1890年にイギリスがタンガニーカ湖北端とエドワード湖とのあいだの鉄道敷設権を放棄し、この地域もドイツの勢力範囲となった[23]。こうしたアフリカ分割によって19世紀末には東岸がドイツ領東アフリカ、西岸がコンゴ自由国(のちベルギー領コンゴ)、南端がイギリス領北ローデシアに分割された。1905年にはブルンジに自治権が認められ[24]、この地域は間接統治下におかれることになって旧来の権力構造が残存した。1914年3月にはタンガニーカ湖東岸のキゴマまでダルエスサラームからの鉄道が到達した[25]。しかし、同年第一次世界大戦が勃発すると、タンガニーカ湖もアフリカ戦線の戦場となり、ドイツ軍イギリス軍が水上戦をおこなった。1915年にはイギリス軍のモーターランチであるミィミィ、トウトウがドイツの砲艦キンガニを拿捕し、ついで武装商船ヘードヴィヒ・フォン・ヴィスマンを撃沈、さらに特設砲艦グラーフ・フォン・ゲッツェンが爆撃されてドイツ軍は湖上の支配権を失った。

戦後、1919年にドイツ領東アフリカは英国委任統治領タンガニーカとなり、北東端のブルンジはベルギーの委任統治領ルアンダ=ウルンディの一部となることが決定し、1921年には正式に両国に施政権が移譲された[26]。ルアンダ=ウルンディの首都は、ドイツ軍が軍事拠点を置いていた湖北端のウスンブラ(現ブジュンブラ)におかれた。

独立後

第二次世界大戦後は独立運動が活発となり、1960年にはコンゴが、1961年にはタンガニーカが、1962年にはブルンジが、1964年にはザンビアが独立し、沿岸国すべてが独立を果たして現在の国境線が確定した。独立後、政治的にはタンザニアとザンビアは安定していたものの、コンゴとブルンジは政治的な混乱が続き、1990年代に入ると1994年ブルンジ内戦1996年第一次コンゴ戦争、さらに1998年から2003年にかけての第二次コンゴ戦争によって両国からタンザニアに大量の難民が流入し、タンザニアのブルンジ国境沿いや、コンゴへの玄関口であるキゴマの街の周辺には難民キャンプが立てられるようになった[27]。一方、湖周辺の経済が低調であり、また目立った資源も発見されていなかったことから、タンガニーカ湖をめぐる国境紛争は存在せず、沿岸4か国のタンガニーカ湖をめぐる関係は基本的には良好であり、国際水域の設定やタンガニーカ湖保護局の設立(後述)などで協力している。

生態系

ファイル:Neolamprologus cylindricus.jpg
ネオランプロローグス・シリンドリカス

世界でも固有種の多い湖として有名で、ここに生息する魚の約80%、貝類の約90%が固有種である。タンガニーカ湖に生息する400以上の動物種のうち、固有種は実に約300種に上る[28]。これは、湖の形成が古く、かつ他の水系からは切り離されて非常に長期間存続したことを物語っている。多くの淡水魚やデンキナマズ肺魚などが生息する。湖で最も個体数の多い魚はニシン科の2種(Limnothrissa miodonStolothrissa tanganicae)とアカメ科アカメ属Latesの4種の合計6種の遊泳魚で、魚類の現存量の大部分を占ている。しかし種として見ればこれらはごく一部であり、湖からは少なくともシクリッドが300種とそれ以外の魚が150種ほど知られており、その大部分は底生魚(主として湖底付近で生活する魚)である。約300種のシクリッドのほとんど(90%以上)が固有種で、このような固有化は無脊椎動物にも起こっており、類、ヒル類、カイアシ類(橈脚類)、カニ類などで顕著である。特にカワニナ類には一見海の貝のように見えるものも多く、他の淡水域には見られない際立った進化を見せている。水質がやや強いアルカリ性であるため、貝類の死殻の多くは溶解せずに長期間堆積しており、無数にあるNeothauma tanganyicenseタニシ科)の空殻はカニの隠れ家となったり、住処や産卵シェルターとしてそれらを使うように進化したシクリッドなども生息する。

これらのシクリッドはタンガニーカ湖産シクリッドとして、マラウイ湖のシクリッドと合わせてアフリカン・シクリッドという名で観賞用の熱帯魚として養殖され、欧米や日本に輸出される。

湖の魚は周辺地域に住むの人々の主要なタンパク源となっている。湖の周囲では約800箇所で漁業が営まれ、漁業に直接かかわっている人が約4万5000人、間接的に依存している人は約100万人といわれる。タンガニーカ湖で主に漁獲対象とされる魚は何種かあり、アカメ科のムゲブカという魚と、ニシン科のダガーなどがよくとれる[29]。ダガーはタンザニアでは小魚を全般に指すことが多く、たとえばヴィクトリア湖でとれるダガーはコイ科の魚であり、タンガニーカ湖のものとは種から違う。タンガニーカ湖産のダガーは味がよくやや大きいため、ヴィクトリア湖産のものにくらべ評価が高く、高値で取引される[30]。タンガニーカ湖産の魚は東アフリカ全域にも輸出されている。商業漁業は1950年代半ばに始まり、1995年の総漁獲量はおよそ18万トンであった。1999年には推定で16万5000トンから20万トンの漁獲高があり、周辺諸国の動物性たんぱく質の25%から40%を供給しているとされる[31]。商業漁業は漁獲対象である遊泳魚種に対し重大な影響を及ぼしているともいわれ、初期からの水産会社の中には、漁業がもっとも盛んであった1980年代に急成長したものの、その後倒産してしまったものもある。もっとも、減少の起きていなかった過去と比べても漁業圧力にはさほどの変化がないため、乱獲よりも後述する湖水状況の変化のほうが漁獲高に影響を与えているとされる[32]

また、東岸中部、キゴマの町の16km北にはゴンベ渓流国立公園があり、チンパンジーの研究で知られる。また、キゴマの町の南160kmにはマハレ山塊国立公園があり、ここもチンパンジーなど霊長類の研究で知られる。

人文・環境

構造湖であり非常な深さを誇るため、沖積平野の発達がなく湖岸平野がほとんど発達していない。沿岸最大の都市は湖北端に位置するブルンジの首都ブジュンブラであり、その他東岸にタンザニア中央鉄道English版の発着駅であるキゴマ、西岸にカレミ、南端にムプルングなどの町があるが、概して都市の発達はあまりない。タンガニーカ湖は4カ国にまたがり、道路網の発達していない地域において重要な交通路となっているため、国際水域となっている。タンガニーカ湖東岸の伝統的な交易中心地はキゴマの南西7kmにあるウジジだった[33]が、鉄道の開通によってその地位をキゴマに譲り渡した。

タンガニーカ湖周辺は都市の発達があまりなく、湖水の汚濁はさほど重大な問題となってはいない。しかし、それでもブジュンブラやキゴマからの都市の汚水流入が問題となっている。しかしそれよりも重大なのは、人口が稠密であり、よく耕作され土壌浸食の激しいブルンジやコンゴ民主共和国からの土砂の流入である[34]。タンガニーカ湖周辺はあまり開発が進んでいないが、北端のブルンジは例外であり、非常によく耕作され人口密度もアフリカで最も高い地域となっている。ブルンジには平地があまり存在せず、国全体が緩やかな丘陵におおわれているが、この丘陵の頂上付近までブルンジでは耕作されつくしており、これが上記の土壌流出の主原因の一つとなっている。湖岸地域にはあまり特産物も存在しないが、ブルンジのコーヒーのみは顕著な例外であり、ブルンジの総輸出量の大半を占めるまでになっている。

近年、タンガニーカ湖においては地球温暖化の影響によって1970年代以降周辺の気温が上昇し、それにともなって水温も上昇している。表水層では1913年以降一貫して水温が上がり続けており、深水層においても水温上昇が見られる。2010年の湖面温度は26度であるが、これは西暦500年ごろ以来1500年ぶりの高水温である[35]。また、乾季に湖面に吹く強い南風の強度も1970年代から1980年代以降弱まっている。この水温上昇と風速低下によって深部からの水の上昇が弱まり、養分が少なくなったことで植物プランクトンが減少し、これを主食とする魚類も減少している。この食物連鎖の弱まりによって漁獲高も減少し、一部魚種においては30%から50%の漁獲減少が生じている[36]

これらの問題について討議し解決を目指すため、「タンガニーカ湖の生物多様性保護のための汚染制御などの手段」プロジェクトが発足し、2003年には周辺諸国によってタンガニーカ湖の持続的管理に関する条約(タンガニーカ湖の持続的管理に関する条約)が結ばれた。2008年には沿岸4か国によってタンガニーカ湖保護局(Lake Tanganyika Authority、LTA)が設立され[37]、湖全体の環境問題を討議する初の政府間組織となった。

交通

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リエンバ号。建造後99年たつ2012年現在も旅客船として運行中である。

タンガニーカ湖は上述のように、周辺の貴重な交通路となっている。とくにタンザニア中央鉄道English版の終着駅である東岸中央部のタンザニアのキゴマと、コンゴ側の鉄道の終着駅であり、鉄道を通じてカタンガやベンゲラ鉄道とつながる西岸中央部のコンゴ民主共和国のカレミの間にはフェリーが走り、大陸横断ルートを形成している。キゴマ港の利用者は2002年のデータで40000人程度にのぼる[38]。また、南端にあるザンビアのムプルングや北端のブルンジのブジュンブラも重要で、上記4都市を起点として各町村を結ぶフェリーが運航している。ブルンジとザンビアは国境を接していないが、ムプルングとブジュンブラを直接結ぶ貨物船が就航しており、コンゴやタンザニアを経由せず行き来ができる。タンガニーカ湖畔では道路が整備されておらず、船でしか行き来できない地域も存在する。チンパンジーの生息地として名高いマハレ山塊国立公園には道路が通じておらず、湖から定期船またはチャーター船での往来を余儀なくされる[39]

とくにタンガニーカ湖水運が重要な位置を占めているのは、完全内陸国であるブルンジである。ブルンジの貿易は、周辺諸国との道路網が未発達であることもあり、多くがタンガニーカ湖の湖上輸送に依存している。タンザニアのキゴマ港からの輸送も大きいが、とくにザンビアのムプルング港からの水運は南部アフリカ諸国とブルンジとを結ぶ重要交易路であり、取り扱いが急増している。とはいえ、ムプルング港の貨物取扱量が132000t(2011年)[40]、ブジュンブラ港の貨物取扱量が122800t(2012年)[41]にすぎないという点からみても、この湖上輸送は量的にはいまだ決して大きいとは言えない。しかし、周辺諸国からの道路輸送が改善された場合、湖上輸送の終着地であるブジュンブラ港は今以上に輸送拠点として大きな意味を持つ可能性があるが、同港の施設の老朽化が進み、また取扱量に対して港湾設備が未整備であることから、日本の国際協力機構(JICA)は、2014年5月23日にブジュンブラ港港湾開発計画への無償資金援助を行った[42]

上記のグラーフ・フォン・ゲッツェン(1913年建造)は、1924年に引き上げられて貨客船リエンバ号として復活し、タンザニアとザンビアなどの諸国を結ぶ国際船として2006年現在もタンガニーカ湖上で運行している[43]2014年には建造101年を迎え、世界で最も古い船の一つとなったが、運行は継続中であり、旅客や農産物などの貨物を運んでいる[44]

しかし、これらのフェリーは他のアフリカの湖沼や河川と同じく過積載や老朽化が問題となっており、大きな事故が発生することも多い。2014年12月11日にはタンガニーカ湖中部、コンゴのカレミとモバの間の湖上で客船が転覆し129人の乗客が死亡した[45]

この湖が初めて外部と交通機関で結ばれたのは、1914年にタンガニーカ鉄道がキゴマまで延び、ダルエスサラームと鉄路がつながった時である。ついで1915年にはアルベールビル(現カレミ)まで鉄道が延び、南アフリカケープタウンと、さらに1928年にはベンゲラ鉄道の全通によりポルトガル領のベンゲラ港と結ばれた。

脚注

  1. Yohannes, Okbazghi (2008). Water resources and inter-riparian relations in the Nile basin. SUNY Press. 
  2. 2.0 2.1 LAKE TANGANYIKA”. www.ilec.or.jp. 2008年3月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。. 2008閲覧.
  3. 3.0 3.1 ~ZAMBIA~”. www.zambiatourism.com. . 2008閲覧.
  4. Datbase Summary: Lake Tanganyika”. www.ilec.or.jp. 2008年1月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。. 2008閲覧.
  5. 倉田亮 『世界の湖と水環境』p164 成山堂書店、2001年、ISBN 4-425-85041-6
  6. 「タンガニーカ湖の生産力低下」pp74-75 キャサリン・オーレイ、S.R.アリン、P.D.プリスナー、A.S.コーヘン著「世界の湖沼と地球環境」内収録 熊谷道夫、石川可奈子編 古今書院 2006年8月10日初版第1刷
  7. 「タンガニーカ湖の生産力低下」p74 キャサリン・オーレイ、S.R.アリン、P.D.プリスナー、A.S.コーヘン著「世界の湖沼と地球環境」内収録 熊谷道夫、石川可奈子編 古今書院 2006年8月10日初版第1刷
  8. Yohannes, Okbazghi (2008). Water resources and inter-riparian relations in the Nile basin. SUNY Press. 
  9. 倉田亮 『世界の湖と水環境』p164 成山堂書店、2001年、ISBN 4-425-85041-6
  10. http://kaken.nii.ac.jp/d/p/03041012.ja.html KAKEN - 熱帯深湖の深水層擾乱機構に関する湖沼物理学的研究(03041012) 2012年12月2日閲覧
  11. 「ミリオーネ全世界事典 第11巻 アフリカⅡ」 p426(学習研究社、1980年11月1日)
  12. 吉田昌夫『世界現代史14 アフリカ現代II』山川出版社、1990年2月第2版。p.15
  13. 吉田昌夫『世界現代史14 アフリカ現代II』山川出版社、1990年2月第2版。p.18
  14. 吉田昌夫『世界現代史14 アフリカ現代II』山川出版社、1990年2月第2版。p.22
  15. 「苦難の時代」根本利通/「タンザニアを知るための50章」p64 栗田和明・根本利通編著 明石書店 2006年7月10日初版第1刷 
  16. 「広域での動き」栗田和明/「タンザニアを知るための50章」p354 栗田和明・根本利通編著 明石書店 2006年7月10日初版第1刷 
  17. 「新書アフリカ史」第8版(宮本正興・松田素二編)、2003年2月20日(講談社現代新書)p232
  18. 『アフリカを知る事典』、平凡社、ISBN 4-582-12623-5 1989年2月6日 初版第1刷  p.265
  19. 吉田昌夫『世界現代史14 アフリカ現代II』山川出版社、1990年2月第2版。p.32-33
  20. 「コンゴ河」p247 ピーター・フォーバス著 田中昌太郎訳 草思社 1979年12月15日第1刷
  21. アンヌ・ユゴン『アフリカ大陸探検史』p96 創元社,1993年 ISBN 4422210793
  22. 吉田昌夫『世界現代史14 アフリカ現代II』山川出版社、1990年2月第2版。p.36
  23. 吉田昌夫『世界現代史14 アフリカ現代II』山川出版社、1990年2月第2版。p.53
  24. 吉田昌夫『世界現代史14 アフリカ現代II』山川出版社、1990年2月第2版。p.87
  25. 吉田昌夫『世界現代史14 アフリカ現代II』山川出版社、1990年2月第2版。p.86
  26. 吉田昌夫『世界現代史14 アフリカ現代II』山川出版社、1990年2月第2版。p.101
  27. 「交流の中で」栗田和明/「タンザニアを知るための50章」p260 栗田和明・根本利通編著 明石書店 2006年7月10日初版第1刷 
  28. 『新版アフリカを知る事典』p263(小田英郎川田順造伊谷純一郎田中二郎米山俊直監修、平凡社、2010年11月25日新版第1刷
  29. 「週刊朝日百科 世界の地理107 タンザニア・ルワンダ・ブルンジ・マラウィ」p179 朝日新聞社 昭和60年11月10日
  30. 「淡水魚を好む」酒井紀久子/「タンザニアを知るための50章」p106-108 栗田和明・根本利通編著 明石書店 2006年7月10日初版第1刷 
  31. 「タンガニーカ湖の生産力低下」p82 キャサリン・オーレイ、S.R.アリン、P.D.プリスナー、A.S.コーヘン著「世界の湖沼と地球環境」内収録 熊谷道夫、石川可奈子編 古今書院 2006年8月10日初版第1刷
  32. 「タンガニーカ湖の生産力低下」p82 キャサリン・オーレイ、S.R.アリン、P.D.プリスナー、A.S.コーヘン著「世界の湖沼と地球環境」内収録 熊谷道夫、石川可奈子編 古今書院 2006年8月10日初版第1刷
  33. 「交流の中で」栗田和明/「タンザニアを知るための50章」p260 栗田和明・根本利通編著 明石書店 2006年7月10日初版第1刷 
  34. 「国際湖沼地域の持続可能な開発のための多国間協力について 地球環境整備基金からの教訓」pp182-183 J・I・ウィットー 「湖と人、共存の道をひらく 世界湖沼ビジョン」所収 財団法人国際湖沼環境委員会編 吉良竜夫監修 新樹社 2005年1月10日初版1刷
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外部リンク