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{{基礎情報 国
 
{{基礎情報 国
 
  | 略名 =イラン
 
  | 略名 =イラン
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  | 駐日大使館の所在地 =東京都港区南麻布三丁目13-9
 
  | 駐日大使館の所在地 =東京都港区南麻布三丁目13-9
 
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'''イラン・イスラム共和国'''(イラン・イスラムきょうわこく、{{lang-fa|جمهوری اسلامی ایران}})、通称'''イラン'''は、[[西アジア]]・[[中東]]の[[イスラム共和制]][[国家]]。'''[[ペルシア]]'''、'''ペルシャ'''ともいう。北に[[アゼルバイジャン]]、[[アルメニア]]、[[トルクメニスタン]]、東に[[パキスタン]]、[[アフガニスタン]]、西に[[トルコ]]、[[イラク]]と境を接する。また、[[ペルシア湾]]をはさんで[[クウェート]]、[[サウジアラビア]]、[[バーレーン]]、[[カタール]]、[[アラブ首長国連邦]]に面する。首都は[[テヘラン]]。
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'''イラン・イスラム共和国'''(イラン・イスラムきょうわこく、{{lang-fa|جمهوری اسلامی ایران}})、通称'''イラン'''
 
 
[[1979年]]の[[ルーホッラー・ホメイニー]]師による[[イラン革命|イラン・イスラーム革命]]により、[[宗教]]上の最高指導者が国の最高権力を持つ[[イスラム共和制]]を樹立しており、[[シーア派]][[イスラーム]]が[[国教]]である。世界有数の[[石油]]の産出地でもある。
 
 
 
== 国名 ==
 
{{main|{{仮リンク|イランの国名|en|Name of Iran}}}}
 
イラン人自身は古くから国の名を「[[アーリア人]]の国」を意味する「イラン」と呼んできたが、[[西洋]]では古代より[[ファールス州]]の古名「パールス」にちなみ「[[ペルシア]]」として知られていた。[[1935年]][[3月21日]]、[[レザー・パフラヴィー|レザー・シャー]]は諸外国に公式文書に本来の「イラン」という語を用いるよう要請し、正式に「イラン」に改められたものの混乱が見られ、[[1959年]]、研究者らの主張により[[モハンマド・レザー・シャー]]がイランとペルシアは代替可能な名称と定めた。その後[[1979年]]のイラン・イスラーム革命によってイスラーム共和制が樹立されると、国制の名としてイスラーム共和国の名を用いる一方、国名はイランと定められた。
 
 
 
現在の正式名称は[[ペルシア語]]でجمهوری اسلامی ایران(Jomhūrī-ye Eslāmī-ye Īrān ジョムフーリーイェ・エスラーミーイェ・イーラーン)、通称 ایران {{IPA-fa|ʔiːˈɾɑn||Fa-Iran (2).oga}}。公式の[[英語]]表記はIslamic Republic of Iran、通称Iran。[[日本語]]の表記は「イラン・イスラム共和国」または「イラン回教共和国」<ref>国際連合広報センター 加盟国一覧 http://www.unic.or.jp/info/un/un_organization/member_nations/</ref>、通称イランであり、[[国名の漢字表記一覧|漢字表記]]では「伊蘭」とも当てた。
 
 
 
== 歴史 ==
 
{{イランの歴史}}
 
{{Main|イランの歴史}}
 
=== 古代 ===
 
[[ファイル:Takht-jamshid.jpg|thumb|left|220px|2500年の歴史を経て[[ペルセポリス]]の遺跡は訪れる人々を魅了する。]]
 
イランの歴史時代は[[紀元前3000年]]ころ[[原エラム]]時代にはじまる。[[アーリア人]]の到来以降、王朝が建設されやがて[[ハカーマニシュ朝]](アカイメネス朝)が勃興、[[紀元前550年]]に[[キュロス2世|キュロス大王]]が[[メディア王国]]を滅ぼしてペルシアを征服し、さらにペルシアから諸国を征服して[[古代オリエント]]世界の広大な領域を統治する[[ペルシア帝国]]を建国、[[紀元前539年]]に[[バビロン捕囚]]にあった[[ユダヤ人]]を解放するなど各地で善政を敷き、また[[ゾロアスター教]]をその統治の理念とした。
 
 
 
アケメネス朝は[[マケドニア王国]]の[[アレクサンドロス3世|アレクサンドロス大王]]率いる[[ギリシャ]]遠征軍によって[[紀元前330年]]に滅ぼされたが、まもなく大王が死去して[[ディアドコイ戦争]]となり、帝国は三分割されて[[セレウコス朝]]([[紀元前312年]] - [[紀元前63年]])の支配下に入った。[[シリア戦争 (プトレマイオス朝)|シリア戦争]]中には、[[紀元前247年]]にハカーマニシュ朝のペルシア帝国を受け継ぐ[[アルシャク朝]](パルティア)が成立し、[[ローマ・シリア戦争]]でセレウコス朝が敗れるとパルティアは離反した。
 
 
 
パルティア滅亡後は[[226年]]に建国された[[サーサーン朝]]が続いた。サーサーン朝は度々[[ローマ帝国]]と軍事衝突し、[[259年]]/[[260年]]に[[シャープール1世]]は親征してきた[[ウァレリアヌス]]帝を[[エデッサの戦い]]で打ち破り、捕虜にしている。イスラーム期に先立つアケメネス朝以降のこれらの帝国は[[オリエント]]の大[[帝国]]として独自の文明を発展させ、[[ローマ帝国]]や[[イスラム帝国]]に文化・政治体制などの面で影響を与えた。
 
 
 
=== イスラーム化 ===
 
[[ファイル:Mahan asemoon.jpg|thumb|left|[[9世紀]]から[[11世紀]]の[[イスラームの黄金時代]]と呼ばれる時代、イランはその中心地であった。]]
 
7世紀に入ると、サーサーン朝は[[東ローマ帝国]]の[[ヘラクレイオス]]帝との紛争や[[メソポタミア]]の大洪水による国力低下を経て、[[アラビア半島]]に興った[[イスラーム]]勢力の[[ハーリド・イブン・アル=ワリード]]らが率いる軍勢により疲弊、[[636年]]の[[カーディスィーヤの戦い]]、[[642年]]の[[ニハーヴァンドの戦い]]でイスラーム勢力に敗北を重ね、[[651年]]に最後の皇帝[[ヤズデギルド3世]]が死去したことを以て滅亡した。
 
 
 
イランの[[中世]]は、この[[イスラーム教徒のペルシア征服|イスラームの征服]]に始まる幾多の重要な出来事により特色付けられた。[[873年]]に成立したイラン系の[[サーマーン朝]]下では[[ペルシア文学]]が栄え、[[10世紀]]に成立した[[イラン系]]の[[ブワイフ朝]]は[[シーア派]]イスラームの[[十二イマーム派]]を[[国教]]とした最初の王朝となった{{sfn|岡田|鈴木|北原|2005|p=198|ps= - [[渡部良子]]「多民族共生の歴史と「国史」の齟齬」}}。[[11世紀]]から[[12世紀]]にかけて発達した[[ガズナ朝]]や[[セルジューク朝]]や[[ホラズムシャー朝]]などのトルコ系王朝は文官としてペルシア人官僚を雇用し、[[ペルシア語]]を[[外交]]や[[行政]]の公用語としたため、この時代には[[ペルシア文学]]の散文が栄えた{{sfn|岡田|鈴木|北原|2005|pp=198-200|ps= - [[渡部良子]]「多民族共生の歴史と「国史」の齟齬」}}。
 
 
 
[[1220年]]に始まる[[モンゴル帝国]]の征服によりイランは荒廃し、モンゴル帝国がイスラーム化した[[フレグ・ウルス]]が滅亡した後、[[14世紀]]から[[15世紀]]にかけてイラン高原は[[ティムール朝]]の支配下に置かれた。
 
 
 
=== サファヴィー朝期 ===
 
[[File:Shah Ismail I.jpg|thumb|220px|[[サファヴィー朝]]の建国者、[[イスマーイール1世]]。サファヴィー朝の下で[[シーア派]][[イスラム教|イスラーム]]の[[十二イマーム派]]が[[ペルシア]]の[[国教]]となり、現在にまで至るイランの[[シーア派]]化の基礎が築き上げられた。]]
 
[[1501年]]に{{仮リンク|サファヴィー教団|en|Safaviyya}}の教主であった[[イスマーイール1世]]が[[タブリーズ]]で[[サファヴィー朝]]を開いた。[[シーア派]][[イスラム教|イスラーム]]の[[十二イマーム派]]を[[国教]]に採用したイスマーイール1世は遊牧民の[[クズルバシュ]]軍団を率いて各地を征服し、また、[[レバノン]]や[[バーレーン]]から十二イマーム派の[[ウラマー]](イスラーム法学者)を招いてシーア派教学を体系化したことにより、サファヴィー朝治下の人々の十二イマーム派への改宗が進んだ{{sfn|岡田|鈴木|北原|2005|pp=202-204|ps= - [[守川知子]]「シーア派国家への道」}}。[[1514年]]の[[チャルディラーンの戦い]]によって[[クルド人]]の帰属をオスマン帝国に奪われた。
 
 
 
第五代皇帝の[[アッバース1世]]は[[エスファハーン]]に遷都し、各種の土木建築事業を行ってサファヴィー朝の最盛期を現出した{{sfn|岡田|鈴木|北原|2005|pp=205-206|ps= - [[守川知子]]「シーア派国家への道」}}。[[1616年]]にアッバース1世と[[イギリス東インド会社]]の間で貿易協定が結ばれると、イギリス人の[[ロバート・シャーリー]]の指導によりサファヴィー朝の軍備が近代化された。
 
 
 
しかし、[[1629年]]にアッバース1世が亡くなると急速にサファヴィー朝は弱体化し、[[1638年]]に[[オスマン帝国]]の反撃で現在の[[イラク]]領域を失い、[[1639年]]の{{仮リンク|ガスレ・シーリーン条約|en|Treaty of Zuhab}}でオスマン朝との間の国境線が確定した。サファヴィー朝は[[1736年]]に滅亡し、その後政治的混乱が続いた。
 
 
 
=== ガージャール朝期 ===
 
[[ファイル:AmirKabir naghashbashi.jpg|thumb|left|220px|ガージャール朝の下で宰相を務めた[[アミール・キャビール|ミールザー・タギー・ハーン・アミーレ・キャビール]]。アミーレ・キャビールは宰相として[[上からの改革]]を図ったが、[[近代化]]改革に無理解な[[保守]]派の宗教勢力と国王[[ナーセロッディーン・シャー]]の反対にあってその改革は頓挫し、内憂外患に苦しむ[[19世紀]]イランの自力更生の道は閉ざされた。]]
 
[[1796年]]に[[テュルク]]系{{仮リンク|ガージャール族|en|Qajars (tribe)}}の[[アーガー・モハンマド]]が樹立した[[ガージャール朝]]の時代に、ペルシアは[[イギリス]]、[[ロシア]]など列強の勢力争奪の草刈り場の様相を呈することになった([[グレート・ゲーム]]){{sfn|吉村|2011|pp=18-30}}。[[ナポレオン戦争]]の最中の[[1797年]]に第二代国王に即位した[[ファトフ・アリー・シャー]]の下で、ガージャール朝ペルシアにはまず1800年に[[イギリス]]が接近したが[[ロシア・ペルシア戦争]]([[ロシア・ペルシャ戦争 (1804年-1813年)|第一次ロシア・ペルシア戦争]])にて[[ロシア帝国]]に敗北した後は[[フランス]]がイギリスに替わってペルシアへの接近を進め、[[ゴレスターン条約]]([[1813年]])にてペルシアが[[ロシア]]に対し[[グルジア]]や[[アゼルバイジャン]]北半([[バクー]]など)を割譲すると、これに危機感を抱いたイギリスが翌[[1814年]]に「英・イラン防衛同盟条約」を締結した{{sfn|吉村|2011|pp=28-29}}。しかしながらこの条約はロシアとの戦争に際してのイギリスによるイランへの支援を保障するものではなく、[[1826年]]に勃発した[[ロシア・ペルシャ戦争 (1826年-1828年)|第二次ロシア・ペルシア戦争]]でロシアと交戦した際には、イギリスによる支援はなく、敗北後、[[トルコマーンチャーイ条約]]([[1828年]])にてロシアに対し[[アルメニア]]を割譲、500万トマーン(約250万[[ポンド (通貨)|ポンド]])の[[戦争賠償|賠償金]]を支払い、在イランロシア帝国[[臣民]]への[[治外法権]]を認めさせられるなどのこの[[不平等条約]]によって本格的なイランの受難が始まった{{sfn|吉村|2011|pp=28-29}}。こうした情況に危機感を抱いた、アーザルバイジャーン州総督の[[アッバース・ミールザー]]皇太子は工場設立や軍制改革などの[[近代化]]改革を進めたものの、1833年にミールザーが病死したことによってこの改革は頓挫した{{sfn|吉村|2011|p=31}}。[[1834年]]に国王に即位した[[モハンマド・シャー]]は失地回復のために1837年にアフガニスタンの[[ヘラート]]への遠征を強行したものの失敗し、[[1838年]]から1842年までの{{仮リンク|第一次アングロ・アフガン戦争|en|First Anglo-Afghan War|label=第一次アフガン戦争}}にてイギリスがアフガニスタンに苦戦した後、イギリスは難攻不落のアフガニスタンから衰退しつつあるイランへとその矛先を変え、[[1841年]]にガージャール朝から[[最恵国]]待遇を得た{{sfn|吉村|2011|p=30}}。更にモハンマド・シャーの治世下には、ペルシアの[[国教]]たる[[十二イマーム派]]の権威を否定する[[セイイェド・アリー・モハンマド]]が[[バーブ教]]を開くなど内憂にも見舞われた{{sfn|吉村|2011|pp=31-32}}。モハンマド・シャーの没後、[[1848年]]に[[ナーセロッディーン・シャー]]が第四代国王に即位した直後に[[バーブ教徒の乱]]が発生すると、ガージャール朝政府はこれに対しバーブ教の開祖セイイェド・アリー・モハンマドを処刑して弾圧し、宰相[[ミールザー・タギー・ハーン・アミーレ・キャビール]]の下でオスマン帝国の[[タンジマート]]を範とした[[上からの改革]]が計画されたが、改革に反発する[[保守]]支配層の意を受けた国王ナーセロッディーン・シャーが改革の開始から1年を経ずにアミーレ・キャビールを解任したため、イランの近代化改革は挫折した{{sfn|吉村|2011|pp=33-36}}。ナーセロッディーン・シャーは[[1856年]]に[[ヘラート]]の領有を目指してアフガニスタン遠征を行ったが、この遠征はイギリスのイランへの宣戦布告を招き、敗戦と[[パリ条約 (1857年)|パリ条約]]によってガージャール朝の領土的野心は断念させられた{{sfn|吉村|2011|pp=36-37}}。
 
 
 
こうしてイギリスとロシアをはじめとする外国からの干渉と、内政の改進を行い得ないガージャール朝の国王の下で、19世紀後半のイランは列強に数々の利権を譲渡する挙に及び、[[1872年]]の[[ポール・ジュリアス・ロイター|ロイター]]利権のような大規模な民族資産のイギリスへの譲渡と、ロシアによる金融業への進出が進む一方、[[臣民]]の苦汁をよそに国王ナーセロッディーン・シャーは遊蕩を続けた{{sfn|吉村|2011|pp=37-39}}。{{仮リンク|第二次アングロ・アフガン戦争|en|Second Anglo-Afghan War|label=第二次アフガン戦争}}([[1878年]]–[[1880年]])では、{{仮リンク|ガンダマク条約|en|Treaty of Gandamak}}([[1879年]])を締結したが、戦争の二期目に突入し、イギリス軍は撤退した。
 
 
 
このような内憂外患にイラン人は黙して手を拱いていたわけではなく、[[1890年]]に国王ナーセロッディーン・シャーがイギリス人の[[ジェラルド・タルボト]]に[[タバコ]]に関する利権を与えたことを契機として、翌[[1891年]]から[[十二イマーム派]]の[[ウラマー]]の主導で[[タバコ・ボイコット運動]]が発生し、[[1892年]][[1月4日]]に国王ナーセロッディーン・シャーをしてタバコ利権の譲渡を撤回させることに成功した{{sfn|吉村|2011|pp=43-44}}。
 
 
 
第四代国王ナーセロデッィーン・シャーが[[革命家]][[レザー・ケルマーニー]]に暗殺された後、[[1896年]]に[[モザッファロッディーン]]が第五代ガージャール朝国王に即位したが、ナーセロデッィーン・シャーの下で大宰相を務めた{{仮リンク|アターバケ・アアザム|en|Mirza Ali Asghar Khan Amin al-Sultan}}が留任し、政策に変わりはなかったため、それまでの内憂外患にも変化はなかった{{sfn|吉村|2011|pp=39-42}}。しかしながら[[1905年]]に[[日露戦争]]にて[[日本]]が[[ロシア]]に勝利すると、この日本の勝利は[[議院内閣制|議会制]]と[[大日本帝国憲法]]を有する[[立憲主義|立憲]]国家の勝利だとイラン人には受け止められ、ガージャール朝の[[絶対王政|専制]]に対する[[憲法]]の導入が国民的な熱望の象徴となり、同時期の[[農作物]]の[[不作]]と[[コレラ]]の発生などの社会不安を背景に、1905年12月の[[砂糖]]商人への鞭打ち事件を直接の契機として、[[イラン立憲革命]]が始まった{{sfn|吉村|2011|pp=44-47}}。イラン人は国王に対して[[議会]](majles)の開設を求め、これに気圧された国王は1906年8月5日に議会開設の勅令を発し、9月9日に選挙法が公布され、[[10月7日]]にイラン初の国民議会(Majiles-e Shoura-ye Melli)が召集された{{sfn|吉村|2011|pp=47-50}}。しかしながらその後の立憲革命は、立憲派と専制派の対立に加え、立憲派内部での穏健派と革命派の対立、更には[[労働者]]の[[ストライキ]]や[[農民]]の反乱、[[1907年]]にイランをそれぞれの勢力圏に分割する[[英露協商]]を結んだイギリスとロシアの介入、内戦の勃発等々が複合的に進行した末に、[[1911年]]に[[ロシア帝国軍]]の直接介入によって議会は立憲政府自らによって解散させられ、ここに立憲革命は終焉したのであった{{sfn|吉村|2011|pp=50-69}}。なお、この立憲革命の最中の[[1908年]]5月に[[マスジェド・ソレイマーン]]で[[油田]]が発見されている{{sfn|吉村|2011|p=70}}。
 
 
 
1911年の議会強制解散後、内政が行き詰まったまま[[1914年]]の[[第一次世界大戦]]勃発を迎えると、既に[[イギリス軍]]とロシア軍の勢力範囲に分割占領されていたイランに対し、大戦中には更に[[オスマン帝国]]が侵攻して[[タブリーズ]]を攻略され、イラン国内では[[ドイツ帝国]]の工作員が暗躍し、国内では戦乱に加えて[[凶作]]や[[チフス]]による死者が続出した{{sfn|吉村|2011|pp=70-78}}。[[1917年]]10月に[[十月革命|ロシア大十月革命]]によって[[ウラジーミル・レーニン|レーニン]]率いる[[ロシア社会民主労働党]][[ボルシェヴィキ]]が権力を握ると、新たに成立した[[労農ロシア]]はそれまでロシア帝国がイラン国内に保持していた権益の放棄、駐イランロシア軍の撤退、[[不平等条約]]の破棄と画期的な反植民地主義政策を打ち出したが、これに危機感を抱いたイギリスは単独でのイラン支配を目指して[[1919年]][[8月9日]]に「[[英国・イラン協定]]」を結び、イランの[[保護国]]化を図った{{sfn|吉村|2011|pp=78-82}}。この協定に激怒したイランの人々はガージャール朝政府の意図を超えて急進的に革命化し、1920年6月6日に[[ミールザー・クーチェク・ハーン・ジャンギャリー]]によって[[ギーラーン共和国]]が、6月24日に北部の[[タブリーズ]]で[[アーザディスターン独立共和国]]の樹立が反英、革命の立場から宣言されたが、不安定な両革命政権は長続きせずに崩壊し、[[1921年]][[2月21日]]に発生したイラン・コサック軍の[[レザー・パフラヴィー|レザー・ハーン]]大佐による[[クーデター]]の後、同1921年4月にイギリス軍が、10月に[[ソビエト連邦|ソビエト]][[赤軍]]がそれぞれイランから撤退し、その後実権を握ったレザー・ハーンは[[1925年]]10月に「ガージャール朝廃絶法案」を議会に提出した{{sfn|吉村|2011|pp=82-99}}。翌[[1926年]]4月にレザー・ハーン自らが皇帝レザー・パフラヴィーに即位し、[[パフラヴィー朝]]が成立した{{sfn|吉村|2011|p=99}}。
 
 
 
=== パフラヴィー朝期 ===
 
[[File:RSMRS.jpg|thumb|left|220px|[[パフラヴィー朝]]の[[レザー・パフラヴィー]]と[[モハンマド・レザー・パフラヴィー]]父子([[1941年]])。]]
 
パフラヴィー朝成立後、[[1927年]]より[[レザー・パフラヴィー]]は[[不平等条約]]破棄、軍備増強、[[民法]]、[[刑法]]、[[商法]]の西欧化、[[財政再建]]、[[近代学校教育制度|近代的教育制度]]の導入、[[鉄道]]敷設、[[公衆衛生]]の拡充などの事業を進めたが、[[1931年]]に[[社会主義|社会主義者]]、[[共産主義|共産主義者]]を弾圧する「[[反共主義|反共]]立法」を議会に通した後、[[1932年]]を境に[[独裁]]化を強め、また、ガージャール朝が欠いていた[[官僚制]]と[[軍事力]]を背景に[[1935年]]7月の[[ゴーハルシャード・モスク事件]]や[[1936年]]の女性の[[ヴェール]]着用の非合法化などによって十二イマーム派のウラマーに対抗し、反イスラーム的な統治を行った{{sfn|吉村|2011|pp=99-111}}。なお、イスラームよりも[[イラン民族主義]]を重視したパフラヴィー1世の下で1934年10月に[[フェルドウスィー]]生誕1000周年記念祭が行われ、[[1935年]]に国号を正式に'''ペルシア'''から'''イラン'''へと変更している{{sfn|吉村|2011|p=106}}。[[1930年代]]後半には[[ナチス・ドイツ]]に接近し、[[1939年]]に[[第二次世界大戦]]が勃発すると、当初は[[中立]]を維持しようとしたが、[[1941年]][[8月25日]]に[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]によって[[イラン進駐 (1941年)|イラン進駐]]を被り、イラン軍は敗北し、[[イギリス]]と[[ソビエト連邦|ソ連]]によって領土を分割された{{sfn|吉村|2011|pp=112-114}}。イラン進駐下では1941年[[9月16日]]にレザー・パフラヴィーが息子の[[モハンマド・レザー・パフラヴィー]]に帝位を譲位した他、親ソ派[[共産党]]の[[トゥーデ党]]が結成され、[[1943年]][[11月30日]]に連合国の首脳が首都テヘランで[[テヘラン会談]]を開くなど、戦後イランを特徴づける舞台が整えられた{{sfn|吉村|2011|pp=114-122}}。また、北部のソ連軍占領地では自治運動が高揚し、[[1945年]][[12月12日]]に[[アゼルバイジャン国民政府]]が、[[1946年]][[1月22日]]には[[クルド人]]によって[[マハーバード共和国]]が樹立されたが、両[[政権]]は共に[[アフマド・ガヴァーム]]首相率いるテヘランの中央政府によって1946年中にイランに再統合された{{sfn|吉村|2011|pp=122-126}}。
 
 
 
[[File:Mossadeghmohammad.jpg|thumb|220px|[[モハンマド・モサッデク]]首相。[[1950年代]]初頭に[[イギリス]]系[[アングロ・イラニアン石油会社]]によって独占されていた[[石油]]の国有化を図ったが、イランによる石油国有化に反対する[[国際石油資本]]の意向を受けたイギリスと[[アメリカ合衆国]]、及び両国と結託した皇帝[[モハンマド・レザー・パフラヴィー]]によって[[1953年]]に失脚させられた。]]
 
[[1940年代]]に[[国民戦線 (イラン)|国民戦線]]を結成した[[モハンマド・モサッデク]]議員は、国民の圧倒的支持を集めて[[1951年]]4月に首相に就任した。モサッデグ首相は[[イギリス]]系[[アングロ・イラニアン石油会社]]から[[石油国有化]]を断行した([[石油国有化運動 (イラン)|石油国有化運動]])が、[[1953年]][[8月19日]]にアメリカ[[中央情報局]](CIA)とイギリス[[秘密情報部]]による周到な計画({{仮リンク|イラン・クーデター (1953年)|en|1953 Iranian coup d'état|label=アジャックス作戦}}、{{lang-en-short|TPAJAX Project}})によって失脚させられ、石油国有化は失敗に終わった{{sfn|吉村|2011|p=136}}。
 
 
 
このモサッデグ首相追放事件によって[[パフラヴィー朝]]の[[皇帝]]([[シャー]])、[[モハンマド・レザー・パフラヴィー]]は自らへの権力集中に成功した。[[1957年]]に[[中央情報局|CIA]]と[[連邦捜査局|FBI]]と[[イスラエル諜報特務庁|モサド]]の協力を得て[[国家情報治安機構]](SAVAK)を創設し、この[[秘密警察]]SAVAKを用いて政敵や一般[[市民]]の市民的[[自由]]を抑圧したシャーは[[白色革命]]の名の下、米英の強い支持を受けてイラン産業の[[近代化]]を推進し、大地主の勢力を削ぐために1962年に[[農地改革]]令を発した{{sfn|吉村|2011|pp=143-156}}。特に[[1970年代]]後期に、シャーの支配は独裁の色合いを強めた。
 
 
 
=== イラン・イスラーム共和国 ===
 
シャーの独裁的統治は[[1979年]]の[[イラン革命|イラン・イスラーム革命]]に繋がり、パフラヴィー朝の[[帝政]]は倒れ、新たに[[ルーホッラー・ホメイニー|アーヤトッラー・ホメイニー]]の下で[[イスラム共和制]]を採用する'''イラン・イスラーム共和国'''が樹立された。新たなイスラーム政治制度は、先例のない[[ウラマー]](イスラーム法学者)による直接統治のシステムを導入するとともに、伝統的イスラームに基づく社会改革が行われた。これはペレティエ『クルド民族』に拠れば同性愛者を含む性的少数者や非イスラーム教徒への迫害を含むものだった。また打倒したシャーへの支持に対する反感により対外的には反欧米的姿勢を持ち、特に対アメリカ関係では、[[1979年]]の[[アメリカ大使館人質事件]]、[[革命の輸出]]政策、[[レバノン]]の[[ヒズボッラー]](ヒズボラ)、[[パレスチナ]]の[[ハマース]]などのイスラエルの打倒を目ざすイスラーム主義武装組織への支援によって、非常に緊張したものとなった。
 
 
 
革命による混乱が続く[[1980年]]には隣国[[イラク]]の[[サッダーム・フセイン]]大統領が[[アルジェ合意]]を破棄してイラン南部の[[フーゼスターン州]]に侵攻し、[[イラン・イラク戦争]]が勃発した。この破壊的な[[戦争]]は[[イラン・コントラ事件]]などの国際社会の意向を巻き込みつつ、[[1988年]]まで続いた。
 
 
 
国政上の改革派と[[保守]]派の争いは、選挙を通じて今日まで続くものである。保守派候補[[マフムード・アフマディーネジャード]]が勝利した[[イラン大統領選挙 (2005年)|2005年の大統領選挙]]でもこの点が[[欧米]][[マスメディア|メディア]]に注目された。
 
 
 
[[2013年]]6月に実施された[[イラン大統領選挙 (2013年)|イラン大統領選挙]]では、保守穏健派の[[ハサン・ロウハーニー]]が勝利し、2013年8月3日に第7代イラン・イスラーム共和国大統領に就任した。
 
 
 
=== 史跡 ===
 
イラン国内には数多くの史跡が存在し、積極的に[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]への登録が行われている。
 
 
 
====世界遺産====
 
{{main|イランの世界遺産}}
 
2014年6月の時点でイランの[[国際連合教育科学文化機関|UNESCO]][[世界遺産]]登録物件は17件に達し、その全てが[[文化遺産 (世界遺産)|文化遺産]]である。括弧内は登録年。
 
 
 
<gallery>
 
ファイル:Choghazanbil2.jpg|[[チョガ・ザンビール]] (1979年)
 
ファイル:Persepolis 24.11.2009 11-26-32.jpg|[[ペルセポリス]] (1979年)
 
ファイル:Naghsh-e-jahan masjed-e-shah esfahan.jpg|[[イマーム広場|イスファハーンのイマーム広場]] (1979年)
 
ファイル:Takht-e-soleiman-1.jpg|[[タフテ・ソレイマーン]] (2003年)
 
ファイル:Cyrus tomb.jpg|[[パサルガダエ]] (2004年)
 
ファイル:Arge Bam Arad edit.jpg|[[バム|バムとその文化的景観]] (2004年)
 
ファイル:Soltaniyeh exterior.jpg|[[ソルターニーイェ]] (2005年)
 
ファイル:Bisotun Iran Relief Achamenid Period.JPG|[[ベヒストゥン碑文|ベヒストゥン]] (2006年)
 
ファイル:Northwestthaddes.jpg|[[イランのアルメニア人修道院建造物群]] (2008年)
 
ファイル:Sushtar Bridge.jpg|[[シューシュタル|シューシュタルの歴史的水利施設]] (2009年)
 
ファイル:Sheykh safi01.jpg|[[シャイフ・サフィー・アッディーン廟|アルダビールのシャイフ・サフィーアッディーン廟の歴史的建造物]] (2010年)
 
ファイル:Carpet Bazaar of Tabriz.JPG|[[タブリーズのバザール|タブリーズの歴史的バザール施設]] (2010年)
 
ファイル:40sotoon.jpg|[[フィン庭園]] (2011年)
 
ファイル:Gonbad-e Qabus.JPG|[[ゴンバデ・カーブース]] (2012年)
 
ファイル:Jamé Mosque Esfahan courtyard.jpg|[[エスファハーンのジャーメ・モスク]] (2012年)
 
ファイル:Golestan-takht2.jpg|[[ゴレスターン宮殿]] (2013年)
 
</gallery>
 
 
 
== 政治 ==
 
{{Main|イランの政治}}
 
 
 
イランの政体は[[1979年]]以降の[[イラン・イスラーム共和国憲法|憲法]](ガーヌーネ・アサースィー)の規定による立憲[[イスラーム共和制]]である。[[政治]]制度的に複数の評議会的組織があって複雑な関係をなしている。これらの評議会は、[[民主主義]]的に選挙によって選出される議員で構成されるもの、[[宗教]]的立場によって選出されるもの、あるいは両者から構成されるものもある。以下で説明するのは1989年修正憲法下での体制である。
 
 
 
=== 最高指導者 ===
 
{{仮リンク|ヴェラーヤテ・ファギーフ|fa|ولایت فقیه (کتاب)|en|Islamic Government: Governance of the Jurist}}([[イスラーム法学者|法学者]]の統治)の概念はイランの[[政治体制]]を構成する上で重要な概念となっている。憲法の規定によると、[[イランの最高指導者|最高指導者]]は「イラン・イスラーム共和国の全般的[[政策]]・方針の決定と監督について責任を負う」とされる。単独の最高指導者が不在の場合は複数の宗教指導者によって構成される合議体が最高指導者の職責を担う。最高指導者は[[行政]]・[[司法]]・[[立法]]の[[三権]]の上に立ち、最高指導者は軍の最高司令官であり、イスラーム共和国の諜報機関および治安機関を統轄する。[[宣戦布告]]の権限は最高指導者のみに与えられる。ほかに最高司法権長、国営ラジオ・テレビ局総裁、[[イスラーム革命防衛隊]]総司令官の任免権をもち、[[監督者評議会]]を構成する12人の議員のうち6人を指名する権限がある。最高指導者(または最高指導会議)は、その法学上の資格と社会から受ける尊敬の念の度合いによって、専門家会議が選出する。終身制で任期はない。現在の最高指導者は[[アリー・ハーメネイー]]。
 
 
 
=== 大統領 ===
 
[[イランの大統領|大統領]]は最高指導者の専権事項以外で、執行機関たる[[行政府]]の長として憲法に従って政策を執行する。法令により大統領選立候補者は選挙運動以前に[[監督者評議会]]による審査と承認が必要で、[[国民]]による直接[[普通選挙]]の結果、絶対多数票を集めた者が大統領に選出される。任期は4年。再選は可能だが連続3選は禁止されている。大統領は就任後閣僚を指名し、[[閣議]]を主宰し行政を監督、政策を調整して議会に法案を提出する。大統領および8人の副大統領と21人の閣僚で[[現在のイラン政府の構成員の一覧|閣僚評議会]](閣議)が形成される。副大統領、大臣は就任に当たって議会の承認が必要である。[[イランの首相|首相]]職は[[1989年]]の[[憲法改正]]により廃止された。またイランの場合、行政府は軍を統括しない。
 
 
 
=== 議会(マジュレス) ===
 
[[イランの議会|議会]]は「マジュレセ・シューラーイェ・エスラーミー」(イスラーム諮問評議会)といい、一院制である。[[立法府]]としての権能を持ち、立法のほか、[[条約]]の批准、国家[[予算]]の認可を行う。議員は任期4年で290人からなり、国民の直接選挙によって選出される。議会への立候補にあたっては[[監督者評議会]]による審査が行われ、承認がなければ立候補リストに掲載されない。この審査は“改革派”に特に厳しく、例えば2008年3月の選挙においては7600人が立候補を届け出たが、事前審査で約2200人が失格となった。その多くがハータミー元大統領に近い改革派であったことから、議会が本当に民意を反映しているのか疑問視する声もある<ref>http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/100/8493.html</ref>。また、議会による立法のいずれについても監督者評議会の承認を必要とする。[[日本語]]の[[報道]]では国会とも表記される。
 
 
 
=== 専門家会議 ===
 
[[専門家会議 (イラン)|専門家会議]]は国民の[[選挙]]によって選出される「善良で博識な」86人の[[ウラマー|イスラーム知識人]]から構成される。1年に1回招集され会期は約1週間。選挙の際は大統領選、議会選と同じく、立候補者は[[監督者評議会]]の審査と承認を受けなければならない。専門家会議は[[イランの最高指導者|最高指導者]]を選出する権限を持つ。これまで専門家会議が最高指導者に対して疑問を呈示したことはないが、憲法の規定上、専門家会議は最高指導者の罷免権限も持つ。
 
 
 
=== 監督者評議会 ===
 
[[監督者評議会]]は12人の法学者から構成され、半数を構成するイスラーム法学者6人を[[イランの最高指導者|最高指導者]]が指名し、残り半数の一般法学者6人を最高司法権長が指名する。これを議会が公式に任命する。監督者評議会は憲法解釈を行い、議会可決法案が[[シャリーア]](イスラーム法)に適うものかを審議する権限をもつ。したがって議会に対する拒否権をもつ機関であるといえよう。議会可決法案が審議によって憲法あるいはシャリーアに反すると判断された場合、法案は議会に差し戻されて再審議される。[[日本]]の報道では護憲評議会と訳されるが、やや意味合いが異なる。
 
 
 
=== 公益判別会議 ===
 
[[公益判別会議]]は議会と監督者評議会のあいだで不一致があった場合の仲裁をおこなう権限を持つ。また最高指導者の諮問機関としての役割を持ち、国家において最も強力な機関の一つである。
 
 
 
=== 司法府 ===
 
{{main|イランの法制}}
 
最高司法権長は最高指導者によって任じられ、最高裁判所長官および検事総長を任じる。一般法廷が、通常の民事・刑事訴訟を扱い、国家[[安全保障]]にかかわる問題については革命法廷が扱う。革命法廷の判決は[[確定判決]]で[[上訴]]できない。またイスラーム法学者特別法廷は法学者による[[犯罪]]を扱うが、事件に[[一般人]]が関与した場合の[[裁判]]もこちらで取り扱われる。イスラーム法学者特別法廷は通常の司法体制からは独立し、最高指導者に対して直接に責任を持つ。同法廷の判決も最終的なもので上訴できない。
 
 
 
=== 人権問題 ===
 
{{Main|イラン・イスラーム共和国における人権|イランにおける信教の自由|イランにおける同性愛者迫害}}
 
 
 
1979年のイラン・イスラーム革命後、[[シャリーア]]に基づく[[政治体制]]が導入されたこともあり、[[同性愛者]]・非[[ムスリム]]の人権状況は大きく低下した。
 
 
 
[[イラン・イスラーム共和国憲法|憲法]]では公式に[[シーア派]][[イスラム教|イスラーム]]の[[十二イマーム派]]を[[国教]]としており、他のイスラームの宗派に対しては“完全なる尊重”(12条)が謳われている。一方非ムスリムに関しては、[[ゾロアスター教|ゾロアスター教徒]]、[[キリスト教徒]]、[[ユダヤ教|ユダヤ教徒]]のみが公認された異教徒として一定の権利保障を受けているが、シャリーアにおけるイスラームの絶対的優越の原則に基づき、憲法では宗教による[[差別]]は容認されている。[[バハーイー教]]徒や[[無神論]]者・[[不可知論]]者はその存在を認められておらず、信仰が露呈した場合は[[死刑]]もありうる。また非ムスリム[[男性]]が[[ムスリム]]女性と婚外交渉を行った場合は死刑なのに対し、ムスリム男性が同様の行為を行った場合は「[[鞭打ち]]百回」であるなど、[[刑法]]にも差別規定が存在する。イスラームからの離脱も禁止であり、死刑に処される。2004年には[[強姦|レイプ]]被害を受けた16歳の少女が死刑([[絞首刑]])に処された。なお[[加害者]]は鞭打ちの刑で済んだ。
 
 
 
[[女性]]に対しては[[ヒジャーブ]]が強制されており、行動、[[性行為]]、[[恋愛]]などの[[自由]]も著しく制限されている<ref group="注">[[白色革命]]時には着用することが禁止された為、抗議として着用する女性達が増えた</ref>。イラン革命前では欧米風の装束が男女ともに着用されていたが、現在では見られない。同性愛者に対しては、共和国憲法で正式に「[[ソドミー]]罪」を設けており、発覚した場合死刑である。
 
 
 
刑罰においても、シャリーアに基づく[[ハッド刑]]の中には[[人体切断]]や[[石打ち]]など残虐な刑罰が含まれており、また[[未成年者]]への死刑も行われている。
 
 
 
イランにおけるこれらの状況は、世界の多数の国の[[議会]]・[[政府]]、[[国際機関]]、[[NGO]]や、隣国[[イラク]]国民からも[[人権侵害]]を指摘され、人権侵害の解消を求められている。
 
 
 
== 軍事 ==
 
{{Main|イラン・イスラム共和国軍}}
 
国軍として、[[イラン陸軍|陸軍]]、[[イラン海軍|海軍]]、[[イラン空軍|空軍]]などから構成される[[イラン・イスラム共和国軍]]を保有している。
 
 
 
イランは[[核拡散防止条約]](NPT)に加盟しているが、国際社会から[[イランの核開発問題]]が問題視されている。
 
 
 
=== 準軍事組織 ===
 
{{Main|イスラム革命防衛隊}}
 
また、国軍とは別に、[[パースダーラーン省]]に所属する2つの準軍事組織保有している。1979年にイスラム革命の指導者[[ルーホッラー・ホメイニー|ホメイニー師]]の命で設立された、志願[[民兵]]によって構成されている[[準軍事組織]]「'''[[バスィージ]]'''(人民後備軍)」が存在している。設立時には2,000万人の若者(男女別々)で編成された。この数字は国民の27%超である。
 
 
 
* 内務省法秩序警備軍:[[国家憲兵]]に相当。
 
* [[イスラム革命防衛隊]](パースダーラーン)
 
** {{仮リンク|ゴドス軍|en|Quds Force}}(Quds Force)
 
** [[イスラム革命防衛隊#民兵部隊(バスィージ)|バスィージ]]([[:en:Basij|Basij]]):民兵部隊
 
 
 
== 国際関係 ==
 
{{main|イランの国際関係}}
 
[[File:Diplomatic missions of Iran.png|thumb|360px|イランが外交使節を派遣している諸国の一覧図。]]
 
[[File:Diplomatic missions in Iran.png|thumb|360px|イラン国内に外交使節を派遣している諸国の一覧図。]]
 
[[File:CIAIranKarteOelGas.jpg|thumb|360px|[[アメリカ合衆国]]の[[中央情報局|CIA]]が[[2004年]]に作成した、イランの[[石油]]と[[天然ガス]]関連施設の地図。イランに埋蔵されている石油は[[モハンマド・モサッデグ]]首相の罷免や1980年代初頭の第二次[[石油危機]]などを通じ、20世紀後半の国際関係に多大な影響を及ぼした。]]
 
=== イラン政府の対外政策の基本 ===
 
2009年現在のイラン政府の対外政策の基本的な思想は、全ての国家、国民との公正かつ相互的な関係構築をすることである<ref>{{Cite web|last=外務省|title=各国・地域情勢&gt;中東&gt;イラン|url=http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/iran/index.html |accessdate=2008-07-10 }}</ref>。
 
 
 
=== 日本との政策 ===
 
{{see also|日本とイランの関係}}
 
 
 
=== ロシアとの政策 ===
 
{{see also|イランとロシアの関係}}
 
 
 
=== 北朝鮮との関係 ===
 
{{see also|イランと北朝鮮の関係}}
 
 
 
=== シリアとの関係 ===
 
シリアは他のアラブ諸国と異なり非スンナ派政権である事に加え、[[イラン・イラク戦争]]では[[バアス党|シリア・バース党]]と[[バアス党政権 (イラク)|イラク・バース党]]との対立も絡み、シーア派が国民の大多数を占めるイランを支持した背景があり、イランとは現在でも事実上の盟邦関係を継続中で、反米・反イスラエル、反スンニ派イスラム主義、国際的孤立化にあるなど利害が一致する点が多い。近年では[[シリア内戦]]でイランが[[アサド]]政権を支援するなど、政治面の他、経済・軍事面でも一体化を強めつつある。
 
 
 
=== サウジアラビアとの関係 ===
 
近年では[[イラク戦争]]や[[アラブの春]]の混乱で、イラク、シリア、エジプトなどの中東の有力国が国力を落とす中、相対的に中東におけるイランとサウジアラビアの影響力が拡大し、それぞれシーア派とスンナ派の盟主として、シリアやイエメンの内戦では異なる勢力を支援し事実上の代理戦争の様相を呈している他、両国の外交官の追放など対立が表面化している。
 
 
 
=== イランに対するアメリカ合衆国の政策 ===
 
{{see also|アメリカ合衆国とイランの関係}}
 
1953年 - 1978年のパフラヴィー政権時代は政権が事実上アメリカの傀儡であったため、アメリカとの関係は質量ともに重大だった。1979年4月のイスラム革命時に、革命政権がアメリカ政府に対して、パフラヴィー政権時代の不平等な関係を平等互恵の関係に変更し、パフラヴィーが私物化した財産をイランに返還し、パフラヴィー元皇帝の身柄をイランに引き渡すことを要求したが、[[ジミー・カーター|カーター]]大統領はその要求を拒否して、イランの在米資産を接収した。革命運動勢力はアメリカ政府の姿勢に対する反発で、1979年11月にアメリカ大使館を占拠し大使館員を人質にアメリカ政府に対する要求を継続した。カーター大統領は1980年4月にイランに対する国交断絶と経済制裁を実施した<ref>山川出版社『詳説世界史』 第18章 現代の世界&gt;世界経済の変容と南北問題&gt;イスラム世界と石油危機</ref>。イスラム革命時以後の歴代のアメリカ議会・政府は、イランを[[反米]]国家と認識し、イランに対する国交断絶・経済制裁・敵視政策を継続している。アメリカ政府は1984年に[[ロナルド・レーガン|レーガン]]大統領がイランを[[テロ支援国家]]と指定し、2008年現在まで指定を継続している<ref>{{Cite web|last=US Department of State|title=Bureaus Offices Reporting Directly to the Secretary&gt;Office of the Coordinator for Counterterrorism&gt;Releases&gt;State Sponsors of Terrorism|url=http://www.state.gov/s/ct/c14151.htm |accessdate=2008-07-10 }}</ref>。アメリカ政府は1995年に[[ビル・クリントン|クリントン]]大統領が、アメリカ企業に対してイランとの貿易・投資・金融の禁止措置を実施した。アメリカ議会は1996年にイランとリビアの石油・ガス資源を開発する企業を制裁するイラン・リビア制裁法<ref>{{Cite web|last=US The Library of Congress|title=Thomas&gt;Bills Resolutions&gt;Iran and Libya Sanctions Act of 1996|url=http://thomas.loc.gov/cgi-bin/query/z?c104:H.R.3107.ENR: |accessdate=2008-07-10 }}</ref> を可決してクリントン大統領が署名して成立し、アメリカ議会は2001年と2006年にも制裁期間を延長する法案を可決し、[[ジョージ・W・ブッシュ|ブッシュ]]大統領が署名して成立し、[[イランに対する制裁]]を継続中(リビアとは関係を修復し制裁は解除した)である。ブッシュ大統領は2002年の年頭教書でイランを[[悪の枢軸]]と表現して批判した。アメリカやイスラエルや国民の大部分がキリスト教徒である国は、イスラエルの打倒を主張する[[ヒズボッラー]]や[[ハマース]]を[[イスラム過激派]]と認識し、イランがヒズボッラーやハマースを支援していると指摘している。2008年1月、ブッシュ大統領は、クウェート、バーレーン、アラブ首長国連邦、サウジアラビア、エジプトを訪問して、訪問諸国の政府に対して、イランをテロ支援国家と認識して、国際的なイラン包囲網への参加・協力を要請したが、いずれの訪問国の政府もイランとの友好関係の形成を推進中であり、ブッシュ大統領の要請に対して、いずれの訪問国の政府からも賛同・協力は得られなかった。
 
 
 
2009年のイランの反アフマディーネジャード派の大規模なデモにイギリス大使館の関係者が関与していたことが知られているが、イラン情報省海外担当次官は、大統領選挙後のデモの発生にアメリカとヨーロッパの財団・機関が関与していた事実があったとして「ソフトな戦争」(実際的な戦争などでない、内政干渉など)を仕掛ける60の欧米団体の実名をイランのメディアに対して公表し<ref>Iran紙2010年1月5日付</ref>、アメリカ政府もイランの体制を壊す目的で工作していたと発表した(詳しくは「[[アメリカ合衆国とイランの関係]]」を参照)。
 
 
 
日本の新聞でもアメリカ政府がイランの体制の根幹にゆさぶりをかける、という内容の記事が掲載されたことがあり、米Newsweek誌2010年2月3日号でもアメリカ政府関係者がこの頃のデモに関して、イランへの内政干渉を完全に肯定し、西欧化を押し付けようとする覇権主義的な発言をしている。2010年2月の革命31周年の際には、数千万人の体制派の国民が行進に参加したとされ<ref name="Ali Khamenei455">{{cite web
 
| url = http://japanese.khamenei.ir/index.php?option=com_content&task=view&id=455&Itemid=35
 
| title = 行進への数千万人の参加に対する感謝のメッセージ
 
| date = 2010-02-11
 
| first = khamenei
 
| publisher = khamenei.ir (公式サイト)
 
| accessdate = 2010-02-28
 
| language= 日本語版
 
}}</ref>(イランの国営プレステレビでもこのことが伝えられた)、長年に渡る外国の干渉(内政干渉と国際的な干渉)に今年も我々は勝利し、革命を守りぬいたと最高指導者ハーメネイ師が述べている<ref name="Ali Khamenei458">{{cite web
 
| url = http://japanese.khamenei.ir/index.php?option=com_content&task=view&id=458&Itemid=2
 
| title =「我々は、覇権主義と支配体制、数カ国による世界征服に反対である」
 
| date = 2010-02-17
 
| first = khamenei
 
| publisher = khamenei.ir(公式サイト)
 
| accessdate = 2010-02-28
 
| language = 日本語版
 
}}</ref>。
 
 
 
=== アメリカ合衆国に対するイランの主張 ===
 
イラン政府はイスラム革命時から1989年にホメイニー師が死去するまではアメリカに対して強硬な姿勢だったが、その後は、[[アリー・ハーメネイー]]師、[[ハーシェミー・ラフサンジャーニー]]大統領、[[モハンマド・ハータミー]]大統領、[[マフムード・アフマディーネジャード]]大統領などが、アメリカがイランに対する敵視政策を止め、アメリカもイランも互いに相手国を理解し、相手国の立場を尊重し、平等互恵の関係を追求する政策に転換するなら、イランはいつでもアメリカとの関係を修復すると表明している<ref>中日新聞 2008年2月17日版 イランのモシャイ副大統領は、「イランの最高指導者のハーメネイー師が、アメリカとの関係回復がイランのためになるなら、私はそれを承認する最初の人物となると表明した」とハーメネイー師の表明を引用して表明した。</ref><ref>東京新聞 2008年2月15日版 イランのモシャイ副大統領は、「アメリカが中東への見方を変更し、イランの役割を理解し、イランに対する敵視政策を転換するなら、アメリカとの関係回復は可能である。」と表明した。</ref><ref>毎日新聞 2008年2月25日版 イランのサマレハシェミ大統領上級顧問は、「相手国の立場を互いに尊重できるなら、イランはイスラエル以外の全ての国と友好的で平等の関係を形成する。アメリカがイランの立場を尊重するなら関係を修復する用意がある。イラン国民がアメリカとの関係修復を歓迎しない理由はない。」と表明した。</ref><ref>読売新聞 2008年2月29日版 イランのアラグチ駐日大使は、「日本とイランは良好な関係を保ってきた、日本政府はアメリカ政府よりずっと、中東地域の現実や、地域でのイランの役割を熟知しているので、日本はアメリカにイランに対する敵視政策の変更を促す適任者である。アメリカが賢明な政策を取るよう、日本政府が助言することを期待する。」と表明した。</ref>。ラフサンジャーニー大統領は1996年のアトランタオリンピックに選手を派遣した。ハータミー大統領は文明の対話を提唱し、2001年9月11日のアメリカに対する武力行使を非難し、被害を受けた人々に哀悼を表明した。アフマディーネジャード大統領はイラク国民が選挙で選出した議会と政府の樹立後の、イラクの治安の回復に協力すると表明している<ref>毎日新聞 2008年2月29日版 アフマディーネジャード大統領は、「イラクのタラバニ大統領、マリキ首相と会談し、イラクの治安改善への協力する意向である。」と表明した。</ref><ref>東京新聞 2008年2月29日版 イランのアフマディーネジャード大統領は、「3月2日に、1979年のイラン・イスラム革命後初めてイラクを訪問し、タラバニ大統領、マリキ首相と会談し、イラクの治安改善のための協力について協議する。」と表明した。</ref>。
 
 
 
=== 核開発問題についてのイランと第三世界各国の認識 ===
 
{{main|イランの核開発問題}}
 
[[ファイル:Mahmoud_Ahmadinejad_and_Lula_da_Silva-Tehran-2010.jpg|thumb|260px|イランのアフマディネジャード前大統領と[[ブラジル]]の[[ルイス・イナシオ・ルーラ・ダ・シルヴァ|ルーラ]]前大統領([[2010年]])。]]
 
 
 
イラン政府は自国のこの事柄について、核エネルギーの生産を目指すもので、核兵器開発ではないと今までに一貫して表明してきており、アフマディネジャド大統領は「核爆弾は持ってはならないものだ」とアメリカのメディアに対して明言している(Newsweek誌2009年10月7日号)。
 
欧米のイランの核エネルギー開発は認められない、という論理は決して世界共通のものではない。
 
新興国の[[トルコ]]や[[ブラジル]]、また、[[ベネズエラ]]、[[キューバ]]、[[エジプト]]、その他の非同盟諸国は「核エネルギーの開発はイランの権利である」というイランの立場に理解を示し、当然であるとして支持している。
 
2009年10月27日のアフマディーネジャード大統領との会談の中で、[[エルドアン]]首相はイランの核(エネルギー)保有の権利があると強調し、「地球上で非核の呼びかけを行う者はまず最初に自分の国から始めるべきだ」と述べた<ref>Milliyet紙2009年10月28日付 トルコのエルドアン首相もイランの核保有の権利があると強調し、「地球上で非核の呼びかけを行う者はまず最初に自分の国から始めるべきだ」と述べた。</ref>。また、ブラジルの[[ルイス・イナシオ・ルーラ・ダ・シルヴァ]]大統領はNewsweek誌2009年10月21日号でイランのウラン濃縮の権利を支持していることが報じられており、ベネズエラのチャベス大統領は2006年7月の[[アフリカ連合]](AU)首脳会議に招かれた際イランの核開発について「平和利用のための核技術を発展させる権利がイランにないというのか。明らかにある」と断言している<ref>{{cite web
 
| url = http://www.47news.jp/CN/200607/CN2006070201000053.html
 
| title = 反米で「共闘」ベネズエラとイラン大統領
 
| date = 2006-07-01
 
| publisher = 共同通信社
 
| accessdate = 2010-09-15
 
| language = 日本語
 
}}</ref>。
 
非同盟諸国は2006年9月の首脳会議でイランによる平和利用目的の核開発の権利を確認する宣言等を採択し<ref>{{Cite web
 
| url = http://www.47news.jp/CN/200609/CN2006091701000406.html
 
| title = イランの核開発権利を確認 非同盟諸国首脳会議が閉幕
 
| date = 2006-09-17
 
| publisher = 共同通信社
 
| accessdate = 2010-09-15
 
| language = 日本語}}</ref>、会議の議長国キューバやエジプトもこれを支持している。
 
 
 
=== 欧米での反イスラーム的行為に対するイランの立場、見解 ===
 
{{see also|[[国際クルアーン焼却日]]}}
 
 
 
2010年9月のイスラーム聖典『[[クルアーン]]』焼却事件はアメリカ・[[フロリダ州]]のキリスト教会の牧師が、[[同時多発テロ事件]]の9周年にあたる2010年9月11日を「国際クルアーン焼却デー」とし、『[[クルアーン]]』を焼却する計画を発表したことに始まる事件だが、ムスリム・非ムスリムを超えた広範な反発と国際世論の圧力を受けて中止された。しかし、この呼びかけに応えたようにアメリカ国民の一部が数冊の『[[クルアーン]]』を燃やし、[[ワシントンD.C.]]で警官に護衛されるなかで、またニューヨークの世界貿易センタービルの跡地で数十冊の『[[クルアーン]]』を破り、それに火をつけた。これらの行為に対して、全世界で大規模な抗議運動が巻き起こった<ref>{{Cite web
 
| url = http://japanese.irib.ir/index.php?option=com_content&task=view&id=13796&Itemid=54
 
| title = アメリカでのコーラン焼却にイスラム教徒が抗議
 
| date = 2010-09-13
 
| publisher = IRIB
 
| accessdate = 2010-09-17
 
| language = 日本語}}</ref>。
 
 
 
聖地[[エルサレム|イェルサレム]]でも同時期に似たような反イスラーム的行為が行われた<ref>{{Cite web
 
| url = http://japanese.irib.ir/index.php?option=com_content&task=view&id=13825&Itemid=54
 
| title = シオニスト入植者、コーランを冒涜
 
| date = 2010-09-15
 
| publisher = IRIB
 
| accessdate = 2010-09-15
 
| language = 日本語}}</ref>。
 
 
 
このような事件に対して最高指導者[[アリー・ハーメネイー]]はメッセージのなかで、イスラーム教徒とキリスト教徒を対立させることが、この事件の真の首謀者の望みであるとし、「キリスト教会やキリスト教とは関係がなく、数名の雇われた人間の行動を、キリスト教徒全体のものと考えるべきではない」、「我々イスラーム教徒が、他の宗教の神聖に対して同じような行動に出ることはない。クルアーンが我々に教える事柄は、その対極にある」と表明した。
 
 
 
そして、この事件の真の計画、指示者について「アフガニスタン、イラク、パレスチナ、レバノン、パキスタンで、犯罪行為を伴ってきた、一連の流れを分析すれば、アメリカの政府と軍事・治安機構、イギリス政府、その他一部のヨーロッパ政府に最大の影響力を持つ、“[[シオニスト]]の頭脳集団”であることに疑いの余地は残らない」、「(今回の事件は)この国の警察に守られる中で行われたものであり、何年も前から、(欧米での)イスラム恐怖症やイスラム排斥といった政策に取り組んできた(シオニスト頭脳集団)組織による計画的な行動であった」と述べ、今回のクルアーン焼却事件とそれ以前の欧米でのイスラーム恐怖症やイスラーム排斥の政策を主謀したのはこのシオニスト集団だとした。また、「このようなイスラムへの一連の敵対は、西側におけるイスラムの影響力が、いつにも増して高まっていることに起因する」とした。さらに同メッセージでアメリカ政府に対し、「この陰謀に関与していないとする自らの主張を証明するために、この大きな犯罪の真の実行者をふさわしい形で処罰すべきだ」と強調した<ref>{{Cite web
 
| url = http://japanese.irib.ir/index.php?option=com_content&task=view&id=13807&Itemid=54
 
| title = 最高指導者、コーラン焼却を受けメッセージ
 
| date = 2010-09-14
 
| publisher = IRIB
 
| accessdate = 2010-09-17
 
| language = 日本語}}</ref>。
 
この事件に対し、[[インド]]領[[カシミール]]、アフガニスタンでも抗議デモが行われ、イランでは抗議のために多くの都市の[[バザール]]が9月15日を休業とした<ref>{{Cite web
 
| url = http://japanese.irib.ir/index.php?option=com_content&task=view&id=13828&Itemid=54
 
| title = イランのバザール、米のコーラン焼却に抗議し休業
 
| date = 2010-09-15
 
| publisher = IRIB
 
| accessdate = 2010-09-15
 
| language = 日本語}}</ref>。
 
 
 
=== 悪魔の詩事件 ===
 
元ムスリム(イスラーム教徒)の[[サルマン・ラシュディ]]が書いた1989年出版の『[[悪魔の詩]]』はイスラームの預言者[[ムハンマド]]について扱っているが、その内容と、この人物が元ムスリムであったことから発表の後、各国のムスリムの大きな非難と反発を招いた。1991年7月に起きた[[日本]]の[[茨城県]][[つくば市]]内で[[筑波大学]]助教授が何者かによって殺された事件(未解決)は、これを訳して出版したことが原因ではないかと考えられている。詳細は[[悪魔の詩]]を参照。
 
 
 
== 地理 ==
 
{{main|{{仮リンク|イランの地理|en|Geography of Iran}}}}
 
[[File:Map iran biotopes simplified-fr.png|thumb|320px|イランの植生図。北部[[カスピ海]]沿岸の濃緑色の部分が[[森林]]地帯である他は、大部分が黄緑色の半ステップ半森林地帯、茶色のステップ地帯、砂色の砂漠地帯となっている。]]
 
[[ファイル:Damavand in winter.jpg|right|thumb|220px|イラン最高峰、[[ダマーヴァンド山]](標高5604m)]]
 
[[File:Ghaleye Rud Khan (40) 4.jpg|right|thumb|220px|イラン北部、カスピ海沿岸の[[ギーラーン州]]の[[森林]]。]]
 
[[File:Maranjab dunes in the Kavir Desert.jpg|right|thumb|220px|イラン東部、[[カヴィール砂漠]]の風景。]]
 
[[File:Sand castles - Dasht-e Lut desert - Kerman.JPG|right|thumb|220px|イラン南東部、[[ケルマーン州]]の[[ルート砂漠]]の風景。]]
 
イランは北西に[[アゼルバイジャン]](国境線の長さは432km。以下同様)、[[アルメニア]](35&nbsp;km)と国境を接する。北には[[カスピ海]]にのぞみ、北東には[[トルクメニスタン]](992&nbsp;km)がある。東には[[パキスタン]](909&nbsp;km)と[[アフガニスタン]](936&nbsp;km)、西には[[トルコ]](499&nbsp;km)とイラク(1,458&nbsp;km)と接し、南には[[ペルシア湾]]と[[オマーン湾]]が広がる。面積は1,648,000&nbsp;km<sup>2</sup>で、うち陸地面積が1,636,000&nbsp;km<sup>2</sup>、水面積が12,000&nbsp;km<sup>2</sup>であり、ほぼ[[アラスカ]]の面積に相当する。
 
 
 
イランの景観では無骨な山々が卓越し、これらの山々が盆地や台地を互いに切り離している。イラン西半部はイランでも人口稠密であるが、この地域は特に山がちで[[ザグロス山脈|ザーグロス山脈]]やイランの最高峰[[ダマーヴァンド山]](標高5,604m)を含む[[アルボルズ山脈]]がある。一方、イランの東半は塩分を含む[[カヴィール砂漠|キャビール砂漠]]のような無人に近い砂漠地帯が広がり、[[塩湖]]が点在する。
 
 
 
平野部はごくわずかで、大きなものはカスピ海沿岸平野とアルヴァンド川([[シャットゥルアラブ川]])河口部にあたるペルシア湾北端の平野だけである。その他小規模な平野部はペルシア湾、[[ホルムズ海峡]]、オマーン湾の沿岸部に点在する。イランは、いわゆる「人類揺籃の地」を構成する15か国のうちの1つと考えられている。
 
 
 
=== 気候 ===
 
全般的には[[大陸性気候]]で標高が高いため寒暖の差が激しい。特に冬季は[[ペルシャ湾]]沿岸部や[[オマーン湾]]沿岸部を除くとほぼ全域で寒さが厳しい。国土の大部分が[[砂漠気候]]あるいは[[ステップ気候]]であるが、[[ラシュト]]に代表されるイラン北端部(カスピ海沿岸平野)は[[温暖湿潤気候]]に属し、冬季の気温は0℃前後まで下がるが、年間を通じて湿潤な気候であり、夏も29℃を上回ることは稀である。年間降水量は同平野東部で680mm、西部で1700mm以上となる。[[テヘラン]]などの内陸高地はステップ気候から砂漠気候に属し、冬季は寒く、最低気温は氷点下10度前後まで下がることもあり降雪もある。一方、夏季は乾燥していて暑く日中の気温は40度近くになる。[[ハマダーン]]、[[アルダビール]]や[[タブリーズ]]などのあるイラン西部の高地は、[[ステップ気候]]から[[亜寒帯]]に属し、冬は非常に寒さが厳しく、山岳地帯では豪雪となり厳しい季節となる。特に標高1,850mに位置する[[ハマダーン]]では最低気温が-30度に達することもある。イラン東部の中央盆地は乾燥しており、年間降水量は200mmに満たず、砂漠が広がる砂漠気候となる。特に[[パキスタン]]に近い南東部砂漠地帯の夏の平均気温は38℃にも達する酷暑地帯となる。[[ペルシア湾]]、[[オマーン湾]]沿岸のイラン南部では、冬は穏やかで、夏には温度・湿度ともに非常に高くなり平均気温は35℃前後と酷暑となる。年間降水量は135mmから355mmほどである。
 
 
 
{|class="wikitable" style="font-size:smaller; text-align:right; white-space:nowrap"
 
|+ イラン各地の平年値(統計期間:1961年 - 1990年、出典:[http://www.climate-charts.com/Countries/Iran.html Climate-Charts.com])
 
!rowspan="2" colspan="2" | 平年値<br />(月単位)
 
!colspan="4"|北西部
 
!colspan="4"|西部
 
!colspan="3"|北部
 
|-
 
!style="width:4em;"|[[タブリーズ]]
 
!style="width:4em;"|[[オルーミーイェ]]
 
!style="width:4em;"|[[アルダビール]]<br />(Nowjeh Deh)
 
!style="width:4em;"|[[ザンジャーン]]
 
!style="width:4em;"|[[ハマダーン]]
 
!style="width:4em;"|[[アラーク]]
 
!style="width:4em;"|[[ケルマーンシャー]]
 
!style="width:4em;"|[[ホッラマーバード]]
 
!style="width:4em;"|[[ラシュト]]
 
!style="width:4em;"|[[テヘラン]]
 
!style="width:4em;"|[[セムナーン]]
 
|-
 
! colspan="2"|[[ケッペンの気候区分|気候区分]]
 
| [[ステップ気候|BSk]] || BSk
 
|  BSk|| BSk
 
|  [[高地地中海性気候|Dsa]] || Dsa
 
|  Dsa || [[地中海性気候|Csa]]
 
|  [[温暖湿潤気候|Cfa]] ||  BSk
 
|  BSk
 
|-
 
!rowspan="2"|平均<br />気温<br />(&#8451;)
 
!最暖月
 
| 26.0<br />(7月) || 23.8<br />(7月)
 
| 25.3<br />(7月) || 25.2<br />(7月)
 
| 25.3<br />(7月) || 27.5<br />(7月)
 
| 28.2<br />(7月) || 30.8<br />(7月)
 
| 26.2<br />(7月)  || 30.8<br />(7月)
 
| 32.2<br />(7月)
 
|-
 
!最寒月
 
| style="background:#0cf"|-3.2<br />(1月) || style="background:#0cf"|-3.3<br />(1月)
 
| style="background:#09f"|-4.6<br />(1月) || style="background:#0cf"|-3.0<br />(1月)
 
| style="background:#09f"|-4.6<br />(1月)  || -1.3<br />(1月)
 
| 0.6<br />(1月) || 5.0<br />(1月)
 
| 6.7<br />(1月)  || 2.5<br />(1月)
 
| 3.6<br />(1月)
 
|-
 
!rowspan="2"|[[降水量]]<br />(mm)
 
!最多月
 
| 53.6<br />(4月) || 58.<br />(4月)
 
| 49.8<br />(4月)  || 56.5<br />(4月)
 
| 49.8<br />(4月) || 54.7<br />(1月)
 
| 88.9<br />(3月) || 86.0<br />(1月)
 
| 230.2<br />(9月)  || 37.4<br />(3月)
 
| 22.7<br />(3月)
 
|-
 
!最少月
 
| 3.2<br />(7月) ||  2.6<br />(8月)
 
| 0.8<br />(9月) || 3.4<br />(7月)
 
| 0.8<br />(9月) || 0.6<br />(7月)
 
| 0.3<br />(7,8月) || 0.1<br />(7月)
 
| 38.7<br />(6月) || 0.9<br />(9月)
 
| 1.4<br />(9月)
 
|-
 
!rowspan="2" colspan="2" | 平年値<br />(月単位)
 
!colspan="3"|中部
 
!colspan="4"|南部
 
!colspan="2"|東部
 
|-
 
!|[[ヤズド]]
 
!|[[エスファハーン]]
 
![[シーラーズ]]
 
!|[[アーバーダーン]]
 
![[ザーヘダーン]]
 
![[ケルマーン]]
 
![[バンダレ・アッバース]]
 
![[ビールジャンド]]
 
![[マシュハド]]
 
|-
 
! colspan="2"|[[ケッペンの気候区分|気候区分]]
 
| [[砂漠気候|BWk]] || BSk
 
| BSk || BWh
 
| BWh || BWk
 
| BWh || BWk
 
| BSk
 
|-
 
!rowspan="2"|平均<br />気温<br />(&#8451;)
 
!最暖月
 
| 32.4<br />(7月)  || 29.4<br />(7月)
 
| 29.8<br />(7月)  || 36.8<br />(7月)
 
| 29.3<br />(7月)  || 28.9<br />(7月)
 
| 34.4<br />(7月)  || 28.8<br />(7月)
 
| 26.7<br />(7月)
 
|-
 
!最寒月
 
| 5.1<br />(1月) || 2.7<br />(1月)
 
| 5.3<br />(1月)  || 12.3<br />(1月)
 
| 6.4<br />(1月)  || 4.4<br />(1月)
 
| 18.1<br />(1月)  || 4.0<br />(1月)
 
| -0.0<br />(1月)
 
|-
 
!rowspan="2"|[[降水量]]<br />(mm)
 
!最多月
 
| 12.9<br />(3月) || 19.6<br />(9月)
 
| 79.8<br />(1月) || 34.8<br />(1月)
 
| 21.1<br />(2月) || 32.0<br />(3月)
 
| 47.5<br />(2月) || 35.1<br />(3月)
 
| 52.0<br />(1月)
 
|-
 
!最少月
 
| 0.0<br />(8月)  || 0.0<br />(9月)
 
| 0.0<br />(9月) || 10.0<br />(6,7,8月)
 
| 0.2<br />(9月) || 0.3<br />(9月)
 
| 0.0<br />(6月) || 0.0<br />(9月)
 
| 0.7<br />(8月)
 
|}
 
* 最寒月-3度未満(=[[亜寒帯]](D)の条件)・・・薄水色、水色
 
 
 
=== 地方行政区分 ===
 
{{Main|イランの地方行政区画|イランの州}}
 
[[ファイル:IranNumbered.png|300px|thumb|right|イランの州。]]
 
 
 
イランは31の州(オスターン)からなっている。
 
{{Colbegin|3}}
 
 
 
# [[テヘラン州|テヘラン]]
 
# [[ゴム州|ゴム]]
 
# [[マルキャズィー州|マルキャズィー]]
 
# [[ガズヴィーン州|ガズヴィーン]]
 
# [[ギーラーン州|ギーラーン]]
 
# [[アルダビール州|アルダビール]]
 
# [[ザンジャーン州|ザンジャーン]]
 
# [[東アーザルバーイジャーン州|東アーザルバーイジャーン]]
 
# [[西アーザルバーイジャーン州|西アーザルバーイジャーン]]
 
# [[コルデスターン州|コルデスターン]]
 
# [[ハマダーン州|ハマダーン]]
 
# [[ケルマーンシャー州|ケルマーンシャー]]
 
# [[イーラーム州|イーラーム]]
 
# [[ロレスターン州|ロレスターン]]
 
# [[フーゼスターン州|フーゼスターン]]
 
# [[チャハール=マハール・バフティヤーリー州|チャハール=マハール・バフティヤーリー]]
 
# [[コフギールーイェ・ブーイェル=アフマド州|コフギールーイェ・ブーイェル=アフマド]]
 
# [[ブーシェフル州|ブーシェフル]]
 
# [[ファールス州|ファールス]]
 
# [[ホルモズガーン州|ホルモズガーン]]
 
# [[スィースターン・バルーチェスターン州|スィースターン・バルーチェスターン]]
 
# [[ケルマーン州|ケルマーン]]
 
# [[ヤズド州|ヤズド]]
 
# [[エスファハーン州|エスファハーン]]
 
# [[セムナーン州|セムナーン]]
 
# [[マーザンダラーン州|マーザンダラーン]]
 
# [[ゴレスターン州|ゴレスターン]]
 
# [[北ホラーサーン州|北ホラーサーン]]
 
# [[ラザヴィー・ホラーサーン州|ラザヴィー・ホラーサーン]]
 
# [[南ホラーサーン州|南ホラーサーン]]
 
# [[アルボルズ州|アルボルズ]]
 
{{Colend}}
 
 
 
=== 主要都市 ===
 
{{main|イランの都市の一覧}}
 
イランの人口上位5都市は以下の通り(都市圏の人口ではない)。
 
 
 
<gallery>
 
ファイル:Shahyad.jpg|'''[[テヘラン]]''': 7,160,094人(2006年)
 
ファイル:RezaShrine.jpg|'''[[マシュハド]]''': 2,837,734人(2006年)
 
ファイル:Naghsh-e-jahan masjed-e-shah esfahan.jpg|'''[[エスファハーン]]''': 1,573,378人(2006年)
 
ファイル:Behnam's House, Sahand University of Technology, Tabriz, Azerbaijan, Iran, 08-19-2006.jpg|'''[[タブリーズ]]''': 1,460,961人(2006年)
 
ファイル:Baghe Eram Shiraz.jpg|'''[[シーラーズ]]''': 1,279,140人(2006年)
 
</gallery>
 
 
 
== 経済 ==
 
{{Main|イランの経済}}
 
[[File:Irannight.jpg|thumb|220px|夜間のイランを捉えた衛星写真([[2010年]])。]]
 
[[ファイル:Elahiyeh.jpg|thumb|220px|首都[[テヘラン]]の[[エラーヒーイェ地区]]。[[アルボルズ山脈|アルボルズ]]の山々を背景に近代的高層建築がそびえ立つ。]]
 
[[国際通貨基金|IMF]]の統計によると、[[2013年]]の[[GDP]]は3,663億ドルであり<ref name="imf201404" />、[[大阪府]]とほぼ同じ経済規模である<ref>{{PDFlink|[http://www.esri.cao.go.jp/jp/sna/data/data_list/kenmin/files/contents/pdf/gaiyou1.pdf 内閣府による県民経済計算]}}</ref>。同年の一人当たりのGDPは4,750ドルである<ref name="imf201404" />。
 
 
 
イランの経済は中央統制の[[国営イラン石油会社]]や[[国有企業|国有大企業]]と、農村部の[[農業]]および小規模な[[商業]]、ベンチャーによるサービス業などの私有企業からなる[[混合経済]]である。政府は以前から引き続いて[[市場化]]改革を行い、石油に依存するイラン経済の多角化を図っており、収益を[[自動車産業]]、[[航空宇宙産業]]、家電製造業、[[石油化学工業]]、[[核技術]]など他の部門に振り分け[[投資]]している。[[チャーバハール]]自由貿易地域、[[キーシュ島]]自由貿易地域の設定などを通して投資環境の整備に努め、数億ドル単位での外国からの投資を呼び込むことを目指している。現代イランの[[中産階級]]の層は厚く堅実で経済は成長を続けているが、一方で高[[インフレーション|インフレ]]、高[[失業率]]が問題である。インフレ率は2007年度の平均で18.4%、2008年4月(イラン暦)には24.2%にまで達している。
 
 
 
[[財政赤字]]は慢性的問題で、これは食品、[[ガソリン]]などを中心とする年総計約72億5000万ドルにものぼる莫大な政府[[補助金]]が原因の一つとなっている。これに対して[[アフマディーネジャード]]政権は、2010年からガソリンや食料品などに対する補助金の段階的削減に踏み切り、低所得層に対しては現金給付に切り替えている<ref>{{cite news|url=http://www.bloomberg.co.jp/news/123-LDP9F70D9L3501.html|title=イラン、政府補助金を段階的に削減-ガソリンや食料品が値上がり|publisher=ブルームバーグ|date=2010-12-19|accessdate=2013-02-18}}</ref>。
 
 
 
イランは[[石油輸出国機構|OPEC]]第2位の[[石油生産国]]で、2016年現在の生産量は200万バレル/日である。確認されている世界[[石油埋蔵量]]の10%を占める。また[[天然ガス]]埋蔵量でも[[ロシア]]に続き世界第2位である。原油の輸出は貴重な外貨獲得手段であるとともに[[1996年]]の非常に堅調な[[原油価格]]は、イランの[[財政赤字]]を補完し、[[債務元利未払金]]の償還に充てられた。
 
 
 
[[農業]]については国家投資、[[生産自由化]]による活発化が目指され、外国に対する売り込み、[[マーケティング]]などで輸出市場を開発し、全般的に改善された。[[ナツメヤシ]]、[[ピスタチオ]]、[[花卉]]など輸出用農業生産物の拡大、大規模[[灌漑]]計画により1990年代のイラン農業は、経済諸部門のなかでも最も早い成長のあった分野である。一連の[[旱魃]]による踏み足局面もあるが、農業はいまだにイランで最大の[[雇用]]を持つ部門である。
 
 
 
イランは[[バイオテクノロジー]]と[[医薬品]]製造などにも力を入れている。主要貿易国は[[フランス]]、[[ドイツ]]、[[日本]]、[[イタリア]]、[[スペイン]]、[[ロシア]]、[[大韓民国|韓国]]、[[中華人民共和国|中国]]などである。1990年代後半からは[[シリア]]、[[インド]]、[[キューバ]]、[[ベネズエラ]]、[[南アフリカ]]など[[開発途上国|発展途上国]]との経済協力も進めている。また域内でも[[トルコ]]と[[パキスタン]]との通商を拡大させており、[[西アジア]]、[[中央アジア]]の[[市場統合]]のビジョンを共有している。
 
 
 
== 人口統計 ==
 
{{main|{{仮リンク|イランの人口統計|en|Demographics of Iran}}}}
 
 
 
=== 人口 ===
 
[[ファイル:Iran population.svg|thumb|イランの人口推移(1956年 - 2003年)]]
 
イランの[[人口]]は20世紀後半に劇的に増加し、2006年には7000万人に達した。しかし多くの研究では21世紀への世紀転換点には、[[人口増加率]]の抑制に成功し、ほぼ[[人口補充水準]]に到達した後、2050年頃に約1億人で安定するまで人口増加率は徐々に低下してゆくものと考えられている。[[人口密度]]は1平方キロメートルにつき約40人である。イランには2005年現在、イランは約100万人の外国[[難民]](主に[[アフガニスタン]]難民、ついで[[イラク]]難民)を受け入れており、世界で最も難民が多い国の一つである。政府の政策的および社会的要因により、イランは難民たちの本国帰還を目指している。逆に[[イラン革命|イラン・イスラーム革命]]後に[[イラン人のディアスポラ|海外に移住した人々]]([[:en:Iranian diaspora]])が[[北アメリカ]]([[イラン系アメリカ人]]、[[:en:Iranian American]]や[[イラン系カナダ人]]、[[:en:Iranian Canadian]])、[[西ヨーロッパ]]([[在イギリスイラン人]]、[[:en:Iranians in the United Kingdom]])、[[南アメリカ]]、[[日本]]([[在日イラン人]])などに約200万から300万人程度存在すると見積もられる。
 
 
 
=== 民族 ===
 
{{main|{{仮リンク|イランの民族|en|Ethnicities in Iran}}}}
 
{{bar box
 
|title=民族構成(イラン)
 
|titlebar=#ddd
 
|width= 300px
 
|float=right
 
|bars=
 
{{bar percent|[[ペルシア人]]|yellowgreen|51}}
 
{{bar percent|[[アゼルバイジャン人|アゼリー人]]|Purple|25}}
 
{{bar percent|[[クルド人]]|green|7}}
 
{{bar percent|その他|Brown|17}}
 
}}
 
 
 
イランの[[民族]]はその使用[[言語]]と密接な関係にあり、次いで[[宗教]]が重要である。すなわちエスニック・グループの分類は何語を話す何教徒か、に依存する部分が大きい。イランの[[公用語]]は[[インド・ヨーロッパ語族]][[イラン語群]]の[[ペルシア語]]で人口の約半数はこれを母語とするが、[[チュルク諸語|チュルク系]]の[[アゼルバイジャン語]]を母語とする人も非常に多く人口の四分の一にのぼり、さらにペルシア語以外の[[イラン語群]]の諸語やその他の言語を話す人びともいる。先述のように、それぞれの[[民族]]の定義や範囲、あるいはその[[人口]]や全体に占める割合に関してはさまざまな議論があるが、イランに住む[[エスニック・グループ]]は主に次のようなものである。[[ペルシア人]](ペルシア語を語る人びと: 51%)、[[アゼルバイジャン人]](アゼルバイジャン語を語る人びと: 25%)、{{仮リンク|ギラキ人|en|Gilaki people|label=ギーラキー}}および{{仮リンク|マーザンダラーン族|en|Mazanderani people|label=マーザンダラーニー}}([[ギーラキー語]]、[[マーザンダラーニー語]]を語る人びと: 8%)、[[クルド人]](7%)、[[アラブ人]](4%)、[[バルーチ族|バローチ]](2%)、[[ロル族|ロル]](2%)、[[トルクメン]](2%)、[[ガシュガーイー族|ガシュガーイー]]、[[アルメニア人]]、[[グルジア人]]、[[ユダヤ人]]、[[アッシリア人]]、{{仮リンク|タリシュ人|en|Talysh people}}、{{仮リンク|タート人 (イラン)|en|Tat people (Iran)|label=タート人}}、その他(1%)である。しかし以上の数字は一つの見積もりであって、公式の民族の人口・割合に関する統計は存在しない。国連の統計によると、イランにおける[[識字率]]は79.1%であり、女性の非識字率は27.4%に達する。
 
 
 
===言語===
 
{{main|{{仮リンク|イランの言語|en|Languages of Iran}}}}
 
主要な言語は、[[ペルシア語]]、[[アゼルバイジャン語]]([[南アゼルバイジャン語]])、[[クルド語]]([[ソラニー]]、[[クルマンジー]]、[[南部クルド語]]、[[ラーク語]])、[[ロル語]](北ロル語、[[バフティヤーリー語]]、南ロル語)、[[ギラキ語]]、[[マーザンダラーン語]]、[[バローチー語]]、[[アラビア語]]([[アラビア語イラク方言]]、[[アラビア語湾岸方言]])、[[トルクメン語]]、[[ドマーリー語]](または、[[ドマリ語]])、[[ガシュガーイー語]]、[[タリシュ語]]である。
 
 
 
=== 宗教 ===
 
{{main|{{仮リンク|イランの宗教|en|Religion in Iran}}}}
 
{{bar box
 
|title=宗教構成(イラン)
 
|titlebar=#ddd
 
|width= 300px
 
|float=left
 
|bars=
 
{{bar percent|[[イスラム教]]([[シーア派]])|yellowgreen|90}}
 
{{bar percent|[[イスラム教]]([[スンナ派]])|green|9}}
 
{{bar percent|その他|red|1}}
 
}}
 
 
 
大部分のイラン人は[[ムスリム]]であり、その90%が[[シーア派]][[十二イマーム派]]([[国教]])、9%が[[スンナ派]](多くが[[トルクメン人]]、[[クルド人]]と[[アラブ人]])である(詳細は[[イスラーム (イラン)|イランのイスラーム]]を参照)。ほかに非ムスリムの宗教的マイノリティがおり、主なものに[[バハーイー教]]、[[ゾロアスター教]]([[サーサーン朝]]時代の国教)、[[ユダヤ教]]、[[キリスト教]]諸派などがある。
 
 
 
このうちバハーイーを除く3宗教は建前としては公認されており、憲法第64条に従い議会に宗教少数派議席を確保され<ref>具体的には、ゾロアスター教徒、ユダヤ教徒、アッシリア・カルデア教会、北部[[アルメニア使徒教会]]、南部アルメニア使徒教会にそれぞれ1つずつ。ただし通常の選挙に非ムスリムが出馬することは禁止されている。[http://www.fidh.org/IMG/pdf/ir0108a.pdf discrimination against religious minorities in IRAN]</ref>、公式に『保護』されているなどかつての『[[ズィンミー]]』に相当する。これら三宗教の信者は極端な迫害{{要出典|date=2009年11月}}を受けることはないが、ヘイトスピーチやさまざまな社会的差別などを受けることもある。また、これら公認された宗教であれ、イスラム教徒として生まれたものがそれらの宗教に改宗することは出来ず、発覚した場合死刑となる。
 
 
 
一方、バハーイー教(イラン最大の宗教的マイノリティー)は、非公認で迫害の歴史がある。バハーイー教は19世紀半ば十二イマーム派[[シャイヒー派]]を背景に出現した[[バーブ教]]の系譜を継ぐもので、1979年の革命後には処刑や高等教育を受ける権利を否定されるなど厳しく迫害{{要出典|date=2009年11月}}されている(これについては[[迫害 (バハーイー教)|バハーイー教の迫害]]および[[宗教的マイノリティー (イラン)|イランの宗教的マイノリティー]]、[[イランにおける宗教的迫害]]を参照)。ホメイニー自身もたびたび、バハーイー教を『邪教』と断じて禁教令を擁護していた。歴史的には[[マニ (預言者)|マニ]]による[[マニ教]]もイラン起源とも言える。また[[マズダク教]]は弾圧されて姿を消した。
 
 
 
=== 教育 ===
 
{{main|{{仮リンク|イランの教育|en|Education in Iran}}}}
 
 
 
2002年の推計によれば、15歳以上の国民の[[識字率]]は77%(男性:83.5%、女性:70.4%)であり<ref name="2010cia">[https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/ir.html "Iran"] 2010年2月1日閲覧。</ref>、[[世界銀行|世銀]]発表の2008年における15歳以上の識字率は85%となっている<ref>{{cite web|url=http://data.worldbank.org/indicator/SE.ADT.LITR.ZS|title=Literacy rate, adult total (% of people ages 15 and above)|publisher=The World Bank|accessdate=2013-02-18}}</ref>。2006年にはGDPの5.1%が教育に支出された<ref name="2010cia" />。
 
 
 
主な高等教育機関としては、[[テヘラン大学]](1934)、[[アミール・キャビール工科大学]](1958)、[[アルザフラー大学]](1964)、[[イスラーム自由大学]](1982)、{{仮リンク|シャリーフ工科大学|en|Sharif University of Technology}}などの名が挙げられる。
 
 
 
== 文化 ==
 
{{main|{{仮リンク|イランの文化|en|Culture of Iran}}|イランの芸術}}
 
[[ファイル:Mehmooni2.jpg|thumb|「ファルハング」、すなわち文化は常にイランの文明の中心であり、今日のイラン人もまた自らを、古代からの洗練された文化の継承者であり、保護者であると考える。]]
 
[[File:Shahnameh3-5.jpg|thumb|220px|詩人[[フィルダウスィー]]によるイランの民族[[叙事詩]]、『[[シャー・ナーメ]]』。]]
 
[[ファイル:Hedayat113.jpeg|thumb|220px|20世紀の小説家、[[サーデグ・ヘダーヤト]]。]]
 
[[File:Avicenna.jpg|thumb|220px|11世紀に活躍した哲学者、[[イブン・スィーナー]]([[ラテン語]]では'''アウィケンナ'''、[[1271年]]画)。]]
 
イランは文化、すなわち[[美術]]、[[音楽]]、[[建築]]、[[詩]]、[[哲学]]、[[思想]]、[[伝承]]などの長い歴史があり、イラン[[文明]]が数千年の歴史の波乱を乗り越えて今日まで連綿として続いてきたことは、まさしくイラン文化の賜物であった、と多くのイラン人が考えている。
 
 
 
=== 食文化 ===
 
{{Main|イラン料理}}
 
米料理が多く食べられる。また、カスピ海やペルシャ湾から獲れる魚料理に、鳥・羊・牛などの他、駱駝等も用いる肉料理、野菜料理などは種類豊富。もっともポピュラーなのは魚・肉などを串焼きにする[[キャバーブ]]である。野菜料理は煮込むものが多い。[[ペルシア料理]]研究家のナジュミーイェ・バートマーングリージー(Najmieh Batmanglij)は、自著「''New Food of Life''」で「[[イラン料理]]は[[ペルシア絨緞]]同様に、色彩豊かでかつ複雑である。他の[[中東]]料理と共通する部分は多いが、もっとも洗練され、創意に富むといわれる」と述べている。
 
 
 
=== 文学 ===
 
{{Main|ペルシア文学}}
 
[[ペルシア文学]]は高く評価される。[[ペルシア語]]は2500年にわたって用いられ、文学史上に明瞭な足跡を残している。イランにおいては詩作が古代から現在まで盛んであり続け、中世の『[[ライラとマジュヌーン]]』の[[ニザーミー]]、『ハーフェズ詩集』の[[ハーフィズ]]、『[[ルバイヤート]]』の[[ウマル・ハイヤーム]]、『[[シャー・ナーメ]]』の[[フィルダウスィー]]、『[[精神的マスナヴィー]]』の[[ジャラール・ウッディーン・ルーミー]]らのように、イラン詩人らの詩美は世界的に注目を浴びた。
 
 
 
[[20世紀]]に入ると、ペルシア新体詩をも乗り越え、[[ノーベル文学賞]]候補ともなった[[アフマド・シャームルー]]や、イラン初の女流詩人[[パルヴィーン・エーテサーミー]]、同じく女流詩人であり、[[口語詩]]の創造を追求した[[フォルーグ・ファッロフザード]]のような詩人が現れた。
 
 
 
[[小説]]においても20世紀には生前評価を得ることはできなかったものの、『生き埋め』(1930)、『盲目の梟』(1936)などの傑作を残した[[サーデグ・ヘダーヤト]]が現れた。
 
 
 
=== 哲学 ===
 
{{Main|ペルシア哲学}}
 
イスラーム化以後、イラン世界では[[イスラーム哲学]]が発達し、11世紀には[[中世哲学]]に強い影響を及ぼした[[イブン・スィーナー]]([[ラテン語]]ではアウィケンナ)や哲学者にして[[スーフィー]]でもあった[[ガザーリー]]が、17世紀には[[超越論的神智学]]を創始した[[モッラー・サドラー]]が活動した。
 
 
 
=== 音楽 ===
 
{{main|{{仮リンク|イランの音楽|en|Music of Iran}}}}
 
[[クラシック音楽]]においては[[新ロマン主義音楽]]作曲家として『ペルセポリス交響曲』などイラン文化を題材とした作品を書いた[[アンドレ・オッセン]]や、指揮者であり、[[ペルシャ国際フィルハーモニー管弦楽団]]を創設した[[アレクサンダー・ラハバリ]]らの名が特筆される。
 
 
 
[[ポピュラー音楽]]に於いては[[イラン・ポップ]]と総称されるジャンルが存在する。[[ロック (音楽)|ロック]]は禁止されているが、テヘランのロック・バンド [[:en:Ahoora|Ahoora]] のアルバムはアメリカやヨーロッパでも発売されている。その他には、[[:en:127 (band)|127]]、[[:en:Hypernova (band)|Hypernova]]、[[:en:Angband (band)|Angband]]、[[:en:Kiosk (band)|Kiosk]]、[[:en:The_Yellow_Dogs_Band|
 
The_Yellow_Dogs_Band]] などのバンドや、[[:en:Mohsen Namjoo|Mohsen Namjoo]]、[[:en:Agah Bahari|Agah Bahari]]、[[:en:Kavus Torabi|Kavus Torabi]] らのミュージシャンも国内外で広く活動をしている。
 
 
 
=== 映画 ===
 
{{Main|イランの映画}}
 
[[イランの映画|イラン映画]]は過去25年間に国際的に300の賞を受賞し全世界的に評価されている。イランにおいて初の[[映画館]]が創設されたのは[[1904年]]と早く、イラン人によって初めて製作されたトーキー映画は[[アルダシール・イーラーニー]]による『ロルの娘』([[1932年]])だった。イラン革命以前のモハンマド・レザー・パフラヴィーの治世下では[[ハリウッド映画]]や[[インド映画]]が流入した一方で、『ジュヌーベ・シャフル』([[1958年]])で白色革命下の矛盾を描いた[[ファッルーフ・ガッファリー]]や、『牛』([[1969年]])で[[ヴェネツィア国際映画祭]]作品賞を受賞した[[ダールユーシュ・メフルジューイー]]のような社会派の映画人が活動した。
 
 
 
現代の著名な映画監督としては、『[[友だちのうちはどこ?]]』([[1987年]])、『[[ホームワーク (映画)|ホームワーク]]』([[1989年]])の[[アッバス・キアロスタミ|アッバース・キヤーロスタミー]](アッバス・キアロスタミ)や、『[[サイレンス (映画)|サイレンス]]』([[1998年]])の[[モフセン・マフマルバフ|モフセン・マフマルバーフ]]、『[[駆ける少年]]』の[[アミール・ナーデリー]]、『[[風の絨毯]]』の[[キャマール・タブリーズィー]]、『[[ハーフェズ ペルシャの詩]]』([[2007年]])の[[アボルファズル・ジャリリ]]などの名が挙げられる。[[アスガル・ファルハーディー]]監督の映画『[[別離 (2011年の映画)|別離]]』([[2011年]])は、[[ベルリン国際映画祭]]の[[金熊賞]]と[[アカデミー賞]]の外国語作品賞を受賞した。
 
 
 
=== 祝祭日 ===
 
{| class="wikitable"
 
|+ 祝祭日
 
|-
 
! 日付
 
! 日本語表記
 
! 現地語表記
 
! 備考
 
|-
 
| [[ヒジュラ暦|イスラーム暦]]<br />モハッラム月(1月)9日 || タースーアー || || 第3代[[イマーム|エマーム]]・[[フサイン・イブン・アリー (イマーム)|ホセイン]]が[[ウマイヤ朝]]軍に包囲され負傷した日
 
|-
 
| イスラーム暦<br />モハッラム月10日 || [[アーシューラー]] || || 「正義が悪に敗れた日」<br />第3代エマーム・ホセインの殉教を追悼する。
 
|-
 
| イスラーム暦<br />サファル月(2月)20日 || アルバイーン || || アーシューラー後40日間の喪が明ける日
 
|-
 
| イスラーム暦<br />サファル月28日 || 預言者ムハンマド昇天日 || || 最後の[[預言者]][[ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ|ムハンマド]]の命日
 
|-
 
| イスラーム暦<br />サファル月28日 || エマーム・[[ハサン・イブン・アリー|ハサン・モジタバー]]殉教記念日 || || 第2代エマームの命日
 
|-
 
| イスラーム暦<br />サファル月29日 || エマーム・[[アリー・リダー|レザー]]殉教記念日 || || 第8代エマームの命日
 
|-
 
| イスラーム暦<br />ラビーヨル・アッヴァル月(3月)17日 || 預言者ムハンマド生誕日 || || 最後の預言者ムハンマドの誕生祭
 
|-
 
| イスラーム暦<br />ジャマーデヨル・サーニー月(6月)3日 || [[ファーティマ|ファーテメ・ザフラー]]殉教追悼記念日 || || 預言者ムハンマドの娘、初代エマーム・アリーの妻、第2代ハサン、第3代ホセインの母の命日<br />(命日には諸説あるがイランではこの日が公式の休日)
 
|-
 
| イスラーム暦<br />ラジャブ月(7月)13日 || エマーム・[[アリー・イブン・アビー=ターリブ|アリー]]生誕日 || || 初代エマームの誕生祭
 
|-
 
| イスラーム暦<br />ラジャブ月27日 || マブアス || || ムハンマドが[[アッラー]]から預言者に任じられた日
 
|-
 
| イスラーム暦<br />シャアバーン月(8月)15日 || ニーメイェ・シャアバーン || || 第12代エマーム・[[ムハンマド・ムンタザル|マフディー]](隠れエマーム)の誕生祭
 
|-
 
| イスラーム暦<br />ラメザーン月(9月)21日 || エマーム・[[アリー・イブン・アビー=ターリブ|アリー]]殉教記念日 || || 初代エマームの命日
 
|-
 
| イスラーム暦<br />シャッヴァール月(10月)1日 || エイデ・フェトゥル || || [[断食]]明けの祭
 
|-
 
| イスラーム暦<br />シャッヴァール月25日 || エマーム・[[ジャアファル・サーディク|ジャアファル・サーデグ]]殉教記念日 || || 第6代エマームの命日
 
|-
 
| イスラーム暦<br />ズィー・ガアデ月(11月)11日 || エマーム・レザー生誕日 || || 第8代エマームの誕生祭
 
|-
 
| イスラーム暦<br />ズィー・ハッジェ月(12月)10日 || エイデ・ゴルバーン || || [[犠牲祭]]。家畜を犠牲にささげアッラーを賛美する。
 
|-
 
| イスラーム暦<br />ズィー・ハッジェ月18日 || エイデ・ガディーレ・ホンム || || 初代エマーム・アリーが預言者ムハンマドから後継者に任じられた日
 
|-
 
| [[イラン暦]]<br />ファルヴァルディーン月(1月)1〜4日 || [[ノウルーズ]] || || 新年祭([[春分の日]]、[[グレゴリオ暦]]の[[3月21日]]ごろ)
 
|-
 
| イラン暦<br />ファルヴァルディーン月12日 || イラン・イスラーム共和国記念日 || || [[1979年]]イラン・イスラーム共和国建国を記念する。
 
|-
 
| イラン暦<br />ファルヴァルディーン月13日 || スィーズダ・ベ・ダル || || 「正月13日」に家にいるのは不吉とされている。
 
|-
 
| イラン暦<br />ホルダード月(3月)14日 || エマーム・[[ルーホッラー・ホメイニー|ホメイニー]]師追悼記念日 || || [[イラン革命|イラン・イスラーム革命]]の指導者の命日
 
|-
 
| イラン暦<br />ホルダード月15日 || ホルダード月15日の流血蜂起記念日 || || [[1963年]]、ホメイニー師が[[モハンマド・レザー・パフラヴィー|皇帝]]を非難して逮捕されたことに反発した国民の暴動を記念する。
 
|-
 
| イラン暦<br />バフマン月(11月)22日 || イラン・イスラーム革命記念日 || || 1979年イスラーム革命による[[パフラヴィー朝]]崩壊を記念する。
 
|-
 
| イラン暦<br />エスファンド月(12月)29日 || [[石油]]国有化記念日 || || [[1951年]]の[[イギリス]]資本{{仮リンク|アングロ・イラニアン石油会社|en|Anglo-Persian Oil Company}}(AIOC)の国有化を記念する。
 
|}
 
 
 
[[イラン暦]]の元日にあたる[[春分の日]]に祝われる新年([[ノウルーズ]])の祝祭は2009年に[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[無形文化遺産]]に登録されている。
 
 
 
== スポーツ ==
 
{{main|{{仮リンク|イランのスポーツ|en|Sport in Iran}}}}
 
[[File:Iran equaliser.JPG|thumb|[[2006 FIFAワールドカップ]]にて[[サッカーアンゴラ代表|アンゴラ代表]]と対戦する[[サッカーイラン代表|イラン代表]]。]]
 
イランの国技はレスリングであり<ref>{{cite web|url=http://www.japan-wrestling.org/special/nyumonn/world1.htm|title=世界の勢力・強国(男子)|publisher=日本レスリング協会|accessdate=2013-06-02}}</ref>、強豪国として知られる。[[ロンドンオリンピック (2012年) におけるレスリング競技|2012年のロンドンオリンピック]]では金メダル3個を含む計6個のメダルを獲得した。
 
 
 
イランでは[[サッカー]]が盛んであり、[[イラン・サッカー協会]]は1920年に創設された。[[サッカーイラン代表]]はアジアの強豪として知られ、現在までに初出場となった[[1978 FIFAワールドカップ|1978年の]][[アルゼンチン]]大会と、[[1998 FIFAワールドカップ|1998年の]][[フランス]]大会、[[2006 FIFAワールドカップ|2006年の]][[ドイツ]]大会、[[2014 FIFAワールドカップ|2014年の]][[ブラジル]]大会と、4度の[[FIFAワールドカップ]]に出場している。
 
 
 
== 通信とメディア ==
 
{{Main|{{仮リンク|イランのメディア|en|Media of Iran}}}}
 
イランにおけるラジオの導入は1940年に設立された[[テヘラン・ラジオ]]に遡り、テレビの導入は1958年に始まった。イラン革命後、現在の放送メディアは国営放送の[[イラン・イスラム共和国放送]](IRIB)に一元化されている。新聞には朝刊紙と夕刊紙が存在し、朝刊紙で発行部数が多いのは『[[ハムシャフリー]]』であり、『[[イーラーン]]』、『[[ジャーメ・ジャム]]』、『[[アフバール]]』などが続き、夕刊紙で有力なのは『[[ケイハーン]]』、『[[エッテラーアート]]』などである。
 
 
 
イランでは全メディアが当局による直接・間接の支配を受けており、[[文化イスラーム指導省]]の承認が必要である。[[インターネット]]も例外ではないが、若年層のあいだで情報へのアクセス、自己表現の手段として爆発的な人気を呼び、イランは2005年現在、世界第4位の[[ブログ|ブロガー]]人口を持つ。
 
 
 
また海外メディアの国内取材も制限されており、2010年にイギリス[[英国放送協会|BBC]]の自動車番組[[トップ・ギア]]のスペシャル企画で、出演者とスタッフが入国しようとした際は、ニュース番組ではないにもかかわらずBBCという理由で拒否されたシーンが放送されている。
 
 
 
== イランを舞台にした作品 ==
 
* [[ゴルゴ13]]([[高倉健]]主演)
 
* [[桜桃の味]]
 
* [[ハーフェズ ペルシャの詩]]
 
* [[ペルセポリス (映画)|ペルセポリス]]
 
* [[不毛地帯]]
 
* [[アルゴ (映画)|アルゴ]] - 1979年の[[イランアメリカ大使館人質事件]]を題材とした映画
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
=== 注釈 ===
 
{{Reflist|group="注"}}
 
 
 
=== 脚注 ===
 
{{Reflist|colwidth=30em}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
* [[シリン・エバディ]]/竹林卓訳『私は逃げない──ある女性弁護士のイスラム革命』ランダムハウス講談社、2007年9月。ISBN 978-4270002513。
 
* [[大西円]]『イラン経済を解剖する』日本貿易振興会、2000年7月。ISBN 978-4822408909。
 
* {{Cite book|和書|author=[[岡田恵美子]]、[[鈴木珠里]]、[[北原圭一]] | title=イランを知るための65章 |edition=初版第二刷 |date=2005-01-30 |publisher=[[明石書店]] |location=[[東京]] |isbn=4-7503-1980-5|ref={{sfnref|岡田|鈴木|北原|2005}}}}
 
* [[桜井啓子 (イスラーム研究者)|桜井啓子]]『現代イラン──神の国の変貌』岩波書店〈岩波新書〉、2001年7月。ISBN 978-4004307426。
 
* 桜井啓子『革命イランの教科書メディア──イスラームとナショナリズムの相剋』岩波書店、1999年5月。ISBN 978-4000028349。
 
* [[ハミッド・ダバシ]]『イラン、背反する民の歴史』作品社、2008年2月。ISBN 978-4861821813。
 
* [[中西久枝]]『イスラームとモダニティ──現代イランの諸相』風媒社、2002年10月。ISBN 978-4833140362。
 
* [[アーザル・ナフィーシー]]、[[アッバス・キアロスタミ]]『イラン人は神の国イランをどう考えているか』草思社、2007年2月。ISBN 978-4794215642。
 
* [[モハンマド・ハタミ]]/平野次郎訳『文明の対話』共同通信社、2001年5月。ISBN 978-4764104822。
 
* 原隆一、岩崎葉子『イラン国民経済のダイナミズム』日本貿易振興会、2000年3月。ISBN 978-4258045037。
 
* [[マーク・ボウデン]]/伏見威蕃訳『ホメイニ師の賓客──イラン米大使館占拠事件と果てなき相克(上)』早川書房、2007年5月。ISBN 978-4152088246。
 
* マーク・ボウデン/伏見威蕃訳『ホメイニ師の賓客──イラン米大使館占拠事件と果てなき相克(下)』早川書房、2007年5月。ISBN 978-4152088253。
 
* [[ケネス・ポラック]]/佐藤陸雄訳『ザ・パージァン・パズル 上』小学館、2006年7月。ISBN 978-4093797412。
 
* [[ケネス・ポラック]]/佐藤陸雄訳『ザ・パージァン・パズル 下』小学館、2006年7月。ISBN 978-4093797429。
 
* [[ズィーバー・ミール・ホセイニー]]『イスラームとジェンダー』明石書店、2004年6月。ISBN 978-4750319346。
 
* [[宮田律]]『物語 イランの歴史──誇り高きペルシアの系譜』中央公論社〈中公新書〉、2002年9月。ISBN 4-12-101660-2。
 
* {{Cite book|和書|author=[[吉村慎太郎]]  |title=イラン現代史――従属と抵抗の100年 |edition=初版第一刷 |date=2011-04-30 |publisher=[[有志舎]] |location=[[東京]] |id= |isbn=978-4903426419|ref={{sfnref|吉村|2011}}}}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[イラン関係記事の一覧]]
 
* [[イラン暦]]
 
* [[イスラム共和制]]
 
* [[反イスラーム主義]]
 
* [[イスラーム教徒による宗教的迫害]]
 
* [[ペルシア神話]]
 
* [[ペルシア文学]]
 
* [[イランの法制]]
 
<!--
 
* [[_の通信]]
 
* [[_の交通]]
 
* [[_の軍事]]
 
* [[_の国際関係]]
 
-->
 
  
 +
西南アジアの国。古くはペルシアの名で知られた。南は[[ペルシア湾]],[[オマーン湾]]に面し,北は[[カスピ海]]を挟んで[[アゼルバイジャン]],[[アルメニア]]と接し,東は砂漠地方を介して[[アフガニスタン]],[[パキスタン]]と接し,西は山地を介して[[トルコ]],[[イラク]]と接する。国土のほとんどが[[イラン高原]]上にあり,「砂漠と高原の国」である。[[温帯冬雨気候]]のカスピ海沿岸と,湿潤なペルシア湾岸地帯を除いて,夏が長く高温で,極端に乾燥した[[大陸性気候]]を示し,北風が卓越する。国民はペルシア人が約 35%を占めるが,トルコ系やアラブ系の混血民族である。公用語は[[ペルシア語]]であるが,[[アラビア語]]の単語,文章構造を取り入れ,[[アラビア文字]]を採用している。[[イスラム教]]が国教。[[クルド人]]のほか,多種の少数民族が居住している。農業と遊牧と絨毯生産が伝統的な主産業であるが,1908年に南西部で石油が発見されて,国の産業構造を変えた。1953年以降,数次の経済開発計画を経て,工業化が進められている。1979年,[[イラン革命]]により,1925年に創始された[[パフラビー朝]]が倒れ,イラン=イスラム共和国が成立した。以後イスラム化が急進したが,1980~88年の[[イラン=イラク戦争]]で経済が疲弊した。([[イラン史]])
 +
 
== 外部リンク ==
 
== 外部リンク ==
{{Commons&cat|Iran|Iran}}
 
{{Wikivoyage|fa:ایران|イラン{{fa icon}}}}
 
{{Wikivoyage|Iran|イラン{{en icon}}}}
 
{{Wiktionary}}
 
* 政府
 
 
** [http://www.president.ir/ イラン大統領府] {{fa icon}}{{en icon}}
 
** [http://www.president.ir/ イラン大統領府] {{fa icon}}{{en icon}}
** [http://www.mfa.gov.ir/index.jsp イラン外務省] {{fa icon}}{{en icon}}
 
** [http://en.tokyo.mfa.ir/ 在日イラン大使館] {{en icon}}{{fa icon}}{{ja icon}}
 
* 日本政府
 
 
** [http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/iran/ 日本外務省 - イラン] {{ja icon}}
 
** [http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/iran/ 日本外務省 - イラン] {{ja icon}}
** [http://www.ir.emb-japan.go.jp/jp/index.html 在イラン日本国大使館] {{ja icon}}
 
* 観光
 
 
** [http://www.irpedia.com/ イラン観光産業協会] {{fa icon}}{{en icon}}
 
** [http://www.irpedia.com/ イラン観光産業協会] {{fa icon}}{{en icon}}
* その他
 
 
** [http://www.jetro.go.jp/biz/world/middle_east/ir/ JETRO - イラン] {{ja icon}}
 
** [http://www.jetro.go.jp/biz/world/middle_east/ir/ JETRO - イラン] {{ja icon}}
** [http://www.jccme.or.jp/japanese/08/08-07-07.cfm JCCME - イラン] {{ja icon}}
 
** {{CIA World Factbook link|ir|Iran}} {{en icon}}
 
** {{dmoz|Regional/Middle_East/Iran}} {{en icon}}
 
** {{Wikiatlas|Iran}} {{en icon}}
 
** {{osmrelation-inline|304938}}
 
  
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+
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{{デフォルトソート:いらん}}

2018/12/24/ (月) 08:37時点における最新版

イラン・イスラム共和国
جمهوری اسلامی ایران
国の標語: استقلال آزادی جمهوری اسلامی
ラテン文字転写:Esteqlāl, Āzādī, Jomhūrī-ye Eslāmī
ペルシア語 : “独立、自由、イスラム共和制”)
公用語 ペルシア語
首都 テヘラン
最大の都市 テヘラン

面積

総計 1,648,195km217位
水面積率 0.7%

人口

総計(2015年 79,100,000人(17位
人口密度 48人/km2
GDP(自国通貨表示)

合計(2013年 9,072兆2,320億[1]イラン・リヤル (IR)
GDP (MER)

合計(2013年 3,663億[1]ドル(32位
GDP (PPP)

合計(2013年9,455億[1]ドル(18位
1人あたり 12,264[1]ドル
成立

アケメネス朝ペルシア帝国)建国紀元前550年
サファヴィー朝が統一1501年
イラン・イスラム革命1979年4月1日
通貨 イラン・リヤル (IR) (IRR)
時間帯 UTC +3:30(DST:+4:30)
ISO 3166-1 IR / IRN
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イラン・イスラム共和国(イラン・イスラムきょうわこく、ペルシア語: جمهوری اسلامی ایران‎)、通称イラン

西南アジアの国。古くはペルシアの名で知られた。南はペルシア湾オマーン湾に面し,北はカスピ海を挟んでアゼルバイジャンアルメニアと接し,東は砂漠地方を介してアフガニスタンパキスタンと接し,西は山地を介してトルコイラクと接する。国土のほとんどがイラン高原上にあり,「砂漠と高原の国」である。温帯冬雨気候のカスピ海沿岸と,湿潤なペルシア湾岸地帯を除いて,夏が長く高温で,極端に乾燥した大陸性気候を示し,北風が卓越する。国民はペルシア人が約 35%を占めるが,トルコ系やアラブ系の混血民族である。公用語はペルシア語であるが,アラビア語の単語,文章構造を取り入れ,アラビア文字を採用している。イスラム教が国教。クルド人のほか,多種の少数民族が居住している。農業と遊牧と絨毯生産が伝統的な主産業であるが,1908年に南西部で石油が発見されて,国の産業構造を変えた。1953年以降,数次の経済開発計画を経て,工業化が進められている。1979年,イラン革命により,1925年に創始されたパフラビー朝が倒れ,イラン=イスラム共和国が成立した。以後イスラム化が急進したが,1980~88年のイラン=イラク戦争で経済が疲弊した。(イラン史

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  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 World Economic Outlook Database, April 2014”. IMF (2014年4月). . 2014閲覧.