「コンスタンティン・チェルネンコ」の版間の差分

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{{出典の明記|date=2016年2月26日 (金) 17:35 (UTC)|ソートキー=人1985年没}}
 
{{大統領
 
| 人名 = コンスタンチン・チェルネンコ
 
| 各国語表記 = {{lang|ru|Константин Устинович Черненко}}
 
| 画像 =Kostya Chernenko.jpg
 
| 画像サイズ = 200px
 
| キャプション =
 
| 国名 = {{SSR}}
 
| 代数 = 第7
 
| 職名 = [[ソビエト連邦の指導者の一覧|最高指導者]]
 
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| 元首 =
 
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| 代数2 = 第9
 
| 職名2 = [[ソビエト連邦最高会議幹部会議長|最高会議幹部会議長]]
 
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| 退任日2 = [[1985年]][[3月10日]] 
 
| 副大統領2 = [[ヴァシリー・クズネツォフ]]
 
| 副大統領職名2 = 最高会議幹部会<br>第一副議長
 
| 元首2 =
 
| 国名3 = [[ソビエト連邦共産党]]
 
| 代数3 = 第4
 
| 職名3 = [[ソビエト連邦共産党書記長|中央委員会書記長]]
 
| 就任日3 = [[1984年]][[2月13日]]
 
| 退任日3 = [[1985年]][[3月10日]] 
 
| 副大統領3 = [[ミハイル・ゴルバチョフ]]
 
| 副大統領職名3 = 党第二書記
 
| 元首3 =
 
| 出生日 = {{生年月日と年齢|1911|9|24|no}}
 
| 生地 = {{RUS1883}}、ボリシャヤ・テシ村
 
| 死亡日 = {{死亡年月日と没年齢|1911|9|24|1985|3|10}}
 
| 没地 = {{SSR}}・[[モスクワ]]
 
| 配偶者 = アンナ・チェルネンコ
 
| 政党 = [[ソビエト連邦共産党]]
 
| サイン = Chernenko signature.svg
 
}}
 
{{USSR}}
 
[[File:Espionage den04 39.png|right|thumb|250px|1979年にテヘラン米大使館が作成したドキュメント]]
 
'''コンスタンチン・ウスチーノヴィチ・チェルネンコ'''({{lang-ru|'''Константин Устинович Черненко'''}}、[[ラテン文字化|ラテン文字表記の例]]:{{Lang|en|Konstantin Ustinovich Chernenko}}、[[1911年]][[9月24日]]([[グレゴリオ暦]])/[[9月11日]]([[ユリウス暦]]) - [[1985年]][[3月10日]])は、[[ソビエト連邦]]の政治家。同国の第7代[[ソビエト連邦の指導者の一覧|最高指導者]]、第4代[[ソビエト連邦共産党書記長|ソビエト連邦共産党中央委員会書記長]]。チェルネンコの時代はその死によってわずか1年余りで幕を閉じた。これにより、[[レオニード・ブレジネフ]]、[[ユーリ・アンドロポフ]]と続く[[老人支配]]の時代の幕引き役を演じ、若い[[ミハイル・ゴルバチョフ]]に政権を委ねることになった。
 
  
== 生涯 ==
 
=== 生い立ち ===
 
[[シベリア]]・[[クラスノヤルスク]]のノヴォショーロヴォ地区ボリシャヤ・テシ村の貧農の出身。幼少時は富農(クラーク)に雇われて働いた。[[ロシア革命]]が始まると[[コムソモール]]に入り、[[1929年]]、ノヴォショーロヴォ地区宣伝・煽動部長。翌[[1930年]]に軍に志願し国境警備隊に配属される。
 
 
=== 共産党 ===
 
[[1931年]]に[[ソビエト連邦共産党|ソ連共産党]]に入党。軍を除隊後、クラスノヤルスク地方党宣伝部副部長となる。[[第二次世界大戦]]中はクラスノヤルスク地方党書記を務めた。モルダビア(現[[モルドバ]])・[[キシニョフ]]教育大学を卒業し、大戦終結後の[[1945年]]に[[ペンザ州]]党書記を経て、[[1948年]]、モルダビア共和国共産党中央委員会宣伝扇動部長となる。このときのモルダビア共産党第一書記がブレジネフであった。
 
 
ブレジネフの知遇を得たチェルネンコは、[[1956年]]、ソ連共産党宣伝部大衆煽動活動課長に登用される。以後、ブレジネフの側近として昇進を続ける。とりわけブレジネフが第一書記(書記長)に就任してからは、長らく「書記長官房」の異名を取る[[ソビエト連邦共産党中央委員会|ソ連共産党中央委員会]]総務部長を務め、[[党官僚]]組織に大きな人脈を築く。また、中央委員会に投書部を設け、下僚の意見を積極的に吸い上げようとした。
 
 
[[1982年]]のブレジネフの死去後はアンドロポフが後任の書記長に就任したため、失脚の危機もあったと考えられるが、アンドロポフの病気と死去、そして党官僚の支持を背景に勢力を維持した。
 
 
=== 書記長就任 ===
 
アンドロポフの死去後の[[1984年]]4月、チェルネンコは[[ソビエト連邦共産党書記長|ソ連共産党中央委員会書記長]]に就任し、[[国家元首]]である[[ソビエト連邦最高会議幹部会議長|最高会議幹部会議長]]を兼務することになった。しかし就任当初から健康状態がすぐれず、アンドロポフの葬儀に参列した[[イギリス]]の[[社会民主党 (イギリス)|社民党]]党首で[[医師]]でもあった[[デイヴィッド・オーウェン]]は、「チェルネンコ氏は[[肺気腫]]を患っていると思われる」との見解を示した。皮肉にも1年後のチェルネンコの死によって、オーウェンの「診断」の正しさが証明される格好になった。
 
 
こうした病状やその短い任期から目立った業績は無いものの、教育面では技術・専門教育を重視する改革へ着手した。また、重要人事を断行する力はないと思われていたが、1984年[[9月6日]]にソ連軍の制服組トップで、党に対し批判がましい言動を繰り返していた[[参謀総長]]・[[ソ連邦元帥]]の[[ニコライ・オガルコフ]]を電撃的に解任し、オガルコフの後任の参謀総長に[[セルゲイ・アフロメーエフ]]を任命し世界を驚かせた。ただしオガルコフの解任については、チェルネンコの夏期休暇明け翌日の政治局会議で尚且つ[[グリゴリー・ロマノフ]]の海外出張中に決定されたという状況から、[[ミハイル・ゴルバチョフ]]などの非チェルネンコ派によるチェルネンコ人脈の切り崩しだという見方も存在する。
 
 
=== 「只今よりアメリカ軍及び日本軍と交戦状態に入る」 ===
 
[[1984年]]、「只今より極東地域でアメリカ軍及び日本軍と交戦状態に入る」という電文を極東ソ連軍からモスクワに向けて発信させた。これは日米両政府を大いに慌てさせた。だが、しばらくして極東ソ連軍は動員体制に入っていないことが確認された。
 
 
日米両政府はこれを当初「誤報か演習だったと見られる」と判断したが、のちにゴルバチョフの[[グラスノスチ]]によって、[[ロナルド・レーガン]]大統領による「[[我々は5分後に爆撃を開始する]]」という[[ジョーク]]・アナウンスに対する“報復”だったことが判明した。
 
 
=== 死去 ===
 
当時、在モスクワ[[日本大使館]]政務[[専門調査員]]だった[[秋野豊]]によると書記長就任直後からチェルネンコが何を話すかより、一分間に何回、呼吸をしているのかによって健康状態を知ろうとしていたという。また、病院へ入院しているチェルネンコの病室をあたかも執務室に見せかけ、テレビや新聞などで報道された。このとき、背広を着たチェルネンコの体を支える随行員の手が写真などに写っていた[https://www.youtube.com/watch?v=LsMHfT6TRx0&t=50s]。
 
 
1985年3月10日、チェルネンコは息を引き取った。医師団によると、チェルネンコは長年患っていた[[肺気腫]]の悪化による心肺機能不全による心拍動の停止が死因と発表された。
 
 
就任から1年余りの死であり国民には不人気な書記長であったが、一家の家長としてはかけがえのない人物であった。妻のアンナは葬儀の際、溢れ出る涙を流しながら亡夫にキスをし続けたという。
 
 
== 関連項目 ==
 
{{commons|Category:Konstantin_Chernenko}}
 
* [[冷戦]]
 
* [[ウォッカ・タイム]] - チェルネンコを主人公とした[[片山まさゆき]]による政治パロディ漫画。
 
 
{{先代次代|{{Flagicon|SSR}}[[ソビエト連邦の指導者の一覧|最高指導者]]|[[1984年]] - [[1985年]]|[[ユーリ・アンドロポフ]]|[[ミハイル・ゴルバチョフ]]}}
 
{{先代次代|{{Flagicon|SSR}}[[ソビエト連邦最高会議幹部会議長|最高会議幹部会議長]]|[[1984年]] - [[1985年]]|[[ユーリ・アンドロポフ]]|[[アンドレイ・グロムイコ]]}}
 
{{先代次代|[[ソビエト連邦共産党書記長]]|[[1984年]] - [[1985年]]|[[ユーリ・アンドロポフ]]|[[ミハイル・ゴルバチョフ]]}}
 
 
{{Normdaten}}
 
{{DEFAULTSORT:ちえるねんこ こんすたんていん}}
 
[[Category:ソビエト連邦共産党中央委員会書記長]]
 
[[Category:ソビエト連邦の国家元首]]
 
[[Category:第7回ソビエト連邦最高会議の代議員]]
 
[[Category:第8回ソビエト連邦最高会議の代議員]]
 
[[Category:第9回ソビエト連邦最高会議の代議員]]
 
[[Category:第10回ソビエト連邦最高会議の代議員]]
 
[[Category:第11回ソビエト連邦最高会議の代議員]]
 
[[Category:コムソモールの人物]]
 
[[Category:社会主義労働英雄]]
 
[[Category:レーニン勲章受章者]]
 
[[Category:労働赤旗勲章受章者]]
 
[[Category:レーニン賞受賞者]]
 
[[Category:ソビエト連邦国家賞受賞者]]
 
[[Category:カール・マルクス勲章受章者]]
 
[[Category:ゲオルギ・ディミトロフ勲章受章者]]
 
[[Category:スフバートル勲章受章者]]
 
[[Category:エニセイ県出身の人物]]
 
[[Category:1911年生]]
 
[[Category:1985年没]]
 
[[Category:第一次アフガニスタン紛争期の政治家]]
 

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