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{{Redirect|サラディン|イギリス製装甲車|FV601 サラディン}}
 
{{出典の明記|date=2012年2月|ソートキー=人1193年没___世界史}}
 
{{基礎情報 君主
 
| 人名      = サラーフ=アッディーン
 
  
| 各国語表記 =
+
'''サラディン'''<ref>{{Cite book|和書|author= |year=2002 |title=岩波 イスラーム辞典 |publisher=[[岩波書店]] |isbn= |pages=418-419 |ref=}}</ref>('''サラーフ・アッ=ディーン'''、{{lang-ar|الملك الناصر أبو المظفّر '''صلاح الدين''' يوسف بن أيّوب }} {{unicode|''al-Malik an-Nāṣir ’abū al-Muẓaffar '''Ṣalāḥ ad-Dīn''' Yūsuf bun ’ayyūb''}}、[[クルド語]]:Selaheddînê Eyûbî、[[1137年]]または[[1138年]] - [[1193年]][[3月4日]]<ref>{{Cite web |url = https://kotobank.jp/word/サラディン-69964 |title = ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説 |publisher = コトバンク |accessdate = 2018-02-04 }}</ref>
| 君主号    =
 
| 画像      = File:Saladin the Victorious.jpg|right|thumb|250px
 
| 画像サイズ =
 
| 画像説明  = [[ギュスターヴ・ドレ]]による想像画
 
| 在位      = [[1169年]] - [[1193年]]
 
| 戴冠日    =
 
| 別号      =
 
| 全名      = サラーフ=アッディーン・ユースフ・イブン・アイユーブ・イブン・シャージー
 
| 出生日    =
 
| 生地      = [[ティクリート]]
 
| 死亡日    =
 
| 没地      = [[ダマスカス]]
 
| 埋葬日    =
 
| 埋葬地    = [[ダマスカス]]のサラーフッディーン廟
 
| 継承者    = [[アル=アフダル]]
 
| 継承形式  =
 
| 配偶者1    = [[イスマトゥッディーン・アーミナ|イスマトゥッディーン・アーミナ・ビント・ウヌル]]
 
| 配偶者2    =
 
| 配偶者3    =
 
| 配偶者4    =
 
| 配偶者5    =
 
| 配偶者6    =
 
| 配偶者7    =
 
| 配偶者8    =
 
| 配偶者9    =
 
| 配偶者10  =
 
| 子女      = [[アル=アフダル]]、[[アル=アジーズ]]、[[アル=マリク・アル=ザーヒル|アル=ザーヒル]]、アル=ムイッズ・イスハーク、ナジムッディーン・マスウード、ムーニサ・ハトゥン、ズムッルド・ハトゥン
 
| 王家      = アイユーブ家
 
| 王朝      = [[アイユーブ朝]]
 
| 王室歌    =
 
| 父親      = [[ナジムッディーン・アイユーブ]]
 
| 母親      = 不詳
 
| 宗教      = [[スンナ派]][[イスラーム]]
 
| サイン    =
 
}}
 
'''サラディン'''<ref>{{Cite book|和書|author= |year=2002 |title=岩波 イスラーム辞典 |publisher=[[岩波書店]] |isbn= |pages=418-419 |ref=}}</ref>('''サラーフ・アッ=ディーン'''、{{lang-ar|الملك الناصر أبو المظفّر '''صلاح الدين''' يوسف بن أيّوب }} {{unicode|''al-Malik an-Nāṣir ’abū al-Muẓaffar '''Ṣalāḥ ad-Dīn''' Yūsuf bun ’ayyūb''}}、[[クルド語]]:Selaheddînê Eyûbî、[[1137年]]または[[1138年]] - [[1193年]][[3月4日]]<ref>{{Cite web |url = https://kotobank.jp/word/サラディン-69964 |title = ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説 |publisher = コトバンク |accessdate = 2018-02-04 }}</ref>)は、[[エジプト]]、[[アイユーブ朝]]の始祖。現[[イラク]]北部の[[ティクリート]]出身で、[[アルメニア]]の[[クルド]]一族の出自である。
 
  
本名を'''ユースフ'''('''・ブン・アイユーブ''')(アイユーブの息子ユースフの意。ユースフは[[ヨセフ]]の、アイユーブは[[ヨブ]]のアラビア語形。)。'''サラーフッディーン''' {{unicode|''Ṣalāḥ al-Dīn''}} とは「宗教/信仰({{unicode|''Dīn''}})の救い({{unicode|''Ṣalāḥ''}})」を意味する[[人名#イスラム教圏の名前|ラカブ]]<ref>当時の[[ムスリム]]成人男性が帯びた尊称で、中国史上の人物の[[字]](あざな)に相当する</ref>である。同時代の十字軍側のラテン語資料などでは Salahadinus(サラハディヌス)または Saladinus(サラディヌス)などと称し、これを受けて欧米では慣習的に Saladin('''サラディン''')と呼ばれる。
+
エジプトの[[アイユーブ朝]]の創建者。対十字軍戦争の英雄。アラビア語ではサラーフ・ウッディーン Salā al-Dīn (「信教の誉れ」の意) 。ヨーロッパではサラディンの名で知られている。 1164年シリアの[[ザンギー朝]]の君主[[ヌール・ウッディーン]]の命を受けてエジプトに行き,[[ファーティマ朝]]の支配領域にスンニー派の拠点を築き,1167年叔父のシルクーフとともにエルサレム王アマルリックの軍勢を破った。 1169年カリフ,アーディドの宰相に就任して実権を掌握,1171年ファーティマ朝を廃絶し,アイユーブ朝を創設。国家の宗派をシーア派からスンニー派に復活し,[[イクター]](軍事的封建制) を施行して土地制度と軍隊制度の改革を推し進めた。 1174年ダマスカスに入城してエジプトと内陸部シリアを合併し,1187年にはハッティーンの戦いにフランク軍を破って 88年ぶりにエルサレムをイスラム教徒の手に奪回した ([[エルサレム史]] ) 。次いでアッコン (アコー) をめぐって第3次十字軍と激しい攻防を繰り返したのち,1192年獅子心王[[リチャード1世]]と3年間の平和条約を結んだが,翌 1193年3月マラリアのため没した。
 
 
== 生涯 ==
 
=== 生い立ち ===
 
[[ヒジュラ暦]]532年(西暦では1137年または1138年)、イラク北部の町[[ティクリート]](タクリート)に生まれ「ユースフ」と名付けられた<ref name="sato25">[[#sato|佐藤『サラディン』(2011)]], p.25</ref>。ほかに4人の兄弟がいたがユースフが何番目の子であったかは不明であり<ref name="sato25"/>、母親についての情報もほとんど残されていない<ref>[[#sato|佐藤『サラディン』(2011)]], p.26</ref>。
 
父の[[ナジムッディーン・アイユーブ]]は[[セルジューク朝]]治下[[ティクリート]]の[[クルド人]]代官であったが、ユースフが生まれて間もない1138年頃、兄弟の[[シール・クーフ|アサドゥッディーン・シール・クーフ]]がキリスト教徒の官吏を誤って殺害したため、一家もろともティクリート追放の憂き目にあった<ref>[[#sato|佐藤『サラディン』(2011)]], p.32</ref>。アイユーブはかつて[[ザンギー朝]]の創始者、[[ザンギー]]が[[バグダード]]での戦に敗れ[[モースル]]へ逃れる際に手助けしたことがあり、アイユーブとシールクーフの兄弟はその時の恩義からザンギーの軍団長に迎えられ、さらには[[バールベック]]に領地を与えられた<ref>[[#sato|佐藤『サラディン』(2011)]], pp.32-33, 48-49</ref>。そのため、ユースフは少年時代をここで送ることになった。バールベックは穀物や果物を産する豊かな町で、後に晩年のサラディンに仕え伝記『サラディン伝』を著したイブン・シャッダード {{enlink|Baha ad-Din ibn Shaddad}}は、想像も込めて「ここで性格の良さが育まれた」と述べている<ref>[[#sato|佐藤『サラディン』(2011)]], p.51</ref>。
 
 
 
1146年にザンギーが手下の[[マムルーク]](奴隷兵)に暗殺されると、[[ダマスクス]]総督で[[ブーリー朝]]の[[アタベク]]・ムイーヌッディーン・ウナルは軍を派遣してアイユーブの守護するバールベックを包囲攻撃した<ref name="sato54">[[#sato|佐藤『サラディン』(2011)]], p.54</ref>。アイユーブはこれをよく耐えて、最後はバールベックを明け渡す代わりに、いくばくかの保障金の支払いと[[ダマスクス]]近郊の村落のいくつかを交渉によって要求しこれの獲得に成功した<ref name="sato54"/>。これによりアイユーブは名目上セルジューク家へ臣従し、ユースフはじめその家族は父とともにダマスクスへ移住する事となった<ref name="sato54"/>。この時ユースフは8歳ほどであり、[[エジプト]]で権力を確立する30代前半までをダマスクスで過ごす事になる。
 
 
 
=== ヌールッディーンへの伺候 ===
 
[[ファイル:SaladinRexAegypti.jpg|thumb|right|220px|[[15世紀]]の[[装飾写本]]中の「エジプトの王、サラディン」]]
 
1152年、成人とみなされる数え年15歳に達したユースフ(以下サラディン)は、ダマスクスの父のもとを発ち、ザンギーの息子でザンギー朝の西半分を相続し、[[シリア]]に勢力を持つ[[アレッポ]]の君主[[ヌールッディーン|ヌールッディーン・マフムード]]の許に伺候した<ref name="sato63">[[#sato|佐藤『サラディン』(2011)]], p.63</ref>。ここでヌールッディーンの重臣となっていた叔父のシール・クーフに仕えたが、彼のとりなしによって主君ヌールッディーンからこの年齢で[[イクター]]を授与された<ref name="sato63"/>。
 
 
 
[[1154年]]にヌールッディーンはダマスクスをはじめシリア内陸部の主要都市をほぼ全て手中にした<ref name="sato59">[[#sato|佐藤『サラディン』(2011)]], p.59</ref>。このダマスクス開城には、[[エルサレム王国]]に救援要請を行ったブーリー家に不満をもつムスリム住民たちに和してこれを弾劾するヌールッディーン側の巧みな宣伝工作と、ダマスクスに残っていたナジュムッディーン・アイユーブとヌールッディーン側にいた弟シール・クーフが連係して内応していたことが大きいと言われている<ref>[[#sato|佐藤『サラディン』(2011)]], pp.59-60</ref>。このダマスクス開城での功績によってアイユーブはヌールッディーンに仕える事となり、さらにダマスクスの統治権を安堵された。サラディンは若年ではあったが、これに伴いダマスクスの軍務長官(シフナ)職と財務官庁(ディーワーン)の監督職を任された<ref>[[#sato|佐藤『サラディン』(2011)]], pp.64-65</ref>。数日で財務長官(サーヒブ・ディーワーン)のアブー・サーリムと確執が生じ早々にこれを辞職したが、ヌールッディーンはサラディンに味方してアブー・サーリムを叱責するなど、主君ヌールッディーンや叔父シール・クーフからの愛顧は大変に篤かったようである<ref name="sato65">[[#sato|佐藤『サラディン』(2011)]], p.65</ref>。以後もヌールッディーンの側近として青年期を通じ常に主君の戦闘や行政に近侍していた。
 
 
 
青少年時代のサラディンは主君や叔父に扈従・同伴して各地を転戦したが、余暇には主君や同僚たちとポロ(kura)や学問に興じ、特にポロには優れた技量を発揮したと言う<ref name="sato65"/>。また。若い頃から智勇に長け、特に1164年以降のエジプト遠征では、叔父シール・クーフが「サラディンに相談したり、彼の意見を聞いたりしない限り、何事も裁決しなかった」とされるほど重用された<ref>[[#sato|佐藤『サラディン』(2011)]], pp.70-71</ref>。
 
 
 
=== エジプト遠征とその獲得 ===
 
1160年代に行われたヌールッディーンのエジプト遠征は都合3回行われている。シール・クーフはじめアイユーブ家所縁の武将が何人も参加しており、サラディンもこれらの遠征に参戦している。
 
 
 
==== 第一回エジプト遠征 ====
 
[[1163年]]9月にエルサレム王[[アモーリー1世 (エルサレム王)|アモーリー1世]]はスエズを越境し[[ファーティマ朝]]治下の下[[エジプト]]に侵攻した。しかしちょうど[[ナイル]]の増水の季節とぶつかったためファーティマ朝側は堤防を切って[[ナイルデルタ]]東部のビルバイスに足留めさせ、十字軍は侵攻を断念して撤退した。
 
この1163年にファーティマ朝内部の政争に敗れ宰相職を逐われた上エジプトの'''ナーイブ'''(君主の地方代理人=総督職)であった'''シャーワル'''(Shā'war)なる人物が、ヌールッディーンのダマスクス宮廷を訪れ援軍要請を求めてきた。ヌールッディーンはこれをエジプト介入の好機と捕らえ、シール・クーフにザンギー朝のシリア軍からエジプト派遣軍の編成を命じた。これがザンギー朝のヌールッディーンによる第一回のエジプト遠征となった。
 
 
 
この時サラディンは叔父の幕僚として参画しエジプトへ同行した。サラディンは当初エジプト遠征に参加することを酷く嫌ったようで、シール・クーフの再三の説得によって同行を承諾したと伝えられている。
 
 
 
[[1164年]]5月にシール・クーフ率いる派遣軍はエジプトに到着。シャーワルは宰相職に復権した。しかし派遣軍によるエジプトの占領を恐れた彼はエジプトからの退去をシール・クーフらに要求し、さらに秘かにアモーリー王に援軍を求めた。派遣軍はビルバイスで足留めされ、市街近郊に迫ったエルサレム王国軍とファーティマ朝軍に包囲されるに及んで身代金の支払いと引換えにエジプトから退去することとなった。かくして最初のエジプト遠征は完全な失敗に終わった。はかばかしい成果がなく軍が撤退したためサラディンの活躍は伝えられていない。
 
 
 
==== 第二回エジプト遠征 ====
 
シール・クーフはシリアに帰還すると雪辱を果たすべくただちに再度の遠征の準備を始め、ヌールッディーンもこれに協力して親衛軍の一部を割いて1万2千騎の遠征軍を組織した。(ただしこの数字はアイユーブ朝時代のシリア軍団のイクターの受益資料の規模からすると多少の誇張が含まれていると思われる)
 
 
 
[[1167年]]初めにシール・クーフ率いるシリア勢の第二回エジプト派遣軍がダマスクスを出発。シャーワルはこの報を聞くとただちにアモーリー王に再び援軍を要請した。シリア軍とエルサレム王国軍はほぼ同時にエジプトに到着したようで、エジプト軍とエルサレム王国軍は連合してシリア軍を攻撃した。この戦いは上エジプトのバーバインにて行われ、激闘の末シールクーフ麾下のシリア軍が勝利した。
 
 
 
この戦いの後シリア軍への支持を表明していたナイルデルタ西部の主要都市[[アレクサンドリア]]へ駐留した。シール・クーフが上エジプトへの偵察行に出ていた間隙を突いて、エジプト・エルサレム王国連合軍がアレクサンドリアを包囲攻撃した。サラディンはアレクサンドリアの守備を任されていてこの攻撃に対して三ヶ月間耐え切り、連合軍側と交渉して外国軍勢はエジプトから撤退するとの協定を結ばせることに成功した。こうして第二回エジプト遠征も何らの成果を挙げられずにシリア軍はダマスクスまで撤退することとなったが、このアレクサンドリア包囲戦での活躍が、サラディンの最初の歴史的軍功となった。
 
 
 
==== 第三回エジプト遠征 ====
 
{{節スタブ}}
 
 
 
=== エルサレム王国との戦い ===
 
[[ファイル:Saladin and Guy.jpg|right|thumb|250px|[[ヒッティーンの戦い]]の後のサラディン]]
 
 
 
[[1169年]]に叔父が大食漢であったことが原因で死ぬとその軍権を引継ぎ、さらに[[ファーティマ朝]]の宰相にも就任してエジプト全土を掌握すると、同年に[[アイユーブ朝]]を創設した。[[1171年]]にカリフ・[[アーディド]]が世継ぎを儲けぬまま病没したことによりファーティマ朝が滅亡した。
 
 
 
事実上、大国エジプトを完全に支配下においたサラディンであったが、主君ヌールッディーンから領土的野心を疑われ、この頃から両者の関係は急速に悪化しはじめたようである。ヌールッディーンは再三ダマスクスへ帰還するよう勧告を行っているが、サラディンは理由をつけてこれを幾度も固辞し続けついに応じなかった。この時期にサラディンはファーティマ朝時代のシーア派色を払拭すべく[[ダール・アル=イルム]](知識の家)を解体してその蔵書を売り払い、アッバース朝カリフとヌールッディーンの名を刻んだ貨幣を鋳造し[[フトバ]]を唱えさせるなどして、スンナ派政権としてヌールッディーンへの帰順を重ねて表明した。またその一方で1174年2月兄の{{仮リンク|トゥーラーン・シャー (サラディンの兄)|en|Turan-Shah|label=トゥーラーン・シャー}}を[[イエメン]]へ派遣してこれを征服させている。これは関係が悪化したザンギー家との開戦を予期し、エジプトを逐われた場合のアイユーブ家の避難所とする目的で征服したのではないかと考えられている。これ以降[[ラスール朝]]が勃興するまで、イエメンはアイユーブ朝の領土となる。
 
 
 
ヌールッディーンはこれらサラディンの行動を離叛・敵対行為として赦さずエジプトへ[[親征]]を自ら企図していたようだが、その矢先の[[1174年]]5月にダマスクスで病没した。ヌールッディーンが没すると、その幼い息子サーリフが即位したが、ヌールッディーンの甥で女婿でもある[[モスル]]のアタベク・[[サイフッディーン・ガーズィー2世]]が[[アレッポ]]近傍まで軍事侵出して来た。さらにエルサレム王国などの十字軍勢力もこの機会を逃さず積極的にダマスクス周辺へ侵攻し、シリア周辺はにわかに情勢が流動化した。7月末にサーリフがアレッポへ入城し、サイフッディーン・ガーズィーも慎重策をとってアレッポ征服を断念してシリアから撤退した。ところがアレッポのザンギー朝アミールたちは庇護を受けていたサーリフを見限ってサイフッディーン・ガーズィーと協定を結びダマスクスに対抗しようと画策したようである。これに焦ったダマスクス宮廷は、サーリフへの擁護を表明していたサラディンに援軍を要請して来た。かくしてサラディンはこの機会を得てシリアへの親征、同年10月末にはダマスクスに無血入城を果たした。運良くアモーリー王が急死して[[ボードゥアン4世]]が即位したため、エルサレム王国軍も撤退した。サーリフへの臣従表明とダマスクス宮廷とそのアミールたちとの和議および説得を試み、さらにこの地域でのイクターの再分配を行っている。サラーフッディーンは数年ぶりにダマスクスへ帰還し、エジプトに加えダマスクス周辺のシリア南部を接収することが出来た。
 
 
 
[[ファイル:Ayyubids1189.png|left|200px|thumb|アイユーブ朝の版図(1189年)]]
 
 
 
このようにしてサラディンはシリア方面へ領土を拡大し、イクター地や騎士などの諸軍を整備して王朝の軍事力を高めた。そして[[1187年]]、それをもって[[エルサレム王国]]を攻撃し、5月に[[クレッソン泉の戦い]]でテンプル・聖ヨハネ両騎士団を殲滅し、7月に[[ヒッティーンの戦い]]で十字軍の主力部隊を壊滅させたのち、エルサレムを同年10月までに奪還することに成功した。このとき、サラディンは身代金を払えない捕虜まで放免するという寛大な処置を示している。
 
{{clear}}
 
 
 
=== 第3回十字軍との戦い ===
 
[[ファイル:Damascus-SaladinTomb.jpg|right|thumb|200px|サラーフッディーン廟。世界最古のモスクといわれるウマイヤド・モスクに隣接する。]]
 
 
 
しかしそのため、[[1189年]]にヨーロッパ諸国は[[エルサレム]]奪還のためにイングランド王・[[リチャード1世 (イングランド王)|リチャード1世]]などの[[第3回十字軍]]が侵攻してくることになると、[[アッコン]]を奪われ、アルスフ、ジャッファの戦いでリチャードに敗北を喫するが、エルサレムを守りきることに成功する、双方疲弊した結果、リチャードが裏で進めていた和平工作にのり[[1192年]]、十字軍と休戦条約を結ぶことにしたのである。この結果海岸沿いに十字軍勢力を残す結果になる、またエルサレムへのキリスト教徒の巡礼者を認めることに合意した。
 
 
 
翌年サラディンは[[ダマスカス]]にて病死した。
 
 
 
== サラディンの施政とその人となり ==
 
 
 
若年時から文武共に誉れが高く、出世して職責が高まるとともに贅沢を辞めるなど、機を読むことに長けていた。当時のイスラーム君主の常として少年を愛したことでも知られている。
 
 
 
かつてエルサレムを占領した第1回十字軍は捕虜を皆殺しにし、また第3回十字軍を指揮した[[リチャード1世 (イングランド王)|リチャード1世]]も身代金の未払いを理由に同様の虐殺を行った。しかし、サラディンは敵の捕虜を身代金の有無に関わらず全員助けている<ref>支払能力のない貧民はまとめて安値で開放し、老人や女子供は無条件に開放した。残った壮健かつ支払いを拒む者も、殺されず恩赦を与えられるか奴隷にされたという。</ref><ref>ただし、リチャード1世が捕虜を虐殺した際には、報復として捕虜としたキリスト教徒を全員処刑している。</ref>。彼は軍事の天才であるが、このような寛大な一面もあって、敵味方を問わずにその人格は愛され、現在まで英雄としてその名を残しているのである。捕虜を助けた事に関して、次のような逸話がある。サラディンが身代金を支払わない捕虜の扱いに困っていると、彼の弟(後に4代目スルタンとなったアル=アーディル)が捕虜を少し自分に分け与えるよう進言した。サラディンは訳を訊ねるが弟は答えず、彼の言う通りに捕虜を与えてやった。すると、弟は自分の物だからと言って全て解放してやり、こうするのが良いのだと兄に言った。喜ぶ兵士たちの姿を見たサラディンは捕虜を殺さないことを決心したという。また、病床にある[[リチャード1世 (イングランド王)|リチャード1世]]に見舞いの品を贈る等、敵に対しても懐の深さを見せている。
 
 
 
その寛容さは名声を高めたが、しばしば不利益となっても現れた。行軍の際に、途中で立ち寄った村の村人たちに軍事費の一部を分け与えていたため、彼の兵士の多くは軍事費を自腹で用意しなければならない程であったという。私財も常にそのように用いたため、サラディンの遺産は自身の葬儀代にもならなかった。また、ハッティンの戦いでティールに追い込んだ守将バリアンに対し、当初は武装解除を条件に脱出を許可していたが、書簡でエルサレムの指揮権を請われるとこれを認めて入城させ、エルサレム攻略戦での苦戦を招いている。
 
 
 
上記のような寛容な逸話が多いが、無条件に甘い人物というわけではなく、中でも度々休戦協定を破って隊商を襲った[[ルノー・ド・シャティヨン]]に対する怒りは大きかった。ハッティンの戦いでルノーを捕らえた際、彼と配下の騎士団員を一人残らず処刑している。前述の弟の寛容さに関しても必ずしも同意ではなく、アッコンで捕えた聖職者を自分に無断で解放した際には罰を与えている。
 
 
 
== 「サラディン」の呼び方について ==
 
これはアラビア語人名の表記方法上の問題である.。{{lang|ar|صلاح الدين}} の形態素に区切ったローマ字転写は {{transl|ar|''ṣalāḥ al dīn''}} である。この {{unicode|''ṣalāḥ''}}、''al''-、''dīn'' をそれぞれの要素を明確に表記すると'''サラーフ・アル=ディーン'''である。
 
しかし、[[フスハー|正則アラビア語(フスハー)]]の発音規則に従うと、定冠詞 ''al''- は後接する音が特定の子音の場合、その子音は二重子音化して ''al''- の -''l''- はこれに同化される特徴がある。これに従うと ''al-dīn''(アル=ディーン) の部分は ''ad-dīn''(アッ=ディーン) と発音・表記される。
 
また語頭の母音は文頭以外では脱落するので、''al''- の ''a''- も発音が省略される。
 
これらのために、{{unicode|''ṣalāḥ al-dīn''}} は実際には一繋がりで {{unicode|''Ṣalāḥ d-dīn''}}(サラーフッディーン) と発音されるのだが、上述の事情により「サラーフ」、「アル」、「ディーン」をそれぞれ繋げるか否かによって、{{unicode|''Ṣalāḥ al-Dīn''}}(サラーフ・アル=ディーン)、{{unicode|''Ṣalāḥ ad-Dīn''}}(サラーフ・アッ=ディーン)、{{unicode|''Ṣalāḥ d-Dīn''}}(サラーフッディーン)などの表記の違いが生じている。
 
 
 
== その他 ==
 
シリアで流通している200[[シリア・ポンド]]紙幣には、[[1993年]]がサラディンの没後800年に当たることを記念してダマスカス市内に建てられたサラディンの騎馬像が描かれている。
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
<references />
 
 
 
==参考文献==
 
*[[サイイド・アミール・アリ|アミール・アリ]]『回教史 A Short History of the Saracens』(1942年、善隣社)
 
*{{Cite book|和書|author=[[佐藤次高]] |year=2011-11 |title=イスラームの「英雄」サラディン |publisher=[[講談社]] |series=講談社学術文庫  |isbn=978-4-06-292083-4 |ref=sato2011}}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
{{commonscat|Saladin}}
 
* [[クルド人]]
 
* [[アル=アフダル]](長男)
 
* [[アル=アジーズ]](次男)
 
* [[アル=マリク・アル=ザーヒル|アル=ザーヒル]](三男)
 
* [[アル=アーディル]](弟)
 
* [[ムイーヌッディーン・ウヌル]](舅)
 
* [[アル=ファーディル]](宰相)
 
* [[イマードゥッディーン・アル=イスファハーニー]](側近・書記官)
 
 
 
{{アイユーブ朝}}
 
{{Normdaten}}
 
  
 +
{{テンプレート:20180815sk}}
 
{{DEFAULTSORT:さらあふつていいん}}
 
{{DEFAULTSORT:さらあふつていいん}}
 
[[Category:アイユーブ朝の君主|あらふつていん]]
 
[[Category:アイユーブ朝の君主|あらふつていん]]

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サラディン[1]サラーフ・アッ=ディーンアラビア語: الملك الناصر أبو المظفّر صلاح الدين يوسف بن أيّوب al-Malik an-Nāṣir ’abū al-Muẓaffar Ṣalāḥ ad-Dīn Yūsuf bun ’ayyūbクルド語:Selaheddînê Eyûbî、1137年または1138年 - 1193年3月4日[2]

エジプトのアイユーブ朝の創建者。対十字軍戦争の英雄。アラビア語ではサラーフ・ウッディーン Salā al-Dīn (「信教の誉れ」の意) 。ヨーロッパではサラディンの名で知られている。 1164年シリアのザンギー朝の君主ヌール・ウッディーンの命を受けてエジプトに行き,ファーティマ朝の支配領域にスンニー派の拠点を築き,1167年叔父のシルクーフとともにエルサレム王アマルリックの軍勢を破った。 1169年カリフ,アーディドの宰相に就任して実権を掌握,1171年ファーティマ朝を廃絶し,アイユーブ朝を創設。国家の宗派をシーア派からスンニー派に復活し,イクター制 (軍事的封建制) を施行して土地制度と軍隊制度の改革を推し進めた。 1174年ダマスカスに入城してエジプトと内陸部シリアを合併し,1187年にはハッティーンの戦いにフランク軍を破って 88年ぶりにエルサレムをイスラム教徒の手に奪回した (エルサレム史 ) 。次いでアッコン (アコー) をめぐって第3次十字軍と激しい攻防を繰り返したのち,1192年獅子心王リチャード1世と3年間の平和条約を結んだが,翌 1193年3月マラリアのため没した。



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  1. 『岩波 イスラーム辞典』 岩波書店、2002年、418-419。
  2. ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説”. コトバンク. . 2018閲覧.