グリエルモ・マルコーニ

提供: miniwiki
2018/8/6/ (月) 12:25時点におけるAdmin (トーク | 投稿記録)による版 (1版 をインポートしました)
移動先:案内検索
ノーベル賞受賞者ノーベル賞
受賞年:1909年
受賞部門:ノーベル物理学賞
受賞理由:無線通信の研究

グリエルモ・マルコーニGuglielmo Marconi1874年4月25日 - 1937年7月20日)は、無線電信の開発で知られるイタリアボローニャ生まれの発明家

1909年、無線通信の発展に貢献したとして、ブラウンとともにノーベル物理学賞を受賞した[1][2][3]。1916年より短波開拓に着手し、日中でも遠距離通信が可能な「昼間波」を発見[4]。1924年、英国郵政庁より短波公衆回線の建設を請負い、「昼間波」と「ビームアンテナ」の二刀流で短波黄金時代を切り拓いた[5]。1933年には世界初のUHF実用回線を完成させたほか[6]、UHF波が曲がることを発見している[7]

生い立ち

マルコーニはイタリアのボローニャの地主の家に生まれた。母はアイルランド人ジェムソン・アイリッシュ・ウイスキー (Jameson Whiskey distillery) の創業者の曾孫である[1]。母の実家から研究費の援助受けていた。幼い頃から電波に興味を持っていたマルコーニはボローニャでアウグスト・リーギに師事し、その後フィレンツェの Istituto Cavallero、さらにリヴォルノへと移っていった。学校にはほとんど通っていない[8]カトリック教会洗礼を受けているが、同時に結婚に際して聖公会の信徒となり、カトリック教会からは抹消された。

無線電信の開発

若いころからマルコーニは科学、特に電気に興味を持っていた。1888年、ハインリヒ・ヘルツ電磁波を発しかつ検出できることを示し、そこからこの時代の科学技術の発展が始まった。今では一般に「電波」と呼ぶが、当時は「ヘルツ波」や「エーテル波」という呼称が一般的だった。ヘルツが1894年に亡くなると、彼のそれまでの発見を再検討する書籍等が出版され、マルコーニの興味をかきたてた。ボローニャ大学の物理学者でマルコーニ家の隣人でもあったアウグスト・リーギはヘルツの成果に基づいた研究をしており、マルコーニは彼の下で学ぶことを許された。リーギは The Electrician 誌を購読しており、1894年の同誌にオリバー・ロッジが無線電信の公開実験に使った装置の詳細が掲載された。

初期の実験(イタリア)

マルコーニは自宅の屋根裏で装置を自前で作り、実験を開始した。彼の目標は電波を使った「無線電信」の実用的システムを完成させることだった。すなわち電線を使わずに電信のメッセージを遠隔地に伝送することを目標とした。これは何も目新しいアイデアではない。多くの人々が無線電信技術を実現しようと探究してきたが、商業的成功に至った者は1人もいなかった。マルコーニは無線電信システムの開発において新しい革新的原理を発見したわけではなく、個々の部品を改良してそれらを組み合わせてシステムを構築しただけである[9]。マルコーニのシステムには次のような構成要素があった[10]

  • 比較的単純な発振器または火花送信機。リーギの設計したものを手本にしており、つまりはヘルツのものに似ている。
  • 地面に対して高いところに設置した電線(アンテナ)。
  • コヒーラ検波器エドアール・ブランリーの考案した本来のコヒーラを改良し、感度と信頼性を向上させたもの。
  • 電鍵。これを使って短いパルスと長いパルスを送信機が発信できるようにし、それによってモールス符号を構成する。
  • 電信自動記録器。コヒーラによって起動され、モールス符号をドットとダッシュでロール状の紙テープに記録する機械。

同じような火花送信機とコヒーラ検波器の組み合わせは他の者も試していたが、数百メートル以上の距離で伝送できた者はいなかった。

当初、マルコーニも限られた距離でしか信号を送れなかった。1895年夏、彼は実験の場を屋外に移した。送信機と受信機のアンテナを長くし、それらを垂直に配置して、一端を接地させると通信距離が大幅に延びた[11]。間もなく彼は丘を越えての信号伝達に成功した。距離は約1.5kmになっていた[12]。マルコーニの当時所有していた装置はタフツ大学A. E. Dolbear が1882年に製作したものと酷似していた。Dolbear の装置は火花送信機と鉱石検波器を使ったものだった[13][14]。この時点でマルコーニはさらに資金をかけて研究を続ければさらに距離を延ばすことができ、商業的にも軍事的にも価値のあるものになると判断した。

初期の実験(イギリス)

イタリアでは彼の成果に興味を持つ者は少なかった。そこで1896年、21歳のマルコーニは母親と共にロンドンに赴き、支援者を探した。マルコーニはイタリア語だけでなく英語も流暢に話した。郵政庁GPOの主任電気技師 William Preece がマルコーニに興味を持ち支援を約束した。

渡英直後よりマルコーニはヘルツのように、非接地型のパラボラ反射鏡アンテナを試しはじめた。1896年7月27日、郵政庁GPOと貯蓄銀行の屋上間でデモンストレーションを行った。マルコーニ出版社の『無線電信電話年鑑(1922年版)』には7月27日のデモンストレーションがパラボラ反射鏡が付いた送信機と受信機で行われたことが記されている[15]。デモンストレーションが行われた郵政庁GPO跡地には現在BTグループ本社ビル (en) が建っており、その外壁には、以下のようにマルコーニが初めて無線通信の公開実験を行った場所を示す記念銘板[16][17]がある。

From this site GUGLIELMO MARCONI made the first public transmission of wireless signals on 27 July 1896

1896年9月2日にはソールズベリー平原でも、パラボラ反射鏡付き送・受信機のデモンストレーションを行ったが、英国協会[18]の9月22日のミーティングでWilliam Preeceがそれについて触れた。すると翌日のタイムス紙がパラボラ反射鏡を使う無線実験家マルコーニのことを記事にしたのである[19]。ロシアのポポフはこの新聞を読んでマルコーニが自分と同じような実験をしていることを知ったという[20]。また英国の雑誌The Electrician(9月25日号)やNature(10月8日号)もマルコーニのパラボラ反射鏡実験を掲載し、全英にマルコーニの名が知られるところとなった。

さらに10月にはアメリカの科学雑誌でもマルコーニを「パラボラ反射鏡の無線実験家」として伝えた[21][22][23][24]。こうしてマルコーニの名がアメリカにまで知られるようになると、William Preece は1896年12月11日に Toynbee Hall で "Telegraphy without Wires" と題した講演をおこない、あらためて実験家マルコーニを紹介した。

1897年になるとパラボラよりもイタリア時代の接地型垂直アンテナを使うようになり、到達距離を伸ばしていった。1897年3月、ソールズベリー平野で約6kmの距離でモールス符号を伝送する実験に成功した。1897年5月13日、マルコーニは世界初の海を越えての無線通信に成功した。南ウェールズのラバーノック岬からブリストル海峡に浮かぶフラットホルム島までの約6kmである。受信設備はすぐさま海峡の南岸に突き出た岬にあるブリーンダウン要塞 (en) に移設され、距離は16kmに伸びた。このような公開実験に感銘を受けた William Preece は1897年6月4日に王立研究所で"Signaling through Space without Wires" と題した講演を行った。

その後も公開実験を繰り返したマルコーニは国際的にもさらに注目されるようになっていった。1897年7月、イタリアに帰国してラ・スペツィアでイタリア政府向けの公開実験を行った。1898年7月6日には、ロイズのために北アイルランドのバリーキャッスルとラスリン島の間で実験を行った。1899年3月27日にはフランスのウィムルーとイングランドのサウスフォアランド灯台 (en) を結び、イギリス海峡を横断する実験を行った。1899年秋には、アメリカ合衆国で最初の公開実験を行い、ニューヨークで国際ヨットレースであるアメリカスカップのレポートを無線で伝えるというデモンストレーションを行った。

アメリカ合衆国へはニューヨーク・ヘラルド紙に招待されて行き、アメリカスカップの模様を無線で伝えることを依頼された。送信機は Ponce という客船に設置された[25]。アメリカからイングランドに戻るべく出発したのは1899年11月8日のことで、American LineSt. Paul という船に乗った。船上で助手と共に通信機を設置し、11月15日に船がイギリスの海岸から66海里まで近づいたとき、マルコーニが作っておいた無線局との間で無線電信のやりとりに成功した。

Proceedings of the United States Naval Institute によれば、アメリカ海軍はマルコーニのシステムを1899年ごろに調査し、「コヒーラ検波器の原理は約20年前に発見されているが、全く新しいといえる電気機器はそれしかなかった」と結論している[26]

海上公衆通信の商用化達成

陸上には既に網の目のように電信線が張り巡らされ、またドーバー海峡や大西洋にも海底ケーブルが敷設されていたため、無線による遠距離通信ビジネスを軌道に乗せるには相当時間が掛かるだろうと予感していた。公衆通信サービスへの参入には船舶相手が近道だとマルコーニは考えるようになった[27]。そして商用の恒久施設として、ドイツで海岸局と船舶局の開設を準備していた。

1900年2月にオランダとの国境にあるボルクム島灯台海岸局、ボルクム・リフ灯台船無線局、それに北ドイツ・ロイド汽船会社が誇る大西洋航路の大型客船カイザー・ヴィルヘルム・デア・グロッセ号に船舶無線局を設置して無線電報の試験を始めた[28][29]

1900年4月25日にマルコーニは海上公衆通信の商用化を目的とする、マルコーニ国際海洋通信会社MIMCC[30]を分社させた。そしてこれらのテストを担当し、1900年5月15日より電報サービスの営業を開始した。5月15日から10月30日までの5箇月半で、565通の無線電報を取扱ったと、ロンドンのthe Society of Artsにおいてマルコーニが発表している[31]。恒久施設による海上公衆通信のビジネス化はこうして19世紀最後の年に達成されたのである。

20世紀となり、1901年5月にビーバー・ライン社の客船レイク・チャンプレイン号、同年6月にキュナード・ライン社の大型客船ルカーニア号、9月にはその姉妹船カンパニア号にもマルコーニ局が置かれた。特にキュナード・ライン社は無線電信が乗客への電報サービスの提供だけでなく、船の安全航行や社内連絡にも大いに役立つことを知り、自社の船に続々とマルコーニ局を開設した。マルコーニ国際海洋通信会社MIMCCによって海上移動の公衆通信サービスは順調に発展していった。なお1924年にロンドンのRoyal Society of Artsで講演したマルコーニ氏は、1901年からのおよそ8年間、同社の海上公衆通信には波長120m(2.5MHz)を使っていたと語っているが[32]、実際には1912年まで国際波長300m(1000kHz)の補助用として短波を使っていたようである[33]

大西洋横断無線通信

ファイル:Marconi at newfoundland.jpg
助手がアンテナ用の凧を揚げようとしているのを見守るマルコーニ(セントジョンズ、1901年12月)


世紀の変わり目ごろ、大西洋横断電信ケーブルに対抗すべく、マルコーニは大西洋を横断して無線で信号を伝える手段を研究し始めた。1901年、アイルランドのウェックスフォード州ロスレアに無線局を作り、コーンウォールのポルドゥーとアイルランドのゴールウェイ州クリフデンの無線局を中継する実験を開始した。1901年12月12日、凧で吊り上げた高さ152.4mのアンテナを受信用に使うことで、コーンウォールのポルドゥーから発信した信号をニューファンドランド島セントジョンズのシグナルヒルで受信することに成功したと発表。2地点の距離は約3500kmである。科学技術の重大な進歩として報道されたが、受信できた信号が途切れ途切れだったこともあり、本当に成功と言えるのか疑問視する声もあった(今もある)。第三者が確認したわけではなく、単に S を表すモールス符号を繰り返し送ったということで、雑音と区別しにくかったのではないかとも言われている[34]。ポルドゥーの送信設備は2段構成になっており、25kWの出力だった。1段目は低電圧で駆動して2段目にエネルギーを供給し、2段目で高電圧の火花を発生させていた。大西洋横断無線通信で競っていたニコラ・テスラは、マルコーニが成功したことを聞いて「マルコーニは私の特許を17個使っている」と述べたという[35][36]

懐疑主義者から疑問を呈されたと考えたマルコーニは、さらに体系的で文書も整えた実験を準備した。1902年2月、イギリスからアメリカに向かう Philadelphia という船に乗船したマルコーニは、ポルドゥーの無線局が発信する信号を毎日船上で受信して記録した。電信自動記録器では最大2496kmまで、信号を音として耳で聞く形では最大3378kmまで受信できた。受信は夜の方が容易だった。これは中波長波が昼より夜の方が遠くまで届くことを初めて示した実験だった。日中は最大でも1125kmまでしか受信できず、ニューファンドランドで受信したと主張した距離の半分にも満たなかった。ニューファンドランドでの受信は日中も可能だったと主張していた。以上により、電波は見通せる範囲にしか届かないという一部の科学者の主張は否定されたものの、ニューファンドランドで本当に受信に成功したのかについては完全に確認されたわけではない。

1902年12月17日、北米側からの初の大西洋横断無線通信に成功。発信地はカナダのノバスコシア州東端のグレスベイである。1903年1月18日、マサチューセッツ州サウス・ウェルフリート(ケープ・コッド)の無線局(1901年建設)にてセオドア・ルーズベルト大統領からイギリス国王エドワード7世へのメッセージを発信。これがアメリカ合衆国から発信した初の大西洋横断無線通信となった。しかし、安定した通信はまだ難しかった。なお、この無線局はタイタニック号の遭難信号をいち早く受信した無線局の1つでもある。

マルコーニは高出力の無線局を大西洋の両岸に建設し始めた。海上を航行する船舶との通信を可能にするためである。当時、他の発明家も同様の事業を始めようとして競っていた。1904年、夜間に船舶に向けてニュースを送信し、船上で発行する新聞にその情報を取り入れるという有料サービスを開始した。大西洋を横断する無線電信サービスが確立されたのは1907年10月17日のことで[37]、アイルランドのクリフデンとカナダのグレスベイを結んだ。しかし、通信品質は安定せず、その後もマルコーニ社は改良に苦闘した。

無線電話の開発

無線電話ラジオ放送には連続波の発振が必要だが、三極管による増幅・発振作用が知られるようになったのは1912年だった。マルコーニ社でも1913年より三極管による連続波の発振と無線電話の研究に着手した[38]

真空管式無線電話に着手

1914年3月にイタリア海軍の軍艦レジナ・エレナに真空管式無線電話装置を仮設し、受信機を置いた別の艦船で受信試験が行われた[39][40]。最終的には軍艦レジナ・エレナとナポリの受信所間で最長距離45マイルを記録した[38]

1919年3月にはアイルランドバリーバニオン海岸局より長波の無線電話[41]を送信し、それを大西洋越しにカナダのルイスバーグ(ノバスコシア州)で受信することができた[42]。すでに1915年にはアメリカ電話電信会社AT&Tがアーリントンの海軍無線局を借りて、大西洋を東向き(アメリカ→フランス)に無線電話で横断していたが、大西洋を西向き(アイルランド→カナダ)に越えたのはこれが最初である[43]

なおマルコーニ社では別のグループが短波まで使える真空管の開発に注力していた。こちらのグループは1919年に波長15m(20MHz)入力200Wの真空管式短波無線電話送信機を完成させ、カーナボンから送信し、北西へ32km離れたホーリーヘッドにおいて、その変調音を明瞭に受話することに成功している[44]

ラジオ放送の開始と中止

1920年1月15日、マルコーニ社は郵政庁GPOの許可を受けてチェルムスフォードで真空管式6kW送信機による英国初の娯楽ラジオ放送[45]の試験を開始した。そして電力15kWの新型送信機が完成すると、2月22日から3月6日まで11:00-11:30と20:00-20:30の定時放送を行ったあと、不定期放送に戻った[46]

1920年6月15日は欧州大陸のリスナーに向けて三箇国語(英語・フランス語・イタリア語)で、オーストラリア出身のオペラ歌手ネリー・メルバ夫人の音楽番組が放送された[47]。これは世界初の国際放送であり、また世界初の音楽ライブ放送だった[48]。この英国チェルムスフォードからのラジオ放送は北欧諸国まで届いていたが[49]、8月2日の番組は大西洋を越えてカナダでも受信されている[50]。欧州では大変注目されたラジオ放送だったが、まもなく英国空軍の無線システムへ混信を与えることが問題となり、1920年秋に中止となった。

ラジオ放送ができなくなったチェルムスフォードの無線電話の開発グループは、波長100m(3MHz)の2波を使う同時通話式の無線電話の研究をはじめた。そして1921年5月11日、英国のサウスウォールドとオランダのザンドヴォールト間の海上200kmを3MHzの短波で結ぶ北海横断試験を成功させている[51]。この短波帯同時送話テストの成功は日本の新聞も伝えた[52]

なお前述した波長15m(20MHz)の別グループの無線電話は、1920年6月にカーナボンからアイリッシュ海を130km隔てたアイルランドのキングスタウン港で受信されている。これに自信を得て1921年8月、ロンドン郊外のヘンドンバーミンガムに20MHzのパラボラ・ビーム・アンテナ局をお互い向き合うように建設し、20MHzの2波を使った同時通話試験(距離156km)を開始している。

北海横断国際無線電話回線(3MHz)も、ヘンドン・バーミンガム無線電話回線(20MHz)も、同時通話方式だった。これはいまさら陸上の電信回線に新規参入しても勝ち目がないため、有線電話の公衆網へ接続する無線中継回線を目指していたからである。

ラジオ放送の再開と移管

英国のラジオ放送中止と入れ替わるように、ウェスティングハウス電気製造会社フランク・コンラッドらが世界初となる商業ラジオ放送KDKAを開局したのは1920年11月2日である[53]。1921年秋になると、アメリカでは商業ラジオ放送局が相次いで誕生し、その評判が英国にも届くと、ラジオ放送再開を求める声が高まった。再開陳情が何度も繰り返された結果、郵政庁GPOは軍用無線への混信を防ぐために電力を250Wに制限したうえで、マルコーニ科学機器社MSIC[54]に放送許可を与えた。1922年2月14日より定期放送(毎週火曜日19:35-19:55)を始めた[55]。その送信所はチェルムスフォード郊外のライトルにあり、波長700m(430kHz)で呼出符号は2MTである。

またマルコーニ科学機器社MSICは第二局を首都ロンドンのマルコーニ・ハウス7階に建設した。そして1922年5月11日より呼出符号2LOで毎週火曜日と木曜日に30分間の放送をはじめた[56]。しかしロンドン2LOは郵政庁GPOが音頭を取り、電気会社6社が出資して1922年10月18日に誕生した英国放送会社BBCに移管され[57]、同年11月14日よりBBC系の中央局として放送をはじめた。なお独立系としてマルコーニ科学機器社MSICに残ったライトル2MTは「英国のラジオ放送を再開させる」という役目を終えて、1923年1月17日をもって閉局した。

この「英国放送会社」BBC(British Broadcasting Company)は、1927年に創設された公共放送「英国放送協会」BBC(British Broadcasting Corporation)の前身となった会社である。

短波の開拓

1924年12月11日、ロンドンの英国王立技芸協会(Royal Society of Arts)で、マルコーニは1901年より8年間ほどの間、船舶無線では波長120m(2.5MHz)を使っていたと語っている[58]。当時より短波がときおり超遠方まで届くことに気付いていたが、それについては追求しないまま、国際無線電信会議で決まった船舶無線用の低い波長600m(500kHz)、300m(1MHz)に移ってしまった。こうして短波は一時期忘れられた。

短波への回帰

1914年7月28日、第一次世界大戦が勃発。母国イタリアが1915年春に参戦すると、マルコーニはイタリア軍に入隊し、軍の秘密通信の必要から"ビーム通信"の研究をはじめた。無線は四方に伝播するため、敵にも傍受されるという大きな欠点があるからである。マルコーニは1896年にロンドンやソールズベリー平原で使ったパラボラアンテナのことを頭に想い浮かべていた。1916年3月、イタリアのジェノバで最初の試験を行いイタリア海軍に報告書を提出した[59]。そして英国よりフランクリン技師(C.S. Franklin)を呼び寄せて、イタリアのリヴォルノでパラボラビームの実験に本格着手したのが1916年8月だった[60]。こうしてマルコーニの短波の開拓(回帰)がはじまった。

パラボラ反射器の研究

マルコーニとフランクリン技師はパラボラ反射器の研究に波長2m(150MHz)と3m(100MHz)の圧搾空気噴射式火花送信機を用いた。真空管の製造がスタートしたばかりで、まだ超短波まで動作する真空管は完成していなかったからである。この実験でパラボラ反射鏡のメッシュや開口長と、アンテナ利得の関係を繰返しテストし、メッシュ式のパラボラアンテナの基礎データを得た。ボートに積まれた波長2mと3mの受信機は鉱石式で、アンテナは無指向性の垂直型だったが、最終的に波長3mを使って、海上で10kmまで受信することができたという。この実験では空電ノイズはない代わりに、自動車やモーターボートのエンジンからの雑音妨害を強く受けることに気付いた[61]

さらに改良がすすめられ、1917年にカーナボンで行った波長3m(100MHz)のパラボラビームの試験では到達距離が32kmになった。この実験ではパラボラ送信機の設置場所を高くするほど到達距離が伸びることを認めた[61][62]

こうしてC.S.フランクリン技師が得たパラボラアンテナの知見は、1920年の電波灯台の実験や、1921年8月に完成した(前述の)波長15m(20MHz)のロンドン-バーミンガム回線(パラボラビームを互いに向け合った同時通話式の無線電話)の実用化試験に生かされた。

電波灯台の実験

マルコーニは1899年3月、英国の電気学会で電波灯台の考えを発表している。パラボラ反射器による受信機を搭載した船が、電波灯台のサービスエリア内を航行するときに、パラボラ反射器を電波灯台に向けたとき、電波をキャッチしベルが鳴るシステムである[63]。それからおよそ20年が過ぎた1920年、マルコーニとC.S. フランクリン技師はスコットランドフォース湾にあるインチケイス島に電波灯台の実験施設を建設した。当初のアイデアとは違って、電波灯台側に回転するパラボラアンテナを置いて各方位ごとに定められたモールス符号を送信するもので、船の受信アンテナを無指向性の垂直ダイポールで済まそうとするものである[64]

1920年11月17日、汽船ファロス号を使って実用性を確認するための試験が行われた。電波灯台の回転パラボラビームが発する波長4m(周波数75MHz)の方位信号を受けながらフォース湾内を航行したところ、インチケイス島の近くでは電波が弱まることが分かり、回転パラボラビームの建設位置をもう少し低い場所に移す必要性を認めた[64]。移設の際に二代目のビームアンテナに変えられたが、それはパラボラ反射器を背中合わせに2基配置した、まるでメリーゴーラウンドのような概観となり、物珍しさから無線雑誌などで注目を集めた[65]

その後の無線通信での功績

1923年、すでに短波が反射鏡によるビーム化に適することをつきとめており、ポルデューに送信局2YTをつくり反射鏡を装備させていたが、いよいよこの年に自分が所有するエレットラ号で西アフリカのカーボベルデ(セント・ビンセント)に向けて実験航海に出た。ポルデュー2YTからの3MHzの短波は、日中には2300km、夜間には4000km 離れたエレットラ号で傍受に成功し、ここにスキップ現象を発見した[66]

1924年2月、短波実験の成功を宣言。同年4-5月、オーストラリアでポルデュー2YTの無線電話メッセージが受信された[67][68]。マルコーニの信号は南北アメリカ、南アフリカ、インドにおいてさえ受信できた。そして超長距離無線では長波より短波の方が鮮明に受信できることが証明された。マルコーニの反射鏡を利用したビームシステムは、この場合に経費が長波の5%で済んだ。距離あたりの速度においては海底ケーブルさえも超えた。[69]短波を眉唾に見ていたイギリス海軍は、5月6日に自治領でなら経費節減策として採用の可能性ありと述べている。

1924年7月2日、マルコーニはロンドンの英国王立技芸協会(Royal Society of Arts)で、ポルデュー2YTから発した3MHzの短波による、イベリア半島の遮蔽試験およびカーボベルデへの遠距離ビーム試験、セドリック号での大西洋横断試験、オーストラリアとアルゼンチンへの長距離通信の成功について講演した[70]

1924年7月28日、マルコーニ無線電信会社は英国郵政庁より4つの官営公衆回線の建設を受注した[71]。同社はマルコーニが発見した日中でも遠距離通信が可能な昼間波と、同社のC.S. フランクリン技師が開発した短波の平面型ビームアンテナを採用し、短波帯を用いた公衆通信に先鞭を付けたのである。まず1926年10月25日にカナダビームを開通させて郵政庁へ引き渡し、1927年にオーストラリア回線、南アフリカ回線、インド回線が完成した。英国側のビーム局は郵政庁直営だが、対手局側のビーム局は傘下企業に任された[72]。周波数的にはカナダ回線とオーストラリア回線では昼間波11MHzを、南アフリカ回線とインド回線では昼間波18MHzとの夜間波8MHzを併用した。

回線名 開業日 英国送信局(呼出符号,周波数) 対手送信局(呼出符号,周波数,国名)
カナダ 1926年10月25日 ボトミン(GBK,11.500MHz) ドラモンドビル(CG,11.420MHz,カナダ)
オーストラリア 1927年4月8日 グリムズビー(GBH,11.580MHz) バラン(VIZ,11.660MHz,オーストラリア)
南アフリカ 1927年7月5日 ボトミン(GBJ,昼18.580/夜8.820MHz) クリフューヴァル(VNB,昼18.660/夜8.900MHz,南アフリカ)
インド 1927年9月6日 グリムズビー(GBI,昼18.500/夜8.780MHz) カーキ(VNW,昼18.420/夜8.700MHz,インド)

1927年、英国放送協会が創設され、正式に短波放送サービスを決定した[72]

1929年2月11日、ローマ教皇ベニート・ムッソリーニ伊首相と和解し、バチカン市国の独立を認めるラテラノ条約が同年6月7日に双方で批准された。バチカン市国では全世界の信者にローマ教皇の声を直接届けるために短波放送を計画し、その建設をマルコーニ無線電信会社が請負った。

1931年2月11日、バチカン放送HVJが開局。マルコーニがオープニングの簡単な挨拶をしたあと、教皇ピウス11世の声が、マルコーニの短波放送機(昼間波15.120MHz、夜間波5.970MHz、出力13-15KW)と平面型ビームアンテナで世界へ向けて送り出された[73]

1933年2月11日、バチカン宮殿とガンドルフォ城の教皇宮殿を結ぶUHF(500MHz帯)電話回線の公式運用を開始した。これは2波を使う同時通話式の無線電話で、UHF帯の実用局としてはこれが世界初だった[6]

賄賂事件

1910年代にマルコーニを中心に汚職疑惑が発覚し、自由党の政治家を中心に多数の政治家に収賄の嫌疑がかかった、そのなかには後の首相のデビッド・ロイド・ジョージウィンストン・チャーチルもいた[74]。もし、彼らが起訴され有罪となっていたら、チャーチルが第二次世界大戦を指導することはなかっただろうし、第一次世界大戦の趨勢もどうなっていたかわからず、イギリスの20世紀はかなり違っていたであろうと指摘されている[75]

タイタニック

1912年4月に沈没事故を起したタイタニック号に乗船していた2人の無線通信士は、ホワイト・スター・ラインに雇われていたわけではなく、マルコーニ国際海洋通信会社の社員だった。船舶無線の黎明期は船舶局のオーナーは海運会社ではなく、無線会社だったのである[76]。最初はマルコーニ社の遭難信号CQDを、後になって世界共通のSOSが送信された。

タイタニック沈没後、生存者がキュナード・ラインカルパチア号に救助された[77]。生存者名簿を無線で最初に受信したのはアメリカン・マルコーニ社の社員だったデイヴィッド・サーノフである。カルパチア号とサーノフは72時間に渡って通信したとされているが[78]、近年の歴史家にはサーノフの関与を疑問視する向きもある。カルパチア号がニューヨークに入港すると、タイタニック号に乗船していて救助された無線技師と話をするため、マルコーニはニューヨーク・タイムズの記者に同行して乗船した[77]。1912年6月18日、タイタニック沈没の件を調査する法廷で、マルコーニは船舶電信の機能と緊急時の規定についての証拠を提出した[79]。イギリスの郵政公社総裁は「救助された人々はマルコーニ氏と氏の素晴らしい発明に救われた」と述べている。

特許紛争

マルコーニの業績は他の様々な科学者や発明家の成果の上に成り立っている。彼の火花送信機とコヒーラ検波器も先人が設計したものと似ており、特にオリバー・ロッジ が行った一連の公開実験(1894年)の装置によく似ている。マルコーニはこの組み合わせで最も遠距離まで信号を届かせることができると主張していたが、ニコラ・テスラなどはその点についても異論を述べている[12]

1900年、アレクサンドル・ポポフはロシアの電気技術者会議で「マルコーニの行っている電気振動による信号の送受信は、まるで新規性がない。アメリカでは、1893年に有名な技術者ニコラ・テスラが同じ実験を実施している」と述べている。

イタリアのファシスト党は無線通信技術の創始者をマルコーニだとした[80]。彼の貢献が特許に値するかどうかについては異論もあり、ヘルツ、ブランリー、テスラ、ロッジといった先人の発明に似すぎているという指摘もある。

マルコーニの装置は基本的に同調回路がなく、混信を防ぐため、ひとつの地域で運用可能な火花送信機の数が限定されることになった。マルコーニはこの欠点への対策としてより洗練された "four-circuit" 設計の特許を取得している。これは、送信側と受信側のアンテナに同調回路を装備したものである。この特許は1900年4月26日にイギリスで出願された(英国特許番号7777)。しかし、そのずっと以前にニコラ・テスラオリバー・ロッジが電気同調回路を考案している。1911年、マルコーニ社は防衛手段としてオリバー・ロッジの1897年の同調回路の特許を買い取っている。そのため、7777特許とそれに対応する各国で出願された特許は、国によって特許として認められた場合もあれば、全く無効とされた場合もある。

1943年、マルコーニの無線に関する複数の特許についてのアメリカでの訴訟が結審した。判決は、ニコラ・テスラ、オリバー・ロッジ、ジョン・ストーン・ストーンらの先例やマルコーニ自身の別の先例(例えば アメリカ合衆国特許第763,772号)に基づいて下された。 アメリカ最高裁判所は次のように決定した。

1897年9月2日出願、1900年3月20日登録のテスラの特許第645,576号は、送信機と受信機がそれぞれ2つの回路を持つ4回路システムに関するもので、4回路全てを同じ周波数に同調させることを推奨している。その装置は電力伝送に関するものだが、(彼は)変更なしでそれを無線通信に使えることを認識していた。[81]

この判決に際して法廷は次のように注記している。

最初に無線通信に成功した人物として、マルコーニの評価は最初の特許(11,913号、この法廷で問題としている部分とは無関係)にかかっている。どんなに評価の高い人物であっても、その後の無線関係の特許が全て無条件で認められるわけではない。特許訴訟は、当事者の名声ではなく、それぞれの主張と証拠の綿密な調査によって決定されなければならない。[82]

また、次のようにも述べている。

2人の発明者の発明の優先順位の決定は、先に発明したことを立証することによってなされる。[82]

この裁判では、マルコーニのイギリスでの特許や無線通信の発明者としての名声を議論しなかった[83]

この件では、マルコーニの特許のほとんどが(アメリカでは)無効とされた。当時、アメリカ陸軍がマルコーニ社から特許侵害で損害賠償を請求されていたため、特許を無効とすることで侵害もなかったとするという意図があったと言われている。もともと、テスラの特許が既に成立していたにも関わらず、マルコーニの特許が成立した背景にも、テスラがアメリカ政府を特許侵害で訴えていたからだとする説もある。それとは対照的にイギリスではマルコーニの特許7777号の有効性が法廷で認められた。一連の特許紛争は大企業間の覇権争いの一部に過ぎない。

1895年、コルカタではジャガディッシュ・チャンドラ・ボースがマルコーニのソールズベリー平野での実験(1897年5月)より前に無線通信の公開実験を行っている[84][85]。1896年にはイギリスの新聞がボースの実験について「この発明者(ボース)は約1マイルの距離で無線を使って信号を送ることに世界で初めて成功した。これには様々な重要な応用が可能である」と記していた。マルコーニは明らかにこのことを知っていたが、独占的な特許権を主張した[86]

私生活

マルコーニには兄弟が2人いた。1905年3月16日、アイルランドの第14代インチカン男爵エドワード・オブライエン(en)の娘ベアトリス (1882?1976) と結婚。娘を3人と息子を1人もうけたが、三女は生後数週間で亡くなった。 第一次世界大戦ではイタリアは連合国側となり、マルコーニはイタリア軍の無線通信部門の責任者となった。最終的にイタリア陸軍では中尉、海軍では司令官となった。1915年、イギリスの豪華客船ルシタニアがアイルランド沖で撃沈され、マルコーニの友人が亡くなった。マルコーニは2日後のニューヨーク・タイムズにその事実を書いている。

1923年にマルコーニはファシスト党に参加した。1924年にベアトリスと離婚、1927年に結婚が取り消された。 1927年6月15日、マルコーニは Maria Cristina Bezzi-Scali と再婚。結婚式にはベニート・ムッソリーニも列席した[87][88]。娘を1人もうけた。

晩年のマルコーニはファシズムの熱心な信奉者となり[89]、1935年に起きた第二次エチオピア戦争ではその正当化に一役買っている。

1937年、ローマで心筋梗塞により死去。イタリアで国葬が執り行われた。弔意を示すため、世界中にある英連邦の官設無線局が2分間沈黙した。遺体はエミリア=ロマーニャ州サッソ・マルコーニに埋葬された。なお、このコムーネの名は1938年、マルコーニにちなんで改称されたものである。フィレンツェのサンタ・クローチェ聖堂にはマルコーニの葬儀を記念した像がある。

社の発展、買収、統合

1897年にマルコーニ無線電信会社English版を創立した。イギリスのマルコーニ社は一世紀以上もの間ゼネラル・エレクトリック・カンパニーとして知られていたが、1968年にはイングリッシュ・エレクトリック他多数の電機会社と合併して、1999年に防衛機器部門をBAEシステムズに売却し、残った事業がマルコーニ株式会社という名前で存続している[90]

1919年、アメリカン・マルコーニ社がゼネラル・エレクトリックAT&Tウェスティングハウスに買収されてRCA となった。

1928年3月16日、ジョン・ペンダーと政府受注を争った末に、帝国代表者会議の立会いで、ペンダー側イースタン電信会社とマルコーニ無線電信会社間で保有比率56.25対43.75とする持ち株会社をつくることで合意した。代表者会議による審議は続き、7月6日に勧告として報告書が出された。内容は、ペンダーとマルコーニの各事業だけでなく、郵政省の短波システムに太平洋/大西洋ケーブルを一挙に合併させる構想であった。[91]8月に議会で承認されてから、構想は自治領で次々と追認された。1929年4月8日、合併会社はケーブル・アンド・ワイヤレス、通信会社は帝国国際通信Imperial and International Communications という名前で発足した。これらはグローバル通信網としてP&O や帝国航空会社などに利用された。

賞と栄誉

全米放送事業者協会NAB Marconi Radio Awards を毎年優れたラジオ番組に授与している。イタリアではユーロ導入まで流通していた旧2000リレ紙幣の肖像に採用されていた。2001年、イギリスではマルコーニの世界初の無線通信から100周年を記念して2ポンド記念硬貨を発行した。また、マルコーニのノーベル物理学賞受賞100周年を記念して、2009年にイタリアが5ユーロ記念硬貨を発行した。

マルコーニの名を冠した地名など

特許

イギリスでの特許

アメリカでの特許

脚注

  1. 1.0 1.1 1.2 "Guglielmo Marconi: The Nobel Prize in Physics 1909"
  2. Welcome to IEEE Xplore 2.0: Sir J.C. Bose diode detector received Marconi's first transatlanticwireless signal of December 1901 (the “Italian Navy Coherer”Scandal Revisited)”. Ieeexplore.ieee.org. . 2009閲覧.
  3. Roy, Amit (2008年12月8日). “Cambridge 'pioneer' honour for Bose”. The Telegraph (コルカタ: Telegraphindia.com). http://www.telegraphindia.com/1081208/jsp/nation/story_10221833.jsp . 2010閲覧. 
  4. "Important New Experiments With Short Waves" Popular Radio May 1925 E.R. Crowe & Company Inc. p482
  5. ヘレン・C・カリファー "善意の人マルコーニ" 『カトリックダイジェスト日本版』 1948年7月号 小峰書店 p18
  6. 6.0 6.1 "Pope to Open New Radio Unit Today: World's First Ultra Short Wave Plant Made by Marconi" The Washington Post Feb.11,1933 p14
  7. "MARCONI HARNESSES ULTRA-SHORT WAVES: ‘Bending’ of Currents Surmounts Earth’s Curvature, Formerly Bar to Such Transmission." The New York Times Aug.14,1933 p1
  8. Robert McHenry, "Guglielmo Marconi," in Encyclopaedia Britannica, 1993.
  9. Williams, H. S., & Williams, E. H. (1910). Every-day science. New York: Goodhue Company. Page 54.
  10. マルコーニは1895年当時使用した装置をノーベル賞講演で詳細に説明している。詳しくは: Marconi, "Wireless Telegraphic Communication: Nobel Lecture, 11 December 1909." Nobel Lectures. Physics 1901-1921. Amsterdam: Elsevier Publishing Company, 1967: 196-222. Page 198.
  11. この事実は多くの者が知っていた。1893年のテスラの有名な講演 "On Light and Other High Frequency Phenomena" でも触れられている。マルコーニは後のノーベル賞講演でそのことを認めている。詳しくは: Marconi, "Wireless Telegraphic Communication: Nobel Lecture, 11 December 1909." Nobel Lectures. Physics 1901-1921. Amsterdam: Elsevier Publishing Company, 1967: 196-222. Page 206.
  12. 12.0 12.1 マルコーニが1895年末に達成した距離は約1マイル(1.6km)であり、テスラが同年前半に達成した50マイルに比べればずっと短距離だった。詳しくは "Nikola Tesla On His Work with Alternating Currents and Their Application to Wireless Telegraphy, Telephony, and Transmission of Power", Leland I. Anderson, Twenty First Century Books, 2002, pp. 26-27.
  13. Alfred Thomas Story, The Story of Wireless Telegraphy. 1904. Page 58.
  14. John J. O'Neill, Prodigal Genius:The Life of Nikola Tesla. Ives Washburn, New York, 1944
  15. ”Record of the Development of Wireless Telegraphy” The Year Book of Wireless Telegraphy and Telephony 1922 Marconi Press Agency Limited p27
  16. テンプレート:Openplaque
  17. Flickr Photo”. . 2010閲覧.
  18. The British Association for the Advancement of Science
  19. "The British Association" The Times Sep.23,1896 8ページ
  20. 冨澤一郎 "日本海海戦:その情報通信からの視点1 - 海戦をめぐる情報通信環境とA.S.ポポフ -" 『太平洋学会誌JPS 2005年5月』通巻第94号(第28巻第1号) 太平洋学会 24ページ
  21. "Morse Relay Signaling by Means of Hertzian Waves" The Electrical Engineer Oct.14,1896 The Electrical Engineer[New York] 379ページ
  22. "Transmitting Signals with Hertzian Waves (Without Wires)" The Electrical World Oct.17,1896 The W.J. Johnston Company[New York] 466ページ
  23. "Electrical Notes" Scientific American SupplementOct.31,1896 Munn and Co.[New York] 17376ページ
  24. "Telegraphing by Means of Hertzian Rays" Electricity Oct.21,1896 Electricity Newspaper Company[New York] 233ページ
  25. Helgesen, Henry N.. “Wireless Goes to Sea: Marconi's Radio and SS Ponce”. Sea History (Spring 2008): 122. 
  26. United States Naval Institute, Proceedings of the United States Naval Institute. The Institute, 1899. Page 857.
  27. W.R. Maclaurin(1949) Invention & Innovation in the Radio Industry The Macmillan Co. (山崎俊雄・大河内正陽(訳) 『電子工業史:無線の発明と技術革新』 1962 白揚社 68ページ)
  28. "MESSAGE FROM A VESSEL : Experiments Made by the Kaiser Wilhelm der Grosse : The Signals Carry 50 Miles" The New York Times Mar.8,1900 1ページ
  29. "Marconi Test Successful" The New York times Apr.12,1900 9ページ
  30. Marconi International Marine Communication Company
  31. G. Marconi "Syntonic Wireless Telegraphy" Journal of the Society of Arts May 17,1901 No.2530 Vol.XLIX 306-315ページ
  32. Guglielmo Marconi "Radio Communications" Journal of the Royal Society of Arts, Vol.73 - No.3762 Dec.26,1924 123ページ
  33. 米国海軍省編 Wireless Telegraph Stations of the World 1912年1月1日版
  34. John S. Belrose (1995年). “Fessenden and Marconi: Their Differing Technologies and Transatlantic Experiments During the First Decade of this Century”. Ieee.ca. . 2009閲覧.
  35. Margaret Cheney, Tesla, Man Out of Time, New Jersey : Prentice-Hall, Inc., 1981
  36. Margaret Cheney and Robert Uth, Tesla: Master of Lightning, Barnes & Noble, 1999.
  37. “The Clifden Station of the Marconi Wireless Telegraph System”. Scientific American. (23 November 1907). 
  38. 38.0 38.1 W.J. Baker A History of the Marconi Company:1874-1965 2013 Routledge 170-171ページ
  39. "Warship for Marconi Test" New York Times Mar.2,1914
  40. "Marconi Telephony a Success" New York Tribune Mar.14,1914 1ページ
  41. 波長:3,800m、電力:2.5KW、呼出符号:YXQ
  42. R.N. Vyvyan Over Thirty Years 1933 George Routledge & Sons 202ページ
  43. Marc Raboy Marconi: The Man Who Networked the World 2016 Oxford University Press
  44. C. S. Franklin "Short-Wave Directional Wireless Telegraphy" The Wireless World and radio review May 20,1922 The official organ of the wireless society of London 221ページ
  45. 波長:2,500m、電力:6kW、呼出符号:MZX
  46. 関口定伸 『ラヂオのお話:少年科学世界第3編』 1925 廣文堂 165-166ページ
  47. 伊藤賢治 『無線の知識』 1924 無線実験社 101-102ページ
  48. H.Gernsback "Radio Concerts" Radio News Sep.1920 Experimenter Publishing Co. 133ページ
  49. "Chelmsford Telephony Tests" Wireless World Sep.4,1920 418ページ
  50. "Result of Radiophone Experiment at Signal Hill Station" Wireless Age Sep.1920 8ページ
  51. "Shorter Waves" The Times May13,1921 10ページ
  52. 長距離無線電話成功:五十分間の通話 東京朝日新聞 1921年5月17日 朝刊6ページ
  53. 日本放送協会編 『日本放送史』(1951年版) 日本放送協会 16-17ページ
  54. Marconi Scientific Instrument Company, Ltd.
  55. "Transmission of Calibration Waves and Telephony for Amateurs" Wireless World Feb.18,1922 729ページ
  56. Sean Streets A Concise History of British Radio:1922-2002 Kelly Publications 2002 21-22ページ
  57. 田村正四郎 『ラヂオの知識とラヂオ商になる人の手引』 1924 実業之日本社 25-27ページ
  58. Guglielmo Marconi "Radio Communications" Journal of the Royal Society of Arts Vol.73 - No.3762 Dec.26,1924 123ページ
  59. Giancarlo Morolli, Giuliano Nanni “The Experiments with the Italian Navy” Guglielmo Marconi, Space Explorer 2004 Advanced Broadcasting Electronics 137ページ
  60. Marc Raboy Marconi: The Man Who Networked the World 2016 Oxford University Press 412ページ
  61. 61.0 61.1 C. S. Franklin "Short-Wave Directional Wireless Telegraphy" The Wireless World and radio review May 20,1922 The official organ of the wireless society of London p220
  62. 岡忠男  『英国を中心に観たる電気通信発達史』 1941 通信調査会 p351
  63. G. Marconi "Wireless Telegraphy" Journal of the Institution of Electrical Engineers [No.28] 1899 282-283ページ
  64. 64.0 64.1 C. S. Franklin "Short-Wave Directional Wireless Telegraphy" Journal of the Institution of Electrical Engineers Vol.60-No.312 Aug.1922 933-934ページ
  65. Radio News 1922年11月号の表紙にもなった。
  66. Hugh G. J. Aitken the Continueous Wave: Technology and American Radio 1900-1932 Princeton, 1985, p.512; Vice Admiral Arthur R. Hezlet The Electron and Sea Power London, 1975, pp.157-159; W. J. Baker A History of the Marconi Company London, 1970, pp.217-219; W. P. Jolly Marconi New York, 1972, pp.239-245.
  67. "WIRELESS TELEPHONY FROM ENGLAND TO AUSTRALIA" The Brisbane Courier June 4,1924 p7
  68. "ENGLAND TO SYDNEY. HUMAN VOICE TRANSMITTED. BY BEAM SYSTEM." The Daily News June 4,1924 p8
  69. Hugh Baity-King Girdle Round the Earth: The Story of Cable and Wireless and its Predecessors to Mark the Group's Jubilee 1929-1979 London, 1979, pp.192-193; Baker pp.219-222; Hezlet p.157.
  70. Guglielmo Marconi "Results Obtained Over Very Long Distances by Short-wave Directional Wireless Telegraphy, More Generally Referred to as the Beam System" Journal of the Royal Society of Arts vol.72 July 25.1925 pp607-621
  71. Marc Raboy Marconi: The Man Who Networked the World Oxford University Press 2016 p485
  72. 72.0 72.1 Paul Schubert The Electric Word: The Rise of Radio New York, 1928, p.265. p.273; Krishnalal J. Shridharani Story of the Indian Telegraphs: A Century of Progress New Delhi, 1956, pp.126-127; Leslie B. Tribolet The International Aspects of Electrical Communications in the Pacific Area Baltimore, 1929, p.216; Baker pp.201-202. p.224.
  73. 法王全世界へ放送 『東京朝日新聞』 1931年2月12日 朝刊p7
  74. Marc Raboy (2016), Marconi: The Man Who Networked the World, Oxford University Press. テンプレート:Isbn
  75. 中西輝政「子供の政治が国を滅ぼす」、『文藝春秋』第87巻第6号、文藝春秋2009年5月、. 2009閲覧.、117頁。
  76. ただし遭難信号の送信命令権は船長にある
  77. 77.0 77.1 John P. Eaton & Charles A. Haas Titanic - Triumph and Tragedy, A Chronicle in Words and Pictures. 1994
  78. Herron, Edward A. (1969). Miracle of the Air Waves: A History of Radio. Messner. 
  79. Court of Inquiry Loss of the S.S. Titanic 1912
  80. Gianni Isola, "Italian radio: History and Historiography"; Special Issue: Italian Media Since World War II. Historical Journal of Film, Radio and Television, August, 1995
  81. U.S. Supreme Court, "Marconi Wireless Telegraph co. of America v. United States". 320 U.S. 1. Nos. 369, 373. Argued 9?12 April 1943. Decided 21 June 1943.
  82. 82.0 82.1 Wireless Telegraph co. of America v. United States.
  83. U.S. Supreme Court, "Marconi Wireless Telegraph co. of America v. United States". 320 U.S. 1. Nos. 369, 373. Argued 9?12 April 1943. Decided 21 June 1943.
  84. "The Work of Jagdish Chandra Bose: 100 years of mm-wave research". tuc.nrao.edu.
  85. "Jagadish Chandra Bose", ieeeghn.org.
  86. Bondyopadhyay, P.K. (January 1998). “Sir J. C. Bose's Diode Detector Received Marconi's First Transatlantic Wireless Signal Of December 1901 (The "Italian Navy Coherer" Scandal Revisited)”. Proceedings of the IEEE 86 (1): 259–285. doi:10.1109/5.658778. http://ieeexplore.ieee.org/Xplore/login.jsp?url=/iel3/5/14340/00658778.pdf?arnumber=658778 . 2007閲覧.. 
  87. George P. Oslin, The Story of Telecommunications. 1992. 507 pages. Page 294.
  88. Gerald Sussman, Communication, Technology, and Politics in the Information Age. 1997. Page 90.
  89. Physicsworld.com, "Guglielmo Marconi: radio star", 2001
  90. FundingUniverse, "Marconi plc History", saying, "The British company Marconi plc had been known as The General Electric Co. Ltd. (GEC) for more than 100 years before changing its name and focus in 1999.", "In 1968 GEC merged with English Electric, which included Elliott Bros., The Marconi Co., Ruston and Hornsby, Stephenson, Hawthorn & Vulcan Foundry, Willans and Robinson, and Dick Kerr. These companies were primarily electronics and electrical equipment manufacturers.", "Following an announcement in early 1999 of a proposed merger of GEC's defense electronics business, Marconi Electronic Systems, with British Aerospace, GEC sold Marconi Electronic Systems to British Aerospace for $12 billion, mostly in stock.", Source: International Directory of Company Histories, Vol. 33. St. James Press, 2000.
  91. Imperial Wireless and Cable Conference, 1928, Chairman Sir John Gilmour, Report, in Parliamentary Papers 1928 Vol. 10. Cmd. 3163.
  92. 92.0 92.1 CMC Electronics' Profile”. CMC Electronics Inc.. . 2007閲覧.

参考文献

親族および会社の出版物
  • Bussey, Gordon, Marconi's Atlantic Leap, Marconi Communications, 2000. ISBN 0-95389-670-6
  • Marconi, Degna, My Father, Marconi, James Lorimer & Co, 1982. ISBN 0-919511-14-7 - (Italian version): Marconi, mio padre, Di Renzo Editore, 2008, ISBN 8883232062
    • デーニャ・マルコーニ・パレーシェ『父マルコーニ』御舩佳子訳、東京電機大学出版局、2007 ISBN 978-4-501-62190-2 - マルコーニの長女による伝記。
  • Marconi's Wireless Telegraph Company, Year book of wireless telegraphy and telephony, London: Published for the Marconi Press Agency Ltd., by the St. Catherine Press / Wireless Press. LCCN 14017875 sn 86035439
その他
  • Ahern, Steve (ed), Making Radio (2nd Edition) Allen & Unwin, Sydney, 2006.
  • Aitken, Hugh G. J., Syntony and Spark: The Origins of Radio, New York: John Wiley & Sons, 1976. ISBN 0-471-01816-3
  • Aitken, Hugh G. J., The Continuous Wave: Technology and American Radio, 1900-1932, Princeton, New Jersey: Princeton University Press, 1985. ISBN 0-691-08376-2.
  • Anderson, Leland I., Priority in the Invention of Radio — Tesla vs. Marconi
  • Baker, W. J., A History of the Marconi Company, 1970.
  • Brodsky, Ira. "The History of Wireless: How Creative Minds Produced Technology for the Masses" (Telescope Books, 2008)
  • Cheney, Margaret, "Tesla: Man Out Of Time" Laurel Publishing, 1981. Chapter 7, esp pp 69, re: published lectures of Tesla in 1893, copied by Marconi.
  • Clark, Paddy, "Marconi's Irish Connections Recalled," published in ";100 Years of Radio," IEE Conference Publication 411, 1995.
  • Coe, Douglas and Kreigh Collins (ills), Marconi, pioneer of radio, New York, J. Messner, Inc., 1943. LCCN 43010048
  • Garratt, G. R. M., The early history of radio: from Faraday to Marconi, London, Institution of Electrical Engineers in association with the Science Museum, History of technology series, 1994. ISBN 0-85296-845-0 LCCN gb 94011611
  • Geddes, Keith, Guglielmo Marconi, 1874-1937, London : H.M.S.O., A Science Museum booklet, 1974. ISBN 0-11-290198-0 LCCN 75329825 (ed. Obtainable in the U.S.A. from Pendragon House Inc., Palo Alto, California.)
  • Hancock, Harry Edgar, Wireless at sea; the first fifty years: A history of the progress and development of marine wireless communications written to commemorate the jubilee of the Marconi International Marine Communication Company, Limited, Chelmsford, Eng., Marconi International Marine Communication Co., 1950. LCCN 51040529 /L
  • Hong, Sungook, Wireless: From Marconi’s Black-Box to the Audio, Cambridge, Mass.: MIT Press, 2001. ISBN 0-262-08298-5.
  • Janniello, Maria Grace, Monteleone, Franco and Paoloni, Giovanni (eds) (1996), One hundred years of radio: From Marconi to the future of the telecommunications. Catalogue of the extension, Venice: Marsilio.
  • Jolly, W. P., Marconi, 1972.
  • Kinzie, P. A., Early Wireless: Marconi was not Alone.
  • Larson, Erik, Thunderstruck, New York: Crown Publishers, 2006. ISBN 1-4000-8066-5 - マルコーニとホーリー・ハーヴェイ・クリッペンの生涯。クリッペンは殺人を犯して大西洋を横断して逃亡したが、新発明の船舶無線によって逮捕された。
  • Masini, Giancarlo, Guglielmo Marconi, Turin: Turinese typographical-publishing union, 1975. LCCN 77472455 (ed. Contains 32 tables outside of the text)
  • Mason, H. B. (1908). Encyclopaedia of ships and shipping, Wireless Telegraphy. London: Shipping Encyclopaedia. 1908. 707 pages.
  • Page, Walter Hines, and Arthur Wilson Page, The World's Work. Doubleday, Page & Company, 1908. Page 9625
  • Perry, Lawrence (March 1902). “Commercial Wireless Telegraphy”. The World's Work: A History of Our Time V: 3194–3201. 
  • Sherrow, Victoria. Guglielmo Marconi : Inventor of Radio and Wireless Communication, USA:Enslow Publishers, 2004 ISBN 978-0-7660-2280-5
  • Stone, Ellery W., Elements of Radiotelegraphy
  • Weightman, Gavin, Signor Marconi's magic box: the most remarkable invention of the 19th century & the amateur inventor whose genius sparked a revolution, 1st Da Capo Press ed., Cambridge, MA : Da Capo Press, 2003. ISBN 0-306-81275-4
  • Winkler, Jonathan Reed. Nexus: Strategic Communications and American Security in World War I. (Cambridge, MA: Harvard University Press, 2008). 第一次世界大戦時のマルコーニの会社とアメリカ合衆国の競合関係について

関連項目

外部リンク

テスラとの発明の先取権争い

テンプレート:ノーベル物理学賞受賞者 (1901年-1925年)