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[[ファイル:エトナ山の麓にあるカタニアの町.イタリア.jpg|サムネイル]]
| 出典の明記 = 2015年9月23日 (水) 11:59 (UTC)
+
'''シチリア島'''({{lang-it|'''Sicilia'''}} {{IPA-it|siˈtʃiːlja|}}, [[シチリア語]]: '''Sicìlia'''
| 参照方法 = 2015年9月23日 (水) 11:59 (UTC)
 
| 脚注の不足 = 2016年11月5日
 
| 単一の出典 = 2016年11月5日
 
}}
 
{{イタリアの州
 
|nome = シチリア自治州
 
|nomeRegione=Regione Siciliana
 
|linkBandiera= Sicilian Flag.svg
 
|linkStemma= Coat of arms of Sicily.svg
 
|zona = [[イタリア島嶼部]]
 
|capoluogo = [[パレルモ]]
 
|superficie = 25,702.82 <ref name="kmq">{{Cite web|author=[[国立統計研究所 (イタリア)|国立統計研究所(ISTAT)]]|url=http://dawinci.istat.it/MD/dawinciMD.jsp?a1=m0I040WI0&a2=mG0y8048f8&n=1UH90007S04&v=1UH0D807UH30000|title=Tavola: Superficie territoriale (Kmq) - Sicilia (dettaglio provinciale) - Censimento 2001.|language=イタリア語|accessdate=2013-10-20}}</ref>
 
|abitanti= 4,999,854 <ref name="demo.istat">{{Cite web|author=[[国立統計研究所 (イタリア)|国立統計研究所(ISTAT)]]|url=http://demo.istat.it/pop2011/index1_e.html|title=Total Resident Population on 1st January 2011 by sex and marital status|language=英語|accessdate=2013-04-03}}</ref>
 
|anno =2012-01-01
 
|densita = 194.5
 
|province = [[アグリジェント県|アグリジェント]]、[[カルタニッセッタ県|カルタニッセッタ]]、[[カターニア県|カターニア]]、 [[エンナ県|エンナ]]、[[メッシーナ県|メッシーナ]]、[[パレルモ県|パレルモ]]、[[ラグーザ県|ラグーザ]]、[[シラクーザ県|シラクーザ]]、[[トラーパニ県|トラーパニ]]
 
|numeroComuni = 390
 
|categoriaComuni =シチリア自治州のコムーネ
 
|sito = http://pti.regione.sicilia.it/
 
|presidente = [[:en:Rosario Crocetta|Rosario Crocetta]]
 
|elezioni=2012-10-29
 
|note =
 
|linkMappa = Sicily in Italy.svg
 
}}
 
'''シチリア島'''({{lang-it|'''Sicilia'''}} {{IPA-it|siˈtʃiːlja|}}, [[シチリア語]]: '''Sicìlia''')は、[[イタリア半島]]の西南の[[地中海]]に位置する[[イタリア]]領の[[島]]。地中海最大の島である。
 
  
周辺の島を含めて'''シチリア自治州'''を構成している。この州はイタリアに5つある[[イタリアの地方行政区画|特別自治州]]のひとつである。州都は[[パレルモ]]
+
[[地中海]]最大の島。付近の小島とともに[[イタリア]]の 1州を形成。州都[[パレルモ]]。北東端は[[メッシナ海峡]]を隔てて本土南端に接する。全島が山がちで,最高点は東部の[[エトナ山]](約3320m)。古くから[[インド=ヨーロッパ語族]]系の[[シクリ人]]などが住んでいたが,フェニキア,ギリシア,カルタゴ,ローマ,東ゴート,サラセン,ノルマン,フランスのアンジュー家,アラゴン,スペインなどに次々に支配され,1861年[[イタリア王国]]の一部となった。主要都市はいずれも古代ギリシア,ノルマンなどの遺跡をもつ。地中海性気候で,夏にサハラ砂漠から熱風([[シロッコ]])が吹くと気温は 40℃にも達することがある。ヒツジの放牧,ムギ類の栽培を行なうが,降水量が少なく,穀物や牧草の生育は悪い。オリーブ,オレンジ,レモン,ブドウなどはかなり広く栽培され,オリーブ油,ワインが製造される。シチリアは南部イタリアの近代化立ち遅れの影響を最も大きく被り,大土地所有制が残存,国外移住者も多い。かつて農村に浸透した[[マフィア]]は都市を舞台にして活動を続けている。エトナ山からは硫黄を産し,南東部では石油が発見され,石油化学工業が盛んになった。海岸にはマグロ・イワシ漁などの根拠地がある。面積 2万5460km<sup>2</sup>。人口 501万6861(2007推計)。
 
 
==名称==
 
[[古典ギリシア語]]では'''シケリア'''({{lang|grc|Σικελία}})、[[ラテン語]]では'''シキリア'''({{lang|la|Sicilia}})と呼ばれた。また、英語由来の名称で'''シシリー'''({{lang|it|Sicily}} {{IPA-en|ˈsɪsɨli|}})、'''シシリア'''とも呼ばれる。
 
 
 
==地理==
 
[[ファイル:Mediterranean Relief.jpg|thumb|地中海のほぼ中央にあるシチリア]]
 
[[File:Sicily topo.png|thumb|シチリア島の地形図]]
 
===位置・広がり===
 
'''シチリア島'''は、イタリア半島の西南に位置する島で、イタリア本土の[[カラブリア半島]]とは[[メッシーナ海峡]](最狭部の幅は約3km)によって隔てられている。面積 25,420km<sup>2</sup>は、日本の[[九州]]の約64%、あるいは[[四国]]の約1.4倍にあたる大きさである。地中海のほぼ中央部に位置しており、南西方の[[アフリカ大陸]]・[[チュニジア]]との間の[[シチリア海峡]](幅約145km)によって東地中海と西地中海を分かっている。北西方向には約285kmを隔てて[[サルデーニャ島]]がある。シチリア島を取り巻く海(地中海)のうち、北側の海は[[ティレニア海]]、東側の海は[[イオニア海]]とも呼ばれる。
 
 
 
シチリア島は、全域がイタリア共和国の'''シチリア州'''に含まれる。シチリア州には、シチリア島周辺の島々(北方沖の[[エオリア諸島]]、西方沖の[[エーガディ諸島]]、南西沖の[[パンテッレリーア島]]や[[ペラージェ諸島]]など)が含まれているが、面積の大部分はシチリア島が占めている。シチリア州はイタリア最大の面積を持つ州で([[ピエモンテ州]]がこれに次ぐ)、国土面積の12分の1弱を占めている。
 
 
 
シチリア州の州都パレルモは島の北岸(ティレニア海側)中央やや西寄りに位置しており、カラブリア半島先端の[[レッジョ・ディ・カラブリア]]から西へ約200km、イタリア南部の中心都市[[ナポリ]]から南南西へ約314km、チュニジアの首都[[チュニス]]から東北東へ約317km、サルデーニャ島の首府[[カリャリ]]から東南東へ約389km、イタリアの首都[[ローマ]]から南南東へ約428kmの距離にある。
 
 
 
ペラージェ諸島の[[ランペドゥーザ島]]は、イタリア共和国最南端の領土である。
 
 
 
===地勢===
 
[[File:Mt Etna and Catania1.jpg|thumb|エトナ火山]]
 
==== 山 ====
 
シチリア島東部に位置する州第二の都市[[カターニア]]付近には、ヨーロッパ最大の活火山[[エトナ火山]]がある。
 
 
 
==== 島 ====
 
[[File:Isole della Sicilia.svg|thumb|シチリア島と周辺の島]]
 
シチリア島周辺には小島嶼が散在している。北方([[ティレニア海]])の[[エオリア諸島]]、北西([[ティレニア海]])の[[ウスティカ島]]、西方の[[エーガディ諸島]]、南西([[シチリア海峡]])の[[パンテッレリーア島]]および[[ペラージェ諸島]]などであり、これらの島々はシチリア州に所属している。このうち最大の島はパンテッレリーア島(83 km²)である。このほかシチリアの南方には[[マルタ島]]や[[ゴゾ島]]があるが、これは[[マルタ|マルタ共和国]]として独立国家となっている。
 
[[ファイル:The Sphinx rocca salvatesta over fondachelli, sicily.jpg|サムネイル|Rocca Salvatesta山、 [[フォンダケッリ=ファンティーナ]]]]
 
シチリア周辺の島々の多くは、火山活動によって形成された火山島である。エオリア諸島にある[[ヴルカーノ島]]は「[[火山]]」を意味する語({{lang-en-short|volcano}})の由来となり、現在も活発に活動している[[ストロンボリ島]]は[[ストロンボリ式噴火]]のモデルとなっている。火山学や地質学に大きな寄与を行ったエオリア諸島は、ユネスコの[[世界遺産]](自然遺産)に登録されている。
 
 
 
シチリア島南西沖(シチリア島とパンテッレーリア島の中間)にはエンペドクレス海底火山{{enlink|Empedocles (volcano)}}があり、その一部は1831年の噴火に際して短期間海上に隆起し、[[フェルディナンデア]]と名付けられたことがある。
 
[[File:Eolie.jpg|thumb|エオリア諸島]]
 
;シチリア州の主要な島
 
{| style="font-size:85%"
 
|- valign=top |
 
|
 
*[[エオリア諸島]]
 
**[[リーパリ|リーパリ島]]
 
**[[サリーナ島]]
 
**[[ヴルカーノ島]]
 
**[[ストロンボリ島]]
 
**[[パナレーア島]]
 
**[[フィリクーディ島]]
 
**[[アリクーディ島]]
 
|
 
*[[ウスティカ島]]
 
*[[エーガディ諸島]]
 
**[[ファヴィニャーナ島]]
 
**[[マレッティモ島]]
 
**[[レヴァンツォ島]]
 
|
 
*[[パンテッレリーア島]]
 
*[[ペラージェ諸島]]
 
**[[ランペドゥーザ島]]
 
**[[リノーザ島]]
 
**[[ランピョーネ島]]
 
|}
 
 
 
=== 主な都市 ===
 
人口7万人以上のコムーネは以下の通り。人口は2012年1月1日現在<ref name="demo.istat" />。
 
{{Columns-list|2|
 
*パレルモ ([[パレルモ県]]) - 656,829人
 
*[[カターニア]] ([[カターニア県]]) - 293,104人
 
*[[メッシーナ]] ([[メッシーナ県]]) - 242,914人
 
*[[シラクサ]] ([[シラクーザ県]]) - 118,442人
 
*[[マルサーラ]] ([[トラーパニ県]]) - 80,145人
 
*[[ジェーラ]] ([[カルタニッセッタ県]])- 75,707人
 
}}
 
 
 
このほかの主要都市として、[[トラーパニ]]、[[アグリジェント]]、[[カルタニッセッタ]]、[[チェファル]]、[[タオルミーナ]]、[[ブロンテ]]などが挙げられる。
 
<gallery>
 
File:Palermo-Panorama-bjs-3.jpg|パレルモ
 
File:Sicilia - Catania dall'alto.jpg|カターニア
 
File:Messina Harbour.jpg|メッシーナ
 
File:Veduta aerea di Siracusa e con l'Etna sullo sfondo (Foto di Angelo Bonomo).jpg|シラクサ
 
</gallery>
 
 
 
== 歴史 ==
 
{{main|{{仮リンク|シチリアの歴史|it|Storia della Sicilia|en|History of Sicily}}}}
 
{{Seealso|イタリアの歴史}}
 
=== 古代 ===
 
==== ギリシア・カルタゴによる支配 ====
 
[[ファイル:Tribes of Sicily by 11th century BC.png|thumb|180px|[[紀元前11世紀]]のシチリア]]
 
[[ファイル:Archimedes by Giuseppe Nogari.png|thumb|180px|18世紀に描かれたアルキメデスの肖像画]]
 
{{main|シケリア戦争}}
 
[[紀元前11世紀]]には、西部に[[エリミ人]](エリュミア人、エリモイ人)({{lang-grc|Ἔλυμοι}})、中部に[[シカニ人]](シカノス人)({{lang-grc|Σικανοί}})、東部に[[シケル人]](シケロイ人)({{lang-grc|Σικελοί}})が原住民として住んでいた。[[紀元前8世紀]]から[[ギリシア人]]の植民が開始された。古典ギリシア語ではシケロイ人の名を取って'''シケリア'''と呼ばれた。[[紀元前734年]]頃、シケリア最大の植民市となった[[シュラクサイ]](現在のシラクサ)の他、ゲラ(現ジェーラ)、アクラガス(現アグリジェント)、[[セリヌス]]、[[ヒメラ]](現在の[[テルミニ・イメレーゼ]]の東12キロメートル)、ザンクル(現メッシーナ)、レオンティノイ(現[[レンティーニ]])などの植民都市が建設された。これらの都市は、古代ギリシアの重要な一部となっていた。ギリシャの学者として有名な[[エンペドクレス]]や[[アルキメデス]]はこの島の出身である。[[紀元前480年]]、シュラクサイの[[僭主]][[ゲロン (シュラクサイの僭主)|ゲロン]]と[[カルタゴ]]の間で戦争が起き、[[ヒメラの戦い|第一次ヒメラの戦い (紀元前480年)]]でゲロンが勝利を収めた。
 
 
 
[[紀元前431年]]に[[ペロポネソス戦争]]が起こると、[[イオニア人|イオニア]]系植民市と[[ドーリア人|ドーリア]]系植民市の抗争が激化し、[[アテナイ]]がこれに介入を図った。これに対しシケリアの全都市の代表は[[紀元前424年]]ゲラに会合し、シケリア以外からのいかなる干渉をも排することを盟約した。だが、敵国である[[コリントス]]との経済断交を求めてアテナイは[[シケリア遠征]]([[紀元前415年]] - [[紀元前413年]])を試み、[[紀元前415年]]シュラクサイ(コリントス系植民都市)を包囲したが、[[スパルタ]]からの援軍によって[[紀元前413年]]アテナイ軍は撃退された。
 
 
 
その後、ヘレニズム期において、[[ディオニュシオス1世]]ら僭主に率いられたシケリアのギリシア人はカルタゴと戦争状態に入った。カルタゴは、シチリア島の南西のそれほど遠くないアフリカ本土にあり、シチリア島に植民都市もあった。[[紀元前409年]]に再びカルタゴと戦争状態となり、[[ヒメラの戦い (第二次シケリア戦争)|第二次ヒメラの戦い (紀元前409年)]]<!--[[第二次シケリア戦争]]-->において、カルタゴはシチリア島からギリシア人勢力を駆逐しようとし、両軍が多大な犠牲を払った。[[紀元前311年]][[ヒメラ川の戦い]]<!--[[第三次シケリア戦争]]-->で、カルタゴはシラクサとメッシーナが支配する島の東部を除いた他の領域を支配下においた。
 
 
 
[[紀元前280年]]からは、カルタゴが支配していたシチリアの奪還及び[[共和政ローマ]]への牽制を目的として、[[エピロス]]王[[ピュロス]]がシチリアへ攻め込んだものの、失敗に終わった。
 
 
 
==== ローマ属州時期 ====
 
[[ファイル:Sicilia SPQR.png|thumb|220px|[[シキリア属州]](赤色部分)]]
 
[[紀元前256年]]、シラクサに侵攻されたメッシーナは、ローマに救援を求め、これがローマとカルタゴによる[[第一次ポエニ戦争]]の発端となった。戦争の終結する紀元前242年には、シチリア島全域がローマによって占領された。[[第二次ポエニ戦争]]でのカルタゴの初戦の快進撃によって、シチリア島の諸都市はローマに反乱を起こし始めたが、ローマは[[マルクス・クラウディウス・マルケッルス]]率いる軍団を派遣してこれを鎮圧し、(シラクサの包囲戦の最中にアルキメデスが戦没している)最終的にカルタゴはシチリア島から追い払われ、シチリアはローマの[[属州]]「[[シキリア属州]]」となった。
 
 
 
[[紀元前210年]]にローマの[[執政官]]マルクス・ウァレリウス・ラエウェヌスが、元老院に向かって述べた「一人のカルタゴ人もシチリア島では生かしてはならない」という言葉通りに、シチリア島のカルタゴ寄りの人々が多く殺された。このあと6世紀の間、シチリア島はローマ帝国の属州であった。僻地の田舎のような扱われ方だったが、シチリア島の農作物はローマ市にとって重要な食料供給源であった。強いてローマ化しようとはしなかったので、島はギリシャ時代の様子を多く残していた。
 
 
 
[[紀元前135年]]及び[[紀元前104年]]の2度にわたって、シチリアでローマを揺るがす奴隷の大反乱が起こった([[奴隷戦争|シチリア島奴隷反乱]]{{要曖昧さ回避|date=2014年8月31日}})。[[マルクス・トゥッリウス・キケロ]]の弾劾演説で有名な{{仮リンク|ガイウス・ウェッレス|la|Gaius Licinius Verres|it|Gaio Licinio Verre|en|Verres}}によるシチリアでの悪政があったのは、紀元前73年から紀元前71年にかけてのことであった。
 
 
 
[[紀元前49年]]1月からの[[ローマ内戦 (紀元前49年-紀元前45年)|内戦]]では、当初[[グナエウス・ポンペイウス]]らの[[元老院派]]がシチリアを押えていたが、同年4月までに[[ガイウス・ユリウス・カエサル]]派が奪取した。ポンペイウスの次男[[セクストゥス・ポンペイウス]]は、父が殺害され、内戦で元老院派が敗北した後も反カエサルを貫き、[[第二回三頭政治]]にも反対してシチリア島を本拠にイタリア半島を[[海上封鎖]]した。これにより、ローマとセクストゥスは[[紀元前38年]]よりシチリア海域を舞台に戦争状態となった({{仮リンク|シチリア戦争|en|Sicilian revolt}})。海上封鎖を続けるセクストゥスに対し、オクタウィアヌスは軍を差し向けたが大敗した。その後、[[ナウロクス沖の海戦]]で、オクタウィアヌスは腹心の部下[[マルクス・ウィプサニウス・アグリッパ]]の活躍と[[マルクス・アントニウス]]の支援により、紀元前36年9月3日セクストゥス軍を撃破した。なお、この直後[[マルクス・アエミリウス・レピドゥス|レピドゥス]]が打倒オクタウィアヌスを企て、シチリア島を独占しようとしたものの、その部下がオクタウィアヌスに通じて失敗、同年中に失脚した。
 
 
 
帝政ローマの時代には、帝国内を視察して回った皇帝[[ハドリアヌス]]が[[125年]]にシキリア属州を訪れている。
 
 
 
=== 中世・近世 ===
 
<!--[[ファイル:Totila fa dstruggere la città di Firenze.jpg|left|thumb|200px|[[フィレンツェ]]の町を破壊させるトティラ]]-->
 
 
 
==== ヴァンダル王国 ====
 
[[440年]]、[[ヴァンダル人]]の王[[ガイセリック]]がシチリア島を占領し、[[ヴァンダル王国 (アフリカ)|ヴァンダル王国]]に併合された。
 
 
 
==== 東ゴート王国 ====
 
その数十年後、[[東ゴート人]]が侵入してきたが、[[535年]]、[[東ローマ帝国]]の派遣した[[ベリサリウス]]将軍によって征服された。しかし、東ゴート王国の新たな王[[トティラ]]は、イタリア半島を席巻したのち、[[550年]]再びシチリア島を奪取した。[[552年]]、彼はまたもや東ローマ帝国の派遣した将軍[[ナルセス]]によって征服され、遂には殺された。
 
 
 
==== 東ローマ帝国 ====
 
シチリア島は、東ローマ帝国の領土となり、[[662年]]から[[668年]]に皇帝[[コンスタンス2世]]が暗殺されるまで、シラクサが帝国の首都であった時期もある。[[670年]]に{{仮リンク|ウクバ・イブン・ナフィ|en|Uqba ibn Nafi}}が[[イフリーキヤ]]の[[ケルアン|カイラワーン]]へ進出し、[[675年]]に駐屯基地を完成させた。
 
 
 
[[ユスティニアノス2世]]は、[[692年]]の{{仮リンク|セバストポリスの戦い|en|Battle of Sebastopolis}}で[[ウマイア朝]]に惨敗すると、軍政改革を開始して[[テマ制]]を敷き、[[695年]]に{{仮リンク|テマ・シチリア|el|Θέμα Σικελίας|en|Sicily (theme)|it|Sikelia|fr|Sicile (thème)}}([[695年]] - [[902年]])が置かれた。同年、{{仮リンク|テマ・ヘラス|el|Θέμα Ελλάδος|en|Hellas (theme)}}の長官[[レオンティオス]]がクーデターを起こすと、{{仮リンク|アフリカ総督府|en|Exarchate of Africa}}の[[カルタゴ]]が[[ウマイア朝]]に制圧された。[[697年]]にレオンティオスがカルタゴを奪回。[[698年]]の{{仮リンク|カルタゴの戦い (698年)|en|Battle of Carthage (698)|label=カルタゴの戦い}}で再度カルタゴを[[ウマイア朝]]に奪われる。{{仮リンク|テマ・キビュライオタイ|el|Θέμα Κιβυρραιωτών|en|Cibyrrhaeot Theme}}の長官アプシマロス([[ティベリオス3世]])がクーデターを起こし、レオンティオスも失脚。[[705年]]にユスティニアノス2世が復位し、レオンティオスとティベリオス3世は処刑された。
 
 
 
==== シチリア首長国 ====
 
[[827年]]にカイラワーンから侵入してきたアラブ人([[アッバース朝]]支配下の[[アグラブ朝]])によってシチリア島は征服され({{仮リンク|ムスリムのシチリア征服|it|Conquista islamica della Sicilia|en|Muslim conquest of Sicily}}、[[827年]]-[[902年]])、{{仮リンク|シチリア首長国|it|Storia della Sicilia islamica|ar|إمارة صقلية|en|Emirate of Sicily}}([[831年]] - [[1072年]])が成立。[[ムスリム|イスラーム教徒]]による支配の間には、文化的多様性と宗教的寛容さが保たれていた。
 
 
 
==== シチリア王国 ====
 
[[ファイル:Roger II Sicily.jpg|thumb|180px|ルッジェーロ2世]]
 
[[ファイル:Friedrich ii hrr.png|180px|thumb|フェデリーコ1世/フリードリヒ2世]]
 
{{main|シチリア王国}}
 
11世紀にイタリア半島南部を席巻した[[ノルマン人]]は、[[ロベルト・イル・グイスカルド]]と[[ルッジェーロ1世]]の兄弟に率いられ、[[1061年]]から[[1091年]]にかけてシチリア島を征服した([[ノルマン人による南イタリア征服]]参照)。[[1102年]]には[[紙]]の製法が伝えられた(ヨーロッパで最初とされる[[アンダルス|イベリア半島]]の[[シャティヴァ]]の[[1144年]]よりも早かった)。
 
 
 
[[1130年]]、シチリア伯[[ルッジェーロ2世]](ルッジェーロ1世の子)がシチリア王位に就き、シチリア島とイタリア半島南部を統治する'''ノルマン・[[シチリア王国]]'''([[オートヴィル朝]])が成立する。ルッジェーロ2世は学問や芸術に対する造詣が深く、さまざまな文化圏に属する医者や占星術師、学者を王宮に集めた。当時のシチリアでは[[イスラーム教]]のアラブ人、[[ギリシア正教]]のギリシア人、[[カトリック教会|カトリック]]のラテン系の人びとが生活し、パレルモの宮廷にはそれぞれ2名ずつ計6名の書記官がはたらいた。
 
 
 
[[1194年]]、[[ホーエンシュタウフェン朝]]の[[神聖ローマ皇帝]][[ハインリヒ6世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ6世]]がシチリア王位を奪った。[[1197年]]よりハインリヒ6世の子[[フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|フェデリーコ1世]](フリードリヒ2世)がシチリア王となり、当代随一の広い学識、合理性、科学的好奇心から畏敬の念も含めて「世界の驚異」と呼ばれ、のちには、その合理的思考から「王座の最初の近代人」と評価された。[[1215年]]より[[フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ2世]]として神聖ローマ皇帝位を兼ね、[[1220年]]にはパレルモを自らの本拠地とした。
 
 
 
[[1266年]]、神聖ローマ帝国と教皇の紛争により、[[フランス王国|フランス]]の王族である[[カルロ1世 (シチリア王)|アンジュー伯シャルル1世]](シャルル・ダンジュー)がフリードリヒ2世の後継者である[[マンフレーディ]]を破ってシチリア王国を征服、シチリア王カルロ1世として即位した([[アンジュー=シチリア家]])。
 
 
 
==== シチリアの晩祷と王国分裂 ====
 
[[1282年]]、フランス人による苛政に対してシチリア住民の反乱が発生([[シチリアの晩祷]])。カルロ1世も鎮圧に乗り出したが、[[アラゴン王国|アラゴン]]王[[ペドロ3世 (アラゴン王)|ペドロ3世]]([[バルセロナ家]]出身)が介入してシチリア島を支配下におさめた([[シチリア晩祷戦争]])。シチリア島とイタリア半島南部にまたがっていたシチリア王国は、カルロ1世が保った大陸側の王国([[ナポリ王国]])と、「[[アラゴン連合王国]]」の一部に組み込まれたシチリア島側の王国([[トリナクリア]]王国とも称される)に分裂する。ナポリ王国の王位継承問題はイタリア全土を巻き込む[[イタリア戦争]]を引き起こした。一方、シチリア島は、以後アラゴン王家である[[バルセロナ家]]、[[トラスタマラ家]]によって支配された。[[スペイン|スペイン王国]]の成立後には[[スペイン・ハプスブルク朝|スペイン・ハプスブルク家]]によって支配された。この間、[[1656年]]には疫病が爆発的に蔓延し、[[1693年]]には島の東側で起きた大地震により大損害を受けている。
 
 
 
==== スペイン継承戦争 ====
 
1700年にスペイン・ハプスブルク家が断絶すると、[[ブルボン家]]の[[フェリペ5世 (スペイン王)|フェリペ5世]]がスペイン王に即位するが([[スペイン・ブルボン朝]])。これをめぐり[[1702年]]にフランス(ブルボン家)とオーストリア(ハプスブルク家)との間で[[スペイン継承戦争]]が始まった。1713年に結ばれた[[ユトレヒト条約]]により、[[サヴォイア公国|サヴォイア公]]([[サヴォイア家]])の[[ヴィットーリオ・アメデーオ2世]]がシチリアの王位を得ることとなった。
 
 
 
==== 四カ国同盟戦争 ====
 
[[四カ国同盟戦争]]([[1718年]] - [[1720年]])が終わり、[[1720年]][[2月17日]]に[[ハーグ条約 (1720年)|ハーグ条約]]を締結。サヴォイア家は[[ハプスブルク君主国|オーストリア・ハプスブルク家]]の[[カール6世 (神聖ローマ皇帝)|カール6世]]との間でシチリアと[[サルデーニャ]]を交換し、以後シチリア島はオーストリア・ハプスブルク家の支配下に入った。
 
 
 
==== ポーランド継承戦争 ====
 
1733年に[[ポーランド継承戦争]]が勃発すると、[[1734年]]にスペインがナポリ・シチリアを奪回。スペイン・ブルボン家出身のパルマ公カルロがナポリとシチリアの王位に就いた(シチリア王としてはカルロ5世。のちにスペイン王となり[[カルロス3世 (スペイン王)|カルロス3世]])。以後、シチリア王国はナポリ王国とともに([[同君連合]]として)[[スペイン・ブルボン朝|スペイン・ブルボン家]]の分家である[[シチリア・ブルボン朝|ブルボン=シチリア家]]によって統治されるようになった。
 
 
 
=== 近代 ===
 
==== ナポレオン戦争と両シチリア王国 ====
 
{{main|両シチリア王国}}
 
[[ナポレオン戦争]]中、ナポリはフランス軍によって占領されるが、シチリア王[[フェルディナンド1世 (両シチリア王)|フェルディナンド3世]](ナポリ王としてはフェルディナンド4世)はパレルモに逃れ、シチリア島を確保した。
 
 
 
[[ナポレオン戦争]]後の[[1816年]]にシチリア王国とナポリ王国は統合されて'''[[両シチリア王国]]'''となり、シチリア王フェルディナンド3世が「両シチリア王フェルディナンド1世」となった。
 
 
 
==== イタリア統一運動 ====
 
[[1820年]]と[[1848年]]に、[[シチリア・ブルボン朝|ブルボン家]]に対して立憲政府を要求する革命運動が起きたが、どちらも失敗に終わる。
 
 
 
[[1860年]]に[[ジュゼッペ・ガリバルディ]]率いる[[千人隊]]はシチリア島西海岸の[[マルサーラ]]近くに上陸、シチリア島を占領し、ついでイタリア半島に渡って両シチリア王国の首都ナポリを奪取した。ガリバルディは占領地をサルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世に献上({{仮リンク|テアーノの握手|it|Incontro tra Giuseppe Garibaldi e Vittorio Emanuele II}})、翌[[1861年]]に成立する[[イタリア王国]]へシチリア島は統合された([[イタリア統一運動]]参照)。
 
 
 
==== ファッシ・シチリアーニ ====
 
イタリア統一後の半世紀にわたる経済発展によって、イタリア北部は大きく都市化されていたが、シチリア島は産業の発達から取り残された。[[1894年]]には{{仮リンク|ファッシ・シチリアーニ|en|Fasci Siciliani}}と呼ばれる労働者の運動が激化し、政府は非常事態宣言を出して弾圧した。シチリア島からは多くの移民が流出した。[[イタリア系アメリカ人]]の中でもシチリア系{{enlink|Sicilian American}}は多くの比重を占めている。[[19世紀]]後半、[[マフィア]]として知られる犯罪組織の影響力が拡大し、シチリア島にも及んでいた。
 
 
 
==== 世界大戦 ====
 
[[1920年代]]後半は、ファシスト政権によって抑圧されていた。[[第二次世界大戦]]時、連合国によるシチリア島攻略作戦([[ハスキー作戦]])によって解放された。
 
 
 
=== 現代 ===
 
[[1946年]]、シチリアはイタリア共和国の自治州となった。[[1950年]]から[[1962年]]にかけて国土の再編成が行われた結果、シチリア島は少し拡張され、1950年には南部開発公庫(1950年 - [[1984年]])から特別資金が当てられている。
 
 
 
[[1992年]]には、マフィアに反対する2人の治安判事が暗殺される事件が発生した。[[5月23日]]にはパレルモ近郊の[[カパーチ]]で[[ジョヴァンニ・ファルコーネ]]が暗殺され({{仮リンク|カパーチの虐殺|it|Strage di Capaci}})、[[7月19日]]にはパレルモ市内で[[パオロ・ボルセリーノ]]が暗殺された({{仮リンク|アメリオ通りの虐殺|it|Strage di via D'Amelio|en|Massacre of Via D'Amelio}})。2人の治安判事は反マフィア運動を象徴する人物として記憶され、パレルモ国際空港の正式名称もファルコーネ・ボルセリーノ空港と改められた。
 
 
 
この1992年は、マフィアなどとの癒着も含めイタリア政界を揺るがす事件が次々に明るみに出た年で([[タンジェントポリ]])、政界の再編が進んだ。1992年以後のイタリアについて「{{仮リンク|第二共和政 (イタリア)|it|Seconda Repubblica (Italia)|en|History of Italy#The Second Republic (1992–present)|label=第二共和政}}」という表現が用いられることがある。
 
 
 
==行政区画==
 
[[Image:Map of region of Sicily, Italy, with provinces-it.svg|right|300px|thumb|シチリア州と各県]]
 
シチリア州は、以下の9県からなる。
 
 
 
左端の数字はISTATコード、アルファベット2文字は[[イタリア共和国の県名略記号|県名略記号]]を示す。人口は2012年1月1日現在<ref name="demo.istat" />。面積の単位はkm{{sup|2}}。
 
 
 
{|class="wikitable sortable" style="text-align:left;font-size:85%"
 
!|
 
!|
 
!width="100"|県名
 
!width="80"|綴り
 
!|県都
 
!width="40"|面積
 
!width="50"|人口
 
|-
 
|081||TP||[[トラーパニ県]]||{{lang|it|[[:it:Provincia di Trapani|Trapani]]}}||[[トラーパニ]]||align=right|2,460||align=right|429,537
 
|-
 
|082||PA||[[パレルモ県]]||{{lang|it|[[:it:Provincia di Palermo|Palermo]]}}||'''[[パレルモ]]'''||align=right|4,992||align=right|1,242,560
 
|-
 
|083||ME||[[メッシーナ県]]||{{lang|it|[[:it:Provincia di Messina|Messina]]}}||[[メッシーナ]]||align=right|3,247||align=right|649,320
 
|-
 
|084||AG||[[アグリジェント県]]||{{lang|it|[[:it:Provincia di Agrigento|Agrigento]]}}||[[アグリジェント]]||align=right|3,042||align=right|446,520
 
|-
 
|085||CL||[[カルタニッセッタ県]]||{{lang|it|[[:it:Provincia di Caltanissetta|Caltanissetta]]}}||[[カルタニッセッタ]]||align=right|2,128||align=right|272,906
 
|-
 
|086||EN||[[エンナ県]]||{{lang|it|[[:it:Provincia di Enna|Enna]]}}||[[エンナ]]||align=right|2,562||align=right|173,377
 
|-
 
|087||CT||[[カターニア県]]||{{lang|it|[[:it:Provincia di Catania|Catania]]}}||[[カターニア]]||align=right|3,552||align=right|1,078,045
 
|-
 
|088||RG||[[ラグーザ県]]||{{lang|it|[[:it:Provincia di Ragusa|Ragusa]]}}||[[ラグーザ]]||align=right|1,614||align=right|307,697
 
|-
 
|089||SR||[[シラクーザ県]]||{{lang|it|[[:it:Provincia di Siracusa|Siracusa]]}}||[[シラクサ]]||align=right|2,109||align=right|399,892
 
|}
 
 
 
===地方区画の沿革===
 
[[第二次世界大戦]]後の1946年に制定されたシチリア特別自治州憲章は、従来の県 (プロヴィンチャ、{{lang|it|provincia}}) を廃止した。その後、1963年の州法第16号で県が再設置された。1986年、州法第9号は、1946年の州憲章を適用し、広域自治体として県 ({{lang|it|provincia}}) の代わりに {{lang|it|[[:it:Libero consorzio comunale|Libero consorzio comunale]]}} を置き、これを県(プロヴィンチャ・レジョナーレ、{{lang|it|provincia regionale}})と称した。
 
 
 
2015年9月4日制定の州法第15号により、パレルモ県、メッシーナ県、カターニア県は{{lang|it|metropolitana}} に移行した。
 
 
 
==経済・産業==
 
2000年以上前から穀物をはじめとする農作物の生産地で、なかでも[[オリーブ]]と[[ワイン]]が特産品である。カルタニッセッタ県は、19世紀には[[硫黄]]の一大産地であったが、1950年代以降、産出量は減り続けている。
 
 
 
==文化==
 
===シンボル===
 
[[シチリアの旗|州旗]]{{enlink|Flag of Sicily}}に見られるシンボルは[[トリナクリア]](Trinacria)と呼ばれるもので、ギリシャ神話の[[メドゥーサ|メデューサ]]の顔と3本の素足からなる。足はパレルモ、メッシーナ、シラクサの岬を表すとされる。トリナクリアはシチリアの古名でもあり、[[ギリシア語]]の「3つの岬」に由来する。
 
 
 
===伝説===
 
伝説では、シチリア島は[[オリュンポス十二神|オリンポス神]]と[[ティーターン|巨人族]]の戦いのときに、[[アテーナー|アテナ]]が巨人の一人[[エンケラドス]]を封じて投げつけたとされる。
 
 
 
=== 言語・民族 ===
 
[[ファイル:Dialetti italiani meridionali estremi.jpg|thumb|200px|シチリア語の方言分布。]]
 
[[file:Siculo-albanesi.svg|thumb|200px|アルバレシュ語が話されているコムーネ。]]
 
[[file:Siciliano gallo italico.svg|thumb|200px|ガロ・イタリア語シチリア方言。濃緑が日常的に話されているコムーネ。薄緑が部分的に話されるコムーネ。]]
 
{{see also|[[:it:Lingue e dialetti della Sicilia]]}}
 
シチリアの地方言語は[[シチリア語]]である。2006年の国立統計研究所(ISTAT)の統計によれば、6歳以上の住民の家庭内での会話における言語状況は以下の通り<ref>{{cite web|url=http://www.istat.it/salastampa/comunicati/non_calendario/20070420_00/testointegrale.pdf#page=5|author=国立統計研究所(ISTAT)|title=La lingua italiana, i dialetti e le lingue stranieri|language=イタリア語|format=pdf|page=5|accessdate=2012-12-10}}</ref>。イタリア語({{lang|it|Italiano}})、地方言語({{lang|it|Dialetto}})、他の言語({{lang|it|Altra lingua}})についてのデータで、左列が全国平均、右列がシチリア州の数値である。
 
 
 
{|class="wikitable" style="text-align:right;font-size:85%"
 
!|家庭内の会話における使用言語
 
!width="50"|全国
 
!width="50"|州
 
|-
 
||イタリア語のみ、あるいは主にイタリア語
 
||45.5%
 
||'''26.2%'''
 
|-
 
||地方言語のみ、あるいは主に地方言語
 
||16.0%
 
||'''25.5%'''
 
|-
 
||イタリア語と地方言語の双方
 
||32.5%
 
||'''46.2%'''
 
|-
 
||他の言語
 
||5.1%
 
||'''1.2%'''
 
|-
 
|}
 
 
 
;[[シチリア語]]
 
:[[ロマンス諸語]]の言語。[[カラブリア州]]の中部・南部や、[[プッリャ州]]・[[カンパニア州]]の一部でも話される。
 
 
 
;{{仮リンク|アルバレシュ語|en|Arbëresh language}}([[アルバニア語]])
 
:[[アルバニア人|アルバニア系]]の、{{仮リンク|アルバレシュ人|en|Arbëreshë people}}と呼ばれる人々が話す。アルバレシュ人のコミュニティは、[[パレルモ県]]の[[サンタ・クリスティーナ・ジェーラ]]や[[ピアーナ・デッリ・アルバネージ]]、[[コンテッサ・エンテッリーナ]]などに現存する。
 
 
 
;[[ガロ・イタリア語]]シチリア方言{{enlink|Dialetti gallo-italici di Sicilia||it}}
 
:ガロ・イタリア語は[[ロマンス諸語]]の一群で、北イタリアで話される[[ロンバルディア語]]や[[エミリア・ロマーニャ語]]、[[ピエモンテ語]]などがここに分類される。シチリアにおけるガロ・イタリア語話者は、[[ノルマン人]]の[[ルッジェーロ1世]]によるシチリア征服([[ノルマン人による南イタリア征服]]参照)とともにシチリアにわたってきた人々の末裔と考えられており、「シチリアのロンバルド人」{{enlink|Lombardi di Sicilia||it}}とも呼ばれる。[[メッシーナ県]]の一部([[アックエドルチ]]、[[モンタルバーノ・エリコーナ]]、[[ノヴァーラ・ディ・シチーリア]]、[[フォンダケッリ=ファンティーナ]]、[[サン・フラテッロ]]、[[サン・ピエーロ・パッティ]])、[[エンナ県]]の一部([[アイドーネ]]、[[ニコジーア]]、[[ピアッツァ・アルメリーナ]]、[[スペルリンガ]])などに見られる。
 
 
 
;[[ギリシャ語]]
 
:[[メッシーナ]](メッシーナ県)には、ギリシャ語を話す500人ほどのマイノリティのコミュニティがある{{enlink|Greci di Messina||it}}。この集団は、古代に[[マグナ・グラエキア]]に暮らしたギリシャ人や、中世以後のギリシャ人ディアスポラに由来する(対岸の[[カラブリア州]]にも同様のギリシャ語を話すマイノリティが存在する)、2012年にメッシーナ市は、言語的マイノリティの保護を規定した1999年法律482号 (legge 482 del 1999) を市域のギリシャ語コミュニティに適用すると決定した。
 
 
 
===服飾===
 
[[Image:Uomo siciliano.jpg|120px|thumb|コッポラ帽をかぶったシチリアの老農夫]]
 
;コッポラ帽
 
:コッポラ帽{{enlink|Coppola (cap)}}は、フラットキャップ([[ハンチング帽]]、[[キャスケット]])の一種で、シチリアの象徴的な帽子と見なされている。{{lang|it|coppola}} という名称は、英語の {{lang|en|cap}} が転じたものとされる。シチリアでこの帽子が使用されるようになったのは20世紀初頭のことで、[[ベレー帽]]が入手できるようになり、農家がひさしを付けるようになり完成した。材料はシルク・麻などである。
 
 
 
===音楽===
 
{{see|[[:en:Music of Sicily]]}}
 
シチリア民謡としては、[[しゃれこうべと大砲]](しゃれこうべの歌){{enlink|Vitti 'na crozza||it}}などが知られている。
 
 
 
16世紀~17世紀頃、末期[[ルネサンス音楽]]ないし初期[[バロック音楽]]において、「シチリア風」の[[舞曲]]として「[[シチリアーナ]]」(シシリエンヌ、シチリア舞曲とも)と呼ばれる形式の曲が作曲されるようになった。
 
 
 
==みどころ==
 
===世界遺産===
 
州内には以下の[[世界遺産]]がある。
 
*[[ヴァル・ディ・ノートの後期バロック様式の町々]] (カターニア県、シラクーザ県、ラグーザ県)
 
*[[神殿の谷|アグリジェントの考古的地域]] (アグリジェント県アグリジェント)
 
*[[ヴィッラ・ロマーナ・デル・カサーレ]] (エンナ県[[ピアッツァ・アルメリーナ]])
 
*シラクサと[[パンターリカの岩壁墓地遺跡]] (シラクーザ県)
 
*エオリエ諸島 (メッシーナ県)
 
*エトナ山 (カターニア県)
 
 
 
==スポーツ==
 
===サッカー===
 
[[File:Palermo-Catania 2006.jpg|thumb|200px|2006年9月21日のパレルモ×カターニア戦(シチリア・ダービー)におけるパレルモ側サポーター(パレルモの[[スタディオ・レンツォ・バルベラ]]にて)]]
 
州内に本拠を置くプロサッカークラブとしては以下がある。所属リーグは2017-18シーズン現在。
 
 
 
*[[USチッタ・ディ・パレルモ]] (パレルモ) - [[セリエA (サッカー)|セリエA]](1部リーグ)
 
*[[カルチョ・カターニア]] (カターニア) - [[レガ・プロ|セリエC]](3部リーグ)
 
*[[トラーパニ・カルチョ]] (トラーパニ) - [[レガ・プロ|セリエC]](3部リーグ)
 
*[[ACRメッシーナ]] (メッシーナ) - [[セリエD (サッカー)|セリエD]](4部リーグ)
 
 
 
州都パレルモをホームとするUSチッタ・ディ・パレルモと、第二の都市カターニアをホームとするカルチョ・カターニアとの対戦は、[[デルビー・ディ・シチリア]](シチリアダービー)と呼ばれる。2007年には、シチリアダービー中の[[スタディオ・アンジェロ・マッシミーノ|カターニアのスタジアム]]において[[カターニアのサッカー暴動|観客と警官の衝突事件]]が発生して死傷者を出し、イタリアのサッカー界に大きな衝撃を与えた。なお、第三の都市メッシーナに本拠を置くACRメッシーナとの対戦も広義のデルビー・ディ・シチリアとされることがある。またACRメッシーナと、メッシーナ海峡対岸のレッジョ・ディ・カラブリアを本拠とする[[レッジーナ・カルチョ]]との対戦は、[[デルビー・デッロ・ストレット]](海峡ダービー)と呼ばれる。
 
 
 
4部リーグ(アマチュア最上位リーグ)の[[セリエD (サッカー)|セリエD]]では、[[カラブリア州]]・[[カンパニア州]]のチームとともにジローネIに属する。シチリア州の地方リーグ(5部リーグ)として、エッチェッレンツァ・シチリア{{enlink|Eccellenza Sicilia||it}}がある。
 
 
 
=== 自動車レース ===
 
シチリア島では1906年から1977年にかけて、公道自動車レース「[[タルガ・フローリオ]]」が行われていた。国際的な[[スポーツカーレース]]であったが、レーシングカーの高性能化に加え、観客を巻き込む死傷事故が発生したために終止符が打たれた。
 
 
 
==交通==
 
イタリア本島および周辺の主要都市より、飛行機やフェリーの航路が開設してある。
 
 
 
また島内には、鉄道やバス網がある。
 
 
 
===道路・自動車交通===
 
[[File:Autostrade in Sicilia.svg|thumb|200px|シチリア島の高速道路網]]
 
;おもな[[アウトストラーダ|高速道路]]
 
*{{仮リンク|アウトストラーダ A18|it|Autostrada A18 (Italia)}}
 
:*メッシーナ - カターニア
 
:*シラクーザ - ロゾリーニ
 
*[[アウトストラーダ A19]]
 
:*パレルモ - ブオンフォルネッロ - カルタニッセッタ - エンナ - カターニア
 
*{{仮リンク|アウトストラーダ A20|it|Autostrada A20 (Italia)}}
 
:*ブオンフォルネッロ - メッシーナ
 
*{{仮リンク|アウトストラーダ A29|it|Autostrada A29 (Italia)}}
 
:*パレルモ - アルカモ - マツァーラ・デル・ヴァッロ
 
:*アルカモ - トラーパニ
 
 
 
A18のカターニア - シラクーザ間は、カターニア郊外を半環状に走る{{仮リンク|ラッコルド・アウトストラダーレ RA15|it|Raccordo autostradale 15}}とカターニア=シラクーザ高速道路{{enlink|Autostrada Catania-Siracusa||it}}によって接続されている。
 
 
 
イタリア本土とシチリア島を結ぶ[[メッシーナ海峡大橋]]の建設が2009年から始まっており、2016年の完成が目指されている。
 
[[File:Ferrovie sicilia 2007.JPG|thumb|シチリア島の鉄道網(2007年現在)]]
 
[[File:Map of airports in Sicily.jpg|thumb|シチリアの空港]]
 
===鉄道===
 
シチリア島には、旧イタリア国鉄を引き継ぐ[[フェッロヴィーエ・デッロ・スタート|FS]](Ferrovia del Stato。運行会社は[[トレニタリア]])と、エトナ山周遊鉄道(FCE: Ferrovia Circumetnea)の鉄道路線がある。
 
 
 
===空港===
 
シチリア州の主要な空港には以下がある(番号は左図)。
 
{|
 
|
 
#{{仮リンク|パレルモ・ボッカディファルコ空港|en|Palermo–Boccadifalco Airport}} ([[パレルモ]])
 
#{{仮リンク|パレルモ国際空港|en|Falcone–Borsellino Airport}} (パレルモ)
 
#{{仮リンク|トラーパニ・ビルギ空港|en|Trapani-Birgi Airport}} ([[トラーパニ]])
 
#{{仮リンク|パンテッレーリア空港|en|Pantelleria Airport}} ([[パンテッレリーア島]])
 
#{{仮リンク|ランペドゥーザ空港|en|Lampedusa Airport}} ([[ランペドゥーザ島]])
 
#{{仮リンク|コーミゾ空港|en|Comiso Airport}} ([[ラグーザ県]][[コーミゾ]])
 
#{{仮リンク|シゴネラ基地|en|Naval Air Station Sigonella}} ([[シラクーザ県]][[レンティーニ]]) - 軍用
 
#{{仮リンク|カターニア・ファンタナロッサ国際空港|en|Catania-Fontanarossa Airport}} ([[カターニア]])
 
|}
 
{{clearleft}}
 
シチリアにはヨーロッパ各地からの空路が開設されていて、特にカターニア国際空港は、南イタリアで最も利用客の多い空港として知られている。(利用客数がパレルモ国際空港の約1.5倍あり、カターニア-ローマ間はイタリア国内航路の中で最も飛行機の交通量の多い区間である。)
 
 
 
===港湾・海路===
 
パレルモ‐ナポリ、カターニャ‐ナポリ、メッシーナ‐サレルノ間などに定期フェリーがある。
 
 
 
==人物==
 
===著名な出身者===
 
{{see|Category:シチリア州出身の人物}}
 
*[[エンペドクレス]]<!-- (紀元前490年頃 - 紀元前430年頃) --> - 紀元前5世紀の自然哲学者。現在のアグリジェント生まれ。
 
*[[アルキメデス]]<!-- (紀元前287年頃 - 紀元前212年頃) --> - 紀元前3世紀の数学者・物理学者・天文学者。シラクサ生まれ。
 
*[[ルカニアのヴィトゥス]]<!-- (290年頃 - 303年頃) --> - 3-4世紀の殉教者、聖人。シチリア出身とされる。
 
*[[アントネロ・ダ・メッシーナ]]<!-- (1430年頃 - 1479年) --> - 15世紀の画家。メッシーナ生まれ。
 
*[[ジュゼッペ・キアラ]]<!-- (1602年 - 1685年) --> - 17世紀、日本に潜入したキリスト教宣教師。パレルモ生まれ。
 
*[[アレッサンドロ・スカルラッティ]]<!-- (1660年 - 1725年) --> - 17-18世紀の作曲家。トラーパニもしくはパレルモ生まれ。
 
*[[ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティ]]<!-- (1668年 - 1714年) --> - 18世紀初頭、日本に潜入したキリスト教宣教師。シチリア生まれ。
 
*[[ヴィンチェンツォ・ベッリーニ]]<!-- (1801年 - 1835年) --> - 19世紀の作曲家。カターニア生まれ。
 
*{{仮リンク|フランチェスコ・クリスピ|en|Francesco Crispi}}<!-- (1819年 - 1901年) --> - 19世紀の政治家、イタリア王国首相。[[リベーラ]]生まれ。
 
*[[ジョヴァンニ・ヴェルガ]]<!-- (1840年 - 1922年) --> - 19-20世紀の作家。カターニア生まれ。
 
*[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド]]<!--(1860年 - 1952年)--> - 外交官、イタリア王国首相。パレルモ生まれ。
 
*[[ルイジ・ピランデルロ]]<!-- (1867年 - 1936年) --> - 作家。[[ノーベル文学賞]]受賞者。アグリジェント生まれ。
 
*[[ジョヴァンニ・ジェンティーレ]]<!--(1875年 - 1944年)--> - 哲学者・政治家。[[カステルヴェトラーノ]]生まれ。
 
*[[フランク・キャプラ]]<!--(1897年 - 1991年)--> - アメリカで活動した映画監督。[[ビザックイーノ]]生まれ。
 
*[[ラッキー・ルチアーノ]]<!--(1897年 - 1962年)--> - マフィアのボス。[[レルカーラ・フリッディ]]生まれ。
 
*[[サルヴァトーレ・クァジモド]]<!--(1901年 - 1968年)--> - 詩人、ノーベル文学賞受賞者。[[モーディカ]]出身。
 
*[[レオナルド・シャーシャ]]<!-- (1921年 - 1989年) --> - 作家。[[ラカルムート]]生まれ。
 
*[[サルヴァトーレ・リイナ]]<!-- (1930年生まれ) --> - マフィアのボス。[[コルレオーネ]]生まれ。
 
*[[ジョヴァンニ・ファルコーネ]]<!--(1939年 - 1992年)--> - 判事。パレルモ生まれ。
 
*[[パオロ・ボルセリーノ]]<!--(1940年 - 1992年)--> - 判事。パレルモ生まれ。
 
*[[ジュゼッペ・トルナトーレ]]<!--(1956年生まれ)--> - 映画監督。[[バゲリーア]]生まれ。
 
*[[サルヴァトーレ・スキラッチ]]<!--(1964年生まれ)--> - サッカー選手。パレルモ生まれ。
 
 
 
シチリア州は、ラッキー・ルチアーノやサルヴァトーレ・リイナをはじめとする多くのマフィア(いわゆる「シチリア・マフィア」、あるいは[[コーサ・ノストラ]])の故郷である([[:Category:シチリアマフィアの人物]]参照)。それとともに、マフィアを告発し、マフィア撲滅のために戦った人物も輩出した。判事ジョヴァンニ・ファルコーネやパオロ・ボルセリーノ、作家レオナルド・シャーシャなどである。ファルコーネ、ボルセリーノの両判事はマフィアによる暗殺に倒れたが、パレルモ国際空港の副空港名に名づけられている。
 
 
 
===ゆかりの人物===
 
シチリア島からは多くの人々がアメリカ合衆国に移住した([[:Category:シチリア系アメリカ人]]参照)。[[フランク・シナトラ]]、[[シルヴェスター・スタローン]]、[[アル・パチーノ]]、[[マーティン・スコセッシ]]、[[フランク・ザッパ]]などがシチリア移民の末裔である。
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
*高山博 『中世シチリア王国』 (講談社現代新書、1999年 ISBN 978-4061494701)
 
 
 
== 関連項目 ==
 
*[[シチリア (小惑星)]]
 
*[[カヴァレリア・ルスティカーナ]] - [[マスカーニ]]作曲のオペラ。シチリア島が舞台となっている。
 
* (en) [https://www.ancient.eu/https://www.ancient.eu/article/1190.| Piccolo, Salvatore (2018). ''Bronze Age Sicily''. Ancient History Encyclopedia.]
 
 
 
==外部リンク==
 
{{commons&cat|Sicilia|Sicily}}
 
*[http://pti.regione.sicilia.it/ 州公式サイト]{{it icon}}
 
*[http://visitaly.jp/travel/sicilia イタリア政府観光局公式サイトによる州紹介ページ] {{ja icon}}
 
*[http://www.lasiciliainrete.it シチリア島] {{ja icon}}
 
{{Geographic Location
 
|Centre    = シチリア州
 
|North    =
 
|Northeast = カラブリア州
 
|East      =
 
|Southeast =
 
|South    =
 
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}}
 
{{イタリアの地方行政区画}}
 
{{シチリア州}}
 
  
 
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{{DEFAULTSORT:しちりあ}}

2019/5/10/ (金) 10:16時点における最新版

エトナ山の麓にあるカタニアの町.イタリア.jpg

シチリア島イタリア語: Sicilia [siˈtʃiːlja], シチリア語: Sicìlia

地中海最大の島。付近の小島とともにイタリアの 1州を形成。州都パレルモ。北東端はメッシナ海峡を隔てて本土南端に接する。全島が山がちで,最高点は東部のエトナ山(約3320m)。古くからインド=ヨーロッパ語族系のシクリ人などが住んでいたが,フェニキア,ギリシア,カルタゴ,ローマ,東ゴート,サラセン,ノルマン,フランスのアンジュー家,アラゴン,スペインなどに次々に支配され,1861年イタリア王国の一部となった。主要都市はいずれも古代ギリシア,ノルマンなどの遺跡をもつ。地中海性気候で,夏にサハラ砂漠から熱風(シロッコ)が吹くと気温は 40℃にも達することがある。ヒツジの放牧,ムギ類の栽培を行なうが,降水量が少なく,穀物や牧草の生育は悪い。オリーブ,オレンジ,レモン,ブドウなどはかなり広く栽培され,オリーブ油,ワインが製造される。シチリアは南部イタリアの近代化立ち遅れの影響を最も大きく被り,大土地所有制が残存,国外移住者も多い。かつて農村に浸透したマフィアは都市を舞台にして活動を続けている。エトナ山からは硫黄を産し,南東部では石油が発見され,石油化学工業が盛んになった。海岸にはマグロ・イワシ漁などの根拠地がある。面積 2万5460km2。人口 501万6861(2007推計)。