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{{政治家
 
|人名 = 李 鴻章
 
|各国語表記 = Li Hung Chang
 
|画像 =Li Hung Chang in 1896.jpg
 
|画像説明 = 李鴻章([[1896年]])
 
|国略称 = {{PRC1889}}
 
|生年月日 = {{生年月日と年齢|1823|2|15|非表示}}([[道光]]3年[[1月5日 (旧暦)|1月5日]])
 
|出生地 = {{QIN1890}}[[安徽省]]廬州府[[合肥市|合肥県]]東郷磨店郷
 
|没年月日 = [[1901年]][[11月7日]]([[光緒]]27年[[9月27日 (旧暦)|9月27日]])
 
|死没地 = {{QIN1890}}[[北京市|北京]]
 
|出身校 = [[翰林院]]
 
|前職 =
 
|称号・勲章 = [[太子太傅]]文華殿[[内閣大学士|大学士]]商務大臣[[北洋通商大臣|北洋大臣]][[直隷総督]]部堂一等肅毅伯([[北京議定書]]の記載より)
 
|親族(政治家) =
 
|配偶者 = 周氏<br />趙小蓮(継室)<br />莫氏(側室)
 
|サイン =
 
|職名 = [[ファイル:Flag of the Qing Dynasty (1889-1912).svg|25px]] [[江蘇]][[巡撫]]
 
|就任日 = 1862年
 
|退任日 = 1865年
 
|元首職 = [[皇帝]]
 
|元首 = [[同治帝]]
 
|職名2 = [[ファイル:Flag of the Qing Dynasty (1889-1912).svg|25px]] [[両江総督]]代理
 
|就任日2 = 1865年
 
|退任日2 = 1866年
 
|元首職2 = 皇帝
 
|元首2 = 同治帝
 
|職名3 = [[ファイル:Flag of the Qing Dynasty (1889-1912).svg|25px]] [[湖広総督]]
 
|就任日3 = 1867年
 
|退任日3 = 1870年
 
|元首職3 = 皇帝
 
|元首3 = 同治帝
 
|職名4 = [[ファイル:Flag of the Qing Dynasty (1889-1912).svg|25px]] [[直隷総督]]兼[[北洋通商大臣]]
 
|就任日4 = 1871年
 
|退任日4 = 1883年
 
|元首職4 = 皇帝
 
|元首4 = 同治帝(1861年 - 1875年)<br />[[光緒帝]](1875年 - 1908年)
 
|職名5 = [[ファイル:Flag of the Qing Dynasty (1889-1912).svg|25px]] 直隷総督兼北洋通商大臣
 
|就任日5 = 1884年
 
|退任日5 = 1895年
 
|元首職5 = 皇帝
 
|元首5 = 光緒帝
 
|その他職歴1 = [[ファイル:Flag of the Qing Dynasty (1889-1912).svg|25px]] [[両広総督]]
 
|就任日6 = 1899年
 
|退任日6 = 1900年
 
|その他職歴2 = [[ファイル:Flag of the Qing Dynasty (1889-1912).svg|25px]] 直隷総督兼北洋通商大臣
 
|就任日7 = 1900年
 
|退任日7 = 1901年
 
}}
 
{{commons|Category:Li Hongzhang}}
 
  
'''李 鴻章'''(り こうしょう、{{ピン音|Lǐ Hóngzhāng|リー ホンチャン}}、[[1823年]][[2月15日]]([[道光]]3年[[1月5日 (旧暦)|1月5日]]) - [[1901年]][[11月7日]]([[光緒]]27年[[9月27日 (旧暦)|9月27日]]))は、[[中国]][[清]]代の[[政治家]]。[[字]]は'''少荃'''(しょうせん)。[[洋務運動]]を推進し清後期の外交を担い、清朝の建て直しに尽力した。[[日清戦争]]の講和条約である[[下関条約]]で清側の[[欽差大臣]](全権大使)となり、調印を行ったことでも知られる。
 
  
== 生涯 ==
+
'''李 鴻章'''(り こうしょう、{{ピン音|Lǐ Hóngzhāng|リー ホンチャン}}、[[1823年]][[2月15日]][[道光]]3年[[1月5日 (旧暦)|1月5日]]) - [[1901年]][[11月7日]][[光緒]]27年[[9月27日 (旧暦)|9月27日]]))
=== 曽国藩期待の弟子 ===
 
道光3年1月5日(1823年2月15日)、[[安徽省]][[合肥市|合肥]]出身で名士[[李文安]]の次男として生まれた。兄に[[李瀚章]]、弟に[[李鶴章]][[李蘊章]][[李鳳章]][[李昭慶]]がいる。
 
  
[[士大夫]]の家系であり父が[[進士]]だったことから、幼少期から一族の期待を背負い勉強に励み、道光20年([[1840年]])に[[科挙]]一次試験に合格、4年後の道光24年([[1844年]])に二次試験の[[郷試]]も合格した。更に父の友人だった[[曽国藩]]の門下生となり勉強に一層励み、道光27年([[1847年]])の[[会試]]も合格し進士となる(同期には[[沈葆テイ|沈葆楨]]がいる)。[[翰林院]]入りしてからも曽国藩との師弟関係は続き、彼の下で[[庶吉士]]、[[編修]]と順調に出世階段を昇っていった。
+
[]&nbsp;道光3(1823).2.15. 安徽,合肥
  
そんな折、[[咸豊]]元年([[1851年]])に起こった[[太平天国の乱]]に清が動揺すると、李鴻章の身辺にも変化が訪れる。翌2年([[1852年]])に曽国藩が[[江西省]]へ転勤、そこで政府の命令を受けて[[湖南省]]へ移動、[[湘軍]]を創設して太平天国との戦いを開始したのだ。咸豊3年([[1853年]])に李鴻章にも太平天国鎮圧のために転属命令が出され、友人の[[呂賢基]]と共に故郷の安徽省へ戻り安徽[[巡撫]]代理[[周天爵]]の幕僚となり、合肥を本拠地として[[団練]]を率いて太平天国軍との戦いに加わった。
+
[]&nbsp;光緒27(1901).11.7. 北京
  
しかし戦果は思うように上がらず、咸豊4年([[1854年]])1月に合肥を太平天国に占拠され安徽巡撫[[江忠源]]が自殺すると、後任の巡撫[[福済]]に仕えた。咸豊5年([[1855年]])7月に父の死去という苦難に遭いながらも11月に合肥を奪還したが、3年後の咸豊8年([[1858年]])8月に再び合肥を奪い返され、抵抗を諦めた李鴻章は家族を連れて曽国藩の下へ逃れた。湘軍を江西省に駐屯させていた曽国藩には兄の李瀚章を始め弟達も従っており、李鴻章は家族揃って曽国藩の庇護に入った。
+
中国,清末の政治家。安徽省合肥の人。字は少<img title="" src="http://media.japan.eb.com/bolj2/letter/a1/a16b_16.gif" border="0">。号は儀叟。諡は文忠。道光27(1847)年の進士。初め翰林院に入り,[[太平天国]]軍の南京進出により帰郷,安徽巡撫福済の幕僚となり,咸豊8(1858)年湘軍を率いる[[曾国藩]]の幕僚となった。同治1(1862)年,曾の推挙で江蘇巡撫となり,[[淮軍]]を編制して上海救援に活躍。同 4年両江総督となり,翌年から同 7年まで[[欽差大臣]]として[[捻軍]]討滅にあたった。のち湖広総督を経て同 9年に直隷総督となり,以後光緒21(1895)年まで 25年間その職にあった。その間北洋大臣も兼ねた。また外交を一手に引き受け,日清戦争後の[[下関条約]]では全権大使として調印している。同 22年使節としてロシアに赴き,同 25年両広総督となり,同 26年直隷総督に再任されたが,翌年病没。洋務運動([[洋務派]])を推進する漢人官僚の第一人者として近代的軍隊の創設,海軍の建設,軍事工業の推進,鉱山の開発,鉄道の敷設など各方面に活躍。外交面でも直隷総督就任以降,[[義和団事変]]までのほとんどの問題に対処した。主著『李文忠公全書』(165巻)。
 
+
   
曽国藩の幕僚として湘軍に属していた時期は官僚としての下働きのみであり、目立った活躍は見られない。しかし曽国藩は李鴻章の才能を認めていて、湖南省出身が多い湘軍で孤立しがちな李鴻章に協調を重視して厳しく接したり、軍務に携わらせ修養に心を砕き、将来は一軍を率いる将へ成長させることを友人の[[胡林翼]]に書き送っている。やがて咸豊11年([[1861年]])9月に湘軍が安徽省の省都・[[安慶市|安慶]]を陥落させ太平天国を西から圧迫すると、反対側の東から救援要請が11月に曽国藩の元へ舞い込み、[[江蘇省]]の[[上海市|上海]]から名士の[[銭鼎銘]]が上海が太平天国に攻撃される寸前で援軍を願い出ると、曽国藩は承諾して李鴻章を推薦した。かくして、李鴻章は曽国藩から独立して太平天国と対峙することになった<ref>梁、P53、P56 - P60、岡本、P2 - P9、P34 - P52。</ref>。
 
 
 
=== 清の有力武将 ===
 
上海救援を命じられた李鴻章は軍を揃えるため一旦合肥へ帰郷、団練を元に曾国藩の湘軍に倣って[[淮軍]]を組織した。[[同治]]元年([[1862年]])4月、曾国藩の推薦で江蘇巡撫となると、上海から来た[[イギリス帝国|イギリス]]船に乗り[[長江]]を渡って上海へ下り、[[蘇州市|蘇州]]に拠った[[李秀成]]と対峙、現地で結成された外人部隊・[[常勝軍]]と連携して5月から6月の上海防衛に功績をあげた。翌同治2年([[1863年]])から3年([[1864年]])にかけて攻勢に転じ、降伏した敵軍を吸収しつつ西洋式軍事訓練も施して自軍強化に努め、蘇州・[[常州市|常州]]を奪回して江蘇省を回復した。
 
 
 
同治3年の湘軍による[[南京市|南京]]包囲には参加しなかったが、太平天国滅亡に大きく貢献した功績が認められ[[伯爵]]に叙せられた。また、李鴻章は1860年代以降の洋務運動の推進者の1人であり、戦乱の間、同治2年に[[江南機器製造総局]]を創設している。同治12年([[1873年]])に輪船招商局を設立。他に電報局・開平砿務局・[[天津武備学堂]]などを創設した。
 
 
 
同時期に外国人との揉め事にも関わるようになり、同治2年に上海御用商人の[[楊坊]]と常勝軍司令官[[ヘンリー・バージェヴィン]]が喧嘩、バージェヴィンが楊坊を殴り太平天国へ寝返る事件が発生すると直ちに楊坊らを解任、上海の利権を手に入れた。同治3年に常勝軍の指揮を執った[[チャールズ・ゴードン]]とも戦後処理を巡って対立、常勝軍解散の遠因を生んだり、西洋艦隊購入にも反対して白紙にすることもあったが([[レイ・オズボーン艦隊事件]])、それらは軍備強化を行いながら外国の介入を防ぐ綱渡り的処置だった。また、上海が貿易港だったこともあり、一連の出来事で外交手腕を磨く機会に恵まれ、以後の活動に活かされた<ref>梁、P64 - P100、P123 - P143、井上、P162 - P171、P198 - P200、岡本、P54 - P68、P126 - P128。</ref>。
 
 
 
太平天国鎮圧後は[[捻軍]]鎮圧が焦点になり、同治4年([[1865年]])の[[センゲリンチン]]戦死後に曾国藩が捻軍迎撃に向かったが、一向に戦果を挙げられない状況を打開すべく同治5年([[1866年]])に李鴻章に出番を譲った。李鴻章は曾国藩の期待に応え淮軍を動員、同治6年([[1867年]])に[[湖広総督]]に任命され、同治7年([[1868年]])に完全平定を果たし捻軍鎮圧にも功績を上げた。同治9年([[1870年]])9月、[[天津教案]]で外国の交渉に苦慮する曽国藩の応援として淮軍を率い、交渉を円滑に進める役割を果たし、交渉完了後に曽国藩の後を継ぎ[[直隷総督]]に就任した。この時に[[北洋通商大臣]]も兼ねたので淮軍はその後、[[北洋軍閥]]と呼ばれるようになった。李鴻章の代に北洋大臣が外交を管轄するようになり、外交を統括する機関であった[[総理各国事務衙門]]の機能は次第に縮小していった。李鴻章は清朝の重臣筆頭として[[同治帝]]の母・[[西太后]]の厚い信任を得た<ref>梁、P105 - P121、井上、P203 - P204、岡本、P78 - P93。</ref>。
 
 
 
=== 諸外国の外交に奔走 ===
 
この頃、[[明治維新]]期の[[大日本帝国|日本]]が台頭して[[李氏朝鮮]]の開国を要求し始めた。清から見れば朝鮮は[[朝貢的互恵関係|朝貢関係]]で成り立っており、朝鮮および日本との関係をどうするか苦悩することになる。
 
 
 
李鴻章は同治3年から日本の内情を探りだし、総理衙門に日本の連携を呼びかけた。これは西洋列強を脅威と捉え、富国強兵に邁進する日本と組んで西洋に対抗することを掲げているが、逆に日本が西洋と組んで敵に回る可能性も示唆している。この理念を基に同治9年9月、清を訪れた[[柳原前光]]ら日本使節団と天津で会談、翌同治10年([[1871年]])までに日本との提携を記した草案の作成を担当し、同年9月に[[伊達宗城]]・柳原前光ら使節団と[[日清修好条規]]を結んだ。しかし、内容は平等条約だったが、第1条に記された相互不可侵とされた所属邦土の解釈を巡り、後に両国が衝突する元となる<ref>所属邦土は清は朝貢国(朝鮮ほか)を含む土地と解釈したが、日本は所属邦土を清の領土のみを指し、朝貢国は含まれないと考えていた。この認識のずれが後から問題になった。岡本、P96 - P113。</ref>。
 
 
 
同年、北で[[ロシア帝国]]が[[新疆ウイグル自治区|新疆]]北部の[[イリ地方|イリ]]を占拠、西から[[ヤクブ・ベク]]が新疆を制圧する事態が発生([[ヤクブ・ベクの乱]])。[[陝甘総督]][[左宗棠]]が出兵支度を整えようとしたが、李鴻章はヤクブ・ベクが独立政権を樹立、イギリス・ロシア双方が承認を与えた事実に基づき、清も朝貢国としてヤクブ・ベク政権を承認、浮いた遠征費用を海防に回す提案を同治13年([[1874年]])に政府に出した。これがロシアを仮想敵国とみなす塞防派の左宗棠らに非難され、[[海防・塞防論争]]が起こったが、[[光緒]]元年([[1875年]])に左宗棠が提出した新疆保持案に政府が同意したため、海防・塞防どちらにも費用を回す折衷案に落ち着いた。左宗棠が出兵しヤクブ・ベクの乱は光緒3年([[1877年]])までに平定、ロシアも光緒7年([[1881年]])に交渉でイリを返還したため新疆は清の手に取り戻したが、その間に日本が大きく動きだした。
 
 
 
同治13年、日本が[[台湾出兵]]を強行すると積極的に関わらず、総理衙門が日本と交渉した末、日本に賠償金を支払った。翌光緒2年([[1876年]])、[[江華島事件]]に関連して、朝鮮の宗属関係について日本の[[森有礼]]と協議。ここで所属邦土に関する解釈で揉めたが、日本・朝鮮間の[[日朝修好条規]]締結に干渉せず静観。光緒5年([[1879年]])の日本による[[沖縄県の歴史#琉球処分|琉球処分]]についても、駐日公使[[何如璋]]が日本へ抗議しても同様の対処を取った。軍事力不足に加え、台湾・琉球が[[南洋通商大臣]]の担当区域であり李鴻章の管轄外という事情もあり、積極的な対策はしなかった。
 
 
 
だが光緒7年以降は朝鮮との外交も、朝貢国との関係を扱う[[礼部]]から北洋大臣へと移管され、それまでは控えられていた朝鮮の内政や外交への干渉が強まり、朝鮮の属国化が進んだ。光緒8年([[1882年]])に朝鮮で[[クーデター]]が勃発すると([[壬午事変]])、[[馬建忠]]を朝鮮へ派遣して[[大院君]]を拉致したことや、光緒10年([[1884年]])に親日派が親清派へ[[甲申政変]]を起こした時も部下の[[袁世凱]]率いる軍勢を派遣して親清政権を復活させたことがその表れである。この間、光緒8年に母が亡くなったため一時期辞職、[[張樹声]]が直隷総督兼北洋大臣に就任したが、朝鮮への対応は引き継がれた。
 
 
 
イギリス・[[フランス]]に対しては譲歩の姿勢を取り、光緒元年に[[マーガリー事件]]が発生すると駐在大使[[トーマス・ウェード]]と協議して光緒2年に[[芝罘条約]]を締結、開港場を増やし通商上の特権を与える権利をイギリスに認めた。光緒10年の[[清仏戦争]]においては早々に講和を主張、既に開戦前からフランス駐在大使[[フレデリック・ブレー]]や武官フルニエと協議して光緒8年と光緒10年に停戦協定を結んだが、清とフランス双方の強硬派に押し切られ実行力を持たなかった。しかしなおも交渉を諦めず、[[ベトナム]]に対する宗主権をフランスに明け渡し、翌光緒11年([[1885年]])6月に[[天津条約 (1885年6月)|天津条約]]を締結している。
 
 
 
以上の外交で、李鴻章は朝貢関係に基づく周辺の属国を保持しようと列強の交渉に臨んだが、列強に受け入れられないと妥協して被害を最小限に抑える方針で動き、外国との関係を保ちながら属国も存続させようとした。一方で洋務運動の限界も弁え、同治13年に人材育成のため科挙に科学・工学など実学を盛り込む提案をしたが、保守派の大反対で挫折したことを部下の[[劉秉璋]]に宛てて嘆いている。
 
 
 
フランスに先立つ同年4月、甲申政変の後処理を巡り日本の[[伊藤博文]]と天津で交渉を行い、[[天津条約 (1885年4月)|天津条約]]を結び、朝鮮の両軍撤退と再出兵に関する規約を記した。この時李鴻章は伊藤を評価する手紙を総理衙門に出しているが、両者は10年後に再び交渉の席で出会うことになる。また、[[北洋艦隊]](後の北洋軍)の整備に邁進し日本を威圧する目的で光緒12年([[1886年]])と光緒17年([[1891年]])に[[長崎市|長崎]]へ寄港、光緒12年の寄港中に乱闘事件([[長崎事件]])が発生している<ref>井上、P202 - P222、岡本、P113 - P173。</ref>。
 
 
 
===日清戦争以後===
 
光緒20年(明治27年、[[1894年]])、李氏朝鮮に対する宗主権を巡って清と日本の対立がより悪化した際、淮軍と北洋艦隊の練度では勝ち目がないと考えたため開戦には反対の立場を取ったが、西太后の甥[[光緒帝]]を始めとする両国の主戦派によって戦端は開かれ、日清戦争が始まった。李鴻章の予測通り淮軍と北洋艦隊は日本軍の戦闘([[平壌の戦い (日清戦争)|平壌の戦い]]、[[黄海海戦 (日清戦争)|黄海海戦]])で連戦連敗、11月に北洋艦隊の基地[[旅順口区|旅順]]が陥落([[旅順口の戦い]])、光緒21年(明治28年、[[1895年]])1月から2月にかけてもう1つの根拠地[[威海市|威海衛]]も日本軍に落とされ([[威海衛の戦い]])、腹心で北洋艦隊[[提督 (清朝)|提督]]の[[丁汝昌]]が自殺するに及んで李鴻章の権威は失墜した。
 
 
 
日清戦争の敗北後、講和交渉で全権を任された李鴻章は光緒21年3月から[[下関市|下関]]の[[引接寺 (下関市)|引接寺]]に滞在し、[[春帆楼]]へ通って伊藤博文・[[陸奥宗光]]と講和会議の交渉を行った。[[3月24日]]、李鴻章が引接寺と春帆楼を結ぶ道(現在の「[[李鴻章道]]」)で[[小山豊太郎]]に狙撃され、負傷するという事件が起こった<ref>小山は[[1895年]](明治28年)[[3月30日]]、山口地裁で無期徒刑の判決を受けた。</ref><ref>[{{NDLDC|1920400/139}} 『新聞集成明治編年史. 第九卷』](国立国会図書館近代デジタルライブラリー)</ref>ため、日本側は列国の干渉をおそれ、まず休戦条約を調印し、[[4月17日]]に日清講和条約([[下関条約]])の調印を行った。この条約で朝鮮・台湾・[[遼東半島]](後に[[三国干渉]]で返還)喪失と賠償金支払いが決められ、清は大きく威信が低下した。
 
 
 
日清戦争では清の軍隊の中で戦争に参加したのは北洋大臣指揮下の北洋艦隊で、事実上は李鴻章の軍隊であった北洋艦隊と淮軍が壊滅した事に対して、光緒帝は李鴻章の厳罰を望んだが西太后の寵臣であったため要職(直隷総督・北洋大臣)を外れる軽微な処分に留まっている。そして日清戦争の敗戦を以って、30年余りの洋務運動の挫折は明らかとなった<ref>梁、P145 - P195、井上、P222 - P227、P232 - P242、岡本、P173 - P183。</ref>。
 
 
 
[[阿片戦争]]以来の清の高官は、イギリスを仮想敵国とみなす海防派(代表的人物が李鴻章)と、ロシアを仮想敵国とみなす塞防派(代表的人物が左宗棠)に分かれていた。李鴻章の失態で海防派は打撃を受けたが、塞防派は左宗棠の死去により朝廷内に重鎮を欠いており、海防派は引き続いて要職を占めた。李鴻章も程なくして西太后の肝いりにより復権した。
 
 
 
光緒22年([[1896年]])[[3月28日]]にロシアの要請に応じる形でロシア皇帝[[ニコライ2世]]の戴冠式出席のため上海を船で出発、[[5月26日]]の戴冠式に出席、[[6月3日]]にロシアとの交渉に当たり密約([[露清密約]]<ref>イギリスが日本と[[日英同盟]]を結ぶのは、李鴻章の死から約3か月後の明治35年([[1902年]])[[1月30日]]である。</ref>)を結び、事実上[[満州]]をロシアに明け渡す結果になった。この後[[ヨーロッパ]]・[[アメリカ合衆国|アメリカ]]を旅行して世界一周、[[10月3日]]に帰国した。行く先々で手厚いもてなしを受け、[[イギリスの首相|イギリス首相]][[ロバート・ガスコイン=セシル (第3代ソールズベリー侯)|ソールズベリー侯]]、外務政務次官[[ジョージ・カーゾン (初代カーゾン・オヴ・ケドルストン侯爵)|ジョージ・カーゾン]]、元[[ドイツ国首相|ドイツ帝国宰相]][[オットー・フォン・ビスマルク|ビスマルク]]らと会談したが、なんら外交的に成果はなく、儀礼的な訪問に止まった。
 
 
 
帰国後は総理衙門大臣に任じられ、ドイツ帝国全権公使と光緒24年([[1898年]])3月の[[膠州湾租借地|膠州湾租借条約]]の交渉・締結にあたる。外交官としての役割は残されたが、それも光緒24年([[1898年]])4月からの[[戊戌の変法]]に取り組んだ光緒帝に罷免され、[[戊戌の政変]]で政権を奪い返した保守派から命令された[[黄河]]治水調査、光緒25年([[1899年]])に変法派の摘発を目的とした開港場の調査と[[両広総督]]任命および政務をこなしている。光緒26年([[1900年]])に起こった[[義和団の乱|義和団事変]]の際には[[盛宣懐]]を通して[[両江総督]][[劉坤一]]・湖広総督[[張之洞]]ら各地の総督と[[東南互保]]を締結した後、政府から再び直隷総督・北洋大臣に任命、全権を任されて[[慶親王]][[愛新覚羅奕キョウ|奕劻]]と共に諸外国との交渉に当たり、光緖27年(1901年)[[9月7日]]に[[北京議定書|辛丑条約]]を締結し、その後間もない11月7日に病死した。[[諡]]は'''文忠'''<ref>梁、P195 - P244、井上、P300 - P302、岡本、P184 - P201。</ref>。
 
 
 
死後、直隷総督・北洋大臣は袁世凱が受け継ぎ、軍人・政治家として台頭する元となった。爵位は侯爵に昇叙され長男の[[李経述]]に継承、次男の[[李経邁]]も京堂候補として遇され、孫で李経述の息子[[李国杰]](1881年 - [[1939年]])は清朝最後の駐比利時欽差大臣(駐[[ベルギー]]公使)に任じられ、清滅亡後の[[中華民国]]でも引き続き登用された。長女・[[李菊耦]](1866年 - [[1912年]])の婿が[[張佩綸]]で、2人の子供に[[張志沂]](1896年 - [[1953年]])が居り、その子供が作家の[[張愛玲]]である。また、甥の[[李経方]]を養子に迎えている。
 
 
 
== 著作 ==
 
=== 単著 ===
 
*{{Cite book|和書|author=李鴻章|year=1879|month=3|title=李少荃法書|publisher=山添栄助|url={{近代デジタルライブラリーURL|40071911}}|ref=李1879}}
 
 
 
=== 編著 ===
 
*{{Google books|UKMsAAAAYAAJ|通商章程成案彙編}}
 
 
 
=== 短編 ===
 
*{{Cite book|和書|author=李鴻章|editor=[[西順蔵]]編|year=1977|month=4|title=原典中国近代思想史|chapter=洋式鉄工所・機械の設置についての上奏文(抄)|volume=第2冊(洋務運動と変法運動)|publisher=岩波書店|isbn=|ref=西1977}}
 
*{{Cite book|和書|author=李鴻章|editor=[[村田雄二郎]]責任編集|year=2010|month=4|title=新編 原典中国近代思想史|volume=第2巻 万国公法の時代(洋務・変法運動)|chapter=日本の朝鮮に対する使節派遣について;自強運動の展開;洋式鉄工所・機械の設置についての上奏文(抄)|publisher=岩波書店|isbn=978-4-00-028222-2|url=http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/02/0/0282220.html|ref=村田2010}}
 
 
 
=== 共著 ===
 
*{{Cite book|和書|author=李鴻章|coauthors=[[伊藤博文]]|year=1894|month=9|title=聯璧帖|publisher=川上素一|ref=李&伊藤1894}}
 
*{{Cite book|和書|editor=日本国政事典刊行会編|year=1953|title=日本国政事典|chapter=附録:日清講和・伊藤・李鴻章対談録|volume=第2巻|publisher=聯合出版社|ref=日本国政事典刊行会1953}}
 
 
 
== 画像 ==
 
<gallery>
 
ファイル:Sino Japanese Friendship and Trade Treaty 13 September 1871.jpg|日清修好条規。日本と清の[[国璽]]が押され、同時に日本側[[大使]][[大蔵卿]]伊達宗城、清側大使の直隷総督李鴻章の[[花押]]が書かれている。
 
ファイル:Convention of retrocession of the Liatung Peninsula 8 November 1895.jpg|1895年11月8日、三国干渉の結果となった[[遼東半島]][[遼東還付条約|還付条約]]。李鴻章の署名が見える。
 
画像:Li Hung Chang, Lord Salisbury, Lord Curzon.jpg|左から、[[イギリスの首相|英国首相]][[ロバート・ガスコイン=セシル (第3代ソールズベリー侯)|ソールズベリー侯]]、李鴻章、英国外務政務次官[[ジョージ・カーゾン (初代カーゾン・オヴ・ケドルストン侯爵)|ジョージ・カーゾン]]
 
画像:LiHungTschang.jpg|1896年、元[[ドイツ国首相|ドイツ帝国宰相]][[オットー・フォン・ビスマルク]]と李鴻章
 
画像:Li Hongzhang.jpg|若いころの李鴻章
 
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== 脚注 ==
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 関連文献 ==
 
*{{Cite book|和書|author=伊笠碩哉|authorlink=伊笠碩哉|year=1895|month=7|title=李鴻章|publisher=嵩山房|url={{近代デジタルライブラリーURL|40019155}}|ref=伊笠1895}}
 
*{{Cite book|和書|author=岡本隆司|authorlink=岡本隆司|date=2011-11-18|title=李鴻章 東アジアの近代|series=岩波新書 新赤版1340|publisher=岩波書店|isbn=978-4-00-431340-3|url=http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/43/6/4313400.html|ref=岡本2011}} - 戦後日本で初めて書かれた李鴻章の評伝。
 
*{{Cite book|和書|editor=[[神村忠起]]編|year=1880|month=4|title=李鴻章伝|publisher=|url={{近代デジタルライブラリーURL|40019158}}|ref=神村1880}}
 
*{{Cite book|和書|author=佐藤春夫|authorlink=佐藤春夫|year=1932|title=佐藤春夫全集|chapter=李鴻章|volume=第2卷|series=日本文学大全集|publisher=改造社|ref=佐藤1932}}
 
*{{Cite book|和書|author=佐藤春夫|year=1956|title=自選佐藤春夫全集|chapter=李鴻章|volume=第3巻(短篇集 第1)|publisher=河出書房|ref=佐藤1956}}
 
*{{Cite book|和書|author=佐藤春夫|editor=[[池内紀]]編|date=1992-08-18|title=美しき町・西班牙犬の家 他六篇|chapter=李鴻章|series=岩波文庫 緑71-5|publisher=岩波書店|isbn=4-00-310715-2|url=http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/31/2/3107150.html|ref=佐藤1992}}
 
*{{Cite book|和書|date=1895-04-05|title=日清事件 清國乞降使李鴻章遭難|publisher=三階堂書房|url={{近代デジタルライブラリーURL|21373242}}|ref=三階堂書房1895}}
 
*{{Cite book|和書|author=鈴木智夫|authorlink=鈴木智夫|editor=辛亥革命研究会編|year=1985|month=9|title=中国近現代史論集 菊池貴晴先生追悼論集|chapter=近代産業の移植と李鴻章 ―― 一八八二年の邵友濂宛書簡の考察|publisher=汲古書院|isbn=4-7629-2323-0|url=http://www.kyuko.asia/book/b9828.html|ref=辛亥革命研究会1985}}
 
*{{Cite book|和書|author=早田玄洞|authorlink=早田玄洞|year=1902|month=1|title=李鴻章|publisher=大学館|url={{近代デジタルライブラリーURL|40019156}}|ref=早田1902}}
 
*{{Cite book|和書|author=鶴岡静夫|authorlink=鶴岡静夫|year=1974|title=知られざる裁判干渉 李鴻章狙撃事件裁判|series=雄山閣歴史選書|publisher=雄山閣|ref=鶴岡1974}}
 
*{{Cite book|和書|author=並木頼寿|authorlink=並木頼寿|year=2010|month=8|title=並木頼寿著作選|volume=第1巻(東アジアに「近代」を問う)|chapter=李鴻章と「文明開化」|series=研文選書 106|publisher=研文出版|isbn=978-4-87636-312-4|ref=並木2010}}
 
*{{Cite book|和書|author=原田環|authorlink=原田環|editor=[[飯沼二郎]]・[[姜在彦]]編|year=1981|month=3|title=近代朝鮮の社会と思想|chapter=朝・中「両截体制」成立前史――李裕元と李鴻章の書簡を通して|series=京都大学人文科学研究所報告|publisher=未来社|isbn=4-624-42008-X|ref=原田1981}}
 
*{{Cite book|和書|author=梁啓超|authorlink=梁啓超|others=[[張美慧]]訳|year=1987|month=12|title=李鴻章 清末政治家悲劇の生涯|publisher=久保書店|isbn=4-7659-0040-1|ref=梁1987}}
 
*{{Cite book|和書|author=若尾正昭|authorlink=若尾正昭|year=1997|month=2|title=清朝・大官の幻影 李鴻章と丁日昌|publisher=透土社 丸善出版事業部(発売)|isbn=4-924828-48-3|ref=若尾1997}}
 
*{{Cite book|和書|author=和田清|authorlink=和田清|year=1942|title=東亜史論藪|chapter=李鴻章とその時代|publisher=生活社|ref=和田1942}}
 
*{{Cite book|和書|author=吉田宇之助|authorlink=吉田宇之助|year=1901|month=12|title=李鴻章|publisher=民友社|url={{近代デジタルライブラリーURL|40019157}}|ref=吉田1901}}
 
*{{Cite book|和書|author=若宮万次郎|authorlink=若宮万次郎|year=1894|month=10|title=日清事件李鴻章之降伏|publisher=孟三堂|url={{近代デジタルライブラリーURL|40014199}}|ref=若宮1894}}
 
* 並木頼寿・[[井上裕正]]『世界の歴史19 中華帝国の危機』[[中央公論新社|中央公論社]]、1997年。
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[巨文島]]
 
* [[八戸事件]]
 
* [[チャプスイ]]
 
* [[八宝菜]]
 
* [[旧輪船招商局ビル]]
 
* [[陽明海運]]
 
* [[長安汽車]]
 
* [[蒼穹の昴]]
 
 
 
== 外部リンク ==
 
*{{Yahoo!百科事典|李鴻章|author=[[小島晋治]]}}
 
* [http://www.guoxue.com/shibu/24shi/qingshigao/qsgx_411.htm 列伝一百九十八 李鴻章]、[[清史稿]]
 
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    | title  = [[江蘇省|江蘇]][[巡撫]]
 
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[[Category:清代の人物]]
 
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2019/4/24/ (水) 12:42時点における版


李 鴻章(り こうしょう、拼音: Lǐ Hóngzhāng リー ホンチャン、1823年2月15日道光3年1月5日) - 1901年11月7日光緒27年9月27日))

[生] 道光3(1823).2.15. 安徽,合肥

[没] 光緒27(1901).11.7. 北京

中国,清末の政治家。安徽省合肥の人。字は少<img title="" src="a16b_16.gif" border="0">。号は儀叟。諡は文忠。道光27(1847)年の進士。初め翰林院に入り,太平天国軍の南京進出により帰郷,安徽巡撫福済の幕僚となり,咸豊8(1858)年湘軍を率いる曾国藩の幕僚となった。同治1(1862)年,曾の推挙で江蘇巡撫となり,淮軍を編制して上海救援に活躍。同 4年両江総督となり,翌年から同 7年まで欽差大臣として捻軍討滅にあたった。のち湖広総督を経て同 9年に直隷総督となり,以後光緒21(1895)年まで 25年間その職にあった。その間北洋大臣も兼ねた。また外交を一手に引き受け,日清戦争後の下関条約では全権大使として調印している。同 22年使節としてロシアに赴き,同 25年両広総督となり,同 26年直隷総督に再任されたが,翌年病没。洋務運動(洋務派)を推進する漢人官僚の第一人者として近代的軍隊の創設,海軍の建設,軍事工業の推進,鉱山の開発,鉄道の敷設など各方面に活躍。外交面でも直隷総督就任以降,義和団事変までのほとんどの問題に対処した。主著『李文忠公全書』(165巻)。