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{{複数の問題|ソートキー=人2007年没
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| 出典の明記 = 2010年5月
 
| 雑多な内容の箇条書き = 2009年8月
 
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{{Infobox プロレスラー
 
{{Infobox プロレスラー
 
| 名前 = カール・ゴッチ
 
| 名前 = カール・ゴッチ
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| 引退 = [[1982年]]
 
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'''カール・ゴッチ'''(''Karl Gotch''、本名:'''Krel Alfons Ceclie Istaz カレル・アルフォンス・セシル・イスタス又はイスターツ''' / ''Karl Istaz''、[[1924年]][[8月3日]]<!--1922年、1928年、あるいは10月21日という説などもあるが、暫定的にこの日付を記す--> - [[2007年]][[7月28日]])は、[[プロレスラー]]および[[プロレス]]のトレーナー。東京都墨田区にある回向院に墓碑があり、本名はカール・イスターツと刻まれている。<ref>G SPIRITS Vol.46による</ref>
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'''カール・ゴッチ'''(''Karl Gotch''、本名:'''Krel Alfons Ceclie Istaz カレル・アルフォンス・セシル・イスタス又はイスターツ''' / ''Karl Istaz''、[[1924年]][[8月3日]]<!--1922年、1928年、あるいは10月21日という説などもあるが、暫定的にこの日付を記す--> - [[2007年]][[7月28日]]
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[[プロレスラー]]および[[プロレス]]のトレーナー。東京都墨田区にある回向院に墓碑があり、本名はカール・イスターツと刻まれている。<ref>G SPIRITS Vol.46による</ref>
  
 
1961年までは、'''カール・クラウザー'''(''Karl Krauser'')の[[リングネーム]]を名乗っていた。
 
1961年までは、'''カール・クラウザー'''(''Karl Krauser'')の[[リングネーム]]を名乗っていた。
 
プロフィール上は[[ドイツ]]・[[ハンブルク]]出身とされているが、実際は[[ベルギー]]・[[アントワープ]]出身と言われている<ref name="Gotch"/>。[[#来歴についての疑問点]]も参照。
 
  
 
得意技は[[ジャーマン・スープレックス]]。
 
得意技は[[ジャーマン・スープレックス]]。
 
== 来歴 ==
 
{{出典の明記|section=1|date=2010年5月|ソートキー=人2007年没}}
 
[[アマチュアレスリング|レスリング]]では、グレコローマンおよびフリースタイルレスリングのベルギー王座を7回ずつ獲得<ref>[http://www.scientificwrestling.com/ Scientific Wrestling]参照。</ref>。[[ロンドンオリンピック (1948年)|ロンドンオリンピック]]([[1948年]])のグレコローマンおよびフリースタイルレスリングにベルギー代表として出場<ref>[http://www.woaolympians.com/ World Olympians Association]に1924年8月3日生まれのベルギー代表選手として"Karel Istaz"の名が記載されている。[http://olympic-museum.de/ Olympic Games Museum]のOfficial Reportでは、"Istaz, K."はグレコローマンおよびフリースタイルレスリングのライトヘビー級に出場している。また、「[[ゴング格闘技]]」([[日本スポーツ出版社]])2007年1月号のインタビューにおいて、ゴッチも同大会への出場を認めている。</ref>。1950年、"Karel Istaz" のリングネームでプロレスラーとしてデビュー、[[ヨーロッパ]]各地のトーナメントへ参戦。同年、[[ウィーン]]でのトーナメントでハープ・ガーウィッグ(後の[[キラー・カール・コックス]])に敗れ準優勝{{要出典|date=2009年2月}}。1951年より"Snake Pit"(蛇の穴)の通称でも知られる[[イギリス]]の[[ビリー・ライレージム]]で[[ビリー・ジョイス]]についてランカシャーレスリング([[キャッチ・アズ・キャッチ・キャン]])を練習する。
 
 
[[1959年]]に[[カナダ]]へ進出、[[モントリオール]]での興行へ参戦。[[1960年]]に[[アメリカ合衆国|アメリカ]]へ進出、プロフィール上はドイツ人となり、リングネームとしてカール・クラウザーを名乗る。[[オハイオ州]]のMWA(Midwest Wrestling Association)へ参戦すると、1961年にNWAイースタンステーツヘビー級王座を獲得。同年、リングネームを[[フランク・ゴッチ]]にあやかりカール・ゴッチへ改める<ref>この改名はMWAのプロモーターであった[[アル・ハフト]]の意向によるものと言われている(ハフトはかつてヤング・ゴッチというリングネームのプロレスラーであった)。また、試合をする地方によって、「クラウザー」と「ゴッチ」を使い分けていた時期もある。</ref>。1962年8月31日オハイオ州[[コロンバス (オハイオ州)|コロンバス]]において、友人である[[ビル・ミラー (プロレスラー)|ビル・ミラー]]と共に、[[歴代NWA世界ヘビー級王者|NWA世界ヘビー級王者]][[バディ・ロジャース]]と控え室でトラブルを起こす。同年、[[ドン・レオ・ジョナサン]]を破り、オハイオ版AWA(American Wrestling Alliance)世界ヘビー級王座を獲得。1963年9月から1964年11月にかけて、[[ルー・テーズ]]が保持していた[[NWA世界ヘビー級王座]]に9回挑戦するが、王座は獲得できず。1967年[[カリフォルニア州]][[ロサンゼルス]]の[[ワールド・レスリング・アソシエーション (ロサンゼルス)|WWA]]に参戦すると、同年 [[マイク・デビアス|"アイアン" マイク・デビアス]]をパートナーとしてWWA世界タッグ王座を獲得。同年6月30日、<!--カリフォルニア州ロサンゼルスにおいて-->[[大木金太郎]]が保持していたWWA世界ヘビー級王座にデビアスが挑戦した試合へ乱入し、デビアスの王座獲得を助けたと言われている。1968年アメリカ[[市民|市民権]]を取得。1971年[[WWE|WWWF]](後のWWE)へ参戦すると、[[レネ・グレイ]]をパートナーとして[[WWE・世界タッグチーム王座|WWWF世界タッグ王座]]を獲得。しかし、[[ルー・テーズ]]から「私をもっとも苦しめた挑戦者」と評されながらもとうとう主要王座は獲得できず、「[[無冠の帝王]]」の異名を持つ。
 
 
日本においては、[[1961年]]4月に[[日本プロレス]]の第3回ワールドリーグに出場するために、'''カール・クラウザー'''(''Karl Krauser'')のリングネームで初来日。[[吉村道明]]を相手にジャーマン・スープレックス・ホールドを日本初公開する(試合は[[引き分け]])。第3回ワールドリーグ終了後の国際試合シリーズにも引き続き参戦し、1961年5月26日に[[福井市体育館]]で[[力道山]]とシングルマッチ(60分3本勝負)で対戦し、1-1で引き分ける<ref>『プロレスPLAYBACK』東京スポーツ 2017年5月23日(22日発行)付6面</ref><ref name="gotchdesune">『日本プロレス史の目撃者が語る真相! 新間寿の我、未だ戦場に在り!<獅子の巻>』(ダイアプレス、2016年)p20-21</ref>。この福井での試合が力道山とゴッチがただ一度だけ一騎打ちを行った試合となった。なお、来日中、ビル・ミラー([[覆面レスラー]]のミスター・Xとして来日)と共に控え室で[[グレート・アントニオ]]へ制裁を加えたという噂がある。[[1966年]]7月に再来日、[[ジャイアント馬場]]の[[インターナショナル・ヘビー級王座|インターナショナル・ヘビー級選手権]]に挑戦が決まっていたが、怪我で断念した為、馬場とのタイトル戦は実現しなかった。
 
 
[[1968年]]1月に日本へ移り住み、[[日本プロレス]]のコーチに就任。「'''ゴッチ教室'''」を開き、[[アントニオ猪木]]に[[卍固め]]、ジャーマン・スープレックスを伝授。さらに[[山本小鉄]]、[[星野勘太郎]]といった当時の若手・中堅選手を厳しく鍛えた。ヨーロッパ仕込みのテクニックの高さから「'''プロレスの[[神|神様]]'''」とも称されるという。
 
 
その後は[[ハワイ州|ハワイ]]で清掃関係の企業をしていた<ref name="gotchdesune"/>が、1971年3月[[国際プロレス]]の[[吉原功]]社長の招きで、第3回[[IWAワールド・シリーズ]]に参加。[[ビル・ロビンソン]]と5回対戦し、全試合とも時間切れで引き分ける。モンスター・ロシモフ(後の[[アンドレ・ザ・ジャイアント]])とも対戦し、ジャーマン・スープレックス・ホールドを決めるが、[[レフェリー (プロレス)|レフェリー]]が[[リング (格闘技)|リング]]外でダウンしていたためフォールは認められず、ロシモフの逆襲に不意を突かれ敗れる。国際プロレスに所属していた[[アニマル浜口]]らを指導する。
 
 
1972年1月の[[新日本プロレス]]設立に選手兼ブッカーとして助力。1972年3月から1974年8月にかけて、[[アントニオ猪木]]と5回対戦し、3勝2敗。1973年10月[[ルー・テーズ]]をパートナーとして[[アントニオ猪木]]&[[坂口征二]]組と3本勝負で対戦し、1-2で敗れる。その後、[[フロリダ州]][[タンパ|タンパ市]]の「ゴッチ道場」において、[[藤波辰爾|藤波辰巳]]、[[木戸修]]、[[藤原喜明]]、[[佐山聡]]、[[前田日明]]らプロレスラーを数多く育成する。<!--因みに前田はゴッチのことを自著で「哲学者だと思った」と記し、こよなく尊敬、決定的とも云える程の影響をゴッチから受けている。-->1982年1月1日[[後楽園ホール]]において[[藤原喜明]]と[[エキシビション]]・マッチで対戦、同年1月8日[[後楽園ホール]]において[[木戸修]]と対戦したエキシビション・マッチが、プロレスラーとして最後の試合である。
 
 
2006年7月より[[藤波辰爾]]、[[西村修]]が設立した[[ドラディション|無我ワールド・プロレスリング]]の名誉顧問に就任。晩年はタンパの自宅に西村が度々訪ね、既に夫人を亡くしていたゴッチの世話を行っていた。2人で夜な夜なワインを酌み交わしながら、プロレス談義に花を咲かせていたという。前田日明はその話を聞き、後輩である西村に恩義を感じている。
 
 
[[2007年]][[7月28日]]21時45分に、フロリダ州タンパ市にて82歳で死去した。2007年7月30日発行の『[[東京スポーツ]]』紙の記事では「[[大動脈瘤]]破裂」が死因だったとしている。
 
 
== 来歴についての疑問点 ==
 
{{出典の明記|section=1|date=2008年6月|ソートキー=人2007年没}}
 
* ゴッチの生年月日についてはいくつかの説が伝えられていたが、2000年代になってからは「1924年8月3日生まれ」でほぼ統一されている。
 
*「ドイツ・ハンブルク出身」とされているが、「ベルギーの[[アントウェルペン]]または[[ブリュッセル]]の生まれで、後にハンブルクへ移住した」とも言われている。また、「父は[[ハンガリー人]]([[マジャル人]])、母は[[ドイツ人]]」「"Gotch"というリングネームは母方の姓に由来する」とも「[[オランダ]]系でドイツ人の血は引いていない」とも言われている。このため、「ゴッチは(かつて[[第二次世界大戦]]においてアメリカと戦った「ヒール」としての)[[ギミック (プロレス)|ギミック]]としてドイツ人を演じているだけではないか」という意見もあるが、一方で、「ゴッチは[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]について肯定的な発言を本気でしている」とも言われている。
 
* ナチスについてはG SPIRITS Vol.46による実娘ジェニン・ソラナカのインタビューによると、ゴッチは父親のエドワードと1943年と1944年と2回にわたって[[強制収容所]]に収監されている。父親のエドワードがナチス反対派で、ビラやチラシを配っていたという。何度も逃げようとしたが、その都度捕まり酷い罰を与えられたといい、ろくに食事も与えられず、とにかくいつもお腹をすかせていたという。収容所では[[鉄道]]の[[レール]]を敷く仕事をやらされていたという。そして本誌では、ドイツ人としたのは、ハンガリーやベルギー、オランダといった国ではアメリカ人らには馴染みが無かったからだとしている他、本名はKrel Alfons Ceclie Istaz カレル・アルフォンス・セシル・イスタスで、兄弟はいない一人息子、夫人のエラは水泳の選手だったといい、ふだんの言語はフラマン語を使用していたという。ゴッチの父エドワードがハンガリー系で、ゴッチの母ヨハナ、旧姓ファン・ヘイステレンがオランダ系。母方エラのデルース家は生粋のベルキー人とのこと。ゴッチが結婚したのは1949年9月で、翌年3月に娘ジェニンが生まれている。
 
* ザ・ベストマガジン9月号増刊平成5年9月発行プロレス王国の本人のインタビューによると、生まれたのは確かにアントワープであるが両親がドイツ国籍で幼少期にハンブルグに移り住み、祖父がハンガリー人で1/4ハンガリーの血が流れているという。父親が商船士、9歳の時に近所のジムで、元グレコローマンのオリンピック王者であるフリッツ・ヤンセンの門下生となったという。13歳の時に鉄製の船具を作る鍛治屋で働き、並行してトレーニングに励んでいた。ボクシングを1年間練習しウエイトリフティングのジムにも足を運んでいたという。なお、リングネームをゴッチに改名したのは1970年で,母方のファミリーネームからとしている。同雑誌の記述による1945年ナショナル王者をへて1952年に[[ヘルシンキオリンピック]]出場といった経緯自体実に曖昧で,ドイツ国籍であったがベルギー代表として出場したとしている。
 
* ゴッチのアメリカ進出以前の経歴については、出典により異なった情報が伝えられている点が多い。例えば、以下のような経歴が紹介されたことがある。
 
** [[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]統治下のドイツにおいて、9歳よりレスリングを始める。
 
** 16歳でアマチュアレスリング全ドイツ・ヘビー級王座を獲得<ref>[http://www.njpw.co.jp/prof/004.html 新日本プロレスオフィシャルWEBサイト]の選手名鑑参照。</ref>。
 
** [[ヘルシンキオリンピック]]([[1952年]])のグレコローマンスタイルレスリングに出場、銀メダルを獲得<ref>[http://olympic-museum.de/ Olympic Games Museum]の同大会Official Reportに"Istaz"の名は記載されていない。</ref>。
 
** 1954年より2年間、ビリー・ライレージムでランカシャーレスリングを練習する。
 
** 1956年ヨーロッパでプロレスデビュー。
 
* ゴッチが初来日の時に「クライザー」と名乗っていたのは、元々来日する予定であったクライザーというプロレスラーが来日できなくなり、代役として来日したためであるという「ゴッチ代役説」が伝えられている。この説では、ゴッチが「クラウザー」という類似したリングネームを使っていた事実はなかった(もしくは単なる偶然)とされる{{refnest|group="注釈"|"Wrestlingdate.com"と言うサイトに掲載されているレコードによれば、日本プロレスに来日する以前に既に「カール・クラウザー」や「カロル・クラウザー」を名乗っている。また1953年にドイツで既に「カール・ゴッチ」を名乗っている。<ref>[http://wrestlingdata.com/index.php?befehl=bios&wrestler=1215&bild=1&details=7&kampfland=6&jahr=1953]</ref>2017年8月17日閲覧}}。また、代役としてゴッチを推薦したのは、ビル・ミラーとも言われている。この説とは別に、「クライザー」というプロレスラーが来日するはずが、なんらかの手違いにより「クラウザー」ことゴッチが来日してしまったという「ゴッチ人違い説」も伝えられている。元々来日する予定であったプロレスラーは、[[カロル・カルミコフ]]のリングネームも使っていたカロル・クラウザー(Karol Krauser)とも言われている。
 
* [[1962年]]8月31日に[[オハイオ州]][[コロンバス (オハイオ州)|コロンバス]]のフェアグラウンズ・コロシアムにおいて、[[ジョニー・バレンド]]と対戦予定であったNWA世界ヘビー級王者[[バディ・ロジャース]]が「控え室でカール・ゴッチと[[ビル・ミラー (プロレスラー)|ビル・ミラー]]に襲われて負傷した」と訴え、その日の試合を欠場した(公演自体は行われ、ロジャースの代役として[[ジャイアント馬場]]がバレンドと対戦したが、入場料の一部は払い戻しとなった)。ゴッチとミラーは警察署に出頭して逮捕され、保釈金を支払って釈放された。ロジャースが「急に閉じられたドアに手を挟まれて負傷した」と主張したのに対し、ゴッチとミラーは「平手で一発ずつロジャースの顔を殴っただけで、負傷させるつもりはなかった」と反論した。ゴッチとミラーは「ロジャースには次にオハイオを訪れた時にわたしたちの挑戦を受けることを要求したのに、負傷させては意味がない」「わたしたちがロジャースを負傷させるつもりであれば、手を負傷した程度で終わるはずがない」とロジャースを負傷させたことを否定したが、ロジャースは複数のプロモーター、プロレスラーから恨まれていたため<ref>ロジャースの巡業先に中傷ビラが撒かれる事件があったり、ロジャースが防衛戦を行う地域が偏っているとの不満を持たれていた。また、[[ルー・テーズ]]、[[フレッド・ブラッシー]]も自伝においてロジャースの性格を批判している。</ref>、何者かがゴッチとミラーに依頼してロジャースを負傷させたという憶測が絶えなかった。なお、ロジャースはしばらくして試合に復帰したが、1963年1月24日にルー・テーズに敗れて[[NWA世界ヘビー級王座]]を奪われた。一方、ゴッチはこの事件の2週間後にオハイオ版AWA世界ヘビー級王座を獲得すると、その後はテーズと互いの王座を懸けて対戦するなど、アメリカにおける全盛期を迎えた。この逸話はかつては[[梶原一騎]]などによって「ロジャースは人気ばかりで実力がなかったからゴッチに控室でKOされた男として最低の恥をかかされた(『[[プロレススーパースター列伝]]』での[[リック・フレアー]]の台詞)」などと誇張して伝えられ、ロジャースが未来日だったこともあって日本でのある時期のロジャースの印象を一部で低下させた。
 
 
== プロレスラーとして ==
 
{{出典の明記|section=1|date=2010年4月|ソートキー=人2007年没}}
 
* ゴッチはプロレスラーとして大きな成功を収めておらず、アメリカでの知名度は低い。しかし、レスリングの技術とトレーニングに対する拘りから、日本では尊敬を集めている。[[インド]]の[[クシュティ]]、日本の[[柔道]]、[[ロシア]]の[[サンボ (格闘技)|サンボ]]を含む世界中のあらゆるレスリングに精通しており、「朝目覚めてから夜眠るまで常に素手でいかに効率良く人を殺せるかを考え続けている」と言われている。
 
** ゴッチはレスリングを最も古く、最も難しい[[スポーツ]]と考えており、[[キャッチ・アズ・キャッチ・キャン]](Catch As Catch Can, CACC)をレスリングの中で最強のスタイルとしている。打撃を含む[[総合格闘技]]に関しては一貫して否定的である。
 
** ゴッチの行うトレーニング方法はインドに由来するものが多い。[[レジスタンストレーニング]]としては[[フリーウエイト]]を使うことは好まず、自重によるトレーニングを多用している。マクチグが提唱した理論「マッスルコントロール」に傾倒しており著書『カール・ゴッチの肉体鍛錬哲学』では「人間は前に32個、後ろに28個の筋肉を持っている。彼は負荷器具を一切 使わずに、ある一つの動作に必要な筋肉だけに意識を集中させ、それを緊張させることで身体をつくったんだ」と述べている。
 
** 柔道出身のプロレスラーであった[[木村政彦]]とゴッチは友人であった。ゴッチは[[グレイシー柔術]]については「自分も知っている昔の柔道以上のものではない」と語っており、あまり評価していない。
 
** ゴッチは[[宮本武蔵]]を尊敬しており、[[五輪書]]を愛読している。武蔵の心境に近づくために、プロレスラーとして試合をすることがなくなってもトレーニングを続けていた。
 
** 左手の[[小指]]の大部分を欠損している。この欠損の原因は、レスリングとは関係ない事故とされている。本人の弁では船員時代折れた船の[[煙突]]が友人を下敷にしそうになったのを庇って失ったとのことである。
 
* ゴッチのファイトスタイルは、レスリング技術を主体とする「正統派」で、派手さが無く、興行が盛況に至らないという理由から、一部プロモーターには煙たがられていた。見る人間によって「独り善がりでプロレスを理解していない人間」か「妥協無き真のプロレスラーであり[[ガチンコ|シューター]]」という風に、評価が真っ二つに分かれるプロレスラーである。プロレスラー間でも、日米問わず賛否が分かれており、ルー・テーズやビル・ミラーから高い評価をされている一方、新日本プロレスの道場での稽古で再会した[[ザ・グレート・カブキ]]はゴッチが関節を極める際に指を眼に入れるなどの妥協なき「技術」を駆使して来るために「ずるい」と語り、[[ジャイアント馬場]]も「コーチとしての腕は認めても良いが、レスラーとしては駄目」と発言している。新間寿は「自分の世界を自分で作って入り込んでしまい、対外的な窓口を開こうとはしなかったレスラー」とゴッチを評しており「”プロレスの神様”ではなく”トレーニングの神様”」と考えている<ref name="gotchdesune"/>。
 
* ゴッチがルー・テーズの保持するNWA世界ヘビー級王座に6回目の挑戦をした試合(1964年5月2日、[[ミシガン州]][[デトロイト]])において、{{要出典|範囲=ゴッチはテーズから[[バックドロップ]]を仕掛けられた時に、自分の体重をテーズにあずけ、テーズの肋骨5本を骨折させた。テーズは[[ダブルリストロック]]で試合には勝ったものの、この骨折から回復するのに7か月間かかり、特に骨折直後の2か月間は、後に人生で最悪の時間であったと語るほど苦しんだ。テーズはゴッチがこの試合でダブルクロスを試みて自分を傷付けたと信じており、そのことが2人の仲違いにつながったとも言われている|date=2018年1月}}。[[流智美]]によれば、ゴッチはテーズのバックドロップを受けることを拒み、テーズの右腕を[[脇固め]]に返して、更に肋骨を3本骨折させたとある。試合はテーズが[[ドロップキック]]の連発と言うラフ殺法でゴッチにリングアウト勝ちしたが、世界王者テーズは10日間の入院でサーキットを休む羽目になり、興行上大きな損害を出すことになった。これに怒ったテーズは翌日見舞いに訪れたゴッチを「なぜこんな馬鹿な真似をしたんだ!理由を言ってみろ!」と問い詰めたが、ゴッチは「I just forgot myself(無我夢中でやってしまった)…」と申し訳なさそうに呟くだけで、テーズは怒る気も失せてしまったと言う<ref>別冊宝島120『プロレスに捧げるバラード』(1990年 宝島社)p.190-191. ISBN 4796691200</ref>。
 
* ゴッチのジャーマン・スープレックス・ホールドはもっとも軌道が美しいと称えられており、この技で投げられるレスラーは、ある意味勲章の様な物であった。
 
* ゴッチのライバルは数多い。[[ビル・ロビンソン]]や[[ドン・レオ・ジョナサン]]など多くのライバルと戦って来たが、最強のライバルと言うと「鉄人」ルー・テーズを置いて他に無い。1961年から1964年までに9度戦い、ゴッチの0勝5敗4分<ref>{{Cite web|url=https://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n407117|title=ルー・テーズVSカール・ゴッチの対戦成績|author=rewens2659|date=2017-02-14|accessdate=2017-08-14|publisher=Yahoo! JAPAN}}</ref>{{出典無効|date=2017年8月}}。なおゴッチはテーズに対してライバル心と同様、ある種の憧れも抱いており、敢えてテーズと同じ様なファイティングポーズを取っていたと言う。
 
 
== 獲得タイトル ==
 
; [[NWA (プロレス)|ナショナル・レスリング・アライアンス]]
 
* NWAイースタン・ステーツ・ヘビー級王座<ref name="ES">{{cite web|url=http://www.wrestling-titles.com/us/oh/mwa/es-h.html|title=NWA Eastern States Heavyweight Title|accessdate=2010-04-29|publisher=Wrestling-Titles.com}}</ref>
 
** [[1961年]]獲得。
 
** 1961年12月29日、[[オハイオ州]][[コロンバス (オハイオ州)|コロンバス]]において[[ドン・カーティス]]に奪われる。
 
; アメリカン・レスリング・アライアンス
 
* AWA世界ヘビー級王座(オハイオ版)<ref name="AWA">{{cite web|url=http://www.wrestling-titles.com/us/awal/awal-h.html|title=AWA World Heavyweight Title [Indiana / Ohio&#93;<!-- Bot generated title -->|accessdate=2010-04-29|publisher=Wrestling-Titles.com}}</ref>
 
** [[1962年]]9月14日、オハイオ州コロンバスにおいて[[ドン・レオ・ジョナサン]]より獲得。
 
** [[1964年]]9月7日、同地において[[ルー・テーズ]]に奪われ、[[NWA世界ヘビー級王座]]へ吸収。
 
; ワールド・チャンピオンシップ・レスリング(オーストラリア)
 
* [[IWA世界ヘビー級王座#日本以外のIWA王座|IWA世界ヘビー級王座]]<ref name="IWA">{{cite web|url=http://www.wrestling-titles.com/australia/wcw/au-iwa-h.html|title=IWA World Heavyweight Title|accessdate=2010-04-29|publisher=Wrestling-Titles.com}}</ref>
 
** [[1965年]]8月18日、[[オーストラリア]]・[[メルボルン]]において[[スパイロス・アリオン]]より獲得。
 
** 1965年8月25日、同地においてアリオンに奪われる。
 
** この時期、オーストラリアでのゴッチはリングネームをカール・クラウザーに戻している。
 
; [[ワールド・レスリング・アソシエーション (ロサンゼルス)|ワールド・レスリング・アソシエーション(ロサンゼルス)]]
 
* WWA世界タッグ王座<ref name="WWA Tag">{{cite web|url=http://www.wrestling-titles.com/us/ca/la/wwa/wwa-t.html|title=WWA World Tag Team Title|accessdate=2010-04-29|publisher=Wrestling-Titles.com}}</ref>
 
** パートナーは[[マイク・デビアス| "アイアン" マイク・デビアス]]。
 
** [[1967年]]6月30日、[[カリフォルニア州]][[ロサンゼルス]]にて[[ペドロ・モラレス]]&[[リッキー・ロメロ (プロレスラー)|リッキー・ロメロ ]]より獲得。
 
** 1967年7月29日、同州[[サンバーナーディーノ (カリフォルニア州)|サンバーナーディーノ]]にてモラレス&[[ビクター・リベラ]]に奪われる。
 
; [[WWE|ワールド・ワイド・レスリング・フェデレーション]]
 
* [[WWE・世界タッグチーム王座|WWWF世界タッグ王座]]<ref name="WWE Official TAG">{{cite web|url=http://us.wwe.com/inside/titlehistory/worldtagteam/|title=History of the WWE World Tag Team Championship|accessdate=2010-04-29|publisher=WWE.com}}</ref>
 
** パートナーは[[レネ・グレイ]]<ref>[http://www.ddtdigest.com/features/goulet.htm An Exclusive Interview with Rene Goulet]において、レネ・グレイがゴッチとタッグを組んだいきさつを語っている。</ref>。
 
** [[1971年]]12月6日、[[ニューヨーク州]][[ニューヨーク]]において[[ルーク・グラハム]]&[[ターザン・タイラー]]より獲得。
 
** [[1972年]]2月1日、[[ペンシルベニア州]][[フィラデルフィア]]において[[マイケル・シクルナ]]&[[キング・イヤウケア|キング・カーティス]]に奪われる。
 
; [[新日本プロレス]]
 
* 世界ヘビー級王座
 
** ゴッチ本人が所持していたオハイオ版AWA世界ヘビー級王座のレプリカで、新日本が作成したもの。 [[フランク・ゴッチ]]ゆかりのベルトなどと言われていた。
 
 
== コーチとして ==
 
{{出典の明記|section=1|date=2010年5月|ソートキー=人2007年没}}
 
* 豊富な知識から様々な練習方法を提案し、やる気を出させる教え方が上手なため、慕っているプロレスラーが多い(ただし、[[スパーリング]]は非常に厳しいらしい)。ゴッチの教えは「ゴッチイズム」と呼ばれ、ゴッチの指導を受けたアントニオ猪木が新日本プロレスで「[[ストロングスタイル]]」を確立したため、特に新日本プロレス出身のプロレスラーの間では畏敬の念を抱かれている。もっとも、これは[[アングル (プロレス)|アングル]]の一種でもあり、弟子たちの多くはゴッチを利用して有名になるとゴッチの下を訪れなくなったため、ゴッチがインタビューでかつての弟子たちに苦言を呈したこともある。なお、[[全日本プロレス]]の[[渕正信]]がゴッチの下を訪れた際にもゴッチは熱心に指導しており、指導するプロレスラーの所属団体についての拘りはないようである。<!--長州力もゴッチの下で修行した経験があるが、ゴッチを否定する発言を繰り返している。-->
 
** [[長州力]]がデビュー戦から使用し続けている[[サソリ固め]](スコーピオン・デスロック)は、ゴッチが伝授したと言われている。
 
** 藤波辰爾の得意技だった[[ドラゴンスクリュー]]、[[ドラゴン・スープレックス]](フルネルソン・スープレックス)は、ゴッチが元祖である。
 
** ゴッチは「12種類の[[スープレックス]]」を新日本プロレス期待の若手であった当時の前田日明に伝授している。
 
** ゴッチは[[キラー・カーン|小沢正志]]のために[[モンゴル]]人のギミックを考案し、「テムジン・モンゴル」と命名したが、小沢がアメリカへ進出する際に「キラー・カーン」と改名したために[[破門]]している。その後、ゴッチと小沢が和解したかどうかは不明である。
 
* 第2次[[UWF]]ブーム当時、ゴッチは[[週刊ゴング]]のインタビューで「日本には私のファイトスタイルを忠実に再現しているレスラーが1人だけいる」と発言し、記者から「それは誰ですか?やはり前田(日明)さんですか?」と尋ねられたのに対して、「木戸修だよ」と答えている。この発言からも分かるように、蹴りを多用する前田日明、[[高田延彦]]には、「彼らはキック・ボーイになってしまった」とやや冷水を浴びせるところがあった。ただし、ゴッチは来日時に[[山本小鉄]]へ見事なソバットを決めたこともあり、キックを嫌う傾向はあるが、完全に否定はしていないという見方もある。また、鈴木みのるがUWF時代にこだわりを持って使用した[[ドロップキック]]やストンピングを批判していないところから、繋ぎ技、裏技、奇襲として足の裏で蹴ることは否定していないのではないかと思われる。
 
** なお、木戸修に対するゴッチの思い入れは若手時代からであり、新日本旗揚げシリーズ前の道場での公開練習では、ゴッチは当時22歳であった木戸を専属パートナーとして指名している。
 
* ゴッチはレスリングをするために[[アナボリックステロイド|筋肉増強剤]]は有害であると考えており、[[ケン・シャムロック]]が筋肉増強剤を使用していると批判している。パンクラスがゴッチの批判を無視してケン・シャムロックを重用したため、ゴッチはパンクラスと決別したと言われている。
 
* 平直行が立ち聞きした内容によると、[[ドン・中矢・ニールセン]]との試合を控えていた前田日明には頭突きを活かすこと、レスリングの動きを活かしてサイドやバックに入ることなどを助言していた。その話ではゴッチは「ボクサーはクリンチに弱ければタイトルは取れない。ルールで禁止でも、そんなことはやってくるのが当たり前だから」「レスラーだって、パンチを怖がるようじゃ強いレスラーにはなれない。ボクシングができるくらいの心と反射神経がなければ、本物にはなれない」「昔のボクサーとレスラーはよく一緒に練習したものさ」と打撃と組み技の両立を重視する発言を行った<ref>平直行『平直行の格闘技のおもちゃ箱』(2006年、福昌堂)pp.109-111. ISBN 4892247979</ref>。
 
* ゴッチは1999年からしばらくの間[[マット・フューリー]]を指導したことがあり、2000年に[[トニー・チチーニー]]がフューリーを批判した時にはチチーニーを非難したが、その後はフューリーを厳しく批判している<ref>[http://www.scientificwrestling.com/public/93.cfm?sd=2 A Letter From Karl]にゴッチ自筆の手紙が掲載されている。</ref>。かつての弟子とのトラブルについて、ゴッチは「魂だけは教えることができないものであり、本人が生まれながらに持っているものである」と述べている。
 
* グレコ特有のロックアップしてからの展開を基本としていたため、自ら飛び込んでの片足タックルを全く教えなかった。ゴッチの技術体系では現在の総合格闘技に対応できないことは明らかであり、パンクラスがゴッチから訣別した一因ともなっている。
 
* 前田日明によればゴッチはUWFの選手にタックルの有効性を訴えていたが、選手たちは理解せず見栄えのよいキックばかり練習していたと言う。
 
 
== エピソード ==
 
{{出典の明記|section=1|date=2010年5月|ソートキー=人2007年没}}
 
* 1986年「INOKI 闘魂 LIVE」[[前田日明]]vs[[ドン・中矢・ニールセン]]戦のセコンドとしてUWFサイドの招きで来日した際、「これまで何度も飛行機で日本に来ているが、ファーストクラスを用意してくれたのは初めてだ。ありがとう」とコメントした。これをUWFサイドは、「プロレスの神様と持ち上げておきながら、これまで関わった団体はその程度の扱いしかしなかった!」と、雑誌などで喧伝した。しかし、後にゴッチが第2次UWFの顧問から外れた際、実は新日も日本に呼ぶ際はファーストクラス料金を送金していたのに、ゴッチ自らが下のクラスの座席を取って来日していた事が明かされた。
 
* 第一次UWF崩壊後も、来日の度に団体が用意したホテルではなく第一次UWFの社長であった[[浦田昇]]の家に宿泊していた。これは、1996年5月に浦田が[[修斗]]コミッショナーに就任した後に受けたインタビューで述べている。
 
* 日本プロレスに来日した際、[[歯]]が痛くなったゴッチは「歯があるから痛くなる」と言い張って、[[歯科医|歯医者]]に無理矢理痛くない歯も含めて全部の歯を抜かせたという。さすがに無理が祟り、体調が悪化して練習を休みにせざるを得なくなり、猛特訓に辟易していたレスラー連中を大喜びさせたという。
 
* 渕正信が雑誌『[[Gスピリッツ]]』(『[[週刊ゴング]]』の後継誌の一つ)に語ったところによると、渕がゴッチの元で修業していた[[1982年]]に「新日本とは何の契約もないので全日本が呼んでくれるのなら行ってもいい」とゴッチが言い出し、ちょうど米国遠征中だった馬場も興味を示し、馬場はゴッチと[[ビル・ロビンソン]]のコンビでの[[世界最強タッグ決定リーグ戦]]参加を考え、ゴッチも了承したが実現しなかった。このゴッチ全日本登場は、「新日本の象徴であるゴッチを全日本が引き抜いてどう使うかが非常に難しい」ということなどから幻に終わった。渕によるとゴッチは馬場のことを「あの身体の大きさであれだけ動けて身体も柔らかいのは素晴らしい」と語っていたという。
 
* ルー・テーズはゴッチについて晩年に「彼の動きは[[ロボット]]を連想させる」と述べたことがある。
 
* 死去する直前、テレビの取材で[[坂口征二]]とともに自宅に訪れた、彼の息子であり、俳優の[[坂口憲二]]に「ゴッチ式トレーニング」を直接指導した。当初、憲二は、10分程度の練習のつもりだったが、ゴッチの指導に熱が入り1時間以上練習するハメに。
 
* アントニオ猪木が自他共に認めるゴッチの弟子としてレスラーとして尊敬していたこと、新日本プロレス旗揚げの際にNWAから締め出されていた新日に実力あるレスラーをブッキングしたことは有名だが、猪木自伝によれば「新日旗揚げ時のブッカー料は業界抹殺のリスクに見合う巨額を請求してきた」「ギャラの札の枚数を目の前で数えられた」として、金銭にシビアな面に猪木が幻滅した描写がある。
 
* 現時点で判明している中では1959年に限った事ではあるが、フランス人ギミックのピエール・レマリン(もしくはピエール・ラマリン)としてカナダやボストン、シカゴで計20試合闘っている。
 
 
== カール・ゴッチが指導した主なプロレスラー ==
 
* [[ヒロ・マツダ]]
 
* [[アントニオ猪木]]
 
* [[坂口征二]]
 
* [[キラー・カーン]]
 
* [[アニマル浜口]]
 
* [[藤原喜明]]
 
* [[木戸修]]
 
* [[長州力]]
 
* [[藤波辰爾]]
 
* [[渕正信]]
 
* [[佐山聡]]
 
* [[前田日明]]
 
* [[高田延彦]]
 
* [[石川雄規]]
 
* [[鈴木みのる]]
 
* [[船木誠勝]]
 
* [[西村修]]
 
* [[ジョニー・ロンドス]]
 
* [[ジャック・ブリスコ]]
 
* [[ボブ・バックランド]]
 
* [[カネック]]
 
* [[スコット・マギー]]
 
* [[ジョー・マレンコ]]
 
* [[ディーン・マレンコ]]
 
* [[ジョシュ・バーネット]]
 
*
 
  
 
== 脚注 ==
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
 
 
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== 注釈 ==
 
== 注釈 ==
 
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== 関連項目 ==
+
== 外部リンク ==
* [[ビリー・ライレージム]]
+
{{テンプレート:20180815sk}}
* [[新日本プロレス]]
 
* [[ストロングスタイル]]
 
* [[プロレススーパースター列伝]]
 
  
== 外部リンク ==
 
* {{Professional wrestling profiles}}
 
* [http://www.showapuroresu.com/waza/german.htm カール・ゴッチの原爆固め]
 
* [http://www.scientificwrestling.com/public/main.cfm scientificwrestling]
 
* [http://www.onlineworldofwrestling.com/profiles/k/karl-gotch.html Online World of Wrestling Profile]
 
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[[Category:ベルギーのオリンピック選手]]
 
[[Category:ベルギーのオリンピック選手]]

2018/8/31/ (金) 20:56時点における最新版

カール・ゴッチ
プロフィール
リングネーム カール・ゴッチ
カール・イスターツ
カール・クラウザー
カロル・クラウザー
ピエール・レマリン
ピエール・ラマリン
本名 カール・イスターツ
ニックネーム プロレスの神様
無冠の帝王
千の技を持つ男
秒の殺し屋
身長 184cm
体重 110kg
誕生日 1924年8月3日
死亡日 (2007-07-28) 2007年7月28日(82歳没)
出身地  ベルギーアントワープ[1]
スポーツ歴 レスリング
トレーナー ビリー・ジョイス
デビュー 1950年
引退 1982年
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カール・ゴッチKarl Gotch、本名:Krel Alfons Ceclie Istaz カレル・アルフォンス・セシル・イスタス又はイスターツ / Karl Istaz1924年8月3日 - 2007年7月28日

プロレスラーおよびプロレスのトレーナー。東京都墨田区にある回向院に墓碑があり、本名はカール・イスターツと刻まれている。[2]

1961年までは、カール・クラウザーKarl Krauser)のリングネームを名乗っていた。

得意技はジャーマン・スープレックス

脚注

  1. ゴング格闘技』(日本スポーツ出版社)2007年1月号のインタビューにおいて、ゴッチはベルギーで生まれ、16歳の時に仕事を求めてブリュッセルからドイツへ移り住んだと述べている。また、『週刊プロレス』(ベースボール・マガジン社)2007年8月15日号に掲載された斎藤文彦による追悼寄稿において、ゴッチ自身は「ベルギーのアントワープ生まれ」と話していたことが記されている。
  2. G SPIRITS Vol.46による

注釈

外部リンク



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