さくら銀行

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株式会社 さくら銀行The Sakura Bank, Limited)は、かつて存在した都市銀行である。三井銀行太陽神戸銀行を合併し、さくら銀行への商号変更を前提に1990年4月1日に発足した太陽神戸三井銀行(たいようこうべみついぎんこう)を経て、1992年4月1日にさくら銀行に商号変更した。

行章は桜の花びらをモチーフにし、1990年4月1日から2001年3月31日まで使用された。

2001年4月1日に住友銀行に吸収合併され解散。住友銀行は株式会社 三井住友銀行に商号変更した。


概要

1990年4月1日、三井銀行と太陽神戸銀行が合併し、「株式会社太陽神戸三井銀行」(The Mitsui Taiyo-Kobe Bank,Limited)として誕生。存続会社は三井銀で、統一金融機関コード0002は同行のものを継承した。SWIFTコードMITKJPJT(MItsui, Taiyo, Kobeの頭文字に由来)は、さくら銀に行名変更してからも使用された。また、「あなたに近く、世界に近い」をスローガンとして掲げた。

本店は旧太陽神戸銀の東京営業部(東京都千代田区九段南一丁目)に置き[1][注釈 1]、会長には松下康雄(太陽神戸銀頭取、元大蔵事務次官)が頭取には末松謙一(三井銀社長)がそれぞれ就任した。合併時における総貸出残高は当時の都銀12行中最大、総預金は2位、店舗数は国内外533店となり、これも最大であった[2]

改称前は「太神三井(たいしんみつい)」という略称も用意されていて地図の表記等に使われてたが、1992年に「さくら銀行」に改称。行章であるは引続き使用された[注釈 2]

さくら銀発足後にも、旧太陽神戸銀時代からの兵庫県神戸市および姫路市など県内23市町村の指定金融機関(指定金)業務は継承した[3]。しかし、2000年7月にみなと銀行連結子会社化した際、同行に兵庫県播磨地方における自治体の指定金業務は移譲した。

沿革

  • 1990年4月1日 - 三井銀行と太陽神戸銀行 が対等合併。株式会社太陽神戸三井銀行が発足する。その際さくら銀行の商標を登録する。ロゴマークはさくらをモチーフにしたものとなり、のちのさくら銀行に引き継がれた。
  • 1992年4月 - 株式会社太陽神戸三井銀行から株式会社さくら銀行へ商号を変更。
  • 1994年3月 - 第一回優先株式1000億円を一般募集する。
  • 1996年10月 - 第二回優先株式1500億円を発行する。
  • 2000年7月 - みなと銀行を連結子会社化。
  • 2001年4月1日 - 住友銀行に合併。三井住友銀行となる。

合併以前

戦後すぐの帝国銀行分割新発足によって規模が縮小した旧三井銀は、高度成長期において個人客へのサービス進出(預金獲得)への出遅れから、旧三井財閥系銀行でありながら三井グループはじめ取引先主要産業の資金需要に十分応え得る規模的拡大を果たせず、店舗数の多い太陽神戸銀と合併し最終的な業容拡大への回答とした。

これにより太陽神戸三井銀行が誕生。規模では、当時の富士銀行三和銀行などの都銀上位行に匹敵し、財閥系都銀としての力の発揮が期待された。

危機と合併

しかし、誕生直後にバブル崩壊に見舞われた。 旧太陽神戸銀の取引先が膨大な不良債権を生み、旧三井銀の保有していた株式を売却し処理資金を捻出していたことに旧三井銀から不満が噴出していた。 そのほか、さくら銀が主力行を担っていた独立系ノンバンク会社アポロリース[注釈 3]の再建策を他行に明示できなかったことから、当事者能力を疑われる事態にも陥っていた[5]

また旧太陽神戸銀内における太陽銀・神戸銀出身者の対立に加え、旧三井銀出身者との対立[注釈 4]も加わり役員人事等では「たすきがけ人事」が取られていたものの、新たな確執も生まれていた。これらに加えて支店の統廃合も進捗せず、規模こそ拡大したが、当初期待された合併効果はさほど発現しなかった。また経営不安説も流れ、株価も低迷した。

こうしたことから行内における軋轢が発生。1997年6月1日付で、末松謙一会長(前頭取。旧三井銀出身)が自身も相談役に退くことと引き換えに橋本俊作頭取(旧太陽神戸銀出身)を更迭。後任には役員序列12位の岡田明重専務(旧三井銀出身)を抜擢。会長には旧太陽神戸銀出身の高崎正弘専務が就任。さらに2人の副頭取も旧三井銀出身者が占める新執行体制に移行した[5] 。これを機に旧三井銀主導の経営が鮮明となった。

以後岡田頭取のもとで、1000億円の公的資金注入を受けたほか、三井グループ各社やトヨタ自動車などへ3000億円の第三者割当増資の引受を要請した[6]。 トヨタへの引受要請は、ドッジラインからの影響で労働争議まで発展し、戦後最大の経営危機に陥ったトヨタが、日本銀行の斡旋によって旧帝銀(および旧東海銀行)の取りまとめた協調融資や割賦販売支援によって、危機を脱した恩義を引くものだが[注釈 5]、三井グループでは外様であるトヨタが銀行支援に動くというのは異例の事態であった[8]

このほかリテール戦略の新機軸も軌道に乗せ、今日では一般化したコンビニATMのさきがけとしてコンビニバンキング(後の「アットバンク」)をam/pm内に設置したほか[9]、日本初のインターネット専業銀行「JNB・ジャパンネット銀行」も設立した[10]

2001年合併により誕生した新銀行の行名は「三井住友銀行」(SMBC)となった。また、この当時ドイツ銀行による買収も検討されていたこともあった[11]

現状

現在「さくら」の名称は、 旧神戸銀行系のソフトウェア会社であるさくらケーシーエス、同じく 旧太陽銀行及び三井銀行系のソフトウェア会社であるさくら情報システムなどで使用されるのみとなっている。なおウェブサイトは、'www.sakura.co.jp'がさくらグループのポータルサイトとして機能し、さくら銀行は'www.sakura.co.jp/bank/'であった。

系列会社だったさくらフレンド証券は、松下電器産業(現:パナソニック)と住友グループによる合弁証券会社であった明光ナショナル証券に吸収合併され、SMBCフレンド証券となった。2018年に同証券は、SMBC日興証券に吸収合併され消滅した。

子会社だったさくら信託銀行は、中央三井信託銀行(現:三井住友信託銀行)を通して三井トラスト・ホールディングス(現:三井住友トラスト・ホールディングス)に事業譲渡後、三井アセット信託銀行(のち中央三井アセット信託銀行)に改称。その後、住友信託銀行に吸収合併され解散した。

さくらカードは、三井住友銀行発足後もJCBブランドのみを残し、同行の子会社であり続けたが、新規のカード発行を先行して継承させた上で、2016年4月にセディナに吸収合併され解散した。

ブラウザバンキングサービスからSMBCダイレクトへ

三井住友銀行の個人向けリモートバンキング「One's ダイレクト」は、旧住友銀行が「ワンズダイレクト」として2000年に開始したものだが、さくら銀行でも、合併2か月前を切った2001年2月5日から、これに準ずる「《新》さくらのブラウザバンキングサービス」を開始していた[12]。「さくらのブラウザバンキングサービス(通称:旧ブラウザ)」は、三井住友銀発足後に「One's ダイレクト」への移行期間を経て廃止されたが、「《新》さくらのブラウザバンキングサービス(通称:新ブラウザ)」は、三井住友銀行発足時にそのまま「One's ダイレクト」となり、2008年に「SMBCダイレクト」に改称した。

キャラクター

イメージキャラクター

1991年1月1日から銀行のテレビCMが解禁される状況を踏まえ、前年秋、マルチタレントとして活躍しているジュリー・ドレフュスイメージキャラクターに起用。1992年4月の行名変更の際には、同年3月末から4月上旬にかけ、ドレフュスの出演する行名変更を告知するTVCMが関東・関西の民放で集中的に放映された[13]

1998年2月から2001年(住友銀行と合併前まで)にかけて当時人気絶頂であった広末涼子をイメージキャラクターに起用し(当時の都銀でアイドルを起用したのは唯一のケース)、1999年前半のCMタイアップソングとして「明日へ」のシングルが発売された他、当時出演していたNTT移動通信網iモード端末を利用したモバイルバンキングのCMも制作された。後述の『ドラえもん』との共演も果たしている。

マスコットキャラクター

太陽神戸三井銀行時代のキャラクター通帳等のマスコットキャラクターは、太陽神戸銀が採用していたサンリオによるエディ&エミィ、三井銀が採用していたくまのパディントンがそのまま併用されていたが、2年間の準備期間を経た行名変更に合わせ、マスコットキャラクターは一新された。「パラサ&ディンキーダイノス」という恐竜のオリジナルキャラクターが登場し、通帳やキャッシュカード、ノベルティとして用意された貯金箱等に登場した[14]。1999年2月からは新たに小学館プロダクション藤子プロとの契約によりドラえもんをキャラクターとして採用した。通帳やキャッシュカードのデザインにも採用されたことは、当時としては大きな話題になった。また奇遇なことに、後に吸収合併する相手となった住友銀行が、ドラえもんをマスコットキャラクターに採用していた時期がある[注釈 6]

主な融資系列

旧 三井銀行系

三井グループ各社

その他親密先会社

旧 太陽神戸銀行系

旧 太陽銀行系

旧 神戸銀行系

脚注

注釈

  1. 日比谷三井ビルディングに所在した三井銀本店は東京営業部とした。また、西日本の拠点は大阪(旧三井銀大阪営業部)ではなく神戸(旧太陽神戸銀本店・神戸本部)に設けられた。
  2. ちなみに旧帝国銀行の行章は八重桜であった。一部個人の顧客からは「たこさん銀行(太陽の「た」、神戸の「こ」、三井の「さん」)」とも呼ばれ、中華人民共和国では「櫻花銀行」と呼ばれていた。
  3. 当初は本社を仙台市に置き、後に東京に移転。リース会社として出発。主力行を徳陽相互銀行が担っていたが、乱脈融資の発覚のため、太陽神戸に主力行が交代。同行に主力行が変更後、ローン部門に進出。1999年3月、負債総額4900億円を抱え特別清算を申請。倒産[4]
  4. 詳しくは三井銀行の項目も参照。
  5. ドッジラインによるデフレ政策の影響で深刻な不況に陥り、倒産の危機に瀕したトヨタが、最悪の事態を回避するため、千人の首切りを発表。これに対抗し組合側が無期限のストに突入し、労使間対立が先鋭化。創業者の豊田喜一郎がこの責任を取り退陣を表明。組合側も断腸の思いで首切りを受け入れた[7]
  6. ドラえもんをマスコットキャラクターとして太陽神戸銀が小学館発行の『小学一年生』裏表紙に広告を出稿していた。三井住友銀発足当初のキャラクターにも継承されたが粗品に使われる程度にとどまり、約1年程度で終了した。住友銀は独自のキャラクター「くまのバンクー」を使用していたにもかかわらず、合併時に「くまのバンクー」を完全破棄した。

出典

  1. 『三井住友銀行十年史』p.28
  2. 『三井住友銀行十年史』p.31
  3. 『日本地方金融史』p.283
  4. 『銀行の墓碑銘』p.289 - 292
  5. 5.0 5.1 「ニュースX線 さくら銀頭取交代の裏に三井VS, 太陽神戸の確執」『朝日新聞』 1997年4月26日
  6. 「さくら銀行 3000億円増資 三井グループが引き受け」『朝日新聞』夕刊 1998年8月31日
  7. 『自動車 合従連衡の世界』p.117 - 118
  8. 「トヨタさくら銀誕生か 増資要請の波紋」『AERA』 1998年9月14日号
  9. 『三井住友銀行十年史』p.104
  10. 『三井住友銀行十年史』p.107 - 108
  11. 日本市場を狙うドイツ銀行のM&A戦略、次はさくら銀行か国際証券? (1998年11月24日 日経BP)
  12. さくら銀行のニュースリリース(1998年 01.12~2001.03.30)
  13. 「銀行CMにも自由化の波 転居多い4月に照準」『日本経済新聞』夕刊 1992年3月18日
  14. 「さくら銀、あす "開花" 今晩一斉に表示変更 重要帳票、管理を徹底」『日経金融新聞』1992年3月31日

参考文献

  • 佐藤正明『自動車 合従連衡の世界』 文春新書、2000年。ISBN 4166601253
  • 日経金融新聞編 地方金融史研究会著『日本地方金融史』日本経済新聞社、2003年。ISBN 4532350514
  • 有森隆 『銀行の墓碑銘』 講談社、2009年。ISBN 4062152703
  • 三井住友銀行総務部行史編纂室編 『三井住友銀行十年史』 三井住友銀行、2013年。

外部リンク