ジョアン1世 (ポルトガル王)

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ポルトガルの王子。ヘンリー航海王とも呼ばれる。<a class="<a class="attribute-value">homepageLinks]]" href="<a class="attribute-value" href="view-source:http://japan.eb.com/rg/article-05563500">/rg/article-05563500]]">ジョアン1世 (名王) </a>の三男。母后はイギリスのランカスター公ジョン・オブ・ゴーントの娘フィリッパ。大西洋およびアフリカ西海岸に多くの探検隊を派遣して大航海時代におけるポルトガルの海外発展の基礎を築いた。父王ジョアン1世は,リスボン,オポルトの海商ブルジョアジーの支援を得て即位したという経緯から海外交易重視の政策をとり,それはポルトガル海外進出の嚆矢とされる 1415年のセウタ征服に結果として現れた。セウタ攻略に従軍したエンリケは,以後,海外探検に強い関心を示し,1419年ポルトガル南部のアルガルベ総督に任命されてラゴスに居を定めると,外国の著名な天文学者,海図作成者,航海者を招いて航海術の発展に努めた。一方,エンリケの派遣した探検隊はマデイラ島 (1418) ,アゾレス諸島 (1427) に到達し,1434年には前人未踏のボジャドル岬の通過に成功,さらにアフリカ西海岸の金と奴隷を求め,エンリケが死亡した 1460年にはシエラレオネまで達した。以後,エンリケの事業はジョアン2世 (完全王) に引き継がれた。