「アレクサンドラ・フョードロヴナ (ニコライ2世皇后)」の版間の差分

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'''アレクサンドラ・フョードロヴナ'''({{翻字併記|ru|Александра Фёдоровна|Alexandra Feodrovna}}、[[1872年]][[6月6日]] - [[1918年]][[7月17日]])は、ロシア皇帝[[ニコライ2世]]の皇后。[[アレクセイ・ニコラエヴィチ (ロシア皇太子)|アレクセイ皇太子]]、[[オリガ・ニコラエヴナ (ニコライ2世皇女)|オリガ皇女]]、[[タチアナ・ニコラエヴナ|タチアナ皇女]]、[[マリア・ニコラエヴナ (ニコライ2世皇女)|マリア皇女]]、[[アナスタシア・ニコラエヴナ|アナスタシア皇女]]の母。[[グリゴリー・ラスプーチン|ラスプーチン]]の熱心な信者でパトロンでもあった。1918年7月17日未明に監禁先の[[エカテリンブルク]]の[[イパチェフ館]]において一家ともども殺された。
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'''アレクサンドラ・フョードロヴナ'''({{翻字併記|ru|Александра Фёдоровна|Alexandra Feodrovna}}、[[1872年]][[6月6日]] - [[1918年]][[7月17日]]
[[ロシア正教会|正教会]]で聖人([[新致命者]])。
 
 
 
== 生涯 ==
 
[[File:Princess Alice and Prince Louis.jpg|left|250px|thumb|アレクサンドラの両親。父親の[[ルートヴィヒ4世 (ヘッセン大公)|ルートヴィヒ4世]]と母親の[[アリス (ヘッセン大公妃)|アリス]]]]
 
[[File:Princesses Irene, Victoria, Elisabeth and Alix of Hesse and by Rhine.jpg|left|275px|thumb|1885年。左から3番目の姉[[イレーネ・フォン・ヘッセン=ダルムシュタット|イレーネ]]、一番上の姉[[ヴィクトリア (ミルフォード=ヘイヴン侯爵夫人)|ヴィクトリア]]、2番目の姉[[エリザヴェータ・フョードロヴナ|エリザヴェータ]]、アレクサンドラ]]
 
[[File:Princess Alix of Hesse 1890.jpg|thumb|200px|1890年]]
 
ヘッセン大公[[ルートヴィヒ4世 (ヘッセン大公)|ルートヴィヒ4世]]とイギリスの[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]の次女[[アリス (ヘッセン大公妃)|アリス]]の間の四女'''ヴィクトリア・アリックス'''({{Lang|de|Victoria Alix}})として生まれる。代父母は[[プリンス・オブ・ウェールズ]](後の[[エドワード7世 (イギリス王)|エドワード7世]])夫妻、ロシア皇太子(後の[[アレクサンドル3世]])夫妻であった。母が35歳で死去した後、6歳から12歳まで祖母ヴィクトリア女王に育てられたため、ドイツ人というより「イギリス人」であった。[[1884年]]、[[サンクトペテルブルク]]で行われた姉[[エリザヴェータ・フョードロヴナ|エリーザベト]]とアレクサンドル3世の弟[[セルゲイ・アレクサンドロヴィチ大公|セルゲイ大公]]の結婚式で、皇太子だったニコライと出会い、付き合い、愛し合うようになった。しかし、二人の関係に[[ロシア正教会]]が待ったをかけた。当時、皇后は[[正教徒]]に限定するという規定があった。アリックスは亡き母と同じく[[ルーテル教会]]を信仰していた。悩むアリックスにヴィクトリア女王は「二人の結婚は英国王室、ロシア王室の双方の安全保障にもなる。正教とプロテスタントの教義の違いは、実際にはたいした問題ではない。何より二人は似合いのカップルなのだから」と諭し、結婚するよう勧めた。
 
 
 
[[1894年]]に結婚、同時に皇后となることから、あれだけ悩んでいた[[キリスト教諸教派の一覧|教派]]の違いも、立場が変わったことから改宗した。[[1901年]]までに皇女を4人生む。当時の王族にしては珍しく、自ら子ども達に母乳を与え世話もし、深い愛情を注いだ。
 
 
 
[[1904年]]、待望の皇太子アレクセイが生まれるが、[[血友病]]に冒され、その祈祷から[[グリゴリー・ラスプーチン]]を招いた。アレクセイの血友病は、ヴィクトリア女王の家系に保有されていた遺伝子であり、彼女がもたらしたものと言われる<ref>{{Cite book|和書 |author = [[中野京子]] |year = 2014 |title = 名画で読み解く ロマノフ家12の物語 |publisher = [[光文社]] |page = 193 |isbn = 978-4-334-03811-3}}</ref>。このことからくる自責の念があったのか、皇位継承者であるにもかかわらず体の不自由な一人息子への不憫さからか、皇后はラスプーチンを神格化するようになったと言われ、皇后を通じてラスプーチンは帝政末期のロシア皇室に相当の影響を与えた。
 
 
 
[[第一次世界大戦]]が勃発し、ラスプーチンの予言でニコライ2世が戦線に赴くと、彼女が内政を任されるが、何人もの大臣(主に反ラスプーチン派)の首を挿げ替え、混乱を招いた。1916年12月、ラスプーチンが皇族[[ドミトリー・パヴロヴィチ|ドミトリー大公]]らに殺害され、それからわずか3ヵ月後(1917年3月)、ニコライ2世は退位。後に[[トボリスク]]に送られる。[[1918年]]7月18日未明、夫と子供と共に[[ウラジーミル・レーニン|レーニン]]からロマノフ一族全員の殺害命令を受けた革命軍により銃殺された。遺体は[[ソビエト連邦|ソ連]]崩壊後に発掘され、DNA検査の結果、姉の孫[[フィリップ (エディンバラ公)|エディンバラ公フィリップ]]の提供したものと一致した。
 
 
 
== その他 ==
 
[[File:Nicholas-and-Alexandra-the-romanovs-12206241-581-725.jpg|thumb|250px|1908年6月に皇室ヨット『[[スタンダルト (ヨット)|スタンダルト]]』号にて。アレクサンドラ皇后とニコライ2世]]
 
 
 
[[File:TatianaAlexandra.jpg|left|thumb|200px|1913年。アレクサンドラ皇后とタチアナ皇女]]
 
[[File:Alix háború.jpg|thumb|200px|1916年。従軍看護師を務めるアレクサンドラ皇后]]
 
[[File:Forensic rec. Romanov 02.jpg|left|200px|thumb|1994年。[[復顔|複顔術]]によって生前の姿に顔面が再建された]]
 
*ヴィクトリア女王はこの孫娘を大変可愛がり、王太子の長男で王位継承権第2位だったクラレンス公[[アルバート・ヴィクター (クラレンス公)|アルバート・ヴィクター]]に嫁がせようとした。[[アレクサンドラ・オブ・デンマーク|王太子妃アレクサンドラ]]はこの縁談を拒否し、1892年にアルバート・ヴィクターも28歳で死去したため2人の結婚は実現しなかった。
 
*慈善家の顔を持ち、皇后でありながら、看護師の資格を取得し第一次世界大戦では娘の[[オリガ・ニコラエヴナ (ニコライ2世皇女)|オリガ]]、[[タチアナ・ニコラエヴナ|タチアナ]]と共に従軍し、多くの負傷兵を手当てをした。
 
*家庭内では良妻賢母、子煩悩であり、脱出前日まで子供達の身を案じ、子供達の体温を日記に記していた。反面、迷信深く非社交的でヒステリックな性格であったため、当時のロシア国民の間の評判は良くなかった。無口で無表情な上に、極端に内気でいつも部屋に閉じこもり、必要最低限しか人前に現れず、他者と関わろうとしないアレクサンドラは、周囲には傲慢で冷酷かつ無関心に映った。また、姑の[[マリア・フョードロヴナ (アレクサンドル3世皇后)|マリア・フョードロヴナ]]皇太后とも不仲であったと言われる。アレクサンドラは自分の殻に閉じこもり、皇室に馴染もうと努力した姑を決して見習おうとはしなかった。
 
 
 
== 登場作品 ==
 
=== 映画 ===
 
*『[[ニコライとアレクサンドラ]]』([[1971年]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]])演:[[ジャネット・サズマン]]
 
  
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最後のロシア皇帝[[ニコライ2世]]の皇后。ドイツのヘッセン=ダルムシュタット大公の末娘で,前名アリックス。イギリスのビクトリア女王の孫。 1894年 11月 26日,ニコライ2世と結婚,1904年待望の男子帝位継承者アレクセイを得たが,彼女の家系に伝わる血友病が皇太子に遺伝していたのをおのれの罪として苦しみ,ロシア正教の神秘主義に狂信的に帰依,ついには修道士 [[G.E.ラスプーチン]]に救いを求めるようになった。第1次世界大戦中前線に出陣した夫に代って国務を統裁,ラスプーチンの推薦する無能な者を閣僚に据え,政府機構を麻痺させて専制の崩壊を早めた。[[十月革命]]後捕囚となったが,国内戦が始ったとき,白衛軍に政治的に利用されることを恐れたボルシェビキによって,夫および子供たちとともに銃殺された。
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== 脚注 ==
 
== 脚注 ==
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2018/10/3/ (水) 06:14時点における最新版

Alexandra.jpg

アレクサンドラ・フョードロヴナрусский: Александра Фёдоровна, ラテン文字転写: Alexandra Feodrovna1872年6月6日 - 1918年7月17日

最後のロシア皇帝ニコライ2世の皇后。ドイツのヘッセン=ダルムシュタット大公の末娘で,前名アリックス。イギリスのビクトリア女王の孫。 1894年 11月 26日,ニコライ2世と結婚,1904年待望の男子帝位継承者アレクセイを得たが,彼女の家系に伝わる血友病が皇太子に遺伝していたのをおのれの罪として苦しみ,ロシア正教の神秘主義に狂信的に帰依,ついには修道士 G.E.ラスプーチンに救いを求めるようになった。第1次世界大戦中前線に出陣した夫に代って国務を統裁,ラスプーチンの推薦する無能な者を閣僚に据え,政府機構を麻痺させて専制の崩壊を早めた。十月革命後捕囚となったが,国内戦が始ったとき,白衛軍に政治的に利用されることを恐れたボルシェビキによって,夫および子供たちとともに銃殺された。

脚注

先代:
マリア・フョードロヴナ
ロシア皇后
フィンランド大公妃
1894年 - 1917年
次代:
帝政廃止


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