スーパーアグリF1チーム

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テンプレート:旧F1コンストラクター スーパーアグリF1チーム(Super Aguri F1 Team)は、2006年から2008年シーズン途中までF1に参戦していたF1コンストラクター。略称はSAF1

概要

2005年に元F1ドライバーの鈴木亜久里により発足。ホンダから技術面・資金面のバックアップを受け、2006年シーズン開幕戦よりF1参戦を開始した。初年度は準備不足もあり入賞なしに終わったが、2年目の2007年第4戦スペインGP佐藤琢磨がチーム初ポイント(8位・1ポイント)を獲得。さらに第6戦カナダGPでも佐藤がポイントを獲得し(6位・3ポイント)、低迷を続けるホンダF1をコンストラクターズポイントで一時上回る健闘を見せた。

しかし発足当初から資金不足に悩まされ続け、メインスポンサーとして獲得したSS UNITED GROUPのスポンサー料金未払い問題、マグマグループとのチーム売却交渉の破談といったトラブルが重なり、2008年第5戦トルコGPを前にした2008年5月6日に鈴木代表が東京のホテルにてF1撤退の記者会見を行い、活動を休止した。

純日本チーム

日本の独立系F1コンストラクターとしては、1970年代のマキコジマという先例があるが[1]、レギュラー参戦したのはスーパーアグリが最初となる。チーム所在地を東京都港区にある「株式会社エー・カンパニー」(鈴木のマネジメント、ブランド展開を行う会社)の住所で登録し、主要構成要素である車体製造者(スーパーアグリ)・エンジン製造者(ホンダ)・タイヤ供給者(ブリヂストン)・レギュラードライバーの全てが日本国籍であるなど「純日本チーム」であることをアピールした。

しかし、実際には全てが日本国籍であった訳ではなく、実働部隊の拠点であるファクトリーはイギリスのオックスフォード州リーフィールドに置かれ、テストドライバーやエンジニア、メカニックの大半は外国人だった。もっとも、国籍問わずチームスタッフの士気は非常に高く、多くの逸話が残されている。

参戦当初はマシンの車体に"Born in Japan"の文字が掲げられていたが、その後そのスペースにはスポンサーのロゴが入れられた。上記2007年スペインGPでの入賞はファーストドライバーである佐藤琢磨によって達成されており、「純日本体制」による初の快挙となった。

活動拠点・スタッフ

2001年までプロストテストチームの英国施設であり、2002年までアロウズトム・ウォーキンショー・レーシング、TWR)のヘッドクオーターであったイギリスの「リーフィールド・テクニカル・センター」にスーパーアグリF1株式会社が設立され、実働部隊の本拠地とされた。アロウズの破産後は米国の富豪ジョン・メナードが施設を管理しており、スーパーアグリの使用はリース契約に基づくもので、同施設内には相当数の企業が同居していた。

2006年前半の段階では、将来的にはホンダが所有するブラックレーのファクトリーの北方向近隣に新ファクトリーを建設する予定とのアナウンスもなされていたが、同年メル・コンポジットによる新工場の増設と、スーパーアグリF1株式会社によるコンポジット施設の一部買収による新会社の設立に伴い、2008年末までのリース契約の延長がなされた。

なお、その他の連動する拠点として、基本設計を供給するコンサルタント企業として、シルバーストーン・イノベーション・センター内のポール・ホワイトが率いるPeejayuu Limitedがあり、ベン・ウッドの率いる空力部門はサリーに所在するとされていた。

スタッフもマネージング・ディレクターのダニエル・オーデットやテクニカル・ディレクターのマーク・プレストンを筆頭に、元アロウズのTWR(トム・ウォーキンショー・レーシング)系メンバーを中心に構成されていた。

  • ディレクター職等の肩書きを持つ取締役クラスのスタッフ一覧
役職 氏名 備考
CEO 鈴木亜久里 -
General Manager Daniele Audetto TWR系
Team Manager Mick Ainsley-Cowlishaw TWR系
Operational Director Kevin Lee TWR系
Financial Director Wayne Humphries TWR系
Sporting Director Graham Taylor TWR系
Technical Director Mark Preston TWR系
Engineering Director Mark Ellis (2007-2008) プロドライブ

歴史

チーム設立までのいきさつ

鈴木はかねてより30歳までにF1ドライバーになり、35歳で引退し、45歳までに自分のF1チームを持つという目標を抱いていた[2]。1997年より国内ではARTAプロジェクトを運営し、2003年よりアメリカのIRLに「スーパーアグリ・フェルナンデス・レーシング」として参戦しながら、F1進出の機会を探っていた。

2005年2月に鈴木は、ホンダに、B・A・Rチーム株式の一部の買収によるチームの共同運営の話を持ちかけた[3]。当時のB・A・Rは、チーム株の45%をホンダが、残りの大半をブリティッシュ・アメリカン・タバコ(BAT)が持っていたが、2006年のタバコ広告禁止によりBATの撤退が予想されていた。鈴木の提案は、技術部門をホンダが受け持ち、鈴木のマネジメント会社であるエー・カンパニー(後のスーパーアグリ運営会社)が日本におけるプロモーションやスポンサー活動を担当するとの内容であった[3]

当時、国内外でレース活動を急拡大していたディレクシブが、鈴木のF1参戦を支援したいとの意向を示していたため、その資金でB・A・Rの株式買収を行う予定であった[4]。しかしディレクシブのバックグラウンドが明確でないこともあり、7月に、ホンダはこの提案を受け入れられないとの意向を示す[4]。その後、ホンダ・レーシング・ディベロップメント (HRD) の和田康裕ミナルディの買収を持ちかけるも[4]、それと前後して、資金提供を申し出ていたディレクシブが活動を停止するという事態が発生したことや[5]、既にレッドブルゲルハルト・ベルガーがミナルディと交渉していたことなどから[6]、この提案を受け入れられなかった[7]

最終的に、鈴木はチームを一から設立するという方法をとる。近いうちにカスタマーシャーシの使用が解禁される見込みがあり、新規参入競争が始まる前に参戦枠を確保する必要があった[8](2005年には2つの空き枠があったが、スーパーアグリの参入後に行われた2008年シーズンのエントリー選考では、残り1枠を11の新チームが争った)。

まずは、8月にダニエル・オーデットに連絡を入れる。鈴木がラルースでF1に参戦していた時、ランボルギーニエンジンのマネージャーを務めていたオーデットと親しくなっていた。オーデットはメナード・エンジニアリング社に所属しており、同社が所有していたリフィールドの工場はオーデットが仕切っていたことも関係していた。9月16日に渡英し、リフィールドのファクトリーでオーデットと話し合いを重ねた後、28日に再び渡英し、オーデットが集めたスタッフを含めた話し合いを行った[9]

当初はホンダから、2005年のB・A・R 007か2006年のホンダ・RA106知的財産権を譲渡してもらうつもりだったが、コンコルド協定により使用できないことが判明[10]。10月25日に、シャーシを提供できないとホンダから伝えられた[11]。そのため、2002年をもってF1から撤退したアロウズA23をベースとしたマシンを使用することになった。

エントリー承認まで

2005年10月4日、日本GP前の記者会見において突如ホンダが

  • 新チーム立ち上げ・参戦の動きがある
  • そのチームにエンジンを供給する用意がある
  • B・A・Rからの離脱が決定していたドライバー佐藤琢磨がそのチームからオファーを受けている

と発表した。これに対して「佐藤の放出に対する非難をかわすためのものではないか」と揶揄する向きもあった。この「11番目のチーム」を巡って童夢中嶋悟中嶋企画)、鈴木(ARTA)などの憶測が飛び交ったが、日本GPの時点では鈴木は噂を否定した。その後、11月1日に鈴木が東京のホンダ本社で記者会見を行い、国際自動車連盟 (FIA) に対して「スーパーアグリ・フォーミュラ1(SUPER AGURI Formula 1)」の名称で新規エントリー申請を済ませたことを発表し[12]、ホンダの発表がこれを示していたことが明らかとなる。

しかし、12月1日にFIAが発表した2006年度のエントリーリストに、同チームが掲載されないという事態が発生する。当初「書類申請上の不備」と発表されたが、実際にはスポンサーなどが見つからず、エントリーに必要となる供託金4800万ドル(約55億円[10])を支払期限までに用意できなかったことが原因であった[13]

ところが、FIA会長のマックス・モズレーが、供託金を支払えるならばレイトエントリーを認める意向を示した[14]。これを受けてチームは再申請のために他10チームからの合意を年内に取り付けた(12月21日にミッドランドが合意して、全チームの合意を得た[15])。同時進行で供託金の支援を受けるためにいくつかの企業と話し合いをしたが、ソフトバンク(主に孫正義)と交渉をすることになった。何度もの交渉の結果、孫から供託金の支払いを確約されるが、スポンサーシップを巡る解釈の相違[16][17]によって交渉は破綻した。結局、鈴木の友人である寺田和正の助けを元に[18]あおぞら銀行からの融資を受け、何とか供託金支払いに成功[19]。レイト・エントリーの締切前日である2006年1月26日に、正式にFIAからエントリーが認められた。

2006年シーズン開幕前の2月10日付の日本経済新聞に「亜久里ジャパン出陣」と銘打った全面広告を掲載。翌2月11日には、同日にオープンした表参道ヒルズ近くの特設会場にてF1参戦記念イベントを開催するなどのキャンペーンを実施して、日本国内における認知度向上を図った。

なお、コンコルド協定において「Formula 1」の登録商標をチーム名に使用する場合には使用料が求められるため、2006年3月24日に「スーパーアグリF1チーム」へのチーム名変更、ならびに新ロゴマークを発表し、これを回避した。

2006年シーズン

ドライバーは佐藤琢磨と井出有治の日本人コンビ。タイヤはブリヂストン、エンジンはホンダV8、さらにサマンサタバサオートバックスENEOSなど多くの日本企業のスポンサーがつくという「オール・ジャパン」チームでの参戦となった。

さまざまな苦難を乗り越え、開幕戦バーレーンGPからの参戦が実現することとなったが、デビュー時のマシンであるSA05の戦闘力・信頼性については他チームとの競争レベルに達していなかった。これは資金不足以外にも

  • 4年落ちのマシンであるアロウズ・A23のシャシーをベースとしている
  • フォードV10用ギヤボックスにホンダV8エンジンを2cmかさ上げして搭載しており、重心が高い
  • シーズン前のテストが実質3日間しか実施できなかった
  • SA05の製作と同時進行で新車SA06の開発に注力していた

などの理由が重なった結果である。実際、ライバルであるMF1にさえ1秒以上差をつけられるなど「勉強」のためのシーズンとなることを覚悟した。

井出は第4戦サンマリノGP接触事故によりスーパーライセンスを取り消され、第5戦からフランス人フランク・モンタニー、第12戦から山本左近を起用した。

第12戦ドイツGPで新車SA06がデビュー。さらに第14戦トルコGPにはBスペック (SA06B) を投入し、少なくともMF1とはある程度戦えるまでに強化された。

初年度は広告代理店電通にスポンサー獲得を依頼し、仲介手数料を支払うという契約だった[20]。しかし、大口スポンサーを獲得できず、GP毎の小口スポットスポンサーしか獲得出来なかった為、電通がチームの活動資金の大半を肩代わりした[20]。電通は2006年のみで手を引いてしまったため、サマンサタバサを除くほとんどの日系スポンサーが去ってしまう結果となった。
また、井出については事前のテスト走行不足などからマシンへの習熟もままならずにレースに参戦せざるを得なかったことがこのような事態を招いたというのが公式見解となっているが、実際は2カーエントリー必須というレギュレーションを満たすためだけの「当て馬」という面が強かった。後に井出のマシンはメルボルンの空港で観光用に展示されていた雨晒しのアロウズのマシンがベースにした改造車であったこと[21]や佐藤のマシンにパーツが優先されたため速い遅い以前に動かすのが精一杯な劣悪な状態で出走を強いられたことが判明。結果的に前述の揶揄が正しかったことを証明することとなってしまった。

2007年シーズン

ホンダ栃木研究所と協力して製作された新型マシンのSA07を導入したものの、ウィリアムズスパイカーなどのチームは、SA07がコンコルド協定に違反するカスタマーシャーシであると主張、提訴も辞さない構えでいた。

スパイカーは開幕戦オーストラリアGPの予選直後に異議申し立てを行い、その後提訴に踏み切った。本件についての結論は未だ出ていないが、レースへの参加はFIAによって認められており、ドライバーズポイントは有効である。コンストラクターズポイントの有効性については裁判の結果を以って判断が下される予定であったが、判決が出るまでには時間がかかることなどから、同シーズンアメリカGP中のミーティングにて、バーニー・エクレストンから『該当する下位3チームはシーズン終了後に受け取るであろうTV放映権利等、分配金をプールし、平等に分け合う』という調停案が提示された(※2007年第10戦ヨーロッパGP終了時現在)。

しかし、マクラーレンのスタッフがフェラーリのスタッフより機密情報を不正に入手したとして、マクラーレンのコンストラクターズポイントならびにチーム成績が全て無効となったことで同チームの最下位が決定、スパイカーF1も分配金を享受できるようになった。

なお、シーズン開幕時にばんせい山丸証券からの紹介で中華人民共和国香港)に本拠地を置く石油貿易企業SS UNITED GROUP[22]を初の大型スポンサーとして獲得。マシン側面やウィングなどにロゴが入れたものの、一度もスポンサー料が支払われることはなかった。チーム側はマシンへのロゴ掲出を続けることで契約を履行する方針をとっていたが、2007年日本GPでついにロゴの掲出をせず、ウェブサイトからもリンクが削除された。チーム側はスポンサー料滞納で民事訴訟の提起を検討している。

2008年シーズン

シーズンオフのテストでは、ホンダの使用していたRA107をベースに独自改良を施した暫定シャーシ(SA07B)でテストを行っていたものの、前年のSS UNITED GROUPによるスポンサー料未払いに端を発したチーム存続のための株式売却や、それに伴う経営者、ホンダとの技術提携の交渉が難航し、ホンダからの申し入れで暫定シャシーの使用が不可能になったことで、2008年1月以降のテストが行えない事態になった。ホンダ栃木研究所の協力の下で作られた2008年用のシャシーであるSA08Aも、FIAのクラッシュテストに合格したものの、上記の理由でテストに使用することが出来なくなってしまった。

テスト欠席を続ける中、鈴木は財政状況改善のためのチーム株式売却交渉を進め、2008年シーズン開幕週になりイギリスの自動車産業コンサルタント・企業再生会社のマグマ・グループがチームを取得すると発表された[23]。マグマはウルトラ・モーティブ(元TWRの自動車コンサルティング部門)を傘下に収めており、代表のマーティン・リーチイギリス・フォード勤務時代にホンダF1チームCEOのニック・フライと同僚だった。

なお、チーム代表の鈴木亜久里をはじめ、テクニカルパートナーのホンダ、佐藤琢磨とA.デビッドソンのドライバー陣すべてが継続となっている。詳細は未発表のままだったが、チーム株式の過半数以上もしくは100%を売却すると見られていた。

しかし、前述のマグマ・グループにスーパーアグリ買収の資金を拠出する予定だったドバイ・インターナショナル・キャピタル(以下、DIC)が資金拠出を断念。一度はホンダも加わったチーム再建計画の報告で再度交渉が始まったものの、スペインGP直前に完全に資金拠出の白紙化を通告、スペインGP参戦が危うくなった。この場も一旦はホンダが支援[24]することによりスペインGPに出走、その後チームは独ヴァイグル・グループとの共同声明を発表し、チーム売買の最終段階にあると発表した。

これに異議を唱えたのがホンダF1チーム(実際表に立って話したのはCEOのフライ)であった。「ヴァイグル・グループの規模では、裏にスポンサーなどがいなければ十分なチーム再建に向けてF1チームを所有することは不可能である」とホンダ(フライ)が判断してのことだった。一部報道では、スーパーアグリの抱えるホンダからの(エンジン等供給代を含む)借入金を、マグマの場合は一括返済、ヴァイグルの場合は3年分割返済という計画であったとされている。しかし仮にヴァイグル単体ではシーズンを通しての参戦が難しくても、少なくとも数戦は参戦可能なだけの資金は集めていたと思われ、その間に新たなスポンサーを探すことが可能である(ヴァイグルもインタビューに対しスポンサーの存在について触れている)。また、売却後の運営に注文をつけるなどこの時のホンダの姿勢には疑問が残る。

そして2008年5月6日、鈴木はスーパーアグリのF1からの撤退を発表した。次戦のトルコGP(5月11日)にも参加しないことを同時に表明。2005年に発足し、奇跡と呼ばれた2006年のF1GPへの参加、2007年には複数回ポイントも獲得し一時は本家ホンダF1チームをも上回る成績を挙げるなどしたチームは、3年という短さで幕を閉じることとなる。理由は上記のとおりの資金不足と、フライが先導するホンダF1チームからの異議申し立てであった。

撤退後

スーパーアグリの資産は、競売にかけられ、そのほとんどが、ドイツのツールデザイン兼製造会社のフォームテック社が購入。リフィールドのファクトリーなどを手に入れている。チームはその後、2008年7月7日に正式に破産宣告を受けた。

2009年に入り、FIAが予算制限のレギュレーションを発表した際、亜久里が「体力的に可能であれば、F1に戻りたいのは確かだ」との発言を行ったことが明らかとなったが[25]、後にエーカンパニー代表でスーパーアグリの共同オーナーであった秋田史はその報道を否定した[26]

なお、競売にかけられた資産を手に入れたフォームテックは、2010年のF1参戦を「ブラバムグランプリ」(会社名はブラバムグランプリリミテッド)として申請した。しかし、名称使用権は保有しているものの、ブラバム家から訴訟を起こすと声明を出され、肝心のF1参戦もFIA発表の「2010年F1世界選手権エントリーリスト」には登載されなかった。

ドライバー

2006年

当初の体制
ファイル:Takuma Sato smiling.jpg
佐藤琢磨(2005年F1アメリカGP)

2006年のドライバーは、当初の経緯から佐藤の起用は確実視されていた。もう1人のドライバーについては、純日本チームという観点からARTAのドライバーでもある井出有治の起用が有力視されていたものの、チームからは日本とヨーロッパ、アメリカのドライバーと交渉しているという発表があったこと、およびスポンサー関係を考慮すると2人とも日本人ドライバーにはならないのではないかと危惧されていた。

しかし、2月15日に佐藤と井出の起用が決定したという正式発表がなされた。レギュラードライバーがいずれも日本人というのはF1史上初のことである。

またリザーブ(控え)ドライバーについては、開幕3戦目までの限定契約という形で、2005年にルノーのテストドライバーを務めていたフランス人のフランク・モンタニーが務め、4戦目以降のリザーブに関しては、ホンダF1のリザーブ・テストドライバーのアンソニー・デビッドソンジェームズ・ロシターアダム・キャロルなどが候補に挙げられたが、ホンダが彼らのドライブを許可しなかったため、4戦目以降はリザーブドライバー無しで戦っていくものと思われていた。

FIA勧告によるドライバー交代

しかし大半の予想に反して、チームは第5戦ヨーロッパGPにおいてサードカーを走行させることを発表、サードドライバーはモンタニーが務める予定であった。

ところがチームに対してFIAから「井出がF1でのスキルを向上させるために必要な走行距離を金曜のフリー走行で作るべきである」との勧告が通達される。 これを受けてチームは井出を第3ドライバー、モンタニーをレースドライバーに変更したが、その後「フリー走行についても井出は出走させるべきでない」との勧告が通告された事や、マシンに余裕が無いことからヨーロッパGPでのサードカー走行を断念した。

さらにヨーロッパGP終了後、5月10日に井出のスーパーライセンス剥奪が決定される。 チームは井出をテストドライバーとして残し、復帰の道を模索したが

  • スーパーライセンスの再交付には全チームの合意が必要となるが、ほとんどのチームが反対の意向を示した
  • SA06登場までテスト予定がないことから走行マイルを稼ぐことができなかった

などの理由から復帰は困難となった。

その後7月に井出はフォーミュラ・ニッポンSUPER GTなど日本国内のレースに参戦したが、いずれも「スーパーアグリからのレンタル」という形態を取っており、契約はシーズン終了まで継続された。

チームはモンタニーとモナコGPまで正ドライバーとして契約し、その後のドライバーに関しては多くの関係者と議論を重ねた上で決定すると発表した。このことから新たな日本人ドライバーの起用も予想されていたが、チームはモンタニーとの契約をアメリカGPまで延長する。ヨーロッパGPからサードドライバーを走らせる予定が狂ってしまっていたが、イギリスGPより山本左近を起用し、ようやくサードカーを走らせることとなった。

山本の契約は当初アメリカGPまでであり、モンタニーとの契約もアメリカGPまでであったが、モンタニーの母国GPでレギュラードライバーからサードドライバーに降格させることは酷であること、新車SA06は予定が遅れドイツGPからの投入見込みとなったことから、フランスGPはそれまで通りセカンドドライバーにモンタニー、サードドライバーに山本として戦い、ドイツGPより山本をセカンドドライバーに昇格させた。なお、モンタニーは2006年シーズン終了までリザーブ&開発ドライバーとしてチームに残留し、2007年はテストドライバーとしてトヨタへ移籍した。

2007年

2007年シーズンは佐藤はチームに残留し、チームメイトにはホンダのサードドライバーを務めたアンソニー・デビッドソンが加入することが発表された。リザーブ兼ファーストテストドライバーには2006年F3ユーロシリーズに参戦していたオランダ人ドライバーのギド・ヴァン・デル・ガルデを起用、セカンドテストドライバーには2006年後半にレースドライバーを務めた山本左近が残留。山本は同時にGP2に同時参戦することが明らかとなった。

しかし、2月1日付けのスパイカーF1チームのリザーブドライバーラインナップにヴァン・デル・ガルデがセカンドテストドライバーとしてラインナップされていることが明らかになり、物議を醸した(詳しくはギド・ヴァン・デル・ガルデを参照)。この「二重契約」問題によりヴァン・デル・ガルデは実質上チームを離脱。これに伴い、山本がファーストテストドライバーに昇格するのではという憶測も流れたが、5月14日にホンダのテストドライバーを務めていたジェームズ・ロシターをファーストテストドライバーに起用することをチームが発表し、山本は当初の予定通りセカンドテストドライバーとなった。

同年7月26日、スパイカーがクリスチャン・アルバースに代わるレギュラードライバーとして山本を起用することを発表。これに伴い、山本はチームを去ることとなった。

2008年

チームの財政状況から、インド・スパイスグループからの支援を受ける代わりにナレイン・カーティケヤン起用を受け入れる、つまりはデビッドソンの降格・離脱の話がオフの間は取り沙汰されたが、最終的には2007年シーズンと同様、2008年も佐藤とデビッドソンのドライバーラインナップで参戦することが発表される[23]

シャーシ

SA05

SA06,SA06B

SA07

SA08A

2008年に関しては、カスタマーカー供給を受けてもコンストラクターとして認められる条項が追加されたコンコルド協定が決まれば、ホンダよりワークスと同等のシャーシ供給を行うことをホンダ側よりコメントが行われた。

2007年11月12日から3日間カタロニアサーキットで行われた合同テストでは、ホンダF1で使われていたRA107に酷似したマシンを「SA07B」として使用した。2008年序盤戦では、12月のヘレスや2月のヘレスのテストで使われた「SA07B」とほぼ同じと見られるRA107のフロント部とRA108のリア部分を合わせた「SA08A」を使用した(開幕戦リリースから呼称が変更されている)。

スポンサー

参戦の経緯や状況・方針からスポンサーも日本企業を中心に募っていた。2006年に広告代理店電通との提携を開始した。電通はスポット契約や現物支給である小口の日本企業を持ってきたものの、大口スポンサーの獲得には全く貢献しないばかりか、少額の小口スポンサーからも多額の代理店手数料を徴収したこともあり、わずか1シーズンで電通との提携は終了することとなった。なお電通との提携終了とともに同社を通してのスポンサーとの契約も終了した。

2007年以降は中規模の証券会社のばんせい証券の仲介により新たなスポンサーを募ったが、電通と同じく結局は大きなスポンサーを獲得することはできなかった。そればかりか、実体のない企業(SS UNITED GROUP)を紹介されたり、SS UNITED GROUPの契約不履行への打開策で受けた提案が非現実的な「ロータスの買収」であるなど、ばんせい証券との関係がチーム撤退の最大の原因となった[27]

以下のスポンサーには現物支給のみの企業も含む。

撤退時にスポンサーだった企業

過去のスポンサー

  • BERIK:(2006年 テスト~同年 シーズンオフ)
  • モバイルキャスト:(2006年 第1戦バーレーンGP~同年 第7戦モナコGP)
  • アサヒ飲料(SUPER H2O):(2006年 第1戦バーレーンGP~同年 シーズンオフ、佐藤琢磨の個人スポンサーは継続)
  • ライフカード:(2006年 第1戦バーレーンGP~同年 シーズンオフ、提携クレジットカードの発行は2007年6月18日まで継続)
  • 全日本空輸:(2006年 第1戦バーレーンGP~同年 シーズンオフ)
  • アデランス:(2006年 第6戦スペインGP~同年 シーズンオフ)
  • 朝日ソーラー:(2006年 第9戦カナダGP~同年 シーズンオフ)
  • タイセイ商工:(2006年 第11戦フランスGP~同年 シーズンオフ)
  • 久光製薬(サロンパス):(2006年 第12戦ドイツGP~同年 シーズンオフ)
  • ECC:(2006年 第12戦ドイツGP~同年 シーズンオフ)
  • アクサ生命:(2006年 第17戦日本GP、同社の日本法人)
  • ビームス:(2006年 第17戦日本GP)
  • 日清食品カップヌードル):(2006年 第15戦イタリアGP~同年 シーズンオフ、2007年 第15戦日本GP)
  • ヴァージン・アトランティック航空: (2006年 第17戦日本GP、2007年 第15戦日本GP、第16戦中国GP、佐藤琢磨の個人スポンサーは継続)
  • SS UNITED GROUP:(2007年 テスト~同年 第15戦日本GP) 中華人民共和国香港)に本拠地を置くとされる自称石油貿易企業
実体のない会社で、2007年8月時点で連絡不能状態となり、ホームページも開設間もなく「リニューアル中」となった。
スポンサー契約後、1度もスポンサー料が支払われなかったが、チームはマシンへのロゴ掲出を継続することで契約履行をアピールした。しかし、日本GPでついにロゴの掲出を止め、ウェブサイトからもリンクが削除された。チームは民事訴訟の提起を検討している。

記憶に残るレース

2006年シーズン

第2戦マレーシアGP

  • 佐藤琢磨が、スタートで順位を上げ、トロ・ロッソやMF1とバトルを繰り広げる。トロ・ロッソのリウッツィとのバトルでは一度抜かれるも、スリップストリームに入り再度抜き返した。このオーバーテイクを見て、伊藤利尋(地上波実況)が「これぞ大和魂!」と叫ぶほどであった。

第18戦ブラジルGP

  • 佐藤琢磨、山本左近共々予選では期待された初のQ2進出は叶わなかった。決勝レースは1周目から荒れる展開となった。佐藤は1周目終了後には15位、SCが解除後は13位に上がり前を塞ぐライバルがピットイン後はペースが一段と上がった。佐藤が2回目のピットインする前のレース中盤には上位陣と同等あるいは速いタイムで走り10位までポジションアップを果たす。レース終盤には9位クビサより速いタイムで走るが順位逆転までは及ばなかった。山本は、レース中のファステストラップとして7位を記録し3戦連続完走でシーズンを締めくくった。

2007年シーズン

第1戦オーストラリアGP

  • 佐藤琢磨がチーム初、そして唯一となる予選Q3進出を果たした。

第4戦スペインGP

第6戦カナダGP

  • 佐藤琢磨は予選ではわずかの差でQ3進出を逃すものの、11位と健闘。決勝ではセーフティカーが4回も導入される荒れたレース展開の中、ミスの無い堅実な走りで順位を着実に上げた。セーフティカーが導入された周に佐藤自身の判断でソフトタイヤに交換し、セーフティカーがコースから離れた直後に給油とハードタイヤへ交換するという作戦(2種類のタイヤを使用するというレギュレーションをクリアしつつ、パフォーマンスの劣るソフトタイヤの使用時間を短くする)が功を奏し、レース終盤でソフトタイヤで走行中であったトヨタラルフ・シューマッハと、前年度のチャンピオンであるマクラーレンフェルナンド・アロンソのオーバーテイクに成功。見事6位入賞を果たした。
  • アンソニー・デビットソンも決勝で快走し、一時3位まで順位を上げたが、コースを横切った野生のウッドチャックに接触してフロントウィングを破損し、予定外のピットストップを行うアクシデントが発生してしまった。最終的に11位で完走した。

2008年シーズン

第4戦スペインGP

  • 佐藤琢磨は終盤、追突で潰れたノーズのまま、自車より圧倒的に速いレッドブルデビッド・クルサードを数周に渡って抑え続けた。最終的にはオーバーテイクを許して完走したドライバーの中では最下位の13位に終わったが、その姿は撤退が濃厚と噂されていたスーパーアグリとしての最後の意地でもあった。

変遷表

シャーシ ドライバー 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 ポイント ランキング
2006 SA05
SA06
SA06B
BHR
バーレーンの旗
MAL
マラヤ連邦の旗
AUS
オーストラリアの旗
SMR
サンマリノの旗
EUR
欧州連合の旗
ESP
スペインの旗
MON
モナコの旗
GBR
イギリスの旗
CAN
カナダの旗
USA
アメリカ合衆国の旗
FRA
フランスの旗
GER
ドイツの旗
HUN
ハンガリーの旗
TUR
トルコの旗
ITA
イタリアの旗
CHN
中華人民共和国の旗
JPN
日本の旗
BRA
ブラジルの旗
0 11位
日本の旗佐藤 18 14 12 Ret Ret 17 Ret 17 15 Ret Ret Ret 13 NC 16 DSQ 15 10
日本の旗井出 Ret Ret 13 Ret
フランスの旗モンタニー Ret Ret 16 18 Ret Ret 16
日本の旗山本 Ret Ret Ret Ret 16 17 16
2007 SA07 AUS
オーストラリアの旗
MAL
マラヤ連邦の旗
BHR
バーレーンの旗
ESP
スペインの旗
MON
モナコの旗
CAN
カナダの旗
USA
アメリカ合衆国の旗
FRA
フランスの旗
GBR
イギリスの旗
EUR
欧州連合の旗
HUN
ハンガリーの旗
TUR
トルコの旗
ITA
イタリアの旗
BEL
ベルギーの旗
JPN
日本の旗
CHN
中華人民共和国の旗
BRA
ブラジルの旗
4 9位
日本の旗佐藤 12 13 Ret 8 17 6 Ret 16 14 Ret 15 18 16 15 15 14 12
イギリスの旗デビッドソン 16 16 16 11 18 11 11 Ret Ret 12 Ret 14 14 16 Ret Ret 14
2008 SA08A AUS
オーストラリアの旗
MAL
マラヤ連邦の旗
BHR
バーレーンの旗
ESP
スペインの旗
TUR
トルコの旗
MON
モナコの旗
CAN
カナダの旗
FRA
フランスの旗
GBR
イギリスの旗
GER
ドイツの旗
HUN
ハンガリーの旗
EUR
欧州連合の旗
BEL
ベルギーの旗
ITA
イタリアの旗
SIN
シンガポールの旗
JPN
日本の旗
CHN
中華人民共和国の旗
BRA
ブラジルの旗
0* 11位*
日本の旗佐藤 Ret 16 17 13
イギリスの旗デビッドソン Ret 15 16 Ret

*シーズン途中で撤退

脚注

  1. レイトンハウスフットワークは日本企業が既存の海外コンストラクターを買収したケース。
  2. "第21回 スーパーアグリ F1チーム 鈴木亜久里 3". DREAM GATE 「MY BEST LIFE 挑戦する生き方」.(2006年)2013年2月3日閲覧。
  3. 3.0 3.1 『鈴木亜久里の冒険』 赤井邦彦、山海堂、2007年、p.35。ISBN 9784381022202。
  4. 4.0 4.1 4.2 『鈴木亜久里の冒険』 赤井邦彦、山海堂、2007年、p.36。ISBN 9784381022202。
  5. 『鈴木亜久里の冒険』 赤井邦彦、山海堂、2007年、p.38。ISBN 9784381022202。
  6. 『鈴木亜久里の冒険』 赤井邦彦、山海堂、2007年、pp.39 - 40。ISBN 9784381022202。
  7. 『鈴木亜久里の冒険』 赤井邦彦、山海堂、2007年、pp.38 - 39。ISBN 9784381022202。
  8. "スーパーアグリF1撤退とカスタマーマシン問題". F1-Gate.com.(2008年5月9日)2013年2月3日閲覧。
  9. 『鈴木亜久里の冒険』 赤井邦彦、山海堂、2007年、p.44。ISBN 9784381022202。
  10. 10.0 10.1 "第21回 スーパーアグリ F1チーム 鈴木亜久里 4". DREAM GATE 「MY BEST LIFE 挑戦する生き方」.(2006年)2013年2月3日閲覧。
  11. 『鈴木亜久里の冒険』 赤井邦彦、山海堂、2007年、p.45。ISBN 9784381022202。
  12. "【アグリF1結成】純日本チームを目指す". レスポンス.(2005年11月1日)2013年2月3日閲覧。
  13. 『鈴木亜久里の冒険』 赤井邦彦、山海堂、2007年、p.57。ISBN 9784381022202。
  14. 『鈴木亜久里の冒険』 赤井邦彦、山海堂、2007年、p.58。ISBN 9784381022202。
  15. 『鈴木亜久里の冒険』 赤井邦彦、山海堂、2007年、p.59。ISBN 9784381022202。
  16. 『鈴木亜久里の冒険』 赤井邦彦、山海堂、2007年、pp.59 - 62。ISBN 9784381022202。
  17. 当初、孫は二つ返事で資金供与を承諾したことから「スポンサー契約」としてソフトバンクと交渉をしたが、交渉が破綻したためご破算になった。その後、「男の約束は守る」と孫から再交渉を持ちかけられた際、鈴木側は交渉内容を「供託金用資金の一時借り受け契約」にした。ところが席上、孫は前回と同様にチーム名に「ソフトバンク」を付けることを要求。鈴木側はそれではスポンサー獲得ができなくなることを説明したが、孫には2つの契約の違いが理解できず、交渉は破談となった。
  18. 複数の金融機関に交渉するも不調に終わり、怪しい金に手を出そうとしていた鈴木に「そんな金に手を出すんだったら、俺が出してやるよ」と手を差し伸べた。また寺田は自身の会社、サマンサタバサ(男性向け部門のサマンサキングス名義)でもチームスポンサーとなり、撤退まで鈴木を支え続けた。
  19. 『鈴木亜久里の冒険』 赤井邦彦、山海堂、2007年、pp.63 - 64。ISBN 9784381022202。 
  20. 20.0 20.1 赤井邦彦「万策尽きた『存続』の道 プライベーターの意地と限界」『GRANd PRIX SPECIAL 2008年6月号』 ソニー・マガジンズ、2008年、p.18。
  21. 実際、佐藤・井出・モントニーのマシンのシャシーナンバーはそれぞれ異なっていた。
  22. 実際には実体の無い企業であった。当該項目参照
  23. 23.0 23.1 SUPER AGURI F1 TEAMが新たなパートナーと2008年度ドライバーラインアップを発表-(スーパーアグリF1公式リリース 2008年3月10日)
  24. 実際にはホンダは何も支援を行っておらず、ヴァイグル・グループが出資を行っていたことが後に判明
  25. “鈴木亜久里、スーパーアグリの復活に興味”. F1-Gate.com. (2009年5月8日). http://f1-gate.com/superaguri/f1_3510.html . 2009閲覧. 
  26. “スーパーアグリ、F1復帰を否定”. F1-Gate.com. (2009年5月11日). http://f1-gate.com/superaguri/f1_3575.html . 2009閲覧. 
  27. 敬天新聞社

関連項目

外部リンク

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