「シュマルカルデン戦争」の版間の差分

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{{Infobox military conflict
 
|conflict  = シュマルカルデン戦争
 
|image      = [[File:Carlos V en Mühlberg, by Titian, from Prado in Google Earth.jpg|280px]]
 
|caption    = [[ティツィアーノ・ヴェチェッリオ|ティツィアーノ]]の『カール5世騎馬像』(1548年)、[[ミュールベルクの戦い]]での勝利を祝って描かれた
 
|date      = 1546年7月10日 - 1547年5月23日
 
|place      = [[神聖ローマ帝国]]
 
|casus      =
 
|result    = 皇帝軍の勝利、[[シュマルカルデン同盟]]解体
 
|territory  =
 
|combatant1 =[[File:Charles V Arms-personal.svg|18px]] [[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世の帝国]]:<br/>
 
* {{flagicon|Spain|1506}} [[スペイン帝国]]
 
* {{flagicon|Holy Roman Empire}} [[神聖ローマ帝国]]
 
{{flag|Electorate of Saxony|name=ザクセン選帝侯国}}<br>[[File:Coat of Arms of Hungary.svg|15px]] [[ハンガリー王国]] <br>[[File:Blason Boheme.svg|18px]] [[ボヘミア王国]]
 
|combatant2 =[[シュマルカルデン同盟]]:<br>
 
{{flag|Electorate of Saxony|name=ザクセン選帝侯国}}<br>{{flagicon2|ヘッセン州}} [[ヘッセン方伯|ヘッセン方伯領]]<br>{{Flagicon image|Palatinate Arms.svg}} [[プファルツ選帝侯|プファルツ選帝侯領]]<br>[[File:Bremen Wappen(Mittel).svg|20px]] [[ブレーメン]]<br>[[File:Wappen Lübeck.svg|20px]] [[リューベック]]<br>[[File:Brunswick-Lüneburg Arms.svg|18px]] [[ブラウンシュヴァイク=リューネブルク|ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公国]]<br>ほか[[シュマルカルデン同盟]]のメンバー
 
|commander1 =[[File:Charles V Arms-personal.svg|18px]] [[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]<br>{{flagicon|Holy Roman Empire}}  [[フェルディナント1世 (神聖ローマ皇帝)|フェルディナント1世]]<br>{{flagicon|Holy Roman Empire}} [[マクシミリアン2世 (神聖ローマ皇帝)|マクシミリアン2世]] <br>[[File:Charles V Arms-personal.svg|18px]] [[フェルナンド・アルバレス・デ・トレド|第3代アルバ公]]<br>{{flagicon|Electorate of Saxony}} [[モーリッツ (ザクセン選帝侯)|モーリッツ]]
 
|commander2 = {{flagicon|Electorate of Saxony}} [[ヨハン・フリードリヒ (ザクセン選帝侯)|ヨハン・フリードリヒ1世]]<br>{{flagicon2|ヘッセン州}} [[フィリップ1世 (ヘッセン方伯)|フィリップ1世]]<br>{{Flagicon image|Palatinate Arms.svg}} [[フリードリヒ3世 (プファルツ選帝侯)|フリードリヒ3世]]
 
}}
 
'''シュマルカルデン戦争'''(シュマルカルデンせんそう、{{lang|de|Schmalkaldischer Krieg}})は、[[神聖ローマ帝国]]内において[[1546年]][[7月10日]]に勃発し[[1547年]][[5月23日]]にまで戦われた戦争である。[[カトリック教会]]を支持する神聖ローマ皇帝[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]と[[プロテスタント]]勢力([[シュマルカルデン同盟]])の間で争われた。
 
  
== 背景 ==
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'''シュマルカルデン戦争'''(シュマルカルデンせんそう、{{lang|de|Schmalkaldischer Krieg}})
[[1531年]]に反ローマ・反皇帝・反カトリックを掲げた諸侯の同盟がシュマルカルデン同盟である。神聖ローマ帝国では当時対[[オスマン帝国]]の戦費を集めることに躍起になっており、帝国内情は放置されていた。
 
  
先立つ[[ドイツ農民戦争]]でも皇帝は鎮圧しようとせず、諸侯自らこれらを鎮圧した。これらの不満から同盟は結成され、反カトリックを掲げた[[宗教戦争]]となった。無論、皇帝が帝国の内情に疎いことや弱体化が明白であったからということもある。オスマン帝国や[[フランス王国]]のカトリック支援なども理由の一つといえる。
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宗教改革時代のドイツにおいて,1546~47年プロテスタント派諸侯,帝国都市と神聖ローマ皇帝[[カルル5世]]との間で行われた戦争。プロテスタントが 30年の帝国議会で「[[アウクスブルク信条]]」を拒否されたことから,自衛のために翌年[[シュマルカルデン同盟]]を結成して皇帝と対抗したのでこう呼ばれる。 47年のミュールベルクの戦いで皇帝側が大勝し,シュマルカルデン同盟は事実上瓦解した。この戦争でエルンスト家のザクセン公[[ヨハン・フリードリヒ]]は選帝侯位を奪われ,皇帝側に寝返ったアルベルト家の[[モーリッツ・フォン・ザクセン]]が選帝侯位を獲得した。
 
 
[[1542年]]にはフランスが対神聖ローマ帝国戦争([[第五次イタリア戦争]])を開始し、皇帝が手薄になった事で同盟は蜂起した。これらの問題に直面した神聖ローマ皇帝カール5世は[[1544年]]に対フランス戦争を中止し、内乱の鎮圧に着手した。これにより1546年に皇帝と同盟の間ではっきりとしたシュマルカルデン戦争が始まった。
 
 
 
==結果==
 
[[1547年]]、[[ミュールベルクの戦い]]でカール5世が勝利、同盟の指導者[[ザクセン君主一覧|ザクセン選帝侯]][[ヨハン・フリードリヒ (ザクセン選帝侯)|ヨハン・フリードリヒ]]と[[ヘッセン方伯]][[フィリップ1世 (ヘッセン方伯)|フィリップ]]を捕えてカトリック優位の[[アウクスブルク仮信条協定]]を結んだが、[[1552年]]にザクセン選帝侯[[モーリッツ (ザクセン選帝侯)|モーリッツ]](ヨハン・フリードリヒの[[はとこ|又従弟]]でフィリップの婿、カール5世に就いて選帝侯になった)の反乱で[[パッサウ条約]]を締結した。
 
 
 
同年に反対派の[[アルブレヒト・アルキビアデス]]が反乱([[第二次辺境伯戦争]])を起こし、モーリッツが戦死したが[[1554年]]に終結したのを機に翌[[1555年]]の[[アウクスブルクの和議]]が成立。これによりプロテスタントが帝国内で許されることになった。
 
  
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[[Category:歴史上の宗教紛争]]
 
[[Category:歴史上の宗教紛争]]

2019/4/27/ (土) 17:33時点における最新版

シュマルカルデン戦争(シュマルカルデンせんそう、Schmalkaldischer Krieg

宗教改革時代のドイツにおいて,1546~47年プロテスタント派諸侯,帝国都市と神聖ローマ皇帝カルル5世との間で行われた戦争。プロテスタントが 30年の帝国議会で「アウクスブルク信条」を拒否されたことから,自衛のために翌年シュマルカルデン同盟を結成して皇帝と対抗したのでこう呼ばれる。 47年のミュールベルクの戦いで皇帝側が大勝し,シュマルカルデン同盟は事実上瓦解した。この戦争でエルンスト家のザクセン公ヨハン・フリードリヒは選帝侯位を奪われ,皇帝側に寝返ったアルベルト家のモーリッツ・フォン・ザクセンが選帝侯位を獲得した。



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