ウクライナ

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ウクライナ
Україна
国の標語:Воля, злагода, добро
(ウクライナ語: 自由、調和、善良)
公用語 ウクライナ語
首都 キエフ(キーウ)
最大の都市 キエフ

面積

総計 603,500km245位
水面積率 7%

人口

総計(2012年 45,430,000人(27位
人口密度 79人/km2
GDP(自国通貨表示)

合計(2013年 1兆4,549億[1]フリヴニャ
GDP (MER)

合計(2013年 1,783億[1]ドル(56位
GDP (PPP)

合計(2013年3,925億[1]ドル(44位
1人あたり 8,650[1]ドル
独立
 - 日付
ソビエト連邦より
1991年8月24日
通貨 フリヴニャ (UAH)
時間帯 UTC +2(DST:+3)
ISO 3166-1 UA / UKR
ccTLD .ua
国際電話番号 380ij

ウクライナウクライナ語: Україна[ukrɑˈjinɑ])は、東ヨーロッパ。東にロシア連邦、西にハンガリーポーランドスロバキアルーマニアモルドバ、北にベラルーシ、南に黒海を挟みトルコが位置している。

16世紀以来「ヨーロッパの穀倉」地帯として知られ、19世紀以後産業の中心地帯として大きく発展している。天然資源に恵まれ、鉄鉱石石炭など資源立地指向の鉄鋼業を中心として重化学工業が発達している。

キエフ大公国13世紀モンゴル帝国に滅ぼされた後は独自の国家を持たず、諸侯はリトアニア大公国ポーランド王国に属していた。17世紀から18世紀の間にはウクライナ・コサック国家が興亡し、その後ロシア帝国の支配下に入った。第一次世界大戦後に独立を宣言するも、ロシア内戦赤軍が制したことで、ソビエト連邦内の構成国となった。1991年ソ連崩壊に伴い独立した。 歴史的・文化的には中央東ヨーロッパの国々との関係が深い。 また本来の「ルーシ」「ロシア」とは、現在のロシア連邦よりもウクライナを指した。

国名

テンプレート:ウクライナの位置

ウクライナの最高法規たるウクライナ憲法によると、当国の正式国号は「Україна」([ukrɑˈjinɑ])である[2]。日本語の表記は「ウクライナ」となっている[注釈 1]漢字表記は現在の日本では滅多にされないが、「宇克蘭」[3]、または「烏克蘭」[4]。公式の英語表記は「Ukraine」(ユークレイン)である。

「ウクライナ」というスラヴ語の地名の初出は、「ウクライナ」(Ѹкраина[5]という形で原初年代記イパチー写本キエフ年代記1187年の条である[6]。この地名は、キエフ公国チェルニーヒウ公国と並んでルーシ大公国の歴史的中枢地に含まれるペレヤースラウ公国の範囲を示している。また、この地名は他のルーシ年代記に1189年の条[7]1213年の条[8]1280年の条[9]にも「ウクライナ」あるいは「ヴクライナ」(Вкраина)という形で登場し、ガリツィア地方、ヴォルィーニ地方、ポリーシャ地方を指す用語として用いられている。

13世紀にルーシ大公国が滅び、その中部・南部の地域がリトアニア大公国ポーランド王国に併合されると、「ウクライナ」は併合地の領域を表す地名としてリトアニア・ポーランドの年代記や公式文書などに使用されるようになる。14世紀から17世紀にかけて広義の「ウクライナ」はルーシ人が居住するガリツィア地方、ヴォルィーニ地方、ポジーリャ地方、ブラーツラウ地方とキエフ地方の範囲を示し、狭義の「ウクライナ」はキエフを中心としたドニプロ川の中流域を示している[10]

「ウクライナ」の地名の両義性は、ウクライナ・コサックヘーチマン国家が誕生する17世紀半ば以後にも東欧の古文書にもみられる。狭義の「ウクライナ」は当国家の支配圏を指しているが、広義の「ウクライナ」は当国家の支配圏外のルーシ人の居住地を意味している[11]。しかし、ヘーチマン国家がロシア保護国になることにより、「ウクライナ」はドニプロ川の中流域だけを意味するようになり、17世紀以降はルーシの本土を意味する小ルーシという地名の同義語となった。

19世紀後半から20世紀初頭にかけて、ルーシ系の知識人による民族運動が発展していくに連れて、「ウクライナ」はルーシ人が居住する民族領域を意味する名称となり、「ルーシ人」は「ウクライナ人」という民族名に取って代わられた[12]1917年に成立したウクライナ人民共和国において初めて、「ウクライナ」という名称が正式な国号の中で用いられることとなる。

語源

ファイル:Vkraina-Cosaques-Okraina small.png
V・コロネリEnglish版による東欧地図 (1690年). キエフを中心とした地域は「VKRAINE ou PAYS DES COSAQUES」(ウクライナ或いはコサックの国)と記されてある。隣の「OKRAINA」(辺境)はロシア南部の国境地帯を指す。

「ウクライナ」の語源については、「国」といった意味であるという説と、「辺境」といった意味であるという説がある。前者は「内地」を意味する中世ルーシ語の「ウクライナ」(ѹкраина)・「ヴクライナ」(вкраина)という単語に基づいており、後者は「僻地」を意味する近世のポーランド語の「オクライナ」(Okrajna)やロシア語の「オクライナ」(окраина)という単語に基づいている[13]

「ウクライナ」/「ヴクライナ」に関連する単語の中で、もっとも基本的で、現在でも使用されている一音節の「クラーイ」(край)という単語には「地域」・「隅」・「境」・「端」などの複数の意味がある[14]。これから派生したウクライナ語の「クライーナ」(країна)という名詞は「国」を意味する[15]。ウクライナ語では「ウ〜」(у[16]と「ヴ〜」(в[17]は「内〜」・「〜の中で」を意味する前置格を支配する前置詞であることから、「ウクライナ」や「ヴクライナ」は「境界の内側」・「内地」を意味する。一方、ロシア語では「クラーイ」から派生した「オクライナ」(окраина)という単語が「場末」・「辺境」・「はずれ」という意味をもっている。ロシア語では「オ〜」(о[18]と「ウ〜」(у[19]は「〜の側に」・「〜の端に」を意味する前置詞であるために、ロシア語話者は「ウクライナ」を「辺境地」と解釈しがちである。

地理

ウクライナの国土のほとんどは、肥沃な平原、ステップ(草原)、高原で占められている。ドニエプル川ドネツ川ドニエステル川が横切っており、南のブーフ川とともに、黒海アゾフ海に注ぎ込んでいる。黒海北岸にはクリミア半島が突き出しており、ペレコープ地峡で大陸とつながっている。

南西部にあるドナウ・デルタルーマニアとの国境になっている。

山岳地帯は、ウクライナの最南端のクリミア山脈と西部のカルパティア山脈にしかない。最高峰はカルパト山脈にあるホヴェールラ山(Говерла, Hoverla)で標高2,061メートルある。なお、これ以外の地域も平坦というわけではなく、東ヨーロッパの中では比較的起伏の多い地形をしている。

気候は温暖な大陸性気候であるが、クリミア半島の南岸は地中海性気候により近い。降雨量は局所的に偏っており、北部や西部は多く、南部や東部は少ない。冬は黒海沿岸は涼しいが、内陸に行くにしたがって寒くなる。夏はほとんどの地域で暖かいが、当然南に行くほど暑い。

テンプレート:ウクライナの地図

交通

ウクライナの交通は、鉄道バス船舶航空機自動車などによっている。鉄道は、ウクライナ鉄道によって一元化されている。一方、ウクライナの航空会社はソ連時代のアエロフロート一括管理型から多くの中小の航空会社が競合する状態になっている。

地方行政区分と都市

ウクライナは、24の州と、クリミアにある1つの自治共和国、そして2つの特別市から構成される。但し、クリミア自治共和国セヴァストポリロシア連邦の実効支配下にある。また、分離独立派が支配するドネツィク州ドネツク人民共和国)とルハンスク州ルガンスク人民共和国)のドンバス地域の一部、およそ推定人口300万人程度の地域の管轄も及んでいない。

テンプレート:ウクライナの行政区分
No. 州庁所在地 No. 州庁所在地
1 イヴァーノ=フランキーウシク州の旗 イヴァーノ=フランキーウシク州 イヴァーノ=フランキーウシク 13 チェルニウツィー州の旗 チェルニウツィー州 チェルニウツィー
2 ヴィーンヌィツャ州の旗 ヴィーンヌィツャ州 ヴィーンヌィツャ 14 テルノーピリ州の旗 テルノーピリ州 テルノーピリ
3 ヴォルィーニ州の旗 ヴォルィーニ州 ルーツィク 15 ドニプロペトロウシク州の旗 ドニプロペトロウシク州 ドニプロペトロウシク
4 オデッサ州の旗 オデッサ州 オデッサ 16 ドネツィク州の旗 ドネツィク州 ドネツィク
5 キエフ州の旗 キエフ州 キエフ 17 ハルキウ州の旗 ハルキウ州 ハルキウ
6 キロヴォフラード州の旗 キロヴォフラード州 クロプィウヌィーツィクィイ 18 フメリヌィーツィクィイ州の旗 フメリヌィーツィクィイ州 フメリヌィーツィクィイ
7 ザカルパッチャ州の旗 ザカルパッチャ州 ウージュホロド 19 ヘルソン州の旗 ヘルソン州 ヘルソン
8 ザポリージャ州の旗 ザポリージャ州 ザポリージャ 20 ポルタヴァ州の旗 ポルタヴァ州 ポルタヴァ
9 ジトームィル州の旗 ジトームィル州 ジトームィル 21 ムィコラーイウ州の旗 ムィコラーイウ州 ムィコラーイウ
10 スームィ州の旗 スームィ州 スームィ 22 リヴィウ州の旗 リヴィウ州 リヴィウ
11 チェルカースィ州の旗 チェルカースィ州 チェルカースィ 23 リウネ州の旗 リウネ州 リウネ
12 チェルニーヒウ州の旗 チェルニーヒウ州 チェルニーヒウ 24 ルハーンシク州の旗 ルハーンシク州 ルハーンシク
- 特別市 No. 自治共和国 自治共和国の首都
- キエフの旗 キエフ (首都) セヴァストポリの旗 セヴァストポリ 25 クリミアの旗 クリミア自治共和国 シンフェロポリ

テンプレート:ウクライナの最大都市

住民

民族

民族(ウクライナ) 2001
ウクライナ人
  
77.8%
ロシア人
  
17.3%
その他
  
4.6%
ファイル:Ethnicukrainian2001.PNG
ウクライナにおけるウクライナ人の人口(2001年度全ウクライナ国勢調査より)

主要民族はウクライナ人で、全人口の約8割を占める。ロシア人は約2割を占める。他に少数民族としてクリミア・タタール人モルドヴァ人ブルガリア人ハンガリー人ルーマニア人ユダヤ人がいる。高麗人も約1万人ほどいる[20]

国内最大の少数民族であるロシア人の割合が高い州はロシアが実効支配しているクリミア自治共和国セヴァストポリを除くとルハーンシク州(39.2%)、ドネツィク州(38.2%)、ハルキウ州(25.6%)、ザポリージャ州(24.7%)、オデッサ州(20.7%)、ドニプロペトロウシク州(17.6%)の順となっており、東部以外ではキエフ市(13.1%)が高くなっている。また、西部のザカルパッチャ州ではハンガリー人が12.1%を、チェルニウツィー州ではルーマニア人が12.5%を占めている。このように多民族国家となっている。

キエフドネツィク州ハルキウ州リヴィウ州ドニプロペトロウシク州は最も人口が集中しており、全人口の69%が都市部に住んでいる。

人口密度の高い州はドネツィク州リヴィウ州チェルニウツィー州ドニプロペトロウシク州である[21]

言語

ウクライナにおける母語統計
(2001年)
ウクライナ語
  
67.5%
ロシア語
  
29.6%
ウクライナの家庭で話される言語の使用率統計(2006年)[22]
ウクライナ語
  
38.2%
ロシア語
  
40.5%
上記言語の両方
  
16.2%
ファイル:Map12 b.png
ウクライナ語話者(緑)とロシア語話者(黄)の分布(2001年)。棒グラフはウクライナ語は紫、ロシア語は水色、1989年は濃色、2001年は淡色
ファイル:Official Russian language support in Ukraine.PNG
ロシア語の第二公用語化に賛成する割合(2005年)。西部のリヴィウ州ヴォルィーニ州テルノーピリ州の3州は賛成の割合が低い(黄緑)。

ウクライナの国家語は憲法第10条により定められたウクライナ語のみであるが、憲法第10条にはロシア語を含む多言語使用・発展も保証すると記載されており、実態としてはウクライナ社会はウクライナ語とロシア語の二言語社会と呼びうる。

2001年の国勢調査によれば、全体の67.5%がウクライナ語を母語としロシア語は29.6%となっていた。東部、南部と首都キエフ市ではロシア語の割合が比較的高い[23]。他方、2006年に行われた民間調査統計によれば、ウクライナ語を母語とする国民は5割強となっている[24]等、統計によるばらつきがみられる。同じ調査統計の結果で、母語ではなく日常的に使用する言語を問う設問では、家庭内でウクライナ語のみを使用するのは全国民の38.2%、ロシア語のみが40.5%、両言語が16.2%となっており[25]、ウクライナはウクライナ語とロシア語の二言語国家であることがよく示されている。

ウクライナはロシア帝国ソ連時代にロシア語化が進み、西ウクライナを除いて共通語としてロシア語が広く普及し圧倒的に優勢となった。また、当時はウクライナ語はロシア語の方言や農村部の方言に過ぎないという認識さえあり、使用は衰退していった。特に都市部に住むインテリ層の間ではロシア語の使用が広まり、農村部ではウクライナ語、都市部ではロシア語という色分けができていた。しかしながら、ソ連からの独立時にウクライナ語を唯一の公用語として指定し国民統一の象徴の言語として広く、普及、復活を国策とする一方、ロシア語は公用語に制定せず、ウクライナ語の復権を重要課題に掲げて重視した。これは、同じくロシア語が最も使われてきた隣国ベラルーシの独立後もロシア語を引き続き最重要視する政策とは対照的な路線をとった。

ウクライナでは政府機関ではウクライナ語のみが使われ、憲法・法律をはじめ、公的文書は全てウクライナ語で記述され、学校教育は大半がウクライナ語で行われる。また、街中の広告もウクライナ語に限定され、地下鉄のアナウンスや街中の案内表記もウクライナ語とされるが、ロシア語も言語法の手続きを通じた地方公用語として認定されている場合には地方レベルで使用可能である。この背景には、国家としてウクライナ語の普及を進める一方で、西ウクライナを除く地域の都市部住民の中には民族的にウクライナ人であっても日常生活ではロシア語を主に使用している人が少なくなく、ウクライナ語を運用することはできるも、ビジネスや娯楽、家庭での言語はロシア語が優勢となっている。さらに、東部や南部では、ウクライナ語が不得手とする人も少なくない。このように、独立以降ウクライナ語のみを国家語にしてきたウクライナであるが、生活の現場でのロシア語の使用頻度は低下しておらず、西部を除いた地域においてはロシア語は引き続き重要な言語となっている。

特徴的な点として、ウクライナ西部にあるリヴィウ州ヴォルィーニ州テルノーピリ州イヴァーノ=フランキーウシク州ガリツィア地域はソ連時代を通じてもロシア語化が進まなかったことからウクライナ語が圧倒的に優勢で、日常的にロシア語が使われることは一般的でない。この3州ではロシア語の第2国家語化への反対者が多い。一方、東部の住民にはロシア語の公的地位向上を求める世論もあり、しばしば政治の場における敏感な論点となる。しかし、ウクライナ語が不得手な東部出身のウクライナ民族主義者も珍しくなく、使用母語と親露・反露感情は必ずしも一致しない点は留意を要する。2014年の政変以降もOSCE等国際機関は、社会においてロシア語話者が差別を受けている事実を報告していない。

その他の言語として、クリミア・タタール語(クリミア自治共和国)、ハンガリー語(ザカルパッチャ州)、ルーマニア語(チェルニウツィー州)等も使われている。

宗教

ファイル:Ukraine religion 2006 Razumkov center.svg
宗教団体所属(ラズムコーウ・センターによる世論調査、2006年)
  無宗教ないし宗教団体に属していない
  ウクライナ正教会・キエフ総主教庁
  ウクライナ正教会 (モスクワ総主教庁系)
  ウクライナ東方カトリック教会
  西方カトリック教会

現在ウクライナの国民は多くキリスト教徒アイデンティティを持っているが、大半は特定の宗教団体に属していない[26]。伝統的な宗教は、正教会の一員であるウクライナ正教会である。ルーシの洗礼以来ウクライナの正教会はコンスタンディヌーポリ総主教庁に属していたが、1686年モスクワ総主教庁に移され、20世紀末までモスクワ総主教庁に属していた。この移管は教会法に違反していたと指摘されるが[27]、モスクワ総主教庁側はこの移管を「教会法違反」とは捉えていない。1990年には、ウクライナの独立運動の興隆に呼応して、モスクワ総主教庁から分離独立したキエフ総主教庁が設立された。現在、このキエフ総主教庁・ウクライナ正教会の教会法上の合法性を認めている他国の正教会は存在しないが、キエフ総主教庁は教会法解釈・歴史認識につき主張をしつつ、自らの合法性の承認を得るべく様々な活動を行っており、信徒数の上でもウクライナにおける最大の教会となっている。これに次ぐ正教会としてモスクワ総主教庁のもとに留まりつつ事実上の自治を行っているウクライナ正教会(モスクワ総主教庁系)があり、こちらは他国の正教会からも教会法上の合法性を認められているが、ウクライナ国内での信者数は減少している。他にもウクライナ独立正教会独立合法ウクライナ正教会の教会組織が存在する。また、ロシア正教古儀式派教会の教区やポモーリエ派の会衆など、正教古儀式派の信徒も伝統的に存在している。

東方典礼カトリック教会たるウクライナ東方カトリック教会が正教に次いで勢力を有する。西方典礼のカトリック教会およびプロテスタント、さらにイスラム教徒ユダヤ教徒仏教徒も少数存在する。

歴史

古代

紀元前10世紀頃より現在のウクライナの地にはさまざまな遊牧民族が到来した。紀元前8世紀頃、黒海北岸に至った騎馬民族スキタイ人は、紀元前6世紀キンメル人を追い払って自らの国家を立て、紀元前4世紀にかけて繁栄した。黒海沿岸にはギリシャの植民都市が建設され、地中海メソポタミア方面との交易を通じてペルシャギリシャローマの文化的影響を受けた。紀元前3世紀頃、中央アジアより来たサルマティア人の圧力を受けてスキタイは衰退した。2世紀頃に東ゴート族が王国を建て、3世紀中頃クリミア半島に存続していたスキタイ人の国家を滅ぼした。これらの民族は交易や植民を盛んに行い、彼らが建設した多くの交易拠点は後に都市国家へと発展した。4世紀から5世紀にかけて民族大移動の発端となるフン族がこの地を通り抜けた。6世紀にはアヴァール族が侵入し、同じ頃移住してきたと考えられている東スラヴ人を支配した。スラヴ民族はウクライナ中央部と東部に居住し、キエフの建設と発展に重要な役割を担った。7世紀から8世紀にかけてはハザール可汗国の支配下にあった。

中世

ファイル:Vasnetsov Bapt Vladimir.jpg
ヴォロディーミル聖公の洗礼。

8世紀頃に、ウクライナではルーシという国が誕生し、東スラヴ人ポリャーネ族の町キエフはその首都となった[29]882年オレグ公(882年912年)が率いる北欧ヴァイキングがキエフを陥落させると、ルーシはヴァイキング系のリューリク大公朝のものとなった[29]。研究史上では、朝廷の中心がキエフに置かれていたことから、当時のルーシをキエフ・ルーシ、あるいはキエフ大公国と呼ぶ[29]オリハ大公女945年965年)、その子息スヴャトスラウ大公965年972年)、孫ヴォロディーミル大公980年1015年)、および曾孫ヤロスラウ大公(1019年–1054年)の治世はルーシの全盛期となった[29]。キエフの大公朝は、周辺の東スラヴ人をはじめ、北西のバルト人と、北東のフィン・ウゴル人を征服し、支配領域を拡大させた。その結果、11世紀におけるルーシは約150万平方キロメートルの面積を誇る、欧州の最大の国家となった[29]。ルーシは、北方のバルト海フィンランド湾から南方のウクライナ草原まで、そして西方のカルパティア山脈から東方のヴォルガ川まで広がっていた[29]。周辺の諸政権が滅ぼされ、すべての国土はリューリク朝の諸侯の間に分けられた。988年にヴォロディーミル大公の頃、ルーシ人ビザンツ帝国からキリスト教(のちの正教)を受けて国教とした[29]。この出来事はウクライナの運命を決し、ウクライナはキリスト教文化圏に属することとなった。12世紀にルーシは領土をめぐる諸侯の争いによりいくつかのリューリク系の諸公国に分裂し、キエフ大公の権威が衰退した。名目上でキエフはルーシの首都の役割を果たしていたが、諸公国は事実上の独立国となった。13世紀にルーシの国体は完全に退勢し、1240年代モンゴル帝国の軍による侵攻(モンゴルのルーシ侵攻)で亡ぼされた[29]

キエフの衰退後、ルーシの政治・経済・文化の中心は、西ウクライナにあったハーリチ・ヴォルィーニ大公国へ移された。当国には、ヴォルィーニ地方、ハーリチ地方、ホールム地方、ベルズ地方、ザカルパッチャ地方、ポリーシャ地方、キエフ地方からなっていた[30]。大公国の基礎は、1199年にリューリク朝の嫡流の血をひくロマン大公によって築かれた[31]1245年にロマンの子息ダヌィーロ大公は、モンゴル帝国のジョチ・ウルス朝貢して従属したが、カトリックのヨーロッパの支援を期待してポーランドマゾヴィアハンガリードイツ騎士団と密約を交わし、独立戦争を計画した。1253年ローマ教皇インノケンティウス4世から王冠を受けてルーシの初ルーシ王)となり、ジョチ・ウルスとの戦いに挑んだ[32]1256年頃、モンゴルのクレムサ軍に勝利したダヌィーロ王は、20年後にルーシの首都となるリヴィウを創建した。しかし、1259年に、欧州が約束した援軍がなかったので、ダヌィーロは再びジョチ・ウルスに服属せざるを得なかった。その後ダヌィーロの息子レーヴ1世はモンゴル軍に従ってポーランドとリトアニアへの遠征に参加した。1308年にダヌィーロの曾孫アンドリーレーヴ2世はマゾヴィアとドイツ騎士団と手を組んで独立戦争を再開したが、彼らの後継者ユーリー2世は無益な戦争を止めてジョチ・ウルスに従属した。1340年にユーリー2世の暗殺により王朝が断絶すると、隣国のポーランド王国とリトアニア大公国が王国の相続権を主張し、ハールィチ・ヴォルィーニの領土継承をめぐる戦争を開始した。1392年にポーランドはハーリチ地方、ホールム地方、ベルズ地方を併合し、その他の領土はリトアニア大公国のものとなった[33]。リトアニアはルーシ語を公用語とし、正教を国教にするなど、ルーシ人に対して宥和政策をとって次第にルーシ化したが、ポーランドは新たな領土のポーランド化を進めた。

14世紀末におけるウクライナの地域は他国の支配を受けるようになった。リトアニアはキエフ地方、チェルニーヒウ地方、ヴォルィーニ地方を中心とする北部・中部を確保した。ポーランドはハーリチ地方とポジーリャ地方からなる西部を統治した。南部は、1447年にジョチ・ウルスから独立したクリミア汗国が支配するようになった。無人だった東部は次第にモスクワ大公国(のちのロシア)の領域に入った。1569年にポーランドとリトアニアはポーランド・リトアニア共和国という連合国家を形成したことにより、ウクライナの北部と中部はポーランド領となった。ウクライナではルーシ県ポジーリャ県ヴォルィーニ県ブラーツラウ県ベールズ県キエフ県というポーランドの行政単位に設置され、1598年にブレスト合同により正教会は禁じられた。

近世

コサック時代

ファイル:Chmelnicki with map of Ukraine.jpg
コサックのウクライナを背景にしたフメリヌィツィキー将軍(18世紀初頭)。右上の隅にコサック国家の国章「銃士」と、足元にコサック国家の簡単な地図が描かれている。

15世紀後半に、リトアニアロシアクリミアが接する地域、「荒野」と呼ばれるウクライナの草原において、コサックという武人の共同体が成立した。16世紀にコサックは、ザポロージャシーチという要塞を築き、それを根拠地とし、共同体を「サポロージャ・コサック軍」と称した[34]。16世紀から17世紀前半にかけてのコサックは、ポーランド・リトアニアの国王の臣下であったが、国王の支配が及ばない地域に住み、軍人の特権と自治制を有した。コサックは、ポーランド・リトアニアの援軍として働き、リヴォニア戦争1558年1583年)、ロシア・ポーランド戦争 (1605年1618年)、ポーランド・オスマン戦争English版 (1620年1621年)、スモレンスク戦争1632年1634年)などに参加した。それと同時に、彼らは独断で隣国のモルドヴァクリミアロシアなどへ遠征したり、水軍としてオスマン帝国が支配する黒海沿岸部を攻撃したりした。さらに、コサックの一部は傭兵として全ヨーロッパで活躍したこともあり、三十年戦争カトリック側のために戦った。軍人でありながら、貴族権を持たないコサックは、貴族の国家であるポーランド・リトアニアにおいて社会・宗教・民族的迫害を受け、しばしば反乱を起こした。その反乱の中で特に大きかったのは、コスィーンシキーの乱1591年1593年)、ナルィヴァーイコの乱1594年1596年)、ジュマイロの乱1625年)、フェドロヴィチの乱1630年)、スリーマの乱1635年)、パウリュークの乱1637年)とオストリャニンの乱1638年)であった[35][36]

1648年に、ボフダン・フメリヌィツィキー将軍が率いるコサック軍は、ポーランド・リトアニアにおいてフメリニツキーの乱を起した。反乱は次第にポーランドからウクライナの独立戦争に変容し、ウクライナの中部にコサック国家が誕生した[37][35]1654年に、ポーランドと戦い続けるために、コサックのウクライナはペラヤースラウ会議 (1654年)でロシアのツァーリの保護を受けたが、1656年にロシア人がポーランド人とヴィリニュス条約を結び単独和議したため、スウェーデントランシルヴァニアと同盟を締結した[38]1657年に、コサックの将軍にイヴァン・ヴィホウシキーが選ばれると、ウクライナ国内で反頭領の反乱が勃発してウクライナ・ロシア戦争へ展開した。ヴィホウシキーは、1659年コノトプの戦いで勝利を収めたが、ポーランドとの連合条約(ハヂャチ条約)を結んだためにコサック長老の支持を失った[35]荒廃時代とよばれるウクライナ内戦が始まり、その結果、コサック国家がドニプロ川を軸にして右岸ウクライナ左岸ウクライナザポロージャという地域に分かれた。右岸ウクライナのコサックはポーランド・リトアニアの支配下に置かれ、左岸ウクライナとザポロージャはロシアの保護下に置かれた。1667年にこのような分割はアンドルソヴォ条約によって公認された。1672年に新たな将軍ペトロ・ドロシェンコは、オスマン帝国の援助を受けてウクライナの統一を実行しようとした(トルコ・ポーランド戦争 1672-1676露土戦争 (1676年-1681年))が失敗し、バフチサライ条約 (1681年)がロシアとオスマン帝国の間で結ばれた[39]1689年にロシアとポーランド・リトアニアは永遠和平条約により最終的にウクライナを分割した。17世紀後半にポーランド人は右岸ウクライナにおいてコサックの自治制を廃止したが、ロシア人は左岸ウクライナにおいてコサック国家を保護国として存続させた。1709年に、大北方戦争の際、イヴァン・マゼーパ将軍が引率したコサックはスウェーデンと同盟を結び、ロシアの支配から離脱しようとはかったが、ポルタヴァの戦いに惨敗した[40]。マゼーパの蜂起はロシアに口実を与え、ロシア政府はウクライナにおけるコサックの自治制を廃止する政策に乗り出した。1754年にロシアはロシア・ウクライナの関税国境を廃止し、1764年にコサック将軍の位(ヘーチマン)を廃止した。廃位させられた最後の将軍キリロ・ロズモウシキーはロシアの元帥に任じられた。1775年にロシア軍はザポロージャのシーチを破壊し、1781年にウクライナにおけるコサック自治制は廃止された。1783年に、ロシア国内にならってウクライナで農奴制が敷かれた[35][41]。また、1783年には、ロシアは15世紀から続いていたクリミア・タタール人を中心とするイスラム国家クリミア汗国を滅ぼし、クリミア半島を併合した。

近代

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『エネイーダ』の表紙。コサック軍を率いるエネーイ棟梁。

18世紀から19世紀にかけて、ロシア帝国オーストリア帝国によるウクライナの抑圧政策と全ヨーロッパで流行したロマン主義民族主義の高まりにより、ウクライナ人の民族運動も盛んになった。1798年に、イヴァン・コトリャレーウシキーによるコサック国家の再建を謳う叙事詩エネイーダ』が出版された。この作品は、現代ウクライナ語の口語で書かれた初めての作品であった一方、ウクライナの民族的ルネサンスの序幕でもあった[42]1806年ハルキウ大学が設立されると、ウクライナの知識人によるウクライナの歴史・文化・民俗に関する研究が活発的に行われるようになった[43]1825年頃、近世のコサック軍記の編集物として『ルーシ人の歴史』が著され、ウクライナの文化人、歴史学者、作家などに大きな影響を与えた[43]ウクライナ語の完成が急がれたのもこの時期で、ロシア語正書法、ポーランド語正書法、そして独自の正書法などさまざまなものが生み出されたが、最終的にはタラス・シェウチェンコのまとめたウクライナ語文法が現代ウクライナ語の基礎となった[44]

ロシア帝国は常にウクライナにおけるロシア化政策を実行しており、なお、ウクライナ語は当時はロシア語の一方言「小ロシア語」として扱われ、独自の言語としては公認されていなかった。1863年に文学作品を除きウクライナ語の書物の出版・流通を禁止するヴァルーエフ指令が出され、1873年にウクライナ語の書物の出版・流通・輸入を禁止するエムス法が定められた[45]

大不況期のウクライナ経済は露仏同盟の素地となった。地元の石油王(Ephrussi family)がロスチャイルドパリ家と家族になって、ウクライナにベルギー国立銀行のコッカリル(Cockerill)とソジェンが進出してきたのである。

現代

ウクライナ独立戦争

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ウクライナの反露ポスター。「他国のものは要らないが、自国のものは渡さぬ!」。ロシアの双頭の鷲から子供を守っているウクライナ人の婦人。

1917年2月革命によりロシア帝政が崩壊し、ペトログラドロシア臨時政府が成立した。それに伴い、同年3月14日にキエフでウクライナ政府としてフルシェーウシキー教授が指導するウクライナ中央議会は成立した。10月革命によってロシアの臨時政府が倒され、共産党ソビエト政権が誕生すると、11月7日に中央議会はキエフを首都とするウクライナ人民共和国の樹立を宣言したが、ウクライナ・ソビエト戦争が勃発した後、1918年1月9日にウクライナ人民共和国の独立を宣言した[46]。同年2月8日にロシアの赤軍はキエフを占領したが、2月9日にブレストでウクライナ・ドイツオーストリアの同盟が完結し、中央議会は同盟国の軍事力を借りてウクライナを解放し、3月に首都を奪い返した[47]4月29日にウクライナの保守階級によるクーデターの結果、中央議会に代わってスコロパードシキー大将の政権が成立した。国号はウクライナ国に改められ、元首はヘーチマンとなった。当国は安定した発展を見せたが、ドイツの連合国への降伏により事態は一転し、1918年12月19日にスコロパードシキー政権が倒され、新たな執政内閣の政権が成立した[48]。国号は再びウクライナ人民共和国となった。しかし、ドイツ軍の撤退によりウクライナ・ソビエト戦争が再開した。1919年1月6日にソビエトのロシアは傀儡政権として首都をハルキウとするウクライナ社会主義ソビエト共和国を樹立した。同年2月5日にソビエト軍はキエフを占領し、ウクライナ人民共和国の政府を亡命させた。1919年から1920年にかけてウクライナの支配を巡って、ウクライナ人民共和国軍、ソビエトの赤軍、ロシア帝政派の白軍、白軍を支援するフランス軍イギリス軍ポーランド軍ネストル・マフノ率いる無政府主義者の黒軍、ウクライナのゲリラを中心とする緑軍などが争った。1920年冬に戦争がソビエトの赤軍の勝利で終結し、ウクライナ社会主義ソビエト共和国は西ウクライナを除きウクライナ全域を確保した[49]

一方、オーストリア・ハンガリー帝国の解体に伴い、1918年10月19日に西ウクライナのガリツィアブコビナ地方に住んでいたウクライナ人リヴィウを首都とする西ウクライナ人民共和国の独立を宣言した。しかし、11月1日にポーランドが当共和国へ侵入し、ウクライナ・ポーランド戦争が始まった。ポーランド側はフランスイギリスルーマニアハンガリーなどによって後援されたが、西ウクライナ側は国際的に孤立していた。1919年1月22日に西ウクライナはウクライナ人民共和国に援助を求めて、キエフでウクライナ人民共和国と合同したが、ウクライナ人民共和国の政府はソビエトの赤軍と戦ったので、援軍を派遣することができなかった。こうした中で、右岸ウクライナの併合を目論むポーランドが7月18日に西ウクライナ全地域を占領し、西ウクライナ人民共和国は滅亡した。その後、1920年4月に西ウクライナを巡ってポーランド・ソビエト戦争が勃発したが、1921年3月18日リガ条約によって西ウクライナのポーランド支配が確定した[50]

また、クリミアにおいては、1917年、クリミア・タタール人を中心とし、ノーマン・チェレビジハンを初代大統領とする多民族・世俗国家クリミア人民共和国の建国が宣言されたが、1918年にモスクワのソビエト政府により占領され滅亡した。

社会主義時代

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キエフにあるホロドモールの慰霊碑。ウクライナ人は、1917年から1922年にかけて共産主義のロシアに対して強く抵抗したため、ソ連の政権が「ウクライナ人の問題」を解決するために、ウクライナ人が住む地域において人工的な大飢饉を促した。1933年に「ヨーロッパの穀倉」といわれたウクライナでは数百万人が餓死した。

1922年12月30日ウクライナ社会主義共和国は、ロシアベラルーシザカフカースと共に同盟条約によってソビエト連邦を結成した[51]。諸共和国は平等の立場で新しい国家連合を形成したが、その国家連合はソ連憲法制定によってロシアを中心とする中央集権的なシステムに変遷し、その他の独立共和国はロシアの自治共和国となった[52]

1923年から1933年にかけて、ウクライナでのソビエト政権を磐石なものにするために、ソ連政府・共産党はウクライナ化政策を実行した。ウクライナ語教育の普及や政府諸機関へのウクライナ人の採用などにより、政権とウクライナ人の間に存在した敵意をなくそうという試みであった[53]。しかし、1930年以降、党内からこの政策を厳しく批判する声が上がり、1933年にウクライナ化は「ウクライナ民族主義的偏向」として中止された。ウクライナ化を指導した政治家、知識人、文化人は逮捕・粛清され、ロシア化の時代が再開した[54]

ソビエト連邦下のウクライナは拙速な農業の集団化政策などにより2度の大飢饉(1921年 - 1922年1932年 - 1933年、後者はホロドモールとよばれ2006年にウクライナ政府によってウクライナ人に対するジェノサイドと認定された。アメリカ・カナダ・イタリアなどの欧米諸国では正式にジェノサイドであると認定されている[55]が、国際連合欧州議会では人道に対する罪として認定している)に見舞われ、推定で400万から1000万人が死んだ。この「拙速な集団化政策」は意図してなされたものであるという説も有力である。

この背景には、レーニンスターリンらによる農民への敵視政策があった。共産党政府のとった土地の共有化を農民は拒むため、多くの住民が農民であったウクライナの統治は共産党政府にとって大きな障壁となっていた。そのため、一説によるとレーニン、スターリンらにとってはウクライナの農民の根絶が理想であったともされている。スターリンは、農民問題の解決は至急の課題であると明言している。また、この時期に前後し、ウクライナでは農民、即ちウクライナ人への懐柔政策と弾圧政策が交互にとられ、結果ウクライナ共産党幹部全員をはじめ多くの人間が粛清された。最終的には、ウクライナ語使用の制限など弾圧政策が長く採られることになった[56]

大粛清はウクライナから始められ、1937年には首相のパナース・リューブチェンコが自殺した。この年、ウクライナ社会主義ソビエト共和国は国号を「ウクライナ・ソビエト社会主義共和国」へと変更した。

一方、西ウクライナはポーランドルーマニアチェコスロバキアによって分割された。1921年から1939年にかけてポーランドはヴォルィーニハルィチナー地方、ルーマニアはブコビナ地方、チェコスロバキアはザカルパッチャを支配した。

第二次世界大戦

1939年8月24日ソ連ドイツ不可侵条約を締結し、東欧における独ソの勢力範囲を定めた。同年9月1日にドイツが、続いて9月17日にソ連がポーランドを侵略した。その結果ポーランドは分割され、ウクライナ人が多数派だった西ヴォルィーニ地方とガリツィア地方はウクライナ・ソビエト社会主義共和国に併合された[57]。ドイツがフランスを占領した後、1940年6月28日にソ連はルーマニアへ侵攻した。これによって北ブコヴィナ地方と北ドブロジャ地方はウクライナ共和国に編成されたが、沿ドニエストル地方はウクライナからモルダヴィア自治ソビエト社会主義共和国へ割譲された。1940年7月14日にソ連軍はバルト三国を占領し、1941年6月1日にドイツ軍はバルカン半島を支配下においた。独ソ両国は共通の国境と、征服された地域を「解放」するために互いに攻め入る口実を得た。

1940年12月18日にドイツはバルバロッサ作戦を秘密裏に決定し、1941年6月22日にソ連へ侵略した。それに呼応してイタリア、ルーマニア、ハンガリーなどはドイツ側に対し軍事的支援を行った。独ソ戦は約4年間に続き、ウクライナを中心とした地域に行われた。当初、ウクライナ人は共産党の支配からウクライナを解放してくれたドイツを支援したが、ドイツはウクライナの独立を承認せず、ソ連と同様な支配体制を敷いたため、ウクライナ人の反感を買った。1941年9月19日ドイツ軍キエフ右岸ウクライナを占領し、10月24日ハルキウ左岸ウクライナを奪い取り、1942年7月までにクリミア半島クバーニ地方を支配下に置いた。1943年2月にソ連軍はスターリングラード攻防戦においてドイツ軍の侵攻を食い止め、同年8月にクルスクの戦いでドイツ軍から独ソ戦の主導権を奪った。1943年11月6日にソ連はキエフを占領し、1944年5月にかけて右岸ウクライナとクリミアを奪還した。同年8月にソ連軍は西ウクライナを完全に支配下に置き、ドイツが占領していた中欧の諸国への侵攻を開始した。1945年5月2日にソ連はドイツの首都ベルリンを陥落させ、5月8日にドイツ側の無条件降伏により独ソ戦が終結した。ソ連側の勝利によってウクライナにおける共産党の支配が強化され、国際社会におけるソ連の役割が大きくなった。中欧の諸国ではソ連系の政権が確立した。

第二次世界大戦においてウクライナは莫大な損害を蒙った。戦争の犠牲者は800万人から1400万人までとされている[58]ウクライナ人の間では5人に1人が戦死した[58]。ウクライナ系のユダヤ人ロマ人などの共同体は完全に破壊された[58]。ソ連政府はウクライナ在住のドイツ人クリミア・タタール人などの追放を行った。独ソ両軍の進退によってウクライナの地は荒れ果てた。700の市町と、約2万800の村が全滅した[58]。独ソ戦中にウクライナ人はソ連側の赤軍にも、ドイツ側の親衛隊にも加わった。また、ウクライナ人の一部は反ソ反独のウクライナ蜂起軍に入隊し、独立したウクライナのために戦った[59]

戦後

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廃止されたチェルノブイリ原子力発電所。ソ連ではV・I・レーニン共産主義記念チェルノブイリ原子力発電所と呼ばれていた。

白ロシア共和国(現ベラルーシ)と共にソ連とは別に国際連合加盟国として国連総会に議席を持った。1948年から2年間と1984年から2年間は非常任理事国も務めている。しかし現実は、ウクライナは相変わらず「ソ連の一部」止まりであり、「ロシア化」が進められた。1956年ハンガリー動乱1968年プラハの春の際は、ウクライナで威嚇のための大軍事演習が行われたり、ウクライナを経由して東欧の衛星国へ戦車が出撃している。1953年のスターリンの死後に、大粛清の犠牲になった多くのウクライナ人の名誉回復がなされ、また徐々にウクライナ文化の再興が水面下で活発化した。

1954年ニキータ・フルシチョフにより、クリミア半島(クリム半島)がロシアからウクライナに移管された。これは、ポーランド・リトアニア共和国に対抗するためにロシアとウクライナ・コサックの間で結ばれたペレヤスラフ条約締結300周年記念を祝うためであった。

1960年代には体制に批判的な、または「ウクライナ的な」文学も登場した。フルシチョフの「脱スターリン主義」の時代には、ウクライナ・ソヴィエト政府もこのような動きを少なからず容認した。しかしレオニード・ブレジネフの「停滞の時代」になると、1972年にウクライナ人知識階級が大量に逮捕されるという事件が起こる。1976年には人権擁護団体「ウクライナ・ヘルシンキ・グループ」が結成されるが、それも弾圧された。

ソ連支配下のウクライナにおいて大部分のウクライナ農民は、1970年代まで国家の社会保障を受けることもできないでいた。収穫の大部分は相変わらず国家によって搾取され、スターリンの粛清の恐怖がなくなった今、共産党の幹部たちは自らの特権階級(ノーメンクラトゥーラ)としての地位を不動のものとする。非効率な計画経済、冷戦下における膨大な軍事費・科学技術費は、ウクライナの近代化を進めたとはいえ、人々の生活は一向に改善する気配が無かった。政治の腐敗、経済的矛盾は深刻化していったにもかかわらず、隠蔽されつづけた。

1986年4月26日チェルノブイリ原発事故が発生し、国内外に大きな被害が及んだ。ウクライナ国内に当たる地域には220万人ほどが住んでいた[60]。事故後、汚染地域の外にスラブチッチという街が作られ、かつて原発で働いていた者たちなどを住まわせた。国際原子力機関(IAEA)世界保健機関(WHO)によって行なわれた調査によって明らかにされたことによると、この事故により直接的に56名が死んでおり、それ以外にもこの事故を原因とするによって4000名ほどが死んだといわれる[61]


1990年に一度原発を全廃したが、1993年より原発を再び稼働させた[62]

ソ連はゴルバチョフの「ペレストロイカ」の時代を迎えており、ウクライナでは「ペレブドーヴァ」と呼ばれる改革・開放を求める運動がおきた。1960年代頃から民族文化運動を続けてきたウクライナ人文学者たちは、ウクライナ語の解放・普及を訴えた。ソヴィエト政府によってその存在を否定され、弾圧され続けてきたウクライナ・カトリックは、水面下で根強く活動を続けて、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世の強い励ましを受けた。そしてついに1989年、ウクライナ語の公用化(10月[63])、ユニエイトの公認化が実現した。東欧における民主革命の成功も受けて、ウクライナ民族運動は最高潮に達していく。

1989年9月、作家連盟などを中心に民族主義大衆組織「ペレストロイカのための人民運動」(通称"ルフ")が結成される。1990年1月22日(1918年の中央議会によるウクライナ独立宣言の日)にルフの呼びかけで、大勢のウクライナ人は手と手を繋いで長い「人間の鎖」を作り上げた。3月にはウクライナにおいて民主的な最高会議(国会)議員選挙が実現し、ルフを中心とする民主勢力が大きな勢力を占めた。7月、最高会議は「主権宣言」を採択。様々な国家の権利をソ連から取り戻すことを宣言し、非核三原則も採択した。学生や炭鉱労働者によるストライキやデモは、民主勢力をさらに後押しする。ウクライナ共産党は分裂・衰退し、民主勢力へ走る者も出た。

崩れ行くソ連を完全に見限り、8月24日に最高会議はウクライナの独立を宣言、国名から「ソビエト社会主義共和国」を削除した。12月の国民投票によっても、圧倒的に独立が支持され(ウクライナ国内の多くのロシア人も支持した)、レオニード・クラフチュクがウクライナ初代大統領に選ばれた。1917年の独立革命の挫折以来、幾多の試練を乗り越えて、ついにウクライナの独立は達成されたのである。

独立

民族別等のウクライナ独立賛成者の割合[64]
賛成 棄権 反対
民族別 ウクライナ人 68% 26% 6%
ロシア人 55% 28% 17%
その他 46% 40% 14%
母語別 ウクライナ語 68% 26% 5%
ロシア語 57% 28% 15%
その他 40% 44% 16%
ウクライナ語
使用能力別
あり 67% 26% 7%
なし 48% 33% 19%
出生地別 ウクライナ 66% 27% 7%
ロシア 52% 30% 18%
その他 65% 27% 8%

1991年ソ連崩壊に伴いソヴィエト最高会議の元から独立して新たな国家ウクライナとなり、独立国家共同体ウクライナ語 СНД ;CIS)の創立メンバーの一員となった。独立ウクライナは旧ウクライナ人民共和国の中枢機関であったウクライナ中央議会の正当な後継者であることを意識し、国旗や国章の「トルィズーブ」(三叉の鉾)などは同共和国時代のものが採用された。この独立をもって、ウクライナはキエフ・ルーシ崩壊以降ウクライナ史上最大の領土を手に入れた。

2004年、大統領選挙の混乱からオレンジ革命が起き、第三回投票で勝利したユシチェンコ2005年1月、大統領に就任した。

2005年3月、ロシア側より天然ガスの料金を国際的な市場価格にあわせてそれまでの優遇価格より倍以上に引き上げる要求があり両国が対立、2006年にかけて欧州各国を巻き込んだ騒動となった(ロシア・ウクライナガス紛争参照のこと)。その後、野党勢力により内閣不信任案が可決される。

2006年6月22日、ウクライナ最高議会選においてユシチェンコ大統領派の与党「われらのウクライナ」が惨敗。これを受けてティモシェンコ率いる「ティモシェンコ連合」と「われらのウクライナ」およびウクライナ社会党の3政党は議会多数派を組む合意が成立した。しかし、その後は人事をめぐり議論は紛糾、3政党間の亀裂は深まっていた。議会選挙で最大勢力となった地域党が議場を封鎖する間に社会党は連合を離脱した。地域党、ウクライナ共産党の支持を受け、社会党党首モロスが最高会議議長に就任した。その後、この3党は議会多数派の合意書に調印し、大統領に対し、地域党党首ヤヌコーヴィチの首相指名を提案。結果、8月にヤヌコーヴィチ内閣が成立した。しかし、大統領との権限争いで議会も分裂し、両派の妥協の産物として最高会議は解散し、2007年9月30日に臨時最高会議選挙が行われた。12月、ティモシェンコ連合とわれらのウクライナが連合する形でティモシェンコ内閣が発足した。

2010年、大統領選挙にてヤヌコーヴィチとティモシェンコが激突。決選投票の結果、ヤヌコーヴィチが勝利し、ウクライナは再び親露派に率いられることとなった。

クリミア・東部紛争

2014年ウクライナ騒乱とロシアによるクリミア自治共和国の併合

2013年11月にヤヌコーヴィチ政権が欧州連合との政治・貿易協定の調印を見送ったことで、親欧米派や民族主義政党全ウクライナ連合「自由」などの野党勢力などによる反政府運動が勃発した。2014年1月後半より、抗議者の中に右派セクター等の武力抵抗を辞さないとする立場のグループが現れ、これを制圧しようとする治安部隊との衝突が発生、双方に死者が発生、2月22日にヤヌコーヴィチ大統領が行方をくらませたことを受け、ヴェルホーヴナ・ラーダ(最高議会)にて、親露派政党の地域党と共産党を含む議会内全会派がヤヌコーヴィチの大統領解任(賛成328票中地域党36票、共産党30票)[65]と大統領選挙の繰り上げ実施を決議し、オレクサンドル・トゥルチノフ大統領代行とアルセニー・ヤツェニュク首相がヴェルホーヴナ・ラーダにおいて承認され、新政権が発足した(2014年ウクライナ騒乱[66][67]

親露派のヤヌコーヴィッチ政権が崩壊したことを理由とし、3月1日にロシア上院がクリミアへの軍事介入を承認。ロシアのウラジーミル・プーチン大統領は、ウクライナの極右民族主義勢力からクリミア半島内のロシア語話者およびロシア系住民を保護するとの名目で本格的に軍事介入を開始した。ロシアは当初否定していたが、2月後半の時点から「現地クリミア住民による自警団」に偽装させたロシア軍部隊をクリミア全土に進軍させており、西側メディアは国章を付けてない軍服を着てバラクラバで覆面した兵士たちを「ロシア軍部隊とみられる謎の武装集団」として報道していた(ロシアのクリミア侵攻[68]。このロシアの侵攻に対して、ウクライナ新政権と親欧米派の住民は侵略であるとして強く反発、他方、クリミア自治共和国およびセヴァストポリ特別市のロシア系住民の中にはこれを歓迎するものも少なくなく、ウクライナ国内法を無視する形で、クリミア自治共和国最高会議(議会)とセヴァストポリ市議会は3月11日にクリミア独立宣言を採択し、3月16日にウクライナからの独立とロシアへの編入を問う住民投票をウクライナ国内法に違反する形で実施。そもそも他国軍が展開する中という状況下に加え、様々な違法行為、投票率と投票結果への改竄が指摘されるも[69][70]、同結果を根拠に、翌17日にウクライナからの「クリミア共和国」の独立とロシアへの編入を求める決議を採択した。ロシアのプーチン大統領は同日中にクリミア共和国の主権を承認した上で、翌18日中にクリミアのロシアへの編入要請受諾を表明し、クリミアのアクショーノフ首相と共に編入に関する国家間条約に署名した(ロシアによるクリミア・セヴァストポリの編入)。5月12日にはドネツク州ルガンスク州において、同地の独立を宣言する勢力が現れた。

欧米諸国や日本はこれらロシアの動きが国際法違反の侵略で、ウクライナからのクリミアの独立とロシアへの編入は無効であるとして、ロシアへの制裁を実施した(2014年クリミア危機)。

その後、2014年3月以降、ウクライナ東部・南部、特にドネツィク州ハルキウ州ルハーンシク州オデッサ州において、反政府派と政府側との間で衝突が発生し、親露的な分離独立派の武装勢力が、州庁舎や警察機関などを占領した。また、その際、ギルキン等、ロシアの特殊部隊の兵の参加が複数確認されていることから、これらの衝突は一般のウクライナ国民による自発的反乱とみなすの難しく、実際に2014年4月以降、政府側がこのようなロシアの支援を受ける武装勢力をテロリストと見なし、軍事行動を伴う「反テロ作戦」を開始することとなった。以降、分離武装勢力もロシアから流入したと見なされている兵器を用いて、政府側軍用機を撃墜するなど事実上の戦争状態が続いている。なお、日本を含む[71]欧米諸国およびウクライナは、衛星写真[72]や各報道等を根拠に武装勢力にロシアからの兵の投入、戦闘員と兵器等武器供与の支援があるとして非難を続けているが、一方でロシアは、自国民があくまで自発的に戦闘に参加しているだけであり、ロシア軍の直接侵攻は否定し続けており、両者間の意見の対立が続いている。

ポロシェンコ政権・ミンスク合意
ファイル:Senator McCain Visits Batumi 2010.jpg
諮問機関の最高顧問に就任したミハエル・サーカシビリ氏(左) 右はマケイン米上院議員。サーカシビリ氏は後に国外追放された。

2014年6月に大統領選挙によって選ばれたペトロ・ポロシェンコが大統領に就任。以降も、引き続き、東ウクライナでは親欧米の政権側と親露の分離独立派(ノヴォロシア人民共和国連邦)による戦闘[73]東部ウクライナ紛争)が続いており、一時的にウクライナ政権側と分離独立派、ロシア、ドイツ、フランスによる一時停戦案が結ばれるも、すぐに政府軍による反テロ作戦が再開[74]され、各地で市街戦を含む戦闘が行われ、多数の民間人が犠牲となっている。9月5日にはベラルーシミンスクで、ロシア、ウクライナ、OSCE、分離独立派の代表者によって、停戦と政治解決を目指すミンスク・プロトコルに調印され(ミンスク合意英語: Minsk_Protocol))、追って9月19日には治安面解決の詳細を記したミンスク・メモランダムが調印された。以降、欧州安全保障協力機構のウクライナ特別監視ミッションが、2014年9月のミンスク合意の執行を監督することとなった。 2014年10月26日のウクライナ最高議会選挙では、事実上、親欧米派が勝利したが[75]、ミンスク合意の後も戦闘は続き、結果として、一般市民を含む死者数は、2014年7月17日に発生したマレーシア航空17便撃墜事件クラボボ村)なども含めれば5,000人以上に上るなど[76]、欧州では旧ユーゴ内戦以来の死者数を出した。

2015年2月11日、ウクライナ、ロシア、フランス及びドイツは再びミンスクでサミットを開催し、ウクライナ西部の紛争終結に向けた体制の枠組について再度の合意が行われた(ミンスク合意2英語: Minsk_II))。

政治

ウクライナの政体は、司法立法行政の三権が分立する議会制民主主義共和制)であり、大統領制議院内閣制をミックスした半大統領制を採用している。大統領は、5年任期で国民投票によって選ばれ、首相や政府の閣僚を任命する権限をもつが、それには議会の承認を得なければならない。

議会

ウクライナの国会は、最高議会であり、一院制で450議席。全議席は全国区の比例代表制によって選出されるが、政党もしくは選挙ブロックは全投票の3%以上を獲得しなければ議席を得ることができない。議員の任期は5年。議会は立法、国際協定の批准、予算の裁可および首相の承認・罷免、閣僚の承認・罷免を行う。

2012年の選挙で議席を獲得した政党は5党。それは、親露派で東部・南部を地盤とする地域党および社会主義派のウクライナ共産党与党)、ならびに親欧米派で中部や西部を地盤とする全ウクライナ連合「祖国」ウダール、さらに、西部のガリツィア地方を地盤とする民族主義派の全ウクライナ連合「自由」野党)である[77]

2004年ウクライナ大統領選挙

2004年クチマ大統領の任期満了に伴い大統領選挙がおこなわれた。

クチマ大統領の後継ヤヌコーヴィチ首相と、野党指導者・ユシチェンコ元首相の一騎討ちという形になった。10月31日の第1回投票ではユシチェンコが首位に立つが、僅か15万票差であった。

11月21日の決選投票の開票の結果、ヤヌコーヴィチの当選が発表される。しかし、ユシチェンコ陣営は11月22日夜、決選投票において全国で1万1000件の不正が行われ、第一回投票の5倍に膨らんだと、政権側の選挙違反を糾弾した。これにより首都キエフを中心に、ストライキなどの大規模な政治運動が起こった(オレンジ革命)。

欧米諸国の圧力もあり再選挙が行われることとなり、12月26日に実施された再決選投票の結果、ユシチェンコが52.12%、ヤヌコーヴィチが44.09%の得票となり、ユシチェンコ元首相の当選が確実になった。ヤヌコーヴィチ陣営はユシチェンコ陣営に不正があったとして最高裁に提訴したが野党による政府施設の封鎖が起こり、30日には提訴が却下された。翌2005年1月23日にユシチェンコ元首相は正式に大統領に就任し、この争いは一応の決着を見た。

なお、この選挙期間中、欧米のマスメディアはロシア人とウクライナ人の間で民族的対立が激化してウクライナ国民に分裂が生じているように報じた。この選挙ではアメリカのウクライナ系政治団体の資金援助やオープン・ソサエティ財団の公然の介入が行われており、ウクライナ自身の革命と言うよりは外国勢力の干渉の結果だったという分析もある。一方、干渉があったとはいえ、それだけでなし得たものではなく実際に国民の間に従来の政権に対する不満があったことは大きな要素のひとつであった。また、アメリカが反ロシア派を支援した背景には、ロシア帝国時代やソ連時代にロシア勢力から弾圧を受けた非常に多くのウクライナ人がアメリカに亡命を余儀なくされたという歴史上の経緯も関係している、という分析もある。

つまり、アメリカに亡命したウクライナ人の作った組織がアメリカ政府や関係者に働きかけ、反ロシア的な勢力を支援させるということは不自然ではない、というのである。しかし、このようなロビー活動が表沙汰になることは少なく、こうしたもっともらしい分析もこれまでの経緯から類推した憶測の域を出ない。いずれにせよ「アメリカ側の都合だけで革命が推進された」であるとか「オレンジ革命は悪しき旧共産主義的な独裁体制からの民主化を達成した」というように単純化できる問題ではない。その後、ウクライナではしばしば「革命」が叫ばれることが習慣化しており、2007年にも反ユシチェンコ派の議員が「革命」を実行している。

2010年ウクライナ大統領選挙

大統領選挙が2010年1月〜2月にかけて行われ、ヴィクトル・ヤヌコーヴィチが大統領に当選した。

2014年ウクライナ大統領選挙

大統領選挙が2014年5月25日に行われ、ペトロ・ポロシェンコが大統領に当選した。

ポロシェンコ-ヤツェニュク政権は総選挙後の内閣組閣において、財務相に在ウクライナ米国大使館での勤務経験があり、未公開株投資ファンドの代表を務めるアメリカ人ナタリヤ・ヤレスコ、経済発展・貿易相に投資銀行に勤務するリトアニア人アイバラス・アブロマビチュス、保健相にグルジア人のサーカシビリ政権の元閣僚で米ニューヨークを拠点としているアレクサンダー・クヴィタシュヴィリの3人の外国人も入閣した[78]。いずれも、任命の数日前にウクライナ国籍を取得している。顧問にはグルジアの前大統領で強権的な独裁者としての振る舞いからグルジアでの地位を失ったミハエル・サーカシビリが就任した[79]。その他、エカ・ズグラゼやアデイシヴィリ氏等のサーカシビリ氏の盟友が多く要職についていた。しかし、その後ポロシェンコ大統領との確執から相次いで辞任し、サーカシビリ自身もウクライナ国籍を剥奪されて国外追放された。

軍事

ウクライナ軍は、陸軍海軍空軍の3軍種から成る。2005年末の時点で、総員24万5千人(内、軍人18万人)。

準軍事組織

ウクライナには、ウクライナ軍以外に、以下の準軍事組織が存在する。

経済

IMFの統計によると、2013年のウクライナのGDPは1,783億ドルである[1]。1人当たりGDP(為替レート)は3,930ドルであり[1]、西隣にあるポーランドの (13,393) の約30%、北隣にあるベラルーシ (7,577) の約半分、世界平均の約40%程度の水準しかなく、グルジア (3,604)、アルメニア (3,208)、モルドバ (2,229) と並ぶ欧州最貧国の1つである。最新の2015年の推計によると、1人当たりGDP(為替レート)は2,001ドルまでに低下し[80]、旧ソ連の最貧国レベルとなっている。タタール人リナト・アフメトフイスラエル国籍も持つユダヤ人イホル・コロモイスキーなどの一部のオリガルヒによる寡頭制資本主義体制が続いている。

ソビエト連邦時代は、連邦内の重要な農業および産業地帯であったが、現在は天然ガスを中心とするエネルギー供給のほとんどをロシアに依存しており、経済の構造改革の遅れと相まって、他国の影響を受けやすいものになっている。しかしその一方で国家腐敗が進行している為、事態は深刻さを極めるものとなっている。[81]

1991年、政府はほとんどの物資の価格を自由化し、国有企業を民営化するための法制度を整備した。しかし、政府や議会内の強い抵抗により改革は停止され、多くの国有企業が民営化プロセスから除外された。1993年の末頃には、通貨政策の失敗によりハイパーインフレーションにまで至った。

1994年に大統領に就任したレオニード・クチマは、IMFの支援を受けながら経済改革を推進し、1996年8月には10万分の1のデノミを実施し、新通貨フリヴニャを導入した[82]。現在の政府は、経済への介入を極力減らし、調整方法を合理化することに努めるとともに、企業家を支援する法環境を整備し、包括的な税制の改革を行った。ただし構造改革の政治的な問題に関わる分野や農地の民営化に関する改革は遅れている。

1999年の生産高は、1991年の40%にまで落ち込んだ[83]。しかし、同年には貿易収支が初めて黒字を記録[84]。その後もフリヴニャ安や鉄鋼業を中心とした重工業により、2000年国内総生産は、輸出の伸びに支えられて6%という成長をみせ、工業生産高の成長も12.9%だった。これは独立以来初めての上方成長であった。2001年から2004年までの間も、中国への鉄鋼輸出の急増などに起因して高度成長が続いた。

ところが2005年、ユシチェンコ政権の成立後暗転し始める。それまでの好調なウクライナ経済は、ロシアからの安価なエネルギー資源および原料の供給、経済発展を続けるロシアや中国への輸出等によって支えられていた。しかしユシチェンコ大統領は就任直後、ロシアとは距離を置き、EUやアメリカなどとの関係を強化する姿勢を示した。大統領はアメリカなど西欧諸国からの投資拡大を見込んでいたが、実際にはそれほど投資は増えず、逆にロシアからの安価なエネルギー資源供給が受けられなくなった(ロシア・ウクライナガス紛争を参照)。またロシアに並ぶ輸出相手国であった中国の需要が減少するなど経済環境が悪化。

2008年以降は世界金融危機の影響を受けてウクライナ経済は再び落ち込み、債務不履行の瀬戸際まで追い込まれた。経済安定化のため2008年10月にはIMFより総額165億ドルに及ぶ緊急融資を受けた[85]。2010年7月にはIMFより新たに152億ドルの融資を受けることで合意した[86]

2014年クリミア危機とその後現在まで継続しているウクライナ東部での戦闘により、ロシアとの関係が極度に悪化。それにより深刻な経済危機に陥り、2015年の経済成長率は-11.6% となっている。1人当たりGDPも2,109ドルにまで落ち込むなど欧州最貧国となっている。

2015年12月31日、ロシアに対する30億ドルの債務を返済しなかったことを根拠に、ロシア財務省はウクライナはデフォルト状態であると指摘した[87]

2016年5月現在のIMFの統計によると1人あたりのGDPは更に低下し[88] 1,854ドルと現在欧州最貧国のモルドバの1,712ドルと殆ど変わらず、現在の経済成長率を反映すると来年にはモルドバに抜かされ名目GDPも欧州最貧国になるのは確実と思われる。

外交

ロシアとの関係

ファイル:Diplomatic relations of Ukraine.PNG
ウクライナの国際関係。

ウクライナとロシアは歴史上複雑な関係を持つが、ソ連崩壊後現在に至るまで緊張が続いている。

ユシチェンコ大統領の就任当初は、ロシアよりもEU(欧州連合)諸国との関係を強化することを目指していた。同様の立場を取るグルジアアゼルバイジャンモルドヴァとともにGUAM(4カ国の頭文字)と呼ばれる連合を結成。同国自身が将来のEU加盟を希望し、2017年時点でもそのための外交努力を続けている(後述の「欧米との関係」を参照)。

一方で、ウクライナ経済はロシアとの関係を悪化させたこと等を理由に急速に悪化。大統領はロシアとの関係に対する見解の相違等からティモシェンコ首相を解任。その後は頻繁にロシアを訪問し、ロシアとの政治的・経済的関係を強化させようとするなど、ロシアとの関係修復も模索してきた。2010年の大統領選挙で当選したヴィクトル・ヤヌコーヴィチ大統領の誕生により、ロシアとの関係改善がより一層進むものと見られていた。

ヤヌコーヴィチ政権時、ウクライナは北大西洋条約機構(NATO)やロシア主導の「CSTO」のような軍事同盟加盟を目指さない中立主義を法律で定めた。

しかし、2013年末から生じたウクライナ騒乱に続き、ロシアによるクリミア併合・東部不安定化以降、ロシアとの関係は再び悪化した。新政権は、一方でアメリカ合衆国やEUを中心とした欧米諸国との関係を重視している。ポロシェンコ-ヤツェニュク政権は在ウクライナ米国大使館勤務経験のあるアメリカ人やグルジアのサーカシビリ政権の側近等を要職に就かせるなど、親欧米・反露路線を鮮明にしている。

なお、2016年時点でウクライナはロシアに対し30億ドルの負債を負っており[89]、今後国際裁判所で争われることとなっている。

また、司法分野においては、ロシアに対し、2014年6月ごろルハーンシク州内の戦闘中に拘束され、ロシアに連れ出され勾留されたウクライナ人女性のナジーヤ・サウチェンコEnglish版の即時釈放を訴えている。ロシア当局は、同女性がウクライナ西部においてロシア人ジャーナリスト2名を殺害した嫌疑があると主張していたが、ウクライナをはじめアメリカ、ドイツフランス等各国政府、欧州議会等がロシアによるサウチェンコの拘束には根拠がないとして、ミンスク合意に従ってロシアはサウチェンコを解放すべきとした[90]

ウクライナとロシアの旅客流動は最大であったが、2015年10月以降、ウクライナとロシアを結ぶ航空旅客便は全便の運行が停止している[91]

また、2017年にはポロシェンコ大統領の大統領令を通じて、対露制裁の一環で、VKontakteOdnoklassniki等のロシア系SMSサービス、YandexMail.ru等のロシア系のウェブサイトへのアクセスを禁止した[92]

ウクライナ政府はロシアからの天然ガス輸入を2016年は打ち切り、2017年も再開しない見通しであると表明している[93]

欧米との関係

ポロシェンコ政権はEU加盟を希望している。具体的な加盟交渉に至ってはいないが、東欧諸国を対象とするEU安定化・連合プロセスの要となる連合協定について、EU加盟国で唯一未批准だったオランダの上院が2017年5月に批准を承認した。同年6月11日からは、イギリスアイルランドを除くEU加盟国へウクライナ国民が90日の査証(ビザ)無し渡航が可能になった。

ロシアによるクリミア編入宣言や東部ウクライナ紛争への関与疑惑に対して、欧米諸国は対露制裁でウクライナを支援している。米軍はウクライナ軍へ兵器供給と訓練を実施している[94]

日本との関係

日本はユシチェンコ大統領期の2005年3月に同国とのODA円借款契約を初めて締結しているが(190億9200万円、償還期間30年)、ヤヌコーヴィチ大統領及びティモシェンコ首相の時期は契約を行っておらず、2014年6月7日にポロシェンコが大統領となり9年ぶりに契約の締結を再開した。2014年7月には100億円(償還期間20年間)、2015年6月に1081億9300万円(同40年間)、12月に369億6900万円(同20年間)と、巨額の資金貸付けが行われた[95]

2005年8月1日より日本国民がウクライナに入国する際のビザ(査証)を短期90日までの滞在(但し、就労を伴わない活動に限る)に限って、その取得を必要としない制度が開始された。しかしながら、2014年7月現在、ウクライナ国民の日本への入国には依然としてビザが必要である。

教育・科学

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リヴィウシカ・ポリテフニカ大学

1995年から6歳から17歳までの11年間が義務教育である。小学校・中学校に相当する9年間は同じ学校に通い、10年目以降は普通学校と専門学校のいずれかを選択することになる。このため11年間同じ学校に通う生徒も存在する。

必須科目はウクライナ語のほか、情報学、経済学などで、英語は1年生からの必須科目である。2000年から2001年の調査によると全体の7割がウクライナ語で教育を受け、残りの3割弱がロシア語となっている。その他、クリミア・タタール語、ハンガリー語、ルーマニア語でも教育が行われている。

ウクライナの学校は、3月末に1週間の春休み、6 - 8月に3ヵ月間の夏休み、12月末 - 1月に約2週間の冬休みがある。

高等教育機関

研究所

マスコミ

文化

料理

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ウクライナ発祥地のボルシチは国内でもっとも一般的なスープである。

ウクライナ料理は、東欧を代表するウクライナ人の伝統的な食文化である。その歴史はキエフ大公国時代にさかのぼる。ウクライナ料理は、ポーランドリトアニアルーマニアロシアユダヤなどの食文化にも大きな影響を与えた。一方、他国の料理の影響が見られる[96]

主食パンであり、パンに類する食品も多い。その中で、ヴァレーヌィク(ウクライナ風餃子)、ハムーシュカフレチャーヌィク団子)、コールジュコロヴァーイケーキの一種)、パスカ復活祭のパン)、クチャー小麦の甘いお粥)などがある。の料理が比較的に少なく、スープ野菜煮物などの料理が圧倒的に多い。世界的にも有名なウクライナ料理ボルシチは、大まかに50種類以上のレシピがある。肉料理は肉料理、魚料理は類料理が一般的である。さらに、肉料理としてサーロ脂身塩漬け)が頻繁に利用される。 飲み物は甘い、もしくは甘辛いものが多い。メドウーハ蜂蜜酒)、ホリールカ(唐辛子入りのお)、ナスチーイカ(果実酒)、クヴァース(液体のパン)などがある[96]

主な調理法は軽く炒めて茹でること、また軽く炒めて煮ることである。揚げ物などは少ない。調味料としては、サーロ、向日葵油スメターナ蜂蜜などが用いられる[96]

ウクライナでは、ウクライナ料理のほかに、クリミア・タタール料理が存在する。

スポーツ

他のヨーロッパ諸国同様、サッカーテニスバスケットボールバレーボールなどの球技に人気がある。2012年にはポーランドと共催でサッカー欧州選手権2012が開催された。

文学

参照: ウクライナの文学

美術

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ウクライナのプィーサンカ

建築

世界遺産

ウクライナ国内には、ユネスコ世界遺産リストに登録された文化遺産が6件、自然遺産が1件存在する。詳細は、ウクライナの世界遺産を参照。

音楽・舞踊

神話・昔話

祝祭日

祝祭日
日付 日本語表記 ウクライナ語表記 備考
1月1日 元日 Новий рік 70px
1月7日 クリスマス Різдво 70px
3月8日 国際女性デー Міжнародний жіночий День 70px
5月1日 労働の日 День міжнародної солідарності трудящих 70px
移動祝日 復活祭 Великдень 70px
5月9日 勝利記念日 День Перемоги 70px
復活祭の第8日曜日 三位一体の日 Трійця 70px
6月28日 憲法記念日 День Конституції 70px
8月24日 独立記念日 День Незалежності 70px

ウクライナゆかりの有名人

政治

文学

学術

スポーツ

音楽・芸術

映画

脚注

注釈

  1. 日本語文献では「ウクライナ共和国」という正式国号がしばしば見られるが、間違いである。
    ウクライナ語の「Україна」については、日本語には「ї」に近い発音がないため表記が困難であるが、便宜的に「ウクライィーナ」と表現される。ラテン文字表記としては「Ukrayina」や「Ukraina」が用いられる。
  2. 現在の国籍ウクライナからアゼルバイジャンへ変更。

出典

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  2. (ウクライナ語) ウクライナ憲法 // ウクライナ最高議会公式ページ。
  3. 以前は「烏克蘭」が用いられていたが、天江喜七郎が駐ウクライナ特命全権大使在任時にウクライナ日本語教師の大会で「宇克蘭」を使用するよう確認。以降、日本国外務省、及び在ウクライナ大使館では「宇克蘭」、略称「宇」を用いている。(例:“キエフ案内”. 在ウクライナ日本国大使館. http://www.ua.emb-japan.go.jp/jpn/sidebar/info/photo/kievinfo.pdf . 2014閲覧. ウクライナ語オンライン大辞典も参照されたし。また、中澤英彦著「ニューエクスプレス ウクライナ語」(白水社、2009)にも「宇」との省略形が使用されているがその一方、「烏克蘭」の使用は現在も散見される。
  4. weblio辞書「ウクライナ」”. 三省堂 大辞林. 三省堂. . 2011閲覧.
  5. Оукраина」と表記される場合もある。
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  7. Полное собрание русских летописей (ПСРЛ). — Т. 2. Ипатьевская летопись. — СПб., 1908. — c. 663.
  8. Полное собрание русских летописей (ПСРЛ). — Т. 2. Ипатьевская летопись. — СПб., 1908. — c. 732.
  9. Полное собрание русских летописей (ПСРЛ). — Т. 2. Ипатьевская летопись. — СПб., 1908. — c. 881.
  10. (ウクライナ語) Яковенко, Н. Нарис Історії України з найдавніших часів до кінця XVII. — К., 1997
  11. 1657年スウェーデン王国との交渉においてコサックの棟梁イヴァン・ヴィホーウシクィイは、「ギリシアの信仰ルーシの言葉が広まっている地域、ヴィスワ川までの古のウクライナ、あるいはルーシ」の所有権の承認を主張していた。(ウクライナ語) Яковенко, Н. Нарис Історії України з найдавніших часів до кінця XVII. — К., 1997
  12. (ウクライナ語) Яковенко, Н. Нарис Історії України з найдавніших часів до кінця XVII. — К., 1997
  13. (ウクライナ語) Півторак Г.П. Походження українців, росіян, білорусів та їхніх мов. Міфи і правда про трьох братів слов'янських зі «спільної колиски»(H・ピウトラーク. 『ウクライナ人、ロシア人、ベラルーシ人とそれらの言語の起源). — Київ : Академія, 1998.
  14. (ウクライナ語) КРАЙ 。ウクライナ語オンライン大辞典。例えば、
    Рідний край、[リードヌィイ・クラーイ]、故郷。
    Передній край、[ペレードニイ・クラーイ]、前線。
    Східний край、[スヒードヌィイ・クラーイ]、東端。
  15. (ウクライナ語) КРАЇНА 。ウクライナ語オンライン大辞典
  16. (ウクライナ語) у 。ウクライナ語オンライン大辞典
  17. (ウクライナ語) в 。ウクライナ語オンライン大辞典
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  70. クリミア・タタール人指導者であるムスタファ・ジェミレフ氏は、国連安全保障理事会において、住民投票の投票率は32.4%であったと報告。(ロシア語)"Мустафа Джемилев выступил в Совете Безопасности ООН" Голос Америки 2014年3月31日
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参考文献

著作

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  • (日本語) 中井和夫 『ウクライナ・ナショナリズム』 東京大学出版会、1998年。
  • (日本語) 新興国ウクライナ / ウイルヘルム・キスキー[他]. 世界思潮研究会、1921.
  • (日本語) ウクライナ、白ロシア、モルダビアの民話 / 伊集院俊隆. 新読書社、1985.
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  • (日本語) ウクライナ語入門 / 中井和夫. 大学書林、1991.
  • (日本語) とどけウクライナへ / 坂東弘美. 八月書館、1991.
  • (日本語) ウクライナとモルドバ / 秋山秀一. 芦書房、1992.
  • (日本語) スキタイ黄金美術展図録 / 江上波夫、加藤九祚. 日本放送協会、1992. *(日本語) うくらいな / 島田文彦. 日本図書刊行会、1993.
  • (日本語) ウクライナ / 早坂真理. リブロポート、1994.
  • (日本語) グルジア、ウクライナの歌 / 二見淑子. 近代文芸社、1995.
  • (日本語) ウクライナ語基礎1500語 / 黒田竜之助. 大学書林、1995.
  • (日本語) てぶくろ:ウクライナ民話 / 田中かな子[他]. メイト、1995.
  • (日本語) 日本とウクライナの国境をこえて / 長田久文. 長田久文、1996.
  • (日本語) かものむすめ:ウクライナ民話 / 松谷さやか[他]. 福音館書店, 1997.
  • (日本語) 黄金のシルクロード展 / 加藤九祚. 黄金のシルクロード展実行委員会、1998.
  • (日本語) ポーランド・ウクライナ・バルト史 / 伊東孝之、井内敏夫、中井和夫. 山川出版社、1998.
  • (日本語) わらのうし / 内田莉莎子[他]. 福音館書店、1998.
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  • (日本語) 国境・領土紛争の比較研究‐ロシアとウクライナ、中国、日本 / 木村、汎、国際日本文化研究センター. 2000-2001.
  • (日本語) 物語ウクライナの歴史 / 黒川祐次. 中央公論新社, 2002.
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  • (日本語) ネイションとステートの形成プロセスにおけるウクライナ・アイデンティティーの確立 / 末澤恵美、平成国際大学. 2003-2005.
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  • (日本語) 現代ウクライナ短編集 / 藤井悦子、オリガ・ホメンコ. 群像社、2005.
  • (日本語) ウクライナ丸かじり / 小野元裕. ドニエプル出版、2006.
  • (日本語) 日本語-ウクライナ語・ウクライナ語-日本語単語集 / 阿部昇吉[他]. 国際語学社、2007.
  • (日本語) 大地の肖像 / 藤井讓治、杉山正明、金田章裕. 京都大学学術出版会、2007.
  • (日本語) ウクライナ語会話 / ユーラシアセンター. ベスト社、2007.4
  • (日本語) 北方の資源をめぐる先住者と移住者の近現代史 / 北海道開拓記念館. 北海道開拓記念館、2008.
  • (日本語) 地域間の歴史世界 / 鈴木健夫. 早稲田大学出版部、2008.
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  • (日本語) ウクライナ・国鉄機関車修理工場の近代化調査報告書. 経済産業省、2008.
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論文

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  • (日本語) NATO・ウクライナ関係について / 北住 英樹. 鵬友. 29(2). 2003.7.
  • (日本語)「ウクライナ民族主義者組織(OUN)」と「ウクライナ蜂起軍(UPA)」のウクライナ独立国家構想とその戦略 - 対ソ政策と対ポーランド政策を中心に / 柳沢 秀一. 現代史研究. (通号 50). 2004.
  • (日本語) 検証 ウクライナでの"オレンジ革命"--革命成功の原因と新政権の課題 / 井沢 正忠. 海外事情研究所報告. (通号 39). 2005.
  • (日本語) ウクライナ大統領選挙に関する一考察 / 粟田 聡. ユーラシア研究. (32). 2005.5.
  • (日本語) ウクライナにおける日本語教育の現状と問題点 / 立間 智子. 国際交流基金日本語教育紀要. (2). 2006.
  • (日本語) 特別寄稿 ロシア天然ガス供給停止の波紋 - ウクライナ問題と日本への示唆 / 村木 茂. エネルギーレビュー. 26(3) (通号 302). 2006.3.
  • (日本語) ウクライナとロシア原油--供給源・ルート多元化をめぐる戦い / 藤森 信吉. 比較経済研究. 43(2). 2006.8.
  • (日本語) 世界史Q&A ベラルーシ人・ウクライナ人とロシア人の違いについて教えてください (世界史の研究(209)) / 中井 和夫. 歴史と地理. (通号 599). 2006.11.
  • (日本語) イヴァン・フランコの『狐ミキータ』- ウクライナにおけるゲーテ受容の一例 / 小粥 良. Goethe-Jahrbuch. 49. 2007.
  • (日本語) レーシャ・ウクラインカ再読--ウクライナ文学におけるナショナル・アイデンティティ / 原田 義也. スラヴ研究. (54). 2007.
  • (日本語) ウクライナ語《ridna mova》が意味するもの / 〆木 裕子. 大阪大学言語文化学. 17. 2008.
  • (日本語) ウクライナの現代言語状況と言語問題 / 芳之内 雄二. 北九州市立大学文学部紀要. (74). 2008.
  • (日本語) ウクライナ系カナダ人のエスニシティと社会統合 - ウクライナ・ヴィレッジ設立とその公営化までを中心に / 浦田 葉子. 経営研究. 21(1) (通号 50). 2008.1.
  • (日本語) ウクライナのWTO加盟 / 関 嘉勝. JMC journal. 56(5) (通号 686). 2008.5.
  • (日本語) 日本の鏡ウクライナ--日本への熱い期待 / 馬渕 睦夫. 外交フォーラム. 21(8) (通号 241). 2008.8.
  • (日本語) 世界の潮 ロシアとウクライナの「ガス戦争」 / 塩原 俊彦. 世界. (788). 2009.3.

関連項目

外部リンク

政府
日本政府
大使館
その他
観光


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