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{{Otheruses|歴史上の国|[[内モンゴル自治区]]の行政区画|ジュンガル旗}}
 
{{基礎情報 過去の国
 
|略名 = ジュンガル
 
|日本語国名 = ジュンガル・ホンタイジ国
 
|公式国名 = {{mongol|ᠵᠡᠭᠦᠨ ᠭᠠᠷ ᠤᠨ}}{{mongol|ᠬᠠᠭᠠᠨᠲᠣ}}{{mongol|ᠣᠯᠣᠰ}}<br>{{Lang|mn|Зүүнгарын хаант улс}}
 
|建国時期 = [[1637年]]
 
|亡国時期 = [[1755年]]
 
|先代1 = オイラト
 
|先旗1 = blank.png
 
|次代1 = 清
 
|次旗1 = Flag of the Qing Dynasty (1862-1889).svg
 
|国旗画像 =
 
|国旗リンク =
 
|国旗説明 =
 
|国旗幅 =
 
|国旗縁 =
 
|国章画像 =
 
|国章リンク =
 
|国章説明 =
 
|国章幅 =
 
|標語 =
 
|国歌名 =
 
|国歌 =
 
|国歌追記 =
 
|位置画像 = ジュンガル帝国.png
 
|位置画像説明 = ジュンガルの最大版図(1688年頃)。
 
|公用語 = [[オイラト語]]
 
|首都 = [[グルジャ]]
 
|元首等肩書    = ホンタイジ
 
|元首等年代始1 = [[1637年]]
 
|元首等年代終1 = 1653年
 
|元首等氏名1 = [[バートル・ホンタイジ]]
 
|元首等年代始2 = 1671年
 
|元首等年代終2 = 1697年
 
|元首等氏名2 = [[ガルダン・ハーン]]
 
|元首等年代始3 = 1694年
 
|元首等年代終3 = 1727年
 
|元首等氏名3 = {{仮リンク|ツェワンラブタン|zh|策妄阿拉布坦|ru|Цэван Рабдан|de|Tsewangrabtan}}
 
|元首等年代始4 = 1727年
 
|元首等年代終4 = 1745年
 
|元首等氏名4 = {{仮リンク|ガルダンツェリン|zh|噶尔丹策零|ru|Галдан-Цэрэн|de|Galdan Tsereng}}
 
|元首等年代始5 = 1753年
 
|元首等年代終5 = 1755年
 
|元首等氏名5 = {{仮リンク|ダワチ|mn|Даваач|ru|Дабачи}}
 
|面積測定時期1 =
 
|面積値1 = 
 
|人口測定時期1 =
 
|人口値1 =
 
|変遷1 = 建国
 
|変遷年月日1 = [[1637年]]
 
|変遷2 =
 
|変遷年月日2 =
 
|変遷3 = ガルダンがボショクト・ハーンの称号を与えられる
 
|変遷年月日3 = 1678年
 
|変遷4 = ジュンガルのハルハ部占領
 
|変遷年月日4 = 1688年
 
|変遷5= 清国によるジュンガル占領
 
|変遷年月日5 = 1755年
 
|通貨 =
 
|時間帯 =
 
|夏時間 =
 
|時間帯追記 =
 
|ccTLD =
 
|ccTLD追記 =
 
|国際電話番号 =
 
|国際電話番号追記 =
 
|注記 =
 
}}
 
  
'''ジュンガル'''({{Lang-mn|Зүүнгар}}、{{mongol|ᠵᠡᠭᠦᠨ ᠭᠠᠷ}} 転写:jegün γar、{{Lang-ru|Джунга́ры}}、準噶爾)は、[[17世紀]]から[[18世紀]]にかけて現在の[[ジュンガル盆地]]を中心とする地域に遊牧民[[オイラト]]が築き上げた遊牧帝国、およびその中心となったオイラトの一部族。オイラト部族連合に属し、一時期はオイラトの盟主となって一大遊牧帝国を築き上げた。ジュンガル帝国の滅亡後、このような遊牧帝国が2度と生まれなかったため、'''最後の遊牧帝国'''とも呼ばれる<ref>宮脇 2002,p188</ref>。
+
'''ジュンガル'''({{Lang-mn|Зүүнгар}}、{{mongol|ᠵᠡᠭᠦᠨ ᠭᠠᠷ}} 転写:jegün γar、{{Lang-ru|Джунга́ры}}、準噶爾)
  
== 名称 ==
+
モンゴル系オイラート人の一部族名。ドルベット人とともにチョロスとも総称される。おそらくもとはトルコ系で,12世紀にアルタイ山脈方面に拠ったナイマン人の後裔と思われる。チョロスが史上に活躍するのは 15世紀の初めからで,マハムード (馬哈木) [[トゴン (脱歓) ]][[エセン (也先) ]]らの有名な指導者を出した。その子孫が 17世紀のジュンガル部長バートゥル・ホンタイジ (在位 1634~53) で,ホシュート部族の外戚として勢力を築き,その子センゲ (在位 1653~71) ,[[ガルダン]]にいたって全オイラートに号令,1675年ガルダンはハンと称した。ガルダンは清の[[康煕帝]]と衝突して,96年ジョーン・モドの戦いで敗れ,まもなく病死した (97) が,王位はセンゲの子[[ツェワン・アラプタン (策妄阿拉布坦) ]]が継いだ。これからジュンガルは中央アジアで清とロシアの間に介在して,東西トルキスタンの諸国から貢税を取ったが,ラマ・ダルジャ・ハンのとき,清の[[乾隆帝]]に内紛に乗じられ,1755年に滅ぼされた。しかしアムルサナーの抵抗で,平定は 57年に持越された。
「ジュンガル」、「ジューンガル」とは[[モンゴル語]]で「左手、左翼」を意味するジェギュン・ガル (jegün-γar) からきている。伝統的な遊牧国家は南面して中央、右翼(baraγun-γar、西方)、左翼(jegün-γar、東方)の三部構造をとっており、オイラトの{{仮リンク|ドルベト (オイラト)|mn|Дөрвөд|ru|Дербеты|zh|杜尔伯特部 (绰罗斯氏)|en|Durvud}}部政権において左翼(東方)を担っていた者たちが「ジュンガル」と呼ばれるようになった<ref>宮脇 2002,p191</ref>。
 
 
 
===汗国という名称===
 
[[ソ連]]の{{仮リンク|イリヤー・ヤコヴレヴィチ・ズラートキン|ru|Златкин, Илья Яковлевич|label=ズラートキン}}({{lang-ru-short|И.Я.Златкин}})が著した『ジュンガル・ハン国史』({{lang-ru-short|История Джунгарского ханства}}、[[1964年]])を始めとして、ジュンガルの国をハン国(汗国)あるいはハーン国とする例が多いが、これは誤りである<ref>宮脇 2002,p212</ref>。そもそもジュンガルの部族長の称号は「ホンタイジ」であり、「ハーン」ではない。例外としてガルダン・ハーンのみが「ハーン」号を帯びているが、ジュンガルで「ハーン」号を使用したのは彼が最初で最後であり、他はすべて「ホンタイジ」号を採用している。<ref>宮脇 2002,p212</ref><ref>護・岡田 1990,p369</ref>
 
 
 
== 歴史 ==
 
[[ファイル:Gaban-Sharab.jpg|thumb|280px|right|『{{仮リンク|四オイラト史 (ガワンシャラブ)|ru|Сказание о дербен-ойратах (Габан Шараб)|label=四オイラト史}}』([[1737年]])。]]
 
 
 
=== 起源 ===
 
[[エムチ・ガワンシャラブ]]の『{{仮リンク|四オイラト史 (ガワンシャラブ)|ru|Сказание о дербен-ойратах (Габан Шараб)|label=四オイラト史}}』([[1737年]])において、「ドルベト、ジューンガルの一族は天から出た。管(チョルゴ)状の樹の下に幼児がおり、その樹液を吸って育ったので、その子孫をチョロースという」とあり、[[ウイグル]]の誕生説話に類似していることから、ウイグルの後裔と考えられるが、その住地から考察して[[ナイマン]]部族の後裔と推測される。ジュンガルの系譜によると、[[15世紀]]に[[モンゴル高原]]の覇権を握ったオイラトの[[トゴン・タイシ]]、[[エセン・ハーン]]の後裔とされる。<ref>宮脇 2002,p190</ref>
 
 
 
=== ジュンガルの登場 ===
 
[[1619年]]頃、[[モンゴル]]の[[ハルハ#歴代部族長|ハルハ部のアルタン・ハーン]]の{{仮リンク|ウバシ・ホンタイジ|en|Ubasi Khong Tayiji}}<ref>この「アルタン・ハーン」は[[ハルハ]]部の称号であり、16世紀の[[ダヤン・ハーン]]の孫[[アルタン・ハーン]]ではなく、{{仮リンク|ウバシ・ホンタイジ|en|Ubasi Khong Tayiji}}を指す。</ref>は[[ロシア帝国|ロシア皇帝]]([[ツァーリ]]。当時は[[ミハイル・ロマノフ]])に使節を送り、「カルムィクのカラクラ・タイシャがモンゴルとロシアの間にいて、使節の往来を妨げているので、カラクラ・タイシャの部族を両方から挟撃しましょう」と申し出た。この「カルムィク」というのはテュルク語で「留まった者たち」を意味する「カルマーク (qalmāk)」がロシア側で訛った言い方であり、[[イスラム教]]に改宗しなかった<ref>初め、宮脇淳子はこの「留まった者たち」の意味を「西モンゴル高原に留まったため」と推測したが、[[赤坂恒明]]が「イスラーム教に改宗した西の[[テュルク]]人が改宗しなかった東のオイラト人を指して言った用語である」という記録を紹介したため、こちらの説をとるようになった。</ref>「オイラト」を指す。「カラクラ・タイシャ」というのはジュンガルの始祖である「{{仮リンク|ハラフラ|en|Kharkhul}}」を指す。アルタン・ハーンの申し出は[[モスクワ]]当局によって却下されたが、[[1620年]]頃に攻めてきたオイラトの[[トルグート]]部,ジュンガル部をアルタン・ハーン自身で撃退した。この時、ジュンガル部長であったハラフラは妻子を奪われ、他のオイラト諸部とともに[[シベリア]]のロシア領内に逃げ込んだ。<ref>宮脇2002,p191</ref>
 
 
 
[[1623年]]、{{仮リンク|四オイラト (部族連合)|en|Four Oirats|label=四オイラト}}連合軍は[[ハルハ]]部のアルタン・ハーンであるウバシ・ホンタイジを殺し、モンゴルの宗主権から脱した。このことは[[オイラト語]]の英雄叙事詩『[[ウバシ・ホンタイジ伝]]』でも詠われている。<ref>宮脇2002,p193</ref>
 
 
 
=== バートル・ホンタイジ ===
 
[[1636年]]、オイラトの[[ホシュート]]部長[[グーシ・ハーン|トゥルバイフ]]は[[チベット仏教]][[ゲルク派]]の要請に応じて、[[青海]]に割拠する[[カルマ派]]の[[チョクト・ホンタイジ]]を討伐した。翌年、チョクト・ホンタイジを殲滅したトゥルバイフは[[ダライ・ラマ5世]]から「持教法王」の称号を授かり、グーシ・ノミーン・ハーン(国師法王)となると、青海遠征に同行したジュンガル部長ホトゴチンに「[[バートル・ホンタイジ]]」の称号を授けて中央アジアのオイラトを任せるとともに、自らは[[チベット]]を統一してチベット王の位に就いた([[1642年]])。<ref>宮脇2002,p195-196</ref>
 
 
 
中央アジアのオイラト諸部の盟主となったバートル・ホンタイジは、ロシアと盛んに使節を交わし、交易をおこなったため、ロシア史料に頻繁に登場することとなった。
 
 
 
=== ガルダン・ハーン ===
 
[[1653年]]、バートル・ホンタイジが亡くなると、息子の{{仮リンク|センゲ|en|Sengge}}が領民の半分を相続して後継者となった。しかし、センゲの異母兄たちはこれを恨んで相続争いを起こし、[[1670年]]にセンゲを殺害した。時にセンゲの弟である[[ガルダン・ハーン|ガルダン]]は13歳のころからチベットに留学していたが、10年の留学の末に帰国すると、兄の仇を討ってジュンガル部長となった。[[1671年]]、ダライ・ラマ5世はジュンガル部を平定したガルダンに「ホンタイジ」の称号を授けた。<ref>宮脇2002,p197</ref>
 
 
 
[[1675年]]、ガルダンは舅でホシュート部長である{{仮リンク|オチルト・ハーン|zh|鄂齐尔图汗|ru|Очирту-Цецен-хан|en|Ochirtu Khan}}と衝突し、翌年オチルト・ハーンを捕虜とした。これにより、それまでオイラト部族連合の盟主であったホシュート部に代わり、ジュンガル部がオイラト部族連合の盟主となった。ダライ・ラマ5世はガルダンに「持教受命王」の称号を授け、ゲルク派の擁護者として全オイラトの[[ハーン]]に認定した。しかし、ジュンガル部でハーン位に就いたのは彼が最初で最後である。<ref>宮脇2002,p197</ref>
 
 
 
[[1678年]]、ガルダン・ボショクト(受命)・ハーンは[[伊州区|ハミ]]と[[トルファン]]を征服し、[[1680年]]には[[カシュガル]]、[[ヤルカンド]]、[[ホータン]]といった[[オアシス都市]]を征服して[[タリム盆地]]を支配する[[モグーリスタン・ハン国|モグーリスタン]]のハーンと黒山党(カラ・タグルク、イスハーキーヤ)の[[ホージャ]]を[[イリ地方|イリ]]に幽閉した。ガルダンは黒山党と対立する白山党(アク・タグルク、アーファーキーヤ)のホージャをヤルカンドに据えて毎年莫大な貢納を取り立てた。こうしてタリム盆地を支配する一方、[[1681年]]以降西方遠征にも着手し、[[カザフ草原]]の[[カザフ人]]や[[キルギス人]]を攻撃した。[[1684年]]には[[タシュケント]]と[[サイラム]]を占領し、[[1685年]]には[[アンディジャン]]に遠征した。<ref>宮脇2002,p197-198</ref>
 
 
 
=== 清との戦争 ===
 
{{main|清・ジュンガル戦争}}
 
[[1688年]]、ガルダン・ハーンは東モンゴリア([[外モンゴル]])の[[ハルハ部]]に侵攻を開始する<ref name="imatani74">今谷2000,74頁</ref>。ハルハ部の内紛に乗じてガルダンの弟を殺したハルハ左翼部の[[トシェート・ハーン]]を討つべく、モンゴル高原に侵攻した。ガルダンは迎え撃つトシェート・ハーンを破り、仏教寺院[[エルデネ・ゾー|エルデニ・ジョー]]と左翼の[[チェチェン・ハーン]]を攻撃、その地を略奪した。トシェート・ハーンと弟の[[ジェブツンダンバ・ホトクト1世]]は南の[[内モンゴル]]へ逃れ、[[清]]の[[康熙帝]]に庇護を求めた。ガルダンは2人の引き渡しを要求したが、清が応じなかったため、遂に清と衝突することとなった。<ref>宮脇2002,p200</ref>
 
 
 
ガルダンは南へ進軍中の1690年9月、[[北京]]北方300キロの[[ウラーン・ブトン]](ウラン・ブトン、[[ウランプトゥン]]<ref name="imatani74"/>、遼寧省赤峰市)で清軍と衝突する([[ウラーン・ブトンの戦い]])。ジュンガル軍はロシア製の大砲を装備していた<ref name="imatani74"/>が決着がつかず、ガルダンは漠北へ退いた。<ref>宮脇2002,p201</ref>
 
 
 
1693年にはハミのダルハン・ベク、アブド・アッラーらはジュンガルの搾取を嫌い、清に接近した<ref>今谷77頁。羽田明『中央アジア史研究』臨川書店1982年</ref>。
 
 
 
またハルハ部のトシェート・ハーンらが康熙帝に臣従を誓ったため、モンゴル族すべてが清の支配下に入ることとなり、ハルハ部の故地を奪還するという大義名分を得た康熙帝は[[1696年]]、ジュンガル親征を開始し、ガルダンを[[ジョーン・モド]](チャオモード、昭莫多<ref name="imatani74"/>)で破った({{仮リンク|ジョーン・モドの戦い|en|Battle of Jao Modo}}<ref>[[岡田英弘]]『読む年表 中国の歴史』ワック、2012</ref>)<ref>宮脇2002,p202</ref>。敗走したガルダンは[[1697年]]4月4日にアルタイ山脈北のコプトで病死した<ref name="imatani74"/><ref>漢文史料のいう服毒自殺は誤り。《宮脇p203》</ref>。ガルダンの息子タンチラはハミに亡命したがアブド・アッラーによって捕らえられ、清に渡され、翌年ハミ地区は清の版図となった<ref>今谷77頁</ref>。
 
 
 
=== ツェワンラブタン ===
 
{{仮リンク|ツェワンラブタン|zh|策妄阿拉布坦|ru|Цэван Рабдан|de|Tsewangrabtan}}はすでにダライ・ラマ5世から「エルデニ・ジョリクト・ホンタイジ」の称号と、鉄の菊印の印璽を与えられていたが([[1694年]])、ガルダンの死去によって正式なジュンガル部長となった。ツェワンラブタンはカザフ草原や中央アジアのオアシスを侵略する一方、清朝とは一時的に友好的な関係であったが、[[1715年]]にハミ、トルファンで衝突が起こって以降、戦争状態となった。<ref>宮脇2002,p203</ref>
 
 
 
ジュンガルはツェワンラブタン統治下、ロシア経由で工業化も進めた<ref>今谷78-9頁</ref><ref>羽田明「明末清初の東トルキスタン」『東洋史研究』7巻3号</ref>。[[北方戦争]]でロシアの捕虜となったスウェーデン人砲兵士官[[ヨハン・グスタフ=レナット]]はイリで1732年まで軍事技術供与に携わっている<ref>今谷79頁。矢野仁一『近代支那史』[[弘文堂]],1925年</ref>。1715年、ツェワンラブタンはハミを襲撃するが、失敗する。追撃する清軍は翌1716年、敦煌、ハミ、バリクルに[[屯田]]を開く<ref>今谷79-80頁</ref>。
 
 
 
==== チベットへの侵攻 ====
 
時にチベットではダライ・ラマ5世の死後混乱状態となっており、[[ダライ・ラマ6世]]の乱立が起きていた。そんな中、[[青海ホシュート]]部長でチベットの[[グシ・ハン王朝]]の王{{仮リンク|ラサン・ハーン|zh|拉藏汗|ru|Лхавзан-хан|de|Lhabsang Khan}}の権威が失墜し、彼に対するチベット人と青海ホシュート部領主たちの反感は増えていった。ツェワンラブタンはそれを利用して1716年、ツェレン=ドンドプ将軍に命じチベットに侵攻した<ref>今谷80頁</ref>。翌年、ジュンガル軍はラサを占領、ラサン・ハーンを討ち取った。しかし、ジュンガル軍がゲルク派以外の寺院や僧侶などを殺略したので、チベット人たちはジュンガルに敵意を抱くようになった<ref>宮脇2002,p204-205</ref>。[[1718年]]9月、[[清]]はジュンガルに対抗するべく第1次派遣軍を出したが壊滅した({{仮リンク|サルウィン川の戦い|en|Battle of the Salween River}})。
 
 
 
[[1720年]]、[[康熙帝]]は第2次派遣軍を、青海・四川からチベットに進軍させ、ジュンガル軍を破り、[[ダライ・ラマ7世]]を擁立する。同1720年、さらに富康安、傅爾丹(フルダン)の二人の将軍に命じて[[トルファン]]侵攻を開始する<ref>今谷80頁</ref>。当時ツェワンラブタンはロシアとの紛争に忙しく、東部の防衛はおろそかになっていた<ref>今谷80-81頁</ref>。清軍は翌年までにピチャン、ルクチュン、トルファン城を攻め落とし、1722年にはトルファンに屯田を開き、1723年には[[吐魯番漢城]]を築く<ref>今谷80頁</ref>。1722年には[[康熙帝]]は病死している。
 
 
 
1725年、清とジュンガルは講和し、清軍はバリクルより撤退した。このとき、トルファンのウイグル人はジュンガルを恐れて清への移住を申し出て、清に受け入れられ、粛州に移住した<ref>今谷81頁</ref>。[[1727年]]、[[ヴォルガ川|ヴォルガ]]河畔からトルグート部の使節が到着したすぐあとにツェワンラブタンは毒を盛られて急死した。<ref>宮脇2002,p205</ref>
 
 
 
=== ガルダンツェリン ===
 
ツェワンラブタンの子である{{仮リンク|ガルダンツェリン|zh|噶尔丹策零|ru|Галдан-Цэрэн|de|Galdan Tsereng}}は継母を毒殺の罪で処刑し、その子の[[ロブサンショノ]]を追い出すと、ジュンガル部長となり、ホンタイジの位に就いた。ガルダンツェリンは父の遺志を継ぎ、カザフ草原や[[シルダリヤ川|シル川]]流域,[[フェルガナ]],[[バダフシャーン]]に侵攻した。[[1731年]]には漠北のモンゴル高原に侵入し、[[ホブド]]({{lang|en|Khobdo}}、{{lang|zh|科布多}})の西で清軍を破り([[:zh:和通泊之戰|和通泊の戦い]])、ハルハ各地を侵犯した。翌年、ジュンガル軍は再びハルハに侵入したが、親王[[ダンジンドルジ]]と[[エフ・ツェリン]]率いるハルハ軍に大敗した。[[1739年]]、ハルハ部とオイラト諸部の間で境界が画定され、お互い[[アルタイ山脈]]を越えないことを約束した。<ref>宮脇2002,p206</ref>
 
 
 
モンゴル高原の領有は失敗したものの、東方の脅威が無くなったため、ガルダンツェリンは西方攻略に専念できた。当時[[カザフ#ジュズ(部族連合体)|三つのジュズ]]に分かれていた[[カザフ・ハン国]]は頻繁にジュンガルの侵攻を受けたため、[[1740年]]にロシア帝国に庇護を求めた。これによってカザフ草原へのジュンガル侵入は止んだが、ジュンガルの別動隊が中央アジアのタシュケントと[[トルキスタン]]を占領し、[[コーカンド・ハン国]]に侵入してバダフシャン王子をイリに連れて行った。<ref>宮脇2002,p207</ref>
 
 
 
=== ジュンガルの衰退と滅亡 ===
 
[[1745年]]、ガルダンツェリンが亡くなると、ジュンガル部およびオイラト部族連合はたちまち分裂状態となった。[[1750年]]に息子の{{仮リンク|ラマダルジャー|mn|Лхамдаржаа|ru|Лама Дорджи}}が継いだが、庶出の異母兄に幽閉され、[[1752年]]には[[ホイト部]]長の{{仮リンク|アムルサナー|zh|阿睦尔撒纳|ru|Амурсана|de|Amarsanaa}}によってバートル・ホンタイジの玄孫である{{仮リンク|ダワチ|mn|Даваач|ru|Дабачи}}が擁立された。翌年からドルベト部などが清に投降するようになり、[[1754年]]にはダワチと不和になったアムルサナーまでも清に投降した。[[1755年]]、清の[[乾隆帝]]はこの機に乗じてモンゴル軍と[[満州族|満州]]軍を動員した大軍をジュンガルに進軍させ、わずか100日でタリム盆地に逃げ込んだダワチを捕獲し、ジュンガル帝国を滅ぼした。<ref>宮脇2002,p210</ref>
 
 
 
清朝は四オイラトにちなんで帰属したオイラトの人々を四部に分け、各部にハーンを置こうとした。しかし、アムルサナーがこれに不満を抱いてホンタイジと称し、鉄の菊印璽を勝手に使用して清朝に叛き、独立を宣言した。その後アムルサナーは清軍の追撃を受けて[[カザフ#中ジュズ|カザフの中ジュズ]]に逃げ込んだが、[[ヤムィシュ湖]]に到着した時、[[天然痘]]を発病し、[[トボリスク]]で死んだ。<ref>宮脇2002,p210-211</ref>
 
 
 
その後のジュンガル残党はしばしば清軍を襲撃するなどしたが、それを掃討する清軍によって天然痘が持ち込まれ、オイラトの人口が激減し、特にジュンガルの人々はほぼ全滅した。<ref>宮脇2002,p211</ref>
 
 
 
== 文化 ==
 
=== 経済 ===
 
ジュンガルの経済基盤は伝統的な遊牧帝国と同様、内陸貿易の拠点をおさえて遠距離の交易から利益を得ることと、周りの異民族を襲撃して家畜や領民を略奪するとともに、彼らから貢納を徴収することであった。ジュンガルが[[タリム盆地]]から徴収した貢納は、[[穀物]],[[綿花]],[[紅花]]または[[貨幣]],商税,金銅税,果税である。北方の山地[[タイガ]]や草原で暮らす[[テュルク系民族|テュルク系諸族]]に対しても重税を課し、穀物,鉄製品,家畜、[[クロテン|黒貂]]の皮,獣類を徴収した。<ref>宮脇2002,p208-209</ref>
 
 
 
=== 農業 ===
 
ジュンガルの支配下に入った中央アジアのテュルク系[[ムスリム]]はすべてブハラ人と総称され、軍事のほか、[[イリ地方]]に移住させられて農耕に従事した。[[1720年]]代にはブハラ人だけでなく、遊牧民である[[オイラト]]人も農耕をおこない、[[小麦]]、[[大麦]]、[[黍]]、[[米]]、[[カボチャ]]、[[スイカ]]、[[ブドウ]]、[[アンズ|杏]]、[[リンゴ]]などを栽培した<ref>宮脇2002,p208</ref>。
 
 
 
=== 軍事 ===
 
ジュンガルは早くからロシアと通じ、火器類などを製造する技術を持っており、戦闘には[[鉄砲]]や[[大砲]]、弓矢、刀槍を利用し、大砲は[[ラクダ]]に乗せていた。ジュンガル軍の主力は騎馬兵であり、その中核を担ったのは弓手、火縄銃手、槍騎兵であった。火縄銃手はプーチン(砲手)と呼ばれ、[[キルギス人]]やブハラ人が担当した。これら外人部隊も遊牧部族と同様、千人隊で1オトクと数えられた。<ref>宮脇2002,p208</ref>
 
 
 
== 歴代君主 ==
 
ジュンガルの歴代君主はモンゴルにおいて副王の意味であったホンタイジ(語源は[[皇太子]])号を採用し、[[チベット]]の[[ダライ・ラマ]]から授与されることで即位とした。ジュンガルがホンタイジ号を使用したことで、ホンタイジの意味は副王からオイラトの盟主を指す意味にもなった。<ref>宮脇 2002,p196-197</ref>
 
 
 
{| class="wikitable"
 
|+ 歴代ホンタイジ
 
|-
 
! 名 !! 称号 !! 在位 !! 続柄
 
|-
 
| ホトゴチン || [[バートル・ホンタイジ]]<br /> || [[1637年]]-[[1653年]] || ハラフラの子
 
|-
 
| {{仮リンク|センゲ|en|Sengge}} || ホンタイジ || [[1653年]]-[[1670年]] || ホトゴチンの子
 
|-
 
| [[ガルダン・ハーン|ガルダン]] || ホンタイジ、ボショクト・ハーン || [[1671年]]-[[1678年]](1678年から1696年までハーン) || センゲの弟
 
|-
 
| {{仮リンク|ツェワンラブタン|zh|策妄阿拉布坦|ru|Цэван Рабдан|de|Tsewangrabtan}} ({{MongolUnicode|ᠼᠧᠸᠠᠩ ᠠᠷᠠᠪᠲᠠᠨ}}) || エルデニ・ジョリクト・ホンタイジ || [[1694年]]-[[1727年]] || センゲの子
 
|-
 
| {{仮リンク|ガルダンツェリン|zh|噶尔丹策零|ru|Галдан-Цэрэн|de|Galdan Tsereng}} || ホンタイジ || [[1727年]]-[[1745年]] || ツェワンラブダンの子
 
|-
 
| {{仮リンク|ラマダルジャー|mn|Лхамдаржаа|ru|Лама Дорджи}} || ホンタイジ || [[1750年]]-[[1752年]] || ガルダンツェリンの次男
 
|-
 
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== 脚注 ==
 
<references />
 
 
 
== 参考文献 ==
 
*[[護雅夫]]・[[岡田英弘]]編『民族の世界史4 中央ユーラシアの世界』(山川出版社、1990年、ISBN 4634440407)
 
* [[宮脇淳子]]『最後の遊牧帝国 ジューンガル部の興亡』([[講談社]]選書メチエ、[[1995年]]、ISBN 4062580411)
 
* 宮脇淳子『モンゴルの歴史 遊牧民の誕生からモンゴル国まで』([[刀水書房]]、[[2002年]]、ISBN 4887082444)
 
* [[小松久男]]編『世界各国史4 中央ユーラシア史』([[山川出版社]]、[[2005年]]、ISBN 463441340X)
 
* [[今谷明]]『中国の火薬庫—新疆ウイグル自治区の近代史』集英社、2000年。
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* {{仮リンク|ジュンガル (民族)|en|Dzungar people|label=ジュンガル人}}
 
* [[オイラト]]
 
* [[ジュンガル盆地]]
 
* [[ダライ・ラマ]]
 
* [[チベット仏教]]
 
* [[トルグート]]
 
* [[ハルハ]]
 
* [[東トルキスタン共和国]]
 
* [[ホシュート]]
 
* [[モンゴル]]
 
* [[ウイグル]]
 
  
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[[Category:モンゴルの歴史]]
 
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2019/6/18/ (火) 10:00時点における最新版

ジュンガルモンゴル語: Зүүнгарᠵᠡᠭᠦᠨ ᠭᠠᠷ 転写:jegün γar、ロシア語: Джунга́ры、準噶爾)

モンゴル系オイラート人の一部族名。ドルベット人とともにチョロスとも総称される。おそらくもとはトルコ系で,12世紀にアルタイ山脈方面に拠ったナイマン人の後裔と思われる。チョロスが史上に活躍するのは 15世紀の初めからで,マハムード (馬哈木) ,トゴン (脱歓) エセン (也先) らの有名な指導者を出した。その子孫が 17世紀のジュンガル部長バートゥル・ホンタイジ (在位 1634~53) で,ホシュート部族の外戚として勢力を築き,その子センゲ (在位 1653~71) ,ガルダンにいたって全オイラートに号令,1675年ガルダンはハンと称した。ガルダンは清の康煕帝と衝突して,96年ジョーン・モドの戦いで敗れ,まもなく病死した (97) が,王位はセンゲの子ツェワン・アラプタン (策妄阿拉布坦) が継いだ。これからジュンガルは中央アジアで清とロシアの間に介在して,東西トルキスタンの諸国から貢税を取ったが,ラマ・ダルジャ・ハンのとき,清の乾隆帝に内紛に乗じられ,1755年に滅ぼされた。しかしアムルサナーの抵抗で,平定は 57年に持越された。



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